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善徳王善德王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 18 · 漢字 1,901字 · 朗読 7.6分

三国史記(三国時代の正史) 新羅本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1善徳王が立つ — 蝶のない牡丹

善德王立。諱德曼,眞平王長女也,母,金氏摩耶夫人。德曼性寬仁明敏,王薨,無子,國人立德曼,上號聖祖皇姑。前王時,得自唐來牡丹花圖并花子,以示德曼。德曼曰:「此花雖絶艶,必是無香氣。」王笑曰:「爾何以知之?」對曰:「畫花而無蝶,故知之,大抵女有國色,男隨之,花有香氣,蜂蝶隨之故也,此花絶艶,而圖畫又無蜂蝶,是必無香花。」種植之,果如所言,其先識如此。

善徳王が即位した。名は徳曼で、真平王の長女であり、母は金氏摩耶夫人である。徳曼は性が寛く仁く、明らかで敏かった。王が亡くなって子がなかったので、国の人が徳曼を立て、聖祖皇姑という号を奉った。

先の王の時、唐から来た牡丹の花の図と花の種を得て、徳曼に示した。徳曼は言った。「この花はこのうえなく艶やかではありますが、きっと香りがないでしょう。」

王は笑って言った。「おまえはどうしてそれが分かるのか。」

答えて言った。「花を画いてあるのに蝶がないので分かります。おおよそ女に国一番の色があれば男が随い、花に香りがあれば蜂や蝶が随うものです。この花はこのうえなく艶やかなのに、図画にまた蜂も蝶もありません。これはきっと香りのない花です。」

植えてみると果たして言ったとおりであった。その先を知ることはこのようであった。

2元年 — 乙祭に国政を執らせる

元年,二月,以大臣乙祭摠持國政。夏五月,旱,至六月,乃雨。冬十月,遣使撫問國内。鰥寡孤獨不能自存者,賑恤之。十二月,遣使入唐朝貢。

元年の二月、大臣の乙祭に国政をすべて執らせた。夏五月、旱があり、六月にいたってようやく雨が降った。冬十月、使者を遣わして国内を撫し問い、鰥・寡・孤・独でみずから存らえられない者を賑し恤んだ。十二月、使者を遣わして唐に入り朝貢した。

3二年 — 租調を免じる

二年,春正月,親祀神宮,大赦。復諸州郡一年租調。二月,京都地震。秋七月,遣使大唐朝貢。八月,百濟侵西邊。

二年の春正月、みずから神宮を祀り、大赦を行った。諸州郡の一年の租調を免じた。二月、京都で地が震えた。秋七月、唐に使者を遣わして朝貢した。八月、百済が西の辺りを侵した。

4三年 — 芬皇寺が成る

三年,春正月,改元仁平。芬皇寺成。三月,雹,大如栗。

三年の春正月、年号を仁平と改めた。芬皇寺が成った。三月、雹が降り、大きさは栗ほどであった。

5四年 — 唐が王を冊封する

四年,唐遣使持節,冊命王爲柱國樂浪郡公新羅王,以襲父封。靈廟寺成。冬十月,遣伊飡水品、龍樹,巡撫州縣。

四年、唐が使者に節を持たせて遣わし、王を柱国楽浪郡公新羅王に冊命した。父の封を襲いだのである。霊廟寺が成った。冬十月、伊飡の水品と龍樹を遣わし、州県を巡って撫させた。

夾注 1

一云龍春。

龍春ともいう。

6五年 — 玉門池の蝦蟇

五年,春正月,拜伊飡水品爲上大等。三月,王疾,醫禱無效,於皇龍寺設百高座,集僧講《仁王經》,許度僧一百人。夏五月,蝦蟇大集宮西玉門池。王聞之,謂左右曰:「蝦蟇怒目,兵士之相也。吾嘗聞,西南邊亦有地名玉門谷者,其或有隣國兵潛入其中乎?」乃命將軍閼川、弼呑,率兵,往搜之,果百濟將軍于召,欲襲獨山城,率甲士五百人,來伏其處。閼川掩撃盡殺之,慈藏法師,入唐求法。

五年の春正月、伊飡の水品を上大等に任じた。

三月、王が病み、医も祷りも効がなかったので、皇龍寺に百高座を設け、僧を集めて『仁王経』を講じさせ、百人が僧となることを許した。

夏五月、蝦蟇が宮の西の玉門池に大いに集まった。王はこれを聞いて左右に言った。「蝦蟇が目を怒らせるのは、兵士の相である。私はかつて、西南の辺りにも玉門谷という名の地があると聞いた。もしや隣国の兵がその中に潜み入ったのではないか。」

そこで将軍の閼川と弼呑に命じ、兵を率いて行って捜させると、果たして百済の将軍于召が独山城を襲おうとして甲士五百人を率い、来てその処に伏していた。閼川は襲いかかってことごとく殺した。

慈蔵法師が唐に入って法を求めた。

7六年 — 閼川を大将軍とする

六年,春正月,拜伊飡思眞爲舒弗邯。秋七月,拜閼川爲大將軍。

六年の春正月、伊飡の思真を舒弗邯に任じた。秋七月、閼川を大将軍に任じた。

8七年 — 閼川が七重城の外で克つ

七年,春三月,七重城南大石,自移三十五歩。秋九月,雨黄花。冬十月,高句麗侵北邊七重城,百姓驚擾入山谷。王命大將軍閼川,安集之。十一月,閼川與高句麗兵,戰於七重城外,克之,殺虜甚衆。

七年の春三月、七重城の南の大きな石が、おのずから三十五歩を移った。秋九月、黄色い花が雨のように降った。冬十月、高句麗が北の辺りの七重城を侵したので、百姓が驚き騒いで山谷に入った。王は大将軍の閼川に命じて、これを安んじ集めさせた。十一月、閼川が高句麗の兵と七重城の外で戦ってこれに克ち、殺し捕らえた者がきわめて多かった。

9八年 — 北小京を置く

八年,春二月,以何瑟羅州爲北小京,命沙飡眞珠鎭之。秋七月,東海水赤且熱,魚鼈死。

八年の春二月、何瑟羅州を北小京とし、沙飡の真珠に命じてこれを鎮めさせた。秋七月、東海の水が赤く、また熱くなって、魚や鼈が死んだ。

10九年 — 子弟を唐の国学に遣わす

九年,夏五月,王遣子弟於唐,請入國學。是時,太宗大徴天下名儒爲學官,數幸國子監,使之講論,學生能明一大經已上,皆得補官。增築學舍千二百間,增學生滿三千二百六十員。於是四方學者,雲集京師。於是,高句麗、百濟、高昌、吐蕃,亦遣子弟入學。

九年の夏五月、王は子弟を唐に遣わし、国学に入ることを請うた。

このとき太宗は天下の名高い儒者を大いに徴して学官とし、しばしば国子監に行幸して講論させた。学生で大経の一つ以上に明るい者は、みな官に補されることができた。学舎千二百間を増し築き、学生を増やして三千二百六十人を満たした。ここに四方の学ぶ者が京師に雲のように集まった。ここに高句麗・百済・高昌・吐蕃もまた子弟を遣わして学ばせた。

11十一年 — 大耶城が落ち、金春秋が高句麗へ行く

十一年,春正月,遣使大唐獻方物。秋七月,百濟王義慈大擧兵,攻取國西四十餘城。八月,又與高句麗謀,欲取党項城,以絶歸唐之路。王遣使告急於太宗。是月,百濟將軍允忠,領兵攻拔大耶城,都督伊飡品釋、舍知竹竹、龍石等死之。冬,王將伐百濟,以報大耶之役,乃遣伊飡金春秋於高句麗,以請師。初,大耶之敗也,都督品釋之妻死焉,是春秋之女也。春秋聞之,倚柱而立,終日不瞬,人物過前而不之省。既而言曰:「嗟乎!大丈夫豈不能呑百濟乎!」便詣王曰:「臣願奉使高句麗,請兵以報怨於百濟。」王許之,高句麗王高臧,素聞春秋之名,嚴兵衛而後見之。春秋進言曰:「今百濟無道,爲長蛇封豕,以侵軼我封疆。寡君願得大國兵馬,以洗其恥,乃使下臣致命於下執事。

十一年の春正月、唐に使者を遣わして土地の産物を献じた。

秋七月、百済王の義慈が大いに兵を挙げ、国の西の四十余城を攻め取った。八月、また高句麗と謀って党項城を取り、唐へ帰する路を絶とうとしたので、王は使者を遣わして太宗に急を告げた。

この月、百済の将軍允忠が兵を率いて大耶城を攻め抜き、都督の伊飡品釈、舎知の竹竹・龍石らが死んだ。

冬、王は百済を伐って大耶の役に報いようとし、伊飡の金春秋を高句麗に遣わして師を請わせた。

はじめ大耶が敗れたとき、都督品釈の妻が死んだが、それは春秋の娘であった。春秋はこれを聞いて柱に倚って立ち、終日まばたきもせず、人や物が前を過ぎても気づかなかった。やがて言った。「ああ、大丈夫がどうして百済を呑めないことがあろうか。」

そして王のもとに詣でて言った。「臣は高句麗に使いして、兵を請い百済に怨みを報いたいと願います。」王はこれを許した。

高句麗王の高蔵はもとより春秋の名を聞いていたので、兵を厳しく衛らせたうえで会った。春秋は進んで言った。「いま百済は道がなく、長い蛇、大きな猪となって我が境を侵しております。我が君は大国の兵馬を得てその恥を洗おうと願い、そこで下臣を遣わして下執事に命を致させたのです。」

12十一年 — 竹嶺を還せと言う

」麗王謂曰:「竹嶺本是我地分,汝若還竹嶺西北之地,兵可出焉。」春秋對曰:「臣奉君命乞師,大王無意救患以善鄰,但威劫行人,以要歸地,臣有死而已,不知其他。」臧怒其言之不遜,囚之別館,春秋潛使人告本國王。王命大將軍金信,領死士一萬人赴之。信行軍過漢江,入高句麗南境,麗王聞之,放春秋以還。拜信爲押梁州軍主。

高句麗王は言った。「竹嶺はもともと我が地の分である。おまえたちが竹嶺の西北の地を還すなら、兵を出すこともできよう。」

春秋は答えた。「臣は君の命を奉じて師を乞いに参りました。大王は患いを救って隣とよくする意はなく、ただ使いの者を威し劫かして地を還せと要められます。臣には死があるばかりで、ほかは存じません。」

高蔵はその言葉が遜らないことに怒り、別館に囚えた。春秋はひそかに人を遣わして本国の王に告げた。王は大将軍の金庾信に命じ、死を決した士一万人を率いて赴かせた。庾信が軍を行らせて漢江を過ぎ、高句麗の南の境に入ると、高句麗王はこれを聞いて春秋を放ち帰らせた。庾信を押梁州の軍主に任じた。

13十二年 — 唐の太宗の三つの策

十二年,春正月,遣使大唐獻方物。三月,入唐求法高僧慈藏還。秋九月,遣使大唐上言:「高句麗、百濟侵凌臣國,累遭攻襲數十城。兩國連兵,期之必取,將以今茲九月大擧,下臣社稷必不獲全,謹遣陪臣歸命大國,願乞偏師,以存救援。」帝謂使人曰:「我實哀爾爲二國所侵,所以頻遣使人和爾三國。高句麗、百濟旋踵翻悔,意在呑滅,而分爾土宇。爾國設何奇謀,以免顚越?」使人曰:「吾王事窮計盡,唯告急大國,冀以全之。」帝曰:「我少發邊兵,摠契丹、靺鞨直入遼東,爾國自解,可緩爾一年之圍。此後知無繼兵,還肆侵侮四國倶擾,於爾未安,此爲一策。我又能給爾數千朱袍丹幟,二國兵至,建而陳之,彼見者以爲我兵,必皆奔走,此爲二策。百濟國恃海之嶮,不修機械,男女紛雜,互相燕聚。

十二年の春正月、唐に使者を遣わして土地の産物を献じた。三月、唐に入って法を求めていた高僧の慈蔵が帰った。

秋九月、唐に使者を遣わして申し上げた。「高句麗と百済が臣の国を侵し凌ぎ、たびたび数十の城を攻め襲われました。両国は兵を連ね、必ず取ろうと期して、この九月に大挙しようとしております。下臣の社稷はきっと全うできませんので、謹んで陪臣を遣わして大国に命を帰し、どうか偏師なりとも乞うて救援を得たいと願います。」

帝は使いの者に言った。「私はまことにおまえたちが二国に侵されるのを哀れに思い、それゆえしばしば使いを遣わしておまえたち三国を和させた。ところが高句麗と百済は踵を旋らすや悔いを翻し、意は呑み滅ぼしておまえたちの土地を分けることにある。おまえの国はどのような奇しき謀をめぐらして、覆り倒れるのを免れるつもりか。」

使いの者は言った。「我が王は事が窮まり計が尽き、ただ大国に急を告げて全うされることを冀うばかりです。」

帝は言った。

「私が辺りの兵を少し発し、契丹と靺鞨を率いてまっすぐ遼東に入れば、おまえの国はおのずから解け、一年の囲みを緩められよう。しかしその後、続く兵がないと知れば、かえってほしいままに侵し侮り、四つの国がともに擾れて、おまえたちには安らかでない。これが一つめの策である。

私はまたおまえたちに朱い袍と丹い幟を数千与えることができる。二国の兵が至ったら、立てて陳ねておけ。彼らは見て我が兵だと思い、きっとみな奔り走るだろう。これが二つめの策である。

百済国は海の険しさを恃んで武器を修めず、男女が紛れ雑じって互いに燕り集まっている。

14十二年 — 三つめの策と帝の嘆き

我以數十百船,載以甲卒,銜枚泛海,直襲其地。爾國以婦人爲主,爲鄰國輕侮,失主延寇,靡歳休寧。我遣一宗支,以爲爾國主。而自不可獨往,當遣兵營護,待爾國安,任爾自守,此爲三策。爾宜思之,將從何事?」使人但唯而無對,帝嘆其庸鄙,非乞師告急之才也。

私が数十百の船に甲卒を載せ、枚を銜ませて海に泛かべ、まっすぐその地を襲おう。ところがおまえの国は婦人を主としているので隣国に軽んじ侮られ、主を失って寇を延き入れ、年として休まり寧らぐことがない。私は宗支の一人を遣わしておまえの国の主としよう。ただしひとりで行かせるわけにはいかないから、当然兵を遣わして営み護らせ、おまえの国が安んじるのを待って、おまえたち自身に守らせよう。これが三つめの策である。

おまえはよく思うがよい。これから何に従うつもりか。」

使いの者はただ「はい、はい」と言うばかりで答えがなかった。帝はその庸しく鄙しいことを嘆き、師を乞い急を告げるだけの才ではないとした。

15十三年 — 淵蓋蘇文が五百里を言う

十三年,春正月,遣使大唐獻方物。太宗遣司農丞相里玄奬,齎璽書,賜高句麗曰:「新羅委命國家,朝貢不闕,爾與百濟,宜即戢兵。若更攻之,明年當出師,撃爾國矣。」蓋蘇文謂玄奬曰:「高句麗、新羅,怨隙已久。往者隋室相侵,新羅乘釁,奪高句麗五百里之地,城邑皆據有之,非返地還城,此兵恐未能已。」玄奬曰:「已往之事,焉可追論?」蘇文竟不從。秋九月,王命信爲上將軍,領兵伐百濟,大克之,取城七。

十三年の春正月、唐に使者を遣わして土地の産物を献じた。

太宗は司農丞の相里玄奨を遣わし、璽書を齎して高句麗に賜った。「新羅は国家に命を委ね、朝貢を欠かさない。おまえと百済は、ただちに兵を戢めるがよい。もし更に攻めるなら、明年には当然師を出して、おまえの国を撃つであろう。」

蓋蘇文は玄奨に言った。「高句麗と新羅は、怨みと隙がすでに久しい。さきに隋が互いに侵したとき、新羅はその釁に乗じて高句麗の五百里の地を奪い、城邑をみな拠って有っている。地を返し城を還さないかぎり、この兵はおそらく已むことができまい。」

玄奨は言った。「すでに往った事を、どうして追って論じられようか。」蘇文はついに従わなかった。

秋九月、王は庾信に命じて上将軍とし、兵を率いて百済を伐たせたところ、大いに克って城七つを取った。

16十四年 — 庾信が家の門の前を過ぎて顧みない

十四年,春正月,遣使大唐貢獻方物。庾信自伐百濟還,未見王,百濟大軍復來寇邊。王命拒之,遂不至家,往伐破之,斬首二千級。三月,報命於王,未得歸家,又急報百濟復來侵。王以事急,乃曰:「國之存亡,繋公一身,庶不憚勞,往其圖之!」庾信又不歸家,晝夜鍊兵。西行道,過宅門一家男女,瞻望涕泣,公不顧而歸。三月,創造皇龍寺塔,從慈藏之請也。夏五月,太宗親征高句麗,王發兵三萬以助之。百濟乘虚,襲取國西七城。冬十一月,拜伊飡毗曇爲上大等。

十四年の春正月、唐に使者を遣わして土地の産物を貢ぎ献じた。

庾信が百済を伐って帰り、まだ王に会わないうちに、百済の大軍がまた来て辺りを寇した。王が命じてこれを拒ませたので、ついに家に至らないまま行って伐ち破り、首二千級を斬った。

三月、王に命を報じ、まだ家に帰れないうちに、また百済がまた侵して来るという急な報せがあった。王は事が急であったので言った。「国の存亡は公の一身に繋がっている。どうか労を憚らず、行ってこれを図ってほしい。」

庾信はまた家に帰らず、昼も夜も兵を錬えた。西へ行く道で自分の宅の門の前を過ぎると、一家の男女が瞻め望んで涕き泣いたが、公は顧みずに行った。

三月、皇龍寺の塔を創め造った。慈蔵の請いに従ったのである。

夏五月、太宗がみずから高句麗を征したので、王は兵三万を発してこれを助けた。百済は虚に乗じて、国の西の七つの城を襲い取った。

冬十一月、伊飡の毗曇を上大等に任じた。

17十六年 — 毗曇の乱と王の死

十六年,春正月,毗曇、廉宗等謂,謂女主不能善理,因謀叛擧兵,不克。八日,王薨。諡曰善德,葬于狼山。

十六年の春正月、毗曇・廉宗らが「女の主はよく理めることができない」と言い、これによって叛を謀って兵を挙げたが、克たなかった。八日、王が亡くなった。諡を善徳といい、狼山に葬った。

夾注 1

《唐書》云:「貞觀二十一年卒。」《通鑑》云:「二十二年卒。」以本史考之,《通鑑》,誤也。

『唐書』には「貞観二十一年に卒した」とあり、『通鑑』には「二十二年に卒した」とあるが、本史で考えると『通鑑』が誤りである。

18史論 — 女子を王位に処らせたこと

論曰:臣聞之,古有女媧氏,非正是天子,佐伏羲理九州耳,至若呂雉、武曌,値幼弱之主,臨朝稱制,史書不得公然稱王,但書高皇后呂氏,則天皇后武氏者。以天言之,則陽剛而陰柔,以人言之,則男尊而女卑。豈可許姥嫗出閨房,斷國家之政事乎?新羅扶起女子,處之王位,誠亂世之事。國之不亡,幸也。《書》云:「牝鷄之晨。」《易》云:「羸豕孚蹢躅。」其可不爲之戒哉?

論じて言う。

臣が聞くところでは、古に女媧氏があったが、正しく天子であったのではなく、伏羲を佐けて九州を理めただけである。呂雉や武曌のような者にいたっては、幼く弱い主に値って朝に臨み制を称したが、史書は公然と王と称することができず、ただ高皇后呂氏、則天皇后武氏と書いたのである。

天から言えば陽は剛く陰は柔らかく、人から言えば男は尊く女は卑しい。どうして老いた婦人が閨房を出て、国家の政事を断ずることを許せようか。新羅は女子を扶け起こして王位に処らせた。まことに乱れた世の事である。国が亡びなかったのは幸いであった。

『書経』には「牝鶏の晨」とあり、『易』には「羸せた豕が孚んで蹢躅する」とある。これを戒めとしないでいられようか。