寶藏王 上寶藏王上
1寶藏王が即位する
王,諱藏,以失國故無諡。建武王弟大陽王之子也。建武王在位第二十五年,蓋蘇文弑之,立藏繼位。新羅謀伐百濟,遣金春秋乞師,不從。
王は名を藏といい、国を失ったので諡がない。建武王(榮留王)の弟である大陽王の子である。建武王の在位第二十五年に蓋蘇文がこれを弑し、藏を立てて位を継がせた。新羅が百済を伐つことを謀り、金春秋を遣わして軍を乞うたが、従わなかった。
夾注 1
或云寶藏。
寶藏ともいう。
2二年 — 道教を請い、唐が冊命する
二年,春正月,封父為王。遣使入唐朝貢。三月,蘇文告王曰:「三敎譬如鼎足,闕一不可。今儒釋並興,而道敎未盛,非所謂備天下之道術者也。伏請遣使於唐,求道敎以訓國人。」大王深然之,奉表陳請。太宗遣道士叔達等八人,兼賜老子『道德經』。王喜,取僧寺館之。閏六月,唐太宗曰:「蓋蘇文弑其君,而專國政,誠不可忍。以今日兵力,取之不難,但不欲勞百姓,吾欲使契丹、靺鞨擾之,何如?」長孫無忌曰:「蘇文自知罪大,畏大國之討,嚴設守備。陛下姑為之隱忍,彼得以自安,必更驕惰,愈肆其惡,然後討之,未晚也。」帝曰:「善。」遣使持節備禮冊命,詔曰:「懷遠之規,前王令典,繼世之義,列代舊章。高句麗國王藏,器懷昭敏,識宇詳正,早習禮敎,德義有聞。肇承藩業,誠款先著,宜加爵命,允玆故實,可上柱國遼東郡王高句麗王。」秋九月,新羅遣使於唐,言:百濟攻取我四十餘城,復與高句麗連兵,謀絶入朝之路。乞兵救援。十五日,夜明不見月,衆星西流。
二年春正月、父を封じて王とした。使者を遣わして唐に入り朝貢した。
三月、蘇文が王に申し上げた。「三つの教えは譬えれば鼎の足のようなもので、一つを欠いてもなりません。いま儒と釈はともに興っていますが、道教はまだ盛んでなく、いわゆる天下の道術を備えたものではありません。伏してお願いします。使者を唐に遣わして道教を求め、国の人を訓えさせてください。」
大王は深くそのとおりだと思い、表を奉って請うた。太宗は道士の叔達ら八人を遣わし、あわせて老子の『道徳経』を賜った。王は喜んで、僧の寺を取って館とした。
閏六月、唐の太宗が言った。「蓋蘇文はその君を弑して国の政を専らにしている。まことに忍びがたい。今日の兵力でこれを取るのは難しくないが、ただ百姓を労させたくない。朕は契丹と靺鞨にこれを擾させようと思うが、どうか。」
長孫無忌が言った。「蘇文はみずから罪が大きいと知り、大国の討つのを畏れて守りの備えを厳しくしています。陛下がしばらくこれを隠し忍ばれれば、彼はみずから安んじて必ずさらに驕り惰り、いよいよその悪を恣にするでしょう。そののちに討っても遅くはありません。」
帝は言った。「よい。」
使者に節を持たせ礼を備えて冊命させ、詔して言った。「遠きを懐ける規は前の王の令き典であり、世を継ぐ義は列代の旧き章である。高句麗国王の藏は、器と懐が昭く敏く、識の宇が詳しく正しく、早くから礼の教えを習い、徳と義が聞こえている。はじめて藩の業を承け、誠と款ろさが先に著れた。よろしく爵と命を加え、この故実に允うべきである。上柱国・遼東郡王・高句麗王とするのがよい。」
秋九月、新羅が唐に使者を遣わして申し上げた。「百済がわが四十余城を攻め取り、さらに高句麗と兵を連ねて、朝しに入る路を絶つことを謀っています。兵で救援してくださることを乞います。」
十五日、夜が明るいのに月が見えず、衆星が西に流れた。
3三年 — 玄奬が来て諭す
三年,春正月,遣使入唐朝貢。帝命司農丞相里玄奬,賚璽書賜王曰:「新羅委質國家,朝貢不乏,爾與百濟,各宜戢兵。若更攻之,明年發兵,擊爾國矣。」玄奬入境,蓋蘇文已將兵擊新羅,破其兩城。王使召之,乃還。玄奬諭以勿侵新羅,蓋蘇文謂玄奬曰:「我與新羅,怨隙已久。往者,隋人入寇,新羅乘釁,奪我地五百里,其城邑皆據有之。自非歸我侵地,兵恐未能已。」玄奬曰:「旣往之事,焉可追論?今遼東諸城,本皆中國郡縣,中國尚且不言,高句麗豈得必求故地?」莫離支竟不從。玄奬還,具言其狀。太宗曰:「蓋蘇文弑其君,賊其大臣,殘虐其民,今又違我詔命,侵暴鄰國,不可以不討。」秋七月,帝將出兵,勅、饒、江三州,造四百艘,以載軍糧。遣營州都督張儉等,帥幽、營二都督兵,及契丹、奚、靺鞨,先擊遼東,以觀其勢。
三年春正月、使者を遣わして唐に入り朝貢した。
帝は司農丞の相里玄奬に命じて、璽書を持って行き王に賜らせた。「新羅は国家に質を委ね、朝貢に欠けがない。お前と百済はそれぞれ兵を戢めるべきである。もしさらに攻めるなら、明年に兵を発してお前の国を撃つであろう。」
玄奬が境に入ったとき、蓋蘇文はすでに兵を率いて新羅を撃ち、その二城を破っていた。王が人を遣わして召したので、そこで還った。玄奬が新羅を侵すなと諭すと、蓋蘇文は玄奬に言った。「われと新羅は、怨みと隙がすでに久しい。往に隋の人が寇に入ったとき、新羅は釁に乗じてわが地五百里を奪い、その城邑をみな据え有っている。わが侵された地を帰さぬかぎり、兵はおそらく已むことができまい。」
玄奬は言った。「すでに往いた事を、どうして追って論じられよう。いま遼東の諸城はもともとみな中国の郡県であったが、中国はそれでもなお言わない。高句麗がどうして必ず故の地を求め得ようか。」
莫離支はついに従わなかった。玄奬が還ってその状を具さに言うと、太宗は言った。「蓋蘇文はその君を弑し、その大臣を賊し、その民を残り虐げ、いままたわが詔命に違い、隣の国を侵し暴した。討たずにはおけない。」
秋七月、帝は兵を出そうとして、洪・饒・江の三州に四百艘を造らせ、軍の糧を載せさせた。営州都督の張倹らを遣わし、幽と営の二都督の兵および契丹・奚・靺鞨を率いて、まず遼東を撃ってその勢を観させた。
4三年 — 長安の老人たちに告げる
以大理卿韋挺,爲餽輸使,自河北諸州,皆受挺節度,聽以便宜從事。又命少卿蕭銳,轉河南諸州糧入海。九月,莫離支貢白金於唐。楮遂良曰:「莫離支弑其君,九夷所不容。今將討之,而納其金,此郜鼎之類也,臣謂不可受。」帝從之。使者又言:「莫離支遣官五十,入宿衛。」帝怒謂使者曰:「汝曹皆事高武,有官爵,莫離支弑逆,汝曹不能復讎,今更為之遊說,以欺大國,罪孰大焉?」悉以屬大理。冬十月,平壤雨色赤。帝欲自將討之,召長安耆老,勞曰:「遼東,故中國地,而莫離支賊殺其主,朕將自行經略之。故與父老約,子若孫從我行者,我能拊循之,無容恤也。」則厚賜布粟。群臣皆勸帝毋行。帝曰:「吾知之矣,去本以趣末;捨高以取下;釋近而之遠,三者為不祥,伐高句麗,是也。
大理卿の韋挺を糧を輸る使いとし、河北の諸州はみな挺の節度を受けて便宜に従って事を行うことを許した。また少卿の蕭鋭に命じて河南の諸州の糧を転じて海に入れさせた。
九月、莫離支が唐に白金を貢いだ。楮遂良が言った。「莫離支はその君を弑しました。九夷も容れぬところです。いまこれを討とうとしながらその金を納れるのは、郜の鼎の類です。臣は受けてはならぬと思います。」帝はこれに従った。
使者はまた言った。「莫離支は官五十を遣わして宿衛させます。」
帝は怒って使者に言った。「お前たちはみな高武(榮留王)に事えて官爵があった。莫離支が弑し逆らったのに、お前たちは讐を復することができず、いまさらに彼のために遊説して大国を欺く。罪は何がこれより大きいか。」ことごとく大理に属けた。
冬十月、平壌に色の赤い雨が降った。
帝はみずから将して討とうとし、長安の耆老を召して労って言った。「遼東はもと中国の地であるのに、莫離支がその主を賊し殺した。朕はみずから行ってこれを経略しよう。それゆえ父老と約す。子や孫でわれに従って行く者は、われがよく拊い循うので、恤える必要はない。」そして布と粟を厚く賜った。
群臣はみな帝に行くなと勧めた。帝は言った。「われは知っている。本を去って末に趣くこと、高きを捨てて下きを取ること、近きを釈いて遠きに行くこと、この三つは不祥である。高句麗を伐つのがそれだ。
5四年 — 軍を起こす
然蓋蘇文弑君,又戮大臣以逞,一國之人,延頸待救,議者顧未亮耳。」於是,北輸粟營州,東儲粟古大人城。十一月,帝至洛陽。前宜州刺史鄭天璹,已致仕,帝以其嘗從隋煬帝伐高句麗,召詣行在問之。對曰:「遼東道遠,糧轉艱阻,東夷善守城,不可猝下。」帝曰:「今日非隋之比,公但聽之。」以刑部尚書張亮,為平壤道行軍大摠管,帥江、淮、嶺、硤兵四萬,長安、洛陽募士三千,戰艦五百艘,自東州泛海,趣平壤。又以太子詹事左衛率李世勣,為遼東道行軍大摠管,帥步騎六萬,及蘭、河二州降胡,趣遼東。兩軍合勢,大集於幽州。遣行軍摠管姜行本、少監丘行淹,先督衆士,造梯衝於安羅山。時,遠近勇士應募,及獻攻城器械者,不可勝數。帝皆親加損益,取其便易。
しかし蓋蘇文は君を弑し、また大臣を戮して恣にしている。一国の人が頸を延ばして救いを待っているのに、議する者がかえって亮らかでないだけだ。」
そこで北は営州に粟を輸り、東は古大人城に粟を儲えた。
十一月、帝は洛陽に至った。前に宜州刺史であった鄭天璹はすでに致仕していたが、帝は彼がかつて隋の煬帝に従って高句麗を伐ったことから、召して行在に詣らせて問うた。答えて言った。「遼東は道が遠く、糧の転送が艱く阻まれ、東夷は城を善く守るので、急には下せません。」帝は言った。「今日は隋に比べるものではない。公はただ聴いておれ。」
刑部尚書の張亮を平壌道行軍大総管とし、江・淮・嶺・硤の兵四万と、長安・洛陽で募った士三千、戦艦五百艘を率いて、東州から海を渡って平壌に趨らせた。また太子詹事・左衛率の李世勣を遼東道行軍大総管とし、歩騎六万と蘭・河の二州の降った胡を率いて遼東に趨らせた。両軍は勢を合わせて幽州に大いに集まった。
行軍総管の姜行本と少監の丘行淹を遣わし、まず衆士を督して安羅山で梯と衝を造らせた。そのとき遠近の勇士が募りに応じ、城を攻める器械を献じる者が数えきれなかった。帝はみなみずから損じ益して、その便く易いものを取った。
6四年 — 必ず勝つ五つの道
又手詔諭天下:「以高句麗蓋蘇文,弑主虐民,情何可忍?今欲巡幸幽、薊,問罪遼、碣,所過營頓,無為勞費。」且言:「昔,隋煬帝殘暴其下,高句麗王,仁愛其民。以思亂之軍,擊安和之衆,故不能成功。今略言必勝之道有五:一曰,以大擊小;二曰,以順討逆;三曰,以理乘亂;四曰,以逸敵勞;五曰,以悅當怨,何憂不克?布告元元,勿為疑懼。」於是,凡頓舍供備之具,減者太半。詔諸軍及新羅、百濟、奚、契丹,分道擊之。
また手ずから詔して天下に諭した。「高句麗の蓋蘇文が主を弑し民を虐げている。情としてどうして忍べようか。いま幽と薊を巡幸し、遼と碣に罪を問おうとする。通り過ぎる営や頓では、労し費えることのないようにせよ。」
また言った。「昔、隋の煬帝はその下の者に残く暴く、高句麗の王はその民を仁く愛した。乱を思う軍で安らかに和らいだ衆を撃ったので、功を成すことができなかった。
いま必ず勝つ道を略して言えば五つある。一つには大をもって小を撃つこと、二つには順をもって逆を討つこと、三つには理をもって乱に乗ること、四つには逸をもって労に敵すること、五つには悦ぶをもって怨むに当たること。どうして克てぬことを憂えようか。元元に布告する。疑い懼れてはならぬ。」
そこで、およそ頓舎や供え備える具を減らしたものが太半であった。詔して諸軍および新羅・百済・奚・契丹に、道を分けてこれを撃たせた。
7四年 — 蓋牟城を奪う
四年,春正月,李世勣軍,至幽州。三月,帝至定州,謂侍臣曰:「遼東本中國之地,隋氏四出師,而不能得。朕今東征,欲爲中國,報子弟之讎,高句麗雪君父之恥耳。且方隅大定,唯此未平,故及朕之未老,用士大夫餘力,以取之。」帝發定州,親佩弓矢,手結雨衣於鞍後。李世勣軍發柳城,多張形勢,若出懷遠鎭者,而潛師北趣甬道,出我不意。夏四月,世勣自通定,濟遼水,至玄菟,我城邑大駭,皆閉門自守。副大摠管江夏王道宗,將兵數千,至新城,折衝都尉曹三良,引十餘騎,直壓城門,城中驚懼,無敢出者。營州都督張儉,將胡兵為前鋒,進度遼水,趨建安城,破我兵,殺數千人。李世勣、江夏王道宗,攻盖牟城,拔之,獲一二萬人、糧十萬石,以其地為盖州。
四年春正月、李世勣の軍が幽州に至った。
三月、帝は定州に至り、侍臣に言った。「遼東はもともと中国の地であるのに、隋氏は四たび軍を出してなお得られなかった。朕がいま東を征つのは、中国のために子弟の讐を報じ、高句麗のために君と父の恥を雪ごうとするだけである。また四方の隅は大いに定まり、ただここだけが平らかでない。それゆえ朕の老いぬうちに、士大夫の余りの力を用いてこれを取るのだ。」
帝は定州を発つとき、みずから弓矢を佩び、手ずから雨衣を鞍の後ろに結んだ。
李世勣の軍は柳城を発ち、形勢を大いに張って懐遠鎮に出るかのように見せ、ひそかに軍を北の甬道に趨らせて、高句麗の意ならぬところに出た。
夏四月、世勣は通定から遼水を渡って玄菟に至ると、高句麗の城邑は大いに駭き、みな門を閉じてみずから守った。副大総管の江夏王道宗が兵数千を率いて新城に至ると、折衝都尉の曹三良が十余騎を引いてまっすぐ城門を圧したので、城中は驚き懼れ、あえて出る者がなかった。
営州都督の張倹は胡の兵を率いて前鋒となり、進んで遼水を渡り、建安城に趨って高句麗の兵を破り、数千人を殺した。李世勣と江夏王道宗は蓋牟城を攻めてこれを抜き、一、二万人と糧十万石を獲て、その地を蓋州とした。
8四年 — 遼東城の下で戦う
張亮帥舟師,自東萊度海,襲卑沙城。城四面懸絶,惟西門可上。程名振引兵夜至,副摠管王大度先登。五月,城陷,男女八千口沒焉。李世勣進至遼東城下。帝至遼澤,泥淖二百餘里,人馬不可通。將作大匠閻立德,布土作橋,軍不留行,度澤東。王發新城、國內城步騎四萬,救遼東。江夏王道宗,將四千騎逆之,軍中皆以為衆寡懸絶,不若深溝高壘,以待車駕之至。道宗曰:「賊恃衆有輕我心,遠來疲頓,擊之必敗。當淸路以待乘輿,乃更以賊遺君父乎?」都尉馬文擧曰:「不遇勍敵,何以顯壯士?」策馬奔擊,所向皆靡。衆心稍安,旣合戰,行軍摠管張君乂退走,唐兵敗衄。道宗收散卒,登高而望見,我軍陣亂,與驍騎數千衝之。李世勣引兵助之,我軍大敗,死者千餘人。
張亮は舟師を率いて東萊から海を渡り、卑沙城を襲った。城は四面が懸け絶ち、ただ西門だけが上れた。程名振が兵を引いて夜に至り、副総管の王大度が先に登った。五月、城が陥ち、男女八千口が没した。
李世勣は進んで遼東城の下に至った。帝が遼沢に至ると、泥と淖が二百余里で、人も馬も通れなかった。将作大匠の閻立徳が土を布いて橋を作ったので、軍は行くのを留めず沢の東を渡った。
王は新城と国内城の歩騎四万を発して遼東を救わせた。江夏王道宗が四千騎を率いてこれを迎えると、軍中ではみな衆と寡が懸け絶っているので、溝を深くし壘を高くして車駕の至るのを待つに越したことはないとした。
道宗は言った。「賊は衆を恃んで我を軽んずる心があり、遠く来て疲れ頓している。これを撃てば必ず敗れる。まさに路を清めて乗輿を待つべきであるのに、かえって賊を君と父に遺すのか。」
都尉の馬文挙は言った。「勍い敵に遇わずして、どうして壮士を顕そうか。」馬に策を当てて奔り撃つと、向かうところみな靡いた。
衆の心はやや安んじ、やがて合い戦ったが、行軍総管の張君乂が退いて走り、唐の兵は敗れた。道宗は散った卒を収め、高きに登って望み見、高句麗の軍の陣が乱れているのを見て、驍い騎数千とともにこれを衝いた。李世勣が兵を引いてこれを助けたので、高句麗の軍は大敗し、死んだ者が千余人であった。
9四年 — 遼東城が落ちる
帝度遼水,撤橋以堅士卒之心,軍於馬首山。勞賜江夏王道宗,超拜馬文擧中郞將,斬張君乂。帝自將數百騎,至遼東城下,見士卒負土塡塹,帝分其尤重者,於馬上持之,從官爭負土置城下。李世勣攻遼東城,晝夜不息,旬有二日。帝引精兵會之,圍其城數百里,鼓噪聲振天地。城有朱蒙祠,祠有鎖甲銛矛。妄言前燕世天所降。方圍急,飾美女以婦神,巫言:「朱蒙悅,城必完。」勣列砲車,飛大石過三百步,所當輒潰。吾人積木為樓,結絙網,不能拒,以衝車撞陴屋碎之。時,百濟上金髹鎧,又以玄金爲文鎧,士被以從。帝與勣會,甲光炫日。南風急,帝遣銳卒,登衝竿之末,熱其西南樓。火延燒城中,因揮將士登城。我軍力戰不克,死者萬餘人。見捉勝兵萬餘人,男女四萬口,糧五十萬石,以其城為遼州。
帝は遼水を渡り、橋を撤して士卒の心を堅くし、馬首山に軍した。江夏王道宗を労って賜い、馬文挙を超えて中郎将に拝し、張君乂を斬った。
帝はみずから数百騎を率いて遼東城の下に至り、士卒が土を負って塹を填めているのを見て、帝はそのとりわけ重いものを分けて馬の上に持ったので、従う官が争って土を負い城の下に置いた。
李世勣は遼東城を攻め、昼夜息まないこと十二日であった。帝は精兵を引いてこれに会し、その城を数百里にわたって囲み、鼓と喚きの声が天地を振るわせた。
城に朱蒙の祠があり、祠に鎖の甲と銛い矛があったが、前の燕の世に天が降したものだとみだりに言われていた。まさに囲みが急になると、美女を飾って神の婦とし、巫が言った。「朱蒙が悦んだ。城は必ず完かろう。」
勣は砲車を列べ、大石を三百歩越えて飛ばしたので、当たるものはそのつど潰れた。高句麗の人は木を積んで楼を作り、絙で網を結んだが拒ぐことができず、衝車で陴の屋を撞いて砕かれた。
そのとき百済が金で髹った鎧を上り、また玄い金で文の鎧を作ったので、士はこれを被て従った。帝が勣と会すると、甲の光が日に炫いた。
南の風が急であったので、帝は鋭い卒を遣わして衝竿の末に登らせ、その西南の楼を焼かせた。火は延びて城中を焼いたので、それに因って将士に麾いて城に登らせた。高句麗の軍は力めて戦ったが克てず、死んだ者が万余人であった。捉えられた勝れた兵が万余人、男女四万口、糧五十万石で、その城を遼州とした。
10四年 — 白巖城が降る
李世勣進攻白崖城西南,帝臨其西北。城主孫伐音,潛遣腹心請降,臨城投刀鉞爲信,曰:「奴願降,城中有不從者。」帝以唐幟與其使曰:「必降者,宜立之城上。」代音立幟,城中人以為唐兵已登城,皆從之。帝之克遼東也,白巖城請降,旣而中悔。帝怒其反覆,令軍中曰:「得城,當悉以人物,賞戰士。」李世勣見帝將受其降,帥甲士數十人,請曰:「士卒所以爭冒矢石,不顧其死者,貪虜獲耳。今城垂拔,奈何更受其降,孤戰士之心?」帝下馬謝曰:「將軍言是也,然縱兵殺人,而虜其妻孥,朕所不忍。將軍麾下有功者,朕以庫物賞之,庶因將軍贖此一城。」世勣乃退,得城中男女萬餘口,臨水設幄,受其降,仍賜之食,八十已上,賜帛有差。他城之兵在白巖者,悉慰諭給糧仗,任其所之。
李世勣は進んで白巖城の西南を攻め、帝はその西北に臨んだ。城主の孫伐音はひそかに腹心を遣わして降りを請い、城に臨んで刀と鉞を投げて信とし、言った。「奴は降ることを願いますが、城中に従わぬ者がおります。」
帝は唐の幟をその使いに与えて言った。「必ず降るなら、これを城の上に立てるがよい。」代音が幟を立てると、城中の人は唐の兵がすでに城に登ったと思い、みなこれに従った。
帝が遼東を克ったとき、白巖城は降りを請いながら、やがて中ごろ悔いた。帝はその反り覆るのに怒り、軍中に令して言った。「城を得たら、人も物もことごとく戦う士に賞とする。」
李世勣は帝がその降りを受けようとするのを見て、甲士数十人を率いて請うた。「士卒が争って矢と石を冒し、その死を顧みない理由は、虜え獲ることを貪るだけです。いま城は抜けようとしているのに、どうしてまたその降りを受けて、戦う士の心を孤にされるのですか。」
帝は馬を下りて謝して言った。「将軍の言は是である。しかし兵を縦って人を殺し、その妻子を虜えるのは、朕の忍びぬところだ。将軍の麾下で功ある者には、朕が庫の物で賞とする。どうか将軍に因ってこの一城を贖いたい。」
世勣はそこで退いた。城中の男女万余口を得て、水に臨んで幄を設けてその降りを受け、続いて食を賜り、八十以上には帛を差をつけて賜った。他の城の兵で白巖にいた者は、ことごとく慰め諭し、糧と仗を給して、その行きたいところに任せた。
11四年 — 安市城に進む
先是,遼東城長史,為部下所殺,其省事奉其妻子,奔白巖。帝憐其有義,賜帛五匹,為長史造靈輿,歸之平壤。以白巖城為巖州,以孫代音為刺史。初,莫離支遣加尸城七百人,戍蓋牟城,李世勣盡虜之。其人請從軍自效。帝曰:「汝家皆在加尸,汝為我戰,莫離支必殺汝妻子。得一人之力,而滅一家,吾不忍也。」皆稟賜遣之。以盖牟城為蓋州。帝至安市城,進兵攻之。北部耨薩高延壽、南部耨薩高惠眞,帥我軍及靺鞨兵十五萬,救安市。帝謂侍臣曰:「今為延壽策有三。引兵直前,連安市城為壘,據高山之險,食城中之粟,縱靺鞨掠吾牛馬,攻之不可猝下,欲歸則泥潦爲阻,坐困吾軍,上策也;拔城中之衆,與之宵遯,中策也;不度智能,來與吾戰,下策也。卿曹觀之,彼必出下策,成擒在吾目中矣。
これより先、遼東城の長史が部下に殺され、その省事がその妻子を奉じて白巖に奔った。帝はその義あるのを憐れんで帛五匹を賜り、長史のために霊の輿を造って平壌に帰らせた。
白巖城を巖州とし、孫代音を刺史とした。
はじめ莫離支は加尸城の七百人を遣わして蓋牟城を戍らせたが、李世勣がことごとくこれを虜にした。その人らが従軍してみずから効すことを請うと、帝は言った。「お前たちの家はみな加尸にある。お前たちがわがために戦えば、莫離支は必ずお前たちの妻子を殺すだろう。一人の力を得て一家を滅ぼすのは、われの忍びぬところだ。」みな糧を給して遣わした。蓋牟城を蓋州とした。
帝は安市城に至り、兵を進めてこれを攻めた。北部の耨薩の高延寿と南部の耨薩の高恵真が、高句麗の軍と靺鞨の兵十五万を率いて安市を救った。
帝は侍臣に言った。「いま延寿のための策には三つある。兵を引いてまっすぐ前み、安市城と連ねて壘とし、高い山の険に拠り、城中の粟を食み、靺鞨を縦ってわが牛馬を掠めさせれば、これを攻めても急には下せず、帰ろうとすれば泥と潦が阻む。坐してわが軍を困らせる。これが上策である。城中の衆を抜いて、ともに宵に遯れる。これが中策である。智と能を度らず、来てわれと戦う。これが下策である。卿らは見ておれ。彼らは必ず下策に出る。擒となるさまはわが目の中にある。」
12四年 — 高正義の言を聴かない
」時,對盧高正義年老習事,謂延壽曰:「秦王内芟羣雄,外服戎狄,獨立為帝,此命世之才。今據擧海內之衆而來,不可敵也。為吾計者,莫若頓兵不戰,曠日持久,分遣奇兵,斷其糧道。糧食旣盡,求戰不得,欲歸無路,乃可勝。」延壽不從,引軍直進,去安市城四十里。帝恐其低徊不至,命大將軍阿史那社尒,將突厥千騎以誘之。兵始交而僞走,延壽曰:「易與耳。」競進乘之,至安市城東南八里,依山而陣。帝悉召諸將問計。長孫無忌對曰:「臣聞:'臨敵將戰,必先觀士卒之情。'臣適行經諸營,見士卒聞高句麗至,皆拔刀結旆,喜形於色。此必勝之兵也。陛下未冠,身親行陣。凡出奇制勝,皆上稟聖謀,諸將奉成筭耳。今日之事,乞陛下指蹤。」帝笑曰:「諸公以此見讓,朕當為諸公商度。
そのとき対盧の高正義は年老いて事に習れており、延寿に言った。「秦王は内に群雄を芟り、外に戎狄を服せしめ、独り立って帝となった。これは世に命ぜられた才である。いま海内の衆を挙げて来ている。敵することはできぬ。われらのための計は、兵を頓めて戦わず、日を曠しくして久しく持ち、奇の兵を分け遣わしてその糧の道を断つに越したことはない。糧食が尽きれば、戦いを求めても得られず、帰ろうとしても路がない。そこで勝てるのだ。」
延寿は従わず、軍を引いてまっすぐ進み、安市城を去ること四十里に至った。
帝は彼が低徊して至らぬことを恐れ、大将軍の阿史那社爾に命じて突厥の騎千をもってこれを誘わせた。兵が交わりはじめると偽って走ったので、延寿は言った。「与しやすい。」競って進んでこれに乗じ、安市城の東南八里に至り、山に依って陣した。
帝は諸将をことごとく召して計を問うた。長孫無忌が答えて言った。「臣が聞きますに『敵に臨んで戦おうとするときは、必ずまず士卒の情を観よ』と。臣はたまたま諸営を行き経て、士卒が高句麗が至ったと聞いてみな刀を抜き旆を結び、喜びが色に形れているのを見ました。これは必ず勝つ兵です。陛下は冠せられる前から身みずから行陣に臨まれ、およそ奇を出して勝ちを制するのは、みな上に聖なる謀りを稟け、諸将が成った算を奉じただけです。今日の事も、陛下が蹤を指してくださることを乞います。」
帝は笑って言った。「諸公がこうして譲るなら、朕が諸公のために商り度ろう。」
13四年 — 夜に軍を分けて置く
」乃與無忌等,從數百騎,乘高望之,觀山川形勢,可以伏兵及出入之所。我軍與靺鞨合兵為陣,長四十里。帝望之,有懼色。江夏王道宗曰:「高句麗傾國以拒王師,平壤之守必弱。願假臣精卒五千,覆其本根,則數十萬之衆,可不戰而降。」帝不應。遣使紿延壽曰:「我以爾國强臣弑其主,故來問罪,至於交戰,非吾本心。入爾境,芻粟不給,故取爾數城,俟爾國修臣禮,則所失必復矣。」延壽信之,不復設備。帝夜召文武計事,命李世勣將步騎萬五千,陣於西嶺,長孫無忌、牛進達,將精兵萬一千,為奇兵,自山北出於狹谷,以衝其後,帝自將步騎四千,挾鼓角,偃旗幟,登山。帝勅諸軍,聞鼓角,齊出奮擊。因命有司,張受降幕於朝堂之側。是夜,流星墜延壽營。
そこで無忌らとともに数百騎を従え、高きに乗ってこれを望み、山川の形勢と、兵を伏せられるところや出入りするところを観た。高句麗の軍は靺鞨と兵を合わせて陣をなし、長さ四十里であった。帝は望み見て、懼れる色があった。
江夏王道宗は言った。「高句麗は国を傾けて王の師を拒んでいます。平壌の守りは必ず弱いでしょう。願わくは臣に精い卒五千を仮してくださるなら、その本の根を覆します。そうすれば数十万の衆は戦わずして降るでしょう。」帝は応じなかった。
使者を遣わして延寿を紿いて言った。「われはお前の国の強い臣がその主を弑したので、罪を問いに来たのだ。交え戦うに至ることは、わが本の心ではない。お前の境に入って芻と粟が給らぬので、お前の数城を取ったのであり、お前の国が臣の礼を修めるのを俟てば、失ったものは必ず復るであろう。」
延寿はこれを信じ、ふたたび備えを設けなかった。
帝は夜に文武を召して事を計り、李世勣に命じて歩騎一万五千を率いて西の嶺に陣させ、長孫無忌と牛進達に精兵一万一千を率いて奇の兵となり、山の北から狭い谷に出てその後ろを衝かせ、帝はみずから歩騎四千を率いて鼓と角を挟み、旗と幟を偃せて山に登った。帝は諸軍に勅し、鼓と角を聞いたら斉しく出て奮い撃たせた。それに因って有司に命じ、朝堂の側に降りを受ける幕を張らせた。
この夜、流星が延寿の営に墜ちた。
14四年 — 延寿と恵真が降る
旦日,延壽等,獨見李世勣軍小,勒兵欲戰。帝望見無忌軍塵起,命作鼓角,擧旗幟,諸軍鼓噪並進。延壽等懼,欲分兵禦之,而其陣已亂。會,有雷電,龍門人薛仁貴,著奇服,大呼陷陣,所向無敵,我軍披靡。大軍乘之,我軍大潰,死者三二萬餘人。帝望見仁貴,拜遊擊將軍。延壽等將餘衆,依山自固。帝命諸軍圍之,長孫無忌悉撤橋梁,斷其歸路。延壽、惠眞,帥其衆三萬六千八百人,請降,入軍門,拜伏請命。帝簡耨薩已下官長三千五百人遷之內地,餘皆縱之,使還平壤,收靺鞨三千三百人,悉坑之。獲馬五萬匹、牛五萬頭、明光鎧萬領,它器械稱是。更名所幸山,曰駐驆山。以高延壽爲鴻臚卿,高惠眞為司農卿。帝之克白巖也,謂李世勣曰:「吾聞,安市城險而兵精,其城主村材勇,莫離支之亂,城守不服,莫離支擊之,不能下,因而與之。
翌朝、延寿らは李世勣の軍が小さいのだけを見て、兵を勒して戦おうとした。帝は無忌の軍の塵が起こるのを望み見て、鼓と角を作し、旗と幟を挙げさせたので、諸軍は鼓を打ち喚いてともに進んだ。延寿らは懼れ、兵を分けてこれを禦ごうとしたが、その陣はすでに乱れていた。
ちょうど雷と電があり、龍門の人の薛仁貴が奇しき服を着け、大いに呼んで陣を陥れたので、向かうところ敵なく、高句麗の軍は披り靡いた。大軍がこれに乗じたので、高句麗の軍は大いに潰え、死んだ者が二万余人であった。帝は仁貴を望み見て、遊撃将軍に拝した。
延寿らは余った衆を率いて山に依ってみずから固めた。帝は諸軍に命じてこれを囲ませ、長孫無忌は橋梁をことごとく撤してその帰る路を断った。延寿と恵真はその衆三万六千八百人を率いて降りを請い、軍門に入って拝し伏して命を請うた。
帝は耨薩以下の官長三千五百人を簡んで内地に遷し、余りはみな縦って平壌に還らせ、靺鞨三千三百人を収めてことごとくこれを坑にした。馬五万匹、牛五万頭、明光鎧一万領を獲、他の器械もこれに称った。行った山の名を改めて駐驆山と言った。高延寿を鴻臚卿とし、高恵真を司農卿とした。
帝が白巖を克ったとき、李世勣に言った。「われが聞くに、安市城は険しくて兵が精く、その城主は材あり勇ましく、莫離支の乱のとき城を守って服さず、莫離支が撃っても下せず、そのまま彼に与えたという。
15四年 — 安市城を攻める
建安兵弱而糧小,若出其不意,攻之必克。公可先攻建安,建安下,則安市在吾腹中。此兵法所謂'城有所不攻者'也。」對曰:「建安在南,安市在北,吾軍糧皆在遼東。今踰安市,而攻建安,若麗人斷吾糧道,將若之何?不如先攻安市,安市下,則鼓行而取建安耳。」帝曰:「以公為將,安得不用公策,勿誤吾事!」世勣遂攻安市。安市人望見帝旗蓋,輒乘城鼓噪,帝怒。世勣請克城之日,男子皆坑之。安市人聞之,益堅守,攻久不下。高延壽、高惠眞請於帝曰:「奴旣委身大國,不敢不獻其誠。欲天子早成大功,奴得與妻子相見。安市人顧惜其家,人自為戰,未易猝拔。今,奴以高句麗十餘萬衆,望旗沮潰,國人膽破。烏骨城耨薩老耄,不能堅守,移兵臨之,朝至夕克,其餘當道小城,必望風奔潰。
建安は兵が弱くて糧が少ない。もしその意ならぬところに出てこれを攻めれば、必ず克てよう。公はまず建安を攻めてよい。建安が下れば、安市はわが腹の中にある。これが兵法にいう『城には攻めざるものがある』ということだ。」
答えて言った。「建安は南にあり、安市は北にあって、わが軍の糧はみな遼東にあります。いま安市を踰えて建安を攻め、もし麗の人がわが糧の道を断ったら、どうなさいますか。まず安市を攻めるに越したことはありません。安市が下れば、鼓して行き建安を取るだけです。」
帝は言った。「公を将としたのだから、どうして公の策を用いぬことがあろう。わが事を誤るな。」
世勣はついに安市を攻めた。安市の人は帝の旗と蓋を望み見て、そのつど城に乗って鼓を打ち喚いたので、帝は怒った。世勣は城を克つ日に男子はみなこれを坑にすることを請うた。安市の人はこれを聞いていっそう堅く守り、攻めても久しく下らなかった。
高延寿と高恵真が帝に請うて言った。「奴はすでに身を大国に委ねましたので、あえてその誠を献じぬわけにはゆきません。天子が早く大きな功を成され、奴が妻子と相見えられることを願います。安市の人はその家を顧み惜しんで、人みずから戦うので、急には抜きやすくありません。いま奴は高句麗の十余万の衆をもって、旗を望んで沮み潰え、国の人の胆は破れました。烏骨城の耨薩は老い耄れて堅く守ることができません。兵を移してこれに臨めば、朝に至って夕に克てましょう。その余りの道に当たる小さな城は、必ず風を望んで奔り潰えましょう。
16四年 — 土山が崩れる
然後收其資糧,鼓行而前,平壤必不守矣。」羣臣亦言:「張亮兵在沙城,召之,信宿可至。乘高句麗忷懼,倂力拔烏骨城,度鸭渌水,直取平壤,在此擧矣。」帝將從之,獨長孫無忌以為天子親征,異於諸將,不可乘危徼幸,今建安、新城之虜衆,猶十萬,若向烏骨,皆躡吾後,不如先破安市,取建安,然後長驅而進,此萬全之策也。帝乃止。諸將急攻安市。帝聞城中雞彘聲,謂世勣曰:「圍城積久,城中烟火日微,今鷄彘甚喧,此必饗士,欲夜出襲我,宜嚴兵備之。」是夜,我軍數百人,縋城而下。帝聞之,自至城下,召兵急擊。我軍死者數十人,餘軍退走。江夏王道宗,督衆築土山於城東南隅,侵逼其城。城中亦增高其城,以拒之。士卒分番,交戰日六七合。衝車、礮石,壞其樓堞,城中隨立木柵,以塞其缺。
そのうえでその資と糧を収め、鼓して行き前めば、平壌は必ず守れません。」
群臣もまた言った。「張亮の兵が沙城にあります。これを召せば、二晩で至れます。高句麗が忷れ懼れている隙に乗じ、力を併せて烏骨城を抜き、鴨緑水を渡ってまっすぐ平壌を取ることは、この一挙にあります。」
帝はこれに従おうとしたが、ただ長孫無忌だけは、天子の親征は諸将と異なり、危うきに乗じて幸いを徼めてはならず、いま建安と新城の虜の衆がなお十万で、もし烏骨に向かえばみなわが後を蹑むであろうから、まず安市を破り建安を取ってから長く駆けて進むのが万全の策であるとした。帝はそこで止めた。
諸将は安市を急に攻めた。帝は城中の鶏と彘の声を聞いて世勣に言った。「城を囲んで積み久しく、城中の烟と火は日ごとに微かになったのに、いま鶏と彘がはなはだ喧しい。これは必ず士を饗して、夜に出てわれを襲おうとするのだ。よろしく兵を厳しくしてこれに備えよ。」
この夜、高句麗の軍数百人が縄で城を縋って下りた。帝はこれを聞いてみずから城の下に至り、兵を召して急に撃った。高句麗の軍で死んだ者が数十人、余りの軍は退いて走った。
江夏王道宗は衆を督して城の東南の隅に土の山を築き、その城に侵し逼った。城中でもまたその城を増し高くしてこれを拒いだ。士卒は番を分け、交え戦うこと日に六、七合であった。衝車と礮石がその楼と堞を壊すと、城中では次いで木の柵を立ててその欠けを塞いだ。
17四年 — 軍を班す
道宗傷是足,帝親為之針。築山,晝夜不息,凡六旬,用功五十萬。山頂去城數丈,下臨城中。道宗使果毅傅伏愛,將兵屯山頂,以備敵。山頹壓城,城崩。會,伏愛私離所部,我軍數百人,從城缺出戰,遂奪據土山,塹而守之。帝怒,斬伏愛以徇,命諸將攻之,三日不能克。道宗徒跣詣旗下,請罪。帝曰:「汝罪當死,但朕以漢武殺王恢,不如秦穆用孟明,且有破盖牟、遼東之功,故特赦汝耳。」帝以遼左早寒,草枯水凍,士馬難久留,且糧食將盡,勅班師。先拔遼、盖二州戶口,度遼,乃耀兵於安市城下而旋,城中皆屛跡不出。城主登城拜辭,帝嘉其固守,賜縑百疋,以勵事君。命世勣、道宗,將步騎四萬為殿,至遼東度遼水。遼澤泥潦,車馬不通。命無忌,將萬人,翦草塡道,水深處,以車為梁,帝自薪於馬鞘,以助役。
道宗が足を傷めたので、帝はみずからこれに針をした。山を築くこと昼夜息まず、およそ六十日、用いた功は五十万であった。山の頂は城を去ること数丈で、下は城中に臨んだ。道宗は果毅の傅伏愛に兵を率いて山の頂に屯し、敵に備えさせた。
山が頹れて城を圧し、城が崩れた。ちょうど伏愛が私かにその部を離れていたので、高句麗の軍数百人が城の欠けから出て戦い、ついに土の山を奪い据え、塹を掘ってこれを守った。
帝は怒って伏愛を斬って徇え、諸将に命じてこれを攻めさせたが、三日たっても克てなかった。道宗は徒跣で旗の下に詣り、罪を請うた。帝は言った。「お前の罪は死に当たる。ただ朕は、漢の武が王恢を殺したのは秦の穆が孟明を用いたのに及ばぬと思い、また蓋牟と遼東を破った功があるので、特にお前を赦すだけだ。」
帝は遼左が早く寒くなり、草が枯れ水が凍って士と馬が久しく留まりがたく、また糧食が尽きようとしているので、勅して軍を班した。まず遼と蓋の二州の戸口を抜いて遼水を渡らせ、そこで安市城の下で兵を耀かせて旋ったが、城中はみな跡を屏めて出なかった。城主は城に登って拝し辞したので、帝はその固く守ったことを嘉し、縑百疋を賜って君に事えることを励ました。
世勣と道宗に命じて歩騎四万を率いて殿とし、遼東に至って遼水を渡った。遼沢は泥と潦で、車も馬も通れなかったので、無忌に命じて一万人を率いて草を翦り道を填めさせ、水の深いところは車を梁とし、帝はみずから馬の鞘に薪をつけて役を助けた。
18四年 — 魏徴がいたならば
冬十月,帝至蒲溝駐馬,督塡道。諸軍度渤錯水,暴風雪,士卒沾濕多死者。勅燃火於道以待之。凡拔玄菟、橫山、盖牟、磨米、遼東、白岩、卑沙、夾谷、銀山、後黃十城,徙遼、盖、岩三州戶口,入中國者七萬人。高延壽自降後,常憤歎,尋以憂死,惠眞竟至長安。新城、建安、駐蹕三大戰,我軍及唐兵馬死亡者,甚衆。帝以不能成功,深悔之。嘆曰:「魏徵若在,不使我有是行也。」
冬十月、帝は蒲溝に至って馬を駐め、道を填めるのを督した。諸軍が渤錯水を渡るとき、暴しい風と雪があり、士卒が沾れ湿って死ぬ者が多かった。勅して道に火を燃やして待たせた。
およそ玄菟・横山・蓋牟・磨米・遼東・白巖・卑沙・夾谷・銀山・後黄の十城を抜き、遼・蓋・巖の三州の戸口を徙して中国に入った者が七万人であった。
高延寿は降ってから後、つねに憤り歎き、やがて憂えて死に、恵真はついに長安に至った。
新城・建安・駐驆の三つの大きな戦いで、高句麗の軍と唐の兵や馬で死に亡んだ者がはなはだ多かった。帝は功を成せなかったことを深く悔いて歎いた。「魏徴が生きていたら、われにこの行きをさせなかったであろう。」
19史論 — 安市城主の名が落ちている
論曰:唐太宗,聖明不世出之君。除亂比於湯、武,致理幾於成、康。至於用兵之際,出奇無窮,所向無敵。而東征之功,敗於安市,則其城主,可謂豪傑非常者矣。而史失其姓名,與楊子所云:「齊、魯大臣,史失其名。」無異。甚可惜也。
論じて言う。
唐の太宗は聖く明らかで、世に常には出ない君である。乱を除いたことは湯と武に比べられ、理に致したことは成と康に近い。兵を用いる際に至っては、奇を出すこと窮まりなく、向かうところ敵がなかった。ところが東を征つ功は安市で敗れた。ならばその城主は、豪傑であり常ならぬ者と言えよう。それなのに史はその姓と名を失った。楊子がいう「斉と魯の大臣は、史がその名を失った」というのと異ならない。はなはだ惜しむべきである。
20五年 — 太宗がふたたび討つことを議する
五年,春二月,太宗還京師,謂李靖曰:「吾以天下之衆,困於小夷,何也?」靖曰:「此,道宗所解。」帝顧問道宗,具陳:在駐蹕時,乘虛取平壤之言。帝悵然曰:「當時悤悤,吾不憶也。」夏五月,王及莫離支蓋金,遣使謝罪,幷獻二美女。帝還之,謂使者曰:「色者人所重,然憫其去親戚以傷乃心,我不取也。」東明王母塑像,泣血三日。初,帝將還,帝以弓服賜盖蘇文,受之不謝,而又益驕恣。雖遣使奉表,其言率皆詭誕,又待唐使者倨傲,常窺伺邊隙。屢勅令不攻新羅,而侵凌不止。太宗詔勿受其朝貢,更議討之。
五年春二月、太宗は京師に還り、李靖に言った。「われは天下の衆をもって小さな夷に困しめられた。なぜか。」
靖は言った。「これは道宗が解くことです。」
帝は道宗を顧みて問うと、駐驆にいたとき虚に乗じて平壌を取るという言を具さに陳べた。帝は悵然として言った。「あのときは悤しくて、われは憶えていない。」
夏五月、王と莫離支の蓋金が使者を遣わして罪を謝し、あわせて美女二人を献じた。帝はこれを還して使者に言った。「色は人の重んずるところである。しかしその親戚を去って心を傷めるのを憫れむので、われは取らない。」
東明王の母の塑像が、三日のあいだ血の涙を泣いた。
はじめ帝が還ろうとしたとき、弓と服を蓋蘇文に賜ったが、受けても謝さず、またいっそう驕り恣になった。使者を遣わして表を奉っても、その言はおおむねみな詭り誕らで、また唐の使者を待つのに倨り傲り、つねに辺の隙を窺い伺った。しばしば勅して新羅を攻めるなと令じたが、侵し凌ぐことを止めなかった。太宗は詔してその朝貢を受けさせず、あらためてこれを討つことを議した。
21三国史記 巻第二十一
三國史記卷第二十一
三国史記 巻第二十一。