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敬順王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 13 · 漢字 1,584字 · 朗読 6.3分

三国史記(三国時代の正史) 新羅本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1敬順王が即位する

敬順王立。金氏諱傅,文聖大王之裔孫孝宗伊湌之子也。母,桂娥太后。爲甄萱所舉即位,舉前王屍,殯於西堂,與羣下慟哭上。謚曰景哀。葬南山,蟹目嶺。太祖遣使弔。

敬順王が即位した。金氏で諱は傅、文聖大王の子孫である孝宗伊飡の子である。母は桂娥太后である。甄萱が推し立てて即位し、前王の屍を挙げて西堂に殯し、群下とともに慟哭して諡を奉り、景哀とした。南山の蟹目嶺に葬った。太祖は使者を遣わして弔った。

2元年 — 甄萱が大木郡を侵す

元年十一月,追尊考爲神興大王母爲王大后。十二月,甄萱侵大木郡燒盡田野積聚。

元年十一月、父を追尊して神興大王とし、母を王太后とした。十二月、甄萱が大木郡を侵し、野に積んであった穀物をすべて焼いた。

3二年 — 甄萱が武谷城を落とす

二年,春正月,髙麗將金相與草八城賊興宗戰,不克死之。夏五月,康州將軍有文降於甄萱。六月,地震。秋八月,甄萱命將軍官昕築城於陽山,太祖命命旨城將軍王忠率兵擊走之。甄萱進屯於大耶城下,分遣軍士,芟取大木郡禾稼。冬十月,甄萱攻䧟武谷城。

二年春正月、高麗の将の金相が草八城の賊の興宗と戦ったが、勝てずに死んだ。

夏五月、康州の将軍有文が甄萱に降った。六月、地震があった。

秋八月、甄萱が将軍の官昕に命じて陽山に城を築かせたので、太祖は命旨城の将軍王忠に命じて兵を率いて撃ち、追い払わせた。甄萱は大耶城の下に進んで陣を置き、軍士を分け遣わして大木郡の稲を刈り取っていった。

冬十月、甄萱が武谷城を攻め落とした。

4三年 — 洪述が戦って死ぬ

三年,夏六月,天笁國,三藏摩睺羅抵髙麗。秋七月,甄萱攻義城府城。髙麗將洪述出戰,不克死之。順州將軍元逢降於甄萱。太祖聞之,怒然以元逢前㓛,宥之,伹攺順州爲縣。冬十月,甄萱圍加恩縣不克而歸。

三年夏六月、天竺国の三蔵の摩睺羅が高麗に着いた。

秋七月、甄萱が義城府城を攻めた。高麗の将の洪述が出て戦ったが、勝てずに死んだ。順州の将軍元逢が甄萱に降った。太祖はこれを聞いて怒ったが、元逢の以前の功を思って赦し、ただ順州を改めて県とした。

冬十月、甄萱が加恩県を囲んだが、勝てずに帰った。

5四年 — 太祖が瓶山の下で大いに勝つ

四年,春正月,載巖城將軍善弼降髙麗。太祖厚禮待之,稱爲尚父。初,太祖將通好新羅善弼引噵之,至是降也。念其有㓛且老,故寵褒之。太祖與甄萱戰古昌郡甁山之下,大捷,殺虜甚衆。其永安、河曲、直明、松生等三十餘郡縣相次降於太祖。二月,太祖遣使告捷,王報聘兼請相㑹。秋九月,國東㳂海州郡部落,盡降於太祖。

四年春正月、載巌城の将軍善弼が高麗に降った。太祖は厚い礼でもてなし、尚父と称した。はじめ、太祖が新羅と好を通じようとしたとき、善弼が導き案内し、このときに至って降ったのである。その功があり、また老いていることを思って、だから寵をもって褒めたのである。

太祖は甄萱と古昌郡の瓶山の下で戦って大いに勝ち、殺し捕らえた者が非常に多かった。その永安・河曲・直明・松生など三十余の郡県が次々に太祖に降った。

二月、太祖が使者を遣わして勝ちを告げたので、王は答礼の使いを送り、あわせて互いに会うことを請うた。

秋九月、国の東の海沿いの州郡の村落がすべて太祖に降った。

6五年 — 太祖が都に来る

五年,春二月,太祖率五十餘騎至京畿逋謁。王與百官郊迎,入宮相對,曲盡情禮。置宴於臨海殿,酒酣,王言曰:「吾以不天,寖致禍亂。甄萱恣行不義,喪我國家,何痛如之。」因泫然涕泣,左右無不嗚咽,太祖亦流涕慰藉。因留數旬廻駕,王送至穴城,以堂弟裕廉為質,隨駕焉。太祖麾下軍士肅正,不犯秋毫,都人士女相慶曰:「昔甄氏之來也,如逢豺虎;今王公之至也,如見父母。」秋八月,太祖遣使,遺王以錦彩、鞍馬,幷賜群僚將士布帛,有差。

五年春二月、太祖が五十余騎を率いて都の近郊に至り、謁見を請うた。王は百官とともに郊で迎え、宮に入って向かい合い、情も礼も尽くした。

臨海殿に宴を設け、酒が進むと王が言った。「わたしは天の助けを得られず、次々に禍と乱を招き、甄萱が義ならぬことを思うままに行ってわが国家を失わせました。何がこれより痛ましいでしょうか。」そしてさめざめと涙を流して泣いたので、左右の者はみな咽び泣き、太祖も涙を流して慰めた。

そのまま数十日とどまって車を返すと、王は穴城まで送り、従弟の裕廉を人質として車に従わせた。太祖の配下の軍士は粛然として正しく、毛筋ほども犯さなかったので、都の男女は互いに喜んで言った。「さきに甄氏が来たときは、山犬や虎に出会ったようであったが、いま王公が来られたのは、父母に会ったようである。」

秋八月、太祖は使者を遣わして王に錦と鞍をつけた馬を贈り、あわせて諸官や将士に布と絹を差をつけて賜った。

7六年 — 金昢を唐に遣わす

六年,春正月,地震。夏四月,遣便執事侍郎金昢、副使司賔卿李儒,入唐朝貢。

六年春正月、地震があった。夏四月、使いとして執事侍郎の金昢と副使の司賓卿李儒を遣わし、唐に入って朝貢させた。

8七年 — 明宗が高麗に命を賜る

七年,唐明宗遣使髙麗,錫命。

七年、唐の明宗が高麗に使者を遣わし、命を賜った。

9八年 — 運州の境が太祖に降る

八年,秋九月,老人星見。運州界三十餘郡縣降於太祖。

八年秋九月、老人星が現れた。運州の境の三十余の郡県が太祖に降った。

10九年 — 国を挙げて太祖に降る

九年,冬十月,王以四方土地,盡為他有,國弱勢孤,不能自安,乃與群下謀,擧土降太祖。群臣之議,或以為可,或以為不可。王子曰:「國之存亡,必有天命,只合與忠臣義士,收合民心,自固力盡而後已,豈宜以一千年社稷,一旦輕以與人?」王曰:「孤危若此,勢不能全。旣不能强,又不能弱,至使無辜之民,肝腦塗地,吾所不能忍也。」乃使侍郞金封休,齎書請降於太祖。王子哭泣辭王,徑歸皆骨山。倚巖為屋,麻衣草食,以終其身。十一月,太祖受王書,送大相王鐵等迎之。王率百寮,發自王都,歸于太祖。香車寶馬,連亘三十餘里,道路塡咽,觀者如堵。太祖出郊迎勞,賜宮東甲第一區,以長女樂浪公主妻之。十二月,封為正丞公,位在太子之上,給祿一千石,侍從員將,皆錄用之。

九年冬十月、王は四方の土地がすべて他人のものとなり、国が弱く勢いが孤立して自ら安んじることができなかったので、群下と謀り、土地を挙げて太祖に降ろうとした。群臣の議論は、あるいは可とし、あるいは不可とした。

王子が言った。「国の存亡には必ず天命があります。ただ忠臣義士とともに民心を収め合わせ、自ら固めて力を尽くした後にやめるべきです。どうして一千年の社稷を、一朝にして軽々しく人に与えてよいのでしょうか。」

王が言った。「孤立し危ういことがこのようであるから、勢いとして全うすることはできない。すでに強くもなれず、また弱くもなれず、罪のない民の肝と脳を地に塗らせるに至るのは、わたしの忍びえないところである。」

そこで侍郎の金封休に書を持たせ、太祖に降ることを請わせた。王子は泣いて王に別れを告げ、まっすぐ皆骨山に行き、岩に寄りかかって家を作り、麻の衣を着て草を食べ、その身を終えた。

十一月、太祖は王の書を受け、大相の王鉄らを送って迎えた。王は百官を率いて王都を発ち、太祖のもとに帰った。香しい車と宝の馬が三十余里に連なり、道は塞がって、見る者は垣のように並んだ。

太祖は郊に出て迎え労い、宮の東の立派な邸宅一区を賜り、長女の楽浪公主を妻として与えた。十二月、封じて正丞公とし、位は太子の上にあり、禄一千石を給し、侍従の官員や将はみな記録して用いた。

11九年 — 新羅を慶州と改める

改新羅為慶州,以為公之食邑。初,新羅之降也,太祖甚喜,旣待之以厚禮,使告曰:「今王以國與寡人,其為賜大矣。願結昏於宗室,以永甥舅之好。」答曰:「我伯父億廉匝干,知大耶郡事,其女子德容雙美,非是,無以備內政。」太祖遂取之生子,是顯宗之考,追封為安宗。至景宗獻和大王,聘正承公女,納為王妃,仍封正承公為尚父令。公至大宋興國四三年戊寅,薨,諡曰敬順。新羅國自始祖至此,分爲三代。自初至眞德二十八王,謂之上代;自武烈至惠恭八王,謂之中代;自宣德至敬順二十王,謂之下代云。

新羅を改めて慶州とし、公の食邑とした。

はじめ、新羅が降ると太祖は大いに喜び、すでに厚い礼でもてなした上で、人を使って告げた。「いま王が国を寡人に与えてくださった。その賜りものは大きい。願わくは宗室と婚を結び、甥と舅の好を永くしたい。」

答えた。「わたしの伯父の億廉匝干が大耶郡の事を執っていますが、その娘は徳も容貌もともに美しい。この人でなければ内政を整えることはできません。」

太祖はついにこれを娶って子を生んだ。これが顕宗の父で、追って安宗と封じられた。景宗献和大王に至って正丞公の娘を迎えて王妃とし、ついで正丞公を封じて尚父令とした。公は大宋の太平興国三年戊寅に至って薨じ、諡を敬順といった。

新羅国は始祖からここに至るまで、三代に分けられる。初めから真徳までの二十八王を上代といい、武烈から恵恭までの八王を中代といい、宣徳から敬順までの二十王を下代という。

夾注 1

一云孝哀。

孝哀ともいう。

12史論 — 新羅が礼義の邦となるまで

論曰:「新羅朴氏、昔氏皆自卵生。金氏從天入金櫃而降,或云乘金車,此尤詭怪不可信。然世俗相傳,為之實事。政和中,我朝遣尚書李資諒,入宋朝貢。臣富軾以文翰之任,輔行。詣佑神神舘,見一堂設女仙像。舘伴學士王黼曰:「此貴國之神,公等知之乎?」遂言曰:「古有帝室之女,不夫而孕,為人所疑。乃泛海抵辰韓生子,為海東始主,帝女為地仙,長在仙桃山,此其像也。」臣又見大宋國信使王襄祭東神聖母文,有『娠賢肇邦』之句,乃知東神則仙桃山神聖者也。然而不知其子王於何時,今但原厥初。在上者,其為己也儉;其為人也寬;其設官也略;其行事也簡,以至誠事中國,梯航朝聘之使,相續不絶,常遣子弟,造朝而宿衛,入學而講習,于以襲聖賢之風化,革鴻荒之俗,為禮義之邦。

論じて言う。

新羅の朴氏と昔氏はいずれも卵から生まれ、金氏は天から金の櫃に入って降ったといい、あるいは金の車に乗ったともいう。これはいっそう怪しく、信じることができない。しかし世俗は互いに伝えて、実際にあった事としている。

政和の年間に、わが朝廷が尚書の李資諒を遣わして宋に入り朝貢させたとき、臣の富軾は文筆の任として随行した。佑神館に行くと、一つの堂に女の仙人の像が据えられているのを見た。館伴の学士王黼が言った。「これは貴国の神であるが、公らはこれを知っているか。」そして言った。「昔、帝室の娘があり、夫なくして身ごもり、人に疑われた。そこで海に浮かんで辰韓に至り、子を生んだ。その子は海東の初めの主となり、帝の娘は地の仙となって長く仙桃山にいる。これがその像である。」

臣はまた大宋の国信使である王襄の「祭東神聖母文」を見たが、「賢を娠んで邦を肇めた」という句があった。そこで東神とは仙桃山の神聖な者であることを知った。しかし、その子がいつ王となったのかはわからない。

いま、ただその初めを尋ねてみれば、上に立つ者は自分のためには倹しく、人のためには寛く、官を設けることは簡略で、事を行うことは簡素であった。至誠をもって中国に仕え、梯と船で朝し聘する使いが次々に続いて絶えず、常に子弟を遣わして朝廷に赴いて宿衛させ、学に入って講習させた。これによって聖賢の風化を受け継ぎ、荒く暗い俗を改め、礼義の邦となった。

13史論 — 敬順王が太祖に帰した事

又憑王師之威靈,平百濟、高句麗,取其地郡縣之,可謂盛矣。而奉浮屠之法,不知其弊,至使閭里,比其塔廟,齊民逃於緇褐,兵農浸小,而國家日衰,則幾何其不亂且亡也哉?於是時也,景哀加之以荒樂,與宮人左右,出遊鮑石亭,置酒燕衎,不知甄萱之至,與夫門外韓擒虎、樓頭張麗華,無以異矣。若敬順之歸命太祖,雖非獲已,亦可嘉矣。向若力戰守死,以抗王師,至於力屈勢窮,則必覆其宗族,害及于無辜之民。而乃不待告命,封府庫籍郡縣,以歸之,其有功於朝廷,有德於生民,甚大。昔,錢氏以吳、越入宋,蘇子瞻謂之忠臣,今新羅功德,過於彼遠矣。我太祖,妃嬪衆多,其子孫亦繁衍,而顯宗自新羅外孫,卽寶位,此後繼統者,皆其子孫,豈非陰德之報者歟?!」

また天子の軍の威霊に頼って百済と高句麗を平らげ、その地を得て郡県としたのは、盛んであったといえる。

しかし仏の法を奉じながらその弊を知らず、里ごとに塔と寺が並び、民が僧衣の中へ逃げ込んで兵と農が次第に減り、国家は日ごとに衰えた。どうして乱れ、また亡びないでいられようか。

このとき、景哀はそこに荒んだ遊びを加え、宮人や左右の者とともに鮑石亭に出て遊び、酒宴を設けて楽しみ、甄萱が来たことを知らなかった。あの門の外の韓擒虎、楼の上の張麗華と、異なるところがない。

敬順が太祖に命を預けたことについては、やむを得ないことであったとはいえ、やはり嘉すべきである。もし力の限り戦い、死をもって守って天子の軍に抗し、力が屈し勢いが尽きるに至ったなら、必ずその宗族を覆し、害は罪のない民にまで及んだであろう。ところが命が下るのを待たず、蔵を封じ、郡県を帳簿に記して帰したのであるから、その朝廷に対する功と、民に対する徳は非常に大きい。

昔、銭氏が呉と越をもって宋に入ったとき、蘇子瞻(蘇軾)はこれを忠臣といった。いま新羅の功と徳は、それよりはるかに勝っている。

わが太祖は妃嬪が多く、その子孫もまた繁えたが、顕宗は新羅の外孫から宝位に即き、その後に統を継いだ者はみなその子孫である。どうして陰徳の報いでないことがあろうか。