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寶藏王 下寶藏王下

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 33 · 漢字 4,063字 · 朗読 16.3分

三国史記(三国時代の正史) 高句麗本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1六年 — しばしば小さな軍を遣わして疲らせる

六年,春二月太宗將復行師,朝議以為:「高句麗依山為城,不可猝拔。前大駕親征,國人不得耕種,所克之城,實收其穀,繼以旱災,民太半乏食。今若數遣偏師,更迭擾其疆場,使彼疲於奔命,釋耒入堡,數年之間,千里蕭條,則人心自離,鴨淥之北,可不戰而取矣。」帝從之,以左武衛大將軍牛進達,為靑丘道行軍大摠管,右武衛將軍李海岸副之,發兵萬餘人,乘樓舡,自萊州,泛海而入,又以太子詹事李世勣,為遼東道行軍大摠管,右武衛將軍孫貳朗等副之,將兵三千人,因營州都督府兵,自新城道入。兩軍,皆選習水善戰者,配之。夏五月李世勣軍既度遼,歷南蘇等數城,皆背城拒戰,世勣擊破之,焚其羅郭而還。秋七月,牛進達、李海岸入我境,凡百餘戰,攻石城拔之,進至積利城下。我兵萬餘人出戰,李海岸擊克之,我軍死者二千級。八月太宗勅宋州刺史王波利等,發江南十二州工人,造大數百艘,欲以伐我。冬十二月,王使第二子莫離支任武,入謝罪,帝許之。

六年春二月、太宗がふたたび軍を出そうとすると、朝廷が議して言った。

「高句麗は山に依って城としているので、急には抜けません。さきに車駕が親征されたとき、国の人は耕し種を播くことができず、克った城ではその穀を実際に収め、続いて旱の災いがあって、民の太半が食に乏しくなっています。いま、しばしば偏の師を遣わして、交互にその疆場を擾し、彼らを奔り命ずるに疲れさせ、耒を釈いて堡に入らせれば、数年のうちに千里が蕭条となり、人の心はおのずと離れるでしょう。鴨緑の北は戦わずして取れます。」

帝はこれに従い、左武衛大将軍の牛進達を青丘道行軍大総管とし、右武衛将軍の李海岸をその副とし、兵一万余人を発して楼船に乗り、萊州から海を渡って入らせ、また太子詹事の李世勣を遼東道行軍大総管とし、右武衛将軍の孫貳朗らをその副とし、兵三千人を率いて営州都督府の兵に因り、新城の道から入らせた。両軍にはみな水に習れ戦いを善くする者を選んで配した。

夏五月、李世勣の軍が遼水を渡ってから、南蘇など数城を歴たが、みな城を背にして拒み戦ったので、世勣はこれを撃ち破り、その羅郭を焼いて還った。

秋七月、牛進達と李海岸が高句麗の境に入り、およそ百余たび戦い、石城を攻めてこれを抜き、進んで積利城の下に至った。高句麗の兵一万余人が出て戦うと、李海岸はこれを撃ち克ち、高句麗の軍で死んだ者が二千級であった。

八月、太宗は宋州刺史の王波利らに勅して、江南の十二州の工人を発し、大きな船数百艘を造って高句麗を伐とうとした。

冬十二月、王が第二子の莫離支の任武を遣わして罪を謝させると、帝はこれを許した。

2七年 — 船を造ってふたたび討つことを謀る

七年,春正月,遣使入唐朝貢。帝詔右武衛大將軍薛萬徹,為靑丘道行軍大摠管,右衛將軍裴行方副之,將兵三萬餘人,及樓舡戰艦,自萊州,泛海來擊。夏四月,烏胡鎭將古神感,將兵浮海來擊,遇我步騎五千,戰於易山,破之。其夜,我軍萬餘人,襲神感舡,神感伏發,乃敗。六月帝謂我困弊,議以明年發三十萬衆,一擧滅之。或以為大軍東征,須備經歲之糧,非畜乘所能載,宜具是舟艦,為水轉。隋末劒南,獨無寇盜,屬者遼東之役,劒南復不預及。其百姓富庶,宜使之造舟艦。帝從之。秋七月,王都女産子,一身兩頭。太宗遣左領左右府長史強偉於劒南道,伐木造舟艦。大者或長百尺,其廣半之。別遣使行水道,自巫峽,抵江、楊,趣萊州。九月,群獐渡河西走,群狼向西行,三日不絶。

七年春正月、使者を遣わして唐に入り朝貢した。

帝は詔して右武衛大将軍の薛万徹を青丘道行軍大総管とし、右衛将軍の裴行方をその副とし、兵三万余人と楼船・戦艦を率いて、萊州から海を渡って撃ちに来させた。

夏四月、烏胡鎮将の古神感が兵を率いて海に浮かんで撃ちに来る途中、高句麗の歩騎五千に遇い、易山で戦ってこれを破った。その夜、高句麗の軍一万余人が神感の船を襲ったが、神感が伏せた兵を発したので、そこで敗れた。

六月、帝は高句麗が困れ弊れたと思い、明年に三十万の衆を発して一挙にこれを滅ぼすことを議した。ある者は、大軍が東を征つには歳を経る糧を備えねばならず、それは畜や乗り物で載せられるものではないから、よろしく舟と艦を具えて水で転ぶべきだとした。隋の末、剣南だけが独り寇も盗もなく、このたびの遼東の役にも剣南はまた預からなかったので、その百姓は富み庶い。よろしく彼らに舟と艦を造らせるべきだとした。帝はこれに従った。

秋七月、王都の女が子を産んだが、一つの身に二つの頭であった。

太宗は左領左右府長史の強偉を剣南道に遣わし、木を伐って舟と艦を造らせた。大きなものは長さ百尺もあり、その広さはその半分であった。別に使者を遣わして水の道を行かせ、巫峡から江州・楊州に抵り、萊州に趨らせた。

九月、獐の群れが河を渡って西に走り、狼の群れが西に向かって行くこと三日、絶えなかった。

3八年 — 泊灼城を攻める

太宗遣將軍薛萬徹等來伐。渡海入鴨淥,至泊灼城南四十里,止營。泊灼城主所夫孫,帥步騎萬餘,拒之,萬徹遣右衛將軍裴行方,領步卒及諸軍乘之,我兵潰。行方等進兵圍之,泊灼城因山設險,阻鴨淥水以爲固,攻之不拔。我將高文,率烏骨、安地諸城兵三萬餘人,來援,分置兩陣,萬徹分軍以當之,我軍敗潰。帝又詔萊州刺史李道裕,轉糧及器械,貯於烏胡島,將欲大擧。

太宗が将軍の薛万徹らを遣わして伐ちに来させた。海を渡って鴨緑に入り、泊灼城の南四十里に至って営を止めた。

泊灼城主の所夫孫が歩騎一万余を率いてこれを拒いだので、万徹は右衛将軍の裴行方を遣わして歩卒と諸軍を率いてこれに乗じさせ、高句麗の兵は潰えた。行方らは兵を進めてこれを囲んだが、泊灼城は山に因って険を設け、鴨緑水を阻んで固めとしていたので、攻めても抜けなかった。

高句麗の将の高文が烏骨・安地の諸城の兵三万余人を率いて援けに来、分けて両陣を置いたが、万徹が軍を分けてこれに当たったので、高句麗の軍は敗れ潰えた。

帝はまた詔して萊州刺史の李道裕に糧と器械を転じて烏胡島に貯えさせ、やがて大いに挙げようとした。

4八年 — 太宗が亡くなる

八年,夏四月,唐太宗崩。遺詔罷遼東之役。

八年夏四月、唐の太宗が崩じた。遺した詔で遼東の役を罷めさせた。

5史論 — 房玄齢が諫めた言葉

論曰:初,太宗有事於遼東也,諫者非一。又自安市旋軍之後,自以不能成功,深悔之。歎曰:「若使魏徵在,不使我有此行也。」及其將復伐也,司空房玄齡病中上表,諫以為:「《老子》曰:『知足不辱,知止不殆。』陛下威名功德,旣云足矣,拓地開疆,亦可止矣。且陛下每決一重囚,必令三復五奏,進素膳,止音樂者,重人命也。今驅無罪之士卒,委之鋒刃之下,使肝腦塗地,獨不足憫乎?嚮使高句麗違失臣節,誅之可也;侵擾百姓,滅之可也;他日能為中國患,除之可也。今無此三條,而坐煩中國,内爲前代雪恥,外爲新羅報讎,豈非所存者小,所損者大乎?願陛下許高句麗自新,焚凌波之舡,罷應募之衆。自然華夷慶賴,遠肅邇安。」梁公將死之言,諄諄若此,而帝不從,思欲丘墟東域而自快,死而後已。

論じて言う。

はじめ太宗が遼東に事を起こしたとき、諫める者は一人ではなかった。また安市から軍を旋えした後は、みずから功を成せなかったとして深く悔い、歎いて言った。「魏徴が生きていたら、われにこの行きをさせなかったであろう。」

ふたたび伐とうとしたとき、司空の房玄齢が病の中で表を上って諫めた。

「『老子』に言います、『足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆うからず』と。陛下の威と名、功と徳は、すでに足ると言えますし、地を拓き疆を開くことも、また止めてよいでしょう。

また陛下は重い囚人を一人決するたびに、必ず三たび復し五たび奏させ、素の膳を進め、音楽を止めさせられます。これは人の命を重んじられるからです。いま罪のない士卒を駆って鋒と刃の下に委ね、肝と脳を地に塗らせられる。これだけは憫れむに足りないのでしょうか。

さきに高句麗が臣の節を違い失ったなら、これを誅してよいでしょう。百姓を侵し擾したなら、これを滅ぼしてよいでしょう。他日、中国の患いとなり得るなら、これを除いてよいでしょう。いまこの三つの条がないのに、坐して中国を煩わし、内には前の代のために恥を雪ぎ、外には新羅のために讐を報じようとされる。どうして存するところは小さく、損なうところは大きいのではありませんか。

願わくは陛下が高句麗にみずから新たになることを許され、波を凌ぐ船を焼き、募りに応じた衆を罷められますように。そうすれば自然に華と夷が慶び頼り、遠きが肅まり近きが安らぐでしょう。」

梁公の死に臨む言葉はこのように諄々としていたが、帝は従わず、東の域を丘と墟にしてみずから快くすることを思い、死してのちに已んだ。

6史論 — 柳公権の記録

史論曰:「好大喜功,勤勒兵於遠者。」非此之謂乎?柳公權小說曰:「駐蹕之役,高句麗與靺鞨合軍,方四十里,太宗望之,有懼色。」又曰:「六軍為高句麗所乘,殆將不振。候者告英公之麾,黑旗被圍,帝大恐。」雖終於自脫,而危懼如彼,而《新舊書》及司馬公《通鑑》,不言者,豈非為國諱之者乎?

史論に「大を好み功を喜び、遠くに兵を勤め勒した」というのは、これを言うのではないだろうか。

柳公権の小説には「駐驆の役で、高句麗が靺鞨と軍を合わせると方四十里であり、太宗は望み見て懼れる色があった」とある。また「六軍が高句麗に乗じられ、ほとんど振るわなくなった。候の者が英公の麾で黒い旗が囲まれていると告げると、帝は大いに恐れた」とある。

ついにはみずから脱したものの、危ぶみ懼れたことがあのようであったのに、『新唐書』『旧唐書』と司馬公の『通鑑』が言わないのは、どうして国のためにこれを諱んだのでないことがあろうか。

7九年 — 普徳和尚が南に移る

九年,夏六月,盤龍寺普德和尚,以國家奉道,不信佛法,南移完山孤大山。秋七月,霜雹害穀,民饑。

九年夏六月、盤龍寺の普徳和尚は、国家が道を奉じて仏法を信じないとして、南の完山の孤大山に移った。秋七月、霜と雹が穀を害し、民が飢えた。

8十一年 — 唐に朝貢する

十一年,春正月,遣使入唐朝貢。

十一年春正月、使者を遣わして唐に入り朝貢した。

9十三年 — 新城で大いに敗れる

十三年,夏四月,人或言:「於馬嶺上,見神人,曰:『汝君臣,奢侈無度,敗亡無日矣。』」冬十月,王遣將安固出師,及靺鞨兵,擊契丹。松漠都督李窟哥禦之,大敗我軍於新城。

十三年夏四月、ある人が言った。「馬嶺の上で神人を見た。『お前たちの君と臣は、奢り侈ることが度なく、敗れ亡ぶる日も遠くない』と言った。」

冬十月、王は将の安固を遣わして軍を出し、靺鞨の兵とともに契丹を撃った。松漠都督の李窟哥がこれを禦ぎ、新城で高句麗の軍を大いに破った。

10十四年 — 程名振が貴端水を渡る

十四年,春正月,先是,我與百濟、靺鞨,侵新羅北境,取三十三城,新羅王金春秋,遣使於唐求援。三月,高宗遣營州都督名振、左右衛中郞將蘇定方,將兵來擊。夏五月,程名振等,渡遼水。吾人見其兵少,開門度貴端水,逆戰。名振等奮擊,大克之,殺獲千餘人,焚其外郭及村落而歸。

十四年春正月、これより先、高句麗が百済・靺鞨とともに新羅の北の境を侵して三十三城を取ったので、新羅王の金春秋が使者を唐に遣わして援けを求めた。

三月、高宗が営州都督の程名振と左右衛中郎将の蘇定方を遣わし、兵を率いて撃ちに来させた。

夏五月、程名振らが遼水を渡った。高句麗の人はその兵が少ないのを見て、門を開き貴端水を渡って迎え戦った。名振らは奮い撃って大いにこれに克ち、千余人を殺し捕らえ、その外の郭と村落を焼いて帰った。

11十五年 — 王都に鉄の雨が降る

十五年,夏五月,王都雨鐵。冬十二月,遣使入唐,賀冊皇太子。

十五年夏五月、王都に鉄の雨が降った。冬十二月、使者を遣わして唐に入り、皇太子の冊立を賀した。

12十七年 — 唐の軍が克てない

十七年,夏六月,唐營州都督兼東夷都護程名振、右領軍中郞將薛仁貴,將兵來攻,不能克。

十七年夏六月、唐の営州都督兼東夷都護の程名振と右領軍中郎将の薛仁貴が兵を率いて攻めに来たが、克つことができなかった。

13十八年 — 虎九匹が城に入る

十八年,秋九月,九虎一時入城食人,捕之不獲。冬十一月,唐右領軍中郞將薛仁貴等,與我將溫沙門,戰於橫山,破之。

十八年秋九月、虎九匹が一度に城に入って人を食ったので捕らえようとしたが、得られなかった。

冬十一月、唐の右領軍中郎将の薛仁貴らが、高句麗の将の温沙門と横山で戦い、これを破った。

14十九年 — 道を分けて撃ちに来る

十九年,秋七月,平壤河水血色,凡三日。冬十一月,唐左驍衛大將軍契苾何力,為浿江道行軍大摠管;左武衛大將軍蘇定方,為遼東道行軍大摠管;左驍衛將軍劉伯英,為平壤道行軍大摠管;蒲州刺史程名振,為鏤方道摠管,將兵分道來擊。

十九年秋七月、平壌の河の水が血の色になること三日であった。

冬十一月、唐は左驍衛大将軍の契苾何力を浿江道行軍大総管、左武衛大将軍の蘇定方を遼東道行軍大総管、左驍衛将軍の劉伯英を平壌道行軍大総管、蒲州刺史の程名振を鏤方道総管として、兵を率いて道を分けて撃ちに来させた。

15二十年 — 蘇定方が平壌城を囲む

十年,春正月,唐募河南、北、淮南六十七州兵,得四萬四千餘人,詣平壤、鏤方行營,又以鴻臚卿蕭嗣業,為扶餘道行軍摠管,帥回紇等諸部兵,詣平壤。夏四月,以任雅相,為浿江道行軍摠管;契苾何力,為遼東道行軍摠管;蘇定方,為平壤道行軍摠管,與蕭嗣業及諸胡兵凡三十五軍,水陸分道並進。帝欲自將大軍,蔚州刺史李君球立言:「高句麗小國,何至傾中國事之有?如高句麗旣滅,必發兵以守。小發則威不振,多發則人不安,是天下疲於轉戍。臣謂:征之未如勿征,滅之未如勿滅。」亦會武后諫,帝乃止。夏五月,王遣將軍惱音信,領靺鞨衆,圍新羅北漢山城,浹旬不解,新羅餉道絶,城中危懼。忽有大星落於我營,又雷雨震擊,惱音信等,疑駭別引退。秋八月,蘇定方破我軍於浿江,奪馬邑山,遂圍平壤城。

二十年春正月、唐は河南・河北・淮南の六十七州の兵を募って四万四千余人を得、平壌と鏤方の行営に詣らせ、また鴻臚卿の蕭嗣業を扶余道行軍総管として、回紇など諸部の兵を率いて平壌に詣らせた。

夏四月、任雅相を浿江道行軍総管、契苾何力を遼東道行軍総管、蘇定方を平壌道行軍総管とし、蕭嗣業および諸胡の兵とあわせておよそ三十五軍が、水陸に道を分けてともに進んだ。

帝はみずから大軍を将しようとしたが、蔚州刺史の李君球が進み出て言った。「高句麗は小さな国です。どうして中国を傾けて事とするに至りましょうか。もし高句麗が滅びれば、必ず兵を発して守らねばなりません。少なく発せば威が振るわず、多く発せば人が安んじません。これは天下が戍を転ずることに疲れるということです。臣は申します、これを征つは征たぬに及ばず、これを滅ぼすは滅ぼさぬに及ばぬと。」また、ちょうど武后が諫めたので、帝はそこで止めた。

夏五月、王は将軍の悩音信を遣わして靺鞨の衆を率いて新羅の北漢山城を囲み、十日たっても解かなかったので、新羅の餉の道が絶えて城中は危ぶみ懼れた。にわかに大きな星が高句麗の営に落ち、また雷と雨が震い撃ったので、悩音信らは疑い駭いて別に引いて退いた。

秋八月、蘇定方が浿江で高句麗の軍を破り、馬邑山を奪って、ついに平壌城を囲んだ。

16二十年 — 契苾何力が氷を踏んで渡る

九月,蓋蘇文遣其子男生,以精兵數萬,守鴨淥,諸軍不得渡。契苾何力至,値氷大合,何力引衆乘氷渡水,鼓噪而進,我軍潰奔。何力追數十里,殺三萬人。餘衆悉降,男生僅以身免。會,有詔班師,乃還。

九月、蓋蘇文はその子の男生を遣わし、精い兵数万で鴨緑を守らせたので、諸軍は渡れなかった。

契苾何力が至ると、ちょうど氷が大いに合わさっていたので、何力は衆を引いて氷に乗って水を渡り、鼓を打ち喚いて進んだので、高句麗の軍は潰えて奔った。何力は数十里を追い、三万人を殺した。余りの衆はことごとく降り、男生はかろうじて身だけで免れた。ちょうど軍を班せという詔があったので、そこで還った。

17二十一年 — 龐孝泰が蛇水で死ぬ

二十一年,春正月,唐左驍衛將軍白州刺史沃沮道摠管龐孝泰,與蓋蘇文戰於蛇水之上,擧軍沒,與其子十三人,皆戰死。蘇定方圍平壤,會大雪,解而退。凡前後之行,皆無大功而退。

二十一年春正月、唐の左驍衛将軍・白州刺史・沃沮道総管の龐孝泰が、蓋蘇文と蛇水のほとりで戦い、挙げての軍が没し、その子十三人とともにみな戦死した。

蘇定方は平壌を囲んだが、ちょうど大雪が降ったので、解いて退いた。およそ前後の行きは、みな大きな功なく退いた。

18二十五年 — 男生の兄弟が割れる

二十五年,王遣太子福男入唐,侍祠泰山。蓋蘇文死,長子男生代為莫離支。初,知國政,出巡諸城,使其弟男建、男産,留知後事。或謂二弟曰:「男生惡二弟之逼,意欲除之,不如先為計。」二弟初未之信。又有告男生者,曰:「二弟恐兄還奪其權,欲拒兄不納。」男生潛遣所親,往平壤伺之。二弟收掩得之,乃以王命召男生,男生不敢歸。男建自為莫離支,發兵討之。男生走據國內城,使其子獻誠,詣唐求哀。六月,高宗命左驍衛大將軍契苾何力,帥兵應接之,男生脫身奔唐。秋八月,王以男建為莫離支,兼知內外兵馬事。九月,帝詔男生,授特進遼東都督兼平壤道安撫大使,封玄菟郡公。冬十二月,高宗以李勣,為遼東道行軍大摠管兼安撫大使,以司列少常伯安陸、郝處俊副之。龐同善、契苾何力,並爲遼東道行軍副大摠管兼安撫大使。其水陸諸軍摠管,并轉糧使竇義、獨孤卿雲、郭待封等,並受勣處分。河北諸州租賦,悉詣遼東,給軍用。

二十五年、王は太子の福男を唐に遣わして泰山の祠に侍らせた。

蓋蘇文が死に、長子の男生が代わって莫離支となった。はじめ国の政を知り、諸城を巡りに出るとき、その弟の男建と男産に留まって後の事を知らせた。

ある者が二人の弟に言った。「男生は二人の弟が逼るのを悪み、これを除く意がある。先に計を立てるに越したことはない。」二人の弟は、はじめはこれを信じなかった。

また男生に告げる者があって言った。「二人の弟は、兄が還ってその権を奪うのを恐れ、兄を拒んで納れまいとしています。」

男生はひそかに親しい者を遣わして平壌に行き、これを伺わせた。二人の弟は収め掩ってこれを得、そこで王の命として男生を召したが、男生はあえて帰らなかった。男建はみずから莫離支となり、兵を発してこれを討った。男生は走って国内城に拠り、その子の献誠を唐に詣らせて哀れみを求めさせた。

六月、高宗は左驍衛大将軍の契苾何力に命じて兵を率いてこれを応接させたので、男生は身を脱して唐に奔った。

秋八月、王は男建を莫離支とし、内外の兵馬の事をあわせて知らせた。

九月、帝は詔して男生に特進・遼東都督兼平壌道安撫大使を授け、玄菟郡公に封じた。

冬十二月、高宗は李勣を遼東道行軍大総管兼安撫大使とし、司列少常伯の安陸と郝処俊をその副とした。龐同善と契苾何力をともに遼東道行軍副大総管兼安撫大使とした。その水陸の諸軍総管、あわせて糧を転ずる使いの竇義積・独孤卿雲・郭待封らはみな勣の処分を受けることとした。河北の諸州の租と賦はことごとく遼東に詣らせ、軍用に給した。

夾注 1

《新唐書》云男福。

王が太子の福男を遣わしたとあるのは、『新唐書』では男福となっている。

19二十六年 — 李勣が新城を抜く

二十六年,秋九月,李勣拔新城,使契苾何力守之。勣初渡遼,謂諸將曰:「新城,高句麗西邊要害,不先得之,餘城未易取也。」遂攻之。城人師夫仇等,縛城主,開門降。勣引兵進擊,一十六城皆下。龐同善、高侃尚在新城,泉男建遣兵襲其營,左武衛將軍薛仁貴,擊破之。侃進至金山,與我軍戰敗。我軍乘勝逐北,薛仁貴引兵橫擊之,殺我軍五萬餘人,拔南蘇、木氐、蒼嵒三城,與泉男生軍合。郭待封以水軍,自別道,趣平壤。勣遣別將馮師本,載糧仗以資之,師本舡破失期,待封軍中飢窘。欲作書與勣,恐為他所得,知其虛實,乃作離合詩,以與勣。勣怒曰:「軍事方急,何以詩為?必斬之。」行軍管記通事舍人元萬頃,為釋其義,勣乃更遣糧仗赴之。萬頃作檄文曰:「不知守鴨淥之險?」泉男建報曰:「謹聞命矣。」即移兵據鴨淥津,唐兵不得度。高宗聞之,流萬頃於嶺南。郝處俊在安市城下,未及成列,我軍三萬掩至,軍中大駭。郝處俊據胡床,方食乾糒,簡精銳,擊敗之。

二十六年秋九月、李勣が新城を抜き、契苾何力にこれを守らせた。勣がはじめ遼を渡るとき、諸将に言った。「新城は高句麗の西の辺の要害である。先にこれを得なければ、余りの城も取りやすくはない。」そこでこれを攻めた。城の人の師夫仇らが城主を縛り、門を開いて降った。

勣が兵を引いて進み撃つと、十六城がみな下った。龐同善と高侃はまだ新城にいたが、泉男建が兵を遣わしてその営を襲ったので、左武衛将軍の薛仁貴がこれを撃ち破った。侃は進んで金山に至り、高句麗の軍と戦って敗れた。高句麗の軍が勝ちに乗じて北げる者を逐うと、薛仁貴が兵を引いて横から撃ち、高句麗の軍五万余人を殺し、南蘇・木氐・蒼巖の三城を抜いて、泉男生の軍と合わさった。

郭待封が水軍で別の道から平壌に趨った。勣は別将の馮師本を遣わして糧と仗を載せてこれに資させたが、師本の船が破れて期を失い、待封の軍中が飢え窘んだ。勣に書を作って与えようとしたが、他の者に得られてその虚と実を知られることを恐れ、そこで離合の詩を作って勣に与えた。勣は怒って言った。「軍事がまさに急なのに、どうして詩を作るのか。必ずこれを斬る。」行軍管記・通事舎人の元万頃がその義を釈いたので、勣はそこであらためて糧と仗を遣わして赴かせた。

万頃が檄文を作って言った。「鴨緑の険を守ることを知らぬのか。」泉男建は報じて言った。「謹んで命を聞いた。」すぐに兵を移して鴨緑の津に拠ったので、唐の兵は渡れなかった。高宗はこれを聞いて、万頃を嶺南に流した。

郝処俊は安市城の下にいて、まだ列を成すに及ばぬうちに、高句麗の軍三万が掩い至ったので、軍中は大いに駭いた。郝処俊は胡床に拠ってまさに乾した糒を食べていたが、精鋭を簡んでこれを撃ち敗った。

20二十七年 — 扶余城が落ちる

二十七年,春正月,以右相劉仁軌,為遼東道副大摠管,郝處俊、金仁問副之。二月,李勣等,拔我扶餘城。薛仁貴旣破我軍於金山,乘勝,將三千人,將攻扶餘城,諸將以其兵少,止之。仁貴曰:「兵不必多,顧用之何如耳。」遂為前鋒以進,與我軍戰,勝之,殺獲我軍,遂拔扶餘城,扶餘州中四十餘城,皆請服。侍御史賈言忠奉使,自遼東還。帝問:「軍中云何?」對曰:「必克。昔,先帝問罪,所以不得志者,虜未有釁也。諺曰:『軍無媒,中道回。』今男生兄弟鬩狠為我嚮導,虜之情僞,我盡知之,將忠士力,臣故曰必克。且高句麗《秘記》曰:『不及九百年,當有八十大將,滅之。』高氏自漢有國,今九百年,勣年八十矣。虜仍荐饑,人相掠賣,地震裂,狼狐入城,穴於門,人心危駭,是行不再擧矣。

二十七年春正月、右相の劉仁軌を遼東道副大総管とし、郝処俊と金仁問をその副とした。

二月、李勣らが高句麗の扶余城を抜いた。薛仁貴はすでに金山で高句麗の軍を破り、勝ちに乗じて三千人を率いて扶余城を攻めようとしたが、諸将はその兵が少ないとしてこれを止めた。仁貴は言った。「兵は必ずしも多くなくてよい。ただこれを用いることがどうかにあるだけだ。」そこで前鋒となって進み、高句麗の軍と戦ってこれに勝ち、高句麗の軍を殺し捕らえ、ついに扶余城を抜いたので、扶余州の中の四十余城がみな服することを請うた。

侍御史の賈言忠が使いを奉じて遼東から還った。帝は問うた。「軍中はどうか。」

答えて言った。「必ず克ちます。昔、先帝が罪を問われたとき、志を得られなかった理由は、虜にまだ釁がなかったからです。諺に言います、『軍に媒なければ、中道に回る』と。いま男生の兄弟が鬩ぎ狠んでわが嚮導となったので、虜の情の真と偽をわれらはことごとく知り、将は忠にして士は力めます。臣はそれゆえ必ず克つと申すのです。

また高句麗の『秘記』に言います、『九百年に及ばずして、まさに八十の大将があってこれを滅ぼす』と。高氏は漢のときから国を有し、いま九百年であり、勣の年は八十です。虜は重ねて飢えが続き、人が互いに掠め売り、地が震え裂け、狼と狐が城に入って門に穴を掘り、人の心は危ぶみ駭いています。このたびの行きで、二度は挙げないでしょう。」

21二十七年 — 平壌が落ちる

」泉男建復遣兵五萬人,救扶餘城,與李勣等,遇於薛賀水,合戰敗,死者三萬餘人。勣進攻大行城。夏四月,彗星見於畢、昴之間。唐許敬宗曰:「彗見東北,高句麗將滅之兆也。」秋九月,李勣拔平壤。勣旣克大行城,諸軍出他道者,皆與勣會,進至鴨淥柵。我軍拒戰,勣等敗之,追奔二百餘里,拔辱夷城,諸城遁逃及降者,相繼。契苾何力先引兵,至平壤城下,勣軍繼之,圍平壤月餘。王藏遣泉男産,帥首領九十八人,持白幡,詣勣降,勣以禮接之。泉男建猶閉門拒守,頻遣兵出戰,皆敗。男建以軍事委浮圖信誠。信誠與小將烏沙、饒苗等,密遣人詣勣,請為內應。後五日,信誠開門,勣縱兵登城,鼓噪焚城。男建自刺不死。執王及男建等。冬十月,李勣將還,高宗命:先以王等獻于昭陵,具軍容,奏凱歌,入京師,獻于大廟。

泉男建はふたたび兵五万人を遣わして扶余城を救わせたが、李勣らと薛賀水で遇い、合い戦って敗れ、死んだ者が三万余人であった。勣は進んで大行城を攻めた。

夏四月、彗星が畢と昴の間に現れた。唐の許敬宗が言った。「彗が東北に現れた。高句麗がまさに滅びる兆である。」

秋九月、李勣が平壌を抜いた。勣がすでに大行城を克つと、諸軍で他の道に出た者はみな勣と会し、進んで鴨緑の柵に至った。高句麗の軍が拒み戦ったが、勣らはこれを敗り、二百余里を追い奔り、辱夷城を抜いたので、諸城で遁げ逃げる者と降る者が相継いだ。

契苾何力が先に兵を引いて平壌城の下に至り、勣の軍がこれに継いで、平壌を囲むこと一月余りであった。王の藏は泉男産を遣わし、首領九十八人を率いて白い幡を持って勣に詣って降らせ、勣は礼をもってこれを接けた。

泉男建はなお門を閉じて拒み守り、頻りに兵を出して戦ったが、みな敗れた。男建は軍事を浮図の信誠に委ねた。信誠は小将の烏沙・饒苗らとともに、ひそかに人を勣に詣らせて内から応じることを請うた。五日の後、信誠が門を開くと、勣は兵を縦って城に登らせ、鼓を打ち喚いて城を焼いた。男建はみずから刺したが死ななかった。王と男建らを執らえた。

冬十月、李勣が還ろうとすると、高宗は命じて、まず王らを昭陵に献じ、軍の容を具え、凱の歌を奏して京師に入り、大廟に献じさせた。

22二十七年 — 安東都護府を置く

十二月,帝受俘于含元殿。以王政非己出,赦以為司平太常伯員外同正;以泉男産為司宰少卿;僧信誠為銀靑光祿大夫;泉男生為右衛大將軍。李勣已下,封賞有差,泉男建流黔州。分五部,百七十六城,六十九萬餘戶,為九都督府,四十二州,百縣,置安東都護府於平壤,以統之。擢我將帥有功者,為都督、刺史、縣令,與華人叅理。以右威衛大將軍薛仁貴,檢校安東都護,摠兵二萬人,以鎭撫之。是高宗摠章元年戊辰歲也。

十二月、帝は含元殿で俘を受けた。王は政がおのれから出たものでないとして赦し、司平太常伯・員外同正とした。泉男産を司宰少卿、僧の信誠を銀青光禄大夫、泉男生を右衛大将軍とした。李勣以下に封じ賞することを差をつけて行い、泉男建は黔州に流した。

五部と百七十六城、六十九万余戸を分けて九都督府・四十二州・百県とし、安東都護府を平壌に置いてこれを統べさせた。高句麗の将帥で功ある者を擢いて都督・刺史・県令とし、華の人とともに参り理めさせた。右威衛大将軍の薛仁貴を検校安東都護とし、兵二万人を総べてこれを鎮め撫でさせた。これが高宗の総章元年、戊辰の歳である。

23二年 — 安勝が新羅に投じる

二年,己巳二月,王之庶子安勝,率四千餘戶,投新羅。夏四月,高宗移二萬八千三百戶於江、淮之南,及山南、京西諸州空曠之地。

二年己巳の二月、王の庶子の安勝が四千余戸を率いて新羅に投じた。

夏四月、高宗は二万八千三百戸を江淮の南、および山南・京西の諸州の空しく曠い地に移した。

24咸亨元年 — 剣牟岑が国を興そうとする

至咸亨元年庚午歲,夏四月,劒牟岑欲興復國家,叛唐,立王外孫安舜為主。唐高宗遣大將軍高侃,為東州道行軍摠管,發兵討之。安舜殺劒牟岑,奔新羅。

咸亨元年庚午の歳、夏四月に至って、剣牟岑が国家を興し復そうとして唐に叛き、王の外孫の安舜を立てて主とした。唐の高宗は大将軍の高侃を東州道行軍総管として兵を発し、これを討たせた。安舜は剣牟岑を殺し、新羅に奔った。

夾注 1

《羅紀》作勝。

王の外孫の安舜は、「新羅本紀」では安勝となっている。

25二年 — 高侃が安市城で破る

二年辛未歲,秋七月,高侃破餘衆於安市城。

二年辛未の歳、秋七月、高侃が余りの衆を安市城で破った。

26三年 — 白水山で戦う

三年壬申歲,十二月,高侃與我餘衆,戰于白水山,破之。新羅遣兵救我,高侃擊克之,虜獲二千人。

三年壬申の歳、十二月、高侃が高句麗の余りの衆と白水山で戦い、これを破った。新羅が兵を遣わして高句麗を救うと、高侃は撃ってこれに克ち、二千人を虜にした。

27四年 — 瓠瀘河で敗れる

四年癸酉歲,夏閏五月,燕山道摠管大將軍李謹行,破我人於瓠瀘河,俘獲數千人。餘衆皆奔新羅。

四年癸酉の歳、夏の閏五月、燕山道総管・大将軍の李謹行が高句麗の人を瓠瀘河で破り、数千人を俘にした。余りの衆はみな新羅に奔った。

28儀鳳二年 — 遼東州都督とする

儀鳳二年丁丑歲,春二月,以降王為遼東州都督,封朝鮮王,遣歸遼東,安輯餘衆。東人先在諸州者,皆遣與王俱歸,仍移安東都護府於新城,以統之。王至遼東,謀叛,潛與靺鞨通。

儀鳳二年丁丑の歳、春二月、降った王を遼東州都督とし、朝鮮王に封じて遼東に帰らせ、余りの衆を安んじ輯めさせた。東の人でさきに諸州にいた者もみな王とともに帰らせ、続いて安東都護府を新城に移してこれを統べさせた。王は遼東に至ると叛くことを謀り、ひそかに靺鞨と通じた。

29開耀元年 — 高氏の君長が絶える

開耀元年召還卬州,以永淳初死。贈衛尉卿,詔送至京師,頡利墓左,樹碑其阡,散徙其人於河南、隴右諸州。貧者留安東城傍舊城,往往沒於新羅,餘衆散入靺鞨及突厥。高氏君長遂絶。

開耀元年、邛州に召し還され、永淳の初めに死んだ。衛尉卿を贈り、詔して京師に送らせ、頡利の墓の左に葬って、その阡に碑を樹てた。その人々を河南・隴右の諸州に散らし徙した。貧しい者は安東城のかたわらの旧い城に留まったが、往々にして新羅に没し、余りの衆は散って靺鞨と突厥に入った。高氏の君長はついに絶えた。

30垂拱二年 — 徳武が安東都督となる

垂拱二年,以降王孫寶元,為朝鮮郡王,至聖曆初,進左鷹揚衛大將軍,更封忠誠國王,使統安東舊部,不行。明年,以降王子德武,為安東都督,後稍自國,至元和十三年,遣使入唐,獻樂工。

垂拱二年、降った王の孫の宝元を朝鮮郡王とし、聖暦の初めに至って左鷹揚衛大将軍に進め、あらためて忠誠国王に封じ、安東の旧い部を統べさせたが、行かなかった。翌年、降った王の子の徳武を安東都督としたが、後に次第にみずから国をなし、元和十三年に至って使者を遣わして唐に入り、楽工を献じた。

31史論 — 人の和には及ばない

論曰:玄菟、樂浪,本朝鮮之地,箕子所封。箕子敎其民,以禮義、田蠶、織作,設禁八條。是以其民不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫,飮食以籩豆,此仁賢之化也。而又天性柔順,異於三方。故孔子悼道不行,欲浮桴於海以居之,有以也夫。然而《易》之「爻,二多譽,四多懼,近也。」高句麗自秦、漢之後,介在中國東北隅,其北隣,皆天子有司,亂世則英雄特起,僭竊名位者也,可謂居多懼之地,而無謙巽之意,侵其封場以讐之,入其郡縣以居之。是故兵連禍結,略無寧歲。及其東遷,値隋、唐之一統,而猶拒詔命以不順,囚王人於土室。其頑然不畏如此,故屢致問罪之師。雖或有時設奇以陷大軍,而終於王降,國滅而後止。然觀始末,當其上下和,衆庶睦,雖大國,不能以取之,及其不義於國,不仁於民,以興衆怨,則崩潰而不自振。

論じて言う。

玄菟と楽浪はもともと朝鮮の地で、箕子が封じられたところである。箕子はその民を礼義と田と蠶、織り作ることで教え、禁ずる八つの条を設けた。これによってその民は互いに盗まず、門戸を閉じることがなく、婦人は貞しく信あって淫れず、飲み食いに籩と豆を用いた。これは仁く賢き者の化である。また天性が柔らかく順で、三つの方とは異なっていた。それゆえ孔子が道の行われないことを悼み、桴を海に浮かべてそこに居ようとしたのには、理由があったのである。

しかし『易』に「爻は、二は譽が多く、四は懼れが多い。近いからである」とある。高句麗は秦と漢の後、中国の東北の隅に介り在り、その北の隣はみな天子の有司であり、世が乱れれば英雄が特に起こって名と位を僭り竊む者たちであった。懼れの多い地に居たと言えよう。それなのに謙り巽う意がなく、その封場を侵してこれを讐とし、その郡県に入ってそこに居た。この故に兵が連なり禍が結んで、ほとんど寧い歳がなかった。

その東に遷るに至って、隋と唐の一統に値ったのに、なお詔命を拒んで順わず、王の人を土の室に囚えた。その頑なに畏れぬことがこのようであったので、しばしば罪を問う師を致した。ときに奇を設けて大軍を陥れたことがあったにせよ、ついに王が降り、国が滅びてから後に止んだ。

しかし始めと末を観れば、その上と下が和し、衆庶が睦んだときには、大国でもこれを取ることができず、国に義しからず、民に仁しからず、衆の怨みを興したときには、崩れ潰えてみずから振るえなかった。

32史論 — 強いて酒を飲んで酔いを悪むのか

故孟子曰:「天時、地利,不如人和。」《左氏》曰:「國之興也,以福;其亡也,以禍。國之興也,視民如傷,是其福也;其亡也,以民為土芥,是其禍也。」有味哉,斯言也!夫然則凡有國家者,縱暴吏之驅迫,强宗之聚斂,以失人心,雖欲理而不亂,存而不亡,又何異强酒而惡醉者乎?

それゆえ孟子は言った、「天の時、地の利は、人の和に及ばない」と。『左氏』には「国の興るのは福によってであり、その亡ぶのは禍によってである。国の興るときは民を見ることが傷のようであり、これがその福である。その亡ぶときは民を土や芥とし、これがその禍である」とある。味わいがあるな、この言葉は。

そもそもそうであるなら、国家を有つ者が、暴しい吏の駆り迫ることや、強い宗の聚め斂めることを縦しておいて人の心を失いながら、理まって乱れぬことを望み、存して亡びぬことを望んでも、それは強いて酒を飲みながら酔うことを悪む者と何が異なろうか。

33三国史記 巻第二十二

三國史記卷第二十二

三国史記 巻第二十二。