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真聖王眞聖王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 12 · 漢字 815字 · 朗読 3.3分

三国史記(三国時代の正史) 新羅本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1真聖王が即位する

眞聖王立。諱曼,憲康王之女弟也。大赦。復諸州郡一年租稅。設百高座皇龍寺,親幸聽法。冬無雪。

真聖王が即位した。諱は曼、憲康王の妹である。大赦を行った。諸州郡の一年の租税を免じた。皇龍寺に百の高座を設け、自ら行って法を聴いた。冬に雪が降らなかった。

夾注 1

《崔致遠文集》第二卷,謝追贈表云:「臣坦言伏奉制旨,追贈亡父臣凝爲太師,亡兄臣晸爲太傅。」又納旌節表云:「臣長兄國王晸,以去光啓三年七月五日,奄御聖代,臣姪男嶢生未周晬,臣仲兄晃權統藩垣,又未經朞月,遠謝明時。」以此言之,景文王諱凝,本紀則云,膺廉,眞聖王諱坦,本紀則云,曼又定康王晃以光啓三年薨,本紀謂二年薨,皆不知孰是。

『崔致遠文集』第二巻の「謝追贈表」に「臣坦が申し上げます。伏して制旨を受け、亡き父である臣凝を太師に、亡き兄である臣晸を太傅に追贈されました」とあり、また「納旌節表」に「臣の長兄である国王晸は、去る光啓三年七月五日に突然聖なる世を去り、臣の甥の嶢は生まれて初めての誕生日も迎えておらず、臣の次兄である晃が仮に藩垣を統べたものの、また一か月も経たずに遠く明るい世を辞しました」とある。これによって言えば、景文王の諱は凝であるのに本紀では膺廉といい、真聖王の諱は坦であるのに本紀では曼といい、また定康王の晃は光啓三年に薨じたとあるのに本紀では二年に薨じたという。いずれが正しいのか、どれもわからない。

2二年 — 巨仁が獄の壁に詩を書く

二年,春二月,少梁里石自行。王素與角干魏弘通,至是,常入內用事。仍命與大矩和尙,修集鄕歌,謂之《三代目》云。及魏弘卒,追諡爲惠成大王。此後,潛引少年美丈夫兩三人,淫亂,仍授其人以要職,委以國政。由是,佞倖肆志,貨賂公行,賞罰不公,紀綱壞弛。時有無名子,欺謗時政,構辭榜於朝路。王命人搜索,不能得。或告王曰:「此必文人不得志者所爲,殆是大耶州隱者巨仁耶?」王命拘巨仁京獄,將刑之。巨仁憤怨,書於獄壁曰:「于公慟哭三年旱,鄒衍含悲五月霜。今我幽愁還似古,皇天無語但蒼蒼。」其夕,忽雲霧震雷雨雹。王懼,出巨仁放歸。三月戊戌朔,日有食之,王不豫,錄囚徒,赦殊死已下,許度僧六十人。王疾乃瘳。夏五月,旱。

二年春二月、少梁里の石がひとりでに動いた。

王はもとから角干の魏弘と通じていたが、このときに至って、魏弘は常に内に入って事を執るようになった。ついで大矩和尚とともに郷歌を集めて編ませ、これを『三代目』といった。魏弘が亡くなると、諡を追贈して恵成大王とした。

この後、ひそかに若く美しい男子二、三人を引き入れて淫らに過ごし、ついでその者たちに要職を与えて国政を委ねた。これによって、おもねり寵を得た者たちが思うままに振るまい、賄賂が公然と行き交い、賞と罰が公平でなくなり、綱紀は崩れて緩んだ。

そのとき名を記さない者が時政を謗り欺き、言葉を構えて朝廷へ向かう路に貼り札を掛けた。王は人に命じて探させたが、見つけられなかった。ある者が王に告げた。「これは必ず志を得られない文人のしたことです。おそらく大耶州に隠れ住む巨仁ではありませんか。」

王は命じて巨仁を都の獄につなぎ、刑に処そうとした。巨仁は憤り恨んで、獄の壁に書いた。

「于公が慟哭すれば三年の旱り、 鄒衍が悲しみを含めば五月の霜。 今わたしの深い憂いはかえって昔に似ているのに、 天は何も言わず、ただ蒼々としているばかりだ。」

その夕べ、たちまち雲と霧が立ち、雷が鳴り、雨と雹が降った。王は恐れて巨仁を出し、放して帰らせた。

三月戊戌の朔に日食があった。王の具合が良くなかったので、囚人を記録して死罪以下を赦し、六十人が僧になることを許した。王の病はそれで癒えた。夏五月、旱った。

3三年 — 元宗と哀奴が叛く

三年,國內諸州郡,不輸貢賦,府庫虛竭,國用窮乏,王發使督促。由是,所在盜賊蜂起。於是,元宗、哀奴等,據沙伐州叛。王命奈麻令奇捕捉。令奇望賊壘,畏不能進,村主祐連,力戰死之。王下勑斬令奇,祐連子年十餘歲,嗣爲村主。

三年、国内の諸州郡が貢と賦を送らず、蔵は空になって尽き、国の費えが乏しくなったので、王は使者を遣わして督促した。これによって、至るところで盗賊が蜂のように起こった。

そこで元宗・哀奴らが沙伐州に拠って叛いた。王は奈麻の令奇に命じて捕らえさせた。令奇は賊の塁を望んで恐れ、進むことができず、村主の祐連が力戦して死んだ。王は勅を下して令奇を斬り、祐連の子は十歳余りであったが、跡を継いで村主とした。

4四年 — 皇龍寺で灯を見る

四年,春正月,日暈五重。十五日,幸皇龍寺看燈。

四年春正月、日の暈が五重にかかった。十五日、皇龍寺に行って灯を見た。

5五年 — 弓裔が北原の東を襲う

五年,冬十月,北原賊帥梁吉,遣其佐弓裔,領百餘騎,襲北原東部落及溟州管內酒泉等十餘郡縣。

五年冬十月、北原の賊の頭である梁吉が、その部下の弓裔を遣わし、百余騎を率いて北原の東の村落と溟州の管内の酒泉など十余の郡県を襲った。

6六年 — 甄萱が後百済と称する

六年,完山賊甄萱據州,自稱後百濟,武州東南郡縣降屬。

六年、完山の賊である甄萱が州に拠って自ら後百済と称し、武州の東南の郡県が降って付き従った。

7七年 — 金処誨が海で死ぬ

七年,遣兵部侍郞金處誨,如唐納旌節,沒於海。

七年、兵部侍郎の金処誨を遣わして唐に行き旌節を納めさせたが、海で溺れて死んだ。

8八年 — 崔致遠が時務十余条を奉る

八年,春二月,崔致遠進時務一十餘條,王嘉納之,拜致遠爲阿飡。冬十月弓裔自北原,入何瑟羅,衆至六百餘人,自稱將軍。

八年春二月、崔致遠が時務十余条を奉ったので、王はこれを善しとして受け入れ、致遠を阿飡とした。冬十月、弓裔が北原から何瑟羅に入ると、衆は六百余人に達し、自ら将軍と称した。

9九年 — 嶢を太子に立てる

九年,秋八月,弓裔擊取猪足、狌川二郡,又破漢州管內夫若、鐵圓等十餘郡縣。冬十月,立憲康王庶子嶢爲太子。初,憲康王觀獵行道傍見一女子,姿質佳麗。王心愛之,命後車載,到帷宮野合,卽有娠而生子。及長,體貌魁傑,名曰嶢。眞聖聞之,喚入內,以手撫其背曰:「孤之兄弟姉妹,骨法異於人,此兒,背上兩骨隆起,眞憲康王之子也。」仍命有司,備禮封崇。

九年秋八月、弓裔が猪足・狌川の二郡を撃って取り、また漢州の管内の夫若・鉄円など十余の郡県を破った。

冬十月、憲康王の庶子の嶢を立てて太子とした。はじめ、憲康王が狩りを観ていて、道のかたわらで一人の女を見たが、姿も素質も美しかった。王は心に愛して後ろの車に乗せよと命じ、幕の宮に至って野合すると、すぐに身ごもって子を生んだ。成長すると体も容貌も大きく優れていたので、名を嶢といった。

真聖はこれを聞いて内に呼び入れ、手でその背を撫でて言った。「わたしの兄弟姉妹は骨相が人と違っているが、この子は背の上に二つの骨が盛り上がっている。まことに憲康王の子である。」そして担当の役所に命じ、礼を備えて封じ崇めさせた。

10十年 — 赤袴の賊

十年,賊起國西南,赤其袴以自異,人謂之赤袴賊。屠害州縣,至京西部牟梁里,劫掠人家而去。

十年、賊が国の西南に起こり、袴を赤くして自らを人と違えたので、人々はこれを赤袴の賊といった。州県を屠り害し、都の西部の牟梁里まで来て、人の家を脅し奪って去った。

11十一年 — 嶢に位を譲る

十一年,夏六月,王謂左右曰:「近年以來,百姓困窮,盜賊蜂起。此,孤之不德也。避賢讓位,吾意決矣。」禪位於太子嶢。於是,遣使入唐表奏曰:「臣某言,居羲仲之官,非臣素分;守延陵之節,是臣良圖。以臣姪男嶢,是臣亡兄晸息。年將志學,器可興宗,不假外求,爰從內擧,近已俾權藩寄用靖國災。」冬十二月乙巳,王薨於北宮,諡曰眞聖,葬于黃山。

十一年夏六月、王が左右の者に言った。「ここ数年来、百姓は困り窮し、盗賊が蜂のように起こっている。これはわたしに徳がないからである。賢い者に譲って位を渡すと、わたしの思いは決まった。」太子の嶢に位を譲った。

そこで使者を遣わして唐に入り、表で申し上げた。

「臣某が申し上げます。羲仲の官に居ることは臣のもとよりの分ではなく、延陵の節を守ることが臣の良い図りごとです。臣の甥の嶢は、臣の亡き兄晸の子です。年はまさに学に志す頃となり、器は宗室を興すに足るので、外に求めることなく、ここに内から挙げて用います。近ごろすでに藩の務めを仮に委ね、国の災いを静めさせました。」

冬十二月乙巳、王は北宮で薨じた。諡を真聖といい、黄山に葬った。

12三国史記 巻第十一

三國史記,第十一卷

三国史記 巻第十一。