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僖康王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 3 · 漢字 307字 · 朗読 1.2分

三国史記(三国時代の正史) 新羅本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1僖康王が即位する

僖康王立,諱悌隆,元聖大王孫伊飡憲貞一云草奴之子也。母,包道夫人;妃,文穆夫人,葛文王忠恭之女。初興德王之薨也,其堂弟均貞、堂弟之子悌隆,皆欲爲君。於是,侍中金明、阿飡利弘、裴萱伯等,奉悌隆。阿飡祐徴與姪禮徴及金陽,奉其父均貞,一時入内相戰。金陽中箭,與祐徴等逃走均貞遇害,而後悌隆乃得即位。

僖康王が即位した。諱は悌隆、元聖大王の孫である伊飡の憲貞 — 草奴ともいう — の子である。母は包道夫人、妃は文穆夫人で、葛文王の忠恭の娘である。

はじめ興徳王が薨じたとき、その従弟の均貞と、従弟の子の悌隆とが、ともに君になろうとした。そこで侍中の金明と阿飡の利弘・裴萱伯らは悌隆を奉じ、阿飡の祐徴は姪の礼徴と金陽とともにその父の均貞を奉じて、一度に内に入って互いに戦った。金陽は矢に中り、祐徴らとともに逃げ走り、均貞は害されて、その後にようやく悌隆が即位することができた。

夾注 1

一云悌顒。

悌隆は、悌顒ともいう。

2二年 — 祐徴が清海鎮へ奔る

二年,春正月,大赦獄囚殊死已下。追封考爲翌成大王,母朴氏爲順成太后。拜侍中金明爲上大等,阿飡利弘爲侍中。夏四月,唐文宗放還宿衛王子金義琮。阿飡祐徴,以父均貞遇害,出怨言,金明、利弘等不平之。五月,祐徴懼禍及,與妻子奔黄山津口,乘舟往依,於淸海鎭大使弓福。六月,均貞妹壻阿飡禮徴,與阿飡良順,亡投於祐徴。唐文宗賜宿衛金忠信等錦綵有差。

二年春正月、獄に囚われた罪人のうち死罪以下を大赦した。考を翌成大王と、母の朴氏を順成太后と追封した。侍中の金明を上大等とし、阿飡の利弘を侍中とした。

夏四月、唐の文宗は宿衛していた王子の金義琮を放ち帰らせた。阿飡の祐徴は父の均貞が害されたとして怨みの言を出したので、金明と利弘らはこれを平らかに思わなかった。

五月、祐徴は禍が及ぶのを懼れ、妻子とともに黄山津の口に奔り、舟に乗って清海鎮の大使の弓福のもとへ行って依った。

六月、均貞の妹の婿である阿飡の礼徴が、阿飡の良順とともに逃れて祐徴に投じた。唐の文宗は宿衛していた金忠信らに錦と綵を差を設けて賜った。

3三年 — 僖康王がみずから首を吊る

三年,春正月,上大等金明、侍中利弘等,興兵作亂,害王左右。王知不能自全,乃縊於宮中。諡曰僖康,葬于蘇山。

三年春正月、上大等の金明と侍中の利弘らが兵を起こして乱を作し、王の左右の者を殺した。王はみずから全きを得られないと知り、そこで宮の中で首を吊った。諡を僖康といい、蘇山に葬った。