嬰陽王
1嬰陽王が即位する
嬰陽王,諱元,平原王長子也。風神俊爽,以濟世安民自任。平原王在位七年,立為太子。三十二年,王薨,太子卽位。隋文帝遣使拜王,為上開府儀同三司,襲爵遼東郡公,賜衣一襲。
嬰陽王は名を元といい、平原王の長子である。風采と気性が優れてさわやかで、世を済い民を安んずることをみずからの任とした。平原王の在位七年に立てられて太子となり、三十二年に王が亡くなったので太子が即位した。隋の文帝は使者を遣わして王を拝し、上開府儀同三司とし、遼東郡公の爵を襲がせ、衣一襲を賜った。
夾注 2
一云平陽。
平陽ともいう。
一云大元。
大元ともいう。
2二年 — 高句麗王に策封される
二年,春正月,遣使入隋,奉表謝恩進奉,因請封王,帝許之。三月,策封為高句麗王,仍賜車服。夏五月,遣使謝恩。
二年春正月、使者を遣わして隋に入り、表を奉って恩を謝し進め奉り、あわせて王に封じられることを請うと、帝はこれを許した。三月、策封して高句麗王とし、続いて車と服を賜った。夏五月、使者を遣わして恩を謝した。
3三年 — 隋に朝貢する
三年,春正月,遣使入隋朝貢。
三年春正月、使者を遣わして隋に入り朝貢した。
4八年 — 隋に朝貢する
八年,夏五月,遣使入隋朝貢。
八年夏五月、使者を遣わして隋に入り朝貢した。
5九年 — 隋の文帝の軍が崩れる
九年,春二月王率靺鞨之衆萬餘,侵遼西,營州摠管韋冲撃退之。隋文帝聞而大怒,命漢王諒、王世積並爲元帥,將水陸三十萬來伐。夏六月,帝下詔黜王官爵。漢王諒軍出臨渝關,値水潦,餽轉不繼,軍中乏食,復遇疾疫。周羅睺自東泛海,趣平壤城,亦遭風,舡多漂沒。秋九月,師還,死者十八九。王亦恐懼,遣使謝罪,上表稱遼東糞土臣某。帝於是罷兵,待之如初。百濟王昌遣使奉表,請為軍導。帝下詔:諭以高句麗服罪,朕已赦之,不可致伐。厚其使而遣之。王知其事,侵掠百濟之境。
九年春二月、王が靺鞨の衆一万余を率いて遼西を侵したので、営州総管の韋冲が撃ち退けた。
隋の文帝はこれを聞いて大いに怒り、漢王の諒と王世積に命じてともに元帥とし、水陸三十万を率いて伐ちに来させた。夏六月、帝は詔を下して王の官爵を削った。
漢王諒の軍は臨渝関を出たが、長雨に遭って糧の輸送が続かず、軍中に食が乏しくなり、さらに疫病に遭った。周羅睺は東莱から海を渡って平壌城に向かったが、これも風に遭って船が多く流され沈んだ。秋九月、軍が帰ったが、死んだ者は十のうち八、九であった。
王もまた懼れて使者を遣わして罪を謝し、表を上って「遼東の糞土の臣某」と称した。帝はそこで兵を罷め、初めのように待遇した。
百済王の昌が使者を遣わして表を奉り、軍の道案内となることを請うた。帝は詔を下して「高句麗は罪に服したので朕はすでに赦した。伐つことはできない」と諭し、その使者を厚くもてなして帰らせた。王はそのことを知り、百済の境を侵して掠めた。
6十一年 — 『新集』五巻を作る
十一年,春正月,遣使入隋朝貢。詔:太學博士李文眞,約古史為『新集』五卷。國初始用文字時,有人記事一百卷,名曰《留記》,至是刪修。
十一年春正月、使者を遣わして隋に入り朝貢した。
詔して太学博士の李文真に古い史を約めて『新集』五巻を作らせた。国の初め、はじめて文字を用いたとき、ある人が事を記したものが百巻あって『留記』と名づけられていたが、このときに至って削り修めたのである。
7十四年 — 北漢山城を攻める
十四年,秋八月王遣將軍高勝,攻新羅北漢山城,羅王率兵,過漢水。城中鼓噪相應,勝以彼衆我寡,恐不克而退。
十四年秋八月、王は将軍の高勝を遣わして新羅の北漢山城を攻めると、新羅王が兵を率いて漢水を渡った。城中では鼓を打ち喚いて互いに応じたので、勝は相手が多く高句麗が少なく、勝てないことを恐れて退いた。
8十八年 — 裴矩が煬帝をそそる
十八年,初,煬帝之幸啓民帳也,我使者在啓民所。啓民不敢隱,與之見帝。黃門侍郞裴矩說帝曰:「高句麗本箕子所封之地,漢、晋皆為郡縣。今乃不臣,別為異域,先帝欲征之久矣。但楊諒不肖,師出無功。當陛下之時,安可不取,使冠帶之境,遂為蠻貊之鄕乎?今其使者,親見啓民擧國從化,可因其恐懼,脅使入朝。」帝從之,勑牛弘宣旨曰:「朕以啓民誠心奉國,故親至其帳,明年當往涿郡。爾還日語爾王,宜早來朝,勿自疑懼,存育之禮,當如啓民,苟或不朝,將帥啓民,往巡彼土。」王懼:藩禮頗闕,帝將討之。啓民,突厥可汗也。夏五月,遣師攻百濟松山城,不下,移襲石頭城,虜男女三千而還。
十八年、はじめ煬帝が啓民の帳に行ったとき、高句麗の使者が啓民のもとにいた。啓民は隠すことができず、使者とともに帝に見えた。
黄門侍郎の裴矩が帝を説いて言った。「高句麗はもともと箕子が封じられた地で、漢と晋のときはみな郡県でした。いま臣とならず、別に異なる域となっているので、先帝が征そうとして久しいのです。ただ楊諒が不肖で、軍を出しても功がありませんでした。陛下の御代に当たって、どうしてこれを取らず、衣冠の境をついに蛮貊の郷とさせましょうか。いまその使者は、啓民が国を挙げて化に従うのを親しく見ました。その懼れに乗じて、脅して朝させるのがよろしいでしょう。」
帝はこれに従い、牛弘に勅して旨を宣べさせた。「朕は啓民が誠の心で国を奉ずるがゆえに、親しくその帳に至った。明年には涿郡に行くであろう。お前は帰る日に、お前の王に、早く来て朝し、みずから疑い懼れることのないようにと告げよ。存し育てる礼は啓民と同じようにするが、もし朝さなければ、やがて啓民を率いてその土を巡りに行くであろう。」
王は懼れた。藩としての礼をかなり欠いていたので、帝がやがて討とうとしていたからである。啓民は突厥の可汗である。
夏五月、軍を遣わして百済の松山城を攻めたが下せず、移って石頭城を襲い、男女三千を捕らえて帰った。
9十九年 — 新羅の牛鳴山城を奪う
十九年,春二月,命將襲新羅北境,虜獲八千人。夏四月,拔新羅牛鳴山城。
十九年春二月、将に命じて新羅の北の境を襲わせ、八千人を捕らえた。夏四月、新羅の牛鳴山城を奪った。
10二十二年 — 煬帝が詔して高句麗を討つ
二十二年,春二月,煬帝下詔,討高句麗。夏四月,車駕至涿郡之臨朔宮,四方兵皆集涿郡。
二十二年春二月、煬帝が詔を下して高句麗を討たせた。夏四月、天子の車駕が涿郡の臨朔宮に至り、四方の兵がみな涿郡に集まった。
11二十三年 — 煬帝の詔 (前)
二十三年,春正月壬午,帝下詔曰:「高句麗小醜,迷昏不恭,崇聚渤、碣之間,荐食遼、濊之境。雖復漢、魏誅戮,巢穴暫傾,亂離多阻,種落還集。萃川藪於往代,播寔繁以汔今。睠彼華壤,翦爲夷類,歷年永久,惡稔旣盈。天道禍淫,亡徵已兆。亂常敗德,非可勝圖,掩慝懷姦,唯曰日不足。移告之嚴,未嘗面受;朝覲之禮,莫肯躬親。誘納亡叛,不知紀極;充斥邊垂,亟勞烽候。關柝以之不靜,生人為之廢業。在昔薄伐,已漏天網,旣緩前禽之戮,未卽後服之誅,曾不懷恩,翻爲長惡,乃兼契丹之黨,處劉海戍,習靺鞨之服,侵軼遼西。又靑丘之表,咸修職貢,碧海之濱,同稟正朔,遂復敓攘琛賮,遏絶往來。虐及弗辜,誠而遇禍。輶車奉使,爰曁海東,旌節所次,途經藩境,而擁塞道路,拒絶王人,無事君之心,豈為臣之禮?此而可忍,孰不可容!且法令苛酷,賦斂煩重,强臣豪族,咸執國鈞,朋黨比周,以之成俗。
二十三年春正月の壬午、帝が詔を下して言った。
「高句麗の小醜は、迷い昏れて恭しくなく、渤海と碣石の間に群れ集まり、遼東と濊の境を重ねて食んだ。漢と魏がふたたび誅し殺して、その巣と穴はしばらく傾いたが、乱れと隔てが多く、族はまた集まった。過ぎた代に川と藪に集まり、広がり繁って今に至った。あの華やかな壤を顧みれば、剪られて夷の類となり、年を経ること久しく、悪は熟してすでに満ちた。
天の道は淫なる者に禍いし、亡ぶる徴はすでに現れた。常を乱し徳を敗ることは数えきれず、慝を掩い姦を懐くことは、ただ日が足りぬと言うばかりである。移し告げた厳しい旨を、かつて面を合わせて受けたことがなく、朝覲の礼を身みずから行おうとしなかった。亡げ叛いた者を誘い納れて際限を知らず、辺の垂りに充ち斥けて、しばしば烽と候を労させた。関の柝はそのために静まらず、生きる人はそのために業を廃した。
昔わずかに伐ったとき、すでに天の網から漏れ、先に捕らえた禽を殺すのを緩め、後に服した者を誅さなかったのに、かつて恩を懐わず、かえって悪を長じさせた。そこで契丹の党を併せて海辺の戍を殺し、靺鞨の服を習って遼西を侵した。
また青丘の外はみな職の貢ぎを修め、碧海の浜はともに正朔を受けているのに、ついにまた珍の貢ぎ物を奪い、往き来を遏め絶った。虐は罪なき者に及び、誠ある者が禍に遭った。輶車で使いを奉り、ここに海の東に及んだが、旌と節が宿るところ、道が藩の境を経るのに、道路を塞ぎ、王の人を拒み絶った。君に事える心がない。どうして臣たる礼であろうか。これを忍べるなら、何を容れられぬことがあろうか。
また法令は苛く酷く、賦と斂は煩わしく重く、強い臣と豪き族がみな国の鈞を執り、朋党を組んで周ることが、それによって俗となった。
12二十三年 — 煬帝の詔 (後)
賄貨如市,寃枉莫申。重以仍歲災凶,比屋饑饉,兵戈不息,徭役無期,力竭轉輸,身塡溝壑。百姓愁苦,爰誰適從?境內哀惶,不勝其弊。廻首面內,各懷性命之圖,黃髮稚齒,咸興酷毒之歎。省俗觀風,爰屆幽、朔,弔人問罪,無俟再駕。於是,親摠六師,用申九伐,拯厥阽危。協從天意,殄玆逋穢,剋嗣先謨。今宜授律啓行,分麾届路,掩渤海而雷震,歷扶餘以電掃。比戈按甲誓旅而後行,三先五申,必勝而後戰。左十二軍,出鏤方、長岑、溟海、蓋馬、建安、南蘇、遼東、玄菟、扶餘、朝鮮、沃沮、樂浪等道;右十二軍,出黏蟬、含資、渾彌、臨屯、候城、提奚、踏頓、肅愼、碣石、東暆、帶方、襄平等道。絡繹引途,摠集平壤。」凡一百十三萬三千八百人,號二百萬。
賄賂が市のようで、冤りと枉りを申べるところがない。それに重ねて年ごとに災いと凶作が続き、家ごとに飢え、兵と戈が息まず、徭役に期がなく、力は輸送に尽き、身は溝や壑に埋まる。百姓は愁え苦しみ、いったい誰に従えばよいのか。境の内は哀しみ惶れ、その弊えに堪えない。首を廻らして内に向かい、それぞれ性命の図りを懐き、黄ばんだ髪と幼い歯がみな酷く毒い嘆きを起こしている。
俗を省み風を観て、ここに幽州と朔方に届いた。人を弔い罪を問うのに、再び駕を待つことはない。そこで身みずから六師を総べ、九伐を申べ、その危うきを拯おう。天の意に協い従い、この逃げ隠れた穢れを殄し、先の謨を嗣ぎ成そう。
いま律を授けて行を啓き、麾を分けて路に届き、渤海を掩って雷のように震い、扶余を歴て電のように掃こう。戈を比べ甲を按じ、旅に誓ってから後に行き、三たび先に告げ五たび重ねて申し、必ず勝つと定めてから後に戦おう。
左の十二軍は鏤方・長岑・溟海・蓋馬・建安・南蘇・遼東・玄菟・扶余・朝鮮・沃沮・楽浪などの道を出で、右の十二軍は黏蟬・含資・渾弥・臨屯・候城・提奚・踏頓・肅愼・碣石・東暆・帯方・襄平などの道を出よ。連なり続いて途を引き、ことごとく平壌に集まれ。」
およそ百十三万三千八百人で、二百万と号した。
13二十三年 — 遼水を渡る
其餽輸者倍之。宜社於南桑乾水上,類上帝於臨朔宮南,祭馬祖於薊城北。帝親授節度,每軍上將、亞將各一人,騎兵四十隊。隊百人,十隊為團。步卒八十隊,分為四團,團各有偏將一人,其鎧胄、纓拂、旗旛,每團異色。日遣一軍,相去四十里,連營漸進,終四十日發,乃盡。首尾相繼,鼓角相聞,旌旗亘九百六十里。御營內,合十二衛、三臺、五省、九寺,分隸內外、前後、左右六軍,次後發,又亘八十里。近古出師之盛,未之有也。二月,帝御師進至遼水,衆軍摠會,臨水為大陣。我兵阻水拒守,隋兵不得濟。帝命工部尚書宇文愷,造浮橋三道於遼水西岸,旣成,引橋趣東岸,短不及岸丈餘。我兵大至,隋兵驍勇者,爭赴水接戰,我兵乘高擊之,隋兵不得登岸,死者甚衆。
糧を輸る者はその倍であった。
南の桑乾水のほとりで社に宜し、臨朔宮の南で上帝に類し、薊城の北で馬祖に祭った。帝がみずから節度を授けると、軍ごとに上将と亜将が各一人、騎兵が四十隊であった。一隊は百人で、十隊が一団となった。歩卒は八十隊で、分けて四団とし、団ごとにそれぞれ偏将一人があり、その鎧と胄、纓と拂、旗と旛は、団ごとに色が異なった。
日ごとに一軍を遣わし、互いに四十里ずつ隔てて営を連ね次第に進ませたので、四十日かけてようやくすべてが発った。首と尾が相継ぎ、鼓と角の音が互いに聞こえ、旌旗が九百六十里に亘った。御営の内には十二衛・三台・五省・九寺を合わせて内外・前後・左右の六軍に分け隷させ、その後に発たせたので、また八十里に亘った。近い昔に軍を出した盛んなさまで、このようなことはなかった。
二月、帝が軍を率いて進み遼水に至り、諸軍がことごとく会して水に臨んで大陣を張った。高句麗の兵が水を阻んで拒み守ったので、隋の兵は渡ることができなかった。帝は工部尚書の宇文愷に命じて遼水の西岸に浮橋三道を造らせた。できあがると橋を引いて東岸に向けたが、短くて岸に一丈余り及ばなかった。高句麗の兵が大挙して至ると、隋の兵の驍く勇ある者が争って水に赴いて接戦したが、高句麗の兵が高きに乗じて撃ったので、隋の兵は岸に登れず、死んだ者がはなはだ多かった。
14二十三年 — 煬帝が将たちを詰る
麥鐵杖躍登岸,與錢士雄、孟金叉等,皆戰死,乃斂兵引橋,復就西岸。更命少府監何稠接橋,二日而成。諸軍相次繼進,大戰于東岸。我兵大敗,死者萬計。諸軍乘勝,進圍遼東城,則漢之襄平城也。車駕到度遼,下詔赦天下,命刑部尚書衛文昇等,撫遼左之民,給復十年,建置郡縣,以相統攝。夏五月,初,隋諸將之東下也,帝戒之曰:「凡軍事進止,皆須奏聞待報,無得專擅。」遼東數出戰不利,乃嬰城固守。帝命諸軍攻之,又勅諸將,高句麗若降,則宜撫納,不得縱兵。遼東城將陷,城中人輒言請降,諸將奉旨,不敢赴機,先令馳奏。比報至,城中守禦亦備,隋隨出拒戰。如此再三,帝終不悟,旣而城久不下。六月己未,帝幸遼東城南,觀其城池形勢,因召諸將,詰責之曰:「公等自以官高,又恃家世,欲以暗懦待我邪?在都之日,公等皆不願我來,恐見病敗耳。
麦鉄杖が躍って岸に登ったが、銭士雄・孟金叉らとともにみな戦死したので、そこで兵を斂めて橋を引き、ふたたび西岸に就いた。あらためて少府監の何稠に命じて橋を接がせると、二日でできあがった。諸軍が次々に継いで進み、東岸で大いに戦った。高句麗の兵は大敗し、死んだ者は万を数えた。諸軍は勝ちに乗じて進み遼東城を囲んだ。これは漢の襄平城である。
車駕が遼水を渡ると、詔を下して天下を赦し、刑部尚書の衛文昇らに命じて遼左の民を撫で、役を十年免じ、郡県を建て置いて互いに統べ摂らせた。
夏五月、はじめ隋の諸将が東に下るとき、帝は戒めて言った。「およそ軍事の進むと止まるとは、みな奏し聞かせて報せを待たねばならぬ。勝手に専らにしてはならぬ。」
遼東は幾度も出て戦ったが利がなく、そこで城に籠って固く守った。帝は諸軍に命じてこれを攻めさせ、また諸将に勅して、高句麗がもし降れば撫でて納れ、兵を縦ってはならぬとした。
遼東城が陥ちようとするたび、城中の人がそのつど降りを請うと言い、諸将は旨を奉じて機に赴くことができず、まず馳せて奏させた。報せが至るころには城中の守りもまた備わり、隋に向かって出て拒み戦った。このようなことが二度三度あったが、帝はついに悟らず、やがて城は久しく下らなかった。
六月己未、帝は遼東城の南に行き、その城と池の形勢を観て、そこで諸将を召して詰り責めた。「公らはみずから官が高いとし、また家柄を恃み、暗く懦いさまで我を待とうというのか。都にあった日、公らはみな我が来るのを願わなかった。病み敗れるのを見られるのを恐れたのだ。
15二十三年 — 乙支文徳が降りを装う
我今來此,正欲觀公等所為,斬公輩爾,公今畏死,莫肯盡力,謂我不能殺公邪?」諸將咸戰懼失色。帝因留止城西數里,御六合城,我諸城堅守不下。左翊衛將軍來護兒,帥江、淮水軍,舳艫數百里,浮海先進入自浿水,去平壤六十里。與我軍相遇,進擊大破之。護兒欲乘勝趣其城,副摠管周法尚止之,請俟諸軍至俱進。護兒不聽,簡精甲數萬,直造城下。我將伏兵於羅郭內空寺中,出兵與護兒戰,而僞敗。護兒逐之入城,縱兵俘掠,無復部伍。伏兵發,護兒大敗,僅而獲免,士卒還者,不過數千人。我軍追至舡所,周法尚整陣待之,我軍乃退。護兒引兵還屯海浦,不敢復留應接諸軍。左翊衛大將軍宇文述,出扶餘道;右翊衛大將軍于仲文,出樂浪道;左驍衛大將軍荊元恒,出遼東道;右翊衛大將軍薛世雄,出沃沮道;右屯衛將軍辛世雄,出玄菟道;右禦衛將軍張瑾,出襄平道;右武侯將軍趙孝才,出碣石道;涿郡太守檢校左武衛將軍崔弘昇,出遂城道;檢校右禦衛虎賁郞將衛文昇,出增地道,皆會於鴨綠水西。
我がいまここに来たのは、まさに公らの為すところを観て、公らを斬ろうとしてである。公らはいま死を畏れて力を尽くそうとしない。我が公らを殺せぬと思うのか。」諸将はみな戦き懼れて色を失った。
帝はそこで城の西数里に留まり、六合城に御したが、高句麗の諸城は堅く守って下らなかった。
左翊衛将軍の来護児が江淮の水軍を率い、舳と艫が数百里に連なって海に浮かび、先に進んで浿水から入り、平壌を去ること六十里のところに至った。高句麗の軍と出会い、進み撃って大いに破った。護児は勝ちに乗じてその城に向かおうとしたが、副総管の周法尚が止め、諸軍が至るのを待ってともに進むことを請うた。護児は聞かず、精鋭の甲数万を簡んで、まっすぐ城の下に至った。
高句麗の将は羅郭の内の空いた寺に兵を伏せ、兵を出して護児と戦い、偽って敗れた。護児はこれを追って城に入り、兵を縦って俘え掠め、もはや部伍がなかった。伏せた兵が起こると、護児は大敗し、かろうじて免れ得て、士卒の帰った者は数千人に過ぎなかった。高句麗の軍が追って船のあるところに至ったが、周法尚が陣を整えて待っていたので、高句麗の軍はそこで退いた。護児は兵を引いて海浦に還り屯し、あえて再び留まって諸軍に応接しなかった。
左翊衛大将軍の宇文述は扶余道を出、右翊衛大将軍の于仲文は楽浪道を出、左驍衛大将軍の荊元恒は遼東道を出、右翊衛大将軍の薛世雄は沃沮道を出、右屯衛将軍の辛世雄は玄菟道を出、右禦衛将軍の張瑾は襄平道を出、右武侯将軍の趙孝才は碣石道を出、涿郡太守・検校左武衛将軍の崔弘昇は遂城道を出、検校右禦衛虎賁郎将の衛文昇は増地道を出て、みな鴨緑水の西に会した。
16二十三年 — 宇文述と于仲文が争う
述等兵,自瀘河、懷遠二鎭,人馬皆給百日糧,又給排甲、槍矟并衣資、戎具、火幕,人別三石已上,重莫能勝致。下令軍中:「遺棄米粟者斬!」士卒皆於幕下,掘坑埋之,纔行及中路糧已將盡。王遣大臣乙支文德,詣其營詐降,實欲觀虛實。于仲文先奉密旨:「若遇王及文德來者,必擒之。」仲文將執之,尚書右丞劉士龍,為慰撫使,固止之。仲文遂聽,文德還,旣而悔之,遣人紿文德曰:「更欲有言,可復來。」文德不顧,濟鴨綠水而去。仲文與述等,旣失文德,內不自安。述以糧盡欲還。仲文議以精銳追文德,可以有功,述固止之。仲文怒曰:「將軍仗十萬之衆,不能破小賊,何顔以見帝?且仲文此行,固知無功。何則?古之良將,能成功者,軍中之事,決在一人。
述らの兵は瀘河と懐遠の二鎮から、人と馬にみな百日の糧を与え、また排甲と槍矟、あわせて衣の資と戎具と火幕を与えたので、人ごとに三石以上となり、重くて担いきれなかった。軍中に令を下した。「米や粟を遺て棄てる者は斬る。」士卒はみな幕の下に坑を掘って埋めたので、やっと中ほどの路に至ったところで糧はすでに尽きようとしていた。
王は大臣の乙支文徳をその営に赴かせて偽って降らせたが、実は虚と実を観ようとしてであった。于仲文はさきに密旨を受けていた。「もし王や文徳が来ることがあれば、必ずこれを擒えよ。」仲文がこれを執ろうとすると、尚書右丞の劉士龍が慰撫使となっていて、固く止めた。仲文はついにこれを聴き、文徳は帰ったが、やがて悔いて人を遣わして文徳を偽り言った。「あらためて言いたいことがある。また来られよ。」文徳は顧みず、鴨緑水を渡って去った。
仲文は述らとともに、すでに文徳を失って、内心みずから安んじなかった。述は糧が尽きたとして還ろうとした。仲文は精鋭をもって文徳を追えば功を立てられると議したが、述は固く止めた。
仲文は怒って言った。「将軍は十万の衆を仗みながら小さな賊を破ることができない。何の顔あって帝に見えるのか。また仲文はこのたびの行き、もとより功がないと知っていた。なぜか。古の良き将で功を成し得た者は、軍中の事が一人において決まっていた。
17二十三年 — 薩水で大いに勝つ
今人各有心,何以勝敵?」時,帝以仲文有計劃,令諸軍諮稟節度,故有此言。由是,述等不得已而從之,與諸將,渡水追文德。文德見述軍士有饑色,故欲疲之,每戰輒走。述一日之中,七戰皆捷,旣恃驟勝,又逼群議,於是,遂進東濟薩水,去平壤城三十里,因山為營。文德復遣使詐降,請於述曰:「若旋師者,當奉王,朝行在所。」述見士卒疲弊,不可復戰,又平壤城險固,度難猝拔,遂因其詐而還。述等為方陣而行,我軍四面鈔撃,述等且戰且行。秋七月,至薩水,軍半濟,我軍自後擊其後軍,右屯衛將軍辛世雄戰死。於是,諸軍俱潰,不可禁止。將士奔還,一日一夜,至鴨綠水,行四百五十里。將軍天水王仁恭為殿,擊我軍却之。來護兒聞述等敗,亦引還。唯衛文昇一軍獨全。
いま人ごとにそれぞれ心がある。どうして敵に勝てようか。」
そのとき帝は仲文に計画があるとして、諸軍に節度を諮り受けさせていたので、この言があった。これによって述らはやむなくこれに従い、諸将とともに水を渡って文徳を追った。
文徳は述の軍士に飢えた色があるのを見て、ことさらに疲らせようと、戦うたびにそのつど走った。述は一日のうちに七たび戦ってみな勝ち、急な勝ちを恃み、また群議に迫られて、そこでついに進み東へ薩水を渡り、平壌城を去ること三十里のところで山に拠って営とした。
文徳はまた使者を遣わして偽って降り、述に請うた。「もし軍を旋されるなら、王を奉じて行在所に朝しましょう。」
述は士卒が疲れ弊れてふたたび戦えず、また平壌城が険しく固くて急には抜きがたいと度り、ついにその偽りに因って還った。述らは方陣をつくって行き、高句麗の軍が四面から鈔い撃ったので、述らは戦いながら行った。
秋七月、薩水に至り、軍が半ば渡ったとき、高句麗の軍が後ろからその後軍を撃ち、右屯衛将軍の辛世雄が戦死した。そこで諸軍はことごとく潰え、禁め止めることができなかった。将士は奔り還り、一日一夜で鴨緑水に至った。四百五十里を行ったのである。将軍の天水の王仁恭が殿となり、高句麗の軍を撃って却けた。来護児は述らが敗れたと聞いて、これも兵を引いて還った。ただ衛文昇の一軍だけが独り全かった。
18二十三年 — 三十万五千のうち二千七百人だけが帰る
初,九軍到度遼,凡三十萬五千,及還至遼東城,唯二千七百人,資儲器械巨萬計,失亡蕩盡。帝大怒,鎖繋述等,癸卯引還。初,百濟王璋遣使,請討高句麗。帝使之覘我動靜,璋內與我潛通。隋軍將出,璋使其臣國智牟,入隋請師期。帝大悅,厚加賞賜,遣尚書起部郞席律,詣百濟,告以期會。及隋軍渡遼,百濟亦嚴兵境上,聲言助隋,實持兩端。是行也,唯於遼水西,拔我武厲邏,置遼東郡及通定鎭而已。
はじめ九軍が遼水を渡ったとき、およそ三十万五千であったのに、還って遼東城に至ると、ただ二千七百人だけであり、資と儲えと器械は巨万を数えたが、ことごとく失われ尽きた。帝は大いに怒って述らを鎖に繋ぎ、癸卯に兵を引いて還った。
はじめ百済王の璋が使者を遣わして高句麗を討つことを請うた。帝は彼に高句麗の動静を覘わせたが、璋は内では高句麗と潜かに通じていた。隋の軍が出ようとするとき、璋はその臣の国智牟を遣わして隋に入り、軍を出す期を問わせた。帝は大いに悦んで厚く賞を加え、尚書起部郎の席律を百済に遣わして会う期を告げた。隋の軍が遼水を渡ると、百済もまた境の上に兵を厳しくして隋を助けると声言したが、実は両端を持していた。
このたびの行きでは、ただ遼水の西で高句麗の武厲邏を抜き、遼東郡と通定鎮を置いただけであった。
19二十四年 — ふたたび遼東を攻める
二十四年,春正月,帝詔徵天下兵,集涿郡,募民為驍果,修遼東古城,以貯軍糧。二月,帝謂侍臣曰:「高句麗小虜,侮慢上國。今,拔海移山,猶望克果,况此虜乎?」乃復議代伐。左光祿大夫郭榮諫曰:「戎狄失禮,臣下之事。千鈞之弩,不為鼷鼠發機。奈何親辱萬乘,以敵小寇乎?」帝不聽。夏四月,車駕度遼,遣宇文述與楊義臣,趣平壤。王仁恭出扶餘道,進軍至新城。我兵數萬拒戰,仁恭帥勁騎一千,擊破之。我軍嬰城固守。帝命諸將攻遼東,聽以便宜從事。飛樓橦、雲梯、地道,四面俱進,晝夜不息。我應變拒之,二十餘日不拔。主客死者甚衆。衝梯竿長十五丈,驍果沈光升其端,臨城與我軍戰,短兵接殺十數人。我軍競擊之,而墜未及地,適遇竿有垂絙,光接而復上。
二十四年春正月、帝は詔して天下の兵を徴し涿郡に集め、民を募って驍果とし、遼東の古城を修めて軍糧を貯えさせた。
二月、帝は侍臣に言った。「高句麗の小さな虜が上国を侮り慢る。いま海を抜き山を移すことさえなお成し得ると望むのに、ましてこの虜についてはどうか。」そこでふたたび伐つことを議した。
左光禄大夫の郭栄が諫めて言った。「戎狄が礼を失うのは臣下の事です。千鈞の弩は鼷鼠のために機を発しません。どうしてみずから万乗を辱めて小さな寇に敵されるのですか。」帝は聴かなかった。
夏四月、車駕が遼水を渡り、宇文述と楊義臣を遣わして平壌に向かわせた。王仁恭は扶余道を出て、軍を進めて新城に至った。高句麗の兵数万が拒み戦うと、仁恭は勁い騎兵一千を率いてこれを撃ち破った。高句麗の軍は城に籠って固く守った。
帝は諸将に命じて遼東を攻めさせ、便宜に従って事を行うことを許した。飛楼と橦、雲梯、地道で四面からともに進み、昼夜息まなかった。高句麗は変に応じて拒み、二十余日たっても抜けなかった。主と客で死んだ者がはなはだ多かった。
衝梯の竿は長さ十五丈であったが、驍果の沈光がその端に登り、城に臨んで高句麗の軍と戦い、短い兵で接して十数人を殺した。高句麗の軍が競ってこれを撃つと、落ちて地に及ばぬうちに、ちょうど竿に垂れた絙があったので、光はこれを掴んでまた上った。
20二十四年 — 楊玄感の叛きで退く
帝望見壯之,卽拜朝散大夫。遼東城久不下,帝遣造布囊百餘萬口,滿貯士土,欲積為魚梁大道,闊三十步,高與城齊,使戰士登而攻之。又作八輪樓車,高出於城,夾魚梁道,欲俯射城內。指期將攻,城內危蹙。會,楊玄感叛書至,帝大懼。又聞達官子弟皆在玄感所,益憂之。兵部侍郞斛斯政,素與玄感善,內不自安,來奔。帝夜密召諸將,使引軍還。軍資器械攻具,積如丘山,營壘帳幕,案堵不動,衆心恟懼,無復部分,諸道分散。我軍卽時覺之,然不敢出,但於城內鼓噪。至來日午時,方漸出外,猶疑隋軍詐之。經二日,乃出數千兵追躡,畏隋軍之衆,不敢逼,常相去八九十里。將至遼水,知御營畢度,乃敢逼後軍。時,後軍猶數萬人,我軍隨而鈔撃,殺略數千人。
帝は望み見てこれを壮として、すぐに朝散大夫を拝した。
遼東城が久しく下らないので、帝は布の囊を百余万口造らせ、土を満たし貯えて、魚梁の大道を積み、広さ三十歩、高さは城と斉しくして、戦う士を登らせて攻めさせようとした。また八輪の楼車を作り、城より高く出して魚梁道を挟み、城内を俯して射させようとした。期を指して攻めようとすると、城内は危うく蹙まった。
ちょうど楊玄感が叛いたという書が至り、帝は大いに懼れた。また高き官の子弟がみな玄感のもとにいると聞いて、いっそう憂えた。兵部侍郎の斛斯政はもとより玄感と善く、内心みずから安んじないで、奔ってきた。
帝は夜に密かに諸将を召し、軍を引いて還らせた。軍の資と器械と攻めの具は丘や山のように積まれ、営と壘と帳と幕はそのまま動かされず、衆の心は恟え懼れて、もはや部の分けもなく、諸道に分かれ散った。
高句麗の軍はただちにこれを覚ったが、あえて出ず、ただ城内で鼓を打ち喚いた。翌日の午の時に至ってようやく次第に外に出たが、なお隋の軍が偽っているのかと疑った。二日を経てようやく数千の兵を出して追い蹑んだが、隋の軍の多さを畏れてあえて逼らず、つねに互いに八、九十里を隔てた。遼水に至りそうになって、御営がすべて渡り終えたと知ってから、ようやくあえて後軍に逼った。そのとき後軍はなお数万人であったが、高句麗の軍は従いながら鈔い撃ち、数千人を殺し掠めた。
21二十五年 — 王が降りを乞う
二十五年,春二月,帝詔百寮,議伐高句麗,數日無敢言者。詔復徵天下兵,百道俱進。秋七月,車駕次懷遠鎭。時,天下已亂,所徵兵多失期不至,吾國亦困弊。來護兒至卑奢城,我兵逆戰。護兒擊克之,將趣平壤。王懼,遣使乞降,因囚送斛斯政。帝大悅,遣使持節,召護兒還。八月,帝自懷遠鎭班師。冬十月,帝還西京,以我使者及斛斯政,告大廟,仍徵王入朝,王竟不從。勅將帥嚴裝,更圖後擧,竟不果行。
二十五年春二月、帝は百寮に詔して高句麗を伐つことを議させたが、数日たってもあえて言う者がなかった。詔してふたたび天下の兵を徴し、百の道からともに進ませた。
秋七月、車駕が懐遠鎮に次した。そのとき天下はすでに乱れ、徴した兵は多く期を失って至らず、高句麗もまた困れ弊れていた。
来護児が卑奢城に至ると、高句麗の兵が迎え戦った。護児は撃ってこれに勝ち、平壌に向かおうとした。王は懼れて使者を遣わして降りを乞い、あわせて斛斯政を囚えて送った。帝は大いに悦び、使者に節を持たせて遣わし、護児を召して還らせた。
八月、帝は懐遠鎮から軍を班した。冬十月、帝は西京に還り、高句麗の使者と斛斯政を大廟に告げ、続いて王を徴して朝させようとしたが、王はついに従わなかった。将帥に勅して厳しく装い、あらためて後の挙を図らせたが、ついに行われなかった。
22二十九年 — 嬰陽王が亡くなる
二十九年,秋九月,王薨,號曰嬰陽王。
二十九年秋九月、王が亡くなった。嬰陽王と号した。