太祖大王
1太祖大王が即位する
太祖大王,諱宮,小名於漱,琉璃王子古鄒加再思之子也。母太后,扶餘人也。慕本王薨,太子不肖,不足以主社稷,國人迎宮繼立。王生而開目能視,幼而岐嶷。以年七歳,太后垂簾聽政。
太祖大王は諱が宮、幼名は於漱で、瑠璃王の子である古鄒加の再思の子である。母の太后は扶余の人である。慕本王が薨じたとき、太子が不肖で社稷の主となるに足りなかったので、国の人々が宮を迎えて継がせ立てた。王は生まれながら目を開いて見ることができ、幼いころから並みはずれて優れていた。年が七つであったので、太后が簾を垂れて政を聴いた。
夾注 1
或云國祖王。
国祖王ともいう。
2三年 — 遼西に十の城を築く
三年,春二月,築遼西十城,以備漢兵。秋八月,國南蝗害穀。
三年春二月、遼西に十の城を築いて漢の兵に備えた。秋八月、国の南で蝗が穀物を害した。
3四年 — 東沃沮を伐つ
四年,秋七月,伐東沃沮,取其土地爲城邑,拓境東至滄海,南至薩水。
四年秋七月、東沃沮を伐ってその土地を取り城邑とし、境を広げて東は滄海に至り、南は薩水に至った。
4七年 — 赤い鰭の白い魚
七年,夏四月,王如孤岸淵觀魚,釣得赤翅白魚。秋七月,京都大水,漂沒民屋。
七年夏四月、王は孤岸淵に行って魚を見、釣りで赤い鰭の白い魚を得た。秋七月、都に大水が出て民の家が流され水に浸かった。
5十年 — 白い鹿を得る
十年,秋八月,東獵得白鹿。國南飛蝗害穀。
十年秋八月、東で狩りをして白い鹿を得た。国の南で蝗が飛んで穀物を害した。
6十六年 — 曷思王の孫が降って来る
十六年,秋八月,曷思王孫都頭,以國來降。以都頭爲于台。冬十月,雷。
十六年秋八月、曷思王の孫の都頭が国を挙げて来て降ったので、都頭を于台とした。冬十月、雷が鳴った。
7二十年 — 藻那を伐つ
二十年,春二月,遣貫那部沛者達賈,伐藻那,虜其王。夏四月,京都旱。
二十年春二月、貫那部の沛者の達賈を遣わして藻那を伐ち、その王を捕らえた。夏四月、都が旱った。
8二十二年 — 朱那を伐つ
二十二年,冬十月,王遣桓那部沛者薛儒,伐朱那,虜其王子乙音,為古鄒加。
二十二年冬十月、王は桓那部の沛者の薛儒を遣わして朱那を伐ち、その王子の乙音を捕らえて古鄒加とした。
9二十五年 — 三つ角の鹿
二十五年,冬十月,扶餘使來,獻三角鹿、長尾兎,王以為瑞物,大赦。十一月,京都,雪三尺。
二十五年冬十月、扶余の使者が来て三つ角の鹿と尾の長い兎を献じたので、王はめでたい物として大赦を行った。十一月、都に雪が三尺降った。
10四十六年 — 柵城で岩に功を記す
四十六年,春三月,王東巡柵城,至柵城西罽山,獲白鹿。及至柵城,與群臣宴飲,賜柵城守吏物段有差,遂紀功於岩,乃還。冬十月,王至自柵城。
四十六年春三月、王は東に柵城を巡り、柵城の西の罽山に至って白い鹿を得た。柵城に至ると群臣と宴を開いて飲み、柵城を守る吏に品物と絹を差をつけて賜り、ついに岩に功を記して帰った。冬十月、王は柵城から帰り着いた。
11五十年 — 柵城を慰める
五十年,秋八月,遣使安撫柵城。
五十年秋八月、使者を遣わして柵城を慰め安んじた。
12五十三年 — 遼東の六県を奪う
五十三年,春正月,扶餘使來,獻虎,長丈二,毛色甚明而無尾。王遣將入漢遼東,奪掠六縣。太守耿夔出兵拒之,王軍大敗。秋九月,耿夔擊破貊人。
五十三年春正月、扶余の使者が来て虎を献じたが、長さは一丈二尺、毛の色はたいそう明るく、尾がなかった。
王は将を遣わして漢の遼東に入らせ、六つの県を奪い掠めた。太守の耿夔が兵を出して防いだので、王の軍は大いに敗れた。秋九月、耿夔が貊の人を撃ち破った。
13五十五年 — 赤い豹を献じる
五十五年,秋九月,王獵質山陽,獲紫獐。冬十月,東海谷守獻朱豹,尾長九尺。
五十五年秋九月、王は質山の南で狩りをして紫色の獐を得た。冬十月、東海谷の守が赤い豹を献じたが、尾の長さは九尺であった。
14五十六年 — 大いに旱る
五十六年,春大旱,至夏赤地。民饑,王發使賑恤。
五十六年春に大いに旱り、夏に至って地が赤くなった。民が飢えたので、王は使者を遣わして救い恵んだ。
15五十七年 — 安帝の元服を祝う
五十七年,春正月,遣使如漢,賀安帝加元服。
五十七年春正月、使者を漢に遣わし、安帝が元服を加えたことを祝った。
16五十九年 — 玄菟に属することを求める
五十九年,遣使如漢,貢獻方物,求屬玄菟。
五十九年、使者を漢に遣わしてその地の産物を献じ、玄菟に属することを求めた。
夾注 1
《通鑑》言言:「是年三月,麗王宮與穢貊,寇玄菟。」不知或求屬或寇耶,抑一誤耶?
『通鑑』には「この年の三月、高句麗王の宮が穢貊とともに玄菟を寇した」とある。属することを求めたのか寇したのか、あるいは一方が誤りなのか、わからない。
17六十二年 — 南海を巡る
六十二年,春三月,日有食之。秋八月,王巡守南海。冬十月,至自南海。
六十二年春三月、日食があった。秋八月、王は南海を巡り守った。冬十月、南海から帰り着いた。
18六十四年 — 雪が五尺降る
六十四年,春三月,日有食之。冬十二月,雪五尺。
六十四年春三月、日食があった。冬十二月、雪が五尺降った。
19六十六年 — 華麗城を攻める
六十六年,春二月,地震。夏六月,王與穢貊襲漢玄菟,攻華麗城。秋七月,蝗雹,害穀。八月,命所司,擧賢良孝順,問鰥寡孤獨及老不能自存者,給衣食。
六十六年春二月、地震があった。夏六月、王は穢貊とともに漢の玄菟を襲い、華麗城を攻めた。
秋七月、蝗と雹が穀物を害した。八月、担当の役所に命じて賢く善く孝で順な者を挙げさせ、鰥・寡・孤・独の者と、老いて自ら生きていけない者を見舞い、衣と食を与えた。
20六十九年 — 遂成が玄菟と遼東を攻める
六十九年,春,漢幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡風,將兵來侵,擊殺穢貊渠帥,盡獲兵馬財物。王乃遣弟遂成,領兵二千餘人,逆煥、光等。遂成遣使詐降,煥等信之。遂成因據險以遮大軍,潛遣三千人,攻玄菟、遼東二郡,焚其城郭,殺獲二千餘人。夏四月,王與鮮卑八千人,往攻遼隧縣遼東太守蔡風,將兵出於新昌,戰沒。兵曹掾龍端、兵馬掾公孫,以身扞諷,倶歿於陣,死者百餘人。冬十月,王幸扶餘,祀太后廟。存問百姓窮困者,賜物有差。肅愼使來,獻紫狐裘及白鷹、白馬,王宴勞以遣之。十一月,王至自扶餘。王以遂成統軍國事。十二月,王率馬韓、穢貊一萬餘騎,進圍玄菟城。扶餘王遣子尉仇台,領兵二萬,與漢兵幷力拒戰,我軍大敗。
六十九年春、漢の幽州刺史の馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡風が兵を率いて侵しに来て、穢貊の首長を撃ち殺し、兵馬と財物をすべて奪った。
王はそこで弟の遂成を遣わし、兵二千余人を率いて馮煥・姚光らを迎えさせた。遂成は使者を遣わして偽って降り、煥らはこれを信じた。遂成はこれによって険しい地に拠って大軍を遮り、ひそかに三千人を遣わして玄菟と遼東の二郡を攻め、その城郭を焼き、二千余人を殺し捕らえた。
夏四月、王は鮮卑の八千人とともに遼隧県を攻めに行ったので、遼東太守の蔡風が兵を率いて新昌に出たが、戦って死んだ。兵曹掾の龍端と兵馬掾の公孫が身をもって蔡風を庇い、ともに陣で死んだので、死んだ者は百余人であった。
冬十月、王は扶余に行って太后の廟を祀り、百姓で窮し困った者を見舞って品物を差をつけて賜った。肅愼の使者が来て紫の狐の裘と白い鷹、白い馬を献じたので、王は宴で労って帰らせた。十一月、王は扶余から帰り着いた。王は遂成に軍と国の事を統べさせた。
十二月、王は馬韓と穢貊の一万余騎を率いて進み、玄菟城を囲んだ。扶余王が子の尉仇台を遣わして兵二万を率いさせ、漢の兵と力を合わせて迎え戦ったので、高句麗の軍は大いに敗れた。
21七十年 — 遼東を侵す
七十年,王與馬韓、穢貊侵遼東,扶餘王遣兵救破之。
七十年、王は馬韓・穢貊とともに遼東を侵したが、扶余王が兵を遣わして救い、これを破った。
夾注 1
馬韓以百濟溫祚王二十七年,滅,今與麗王行兵者,盖滅而復興者歟?
馬韓は百済の温祚王二十七年に滅びたのに、いま高句麗王とともに兵を動かしたというのは、おそらく滅びて再び興ったものであろうか。
22七十一年 — 左輔と右輔を置く
七十一年,冬十月,以沛者穆度婁為左輔,高福章為右輔,令與遂成參政事。
七十一年冬十月、沛者の穆度婁を左輔とし、高福章を右輔として、遂成とともに政事に参与させた。
23七十二年 — 日食がある
七十二年,秋九月庚申晦,日有食之。冬十月,遣使入漢朝貢。十一月,京都地震。
七十二年秋九月庚申の晦に日食があった。冬十月、使者を遣わして漢に入り朝貢した。十一月、都で地が震えた。
24八十年 — 遂成に位を狙うよう勧める
八十年,秋七月,遂成獵於倭山,與左右宴。於是,貫那于台彌儒、桓那于台菸支留、沸流那皀衣陽神等等,陰謂遂成曰:「初,慕本之薨也,太子不肖,群寮欲立王子再思,再思以老讓子者,欲使兄老弟及。今王旣已老矣,而無讓意,惟吾子計之。」遂成曰:「承襲必嫡,天下之常道也。王今雖老,有嫡子在,豈敢覬覦乎?」彌儒曰:「以弟之賢,承兄之後,古亦有之,子其勿疑。」於是,左輔沛者穆度婁,知遂成有異心,稱疾不仕。
八十年秋七月、遂成が倭山で狩りをし、左右の者と宴を開いた。そこで貫那の于台の彌儒、桓那の于台の菸支留、沸流那の皀衣の陽神らが、ひそかに遂成に言った。
「はじめ、慕本王が薨じたとき、太子が不肖で、諸官は王子の再思を立てようとしましたが、再思が老いたといって子に譲ったのは、兄が老いたら弟が継ぐようにさせようとしたのです。いま王はすでに老いているのに譲る意がありません。ただあなたがこれを図ってください。」
遂成が言った。「受け継ぐのは必ず嫡子によるのが天下の常の道である。王はいま老いているとはいえ、嫡子がいるのに、どうしてあえて狙おうか。」
彌儒が言った。「弟の賢さで兄の後を継ぐことは昔にもありました。あなたは疑わないでください。」
こうして左輔の沛者の穆度婁は、遂成に異心があることを知り、病と称して仕えなかった。
25八十六年 — 伯固が遂成を諫める
八十六年,春三月,遂成獵於質陽,七日不歸,戱樂無度。秋七月,又獵箕丘,五日乃反。其弟伯固諫曰:「禍福無門,惟人所召。今子以王弟之親,為百寮之首,位已極矣,功亦盛矣。宜以忠義存心,禮讓克己,上同王德,下得民心。然後富貴不離於身,而禍亂不作矣。今不出於此,而貪樂忘憂,竊為足下危之。」答曰:「凡人之情,誰不欲富貴而歡樂者哉,而得之者,萬無一耳。今吾居可樂之勢,而不能肆志,將焉用哉。」遂不從。
八十六年春三月、遂成が質陽で狩りをし、七日間帰らず、戯れ楽しむことに節度がなかった。秋七月、また箕丘で狩りをし、五日たってやっと帰った。
その弟の伯固が諫めて言った。「禍と福には入る門がなく、ただ人が招くものです。いまあなたは王の弟という親しさで百官の首となり、位はすでに極まり、功もまた盛んです。まさに忠と義を心に置き、礼と譲で己に克ち、上は王の徳と同じくし、下は民心を得るべきです。その後にこそ富貴は身から離れず、禍と乱は起こりません。いまここから出ずに楽しみを貪って憂いを忘れておられるのを、ひそかにあなたのために危ういと思います。」
答えた。「およそ人の情として、誰が富貴と歓楽を望まないだろうか。しかしそれを得る者は万に一人もいない。いまわたしは楽しめる勢いにありながら志を思うままにできないなら、いったい何に用いようか。」ついに従わなかった。
26九十年 — 豹が虎の尾を噛み切る夢
九十年,秋九月,丸都地震。王夜夢,一豹齧斷虎尾。覺而問其吉凶,或曰:「虎者,百獸之長;豹者,同類而小者也。意者王之族類,殆有謀絶大王之後者乎?」王不悅,謂右輔高福章曰:「我昨夢有所見,占者之言如此,為之奈何?」答曰:「作不善,則吉變為凶;作善,則災反為福。今大王憂國如家,愛民如子,雖有小異,庸何傷乎?」
九十年秋九月、丸都で地が震えた。
王が夜に夢を見ると、一匹の豹が虎の尾を噛み切った。覚めてその吉凶を問うと、ある者が言った。「虎は百獣の長であり、豹は同じ類で小さいものです。思うに、王の族類の中に、おそらく大王の後を絶とうと謀る者がいるのでしょう。」
王は喜ばず、右輔の高福章に言った。「わたしは昨夜の夢に見るところがあり、占う者の言葉がこのようである。どうすればよいか。」
答えた。「善くないことを行えば吉が変じて凶となり、善いことを行えば災いが反って福となります。いま大王は国を憂えることを家のようにし、民を愛することを子のようにされています。小さな異変があったとて、何が損なわれましょうか。」
27九十四年 — 直言した者を殺そうとする
九十四年,秋七月,遂成獵於倭山之下,謂左右曰:「大王老而不死,吾齒卽將暮矣,不可待也。惟願左右,為我計之。」左右皆曰:「敬從命矣。」於是,一人獨進曰:「向,王子有不祥之言,而左右不能直諫,皆曰敬從命者,可謂姦且諛矣。吾欲直言,未知尊意如何?」遂成曰:「子能直言,藥石也,何疑之有?」其人對曰:「今大王之賢,內外無異心,子雖有功,率群下姦諛之人,謀廢明上,此何異將以單縷,繫萬鈞之重而倒曳乎?雖復愚人,猶知其不可也。若王子改圖易慮,孝順事上,則大王深知王子之善,必有揖讓之心,不然則禍將及也。」遂成不悅。左右妬其直,讒於遂成曰:「王子以大王年老,恐國祚之危,欲為後圖,此人妄言如此,我等惟恐漏洩,以致患也,宜殺以滅口。
九十四年秋七月、遂成が倭山の下で狩りをし、左右の者に言った。「大王は老いても死なず、わたしの年もまさに暮れようとしている。待つことはできない。ただ左右がわたしのために図ってくれることを願う。」左右はみな言った。「謹んで命に従います。」
そこで一人が独り進み出て言った。「さきに王子は不祥な言葉を述べられたのに、左右は直には諫められず、みな謹んで命に従うと申しました。姦でありまた諛うといえましょう。わたしは直に申し上げたいのですが、尊いお心がどうであるかわかりません。」
遂成が言った。「あなたが直に言えるなら、それは薬石である。何を疑うことがあろうか。」
その人が答えた。「いま大王は賢く、内外に異心がありません。あなたに功があるとはいえ、下の者のうち姦で諛う者を率いて明らかな上を廃そうと謀るのは、一本の糸で万鈞の重さをつないで逆に引くのと何が違いましょうか。愚かな人でも、それができないことは知っています。もし王子が図りを改め思いを変え、孝で順に上に仕えられれば、大王は王子の善さを深く知って、必ず位を譲る心を持たれるでしょう。そうでなければ禍がまさに及ぶでしょう。」
遂成は喜ばなかった。左右はその直さを妬み、遂成に讒言した。「王子は大王が年老いて国の祚が危うくなることを恐れ、後の図りをなそうとしておられるのに、この人はこのように妄りに申します。われらはただ漏れて患いを招くことを恐れます。殺して口を塞ぐのが当然です。」
28九十四年 — 太祖大王が位を譲る
」遂成從之。秋八月,王遣將,襲漢遼東西安平縣,殺帶方令,掠得樂浪大守太守妻子。冬十月,右輔高福章言於王曰:「遂成將叛,請先誅之。」王曰:「吾旣老矣,遂成有功於國,吾將禪位,子無煩慮!」福章曰:「遂成之為人也,忍而不仁。今日受大王之禪,則明日害大王之子孫。大王但知施惠於不仁之弟,不知貽患於無辜之子孫乎,願大王熟計之。」王不聽。十二月,王謂遂成曰:「吾旣老,倦於萬機。天之曆數在汝躬,況汝內參國政,外摠軍事,久有社稷之功,允塞臣民之望,吾所付託,可謂得人。汝其卽位,永孚于休!」乃禪位,退老於別宮,稱為大祖大王。
遂成はその言葉に従った。
秋八月、王は将を遣わして漢の遼東の西安平県を襲い、帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を捕らえた。
冬十月、右輔の高福章が王に言った。「遂成はまさに叛こうとしています。先に誅することをお願いします。」
王が言った。「わたしはすでに老いた。遂成は国に功がある。わたしは位を禅ろうと思う。あなたは煩わしく思い悩むな。」
福章が言った。「遂成の人柄は残忍で不仁です。今日大王の禅りを受ければ、明日には大王の子孫を害するでしょう。大王はただ不仁の弟に恵みを施すことだけを知り、罪のない子孫に患いを残すことをご存じないのですか。どうか大王はよくお考えください。」
王は聞き入れなかった。
十二月、王が遂成に言った。「わたしはすでに老い、万事に倦んだ。天の暦数はお前の身にあり、まして、お前は内では国政に参与し、外では軍事を総べて、久しく社稷に功があり、臣と民の望みにまことに適っている。わたしが託するところは、人を得たといえる。お前はすぐに位に即き、永く美しきを享けよ。」
そこで位を禅り、別宮に退いて老い、大祖大王と称された。
夾注 1
《後漢書》云:「安帝建光元年,高句麗王宮死,子遂成立。玄菟太守姚光上言:欲因其喪,發兵擊之。議者皆以為可許。尚書陳忠曰:『宮前桀黠,光不能討,死而擊之,非義也。宜遣吊問,因責讓前罪,赦不加誅,取其後善。』安帝從之。明年,遂成還漢生口。」案《海東古記》:「高句麗國祖王高宮以後漢建武二十九年,癸丑即位,時年七歲,國母攝政。至孝桓帝本初元年丙戌,遜位讓母弟遂成,時,宮年一百歲,在位九十四年,則建光元年,是宮在位第六十九年。」則《漢書》所記,與《古記》抵捂不相符合。豈漢書所記誤耶?
『後漢書』には「安帝の建光元年、高句麗王の宮が死んで、子の遂成が立った。玄菟太守の姚光が上言し、その喪に乗じて兵を出して撃ちたいと言うと、議する者はみな許してよいとした。尚書の陳忠が『宮は以前に凶暴で狡猾であったが、光は討つことができなかった。死んでから撃つのは義ではありません。まさに弔問の使いを遣わし、それによって以前の罪を責めながらも赦して誅を加えず、その後の善を取るべきです』と言ったので、安帝はこれに従った。翌年、遂成は漢の捕らわれた人々を返した」とある。『海東古記』を調べると「高句麗の国祖王の高宮は後漢の建武二十九年癸丑に即位し、そのとき年は七つで、国母が政を摂った。孝桓帝の本初元年丙戌に至って位を遜り、同母の弟の遂成に譲った。そのとき宮の年は百歳、在位は九十四年である」とある。とすれば建光元年は宮の在位第六十九年である。つまり『漢書』に記すところは『古記』と食い違って互いに合わない。『漢書』に記すところが誤りなのではないか。