いにしえの文 › 日本書紀(日本の編年史) › 人代

仁賢天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 17 · 漢字 733字 · 朗読 2.9分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1仁賢天皇

億計天皇。諱大脚。字嶋郎。弘計天皇同母兄也。幼而聰頴。才敏多識。壯而仁惠。謙恕温慈。及穴穗天皇崩。避難於丹波國余社郡。白髮天皇元年冬十一月。播磨國司山部連小楯。詣京求迎。白髮天皇尋遣小楯。持節將左右舍人。至赤石奉迎。二年夏四月。遂立億計天皇爲皇太子。五年白髮天皇崩。天皇以天下讓弘計天皇。爲太子如故。三年夏四月。弘計天皇崩。

億計天皇(おけのてんのう)は、諱を大脚(おおし)、字を嶋郎(しまのいらつこ)と申します。弘計天皇(をけのてんのう)の同母の兄です。幼いころから聡明で秀でており、才は敏く、知るところが多くありました。成長されてからは仁深く恵み厚く、謙り恕し、温かく慈しみ深い方でした。

穴穗天皇(あなほのてんのう)が崩じますと、丹波国余社郡(たにはのくによさのこおり)に難を避けられました。

白髮天皇(しらかのてんのう)の元年の冬十一月、播磨の国司(くにのつかさ)山部連小楯(やまべのむらじおだて)が都に参り、お迎えすることを願い出ました。白髮天皇はそこで小楯を遣わし、節(しるし)を持たせ、左右の舎人(とねり)を率いて赤石(あかし)に至り、お迎え申し上げさせました。

二年の夏四月、ついに億計天皇を立てて皇太子としました。

五年に白髮天皇が崩じました。天皇は天下を弘計天皇に譲り、太子の位はもとのままでした。

三年の夏四月、弘計天皇が崩じました。

夾注 3

更名大爲。自餘諸天皇不言諱字。而至此天皇。獨自書者據奮本耳。

別の名は大爲(おおし)です。ほかの諸天皇については諱や字を申しませんが、この天皇に至って独り書き記したのは、旧本に拠ったからにすぎません。

事具弘計天皇紀。

事は弘計天皇の紀に詳しく載っています。

事具弘計天皇紀也。

事は弘計天皇の紀に詳しく載っています。

2位に即く

辛巳朔乙酉。皇太子於石上廣高宮即天皇位。

辛巳の朔の乙酉の日、皇太子は石上の廣高宮(いそのかみのひろたかのみや)で天皇の位に即きました。

夾注 1

或本云。億計天皇之宮有二所焉。一宮於川村。二宮於縮見高野。其殿柱至今未朽。

ある本に申します。億計天皇の宮は二か所にあります。一つめの宮は川村(かわむら)にあり、二つめの宮は縮見の高野(しじみのたかの)にあります。その殿の柱は今に至るまで朽ちていません。

3皇后と御子たち

二月辛亥朔壬子。立前妃春日大娘皇女爲皇后。遂産一男六女。其一曰高橋大娘皇女。其二曰朝嬬皇女。其三曰手白香皇女。其四曰樟氷皇女。其五曰橘皇女。其六曰小泊瀬稚鷦鷯天皇。及有天下。都泊瀬列城。其七曰眞稚皇女。次和珥臣日爪女糠君娘生一女。是爲春日山田皇女。

二月辛亥の朔の壬子の日、先の妃である春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を立てて皇后としました。ついに一男六女を生みました。

第一を高橋大娘皇女(たかはしのおおいらつめのひめみこ)と申し、第二を朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)と申し、第三を手白香皇女(たしらかのひめみこ)と申し、第四を樟氷皇女(くすひのひめみこ)と申し、第五を橘皇女(たちばなのひめみこ)と申し、第六を小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのてんのう)と申します。天下を治めるに至って泊瀬の列城(はつせのなみき)に都しました。第七を眞稚皇女(まわかのひめみこ)と申します。

次に和珥臣日爪(わにのおみひつま)の娘、糠君娘(ぬかきみのいらつめ)が一女を生みました。これが春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)です。

夾注 3

春日大娘皇女。大泊瀬天皇娶和珥臣深目之女童女君所生也。

春日大娘皇女は、大泊瀬天皇(おおはつせのてんのう)が和珥臣深目(わにのおみふかめ)の娘、童女君(おみなぎみ)を娶って生ませた方です。

一本以樟氷皇女列干第三。以手白香皇女列干第四。爲異焉。

ある本では樟氷皇女を第三に列し、手白香皇女を第四に列しており、異なっています。

一本云。和珥臣日觸女大糠娘生一女。是爲山田大娘皇女。更名赤見皇女。文雖稍異其實一也。

ある本に申します。和珥臣日觸(わにのおみひふれ)の娘、大糠娘(おおぬかのいらつめ)が一女を生みました。これが山田大娘皇女(やまだのおおいらつめのひめみこ)で、別の名は赤見皇女(あかみのひめみこ)です。文は少し異なりますが、その実は一つです。

4弘計天皇を葬る

冬十月丁未朔己酉。葬弘計天皇干傍丘磐杯丘陵。是歳也大歳戊辰。

冬十月丁未の朔の己酉の日、弘計天皇を傍丘磐杯丘陵(かたおかのいはつきのおかのみささぎ)に葬りました。この年は太歳戊辰です。

5小野皇后が自ら死ぬ

二年秋九月。難波小野皇后。恐宿不敬自死。

二年の秋九月、難波小野皇后(なにわのおののこうごう)は、以前の不敬を恐れて自ら死にました。

夾注 1

弘計天皇時皇太子億計侍宴。取瓜將喫。無刀子。弘計天皇親執刀子。命其夫人小野傳進夫人。就前立置刀子於瓜盤。是日更酌酒立喚皇太子。縁斯不敬。恐誅自死。

弘計天皇の時、皇太子の億計が宴に侍り、瓜を取って食べようとしましたが、刀子(とうす)がありませんでした。弘計天皇が自ら刀子を執り、その夫人である小野に命じて伝え進めさせました。夫人は前に進んで立ったまま、刀子を瓜の盤に置きました。この日はまた酒を酌みながら、立ったまま皇太子を喚びました。この不敬のゆえに、誅せられることを恐れて自ら死にました。

6石上部舎人を置く

三年春二月己巳朔。置石上部舍人。

三年の春二月己巳の朔の日、石上部舎人(いそのかみべのとねり)を置きました。

7二人が獄で死ぬ

四年夏五月。的臣蚊嶋・穗瓮君有罪。皆下獄死。

四年の夏五月、的臣蚊嶋(いくはのおみかしま)と穗瓮君(ほへのきみ)に罪があり、いずれも獄に下されて死にました。

夾注 1

瓮。此云倍。

瓮は「へ」と読みます。

8佐伯造

五年春二月丁亥朔辛卯。普求國郡散亡佐伯部。以佐伯部仲子之後。爲佐伯造。

五年の春二月丁亥の朔の辛卯の日、国や郡に散り失われた佐伯部(さえきべ)を広く求め、佐伯部仲子(さえきべのなかち)の後裔を佐伯造(さえきのみやつこ)としました。

夾注 1

佐伯部仲子事見弘計天皇紀。

佐伯部仲子の事は弘計天皇の紀に見えます。

9高麗に工匠を求めて遣わす

六年秋九月己酉朔壬子。遣日鷹吉士使高麗召巧手者。

六年の秋九月己酉の朔の壬子の日、日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わして高麗に使いさせ、巧みな手を持つ者を召させました。

10飽田女が哭く

是秋。日鷹吉士被遣使後。有女人居干難波御津。哭之曰。於母亦兄。於吾亦兄。弱草吾夫何怜矣。哭聲甚哀。令人斷膓。菱城邑人鹿父聞而向前曰。何哭之哀甚若此乎。女人答曰。秋葱之轉雙納可思惟矣。鹿父曰。諾。即知所言矣。有同伴者。不悟其意。問曰。何以知乎。答曰。難波玉作部■魚女嫁於韓白水郎■生哭女。哭女嫁於住道人山寸生飽田女。韓白水郎■與其女哭女曾既倶死。住道人山杵、上奸玉作部■魚女生麁寸。麁寸娶飽田女。於是。麁寸從日鷹吉士發向高麗。由是。其妻飽田女徘徊顧戀。失緒傷心。哭聲尤切。

この秋、日鷹吉士が使いとして遣わされた後、一人の女が難波の御津(みつ)に居て哭いて申しました。「母にも兄、我にも兄。弱草(わかくさ)の我が夫(つま)、何とも愛おしい。」

哭く声はたいそう哀しく、人の膓を断つほどでした。

菱城邑(ひしきのむら)の人、鹿父(かそ)が聞いて前に進み出て申しました。「どうして哭くことがこれほどまでに哀しいのか。」

女が答えました。「秋の葱が二重に生えているのをお思いになってください。」

鹿父が申しました。「そうか。」そしてすぐに言うところを悟りました。

同じ伴の者がその意を悟れず、問いました。「どうして分かるのか。」

答えました。「難波の玉作部(たまつくりべ)の■魚女(ふなめ)が、韓の白水郎(あま)である■(はたけ)に嫁して哭女(なくめ)を生みました。哭女は住道(すみのみち)の人、山寸(やまき)に嫁して飽田女(あきため)を生みました。韓の白水郎■とその娘の哭女は、かつて既に共に死にました。住道の人、山杵が上を奸して玉作部■魚女との間に麁寸(あらし)を生みました。麁寸は飽田女を娶りました。

こうして麁寸は日鷹吉士に従って高麗へ発ちました。これによってその妻の飽田女は、行き来しては顧み恋い慕い、糸口を失って心を傷め、哭く声がいよいよ切なくなったのです。」

夾注 6

言於母亦兄。於吾亦兄。此云於慕尼慕是。阿例尼慕是。言吾夫何怜矣。此云阿我圖摩播耶。言弱草。謂古者以弱草喩夫婦。故以弱草爲夫。

「母にも兄、我にも兄」は「おもにもせ、あれにもせ」と読みます。「我が夫、何とも愛おしい」は「あがつまはや」と読みます。「弱草」と申したのは、古くは弱草で夫婦を喩えましたので、弱草を夫としたのです。

鹿父。人名也。俗呼父爲柯曾。

鹿父は人の名です。世俗では父を「かそ」と呼びます。

雙。重也。

雙は重なるという意味です。

言□魚女。此云浮儺謎。

■魚女は「ふなめ」と読みます。

言韓白水郎□。此云柯羅摩能波陀該。□。耕麥田之也。

韓白水郎■は「からまのはたけ」と読みます。■は麦の田を耕すことです。

言哭女。此云儺倶謎。

哭女は「なくめ」と読みます。

11人の膓を断つ

令人膓斷。

人の膓を断ちました。

夾注 1

玉作□魚女。與韓白水郎□。爲夫婦生哭女。住道人山寸娶哭女。生飽田女。山寸妻父韓白水郎□。與其子哭女。曾既倶死。住道人山杵上奸妻母玉作部□魚女生麁寸。麁寸娶飽田女。或本云。玉作部□魚女。共前夫韓白水郎□生哭女。更共後夫住道人山杵生麁寸。則哭女與麁寸異父兄弟之故。哭女之女飽田女。呼麁寸曰於母亦兄也。哭女嫁於山杵生飽田女。山杵又淫□魚女。生麁寸。則飽田女與麁寸異母兄弟之故。飽田女呼夫麁寸曰於吾亦兄也。古者不言兄弟長幼。女以男稱兄。男以女稱妹。故云於母亦兄。於吾亦兄耳。

玉作の■魚女は韓の白水郎■と夫婦となって哭女を生みました。住道の人、山寸が哭女を娶って飽田女を生みました。山寸の妻の父である韓の白水郎■と、その娘の哭女は、かつて既に共に死にました。住道の人、山杵が上を奸して妻の母である玉作部■魚女との間に麁寸を生みました。麁寸は飽田女を娶りました。ある本に申します。玉作部■魚女は、前の夫である韓の白水郎■との間に哭女を生み、さらに後の夫である住道の人、山杵との間に麁寸を生みました。そうであれば、哭女と麁寸は父の異なる兄弟であるゆえに、哭女の娘である飽田女が麁寸を「母にも兄」と呼んだのです。哭女が山杵に嫁して飽田女を生み、山杵がまた■魚女と通じて麁寸を生みました。そうであれば、飽田女と麁寸は母の異なる兄弟であるゆえに、飽田女が夫の麁寸を「我にも兄」と呼んだのです。古くは兄弟の長幼を言わず、女は男を兄と称し、男は女を妹と称しました。ですから「母にも兄、我にも兄」と申したにすぎません。

12高麗の工匠が来る

是歳。日鷹吉士還自高麗。獻工匠須流枳。奴流枳等。今倭國山邊郡額田邑熟皮高麗。是其後也。

この年、日鷹吉士が高麗から還り、工匠の須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)らを献じました。今の倭国山邊郡額田邑(やまとのくにやまのべのこおりぬかたのむら)で皮を熟す高麗人が、その後裔です。

13皇太子を立てる

七年春正月丁未朔己酉。立小泊瀬稚鷦鷯尊爲皇太子。

七年の春正月丁未の朔の己酉の日、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)を立てて皇太子としました。

14国が無事である

八年冬十月。百姓言。是時國中無事。吏稱其官。海内歸仁。民安其業。

八年の冬十月、百姓が申しました。このとき国の中に事なく、吏はその官にふさわしく、海内は仁に帰し、民はその業に安んじました。

15穀物がよく実る

是歳。五穀登衍。蠶麥善收。遠近清平。戸口滋殖焉。

この年、五穀はよく実り、蠶と麦をよく収めました。遠近は清く平らかで、戸口は増え殖えました。

16天皇が崩じる

十一年秋八月庚戌朔丁巳。天皇崩干正寢。

十一年の秋八月庚戌の朔の丁巳の日、天皇は正寢で崩じました。

17埴生坂本陵

冬十月己酉朔癸丑。葬埴生坂本陵。

冬十月己酉の朔の癸丑の日、埴生坂本陵(はにうのさかもとのみささぎ)に葬りました。