いにしえの文 › 三国史記(三国時代の正史) › 雑志

職官 上職官上

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 49 · 漢字 4,743字 · 朗読 19.0分

三国史記(三国時代の正史) 雑志 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1新羅の官名の由来

新羅官號,因時沿革,不同其名言,唐夷相雜,其曰侍中郞中等者,皆唐官名,其義若可考,曰伊伐湌伊湌等者,皆夷言,不知所以言之之意,當初之施設,必也職有常守,位有定員,所以辨其尊卑,待其人才之大小,世久,文記缺落,不可得覈考而周詳,觀其第二南解王,以國事委任大臣,謂之大輔,第三儒理王設位十七等,自是之後,其名目繁多,今採其可考者,以著于篇

新羅の官名は時に従って受け継がれ、また改められて、その名が同じでなく、唐の言葉と新羅の言葉とが入り混じっている。侍中や郎中などというのはみな唐の官名であるから、その意味は考えることができるが、伊伐飡や伊飡などというのはみな新羅の言葉であって、そう呼んだ意味はわからない。

初めて設けたときには、必ず官職に常に受け持つところがあり、位に定まった員数があって、それによって尊卑を分け、その人の才の大小に応じて待遇したのであろう。しかし世が久しく、文書や記録が欠け落ちて、調べ尽くして詳しくすることはできない。

見るに、第二代の南解王が国事を大臣に委ねてこれを大輔といい、第三代の儒理王が位を十七等に設けた。これより後、その名目は繁多になった。いま考えることのできるものを選んで、この篇に著す。

2大輔と十七等

大輔,南解王七年,以脫解爲之,儒理王九年,置十七等,一曰伊伐湌(或云伊罰干,或云于伐飡,或云角干,或云角粲,或云舒發翰,或云舒弗邯),二曰伊尺湌(或云伊湌),三曰迊湌(或云迊判,或云蘇判),四曰波珍湌(或云海干,或云破彌干),五曰大阿湌,從此至伊伐湌,唯眞骨受之,他宗則否,六曰阿湌(或云阿尺干,或云阿粲),自重阿湌至四重阿湌,七曰一吉湌(或云乙吉干),八曰沙湌(或云薩湌,或云沙咄干),九曰級伐湌(或云級飡,或云及伐干),十曰大奈麻(或云大奈末),自重奈麻至九重奈麻,十一曰奈麻(或云奈末),自重奈麻至七重奈麻,十二曰大舍(或云韓舍),十三曰舍知(或云小舍),十四曰吉士(或云稽知,或云吉次),十五曰大烏(或云大烏知),十六曰小烏(或云小烏知),十七曰造位(或云先沮知)

大輔は、南解王七年に脱解をこれに任じた。

儒理王九年に十七等を置いた。第一を伊伐飡といい(伊罰干ともいい、于伐飡ともいい、角干ともいい、角粲ともいい、舒発翰ともいい、舒弗邯ともいう)、第二を伊尺飡といい(伊飡ともいう)、第三を迊飡といい(迊判ともいい、蘇判ともいう)、第四を波珍飡といい(海干ともいい、破彌干ともいう)、第五を大阿飡という。ここから伊伐飡までは真骨だけが受け、他の氏族は受けられない。

第六を阿飡といい(阿尺干ともいい、阿粲ともいう)、重阿飡から四重阿飡まである。第七を一吉飡といい(乙吉干ともいう)、第八を沙飡といい(薩飡ともいい、沙咄干ともいう)、第九を級伐飡といい(級飡ともいい、及伐干ともいう)、第十を大奈麻といい(大奈末ともいう)、重奈麻から九重奈麻まである。第十一を奈麻といい(奈末ともいう)、重奈麻から七重奈麻まである。第十二を大舎といい(韓舎ともいう)、第十三を舎知といい(小舎ともいう)、第十四を吉士といい(稽知ともいい、吉次ともいう)、第十五を大烏といい(大烏知ともいう)、第十六を小烏といい(小烏知ともいう)、第十七を造位という(先沮知ともいう)。

3上大等

上大等(或云上臣),法興王八年始置

上大等(上臣ともいう)は、法興王八年に初めて置いた。

4大角干

大角干(或云大舒發翰),太宗王七年,滅百濟論功,授大將軍金庾信大角干,於前十七位之上加之,非常位也

大角干(大舒発翰ともいう)は、太宗王七年、百済を滅ぼして功を論じ、大将軍の金庾信に大角干を授けたもので、前の十七位の上に加えたのであり、常の位ではない。

5太大角干

太大角干(或云太大舒發翰),文武王八年,滅高句麗授留守金庾信以太大角干,賞其元謀也,於前十七位及大角干之上加此位,以示殊尤之禮

太大角干(太大舒発翰ともいう)は、文武王八年、高句麗を滅ぼして留守の金庾信に太大角干を授けたもので、その元の謀を賞したのである。前の十七位および大角干の上にこの位を加え、格別の礼を示したのである。

6執事省

執事省,本名稟主(或云祖主),眞德王五年,改爲執事部,興德王四年,又改爲省,中侍一人,眞德王五年置,景德王六年,改爲侍中,位自大阿湌至伊湌爲之,典大等二人,眞興王二十六年置,景德王六年,改爲侍郞,位自奈麻至阿湌爲之,大舍二人,眞平王十一年置,景德王十八年,改爲郞中(一云眞德王五年改),位自舍知至奈麻爲之,舍知二人,神文王五年置,景德王十八年,改爲員外郞,惠恭王一二年,復稱舍知,位自舍知至大舍爲之,史十四人,文武王十□年,加六人,景德王改爲郞,惠恭王復稱史,位自先沮知至大舍爲之

執事省はもとの名が稟主(祖主ともいう)で、真徳王五年に改めて執事部とし、興徳王四年にまた改めて省とした。

中侍一人は真徳王五年に置き、景徳王六年に改めて侍中とした。位は大阿飡から伊飡までとする。典大等二人は真興王二十六年に置き、景徳王六年に改めて侍郎とした。位は奈麻から阿飡までとする。大舎二人は真平王十一年に置き、景徳王十八年に改めて郎中とした(真徳王五年に改めたともいう)。位は舎知から奈麻までとする。舎知二人は神文王五年に置き、景徳王十八年に改めて員外郎とし、恵恭王十二年に再び舎知と称した。位は舎知から大舎までとする。史十四人は文武王のときに六人を加え、景徳王が改めて郎とし、恵恭王が再び史と称した。位は先沮知から大舎までとする。

7兵部

兵部,令一人,法興王三年始置,眞興王五年,加一人,太宗王六年,又加一人,位自大阿湌至太大角干爲之,又得兼宰相私臣,大監二人,眞平王四十五年初置,太宗王十五年,加一人,景德王改爲侍郞,惠恭王復稱大監,位自□湌至阿湌爲之,弟監二人,眞平王十一年置,太宗王五年,改爲大舍,景德王改爲郞中,惠恭王復稱大舍,位自舍知至奈麻爲之,弩舍知一人,文武王十二年始置,景德王改爲司兵,惠恭王復稱弩舍知,位自舍知至大舍爲之,史十二人,文武王十一年加二人,十二年加三人,位自先沮知至大舍爲之,弩幢一人,文武王十一年置,景德王改爲小司兵,惠恭王復故,位與史同

兵部の令一人は法興王三年に初めて置き、真興王五年に一人を加え、太宗王六年にまた一人を加えた。位は大阿飡から太大角干までとし、また宰相と私臣を兼ねることができる。

大監二人は真平王四十五年に初めて置き、太宗王十五年に一人を加えた。景徳王が改めて侍郎とし、恵恭王が再び大監と称した。位は(字欠)飡から阿飡までとする。

弟監二人は真平王十一年に置き、太宗王五年に改めて大舎とした。景徳王が改めて郎中とし、恵恭王が再び大舎と称した。位は舎知から奈麻までとする。

弩舎知一人は文武王十二年に初めて置き、景徳王が改めて司兵とし、恵恭王が再び弩舎知と称した。位は舎知から大舎までとする。

史十二人は文武王十一年に二人を加え、十二年に三人を加えた。位は先沮知から大舎までとする。

弩幢一人は文武王十一年に置き、景徳王が改めて小司兵とし、恵恭王がもとに復した。位は史と同じである。

8調府

調府,眞平王六年置,景德王改爲大府,惠恭王復故,令二人,眞德王五年置,位自衿荷至太大角干爲之,卿二人,文武王十五年加一人,位與兵部大監同,大舍二人,眞德王置,景德王改爲主簿,惠恭王復稱大舍,位自舍知至奈麻爲之,舍知一人,神文王五年置,景德王改爲司庫,惠恭王復稱舍知,位自舍知至大舍爲之,史八人,孝昭王四年加二人,位與兵部史同

調府は真平王六年に置き、景徳王が改めて大府とし、恵恭王がもとに復した。

令二人は真徳王五年に置き、位は衿荷から太大角干までとする。卿二人は文武王十五年に一人を加え、位は兵部の大監と同じである。大舎二人は真徳王が置き、景徳王が改めて主簿とし、恵恭王が再び大舎と称した。位は舎知から奈麻までとする。舎知一人は神文王五年に置き、景徳王が改めて司庫とし、恵恭王が再び舎知と称した。位は舎知から大舎までとする。史八人は孝昭王四年に二人を加え、位は兵部の史と同じである。

9京城周作典

京城周作典,景德王改爲修城府,惠恭王復故,令五人,聖德王三十一年置,位自大阿湌至大角干爲之,卿六人,聖德王三十二年置,位與執事侍郞同,大舍六人,景德王改爲主簿,惠恭王復稱大舍,位自舍知至大奈麻爲之,舍知一人,景德王改爲司功,惠恭王復稱舍知,位自舍知至大舍爲之,史八人,位與調府史同

京城周作典は景徳王が改めて修城府とし、恵恭王がもとに復した。

令五人は聖徳王三十一年に置き、位は大阿飡から大角干までとする。卿六人は聖徳王三十二年に置き、位は執事の侍郎と同じである。大舎六人は景徳王が改めて主簿とし、恵恭王が再び大舎と称した。位は舎知から大奈麻までとする。舎知一人は景徳王が改めて司功とし、恵恭王が再び舎知と称した。位は舎知から大舎までとする。史八人は位が調府の史と同じである。

10四天王寺成典

四天王寺成典,景德王改爲監四天王寺府,惠恭王復故,衿荷臣一人,景德王改爲監令,惠恭王復稱衿荷臣,哀莊王又改爲令,位自大阿湌至角干爲之,上堂一人,景德王改爲卿,惠恭王復稱上堂,哀莊王又改爲卿,位自奈麻至阿湌爲之,赤位一人,景德王改爲監,惠恭王復稱赤位,靑位二人,景德王改爲主簿,惠恭王復稱靑位,哀莊王改爲大舍,省一人,位自舍知至奈麻爲之,史二人

四天王寺成典は景徳王が改めて監四天王寺府とし、恵恭王がもとに復した。

衿荷臣一人は景徳王が改めて監令とし、恵恭王が再び衿荷臣と称し、哀荘王がまた改めて令とした。位は大阿飡から角干までとする。上堂一人は景徳王が改めて卿とし、恵恭王が再び上堂と称し、哀荘王がまた改めて卿とした。位は奈麻から阿飡までとする。赤位一人は景徳王が改めて監とし、恵恭王が再び赤位と称した。青位二人は景徳王が改めて主簿とし、恵恭王が再び青位と称し、哀荘王が改めて大舎として一人を省いた。位は舎知から奈麻までとする。史は二人である。

11奉聖寺成典

奉聖寺成典,景德王改爲修營奉聖寺使院,後復故,衿荷臣一人,景德王改爲檢校使,惠恭王復稱衿荷臣,哀莊王改爲令,上堂一人,景德王改爲副使,後復稱上堂,赤位一人,景德王改爲判官,後復稱赤位,靑位一人,景德王改爲錄事,後復稱靑位,史二人,景德王改爲典,後復稱史

奉聖寺成典は景徳王が改めて修営奉聖寺使院とし、後にもとに復した。

衿荷臣一人は景徳王が改めて検校使とし、恵恭王が再び衿荷臣と称し、哀荘王が改めて令とした。上堂一人は景徳王が改めて副使とし、後に再び上堂と称した。赤位一人は景徳王が改めて判官とし、後に再び赤位と称した。青位一人は景徳王が改めて録事とし、後に再び青位と称した。史二人は景徳王が改めて典とし、後に再び史と称した。

12感恩寺成典

感恩寺成典,景德王改爲修營感恩寺使院,後復故,衿荷臣一人,景德王改爲檢校使,惠恭王復稱衿荷臣,哀莊王改爲令,上堂一人,景德王改爲副使,惠恭王復稱上堂,哀莊王改爲卿(一云省卿,置赤位),赤位一人,景德王改爲判官,後復稱赤位,靑位一人,景德王改爲錄使,後復稱靑位,史二人,景德王改爲典,後復稱史

感恩寺成典は景徳王が改めて修営感恩寺使院とし、後にもとに復した。

衿荷臣一人は景徳王が改めて検校使とし、恵恭王が再び衿荷臣と称し、哀荘王が改めて令とした。上堂一人は景徳王が改めて副使とし、恵恭王が再び上堂と称し、哀荘王が改めて卿とした(省卿といい、赤位を置いたともいう)。赤位一人は景徳王が改めて判官とし、後に再び赤位と称した。青位一人は景徳王が改めて録使とし、後に再び青位と称した。史二人は景徳王が改めて典とし、後に再び史と称した。

13奉徳寺成典

奉德寺成典,景德王十八年,改爲修營奉德寺使院,後復故,衿荷臣一人,景德王改爲檢校使,惠恭王復稱衿荷臣,哀莊王又改爲卿,上堂一人,景德王改爲副使,惠恭王復稱上堂,哀莊王又改爲卿,赤位一人,景德王改爲判官,惠恭王復稱赤位,靑位二人,景德王改爲錄使,惠恭王復稱靑位,史六人,後省四人,景德王改爲典,惠恭王復稱史

奉徳寺成典は景徳王十八年に改めて修営奉徳寺使院とし、後にもとに復した。

衿荷臣一人は景徳王が改めて検校使とし、恵恭王が再び衿荷臣と称し、哀荘王がまた改めて卿とした。上堂一人は景徳王が改めて副使とし、恵恭王が再び上堂と称し、哀荘王がまた改めて卿とした。赤位一人は景徳王が改めて判官とし、恵恭王が再び赤位と称した。青位二人は景徳王が改めて録使とし、恵恭王が再び青位と称した。史六人は後に四人を省き、景徳王が改めて典とし、恵恭王が再び史と称した。

14奉恩寺成典

奉恩寺成典,衿荷臣一人,惠恭王始置,哀莊王改爲令,副使一人,惠恭王始置,尋改爲上堂,哀莊王又改爲卿,大舍二人,史二人

奉恩寺成典の衿荷臣一人は恵恭王が初めて置き、哀荘王が改めて令とした。副使一人は恵恭王が初めて置き、ほどなく改めて上堂とし、哀荘王がまた改めて卿とした。大舎は二人、史は二人である。

15霊廟寺成典

靈廟寺成典,景德王十八年,改爲修營靈廟寺使院,後復故,上堂一人,景德王改爲判官,後復稱上堂,靑位一人,景德王改爲錄事,後又改爲大舍,史二人

霊廟寺成典は景徳王十八年に改めて修営霊廟寺使院とし、後にもとに復した。

上堂一人は景徳王が改めて判官とし、後に再び上堂と称した。青位一人は景徳王が改めて録事とし、後にまた改めて大舎とした。史は二人である。

16永興寺成典

永興寺成典,神文王四年始置,景德王十八年,改爲監永興寺館,大奈麻一人,景德王改爲監,史三人

永興寺成典は神文王四年に初めて置き、景徳王十八年に改めて監永興寺館とした。大奈麻一人は景徳王が改めて監とした。史は三人である。

17倉部

倉部,昔者,倉部之事,兼於稟主,至眞德王五年,分置此司,令二人,位自大阿湌至大角干爲之,卿二人,眞德王五年置,文武王十五年加一人,景德王改爲侍郞,惠恭王復稱卿,位與兵部大監同,大舍二人,眞德王置,景德王改爲郞中,惠恭王復稱大舍,位與兵部大舍同,租舍知一人,孝昭王八年置,景德王改爲司倉,惠恭王復故,位與弩舍知同,史八人,眞德王置,文武王十一年加三人,十二年加七人,孝昭王八年加一人,景德王十一年加三人,惠恭王加八人

倉部は、昔は倉部の事が稟主に兼ねられていたが、真徳王五年に至って分けてこの司を置いた。

令二人は位が大阿飡から大角干までとする。卿二人は真徳王五年に置き、文武王十五年に一人を加えた。景徳王が改めて侍郎とし、恵恭王が再び卿と称した。位は兵部の大監と同じである。大舎二人は真徳王が置き、景徳王が改めて郎中とし、恵恭王が再び大舎と称した。位は兵部の大舎と同じである。租舎知一人は孝昭王八年に置き、景徳王が改めて司倉とし、恵恭王がもとに復した。位は弩舎知と同じである。史八人は真徳王が置き、文武王十一年に三人、十二年に七人、孝昭王八年に一人、景徳王十一年に三人を加え、恵恭王が八人を加えた。

18礼部

禮部,令二人,眞平王八年置,位與兵部令同,卿二人,眞德王二年(一云五年)置,文武王十五年加一人,位與調府卿同,大舍二人,眞德王五年置,景德王改爲主簿,後復稱大舍,位與調府大舍同,舍知一人,景德王改爲司禮,後復稱舍知,位與調府舍知同,史八人,眞德王五年加三人,位與調府史同

礼部の令二人は真平王八年に置き、位は兵部の令と同じである。卿二人は真徳王二年(五年ともいう)に置き、文武王十五年に一人を加えた。位は調府の卿と同じである。大舎二人は真徳王五年に置き、景徳王が改めて主簿とし、後に再び大舎と称した。位は調府の大舎と同じである。舎知一人は景徳王が改めて司礼とし、後に再び舎知と称した。位は調府の舎知と同じである。史八人は真徳王五年に三人を加え、位は調府の史と同じである。

19乗府

乘府,景德王改爲司馭府,惠恭王復故,令二人,眞平王六年置,位自大阿湌至角干爲之,卿二人,文武王十五年加一人,位與調府卿同,大舍二人,景德王改爲主簿,後復稱大舍,位與兵部大舍同,舍知一人,景德王改爲司牧,後復稱舍知,位與調府舍知同,史九人,文武王十一年加三人,位與調府史同

乗府は景徳王が改めて司馭府とし、恵恭王がもとに復した。

令二人は真平王六年に置き、位は大阿飡から角干までとする。卿二人は文武王十五年に一人を加え、位は調府の卿と同じである。大舎二人は景徳王が改めて主簿とし、後に再び大舎と称した。位は兵部の大舎と同じである。舎知一人は景徳王が改めて司牧とし、後に再び舎知と称した。位は調府の舎知と同じである。史九人は文武王十一年に三人を加え、位は調府の史と同じである。

20司正府

司正府,太宗王六年置,景德王改爲肅正臺,惠恭王復故,令一人,位自大阿湌至角干爲之,卿二人,眞興王五年置,文武王十五年加一人,位與乘府卿同,佐二人,孝成王元年,爲犯大王諱,凡丞改稱佐,景德王改爲評事,後復稱佐,位自奈痲至大奈痲爲之,大舍二人,位自舍知至奈痲爲之,史十人,文武王十一年加五人

司正府は太宗王六年に置き、景徳王が改めて粛正台とし、恵恭王がもとに復した。

令一人は位が大阿飡から角干までとする。卿二人は真興王五年に置き、文武王十五年に一人を加えた。位は乗府の卿と同じである。佐二人は、孝成王元年に大王の諱に触れるとして、およそ丞を佐と改め称したものである。景徳王が改めて評事とし、後に再び佐と称した。位は奈麻から大奈麻までとする。大舎二人は位が舎知から奈麻までとする。史十人は文武王十一年に五人を加えた。

21例作府

例作府(一云例作典),景德王改爲修例府,惠恭王復故,令一人,神文王六年置,位自大阿湌至角干爲之,卿二人,神文王置,位與司正卿同,大舍四人,哀莊王六年,省二人,景德王改爲主簿,後復稱大舍,位與兵部大舍同,舍知二人,景德王改爲司例,後復稱舍知,位與弩舍知同,史八人

例作府(例作典ともいう)は景徳王が改めて修例府とし、恵恭王がもとに復した。

令一人は神文王六年に置き、位は大阿飡から角干までとする。卿二人は神文王が置き、位は司正府の卿と同じである。大舎四人は哀荘王六年に二人を省き、景徳王が改めて主簿とし、後に再び大舎と称した。位は兵部の大舎と同じである。舎知二人は景徳王が改めて司例とし、後に再び舎知と称した。位は弩舎知と同じである。史は八人である。

22船府

船府,舊以兵部大監弟監,掌舟楫之事,文武王十八年別置,景德王改爲利濟府,惠恭王復故,令一人,位自大阿湌至角干爲之,卿二人,文武王三年置,神文王八年加一人,位與調府卿同,大舍二人,景德王改爲主簿,惠恭王復稱大舍,位與調府大舍同,舍知一人,景德王改爲司舟,惠恭王復稱舍知,位與調府舍知同,史八人,神文王元年加二人,哀莊王六年省二人

船府は、もとは兵部の大監と弟監が舟や楫の事を掌っていたが、文武王十八年に別に置いた。景徳王が改めて利済府とし、恵恭王がもとに復した。

令一人は位が大阿飡から角干までとする。卿二人は文武王三年に置き、神文王八年に一人を加えた。位は調府の卿と同じである。大舎二人は景徳王が改めて主簿とし、恵恭王が再び大舎と称した。位は調府の大舎と同じである。舎知一人は景徳王が改めて司舟とし、恵恭王が再び舎知と称した。位は調府の舎知と同じである。史八人は神文王元年に二人を加え、哀荘王六年に二人を省いた。

23領客府

領客府,本名倭典,眞平王四十三年,改爲領客典(後又別置倭典),景德王又改爲司賓府,惠恭王復故,令二人,眞德王五年置,位自大阿湌至角干爲之,卿二人,文武王十五年加一人,位與調府卿同,大舍二人,景德王改爲主簿,惠恭王復稱大舍,位與調府大舍同,舍知一人,景德王改爲司儀,惠恭王復稱舍知,位與調府舍知同,史八人

領客府はもとの名が倭典で、真平王四十三年に改めて領客典とし(後にまた別に倭典を置いた)、景徳王がまた改めて司賓府とし、恵恭王がもとに復した。

令二人は真徳王五年に置き、位は大阿飡から角干までとする。卿二人は文武王十五年に一人を加え、位は調府の卿と同じである。大舎二人は景徳王が改めて主簿とし、恵恭王が再び大舎と称した。位は調府の大舎と同じである。舎知一人は景徳王が改めて司儀とし、恵恭王が再び舎知と称した。位は調府の舎知と同じである。史は八人である。

24位和府

位和府,眞平王三年始置,景德王改爲司位府,惠恭王復故,衿苛臣二人,神文王二年始置,五年加一人,哀莊王六年改爲令,位自伊湌至大角干爲之,上堂二人,神文王置,聖德王二年加一人,哀莊王改爲卿,位自級湌至阿湌爲之,大舍二人,景德王改爲主簿,後復稱大舍,位與調府大舍同,史八人

位和府は真平王三年に初めて置き、景徳王が改めて司位府とし、恵恭王がもとに復した。

衿荷臣二人は神文王二年に初めて置き、五年に一人を加え、哀荘王六年に改めて令とした。位は伊飡から大角干までとする。上堂二人は神文王が置き、聖徳王二年に一人を加え、哀荘王が改めて卿とした。位は級飡から阿飡までとする。大舎二人は景徳王が改めて主簿とし、後に再び大舎と称した。位は調府の大舎と同じである。史は八人である。

25左理方府

左理方府,眞德王五年置,孝昭王元年,避大王諱,改爲議方府,令二人,位自級湌至迊湌爲之,卿二人,眞德王置,文武王十八年加一人,位與他傾同,佐二人,眞德王置,景德王改爲評事,惠恭王復稱佐,位與司正佐同,大舍二人,位與兵部大舍同,史十五人,元聖王十三年,省五人

左理方府は真徳王五年に置き、孝昭王元年に大王の諱を避けて改めて議方府とした。

令二人は位が級飡から迊飡までとする。卿二人は真徳王が置き、文武王十八年に一人を加えた。位は他の卿と同じである。佐二人は真徳王が置き、景徳王が改めて評事とし、恵恭王が再び佐と称した。位は司正府の佐と同じである。大舎二人は位が兵部の大舎と同じである。史十五人は元聖王十三年に五人を省いた。

26右理方府

右理方府,文武王七年置,令二人,卿二人,佐二人,大舍二人,史十人

右理方府は文武王七年に置いた。令が二人、卿が二人、佐が二人、大舎が二人、史が十人である。

27賞賜署

賞賜署,屬倉部,景德王改爲司勳監,惠恭王復故,大正一人,眞平王四十六年置,景德王改爲正,後復稱大正,位自級湌至阿湌爲之,佐一人,位自大奈麻至級湌爲之,大舍二人,眞德王五年置,景德王改爲主書,惠恭王復稱大舍,位自舍知至奈麻爲之,史六人,文武王二十年加二人,哀莊王六年省二人

賞賜署は倉部に属し、景徳王が改めて司勲監とし、恵恭王がもとに復した。

大正一人は真平王四十六年に置き、景徳王が改めて正とし、後に再び大正と称した。位は級飡から阿飡までとする。佐一人は位が大奈麻から級飡までとする。大舎二人は真徳王五年に置き、景徳王が改めて主書とし、恵恭王が再び大舎と称した。位は舎知から奈麻までとする。史六人は文武王二十年に二人を加え、哀荘王六年に二人を省いた。

28大道署

大道署(或云寺典,或云內道監),屬禮部,大正一人,眞平王四十六年置,景德王改爲正,後復稱大正,位自級湌至阿湌爲之(一云大正下有大舍二人),主書二人,景德王改爲主事,位自舍知至奈麻爲之,史八人

大道署(寺典ともいい、内道監ともいう)は礼部に属した。

大正一人は真平王四十六年に置き、景徳王が改めて正とし、後に再び大正と称した。位は級飡から阿飡までとする(大正の下に大舎二人があるともいう)。主書二人は景徳王が改めて主事とし、位は舎知から奈麻までとする。史は八人である。

29典邑署

典邑署,景德王改爲典京府,惠恭王復故,卿二人(本置監六人,分領六部,元聖王六年升二人爲卿),位自奈麻至沙湌爲之,監四人,位自奈麻至大奈麻爲之,大司邑六人,位自舍知至奈麻爲之,中司邑六人,位自舍知至大舍爲之,小司邑九人,位與弩舍知同,史十六人,木尺七十人

典邑署は景徳王が改めて典京府とし、恵恭王がもとに復した。

卿二人は(もとは監六人を置いて六部を分け領させたが、元聖王六年に二人を昇して卿とした)位が奈麻から沙飡までとする。監四人は位が奈麻から大奈麻までとする。大司邑六人は位が舎知から奈麻までとする。中司邑六人は位が舎知から大舎までとする。小司邑九人は位が弩舎知と同じである。史は十六人、木尺は七十人である。

30永昌宮成典

永昌宮成典,文武王十七年置,上堂一人,景德王置,又改爲卿,惠恭王復稱上堂,哀莊王六年又改爲卿,位自級湌至阿湌爲之,大舍二人,景德王改爲主簿,惠恭王復稱大舍,位自舍知至奈麻爲之,史四人

永昌宮成典は文武王十七年に置いた。

上堂一人は景徳王が置き、また改めて卿とし、恵恭王が再び上堂と称し、哀荘王六年にまた改めて卿とした。位は級飡から阿飡までとする。大舎二人は景徳王が改めて主簿とし、恵恭王が再び大舎と称した。位は舎知から奈麻までとする。史は四人である。

31国学

國學,屬禮部,神文王二年置,景德王改爲大學監,惠恭王復故,卿一人,景德王改爲司業,惠恭王復稱卿,位與他卿同,博士(若干人,數不定),助敎(若干人,數不定),大舍二人,眞德王五年置,景德王改爲主簿,惠恭王復稱大舍,位自舍知至奈麻爲之,史二人,惠恭王元年加二人,敎授之法,以周易尙書毛詩禮記春秋左氏傳文選,分而爲之業,博士若助敎一人,或以禮記周易論語孝經,或以春秋左傳毛詩論語孝經,或以尙書論語孝經文選敎授之,諸生讀書以三品出身,讀春秋左氏傳若禮記若文選而能通基義,兼明論語孝經者爲上,讀曲禮論語孝經者爲中,讀曲禮孝經者爲下,若能兼通五經三史諸子百家書者,超擢用之,或差算學博士若助敎一人,以綴經三開九章六章,敎授之,凡學生,位自大舍已下至無位,年自十五至三十皆充之,限九年,若朴魯不化者罷之,若才器可成而未熟者,雖踰九年許在學,位至大奈麻奈麻以後,出學

国学は礼部に属し、神文王二年に置き、景徳王が改めて大学監とし、恵恭王がもとに復した。

卿一人は景徳王が改めて司業とし、恵恭王が再び卿と称した。位は他の卿と同じである。博士は若干人で数が定まらず、助教も若干人で数が定まらない。大舎二人は真徳王五年に置き、景徳王が改めて主簿とし、恵恭王が再び大舎と称した。位は舎知から奈麻までとする。史二人は恵恭王元年に二人を加えた。

教授の法は、『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』『文選』を分けて学業とした。博士または助教一人が、あるいは『礼記』『周易』『論語』『孝経』で、あるいは『春秋左伝』『毛詩』『論語』『孝経』で、あるいは『尚書』『論語』『孝経』『文選』で教授した。

諸生は書を読むことで三品とし、出身させた。『春秋左氏伝』か『礼記』か『文選』を読んでその義によく通じ、あわせて『論語』『孝経』に明らかな者を上とし、『曲礼』『論語』『孝経』を読んだ者を中とし、『曲礼』『孝経』を読んだ者を下とした。もし五経・三史・諸子百家の書に兼ねて通じることができる者は、等を超えて抜き用いた。

あるいは算学博士または助教一人を差し、『綴経』『三開』『九章』『六章』で教授した。

およそ学生は、位が大舎以下から位のない者までで、年は十五から三十までをみな充て、九年を限りとした。もし愚かで学びが進まない者は罷めさせ、もし才器が成るに足りてまだ熟さない者は、九年を越えても学に在ることを許した。位が大奈麻・奈麻に至った後に学を出た。

32音声署

音聲署,屬禮部,景德王改爲大樂監,惠恭王復故,長二人,神文王七年改爲卿,景德王又改爲司樂,惠恭王復稱卿,位與他卿同,大舍二人,眞德王五年置,景德王改爲主簿,後復稱大舍,位自舍知至奈麻爲之,史四人

音声署は礼部に属し、景徳王が改めて大楽監とし、恵恭王がもとに復した。

長二人は神文王七年に改めて卿とし、景徳王がまた改めて司楽とし、恵恭王が再び卿と称した。位は他の卿と同じである。大舎二人は真徳王五年に置き、景徳王が改めて主簿とし、後に再び大舎と称した。位は舎知から奈麻までとする。史は四人である。

33大日任典

大日任典,太宗王四年置,景德王合典京府,大都司六人,景德王改爲大典儀,後復故,位自舍知至奈麻爲之,小都司二人,景德王改爲小典儀,後復故,位自舍知至大舍爲之,都事大舍二人,景德王改爲大典事,後復故,位自舍知至奈麻爲之,都事舍知四人,景德王改爲中典事,後復故,位自舍知至大舍爲之,都謁舍知八人,景德王改爲典謁,後復故,位自舍知至大舍爲之,都引舍知一,景德王改爲典引,後復故,位與弩舍知同,幢六人,景德王改爲小典事,後復故,位與調府史同,都事稽知六人,都謁稽知六人,都引稽知六人(或云都引幢,或云少典引),比伐首十人

大日任典は太宗王四年に置き、景徳王が典京府に合わせた。

大都司六人は景徳王が改めて大典儀とし、後にもとに復した。位は舎知から奈麻までとする。小都司二人は景徳王が改めて小典儀とし、後にもとに復した。位は舎知から大舎までとする。都事大舎二人は景徳王が改めて大典事とし、後にもとに復した。位は舎知から奈麻までとする。都事舎知四人は景徳王が改めて中典事とし、後にもとに復した。位は舎知から大舎までとする。都謁舎知八人は景徳王が改めて典謁とし、後にもとに復した。位は舎知から大舎までとする。都引舎知一人は景徳王が改めて典引とし、後にもとに復した。位は弩舎知と同じである。幢六人は景徳王が改めて小典事とし、後にもとに復した。位は調府の史と同じである。都事稽知が六人、都謁稽知が六人、都引稽知が六人で(都引幢ともいい、少典引ともいう)、比伐首が十人である。

34工匠府

工匠府,景德王改爲典祀署,後復故,監一人,神文王二年置,位自大奈麻至級湌爲之,主書二人(或云主事,或云大舍),眞德王五年置,位自舍知至奈麻爲之,史四人

工匠府は景徳王が改めて典祀署とし、後にもとに復した。

監一人は神文王二年に置き、位は大奈麻から級飡までとする。主書二人は(主事ともいい、大舎ともいう)真徳王五年に置き、位は舎知から奈麻までとする。史は四人である。

35彩典

彩典,景德王改爲典彩署,後復故,監一人,神文王二年置,位自奈麻至大奈麻爲之,主書二人,眞德王五年置,位自舍知至奈麻爲之,史三人(一云四人)

彩典は景徳王が改めて典彩署とし、後にもとに復した。

監一人は神文王二年に置き、位は奈麻から大奈麻までとする。主書二人は真徳王五年に置き、位は舎知から奈麻までとする。史は三人である(四人ともいう)。

36左司禄館

左司祿館,文武王十七年置,監一人,位自奈麻至大奈麻爲之,主書二人(或云主事),位自舍知至奈麻爲之,史四人

左司禄館は文武王十七年に置いた。監一人は位が奈麻から大奈麻までとする。主書二人は(主事ともいう)位が舎知から奈麻までとする。史は四人である。

37右司禄館

右司祿館,文武王二十一年置,監一人,主書二人,史四人

右司禄館は文武王二十一年に置いた。監が一人、主書が二人、史が四人である。

38典祀署

典祀署,屬禮部,聖德王十二年置,監一人,位自奈麻至大奈麻爲之,大舍二人,眞德王五年置,位自舍知至奈麻爲之,史四人

典祀署は礼部に属し、聖徳王十二年に置いた。監一人は位が奈麻から大奈麻までとする。大舎二人は真徳王五年に置き、位は舎知から奈麻までとする。史は四人である。

39新宮

新宮,聖德王十六年置,景德王改爲典設館,後復故,監一人,位與典祀署監同,主書二人,位與典祀署大舍同,史三人

新宮は聖徳王十六年に置き、景徳王が改めて典設館とし、後にもとに復した。監一人は位が典祀署の監と同じである。主書二人は位が典祀署の大舎と同じである。史は三人である。

40東市典

東市典,智證王九年置,監二人,位自奈麻至大奈麻爲之,大舍二人,景德王改爲主事,後復稱大舍,位自舍知至奈麻爲之,書生二人,景德王改爲司直,後復稱書生,位與調府史同,史四人

東市典は智証王九年に置いた。監二人は位が奈麻から大奈麻までとする。大舎二人は景徳王が改めて主事とし、後に再び大舎と称した。位は舎知から奈麻までとする。書生二人は景徳王が改めて司直とし、後に再び書生と称した。位は調府の史と同じである。史は四人である。

41西市典

西市典,孝昭王四年置,監二人,大舍二人,景德王改爲主事,後復稱大舍,書生二人,景德王改爲司直,後復稱書生,史四人

西市典は孝昭王四年に置いた。監は二人である。大舎二人は景徳王が改めて主事とし、後に再び大舎と称した。書生二人は景徳王が改めて司直とし、後に再び書生と称した。史は四人である。

42南市典

南市典,亦孝昭王四年置,監二人,大舍二人,景德王改爲主事,後復稱大舍,書生二人,景德王改爲司直,後復稱書生,史四人

南市典もまた孝昭王四年に置いた。監は二人である。大舎二人は景徳王が改めて主事とし、後に再び大舎と称した。書生二人は景徳王が改めて司直とし、後に再び書生と称した。史は四人である。

43司範署

司範署,屬禮部,大舍二人(或云主書),景德王改爲主事,後復稱大舍,位與調府舍知同,史四人

司範署は礼部に属した。大舎二人は(主書ともいう)景徳王が改めて主事とし、後に再び大舎と称した。位は調府の舎知と同じである。史は四人である。

44京都駅

京都驛,景德王改爲都亭驛,後復故,大舍二人,位自舍知至奈麻爲之,史二人

京都駅は景徳王が改めて都亭駅とし、後にもとに復した。大舎二人は位が舎知から奈麻までとする。史は二人である。

45漏刻典

漏刻典,聖德王十七年始置,博士六人,史一人

漏刻典は聖徳王十七年に初めて置いた。博士が六人、史が一人である。

46六部少監典

六部少監典(一云六部監典),梁部沙梁部,監郞各一人,大奈麻各一人,大舍各二人,舍知各一人,梁部史六人,沙梁部史五人,本彼部,監郞一人,監大舍一人,舍知一人,監幢五人,史一人,牟梁部,監臣一人,大舍一人,舍知一人,監幢五人,史一人,漢祇部習比部,監臣各一人,大舍各一人,舍知各一人,監幢各三人,史各一人

六部少監典(六部監典ともいう)は次のとおりである。梁部と沙梁部には監郎が各一人、大奈麻が各一人、大舎が各二人、舎知が各一人で、梁部の史が六人、沙梁部の史が五人である。本彼部には監郎が一人、監大舎が一人、舎知が一人、監幢が五人、史が一人である。牟梁部には監臣が一人、大舎が一人、舎知が一人、監幢が五人、史が一人である。漢祇部と習比部には監臣が各一人、大舎が各一人、舎知が各一人、監幢が各三人、史が各一人である。

47食尺典

食尺典,大舍六人,史六人

食尺典は大舎が六人、史が六人である。

48直徒典

直徒典,大舍六人,舍知八人,史二十六人

直徒典は大舎が六人、舎知が八人、史が二十六人である。

49古官家典

古官家典,幢(一云稽知)四人,鉤尺六人,水主六人,禾主十五人

古官家典は幢(稽知ともいう)が四人、鉤尺が六人、水主が六人、禾主が十五人である。