文武王
1文武王が即位する
文武王立,諱法敏,太宗王之元子。母,金氏文明王后,蘇判舒玄之季女,庾信之妹也。其姊夢登西兄山頂,坐旋流,徧國内。覺與季言夢。季戯曰:「予願買兄此夢。」因與錦裙爲直。後數日,庾信與春秋公蹴鞠,因踐落春秋衣紐。庾信曰:「吾家幸近,請往綴紐。」因與倶往宅,置酒,從容喚寶姫,持針線來縫。其姊有故不進,其季進前縫綴。淡粧輕服,光艶炤人。春秋見而悅之,乃請婚成禮,則有娠生男,是謂法敏。妃慈儀王后,波珍飡善品之女也。法敏姿表英特,聰明多智略。永徽初如唐,高宗授以大府卿。太宗元年,以波珍飡爲兵部令,尋封爲太子。顯慶五年,太宗與唐將蘇定方,平百濟,法敏從之,有大功,至是即位。
文武王が即位した。名は法敏で、太宗王の長子である。母は金氏文明王后で、蘇判舒玄の末娘、庾信の妹である。
その姉が夢に西兄山の頂に登り、坐って小便をすると、国の内に遍く広がった。目覚めて妹に夢を語ると、妹は戯れて言った。「私が姉さんのその夢を買いたい。」そこで錦の裙を値として与えた。
数日の後、庾信が春秋公と蹴鞠をしていて、春秋の衣の紐を踏んで落としてしまった。庾信は言った。「幸い私の家が近い。行って紐を綴らせましょう。」そこでともに宅へ行き、酒を置いて、しずかに宝姫を喚んで、針と糸を持って来て縫わせた。その姉は故あって出て来ず、その妹が前に進んで縫い綴った。淡い粧いと軽い服でありながら、光り艶やかで人を照らした。春秋は見て悦び、そこで婚を請うて礼を成すと、娠んで男子を生んだ。これが法敏である。
王妃は慈儀王后で、波珍飡善品の娘である。法敏は姿も表も英く特れ、聡明で智略が多かった。永徽の初めに唐に行くと、高宗が大府卿を授けた。太宗の元年に波珍飡で兵部令とし、ほどなく封じて太子とした。顕慶五年、太宗が唐の将の蘇定方とともに百済を平らげたとき、法敏は従って大きな功があり、このときにいたって即位した。
2元年 — 甕山城を攻める
元年六月,入唐宿衛仁問、儒敦等至,告王:「皇帝已遣蘇定方,領水陸三十五道兵,伐高句麗,遂命王擧兵相應。雖在服,重違皇帝勅命。」秋七月十七日,以金庾信爲大將軍,仁問、眞珠、欽突爲大幢將軍,天存、竹旨、天品爲貴幢摠管,品日、忠常、義服爲上州摠管,眞欽、衆臣、自簡爲下州摠管,軍官、藪世、高純爲南川州摠管,述實、達官、文穎爲首若州摠管,文訓、眞純爲河西州摠管,眞福爲誓幢摠管,義光爲郞幢摠管,慰知爲罽衿大監。八月,大王領諸將,至始飴谷停留。■使來告曰:「百濟殘賊,據甕山城,遮路,不可前。」大王先遣使諭之,不服。九月十九日,大王進次熊峴停,集諸摠管大監,親臨誓之。二十五日,進軍圍甕山城。至二十七日,先燒大柵,斬殺數千人,遂降之。
元年の六月、唐に入って宿衛していた仁問、儒敦らが至って王に告げた。「皇帝はすでに蘇定方を遣わし、水陸三十五道の兵を率いて高句麗を伐たせ、あわせて王に兵を挙げて相応ずるよう命じられました。喪に服しておられるとはいえ、皇帝の勅命に違うことは重いのです。」
秋七月十七日、金庾信を大将軍とし、仁問・真珠・欽突を大幢将軍、天存・竹旨・天品を貴幢総管、品日・忠常・義服を上州総管、真欽・衆臣・自簡を下州総管、軍官・藪世・高純を南川州総管、述実・達官・文穎を首若州総管、文訓・真純を河西州総管、真福を誓幢総管、義光を郎幢総管、慰知を罽衿大監とした。
八月、大王は諸将を率いて始飴谷停に至ってとどまった。使いが来て告げた。「百済の残った賊が甕山城に拠って路を遮り、前に進むことができません。」大王はまず使いを遣わして諭したが、服さなかった。
九月十九日、大王は熊峴停に進み次し、諸総管と大監を集めて、みずから臨んで誓わせた。二十五日、軍を進めて甕山城を囲んだ。二十七日にいたって、まず大きな柵を焼き、数千人を斬り殺すと、ついに降った。
3元年 — 功を論じ、平壌へ軍糧を輸ぶ
論功,賜角干、伊飡爲摠管者劒;迎飡、波珍飡、大阿飡爲摠管者戟,已下各一品位。築熊峴城。上州摠管品日,與一牟山郡太守大幢、沙尸山郡太守哲川等,率兵攻雨述城,斬首一千級。百濟達率助服、恩率波伽與衆謀降。賜位助服級飡,仍授古陁耶郡太守,波伽級飡,兼賜田宅衣物。冬十月二十九日,大王聞唐皇帝使者至,遂還京。唐使弔慰,兼勅祭前王,贈雜彩五百段。庾信等休兵,待後命,含資道摠管劉德敏至,傳勅旨,輸平壤軍粮。
功を論じ、角干・伊飡で総管となった者には剣を賜り、迎飡・波珍飡・大阿飡で総管となった者には戟を賜り、それ以下はそれぞれ一品の位を上げた。熊峴城を築いた。
上州総管の品日は、一牟山郡太守の大幢、沙尸山郡太守の哲川らとともに兵を率いて雨述城を攻め、首一千級を斬った。百済の達率助服と恩率波伽が衆と謀って降った。助服には級飡の位を賜り、あわせて古陁耶郡太守を授け、波伽には級飡を賜って、あわせて田宅と衣物を賜った。
冬十月二十九日、大王は唐の皇帝の使者が至ったと聞いて、ついに京に還った。唐の使いは弔い慰め、あわせて勅して先の王を祭り、雑彩五百段を贈った。
庾信らは兵を休めて後の命を待っていたが、含資道総管の劉徳敏が至って勅旨を伝えたところ、平壌へ軍糧を輸べということであった。
4二年 — 雪の路を分けて平壌へ軍糧を致す
二年,春正月,唐使臣在館,至是,冊命王爲開府儀同三司上柱國樂浪郡王新羅王。拜伊飡文訓爲中侍。王命庾信與仁問、良圖等九將軍,以車二千餘兩,載米四千石、租二萬二千餘石,赴平壤。十八日,宿風樹村,氷滑道險,車不得行,並載以牛馬。二十三日,渡七重河,至䔉壤。貴幢弟監星川、軍師述川等,遇賊兵於梨峴,擊殺之。二月一日,庾信等至獐塞,距平壤三萬六千歩。先遣歩騎監裂起等十五人,赴唐營。是日,風雪寒沍,人馬多凍死。六日,至楊隩,庾信遣阿飡良圖、大監仁仙等致軍粮,贈定方以銀五千七百分、細布三十匹、頭髮三十兩、牛黄十九兩。定方得軍粮,便罷還。庾信等聞唐兵歸,亦還渡𤬁川。高句麗兵追之,廻軍對戰,斬首一萬餘級,虜小兄阿達兮等,得兵械萬數。
二年の春正月、唐の使臣が館にあったが、このときにいたって王を開府儀同三司上柱国楽浪郡王新羅王に冊命した。伊飡の文訓を中侍に任じた。
王は庾信と仁問・良図ら九人の将軍に命じ、車二千余両に米四千石、租二万二千余石を載せて平壌へ赴かせた。十八日、風樹村に宿ったが、氷が滑り路が険しくて車が行けなかったので、あわせて牛と馬に載せた。二十三日、七重河を渡って䔉壌に至った。貴幢弟監の星川、軍師の述川らが梨峴で賊の兵に遇い、撃ち殺した。
二月一日、庾信らが獐塞に至ると、平壌から三万六千歩の距たりであった。まず歩騎監の裂起ら十五人を唐の営へ赴かせた。この日、風と雪が寒く沍え、人も馬も多く凍え死んだ。
六日、楊隩に至って、庾信は阿飡の良図、大監の仁仙らを遣わして軍糧を致させ、定方に銀五千七百分、細布三十匹、頭髪三十両、牛黄十九両を贈った。定方は軍糧を得ると、すぐに兵を罷めて還った。
庾信らは唐の兵が帰ったと聞いて、やはり還って𤬁川を渡った。高句麗の兵が追ってきたので、軍を廻して対い戦い、首一万余級を斬り、小兄の阿達兮らを虜にし、兵械万あまりを得た。
5二年 — 耽羅が降る
論功,中分本彼宮財貨、田莊、奴僕,以賜庾信、仁問。靈廟寺災。耽羅國主佐平徒冬音律來降。耽羅自武德以來,臣屬百濟,故以佐平爲官號,至是,降爲屬國。三月,大赦。王以旣平百濟,命所司設大酺。秋七月,遣伊飡金仁問,入唐貢方物。八月,百濟殘賊,屯聚内斯只城作惡,遣欽純等十九將軍,討破之。大幢摠管眞珠、南川州摠管眞欽,詐稱病,閑放不恤國事,遂誅之,并夷其族。沙飡如冬打母,天雷雨震死,身上題須堂三字。南川州獻白鵲。
功を論じ、本彼宮の財貨・田莊・奴僕を半ばに分けて庾信と仁問に賜った。霊廟寺が災った。
耽羅国主の佐平徒冬音律が来て降った。耽羅は武徳以来、百済に臣属していたので佐平を官の号としていたが、このときにいたって降って属国となった。
三月、大赦を行った。王はすでに百済を平らげたので、所司に命じて大きな酒宴を設けさせた。
秋七月、伊飡の金仁問を遣わして唐に入り、土地の産物を貢がせた。
八月、百済の残った賊が内斯只城に屯り聚まって悪を作したので、欽純ら十九人の将軍を遣わして討ち破らせた。大幢総管の真珠と南川州総管の真欽が病と詐り称して閑に放って国事を恤まなかったので、ついに誅し、あわせてその族を夷した。
沙飡の如冬が母を打ったので、天が雷と雨をもって震って死なせたが、身の上に「須堂」の三字が題されていた。南川州が白い鵲を献じた。
夾注 2
一作津。
佐平徒冬音律の律は津とも書く。
字未詳。
字が分からない。
6三年 — 豆陵尹城と周留城を落とす
三年,春正月,作長倉於南山新城。築富山城。二月,欽純、天存領兵,攻取百濟居列城,斬首七百餘級。又攻居勿城、沙平城降之,又攻德安城,斬首一千七十級。夏四月,大唐以我國爲鷄林大都督府,以王爲鷄林州大都督。五月,震靈廟寺門。百濟故將福信及浮圖道琛,迎故王子扶餘豊,立之,圍留鎭郞將劉仁願於熊津城。唐皇帝詔仁軌,檢校帶方州刺史,將前都督王文度之衆,與我兵向百濟營,轉鬪陷陳,所向無前。信等釋仁願圍,退保任存城。旣而福信殺道琛,并其衆,招還叛亡,勢甚張。仁軌與仁願合,解甲休士,乃請益兵。詔遣右威衛將軍孫仁師率兵四十萬,至德物島,就熊津府城。王領金庾信等二十八將軍,與之合攻豆陵尹城、周留城等諸城,皆下之。
三年の春正月、南山新城に長い倉を作った。富山城を築いた。
二月、欽純と天存が兵を率いて百済の居列城を攻め取り、七百余級を斬った。また居勿城と沙平城を攻めて降し、また徳安城を攻めて一千七十級を斬った。
夏四月、唐は新羅を鶏林大都督府とし、王を鶏林州大都督とした。
五月、霊廟寺の門に雷が震った。百済の旧将の福信と僧の道琛が、旧王子の扶餘豊を迎え立て、熊津城に留まり鎮めていた郎将の劉仁願を囲んだ。唐の皇帝は仁軌に詔して検校帯方州刺史とし、先の都督王文度の衆を率い、新羅の兵とともに百済の営に向かわせたので、転じ戦って陣を陥れ、向かう所に前を遮る者がなかった。
福信らは仁願の囲みを解いて退き、任存城を保った。やがて福信が道琛を殺し、その衆を併せ、叛いて逃げた者たちを招き還したので、勢いがきわめて張った。
仁軌は仁願と合わせ、甲を解いて兵を休め、そこで兵を加えてくれるよう請うた。詔して右威衛将軍の孫仁師を遣わし、兵四十万を率いて徳物島に至り、熊津府城に進ませた。王は金庾信ら二十八人の将軍を率いて彼らと合わせ、豆陵尹城・周留城など諸城を攻めて、みな落とした。
夾注 2
一云三十。
庾信ら二十八は、三十ともいう。
一作良。
豆陵は豆良とも書く。
7三年 — 扶餘豊が走る
扶餘豊脱身走,王子忠勝、忠志等,率其衆降,獨遲受信,據任存城,不下。自冬十月二十一日,攻之,不克,至十一月四日,班師,至舌利停,論功行賞有差。大赦,製衣裳,給留鎭唐軍。
扶餘豊は身を脱して走り、王子の忠勝・忠志らがその衆を率いて降ったが、ただ遅受信だけが任存城に拠って落ちなかった。冬十月二十一日から攻めたが克たず、十一月四日にいたって師を班えし、舌利停に至って功を論じ、差をつけて賞を行った。大赦を行い、衣裳を製って、留まり鎮めている唐の軍に給した。
夾注 1
一作后。
舌利の舌は后とも書く。
8四年 — 婦人もまた中朝の衣裳を服する
四年,春正月,金庾信請老,不允,賜几杖。以阿飡軍官爲漢山州都督。下敎:婦人亦服中朝衣裳。二月,命有司徙民於諸王陵園,各二十戸。角干金仁問、伊飡天存與唐勅使劉仁願、百濟扶餘隆,同盟于熊津。三月,百濟殘衆,據泗沘山城叛,熊津都督發兵,攻破之。地震。遣星川、丘日等三十八人於府城,學唐樂。秋七月,王命將軍仁問、品日、軍官、文穎等,率一善、漢山二州兵,與府城兵馬,攻高句麗突沙城,滅之。八月十四日,地震,壞民屋,南方尤甚。禁人擅以財貨田地施佛寺。
四年の春正月、金庾信が老いを請うたが許さず、几と杖を賜った。阿飡の軍官を漢山州都督とした。教を下して、婦人もまた中朝の衣裳を服するようにさせた。
二月、有司に命じて諸王の陵園に民をそれぞれ二十戸ずつ徙らせた。角干の金仁問、伊飡の天存が、唐の勅使劉仁願、百済の扶餘隆とともに熊津で盟った。
三月、百済の残った衆が泗沘山城に拠って叛いたので、熊津都督が兵を発して攻め破った。地が震えた。星川・丘日ら三十八人を府城に遣わして唐の楽を学ばせた。
秋七月、王は将軍の仁問・品日・軍官・文穎らに命じ、一善・漢山の二州の兵を率いて府城の兵馬とともに高句麗の突沙城を攻め、これを滅ぼした。
八月十四日、地が震えて民の屋が壊れたが、南の方がとりわけ甚しかった。人がほしいままに財貨や田地を仏寺に施すことを禁じた。
9五年 — 就利山で扶餘隆と盟う
五年,春二月,中侍文訓致仕,以伊飡眞福爲中侍。伊飡文汪卒,以王子禮葬之。唐皇帝遣使來弔,兼進贈紫衣一襲、腰帶一條、彩綾羅一百匹、綃二百匹。王贈唐使者金帛尤厚。秋八月,王與勅使劉仁願、熊津都督扶餘隆,盟于熊津就利山。初,百濟,自扶餘璋與高句麗連和,屢侵伐封場。我遣使入朝求救,相望于路。及蘇定方旣平百濟,軍廻,餘衆又叛。王與鎭守使劉仁願、劉仁軌等,經略數年,漸平之。高宗詔:扶餘隆歸,撫餘衆,及令與我和好。至是,刑白馬而盟,先祀神祇及川谷之神,而後歃血。其盟文曰:「往者,百濟先王迷於逆順,不敦鄰好,不睦親姻,結託高句麗,交通倭國,共爲殘暴,侵削新羅,剽邑屠城,略無寧歳。天子憫一物之失所,憐百姓之無辜,頻命行人,遣其和好。
五年の春二月、中侍の文訓が仕を致したので、伊飡の真福を中侍とした。伊飡の文汪が亡くなったので、王子の礼で葬った。唐の皇帝が使いを遣わして弔いに来させ、あわせて紫の衣一襲、腰帯一条、彩綾羅一百匹、綃二百匹を進め贈った。王は唐の使者に金と帛をとりわけ厚く贈った。
秋八月、王は勅使の劉仁願、熊津都督の扶餘隆とともに、熊津の就利山で盟った。
はじめ百済は、扶餘璋以来、高句麗と和を連ね、たびたび封場を侵し伐ったので、新羅は使いを遣わして入朝し救いを求める者が路に相望むほどであった。蘇定方が百済を平らげて軍が廻ると、残った衆がまた叛いた。王は鎮守使の劉仁願・劉仁軌らとともに数年を経略して、次第にこれを平らげた。高宗は詔して扶餘隆を帰らせ、残った衆を撫させ、あわせて新羅と和好させた。
このときにいたって白い馬を刑して盟い、まず神祇および川や谷の神を祀ってから、血を歃った。その盟いの文はこうである。
「往き日、百済の先王は逆と順に迷い、隣の好みを敦くせず、親姻と睦まず、高句麗と結び託み、倭国と交わり通じて、ともに残く暴しいことを為し、新羅を侵し削り、邑を剽め城を屠って、寧らかな年がほとんどなかった。天子は一つの物が所を失うことを憫み、百姓の辜なきを憐れんで、しばしば行人に命じてその和好を遣わした。
10五年 — 盟いの文
負險恃遠,侮慢天經,皇赫斯怒,恭行弔伐,旌旗所指,一戎大定。固可瀦宮汚宅,作誡來裔,塞源拔本,垂訓後昆。然懷柔伐叛,前王之令典,興亡繼絶,往哲之通規。事必師古,傳諸曩冊。故立前百濟大司稼正卿扶餘隆,爲熊津都督,守其祭祀,保其桑梓,依倚新羅,長爲與國,各除宿憾,結好和親,各承詔命,永爲藩服。仍遣使人右威衛將軍魯城縣公劉仁願,親臨勸諭,具宣成旨。約之以婚姻,申之以盟誓,刑牲歃血,共敦終始,分災恤患,恩若弟兄,祗奉綸音,不敢失墜,旣盟之後,共保歳寒。若有背盟,二三其德,興兵動衆,侵犯邊陲,明神鑒之,百殃是降,子孫不育,社稷無守,禋祀磨滅,罔有遺餘。故作金書鐵券,藏之宗廟,子孫萬代,無敢違犯。
険しさを負い遠さを恃んで天の経を侮り慢ったので、皇帝はこれに赫り怒り、恭しく弔い伐つことを行った。旌旗の指す所、ひとたび戎して大いに定まった。
まことに宮を瀦とし宅を汚して来る裔への誡めとし、源を塞ぎ本を抜いて後の昆への訓えを垂れるべきであった。しかし柔らかに懐けて叛く者を伐つのは先の王の令き典であり、亡びたものを興し絶えたものを継ぐのは往き哲の通じた規である。事は必ず古を師とすべきで、諸々の曩の冊に伝わっている。
それゆえ先の百済の大司稼正卿扶餘隆を立てて熊津都督とし、その祭祀を守り、その桑梓を保たせ、新羅に依り倚って、長く与国とならせる。各々宿い憾みを除いて好みを結び和親し、各々詔命を承けて、永く藩服となれ。
そこで使人の右威衛将軍魯城県公劉仁願を遣わし、みずから臨んで勧め諭し、成った旨を具に宣べさせる。これを婚姻をもって約し、盟誓をもって申べ、牲を刑し血を歃って、ともに終わりと始めを敦くし、災いを分け患いを恤んで、恩は弟兄のごとくせよ。謹んで綸音を奉じ、敢えて失い墜とすな。すでに盟った後は、ともに歳の寒さを保て。
もし盟いに背き、その徳を二つ三つにして、兵を興し衆を動かして辺陲を侵し犯すならば、明らかな神がこれを鑑て、百の殃がこれに降り、子孫は育たず、社稷は守られず、禋の祀は磨り滅びて、遺り余るものはなくなるであろう。
それゆえ金の書と鉄の券を作り、これを宗廟に蔵める。子孫万代、敢えて違い犯すな。
夾注 1
一作棄信不恒。或作乖背不恒。
「その徳を二つ三つにして」は「信を捨てて一つでなく」とも書き、「背き違えて一つでなく」とも書く。
11五年 — 絹一匹の尺を改める
神之聽之,是享是福。」劉仁軌之辭也。歃訖,埋牲幣於壇之壬地,藏其書於我之宗廟。於是,仁軌領我使者及百濟、耽羅、倭人四國使,浮海西還,以會祠泰山。立王子政明爲太子,大赦。冬,以一善、居列二州民,輸軍資於河西州。絹布舊以十尋爲一匹,改以長七歩廣二尺爲一匹。
神がこれを聴き、これを享けて福とせよ。」劉仁軌の辞である。
血を歃り終わると、牲と幣を壇の壬の地に埋め、その書を新羅の宗廟に蔵めた。ここに仁軌は新羅の使者および百済・耽羅・倭人の四国の使いを領して海を浮かび西へ還り、泰山の祠に会した。
王子の政明を立てて太子とし、大赦を行った。冬、一善・居列の二州の民をもって、河西州に軍資を輸ばせた。絹と布は旧くは十尋を一匹としていたが、改めて長さ七歩、広さ二尺を一匹とした。
12六年 — 淵浄土が降って来る
六年,春二月,京都地震。夏四月,靈廟寺災。大赦。天存之子漢林、庾信之子三光,皆以奈麻入唐宿衛。王以旣平百濟,欲滅高句麗,請兵於唐。冬十二月,唐以李勣爲遼東道行軍大摠管,以司列少常伯安陸、郝處俊副之,以擊高句麗。高句麗貴臣淵淨土,以城十二,戸七百六十三,口三千五百四十三來投。淨土及從官二十四人,給衣物、糧料、家舍,安置王都及州府。其十二城完,並遣士卒鎭守。
六年の春二月、京都で地が震えた。夏四月、霊廟寺が災った。大赦を行った。天存の子の漢林、庾信の子の三光が、ともに奈麻として唐に入って宿衛した。
王はすでに百済を平らげたので、高句麗を滅ぼそうとして唐に兵を請うた。
冬十二月、唐は李勣を遼東道行軍大総管とし、司列少常伯の安陸と郝処俊をその副として、高句麗を撃たせた。高句麗の貴い臣の淵浄土が、城十二、戸七百六十三、口三千五百四十三をもって来て投じた。浄土および従う官二十四人には衣物・糧料・家舎を給し、王都と州府に安置した。その十二城は完かったので、あわせて士卒を遣わして鎮め守らせた。
13七年 — 英公を待って還る
七年,秋七月,大酺三日。唐皇帝勅以智鏡、愷元爲將軍,赴遼東之役,王即以智鏡爲波珍飡,愷元爲大阿飡。又皇帝勅以日原大阿飡爲雲麾將軍,王命於宮庭受命。遣大奈麻汁恒世,入唐朝貢。高宗命劉仁願、金仁泰從卑列道,又徴我兵,從多谷、海谷二道,以會平壤。秋八月,王領大角干金庾信等三十將軍,出京。九月,至漢城停,以待英公。冬十月二日,英公到平壤城北二百里,差遣尔同兮村主大奈麻江深,率契丹騎兵八十餘人,歴阿珍含城。至漢城,移書以督兵期,大王從之。十一月十一日,至獐塞,聞英公歸。王兵亦還。仍授江深位級飡,賜粟五百石。十二月,中侍文訓卒。唐留鎭將軍劉仁願,傳宣天子勅命,助征高句麗,仍賜王大將軍旌節。
七年の秋七月、三日の大きな酒宴を行った。唐の皇帝が勅して智鏡と愷元を将軍とし、遼東の役に赴かせたので、王はすぐに智鏡を波珍飡、愷元を大阿飡とした。また皇帝が勅して日原大阿飡を雲麾将軍としたので、王は宮庭で命を受けさせた。大奈麻の汁恒世を遣わして唐に入り朝貢させた。
高宗は劉仁願と金仁泰に命じて卑列道に従わせ、また新羅の兵を徴して多谷・海谷の二道に従い、平壌で会させた。
秋八月、王は大角干の金庾信ら三十人の将軍を率いて京を出た。九月、漢城停に至って英公を待った。
冬十月二日、英公が平壌城の北二百里に到り、尔同兮村主の大奈麻江深を差し遣わして、契丹の騎兵八十余人を率いて阿珍含城を歴て漢城に至らせ、書を移して兵を出す期を督したので、大王はこれに従った。
十一月十一日、獐塞に至って英公が帰ったと聞き、王の兵も還った。そこで江深に級飡の位を授け、粟五百石を賜った。
十二月、中侍の文訓が亡くなった。唐の留まり鎮めていた将軍の劉仁願が天子の勅命を伝え宣べて、高句麗を征つのを助けさせ、あわせて王に大将軍の旌と節を賜った。
14八年 — 高句麗を伐つため将を立てる
八年春,阿麻來服。遣元器與淨土入唐,淨土留不歸,元器還。有勅,此後禁獻女人。三月,拜波珍飡智鏡爲中侍。置比列忽州,仍命波珍飡龍文爲摠管。夏四月,彗星守天船。六月十二日,遼東道安撫副大使遼東行軍副大摠管兼熊津道安撫大使行軍摠管右相檢校太子左中護上柱國樂城縣開國男劉仁軌,奉皇帝勅旨,與宿衛沙飡金三光到党項津。王使角干金仁問,迋迎之以大禮。於是,右相約束訖,向泉岡。二十一日,以大角干金庾信爲大幢大摠管;角干金仁問、欽純、天存、文忠、迎飡眞福、波珍飡智鏡、大阿飡良圖、愷元、欽突,爲大幢摠管;伊飡陳純、竹旨,爲京停摠管;伊飡品日、迎飡文訓、大阿飡天品,爲貴幢摠管;伊飡仁泰爲卑列道摠管;迎飡軍官、大阿飡都儒、阿飡龍長爲漢城州行軍摠管;迎飡崇信、大阿飡文穎、阿飡福世,爲卑列城州行軍摠管;波珍飡宣光、阿飡長順、純長,爲河西州行軍摠管;波珍飡宜福、阿飡天光,爲誓幢摠管;阿飡日原、興元,爲罽衿幢摠管。
八年の春、阿麻が来て服した。元器と浄土を遣わして唐に入らせたが、浄土は留まって帰らず、元器だけが還った。勅があって、この後は女人を献ずることを禁じた。
三月、波珍飡の智鏡を中侍に任じた。比列忽州を置き、あわせて波珍飡の龍文を総管に命じた。
夏四月、彗星が天船を守った。
六月十二日、遼東道安撫副大使遼東行軍副大総管兼熊津道安撫大使行軍総管右相検校太子左中護上柱国楽城県開国男の劉仁軌が皇帝の勅旨を奉じ、宿衛していた沙飡の金三光とともに党項津に到った。王は角干の金仁問を使って大きな礼で迎えさせた。ここに右相は約束を終えて、泉岡に向かった。
二十一日、大角干の金庾信を大幢大総管とし、角干の金仁問・欽純・天存・文忠、迎飡の真福、波珍飡の智鏡、大阿飡の良図・愷元・欽突を大幢総管とし、伊飡の陳純・竹旨を京停総管とし、伊飡の品日、迎飡の文訓、大阿飡の天品を貴幢総管とし、伊飡の仁泰を卑列道総管とし、迎飡の軍官、大阿飡の都儒、阿飡の龍長を漢城州行軍総管とし、迎飡の崇信、大阿飡の文穎、阿飡の福世を卑列城州行軍総管とし、波珍飡の宣光、阿飡の長順・純長を河西州行軍総管とし、波珍飡の宜福、阿飡の天光を誓幢総管とし、阿飡の日原・興元を罽衿幢総管とした。
夾注 1
一作春。
春ともいう。
15八年 — 平壌を囲み、高句麗が降る
二十二日,府城劉仁願遣貴干未肹,告高句麗大谷城、漢城等二郡十二城歸服,王遣一吉飡眞功稱賀。仁問、天存、都儒等,領一善州等七郡及漢城州兵馬,赴唐軍營。二十七日,王發京,赴唐兵。二十九日,諸道摠管發行,王以庾信病風,留京。仁問等遇英公,進軍於嬰留山下。秋七月十六日,王行次漢城州,敎諸摠管往會大軍。文穎等遇高句麗兵於蛇川之原,對戰大敗之。九月二十一日,與大軍合圍平壤,高句麗王先遣泉男産等,詣英公請降。於是,英公以王寶臧、王子福男、德男、大臣等二十餘萬口廻唐。角干金仁問、大阿飡助州隨英公歸,仁泰、義福、藪世、天光、興元隨行。初,大軍平高句麗,王發漢城指平壤,次肹次壤,聞唐諸將已歸,還至漢城。
二十二日、府城の劉仁願が貴干の未肹を遣わし、高句麗の大谷城・漢城など二郡十二城が帰服したと告げたので、王は一吉飡の真功を遣わして賀を称えた。仁問・天存・都儒らは一善州など七郡および漢城州の兵馬を領して唐の軍営に赴いた。
二十七日、王は京を発って唐の兵のもとへ赴いた。二十九日、諸道の総管が発ち行ったが、王は庾信が風を病んでいたので京に留めた。仁問らは英公に遇い、嬰留山の下に軍を進めた。
秋七月十六日、王は漢城州に行き次して、諸総管に往って大軍と会せと教えた。文穎らは蛇川の原で高句麗の兵に遇い、対い戦って大いに敗った。
九月二十一日、大軍とともに平壌を囲むと、高句麗王はまず泉男産らを遣わして英公のもとに詣で、降を請わせた。ここに英公は王の宝臧、王子の福男・徳男、大臣ら二十余万口を連れて唐に廻った。角干の金仁問、大阿飡の助州が英公に随って帰り、仁泰・義福・藪世・天光・興元が随い行った。
はじめ大軍が高句麗を平らげるとき、王は漢城を発って平壌を指したが、肹次壌に次したところ、唐の諸将がすでに帰ったと聞いて、還って漢城に至った。
夾注 1
嬰留山在今西京北二十里。
嬰留山は今の西京の北二十里にある。
16八年 — 功を論じて位を賜る
冬十月二十二日,賜庾信位太大角干,仁問大角干,已外伊飡、將軍等並爲角干,蘇判已下並增位一級。大幢少監本得,蛇川戰功第一。漢山州少監朴京漢,平壤城内殺軍主述脱,功第一。黑嶽令宣極,平壤城大門戰功第一,並授位一吉飡,賜租一千石;誓幢幢主金遁山,平壤軍營戰功第一,授位沙飡,賜租七百石;軍師南漢山北渠,平壤城北門戰功第一,授位述干,賜粟一千石;軍師斧壤、仇杞,平壤南橋戰功第一,授位述干,賜粟七百石;假軍師比列忽世活,平壤少城戰功第一,授位高干,賜粟五百石;漢山州少監金相京,蛇川戰死,功第一,贈位一吉飡,賜租一千石。牙述沙飡求律,蛇川之戰,就橋下渉水出,與賊鬪大勝,以無軍令,自入危道,功雖第一而不録,憤恨欲經死,旁人救之,不得死。
冬十月二十二日、庾信に太大角干の位、仁問に大角干の位を賜り、それ以外の伊飡や将軍らはあわせて角干とし、蘇判以下はあわせて位を一級増した。
大幢少監の本得は蛇川の戦いの功が第一であった。漢山州少監の朴京漢は、平壌城の内で軍主の述脱を殺した功が第一であった。黒嶽令の宣極は平壌城の大門の戦いの功が第一であったので、あわせて一吉飡の位を授け、租一千石を賜った。
誓幢幢主の金遁山は平壌の軍営の戦いの功が第一であったので、沙飡の位を授け、租七百石を賜った。軍師の南漢山の北渠は平壌城の北門の戦いの功が第一であったので、述干の位を授け、粟一千石を賜った。軍師の斧壤の仇杞は平壌の南の橋の戦いの功が第一であったので、述干の位を授け、粟七百石を賜った。假軍師の比列忽の世活は平壌の小城の戦いの功が第一であったので、高干の位を授け、粟五百石を賜った。漢山州少監の金相京は蛇川で戦って死んだが功が第一であったので、一吉飡の位を贈り、租一千石を賜った。
牙述の沙飡求律は蛇川の戦いで、橋の下に就いて水を渉って出、賊と鬪って大いに勝ったが、軍令もなくみずから危うい道に入ったので、功は第一であったのに録されなかった。憤り恨んで経れて死のうとしたが、傍の人が救ったので、死ぬことができなかった。
17八年 — 先祖の廟に告げる
二十五日,王還國,次褥突驛,國原仕臣龍長大阿飡,私設筵,饗王及諸侍從。及樂作,奈麻緊周子能晏,年十五歳,呈加耶之舞,王見容儀端麗,召前撫背,以金盞勸酒,賜幣帛頗厚。十一月五日,王以所虜高句麗人七千入京。六日,率文武臣寮,朝謁先祖廟,告曰:「祗承先志,與大唐同擧義兵,問罪於百濟、高句麗,元凶伏罪,國歩泰靜,敢兹控告,神之聽之。」十八日,賚死事者,少監已上十■■匹,從者二十匹。十二月,靈廟寺災。
二十五日、王が国に還る途中、褥突駅に次すると、国原仕臣の龍長大阿飡が私に筵を設けて、王と諸々の侍従を饗した。楽が作ると、奈麻の緊周の子の能晏が、年十五歳で、加耶の舞を呈した。王はその容と儀が端しく麗しいのを見て、前に召して背を撫で、金の盞で酒を勧め、幣帛をすこぶる厚く賜った。
十一月五日、王は虜にした高句麗の人七千を連れて京に入った。六日、文武の臣寮を率いて先祖の廟に朝し謁して告げた。「謹んで先の志を承け、大唐とともに義の兵を挙げて百済と高句麗に罪を問い、元の凶が罪に伏して、国の歩みは泰く静かになりました。敢えてここに控え告げます。神がこれを聴かれますように。」
十八日、死んだ事に賚を与えたが、少監以上は十(字欠)匹、従う者は二十匹であった。十二月、霊廟寺が災った。
18九年 — 大赦の教を下す
九年,春正月,以信惠法師爲政官大書省。唐僧法安來傳天子命求磁石。二月二十一日,大王會羣臣,下敎:「往者,新羅隔於兩國,北伐西侵,暫無寧歳,戰士曝骨,積於原野,身首分於庭界。先王愍百姓之殘害,忘千乘之貴重,越海入朝,請兵絳闕,本欲平定兩國,永無戰鬪,雪累代之深讎,全百姓之殘命。百濟雖平,高麗未滅,寡人承克定之遺業,終已成之先志。今兩敵旣平,四隅靜泰,臨陣立功者,並已酬賞,戰死幽魂者,追以冥資。但囹圄之中,不被泣辜之恩,枷鏁之苦,未蒙更新之澤。言念此事,寢食未安,可赦國内。自總章二年二月二十一日昧爽已前,犯五逆罪死已下,今見囚禁者,罪無小大,悉皆放出;其前赦已後,犯罪奪爵者,並令依舊;盜賊人,但放其身,更無財物可還者,不在徴限;其百姓貧寒,取他穀米者,在不熟之地者,子母倶不須還,若在熟處者,至今年收熟,只還其本,其子不須還。
九年の春正月、信恵法師を政官大書省とした。唐の僧の法安が来て天子の命を伝え、磁石を求めた。
二月二十一日、大王は群臣を会して教を下した。
「往き日、新羅は二つの国に隔たれて、北に伐たれ西に侵され、しばらくも寧らかな年がなかった。戦う士の骨は曝されて原野に積み、身と首は庭や境に分かれた。先王は百姓の残われ害われるのを愍み、千乗の貴く重いことを忘れて海を越え入朝し、絳い闕に兵を請うた。もとは二つの国を平定して永く戦鬪をなくし、累代の深い讎を雪いで、百姓の残った命を全うしようとしたのである。
百済は平らいだものの高麗はまだ滅びていなかったが、寡人は克ち定めた遺業を承けて、ついにすでに成った先の志を終えた。いま二つの敵はすでに平らぎ、四つの隅は静かに泰らかである。陣に臨んで功を立てた者には、あわせてすでに酬い賞した。戦って死んだ幽い魂には、追って冥の資けを与えた。
ただ囹圄の中にある者は、辜を泣く恩を被らず、枷と鏁の苦しみにある者は、更に新たまる澤を蒙っていない。この事を言い念うと寝ることも食べることも安らかでないので、国内を赦すのがよい。
総章二年二月二十一日の昧爽より以前に、五逆の罪で死以下を犯して、いま囚禁されている者は、罪の小大を問わず、ことごとくみな放ち出せ。その前の赦の後に罪を犯して爵を奪われた者は、あわせて旧に依らせよ。盗賊した人は、ただその身を放つが、更に還すべき財物のない者は徴の限りに入れるな。その百姓で貧しく寒しく、他人の穀米を取った者は、熟さない地にある者は本も子もともに還さなくてよく、熟した処にある者は今年の収穫のときにいたって、ただその本だけを還し、その子は還さなくてよい。
19九年 — 木の弩と馬の阹
今月三十日爲限,所司奉行!」夏五月,泉井、比列忽、各連等三郡民饑,發倉賑恤。遣祇珍山級飡等,入唐獻磁石二箱。又遣欽純角干、良圖波珍飡,入唐謝罪。冬,唐使到傳詔,與弩師仇珍山沙飡廻。命造木弩,放箭三十歩。帝問曰:「聞在爾國造弩射一千歩,今纔三十歩,何耶?」對曰:「材不良也,若取材本國,則可以作之。」天子降使求之,即遣福漢大奈麻獻木。乃命改造,射至六十歩。問其故,答曰:「臣亦不能知其所以然,殆木過海,爲濕氣所侵者歟。」天子疑其故不爲,劫之以重罪,而終不盡呈其能。頒馬阹凡一百七十四所:屬所内二十二,宫十,賜庾信太大角干六,仁問太角干五,角干七人各三,伊飡五人各二,蘇判四人各二,波珍飡六人、大阿飡十二人各一,以下七十四所,隨宜賜之。
今月三十日を限りとする。所司は奉じ行え。」
夏五月、泉井・比列忽・各連など三郡の民が饑えたので、倉を発いて賑し恤んだ。祇珍山級飡らを遣わして唐に入り、磁石二箱を献じさせた。また欽純角干、良図波珍飡を遣わして唐に入り、罪を謝させた。
冬、唐の使いが到って詔を伝え、弩師の仇珍山沙飡とともに廻った。木の弩を造れと命じたところ、箭を三十歩放った。帝は問うた。「聞けばおまえの国で造る弩は一千歩射るというのに、いまわずか三十歩とは、どうしたことか。」答えて言った。「材が良くないからです。もし本国から材を取れば、作ることができます。」
天子は使いを降して求めたので、すぐに福漢大奈麻を遣わして木を献じた。そこで命じて改め造らせると、六十歩まで射た。その故を問うと答えて言った。「臣もまたそうなる所以を知りません。おそらく木が海を過ぎて、湿った気に侵されたのでしょうか。」天子はわざとそうしないのではないかと疑い、重い罪で劫したが、ついにその能をすべて呈さなかった。
馬の阹をおよそ一百七十四所、頒けた。所内に属するものが二十二、宮に十、庾信太大角干に六、仁問太角干に五、角干七人にそれぞれ三、伊飡五人にそれぞれ二、蘇判四人にそれぞれ二、波珍飡六人と大阿飡十二人にそれぞれ一、それ以下の七十四所は宜しきに随って賜った。
20十年 — 安勝を金馬渚に処らせる
十年,春正月,高宗許欽純還國,留囚良圖,終死于圓獄。以王擅取百濟土地遺民,皇帝責怒,再留使者。三月,沙飡薛烏儒與高句麗太大兄高延武,各率精兵一萬,度鴨渌江,至屋骨,■■■靺鞨兵先至皆敦壤待之。夏四月四日,對戰,我兵大克之,斬獲不可勝計。唐兵繼至,我兵退保白城。六月,高句麗水臨城人牟岑大兄,收合殘民,自窮牟城,至浿江南,殺唐官人及僧法安等。向新羅行,至西海史冶島,見高句麗大臣淵淨土之子安勝,迎致漢城中,奉以爲君,遣小兄多式等,來告曰:「興滅國,繼絶世,天下之公義也,惟大國是望。我國先王以失道見滅,今臣等得國貴族安勝,奉以爲君,願作藩屏,永世盡忠。」王處之國西金馬渚。漢祗部女人一産三男一女,賜粟二百石。
十年の春正月、高宗は欽純の還国を許したが、良図は留め囚えたので、ついに圓の獄で死んだ。王がほしいままに百済の土地と遺った民を取ったとして、皇帝は責め怒り、ふたたび使者を留めた。
三月、沙飡の薛烏儒が高句麗の太大兄高延武とともに、それぞれ精兵一万を率いて鴨渌江を度り、屋骨に至ると、(字欠)靺鞨の兵が先に皆敦壌に至って待っていた。夏四月四日、対い戦って新羅の兵が大いに克ち、斬り獲たものは数えきれなかった。唐の兵が継いで至ったので、新羅の兵は退いて白城を保った。
六月、高句麗の水臨城の人、牟岑大兄が残った民を収め合わせ、窮牟城から浿江の南に至り、唐の官人および僧の法安らを殺した。新羅に向かって行き、西海の史冶島に至って、高句麗の大臣淵浄土の子の安勝に会い、漢城の中に迎え致して、奉じて君とし、小兄の多式らを遣わして来て告げた。「滅びた国を興し、絶えた世を継ぐのは、天下の公な義です。ただ大国を望むばかりです。我が国の先王は道を失って滅ぼされましたが、いま臣どもは国の貴族の安勝を得て、奉じて君としました。願わくは藩屏となって、永き世まで忠を尽くしたいと存じます。」
王は彼を国の西の金馬渚に処らせた。漢祗部の女人が一度に男三人と女一人を産んだので、粟二百石を賜った。
21十年 — 百済を討ち、安勝を高句麗王に封じる
秋七月,王疑百濟殘衆反覆,遣大阿飡儒敦於熊津都督府請和,不從,乃遣司馬禰軍窺覘。王知謀我,止禰軍不送,擧兵討百濟。品日、文忠、衆臣、義官、天官等,攻取城六十三,徙其人於内地。天存、竹旨等取城七,斬首二千。軍官、文穎取城十二,擊狄兵,斬首七千級,獲戰馬兵械甚多。王還,以衆臣、義官、達官、興元等■■■寺營退却,罪當死,赦之免職。倉吉于■■■■一,各授位級飡,賜租有差。遣沙飡須彌山,封安勝爲高句麗王。其冊曰:「維咸亨元年歳次庚午秋八月一日辛丑,新羅王致命高句麗嗣子安勝。公太祖中牟王,積德北山,立功南海,威風振於靑丘,仁敎被於玄菟。子孫相繼,本支不絶,開地千里,年將八百。至於建、産兄弟,禍起蕭墻,釁成骨肉,家國破亡,宗社湮滅,生人波蕩,無所託心。
秋七月、王は百済の残った衆が反り覆ることを疑い、大阿飡の儒敦を熊津都督府に遣わして和を請わせたが従わず、そこで司馬の禰軍を遣わして窺い覘わせた。王は新羅を謀るつもりだと知って禰軍を止めて送らず、兵を挙げて百済を討った。
品日・文忠・衆臣・義官・天官らが城六十三を攻め取り、その人を内地に徙した。天存・竹旨らが城七を取り、首二千を斬った。軍官・文穎が城十二を取り、狄の兵を撃って首七千級を斬り、戦馬と兵械をきわめて多く獲た。
王が還って、衆臣・義官・達官・興元らが(字欠)の営から退き却いたのは罪が死に当たるとしたが、これを赦して職を免じるにとどめた。倉吉于(字欠)一にそれぞれ級飡の位を授け、租を差をつけて賜った。
沙飡の須彌山を遣わして、安勝を高句麗王に封じた。その冊はこうである。
「維れ咸亨元年、歳は庚午に次る秋八月一日辛丑、新羅王が高句麗の嗣子安勝に命を致す。公の太祖中牟王は、徳を北山に積み、功を南海に立て、威の風は青丘に振るい、仁の教は玄菟に被った。子孫が相継いで、本も支も絶えず、地を千里に開き、年はまさに八百であった。建と産の兄弟にいたって、禍は蕭墻より起こり、釁は骨肉に成って、家も国も破れ亡び、宗も社も湮み滅び、生ける人は波のように蕩い、心を託する所がなくなった。
夾注 1
一云彌。
司馬禰は彌ともいう。
22十年 — 倭が日本と号を改める
公避危難於山野,投單身於鄰國,流離辛苦,迹同晉文,更興亡國,事等衛侯。夫百姓不可以無主,皇天必有以眷命,先王正嗣,唯公而已,主於祭祀,非公而誰?謹遣使一吉飡金須彌山等,就披策命公爲高句麗王,公宜撫集遺民,紹興舊緖,永爲鄰國,事同昆弟,敬哉敬哉。兼送粳米二千石,甲具馬一匹,綾五匹,絹、細布各十匹,綿十五稱,王其領之!」十二月,土星入月。京都地震。中侍智鏡退。倭國更號日本,自言近日所出以爲名。漢城州摠管藪世取百濟■■■■■■國,適彼事覺,遣大阿飡眞珠,誅之。
公は危難を山野に避け、単身を隣国に投じて、流離し辛苦した迹は晋の文公と同じく、亡びた国を更に興したことは衛の侯と等しい。
そもそも百姓は主なしではいられず、皇天は必ず眷みの命があるものである。先王の正しい嗣は、ただ公だけであり、祭祀を主るのが公でなければ誰であろうか。謹んで使いの一吉飡金須彌山らを遣わし、就いて策を披いて、公を高句麗王とする。公はまさに遺った民を撫め集め、旧い緖を紹ぎ興して、永く隣国となり、事えることは昆弟と同じくせよ。敬めよ、敬めよ。
あわせて粳米二千石、甲を具えた馬一匹、綾五匹、絹と細布それぞれ十匹、綿十五称を送る。王はそれを領せよ。」
十二月、土星が月に入った。京都で地が震えた。中侍の智鏡が退いた。倭国が号を日本と更めたが、みずから日の出る所に近いというのを名としたのだという。漢城州総管の藪世が百済の(字欠)国へ行こうとしたが、その事が覚れたので、大阿飡の真珠を遣わして誅した。
夾注 1
十二□□□賁書所六云,□□,僵事同異可攷。
十二(字欠)賁書所六に(字欠)とあるので、僵の事の同異を考えることができる。
23三国史記 巻第六
三國史記,第六卷
三国史記 巻第六。