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文武王下

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 33 · 漢字 6,291字 · 朗読 25.2分

三国史記(三国時代の正史) 新羅本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1十一年 — 石城で勝ち、薛仁貴の書を受ける

十一年,春正月,拜伊飡禮元爲中侍。發兵侵百濟,戰於熊津南。幢主夫果死之。靺鞨兵來圍舌口城,不克將退,出兵撃之,斬殺三百餘人。王聞唐兵欲來捄百濟,遣大阿飡眞功、阿飡■■、■■兵守甕浦。白魚躍入■■■■■■■■■■一寸。夏四月,震興輪寺南門。六月,遣將軍竹旨等,領兵踐百濟加林城禾,遂與唐兵戰於石城,斬首五千三百級,獲百濟將軍二人、唐果毅六人。秋七月二十六日,大唐摠管薛仁貴使琳潤法師寄書曰:

十一年の春正月、伊飡の礼元を中侍に任じた。兵を発して百済を侵し、熊津の南で戦ったが、幢主の夫果が死んだ。

靺鞨の兵が来て舌口城を囲んだが克てず、まさに退こうとしたので、兵を出して撃ち、三百余人を斬り殺した。王は唐の兵が百済を救いに来ようとしていると聞き、大阿飡の真功、阿飡(字欠)を遣わし、(字欠)の兵で甕浦を守らせた。白い魚が躍り入って(字欠)一寸であった。

夏四月、興輪寺の南門に雷が震った。

六月、将軍の竹旨らを遣わして兵を率いさせ、百済の加林城の禾を踐ませ、ついに唐の兵と石城で戦って首五千三百級を斬り、百済の将軍二人、唐の果毅六人を獲た。

秋七月二十六日、大唐の総管薛仁貴が琳潤法師を使って書を寄せて言った。

2薛仁貴の書 — 兄は逆の首となり弟は忠臣となった

「行軍摠管薛仁貴致書新羅王。淸風萬里,大海三千,天命有期,行遵此境。奉承機心稍動,窮武邊城,去由也之片言,失侯生之一諾。兄爲逆首,弟作忠臣,遠分花蕚之陰,空照相思之月。興言彼此,良增歎詠。先王開府,謀猷一國,展轉百城,西畏百濟之侵,北警高麗之寇。地方千里,數處爭鋒,蠶女不及桑時,耘人失其疇序。年將耳順,楡景日侵,不懼船海之危,遠渉陽侯之險,瀝心華境,頓䫙天門,具陳孤弱,明論侵擾,情之所露,聽不勝悲。太宗文皇帝,氣雄天下,神王宇宙,若盤古之九變,同巨靈之一掌,扶傾救弱,日不暇給。哀納先君,矜收所請,輕車駿馬,美衣上藥,一日之内,頻遇殊私。亦既承恩,對揚軍事,契同魚水,明於金石。鳳鑰千重,鶴關萬戸,留連酒德,讌笑金除,叅論兵馬。

「行軍総管の薛仁貴が新羅王に書を致す。

清い風は万里、大きな海は三千、天の命に期があって、行いてこの境を遵った。承るところ、機む心が稍し動いて、辺りの城に武を窮めているという。これは由也の片言を去り、侯生の一諾を失うものである。兄は逆の首となり、弟は忠臣となって、花の蕚の陰が遠く分かれ、相い思う月だけが空しく照る。彼と此を言い興そうとすると、まことに歎き詠うことが増す。

先王は府を開いて一国を謀り猷り、百の城を展り転って、西は百済の侵しを畏れ、北は高麗の寇を警めた。地は方千里であるのに数か所で鋒を争ったので、蠶を飼う女は桑の時に及ばず、耘る人はその疇の序を失った。

年は耳順に将かろうとし、楡の景が日ごとに侵むのに、船で海を渡る危うさを懼れず、遠く陽侯の険しさを渉って、心を華の境に瀝ぎ、頭を天の門に䫙き、孤く弱いことを具に陳べ、侵し擾すことを明らかに論じた。その情の露れたところは、聴いて悲しみに勝えない。

太宗文皇帝は気が天下に雄しく、神が宇宙に王しくて、盤古の九たび変じたようであり、巨霊の一つの掌と同じであった。傾くものを扶け弱いものを救うのに日が足りなかった。先君を哀れんで納れ、請うところを矜れんで収められたので、軽い車と駿い馬、美しい衣と上き薬を、一日のうちにしばしば殊なる私として遇えた。

すでに恩を承けて軍の事を対い揚げると、契りは魚と水のごとく同じく、明らかさは金や石にまさった。鳳の鑰は千重、鶴の関は万戸、酒の徳に留まり連なり、金の除で讌り笑い、兵馬を参り論じた。

3薛仁貴の書 — 王は量を知らない

分期聲援,一朝大擧,水陸交鋒。于時,塞草分花,楡星上莢。駐蹕之戰,文帝親行,吊人恤隱,義之深也。既而,山海異形,日月廻薄,聖人下武,王亦承家。巖葛因依,聲塵共擧,洗兵刷馬,咸遵先志。數十年外,中國疲勞,帑藏時開,飛蒭日給。以蒼島之地,起黄圖之兵,貴於有益,貪於無用。豈不知止,恐失先君之信也。今強寇已淸,讎人喪國,士馬玉帛,王亦有之。當應心膂不移,中外相輔,銷鏑而化,虚室爲情,自然貽厥孫謀,以燕翼子。良史之讚,豈不休哉?今王去安然之基,厭守常之策,遠乖天命,近棄父言,侮暴天時,侵欺鄰好,一隅之地,僻左之陬,率戸徴兵,連年擧斧,孀姫輓粟,稚子屯田。守無所支,進不能拒。以得裨喪,以存補亡,大小不侔,逆順乖敍,亦由持彈而往,暗於枯井之危,捕蟬而前,不知黄雀之難,此王之不知量也。

期を分けて声もて援けたので、一朝に大いに挙がって、水と陸が鋒を交えた。そのとき塞の草は花を分け、楡の星は莢を上げた。駐蹕の戦いには文帝がみずから行き、人を吊い隠れた者を恤んだ。義の深いことであった。

やがて山と海が形を異にし、日と月が廻り薄って、聖人が武を下し、王もまた家を承いだ。巌と葛が因り依るように声と塵を共に挙げ、兵を洗い馬を刷って、みな先の志を遵った。

数十年のあいだ、中国は疲れ労れ、帑と蔵を時に開き、蒭を飛ばして日ごとに給した。蒼い島の地のために黄い図の兵を起こしたのは、有益であることを貴んだのであって、無用なものを貪ったのではない。どうして止まることを知らなかったであろうか。先君の信を失うことを恐れたのである。

いま強い寇はすでに清まり、讎の人は国を喪った。士と馬、玉と帛を、王もまた有っている。まさに心と膂が移らず、中と外が相い輔けて、鏑を銷かして化し、虚しい室を情とし、おのずからその孫に謀を貽して、以て子を燕り翼うべきである。良き史の讚が、どうして休からずにいようか。

いま王は安然の基を去り、常を守る策を厭って、遠くは天の命に乖き、近くは父の言を棄て、天の時を侮り暴って、隣の好みを侵し欺いている。一隅の地、僻左の陬で、戸ごとに兵を徴し、連年斧を挙げて、孀の姫が粟を輓き、稚い子が屯田する。守っても支えるところがなく、進んでも拒むことができない。

得るもので喪うものを裨い、存るもので亡ぶものを補おうとするが、大と小が侔しくなく、逆と順の敍が乖いている。これはまた弾を持って往きながら枯れた井の危うさに暗く、蟬を捕ろうと前に進みながら黄い雀の難を知らないのと同じである。これが王の量を知らないところである。

4薛仁貴の書 — 安勝を恃むのは謬りである

先王在日,早蒙天睠,審懷險詖之心,假以披誠之禮,從己私欲,貪天至功,苟希前惠,圖爲後逆,此先君之不長者也。必其誓河若帶,義分如霜,違君之命不忠,背父之心非孝,一身二名,何以自寧?王之父子,一朝振立,此並天情遠及,威力相持,方州連郡,遂爲盤錯。從此,遽蒙冊命,拜以稱臣。坐治經書,備詳詩禮,聞義不從,見善而輕,聽縱橫之説,煩耳目之神,忽高門之基,延鬼瞰之責。先君盛業,奉而異圖,内潰疑臣,外招強陣,豈爲智也?又高麗安勝,年尚幼冲,遺壑殘郛,生人減半,自懷去就之疑,匪堪襟帶之重。仁貴樓船,竟翼風帆,連旗巡於北岸,矜其舊日傷弓之羽,未忍加兵,恃爲外援,斯何謬也!皇帝德澤無涯,仁風遠洎,愛同日景,炤若春華。

先王の在った日、早くから天の睠みを蒙ったが、審らかにすれば険く詖った心を懐き、誠を披く礼に假って、己の私な欲に従い、天の至った功を貪り、苟しくも前の恵みを希いながら後の逆を図った。これは先君の長者でないところである。

必ずやその河が帯のようになるまでの誓いと、義の分かれは霜のようであるべきなのに、君の命に違うのは忠でなく、父の心に背くのは孝でない。一つの身に二つの名を持って、どうしてみずから寧らぎえようか。

王の父と子が一朝に振り立ったのは、みな天の情が遠く及び、威と力が相い持して、方の州と連なる郡がついに盤り錯じる根のようになったのである。これより、すぐに冊命を蒙って、拝して臣と称した。

坐して経書を治め、詩と礼を備に詳らかにしながら、義を聞いても従わず、善を見ても軽んじ、縦横の説を聴いて耳目の神を煩わし、高い門の基を忽んじて鬼が瞰る責めを延き入れている。先君の盛んな業を奉じながら異なるものを図り、内には疑う臣を潰し、外には強い陣を招く。どうして智というべきか。

また高麗の安勝は年がなお幼く冲く、遺った壑と残った郛に生ける人は半ばに減って、みずから去就の疑いを懐き、襟と帯の重さに堪えない。仁貴の楼船がついに風の帆を翼け、旗を連ねて北の岸を巡りながらも、その旧き日の弓に傷ついた羽を矜れんで、敢えて兵を加えるに忍びなかったのに、彼を恃んで外の援けとするとは、これは何という謬りであろうか。

皇帝の徳の澤は涯がなく、仁の風は遠く洎って、愛しむことは日の景と同じく、炤らすことは春の華のようである。

5薛仁貴の書 — これが王の膏肓である

遠聞消息,悄然不信,爰命下臣,來觀由委。而王不能行人相問,牛酒犒師,遂便隱甲雀陂,藏兵江口,蚑行林薄,喘息萊丘。潛生自㭀之鋒,而無相持之氣。大軍未出,游兵具行,望海浮江,魚驚鳥竄。以此形況,人事可求,沉迷猖惑,幸而知止。夫擧大事者,不貪小利,杖高節者,寄以英奇。必其鸞鳳不馴,豺狼有顧,高將軍之漢騎,李謹行之蕃兵,呉、楚棹歌,幽并惡少,四面雲合,方舟而下,依險築戍,闢地耕田,此王之膏肓也。王若勞者歌,事屈而頓申,具論所由,明陳彼此。仁貴夙陪大駕,親承委寄,録狀聞奏,事必昭蘇,何苦怱怱,自相縈擾。嗚呼,昔爲忠義,今乃逆臣,恨始吉而終凶,怨本同而末異。風高氣切,葉落年悲,憑山遠望,有傷懷抱。王以機䎸淸明,風神爽秀,歸以流謙之義,存於順迪之心,血食依時,茅苴不易,占休納祐,王之策也。嚴鋒之間,行人來往,今遣王所部僧琳潤書,佇布一二。」

遠く消息を聞いても悄然として信じられず、ここに下の臣に命じて、その由委を来て観させた。ところが王は行人をもって相い問うこともせず、牛と酒で師を犒うこともせず、ついに甲を雀の陂に隠し、兵を江の口に蔵め、林や薄で蚑い行き、萊の丘で喘ぎ息む。ひそかにみずから㭀る鋒を生じながら、相い持する気はない。

大軍はまだ出てもいないのに游ぶ兵が具に行き、海を望み江に浮かぶと魚が驚き鳥が竄れる。この形と況で人の事は求めて知れる。沉み迷い猖い惑いながらも、幸いに止まることを知るがよい。

そもそも大事を挙げる者は小さな利を貪らず、高い節を杖く者は英しく奇なるものに寄る。必ずやその鸞と鳳が馴れず、豺と狼に顧みる心があるならば、高将軍の漢の騎、李謹行の蕃の兵、呉と楚の棹の歌う者、幽と并の悪しき少年たちが四面から雲のように合わさり、舟を方べて下り、険しきに依って戍を築き、地を闢いて田を耕すであろう。これが王の膏肓である。

王がもし労れる者が歌うように、事が屈んでから頓に申べようとするなら、由るところを具に論じ、彼と此を明らかに陳べよ。仁貴は夙くから大駕に陪り、親しく委ね寄せられたことを承けているので、状を録して聞し奏せば、事は必ず昭らかに蘇るであろう。どうして苦しく怱ぎ怱ぎ、みずから相い縈い擾すのか。

ああ、昔は忠であり義であったのに、いまは逆の臣となった。始めは吉くて終わりは凶しいことが恨めしく、本は同じで末が異なることが怨めしい。風は高く気は切しく、葉は落ちて年は悲しい。山に憑って遠く望めば、懐き抱くものに傷むところがある。

王は機と䎸が清く明らかで、風と神が爽やかに秀でている。謙りを流す義に帰り、順い迪く心に存って、血の食が時に依り、茅の苴が易わらず、休きを占め祐けを納れるのが、王の策である。厳しい鋒の間にも行人は来り往くもの。いま王の部する僧の琳潤に書を遣わして、一つ二つを布べるのを佇つ。」

6大王が報せの書を送る

大王報書云:

大王が報せの書を送って言った。

7報せの書 — 太宗の約束と百済の平定

「先王貞觀二十二年,入朝,面奉太宗文皇帝恩勅。『朕今伐高麗,非有他故,憐伱新羅,攝乎兩國,毎被侵陵,靡有寧歳。山川土地,非我所貪,玉帛子女,是我所有。我平定兩國,平壤已南百濟土地、並乞伱新羅,永爲安逸。』垂以計會,賜以軍期。新羅百姓,具聞恩勅,人人畜力,家家待用。大事未終,文帝先崩,今帝踐祚,復繼前恩,頻蒙慈造,有踰往日。兄弟及兒,懷金拖紫,榮寵之極,夐古未有。粉身碎骨,望盡驅馳之用,肝腦塗原,仰報萬分之一。至顯慶五年,聖上感先志之未終,成曩日之遺緖,泛舟命將,大發船兵。先王年衰力弱,不堪行軍,追感前恩,勉強至於界首,遣某領兵,應接大軍。東西唱和,水陸倶進,船兵纔入江口,陸軍已破大賊。兩軍倶到王都,共平一國。

「先王は貞観二十二年に入朝し、面して太宗文皇帝の恩ある勅を奉りました。

『朕がいま高麗を伐つのは、他の故があるのではない。おまえの新羅が二つの国に摂まれて、つねに侵され陵がれ、寧らかな年がないのを憐れむからである。山川と土地は我が貪るところではなく、玉と帛と子と女は我がすでに有するものである。我が二つの国を平定したら、平壌以南の百済の土地をあわせておまえの新羅に与え、永く安く逸らかにさせよう。』

このように計会を垂れ、軍の期を賜りました。新羅の百姓は恩ある勅を具に聞いて、人ごとに力を畜え、家ごとに用いられるのを待ちました。

大事が終わらないうちに文帝が先に崩れ、いまの帝が祚を践んで、ふたたび前の恩を継がれたので、しばしば慈しみの造りを蒙ることが往き日より踰えました。兄弟および児は金を懐き紫を拖いて、栄と寵の極まりは夐き古にもありませんでした。身を粉にし骨を砕いても駆け馳せる用を尽くすことを望み、肝と脳を原に塗っても万分の一を仰ぎ報いようとしました。

顕慶五年にいたって、聖上は先の志の終わらなかったことを感じ、曩き日の遺った緖を成そうとされ、舟を泛かべ将に命じて、大いに船の兵を発されました。先王は年が衰え力が弱くて行軍に堪えませんでしたが、前の恩を追い感じて勉め強いて界の首まで至り、某を遣わして兵を率いさせ、大軍に応じ接しさせました。東と西が唱い和し、水と陸がともに進み、船の兵がやっと江の口に入るころ、陸の軍はすでに大きな賊を破っていました。二つの軍がともに王都に到って、ともに一国を平らげました。

8報せの書 — 福信の乱と熊津の危うさ

平定已後,先王遂共蘇大摠管平章,留漢兵一萬,新羅亦遣弟仁泰,領兵七千,同鎭熊津。大軍廻後,賊臣福信,起於江西,取集餘燼,圍逼府城,先破外柵,摠奪軍資,復攻府城,幾將陷沒。又於府城側近四處,作城圍守,於此,府城不得出入。某領兵往赴解圍,四面賊城,並皆打破,先救其危,復運粮食,遂使一萬漢兵,免虎吻之危難,留鎭餓軍,無易子而相食。至六年,福信徒黨漸多,侵取江東之地,熊津漢兵一千,往打賊徒,被賊摧破,一人不歸。自敗已來,熊津請兵,日夕相繼。新羅多有疫病,不可徴發兵馬,苦請難違,遂發兵衆,往圍周留城。賊知兵小,遂即來打,大損兵馬,失利而歸。南方諸城,一時摠叛,並屬福信,福信乘勝,復圍府城。因即熊津道斷,絶於鹽豉,即募健兒,偸道送鹽,救其乏困。

平定した後、先王はついに蘇大総管とともに平り章って、漢の兵一万を留め、新羅もまた弟の仁泰を遣わして兵七千を率いさせ、ともに熊津を鎮めさせました。

大軍が廻った後、賊の臣の福信が江の西に起こり、余った燼を取り集めて府城を囲み逼りました。まず外の柵を破って軍の資を総て奪い、ふたたび府城を攻めて、ほとんど陥り没しようとしました。また府城の側近の四か所に城を作って囲み守ったので、これによって府城は出入りできなくなりました。

某が兵を率いて往き赴いて囲みを解き、四面の賊の城をあわせてみな打ち破って、まずその危うさを救い、ふたたび糧食を運んで、ついに一万の漢の兵を虎の吻の危難から免れさせ、留まり鎮める餓えた軍に、子を易えて相い食むことがないようにしました。

六年にいたって福信の徒党が次第に多くなり、江の東の地を侵し取ったので、熊津の漢の兵一千が賊の徒を打ちに往きましたが、賊に摧き破られて一人も帰りませんでした。敗れて以来、熊津から兵を請うことが日も夕も相い継ぎました。新羅には疫病が多くて兵馬を徴発できませんでしたが、苦しく請うのに違い難く、ついに兵の衆を発して往って周留城を囲みました。賊は兵が少ないことを知って、ついにすぐに来て打ったので、兵馬を大いに損い、利を失って帰りました。

南方の諸城が一時に総て叛いて、あわせて福信に属したので、福信は勝ちに乗じて、ふたたび府城を囲みました。これによって熊津の道が断たれ、塩と豉が絶えたので、すぐに健やかな児を募り、道を偸んで塩を送って、その乏しさと困しさを救いました。

9報せの書 — 甕山城を破り、雪の路に軍糧を運ぶ

至六月,先王薨,送葬纔訖,喪服未除,不能應赴,勅旨發兵北歸。含資道摠管劉德敏等至,奉勅遣新羅供運平壤軍粮。此時,熊津使人來,具陳府城孤危。劉摠管與某平章自云:『若先送平壤軍粮,即恐熊津道斷,熊津若其道斷,留鎭漢兵,即入賊手。』劉摠管遂共某相隨,先打甕山城。既拔甕山,仍於熊津造城,開通熊津道路。至十二月,熊津粮盡。先運熊津,恐違勅旨,若送平壤,即恐熊津絶粮。所以差遣老弱,運送熊津,強健精兵,擬向平壤。熊津送粮,路上逢雪,人馬死盡,百不一歸。至龍朔二年正月,劉摠管共新羅兩河道摠管金庾信等,同送平壤軍粮。當時陰雨連月,風雪極寒,人馬凍死,所將兵粮,不能勝致。平壤大軍,又欲歸還。

六月にいたって先王が亡くなり、葬りを送り終えたばかりで喪服も除かないうちに、応じ赴くことができないでいたところ、勅旨が兵を発して北へ帰れとのことでした。含資道総管の劉徳敏らが至って勅を奉じ、新羅に平壌の軍糧を供し運ばせました。

このとき熊津から人が来て、府城が孤く危ういことを具に陳べました。劉総管は某と平り章ってみずから言いました。『もし先に平壌の軍糧を送れば、すぐに熊津の道が断たれるのを恐れる。熊津がもしその道を断たれれば、留まり鎮める漢の兵はすぐに賊の手に入る。』劉総管はついに某と相い随って、まず甕山城を打ちました。甕山を抜いてから、ついで熊津に城を造って、熊津の道路を開き通しました。

十二月にいたって熊津の糧が尽きました。先に熊津へ運べば勅旨に違うのを恐れ、もし平壌へ送れば熊津が糧を絶つのを恐れました。そのため老い弱い者を差し遣わして熊津へ運び送り、強く健やかな精兵は平壌へ向かわせました。熊津へ糧を送った者たちは路上で雪に逢い、人も馬も死に尽きて、百に一つも帰りませんでした。

龍朔二年の正月にいたって、劉総管は新羅の両河道総管金庾信らとともに平壌の軍糧を送りました。そのとき陰り雨が月を連ね、風と雪が極めて寒く、人も馬も凍え死んで、将ってきた兵糧を勝え致すことができませんでした。平壌の大軍もまた、帰り還ろうとしました。

夾注 1

一云瓮山城。

甕山城は瓮山城ともいう。

10報せの書 — 漢の兵一万を四年のあいだ衣食させた

新羅兵馬,粮盡亦廻。兵士饑寒,手足凍瘃,路上死者,不可勝數。行至瓠瀘河,高麗兵馬,尋後來趂,岸上列陣。新羅兵士,疲乏日久,恐賊遠趂,賊未渡河,先渡交刃,前鋒暫交,賊徒瓦解,遂收兵歸來。此兵到家,未經一月,熊津府城,頻索種子,前後所送,數萬餘斛。南運熊津,北供平壤,蕞小新羅,分供兩所,人力疲極,牛馬死盡,田作失時,年穀不熟,所貯倉粮,漕運並盡,新羅百姓,草根猶自不足,熊津漢兵,粮食有餘。又留鎭漢兵,離家日久,衣裳破壞,身無全褐。新羅勸課百姓,送給時服。都護劉仁願,遠鎭孤城,四面皆賊,恒被百濟侵圍,常蒙新羅解救。一萬漢兵,四年衣食新羅,仁願已下,兵士已上,皮骨雖生漢地,血肉倶是新羅。國家恩澤,雖復無涯,新羅效忠,亦足矜憫。

新羅の兵馬も糧が尽きてやはり廻りました。兵士は饑え寒がり、手足は凍え瘃れ、路上で死んだ者は数えきれませんでした。行いて瓠瀘河に至ると、高麗の兵馬が後を尋ねて趂い来て、岸の上に陣を列ねました。新羅の兵士は疲れ乏しいことが日に久しかったのですが、賊が遠くまで趂うのを恐れ、賊が河を渡らないうちに先に渡って刃を交えると、前の鋒が暫く交わっただけで賊の徒は瓦のように解け、ついに兵を収めて帰って来ました。

この兵が家に到って一月も経たないうちに、熊津の府城がしばしば種子を索めたので、前後に送ったものは数万余斛です。南へ熊津に運び、北へ平壌に供して、蕞い小さな新羅が二か所に分けて供するので、人の力は疲れ極まり、牛と馬は死に尽きました。田の作りは時を失い、年の穀は熟さず、貯えておいた倉の糧まで漕ぎ運んであわせて尽きました。新羅の百姓は草の根さえなお足りないのに、熊津の漢の兵は糧食に余りがありました。

また留まり鎮める漢の兵は家を離れて日が久しく、衣裳が破れ壊れて身に全い褐もなかったので、新羅は百姓に勧め課して、時に合う服を送り給しました。都護の劉仁願は遠く孤い城を鎮め、四面はみな賊で、つねに百済の侵し囲むのを被り、つねに新羅の解き救うのを蒙りました。一万の漢の兵が四年のあいだ新羅に衣食したので、仁願以下、兵士以上、皮と骨は漢の地に生まれたとはいえ、血と肉はともに新羅のものです。国家の恩澤はふたたび涯がないとはいえ、新羅が忠を効したことも、また矜れみ憫むに足るでしょう。

11報せの書 — 周留城を破り、熊嶺で盟う

至龍朔三年,摠管孫仁師領兵來救府城,新羅兵馬,亦發同征,行至周留城下。此時,倭國船兵,來助百濟,倭船千艘,停在白沙,百濟精騎,岸上守船。新羅驍騎,爲漢前鋒,先破岸陣,周留失膽,遂即降下。南方已定,廻軍北伐,任存一城,執迷不降。兩軍併力,共打一城,固守拒捍,不能打得。新羅即欲廻還,杜大夫云:『準勅,既平已後,共相盟會,任存一城,雖未降下,即可共相盟誓。』新羅以爲。準勅,『旣平。』已後,共相盟會,任存未降,不可以爲『旣平。』又且百濟,姦詐百端,反覆不恒,今雖共相盟會,於後恐有噬臍之患,奏請停盟。至麟德元年,復降嚴勅,責不盟誓,即遣人於熊嶺,築壇共相盟會。仍於盟處,遂爲兩界。盟會之事,雖非所願,不敢違勅。

龍朔三年にいたって、総管の孫仁師が兵を率いて府城を救いに来たので、新羅の兵馬もまた発って同じく征き、行いて周留城の下に至りました。このとき倭国の船の兵が百済を助けに来て、倭の船千艘が白沙に停まり、百済の精しい騎が岸の上で船を守りました。新羅の驍い騎が漢の前鋒となって、まず岸の陣を破ったので、周留は膽を失い、ついにすぐに降り下りました。

南方がすでに定まったので軍を廻して北を伐ちましたが、任存の一城だけが迷いを執って降りませんでした。二つの軍が力を併せて一つの城をともに打ちましたが、固く守り拒み捍いで、打ち得ることができませんでした。新羅はすぐに廻り還ろうとしましたが、杜大夫が言いました。『勅に準ずれば、すでに平らげた後にともに相い盟い会せとあるのだから、任存の一城がまだ降り下らなくても、すぐにともに相い盟い誓うことができる。』

新羅はこう考えました。勅に準ずれば『すでに平らげた』後にともに相い盟い会せとあるのに、任存が降らないのだから『すでに平らげた』とすることはできません。また百済は姦しく詐ることが百端で、反り覆って恒がないので、いまともに相い盟い会しても、後に臍を噬む患いがあるのを恐れると、盟いを停めることを奏し請いました。

麟徳元年にいたって、ふたたび厳しい勅を降して盟い誓わないことを責められたので、すぐに人を熊嶺に遣わして壇を築き、ともに相い盟い会しました。ついで盟った処を、ついに二つの界としました。盟い会することは願うところではありませんでしたが、敢えて勅に違いませんでした。

12報せの書 — 就利山の盟いと平壌の戦い

又於就利山築壇,對勅使劉仁願,歃血相盟,山河爲誓,畫界立封,永爲疆界,百姓居住,各營産業。至乾封二年,聞大摠管英國公征遼,某往漢城州,遣兵集於界首。新羅兵馬,不可獨入,先遣細作三度,船相次發遣,覘候大軍。細作廻來,並云:『大軍未到平壤。』且打高麗七重城,開通道路,佇待大軍來至。其城垂垂欲破,英公使人江深來云。『奉大摠管處分,新羅兵馬不須打城,早赴平壤,即給兵粮。』遣令赴會,行至水谷城,聞大軍已廻,新羅兵馬,遂即抽來。至乾封三年,遣大監金寶嘉入海,取英公進止。奉處分,新羅兵馬,赴集平壤。至五月,劉右相來,發新羅兵馬,同赴平壤。某亦往漢城州,檢校兵馬。此時,蕃、漢諸軍,摠集虵水,男建出兵,欲決一戰。

また就利山に壇を築き、勅使の劉仁願に対して血を歃り相い盟って、山と河を誓いとし、界を画き封を立てて永く疆の界とし、百姓は居り住んで、各々産業を営みました。

乾封二年にいたって、大総管の英国公が遼を征すると聞き、某は漢城州に往って、兵を遣わして界の首に集めました。新羅の兵馬は独りで入ることができないので、まず細作を三度遣わし、船を相い次いで発ち遣わして、大軍を覘い候わせました。細作が廻り来て、あわせて言いました。『大軍はまだ平壌に到っておりません。』

また高麗の七重城を打って道路を開き通し、大軍の来り至るのを佇ち待ちました。その城が垂れ垂れと破れようとするとき、英公が人の江深を遣わして来て言いました。『大総管の処分を奉ずるに、新羅の兵馬は城を打つに須ばず、早く平壌に赴けば、すぐに兵糧を給す、とのことである。』往って会せとのことなので、行いて水谷城に至ったところ、大軍がすでに廻ったと聞き、新羅の兵馬もついにすぐに抽いて来ました。

乾封三年にいたって、大監の金宝嘉を海に遣わして、英公の進み止まるところを取らせました。処分を奉ずるに、新羅の兵馬は平壌に赴き集まれとのことでした。五月にいたって劉右相が来て新羅の兵馬を発し、ともに平壌に赴きました。某もまた漢城州に往って兵馬を検め校べました。このとき蕃と漢の諸軍が総て虵水に集まると、男建が兵を出して一戦を決しようとしました。

13報せの書 — 大功を立てて功がないと言われる

新羅兵馬,獨爲前鋒,先破大陣,平壤城中,挫鋒縮氣。於後,英公更取新羅驍騎五百人,先入城門,遂破平壤,克成大功。於此新羅兵士並云:『自征伐已經九年,人力殫盡,終始平兩國,累代長望,今日乃成,必當國蒙盡忠之恩,人受効力之賞。』英公漏云:『新羅前失軍期,亦須計定。』新羅兵士得聞此語,更增怕懼。又立功軍將,並録入朝,已到京下,即云:『今新羅並無功。』夫軍將歸來,百姓更加怕懼。又卑列之城,本是新羅,高麗打得三十餘年,新羅還得此城,移配百姓,置官守捉,又取此城,還與高麗。且新羅自平百濟,迄定高麗,盡忠効力,不負國家,未知何罪,一朝遺棄。雖有如此寃枉,終無反叛之心。至總章元年,百濟於盟會處,移封易標,侵取田地,詃我奴婢,誘我百姓,隱藏内地,頻從索取,至竟不還。

新羅の兵馬が独り前鋒となって、まず大きな陣を破ったので、平壌城の中は鋒を挫かれ気を縮めました。後に英公はさらに新羅の驍い騎五百人を取って、まず城門に入らせ、ついに平壌を破って大きな功を克く成しました。

ここに新羅の兵士はあわせて言いました。『征り伐ってからすでに九年が経ち、人の力は殫き尽きたが、ついに始めて二つの国を平らげた。累代の長い望みが今日ようやく成ったのだから、必ず国は忠を尽くした恩を蒙り、人は力を効した賞を受けるであろう。』

ところが英公は漏らして言いました。『新羅は前に軍の期を失ったので、それもまた計り定めねばならぬ。』新羅の兵士はこの語を聞き得て、さらに怕れ懼れることが増しました。また功を立てた軍の将をあわせて録して入朝させ、すでに京の下に到っていたのに、すぐに『いま新羅はあわせて功がない』と言われました。そもそも軍の将が帰り来ると、百姓はさらに怕れ懼れることが加わりました。

また卑列の城はもともと新羅のもので、高麗が打ち得て三十余年、新羅がこの城を還し得て、百姓を移し配り、官を置いて守り捉えさせたのに、またこの城を取って高麗に還し与えられました。しかも新羅は百済を平らげてから高麗を定めるまで、忠を尽くし力を効して国家に負かなかったのに、何の罪とも知らぬまま、一朝に遺て棄てられました。このような寃しさ枉しさがあっても、ついに反り叛く心はありませんでした。

総章元年にいたって、百済が盟い会した処で封を移し標を易えて田地を侵し取り、我が奴婢を詃き、我が百姓を誘って内の地に隠し蔵しました。しばしば従って索め取ろうとしましたが、ついに還しませんでした。

14報せの書 — 百済が新羅を打とうとするという噂

又通消息云:『國家修理船艘,外託征伐倭國,其實欲打新羅。』百姓聞之,驚懼不安。又將百濟婦女,嫁與新羅漢城都督朴都儒,同謀合計,偸取新羅兵器,襲打一州之地,賴得事覺,即斬都儒,所謀不成。至咸亨元年六月,高麗謀叛,摠殺漢官。新羅即欲發兵,先報熊津云:『高麗既叛,不可不伐,彼此倶是帝臣,理須同討凶賊,發兵之事,須有平章,請遣官人來此,共相計會。』百濟司馬禰軍來此,遂共平章云:『發兵已後,即恐彼此相疑,宜令兩處官人,互相交質。』即遣金儒敦及府城百濟主簿首彌、長貴等,向府平論交質之事。百濟雖許交質,城中仍集兵馬,到彼城下,夜即來打。至七月,入朝使金欽純等至,將畫界地,案圖披檢百濟舊地,摠令割還。黄河未帶,太山未礪,三四年間,一與一奪,新羅百姓,皆失本望,並云:『新羅、百濟累代深讎,今見百濟形況,別當自立一國,百年已後,子孫必見呑滅。

また消息を通じて『国家が船艘を修め理めているのは、外には倭国を征り伐つと託けているが、その実は新羅を打とうとするものだ』と言ったので、百姓はこれを聞いて驚き懼れて安んじませんでした。

また百済の婦女を新羅の漢城都督朴都儒に嫁がせ、ともに謀り計を合わせて、新羅の兵器を偸み取り、一州の地を襲い打とうとしましたが、頼みにも事が覚れて、すぐに都儒を斬ったので、謀ったところは成りませんでした。

咸亨元年の六月にいたって、高麗が叛を謀って漢の官を総て殺しました。新羅はすぐに兵を発そうとして、まず熊津に報せて言いました。『高麗がすでに叛いたのだから、伐たないわけにはいかぬ。彼も此もともに帝の臣なのだから、理として凶しい賊を同じく討たねばならぬ。兵を発する事はぜひ平り章る必要があるので、官人をここに遣わして、ともに相い計り会せていただきたい。』

百済の司馬禰軍がここに来て、ついにともに平り章って言いました。『兵を発した後は、すぐに彼も此も相い疑うのを恐れる。両処の官人が互いに相い質を交えるのがよい。』すぐに金儒敦および府城の百済主簿の首彌・長貴らを遣わし、府に向かって質を交える事を平り論じさせました。百済は質を交えることを許したものの、城の中ではそのまま兵馬を集めており、その城の下に到ると、夜すぐに来て打ちました。

七月にいたって、入朝の使いの金欽純らが至り、まさに界の地を画こうとして、図を案じ百済の旧い地を披き検めて、総て割き還させました。黄河はまだ帯とならず、太山はまだ礪とならないのに、三四年のあいだに一たび与え一たび奪うので、新羅の百姓はみな本の望みを失って、あわせて言いました。『新羅と百済は累代の深い讎である。いま百済の形と況を見れば、別に自分で一つの国を立てることになろう。百年の後には、子孫が必ず呑み滅ぼされるのを見るであろう。

15報せの書 — 譖りを被り、寃しさを奏する

新羅既是國家之州,不可分爲兩國。願爲一家,長無後患。』去年九月,具録事狀,發使奏聞,被漂却來。更發遣使,亦不能達。於後,風寒浪急,未及聞奏。百濟構架奏云:『新羅反叛。』新羅前失貴臣之志,後被百濟之譖,進退見咎,未申忠欵。似是之讒,日經聖聽,不貳之忠,曾無一達。使人琳潤至辱書,仰承摠管,犯冒風波,遠來海外,理須發使郊迎,致其牛酒,遠居異城,未獲致禮,時闕迎接,請不爲怪。披讀摠管來書,專以新羅已爲叛逆,既非本心,惕然驚懼。數自功夫,恐被斯辱之譏,緘口受責,亦入不弔之數,今略陳寃枉,具録無叛。國家不降一介之使,垂問元由。即遣數萬之衆,傾覆巢穴,樓船滿於滄海,艫舳連於江口,數彼熊津,伐此新羅。嗚呼。兩國未定平,蒙指蹤之驅馳,野獸今盡,反見烹宰之侵逼。

新羅はすでに国家の州なのだから、分かれて二つの国となるわけにはいかぬ。願わくは一つの家となって、長く後の患いがないようにしてほしい。』

去年の九月、事の状を具に録して使いを発して奏し聞かせようとしましたが、漂わされて却って来ました。さらに使いを発し遣わしましたが、それもまた達することができませんでした。その後は風が寒く浪が急で、聞し奏するに及びませんでした。百済は構え架けて『新羅が反り叛いた』と奏しました。

新羅は前には貴い臣の志を失い、後には百済の譖りを被って、進んでも退いても咎を見られ、忠の欵を申べられませんでした。似て是なるような讒りは日ごとに聖なる聴に経るのに、二つならぬ忠は、かつて一つも達しませんでした。

使いの人の琳潤が至って書を辱なくも受けましたので、仰いで総管が風と波を犯し冒って遠く海の外に来られたことを承りました。理としては使いを発して郊で迎え、その牛と酒を致すべきですが、遠く異なる城に居って礼を致すことを獲ず、時に迎え接えることを闕きました。怪しまれないようにお願いします。

総管が来された書を披き読むと、もっぱら新羅をすでに叛き逆いたものとされています。これは本の心ではないので、惕然として驚き懼れました。みずから功夫を数えればこの辱めの譏りを被ることを恐れ、口を緘じて責めを受ければそれもまた弔われない数に入りますので、いま寃しさ枉しさを略し陳べ、叛きのないことを具に録します。

国家は一介の使いも降して、その元の由を垂れ問われないまま、すぐに数万の衆を遣わして巣と穴を傾け覆そうとされます。楼船は滄い海に満ち、艫と舳は江の口に連なって、あの熊津を数えてこの新羅を伐とうとされます。

ああ。二つの国がまだ定まり平らがないうちは、蹤を指されるままに駆け馳せる用を蒙りましたが、野の獣がいま尽きると、かえって烹られ宰かれる侵し逼りを見ます。

16報せの書 — 審らかに量って奏してくれるよう請う

賊殘百濟,反蒙雍齒之賞,殉漢新羅,已見丁公之誅。大陽之曜,雖不廻光,葵藿本心,猶懷向日。摠管禀英雄之秀氣,抱將相之高材,七德兼備,九流渉獵,恭行天罰,濫加非罪。天兵未出,先問元由。縁此來書,敢陳不叛,請摠管審自商量,具狀申奏。林州大都督左衛大將軍開府儀同三司上柱國新羅王金法敏白。」

賊として残った百済はかえって雍歯の賞を蒙り、漢に殉じた新羅はすでに丁公の誅を見ます。大きな陽の曜りがたとえ光を廻さなくても、葵と藿の本の心はなお日に向かうことを懐きます。

総管は英雄の秀でた気を禀け、将と相の高い材を抱き、七つの徳を兼ね備え、九つの流を渉り猟られました。天の罰を恭しく行われるにしても、罪でないものに濫りに加えないでください。天の兵が出る前に、まず元の由を問うてください。

この来された書によって、敢えて叛いていないことを陳べます。総管は審らかにみずから商い量って、状を具に申し奏してくださるようお願いします。

鶏林州大都督左衛大将軍開府儀同三司上柱国新羅王金法敏、白す。」

17十一年 — 唐の漕船を撃つ

置所夫里州,以阿飡眞王爲都督。九月,唐將軍高侃等,率蕃兵四萬到平壤,深溝高壘侵帶方。冬十月六日,撃唐漕船七十餘艘,捉郞將鉗耳大侯、士卒百餘人。其淪沒死者,不可勝數。級飡當千功第一,授位沙飡。

所夫里州を置き、阿飡の真王を都督とした。

九月、唐の将軍高侃らが蕃の兵四万を率いて平壌に到り、溝を深くし壘を高くして帯方を侵した。

冬十月六日、唐の漕船七十余艘を撃ち、郎将の鉗耳大侯と士卒百余人を捉えた。その淪み没して死んだ者は数えきれなかった。級飡の当千の功が第一だったので、沙飡の位を授けた。

18十二年 — 石門で敗れ、唐に罪を乞う

十二年,春正月,王遣將攻百濟古省城,克之。二月,攻百濟加林城,不克。秋七月,唐將高侃率兵一萬,李謹行率兵三萬,一時至平壤,作八營留屯。八月,攻韓始城、馬邑城,克之,進兵距白水城五百許歩作營,我兵與高句麗兵逆戰,斬首數千級。高侃等退,追至石門戰之,我兵敗績,大阿飡曉川、沙飡義文、山世、阿飡能申、豆善、一吉飡安那含、良臣等死之。築漢山州晝長城,周四千三百六十歩。九月,彗星七出北方。王以向者百濟往訴於唐,請兵侵我,事勢急迫,不獲申奏,出兵討之。由是,獲罪大朝,遂遣級飡原川,奈麻邊山,及所留兵船郞將鉗耳大侯、萊州司馬王藝、本烈州長史王益、熊州都督府司馬禰軍、曾山司馬法聰、軍士一百七十人,上表乞罪曰:「臣某死罪謹言,昔臣危急,事若倒懸,遠蒙拯救,得免屠滅。

十二年の春正月、王は将を遣わして百済の古省城を攻め、これに克った。二月、百済の加林城を攻めたが克たなかった。

秋七月、唐の将の高侃が兵一万を、李謹行が兵三万を率いて、一時に平壌に至り、八つの営を作って留まり屯した。八月、韓始城と馬邑城を攻めてこれに克ち、兵を進めて白水城から五百ばかりの所に営を作った。新羅の兵は高句麗の兵とともに迎え戦い、首数千級を斬った。高侃らが退いたので追って石門に至って戦ったが、新羅の兵は敗績し、大阿飡の暁川、沙飡の義文・山世、阿飡の能申・豆善、一吉飡の安那含・良臣らが死んだ。

漢山州に晝長城を築いたが、周りは四千三百六十歩であった。九月、彗星が北の方に七たび出た。

王は、さきに百済が唐に往って訴え、兵を請うて新羅を侵したので、事の勢いが急に迫って申し奏することを獲ないまま兵を出して討った。これによって大朝に罪を獲たので、ついに級飡の原川、奈麻の邊山、および留めておいた兵船の郎将鉗耳大侯、莱州司馬の王藝、本烈州長史の王益、熊州都督府司馬の禰軍、曾山司馬の法聡、軍士一百七十人を遣わし、表を上げて罪を乞うて言った。

「臣某、死罪を謹んで言います。昔、臣が危急で、事が倒れ懸かるようであったとき、遠く拯い救われるのを蒙って、屠られ滅ぼされることを免れました。

19十二年 — 罪を乞う表文

粉身糜骨,未足上報鴻恩,碎首灰塵,何能仰酬慈造。然深讐百濟,逼近臣蕃,告引天兵,滅臣雪恥。臣忙破滅,自欲求存,枉被凶逆之名,遂入難赦之罪。臣恐事意未申,先從刑戮,生爲逆命之臣,死爲背恩之鬼,謹録事狀,冒死奏聞,伏願少垂神聽,炤審元由。臣前代已來,朝貢不絶,近爲百濟,再虧職貢,遂使聖朝出言,命將討臣之罪,死有餘刑。南山之竹,不足書臣之罪,褒斜之林,未足作臣之械。瀦池宗社,屠裂臣身,事聽勅裁,甘心受戮。臣櫬轝在側,泥首未乾,泣血待朝,伏聽刑命。伏惟,皇帝陛下,明同日月,容光並蒙曲炤,德合乾坤,動植咸被亭毒,好生之德,遠被昆蟲,惡殺之仁,爰流翔泳。儻降服捨之宥,賜全腰領之恩,雖死之年,猶生之日。非所希冀,敢陳所懷,不勝伏劒之志。

身を粉にし骨を糜しても鴻き恩に上り報いるに足らず、首を砕いて灰と塵にしても、どうして慈しみの造りに仰ぎ酬えられましょう。

しかし深い讎の百済が臣の蕃に逼り近づき、天の兵を告げ引いて、臣を滅ぼし恥を雪ごうとしました。臣は破れ滅ぼされることに忙しく、みずから存らえることを求めたばかりに、凶しく逆いたという名を枉げて被り、ついに赦され難い罪に入りました。

臣は事の意を申べる前に先に刑と戮に従い、生きては命に逆いた臣となり、死しては恩に背いた鬼となることを恐れます。謹んで事の状を録し、死を冒して奏し聞かせますので、伏して願わくは少しく神なる聴を垂れて、その元の由を炤らし審らかにしてください。

臣は前の代以来、朝貢を絶やさなかったのに、近ごろ百済のために二たび職の貢を虧いて、ついに聖なる朝に言を出させ、将に命じて臣の罪を討たせることになりました。死しても余りある刑です。南山の竹でも臣の罪を書き尽くすに足らず、褒斜の林でも臣の械を作るに足りません。宗と社を瀦と池にし、臣の身を屠り裂かれても、事は勅の裁きを聴いて、甘んじて戮を受けます。

臣は櫬と轝を側に在らせ、泥をつけた首もまだ乾かぬまま、血を泣きながら朝を待ち、伏して刑の命を聴きます。

伏して惟うに、皇帝陛下は明らかさが日と月と同じで、光を容れるものはあわせて曲げ炤らされるのを蒙り、徳は乾と坤に合って、動くものも植えられたものもみな亭め毒める恵みを被ります。生を好む徳は遠く昆虫にまで被り、殺を悪む仁はここに翔ぶものや泳ぐものにまで流れます。もし服を捨てて赦す宥しを降され、腰と領を全うする恩を賜るなら、たとえ死ぬ年であっても、なお生きる日と同じです。

希い冀うところではありませんが、敢えて懐くところを陳べ、剣に伏そうとする志に勝えません。

20十二年 — 原川を遣わして表を上げる

謹遣原川等,拜表謝罪,伏聽勅旨。某頓首頓首,死罪死罪。」兼進貢銀三萬三千五百分,銅三萬三千分,針四百枚,牛黄百二十分,金百二十分,四十升綜布六匹,三十升布六十匹。是歳,穀貴,人飢。

謹んで原川らを遣わして表を拝し罪を謝し、伏して勅旨を聴きます。某、頓首頓首、死罪死罪。」

あわせて銀三万三千五百分、銅三万三千分、針四百枚、牛黄百二十分、金百二十分、四十升の綜布六匹、三十升の布六十匹を進め貢いだ。この年、穀が貴くなって人が飢えた。

21十三年 — 金庾信が亡くなる

十三年,春正月,大星隕皇龍寺,在城中間。拜強首爲沙飡,歳賜租二百石。二月,增築西兄山城。夏六月,虎入大宮庭,殺之。秋七月一日,庾信卒。阿飡大吐謀叛付唐,事泄伏誅,妻孥充賤。八月,以波珍飡天光爲中侍。增築沙熱山城。九月,築國原城、北兄山城、召文城、耳山城、首若州走壤城、達含郡主岑城、居烈州萬興寺山城、歃良州骨爭峴城。王遣大阿飡徹川等,領兵船一百艘,鎭西海。唐兵與靺鞨、契丹兵來侵北邊,凡九戰,我兵克之,斬首二千餘級。唐兵溺瓠瀘、王逢二河,死者不可勝計。冬,唐兵攻高句麗牛岑城,降之。契丹、靺鞨兵攻大楊城、童子城,滅之。始置外司正,州二人、郡一人。初,太宗王滅百濟,罷戍兵,至是復置。

十三年の春正月、大きな星が皇龍寺に隕ちたが、城の中の間であった。強首を沙飡に任じ、年ごとに租二百石を賜った。二月、西兄山城を増し築いた。

夏六月、虎が大宮の庭に入ったので、殺した。

秋七月一日、庾信が亡くなった。阿飡の大吐が叛を謀って唐に付こうとしたが、事が泄れて誅に伏し、妻子は賤に充てられた。

八月、波珍飡の天光を中侍とした。沙熱山城を増し築いた。

九月、国原城・北兄山城・召文城・耳山城、首若州の走壌城、達含郡の主岑城、居烈州の万興寺山城、歃良州の骨争峴城を築いた。王は大阿飡の徹川らを遣わし、兵船一百艘を率いて西海を鎮めさせた。

唐の兵が靺鞨・契丹の兵とともに北の辺りを侵し、およそ九たび戦ったが、新羅の兵が克って首二千余級を斬った。唐の兵が瓠瀘・王逢の二つの河に溺れて死んだ者は数えきれなかった。

冬、唐の兵が高句麗の牛岑城を攻めてこれを降した。契丹・靺鞨の兵が大楊城と童子城を攻めて、これを滅ぼした。

はじめて外司正を置き、州に二人、郡に一人とした。はじめ太宗王が百済を滅ぼして戍の兵を罷めたが、このときにいたってふたたび置いた。

夾注 2

古薍長城

国原城は古の薍長城である。

一名迭巖城。

一名を迭巖城という。

22十四年 — 安勝を報徳王に封じる

十四年,春正月,入唐宿衛大奈麻德福傳,學曆術還,改用新曆法。王納高句麗叛衆。又據百濟故地,使人守之。唐高宗大怒,詔削王官爵,王弟右驍衛員外大將軍臨海郡公仁問在京師,立以爲新羅王,使歸國,以左庶子同中書門下三品劉仁軌,爲雞林道大摠管,衛尉卿李弼、右領軍大將軍李謹行副之,發兵來討。二月,宮内穿池造山,種花草,養珍禽奇獸。秋七月,大風毀皇龍寺佛殿。八月,大閲於西兄山下。九月,命義安法師爲大書省,封安勝爲報德王。十年,封安勝高句麗王,今再封,不知報德之言,若歸命等耶,或地名耶。幸靈廟寺前路閲兵,觀阿飡薛秀眞六陣兵法。

十四年の春正月、唐に入って宿衛していた大奈麻の徳福伝が暦術を学んで帰ったので、新しい暦法に改め用いた。

王が高句麗の叛いた衆を納れ、また百済の故い地に拠って人を遣わして守らせた。唐の高宗は大いに怒り、詔して王の官爵を削り、京師にいた王の弟の右驍衛員外大将軍臨海郡公仁問を立てて新羅王とし、国に帰らせた。左庶子同中書門下三品の劉仁軌を鶏林道大総管とし、衛尉卿の李弼、右領軍大将軍の李謹行をその副として、兵を発して討ちに来させた。

二月、宮の内に池を穿ち山を造って、花と草を種え、珍しい禽と奇しい獣を養った。

秋七月、大風が皇龍寺の仏殿を毀った。八月、西兄山の下で大いに閲した。

九月、義安法師を大書省に命じ、安勝を報徳王に封じた。十年に安勝を高句麗王に封じたのに、いまふたたび封じたので、「報徳」という言葉が帰命などと同じなのか、あるいは地の名なのかは分からない。霊廟寺の前の路に行幸して兵を閲し、阿飡薛秀真の六陣の兵法を観た。

23十五年 — 買肖城で二十万を退ける

十五年,春正月,以銅鑄百司及州郡印,頒之。二月,劉仁軌破我兵於七重城。仁軌引兵還,詔以李謹行爲安東鎭撫大使,以經略之。王乃遣使,入貢且謝罪,帝赦之,復王官爵。金仁問中路而還,改封臨海郡公。然多取百濟地,遂抵高句麗南境爲州郡。聞唐兵與契丹、靺鞨兵來侵,出九軍,待之。秋九月,薛仁貴以宿衛學生風訓之父金眞珠,伏誅於本國,引風訓爲鄕導,來攻泉城。我將軍文訓等,逆戰勝之,斬首一千四百級,取兵船四十艘。仁貴解圍退走,得戰馬一千匹。二十九日,李謹行率兵二十萬,屯買肖城,我軍撃走之,得戰馬三萬三百八十匹,其餘兵仗,稱是。遣使入唐貢方物。縁安北河設關城,又築鐵關城。靺鞨入阿達城劫掠,城主素那逆戰死之。唐兵與契丹、靺鞨兵來,圍七重城,不克。

十五年の春正月、銅をもって百司および州郡の印を鋳て、これを頒けた。

二月、劉仁軌が新羅の兵を七重城で破った。仁軌が兵を引いて還ると、詔して李謹行を安東鎮撫大使とし、これを経略させた。王はそこで使いを遣わして入り貢ぎ、かつ罪を謝したので、帝はこれを赦し、王の官爵を復した。金仁問は中路から還り、臨海郡公に改め封じられた。しかし百済の地を多く取って、ついに高句麗の南の境にいたるまでを州郡とした。

唐の兵が契丹・靺鞨の兵とともに侵しに来ると聞いて、九つの軍を出して待った。

秋九月、薛仁貴は宿衛学生の風訓の父の金真珠が本国で誅に伏したことから、風訓を郷導に引き入れ、泉城を攻めに来た。新羅の将軍の文訓らが迎え戦ってこれに勝ち、首一千四百級を斬り、兵船四十艘を取った。仁貴は囲みを解いて退き走ったので、戦馬一千匹を得た。

二十九日、李謹行が兵二十万を率いて買肖城に屯したが、新羅の軍が撃ち走らせ、戦馬三万三百八十匹を得て、その余りの兵仗もこれに称った。

使いを遣わして唐に入り、土地の産物を貢いだ。安北河に縁って関城を設け、また鉄関城を築いた。

靺鞨が阿達城に入って劫め掠めたので、城主の素那が迎え戦って死んだ。唐の兵が契丹・靺鞨の兵とともに来て七重城を囲んだが、克たなかった。

24十五年 — 十八たび戦ってみな勝つ

小守儒冬死之。靺鞨又圍赤木城,滅之,縣令脱起率百姓,拒之,力竭倶死。唐兵又圍石峴城,拔之,縣令仙伯、悉毛等,力戰死之。又我兵與唐兵大小十八戰,皆勝之,斬首六千四十七級,得戰馬二百匹。

小守の儒冬が死んだ。靺鞨がまた赤木城を囲んでこれを滅ぼし、県令の脱起が百姓を率いて拒んだが、力が竭きてともに死んだ。唐の兵がまた石峴城を囲んでこれを抜き、県令の仙伯、悉毛らが力戦して死んだ。また新羅の兵は唐の兵と大小十八たび戦ってみなこれに勝ち、首六千四十七級を斬り、戦馬二百匹を得た。

25十六年 — 伎伐浦で勝つ

十六年,春二月,高僧義相奉旨,創浮石寺。秋七月,彗星出北河、積水之間,長六七許歩。唐兵來攻道臨城,拔之,縣令居尸知死之,作壤宮。冬十一月,沙飡施得領船兵,與薛仁貴戰於所夫里州伎伐浦,敗績,又進大小二十二戰,克之,斬首四千餘級。宰相陳純乞致仕,不允,賜几杖。

十六年の春二月、高僧の義相が旨を奉じて浮石寺を創てた。

秋七月、彗星が北河と積水の間に出たが、長さは六、七歩ばかりであった。唐の兵が道臨城を攻めに来てこれを抜き、県令の居尸知が死んだ。作壌宮を造った。

冬十一月、沙飡の施得が船の兵を率い、薛仁貴と所夫里州の伎伐浦で戦って敗績したが、さらに進んで大小二十二たび戦ってこれに克ち、首四千余級を斬った。

宰相の陳純が仕を致すことを乞うたが許さず、几と杖を賜った。

26十七年 — 左司禄館を置く

十七年,春三月,觀射於講武殿南門。始置左司祿館。所夫里州獻白鷹。

十七年の春三月、講武殿の南門で射を観た。はじめて左司禄館を置いた。所夫里州が白い鷹を献じた。

27十八年 — 船府令を置き、北原小京を置く

十八年,春正月,置船府令一員,掌船楫事。加左右理方府卿各一員。置北原小京,以大阿飡呉起守之。三月,拜大阿飡春長爲中侍。夏四月,阿天訓爲武珍州都督。五月,北原獻異鳥,羽翮有文,脛有毛。

十八年の春正月、船府令一人を置いて、船と楫の事を掌らせた。左右理方府卿をそれぞれ一人加えた。北原小京を置き、大阿飡の呉起に守らせた。

三月、大阿飡の春長を中侍に任じた。

夏四月、阿飡の天訓を武珍州都督とした。

五月、北原が奇しい鳥を献じたが、羽と翮に文があり、脛に毛があった。

28十九年 — 四天王寺が成る

十九年,春正月,中侍春長病免,舒弗邯天存爲中侍。二月,發使略耽羅國。重修宮闕,頗極壯麗。夏四月,熒惑守羽林。六月,太白入月,流星犯參大星。秋八月,太白入月。角干天存卒。創造東宮,始定内外諸門額號。四天王寺成。增築南山城。

十九年の春正月、中侍の春長が病で免じられたので、舒弗邯の天存を中侍とした。二月、使いを発して耽羅国を略した。宮闕を重ねて修めたが、すこぶる壮しく麗しさを極めた。

夏四月、熒惑が羽林を守った。六月、太白が月に入り、流星が参の大星を犯した。

秋八月、太白が月に入った。角干の天存が亡くなった。東宮を創め造り、はじめて内外の諸門の額の号を定めた。四天王寺が成った。南山城を増し築いた。

29二十年 — 安勝に妹を妻せる

二十年,春二月,拜伊飡金軍官爲上大等。三月,以金銀器及雜綵百段,賜報德王安勝,遂以王妹妻之。下敎書曰:「人倫之本,夫婦攸先。王化之基,繼嗣爲主。王鵲巢位曠,雞鳴在心。不可久空内輔之儀,永闕起家之業。今良辰吉日,率順舊章,以寡人妹女爲伉儷,王宜共敦心義,式奉宗祧,克茂子孫,永豐盤石,豈不盛歟,豈不美歟?」夏五月,高句麗王使大將軍延武等,上表曰:「臣安勝言,大阿飡金官長至,奉宣敎旨,并賜敎書,以外生公,爲下邑内主,仍以四月十五日至此,喜懼交懷,罔知攸寘。竊以帝女降嬀,王姫適齊,本揚聖德,匪關凡才。臣本庸流,行能無算,幸逢昌運,沐浴聖化,毎荷殊澤,欲報無堦。重蒙天寵,降此姻親,遂即穠華表慶,肅雝成德。

二十年の春二月、伊飡の金軍官を上大等に任じた。

三月、金と銀の器および雑彩百段を報徳王の安勝に賜り、ついに王の妹をこれに妻せた。教書を下して言った。

「人倫の本は夫婦が先であり、王化の基は嗣を継ぐことを主とする。王は鵲の巣の位が曠しく、鶏の鳴きが心に在る。内に輔ける儀を久しく空しくしておき、家を起こす業を永く闕くことはできない。いま良い辰、吉い日に、旧い章に率い順って、寡人の妹女を伉儷とする。王はまさにともに心と義を敦くして、宗祧を式り奉り、子孫を克く茂らせ、永く盤石のように豊かにせよ。どうして盛んでないことがあろうか、どうして美しくないことがあろうか。」

夏五月、高句麗王が大将軍の延武らを遣わして表を上げて言った。

「臣安勝が言います。大阿飡の金官長が至って教旨を宣べ奉り、あわせて教書を賜って、外生公をもって下邑の内主とされ、ついで四月十五日にここに至りました。喜びと懼れが交わり懐かれて、置くところを知りません。

ひそかに思いますに、帝の女が嬀に降り、王の姫が斉に適いたのは、もともと聖なる徳を揚げたのであって、凡しい才に関わるものではありません。臣はもともと庸しい流れで、行いも能も数えるほどのものがないのに、幸いに昌んな運に逢って聖なる化に沐浴し、つねに殊なる澤を荷いながら、報いるのに堦がありませんでした。重ねて天の寵を蒙って、この姻親を降されたので、ついにすぐに穠しい華が慶びを表し、肅しく雝らかなことが徳を成しました。

夾注 1

一云迎湌金義官之女也。

迊飡金義官の娘ともいう。

30二十年 — 金官小京を置く

吉月令辰,言歸弊館,億載難遇,一朝獲申,事非望始,喜出意表。豈惟一二父兄,實受其賜。其自先祖已下,寔寵喜之。臣未蒙敎旨,不敢直朝,無任悅豫之至,謹遣臣大將軍太大兄延武,奉表以聞。」加耶郡置金官小京。

吉い月、令い辰に、弊れた館に言い帰られたのですから、億載にも遇い難いことを一朝に申べ獲たのです。事は望んだ始めでなく、喜びは意の表から出ました。どうして一人二人の父や兄だけでしょうか、実にその賜りを受けたのです。先祖以下からも、まことにこれを寵び喜ぶでしょう。

臣は教旨を蒙っていないので、敢えて直ちに朝することができません。悦び豫しむ至りに任えません。謹んで臣の大将軍太大兄延武を遣わして、表を奉じて聞かせます。」

加耶郡に金官小京を置いた。

31二十一年 — 文武王が亡くなり、遺詔を残す

二十一年,春正月朔,終日黑暗如夜。沙飡武仙率精兵三千,以戍比列忽。置右司祿館。夏五月,地震。流星犯參大星。六月,天狗落坤方。王欲新京城,問浮屠義相,對曰:「雖在草野茅屋,行正道,則福業長,苟爲不然,雖勞人作城,亦無所益。」王乃止役。秋七月一日,王薨,諡曰文武。羣臣以遺言葬東海口大石上,俗傳,王化爲龍,仍指其石爲大王石。遺詔曰:「寡人運屬紛紜,時當爭戰。西征北討,克定疆封,伐叛招携,聿寧遐邇。上慰宗祧之遺顧,下報父子之宿寃,追賞遍於存亡,䟽爵均於内外。鑄兵戈爲農器,驅黎元於仁壽,薄賦省徭,家給人足,民間安堵,域内無虞。倉廩積於丘山,囹圄成於茂草,可謂無愧於幽顯,無負於士人。自犯冒風霜,遂成痼疾,憂勞政敎,更結沉痾。

二十一年の春正月の朔、終日黒く暗くて夜のようであった。沙飡の武仙が精兵三千を率いて比列忽を戍った。右司禄館を置いた。

夏五月、地が震えた。流星が参の大星を犯した。六月、天狗が坤の方に落ちた。

王が京城を新しくしようとして、浮屠の義相に問うと、答えて言った。「たとえ草野の茅屋にあっても、正しい道を行えば福の業は長い。かりにそうでないなら、たとえ人を労して城を作っても、また益するところはありません。」王はそこで役を止めた。

秋七月一日、王が亡くなった。諡を文武といった。群臣は遺言のとおり東海の口の大きな石の上に葬った。俗に伝えるところでは、王は化して龍となったといい、そこでその石を指して大王石という。

遺詔に言った。

「寡人は運が紛れ紜うときに属い、時は争い戦うのに当たった。西を征き北を討って疆と封を克く定め、叛く者を伐ち携える者を招いて、ついに遐きも邇きも寧らかにした。上は宗祧の遺された顧みを慰め、下は父と子の宿い寃みを報い、賞することは存る者も亡い者も遍く、爵を䟽けることは内も外も均しくした。

兵と戈を鋳て農の器とし、黎元を仁と寿に驅り、賦を薄くし徭を省いて、家は給り人は足り、民の間は安く堵らかで、域の内に虞いはなかった。倉と廩には丘や山のように積み、囹圄には茂った草が成ったので、幽かなものにも顕かなものにも愧じるところがなく、士にも人にも負くところがないと言えよう。

みずから風と霜を犯し冒って以来、ついに痼い疾となり、政と教に憂い労れて、さらに沉い痾を結んだ。

32二十一年 — 遺詔を終える

運往名存,古今一撥,奄歸大夜,何有恨焉。太子早蘊離輝,久居震位,上從羣宰,下至庶寮,送往之義勿違,事居之禮莫闕。宗廟之主,不可暫空,太子即於柩前,嗣立王位。且山谷遷貿,人代推移,呉王北山之墳,詎見金鳧之彩,魏主西陵之望,唯聞銅雀之名。昔日萬機之英,終成一封之土,樵牧歌其上,狐兎穴其旁。徒費資財,貽譏簡牘,空勞人力,莫濟幽魂。靜而思之,傷痛無已,如此之類,非所樂焉。屬纊之後十日,便於庫門外庭,依西國之式,以火燒葬。服輕重,自有常科,喪制度,務從儉約。其邊城鎭遏,及州縣課税,於事非要者,並宜量廢,律令格式,有不便者,即便改張,布告遠近。令知此意,主者施行。」

運が往いて名が存るのは、古も今も一つの撥である。奄かに大きな夜に帰るとして、何の恨みがあろうか。

太子は早くから離の輝きを蘊え、久しく震の位に居ったのだから、上は群れの宰に従い、下は庶の寮にいたるまで、往く者を送る義に違わず、居る者に事える礼を闕くな。宗廟の主は暫くも空しくできないので、太子はすぐに柩の前で王位を嗣ぎ立て。

また山と谷は遷り貿わり、人の代は推し移る。呉王の北山の墳に、どうして金の鳧の彩りが見えようか。魏主の西陵を望んでも、ただ銅の雀の名を聞くばかりである。昔日の万機の英も、ついに一つの封の土となって、樵る者や牧する者がその上で歌い、狐や兎がその傍に穴を掘る。徒らに資財を費やして簡と牘に譏りを貽し、空しく人の力を労しても幽い魂を済うことはない。静かにこれを思うと、傷み痛むことが已まない。このような類は、私の楽しむところではない。

纊を属けた後の十日に、すぐ庫門の外の庭で、西の国の式に依って、火で焼いて葬れ。服の軽重はおのずから常の科があるのでそれに依り、喪の制度は倹しく約やかにすることを務め従え。

その辺りの城の鎮め遏めと、州や県の課税で、事に要らないものは、あわせて量って廃すのがよい。律令や格式に便でないものがあれば、すぐに改め張れ。遠く近くに布し告げてこの意を知らせ、主る者は施し行え。」

33三国史記 巻第七

三國史記,第七卷

三国史記 巻第七。