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武烈天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 26 · 漢字 1,645字 · 朗読 6.6分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1武烈天皇

小泊瀬稚鷦鷯天皇、億計天皇太子也。母曰春日大娘皇后。億計天皇七年、立爲皇太子。長好刑理。法令分明。日晏坐朝、幽枉必達。斷獄得情。又頻造諸惡。不修一善。凡諸酷刑、無不親覽。國內居人、咸皆震怖。

小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのてんのう)は、億計天皇の太子です。母は春日大娘皇后(かすがのおおいらつめのこうごう)と申します。億計天皇の七年に皇太子として立てられました。

成長されてからは刑罰と政を好み、法令は分明でした。日が暮れるまで朝廷に坐し、隠れた曲がった事も必ず届くようにし、獄を断つにあたっては実情を得ました。

また、しばしばさまざまな悪事を行い、一つの善も修めませんでした。およそ諸々の酷い刑罰を、自ら見ないものはありませんでした。国の内に住む人は、みな震え恐れました。

2鮪臣と歌で争う

十一年八月、億計天皇崩。大臣平群眞鳥臣、專擅國政、欲王日本。陽爲太子營宮。了卽自居。觸事驕慢、都無臣節。於是、太子思欲聘物部麁鹿火大連女影媛、遺媒人、向影媛宅期會。影媛會姧眞鳥大臣男鮪。鮪、此云茲寐。恐違太子所期、報曰、妾望、奉待海柘榴市巷。由是、太子欲往期處。遣近侍舍人、就平群大臣宅、奉太子命、求索官馬。大臣戲言陽進曰、官馬爲誰飼養、隨命而已、久之不進。太子懷恨、忍不發顏。果之所期、立歌場衆、歌場、此云宇多我岐。執影媛袖、躑躅從容。俄而鮪臣來、排太子與影媛間立。由是、太子放影媛袖、移𢌞向前、立直當鮪。歌曰、

十一年八月、億計天皇が崩じました。大臣の平群眞鳥臣(へぐりのまとりのおみ)は国の政を独り思うままにし、日本に王として臨もうとしました。いつわって太子のために宮を営み、出来上がると自ら住みました。事ごとに驕り慢り、まったく臣としての節度がありませんでした。

そこで太子は、物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)の娘である影媛(かげひめ)を娶ろうと思い、媒(なかだち)の人を遣わして影媛の家へ行かせ、会う日を約させました。

影媛はたまたま眞鳥大臣の子である鮪(しび)と密かに通じていました。——鮪は「しび」と読みます。——太子と約したことに背くのを恐れて、こう返しました。「私は海柘榴市(つばきち)の巷でお待ち申し上げたく存じます。」

これによって太子は約した所へ行こうとしました。近く侍る舎人を遣わし、平群大臣の家に赴いて太子の命を奉じ、官の馬を求めさせました。

大臣は戯れの言葉でいつわって答えました。「官の馬は誰のために飼い養うのでしょうか。お命じのままにいたすばかりです。」けれども、久しく馬を進めませんでした。

太子は恨みを抱きましたが、堪えて顔色に出しませんでした。

はたして約した所に至り、歌場(うたがき)の衆の中に立ちました。——歌場は「うたがき」と読みます。——影媛の袖を執って、ためらいながら静かにしていました。

やがて鮪臣が来て、太子と影媛との間を押し分けて立ちました。これによって太子は影媛の袖を放し、移り回って前に向かい、鮪にまっすぐ向き合って立ち、歌いました。

3歌 — 太子

之裒世能、儺鳴理鳴彌黎麼、阿蘇寐倶屢、思寐我簸多泥儞、都摩陀氐理彌喩。一本、以之裒世易彌儺斗。

「しほせの なをりをみれば あそびくる しびがはたでに つまだてりみゆ(之裒世能、儺鳴理鳴彌黎麼、阿蘇寐倶屢、思寐我簸多泥儞、都摩陀氐理彌喩)」

——音を書き写したものなので、意味には訳しません。ある本では「しほせ」を「みなと」に替えています。

4鮪が答える

鮪答歌曰、

鮪が答えて歌いました。

5歌 — 鮪

飫瀰能古能、耶陛耶哿羅哿枳、瑜屢世登耶瀰古。

「おみのこの やへやからかき ゆるせとやみこ(飫瀰能古能、耶陛耶哿羅哿枳、瑜屢世登耶瀰古)」

——音を書き写したものなので、意味には訳しません。

6太子が歌う

太子歌曰、

太子が歌いました。

7歌 — 太子

飫裒陀㨖鳴、多黎播枳多㨖氐、農哿儒登慕、須衞婆陀志氐謀、阿波夢登茹於謀賦。

「おほたちを たれはきたちて ぬかずとも すゑはたしても あはむとぞおもふ(飫裒陀㨖鳴、多黎播枳多㨖氐、農哿儒登慕、須衞婆陀志氐謀、阿波夢登茹於謀賦)」

——音を書き写したものなので、意味には訳しません。

8鮪が答える

鮪臣答歌曰、

鮪臣が答えて歌いました。

9歌 — 鮪

飫裒枳瀰能、耶陛能矩瀰哿枳、哿々梅騰謀、儺嗚阿摩之耳彌、哿々農倶彌柯枳。

「おほきみの やへのくみかき かかめども なをあましみみ かかぬくみかき(飫裒枳瀰能、耶陛能矩瀰哿枳、哿々梅騰謀、儺嗚阿摩之耳彌、哿々農倶彌柯枳)」

——音を書き写したものなので、意味には訳しません。

10太子が歌う

太子歌曰、

太子が歌いました。

11歌 — 太子

於彌能姑能、耶賦能之魔柯枳、始陀騰余瀰、那爲我與釐據魔、耶黎夢之魔柯枳。一本、以耶賦能之魔柯枳易耶陛哿羅哿枳。

「おみのこの やふのしまかき したどよみ なゐがよりこば やれむしまかき(於彌能姑能、耶賦能之魔柯枳、始陀騰余瀰、那爲我與釐據魔、耶黎夢之魔柯枳)」

——音を書き写したものなので、意味には訳しません。ある本では「やふのしまかき」を「やへからかき」に替えています。

12太子が影媛に贈る

太子贈影媛歌曰、

太子が影媛に贈って歌いました。

13歌 — 太子

舉騰我瀰儞、枳謂屢箇皚比謎、拕摩儺羅磨、婀我裒屢柁摩能、婀波寐之羅陀魔。

「ことがみに きゐるかげひめ たまならば あがほるたまの あはびしらたま(舉騰我瀰儞、枳謂屢箇皚比謎、拕摩儺羅磨、婀我裒屢柁摩能、婀波寐之羅陀魔)」

——音を書き写したものなので、意味には訳しません。

14鮪が代わって答える

鮪臣爲影媛答歌曰、

鮪臣が影媛のために答えて歌いました。

15歌 — 鮪

於裒枳瀰能、瀰於寐能之都波拕、夢須寐陀黎、陀黎耶始比登謀、阿避於謀婆儺倶儞。

「おほきみの みおびのしづはた むすびたれ たれやしひとも あひおもはなくに(於裒枳瀰能、瀰於寐能之都波拕、夢須寐陀黎、陀黎耶始比登謀、阿避於謀婆儺倶儞)」

——音を書き写したものなので、意味には訳しません。

16鮪を乃樂山で斬る

太子甫知鮪曾得影媛。悉覺父子無敬之狀、赫然大怒。此夜、速向大伴金村連宅、會兵計策。大伴連、將數千兵、傲之於路、戮鮪臣於乃樂山。一本云、鮪宿影媛舍、卽夜被戮。是時、影媛逐行戮處、見是戮已。驚惶失所、悲淚盈目。遂作歌曰、

太子は、鮪がかつて影媛を得ていたことを初めて知りました。父と子に敬う心のないさまをすべて悟り、かっと大いに怒りました。

この夜、急ぎ大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)の家へ向かい、兵を集めて策を練りました。大伴連は数千の兵を率い、路で遮って、鮪臣を乃樂山(ならやま)で殺しました。——ある本には、鮪は影媛の家に宿り、その夜のうちに殺されたと申します。

このとき影媛は殺された所まで追って行き、既に殺されているのを見ました。驚き恐れて身の置き所を失い、悲しい涙が目に満ちました。そしてついに歌を作りました。

17歌 — 影媛

伊須能箇瀰、賦屢嗚須擬底、舉慕摩矩羅、柁箇播志須擬、慕能娑幡儞、於裒野該須擬、播屢比、箇須我嗚須擬、逗摩御暮屢、嗚佐裒嗚須擬、拕摩該儞播、伊比佐倍母理、拕摩暮比儞、瀰逗佐倍母理、儺岐曾裒遲喩倶謀、柯㝵比謎阿婆例。

「いそのかみ ふるをすぎて こもまくら たかはしすぎ ものさはに おほやけすぎ はるひ かすがをすぎ つまごもる をさほをすぎ たまけには いひさへもり たまもひに みづさへもり なきそぼちゆくも かげひめあはれ(伊須能箇瀰、賦屢嗚須擬底、舉慕摩矩羅、柁箇播志須擬、慕能娑幡儞、於裒野該須擬、播屢比、箇須我嗚須擬、逗摩御暮屢、嗚佐裒嗚須擬、拕摩該儞播、伊比佐倍母理、拕摩暮比儞、瀰逗佐倍母理、儺岐曾裒遲喩倶謀、柯㝵比謎阿婆例)」

——音を書き写したものなので、意味には訳しません。

18影媛がまた歌う

於是、影媛收埋既畢、臨欲還家、悲鯁而言、苦哉、今日、失我愛夫。卽便灑涕愴矣、纏心歌曰、

そこで影媛は、収めて埋めることを終え、家に還ろうとするとき、悲しみに咽んで申しました。「苦しいことです。今日、私の愛しい夫を失いました。」

そして涙を注いで心を痛め、思いを纏わせて歌いました。

19歌 — 影媛

婀嗚儞與志、乃樂能婆娑摩儞、斯々貳暮能、瀰逗矩陛御暮梨、瀰儺曾々矩、思寐能和倶吾嗚、阿娑理逗那偉能古。

「あをによし ならのはさまに ししじもの みづくへごもり みなそそく しびのわくごを あさりづなゐのこ(婀嗚儞與志、乃樂能婆娑摩儞、斯々貳暮能、瀰逗矩陛御暮梨、瀰儺曾々矩、思寐能和倶吾嗚、阿娑理逗那偉能古)」

——音を書き写したものなので、意味には訳しません。

20眞鳥を殺して位に即く

冬十一月戊寅朔戊子、大伴金村連謂太子曰、眞鳥賊、可擊。請討之。太子曰、天下將亂。非希世之雄、不能濟也。能安之者、其在連乎。卽與定謀。於是、大伴大連、率兵自將、圍大臣宅。縱火燔之。所撝雲靡。眞鳥大臣、恨事不濟、知身難免。計窮望絶。廣指鹽詛。遂被殺戮。及其子弟。詛時唯忘角鹿海鹽、不以爲詛。由是、角鹿之鹽、爲天皇所食、餘海之鹽、爲天皇所忌。十二月、大伴金村連、平定賊訖、反政太子。請上尊號曰、今億計天皇子、唯有陛下。億兆欣歸、曾無與二。又頼皇天翼戴、淨除凶黨。英略雄斷、以盛天威天祿。日本必有主。主日本者、非陛下而誰。伏願、陛下仰答靈祗、弘宣景命、光宅日本。誕受銀郷。於是、太子命有司、設壇場於泊瀬列城、陟天皇位。遂定都焉。是日、以大伴金村連爲大連。

冬十一月戊寅の朔の戊子の日、大伴金村連が太子に申しました。「眞鳥の賊は撃つべきです。どうかこれを討たせてください。」

太子が申しました。「天下は乱れようとしている。世に希な雄でなければ済うことはできない。よくこれを安んじる者は、おそらくそなたであろう。」そしてすぐに共に策を定めました。

そこで大伴大連は兵を率いて自ら将となり、大臣の家を囲みました。火を放って焼きますと、指し示す所はみな雲のように靡き倒れました。

眞鳥大臣は事の成らぬことを恨み、身の免れ難いことを知りました。計は窮まり望みは絶え、広く塩を指して詛いました。そしてついに殺され、その子や弟にまで及びました。

詛うとき、ただ角鹿(つぬが)の海の塩だけを忘れて詛いませんでした。これによって角鹿の塩は天皇が食すものとなり、ほかの海の塩は天皇が忌むものとなりました。

十二月、大伴金村連は賊を平定し終えて、政を太子に返しました。そして尊号を上ることを請い、申しました。

「今、億計天皇の子は、ただ陛下がおられるばかりです。億兆の民が喜び帰し、かつて二つとしてありません。また皇天の翼け戴くところを頼み、凶しき党を浄く除きました。英なる略と雄なる断とによって、天の威と天の祿とを盛んになさいました。

日本には必ず主がなければなりません。日本の主となる方が、陛下でなくて誰でしょうか。伏してお願い申し上げます。陛下は仰いで靈祗にお答えになり、大いなる命を弘く宣べられ、日本に光り輝いてお住まいになり、銀の郷を大いにお受けください。」

そこで太子は有司に命じて泊瀬の列城(はつせのなみき)に壇場を設け、天皇の位に陟りました。そしてついに都を定めました。この日、大伴金村連を大連としました。

21皇后を立てる

元年春三月丁丑朔戊寅、立春日娘子爲皇后。未詳娘子父。是年也、太歲己卯。

元年の春三月丁丑の朔の戊寅の日、春日娘子(かすがのいらつめ)を立てて皇后としました。——娘子の父は詳らかではありません。——この年は太歳己卯です。

22腹を割き爪を剥ぐ

二年秋九月、刳孕婦之腹、而觀其胎。三年冬十月、解人指甲、使掘暑預。十一月、詔大伴室屋大連、發言濃國男丁、作城像於水派邑。仍曰城上也。是月、百濟意多郎卒。葬於高田丘上。

二年の秋九月、孕んだ女の腹を刳いて、その胎を観ました。

三年の冬十月、人の指の甲を解いで、暑預(やまのいも)を掘らせました。

十一月、大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)に詔して、信濃国の男丁(よぼろ)を発し、水派邑(みまたのむら)に城の像を作らせました。そこで城上(きのえ)と申します。

この月、百済の意多郎が卒しました。高田の丘の上に葬りました。

23武寧王が即位する

四年夏四月、拔人頭髮、使昇樹巓。斮倒樹本、落死昇者爲快。是歲、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除、而立嶋王。是爲武寧王。百濟新撰云、末多王無道、暴虐百姓。國人共除。武寧王立。諱斯麻王。是混支王子之子。則末多王異母兄也。混支向倭。時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋。故因名焉。今各羅海中有主嶋。王所産嶋。故百濟人號爲主嶋。今案、嶋王是蓋鹵王之子也。末多王、是混支王之子也。此曰異母兄、未詳也。

四年の夏四月、人の頭髮を抜いて樹の巓に昇らせ、樹の本を斮り倒して、昇った者が落ちて死ぬのを快しとしました。

この年、百済の末多王は道なく、百姓に暴虐でした。国の人はついにこれを除き、嶋王を立てました。これが武寧王です。

——百済新撰に申します。末多王は道なく、百姓に暴虐でした。国の人が共にこれを除きました。武寧王が立ちました。諱は斯麻王です。これは混支王の子の子で、すなわち末多王の異母兄です。混支が倭へ向かうとき、筑紫の嶋に至って斯麻王を生みました。嶋から還し送り、京に至らずに嶋で産んだので、それによって名づけました。今、各羅の海の中に主嶋があります。王の産まれた嶋です。ですから百済の人は主嶋と号します。

——今案じますに、嶋王は蓋鹵王の子です。末多王は混支王の子です。ここに異母兄と申すのは、詳らかではありません。

24麻那君を留め置く

五年夏六月、使人伏入塘楲。流出於外、持三刃矛、刺殺爲快。六年秋九月乙巳朔、詔曰、傳國之機、立子爲貴。朕無繼嗣。何以傳名。且依天皇舊例、置小泊瀬舍人、使爲代號、萬歲難忘者也。冬十月、百濟國遣麻那君進調。天皇以爲、百濟歷年不脩貢職。留而不放。

五年の夏六月、人を塘(つつみ)の楲(ひ)に伏して入らせ、外へ流れ出ると、三つの刃の矛を持って刺し殺して快しとしました。

六年の秋九月乙巳の朔の日、詔しました。「国を伝える要は、子を立てることを貴いとします。朕には継ぐ嗣がありません。何によって名を伝えましょうか。また天皇の旧い例に依って小泊瀬舎人(おはつせのとねり)を置き、代わりの号とすれば、万歳に忘れ難いでしょう。」

冬十月、百済国が麻那君を遣わして調を進めました。天皇は、百済が年を歴て貢の職を脩めなかったとして、留め置いて放しませんでした。

25斯我君が来る

七年春二月、使人昇樹、以弓射墜而咲。夏四月、百濟王遣斯我君進調。別表曰、前進調使麻那者、非百濟國主之骨族也。故謹遣斯我、奉事於朝。遂有子、曰法師君。是倭君之先也。

七年の春二月、人を樹に昇らせ、弓で射落として笑いました。

夏四月、百済王が斯我君を遣わして調を進めました。別に表を上って申しました。「先に調を進めた使いの麻那は、百済国主の骨族ではありません。ですから謹んで斯我を遣わし、朝廷に奉り事えさせます。」

ついに子がありまして、法師君と申します。これが倭君(やまとのきみ)の先祖です。

26天皇が崩じる

八年春三月、使女躶形、坐平板上、牽馬就前遊牝。觀女不淨、沾濕者殺。不濕者沒爲官婢。以此爲樂。及是時、穿池起苑、以盛禽獸。而好田獵、走狗試馬。出入不時。不避大風甚雨。衣温而忘百姓之寒、食美而忘天下之飢。大進侏儒倡優、爲爛漫之樂、設奇偉之戲、縱靡々之聲。日夜常與宮人沈湎于酒、以錦繡爲席。衣以綾紈者衆。冬十二月壬辰朔己亥、天皇崩于列城宮。

八年の春三月、女を躶形にして平らな板の上に坐らせ、馬を牽いて前に進ませ、牝として遊ばせました。女の不浄なところを観て、沾れ濕った者は殺し、濕らない者は没して官の婢としました。これを楽しみとしました。

このときに至って、池を穿ち苑を起こして、禽や獸を盛んに満たしました。そして田猟を好み、狗を走らせ馬を試み、出入りに時がありませんでした。大風や甚しい雨も避けませんでした。衣が温かければ百姓の寒さを忘れ、食が美ければ天下の飢えを忘れました。

侏儒(しゅじゅ)や倡優(しょうゆう)を大いに進ませ、爛漫の楽を為し、奇偉の戯を設け、靡々の声を縦にしました。日夜つねに宮人と酒に沈み湎れ、錦繡を席としました。綾や紈を衣る者が多くありました。

冬十二月壬辰の朔の己亥の日、天皇は列城宮(なみきのみや)で崩じました。