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金庾信 下金庾信下

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 10 · 漢字 2,442字 · 朗読 9.8分

三国史記(三国時代の正史) 列傳 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1欽純と仁問が高句麗へ行く

麟德元年甲子三月,百濟餘衆,又聚泗沘城反叛,熊州都督,發所管兵士攻之,累日霧塞,不辨人物,是故,不能戰,使伯山來告之,庾信授之陰謀,以克之。麟德二年,高宗遣使梁冬碧、任智高等來聘。兼冊庾信奉常正卿平壤郡開國公,食邑二千戶。乾封元年,皇帝勑召庾信長子大阿飡三光,為左武衛翊府中郞將,仍令宿衛。摠章元年戊辰,唐高宗皇帝,遣英國公李勣,興師伐高句麗,遂徵兵於我。文武大王,欲出兵應之,遂命欽純、仁問為將軍。欽純告王曰:「若不與庾信同行,恐有後悔。」王曰:「公等三臣,國之寶也。若摠向敵場,儻有不虞之事,而不得歸,則其如國何。故欲留庾信守國,則隱然若長城,終無憂矣。」欽純,庾信之弟,仁問,庾信之外甥,故尊事之,不敢抗。

麟徳元年甲子の三月、百済の残った者たちがまた泗沘城に集まって叛いたので、熊州都督が管する兵を出してこれを攻めた。幾日も霧が立ちこめて人も物も見分けられず、そのため戦うことができなかったので、伯山を遣わして告げに来させると、庾信はひそかな計を授けてこれに勝たせた。

麟徳二年、高宗が使いの梁冬碧・任智高らを遣わして聘問し、あわせて庾信を奉常正卿・平壌郡開国公に冊し、食邑二千戸を与えた。

乾封元年、皇帝は勅して庾信の長子である大阿飡の三光を召し、左武衛翊府中郎将とし、そのまま宿衛させた。

摠章元年戊辰、唐の高宗皇帝が英国公の李勣を遣わして兵を起こし高句麗を討たせ、ついに我に兵を徴した。文武大王は兵を出してこれに応じようとし、ついに欽純と仁問に命じて将軍とした。

欽純が王に申し上げた。「もし庾信と一緒に行かなければ、後の悔いがあるのを恐れます。」

王が言った。「公ら三人の臣は国の宝である。もしみな敵の戦場に向かって、思わぬ事があって帰れなければ、その国をどうしようか。だから庾信を留めて国を守らせようとするのだ。そうすれば隠然として長城のようであり、ついに憂いがないであろう。」

欽純は庾信の弟、仁問は庾信の甥であったから、尊んで仕え、敢えて逆らわなかった。

2庾信が二人に教える

至是,告庾信曰:「吾等不材,今從大王,就不測之地,為之奈何,願有所指誨。」答曰:「夫為將者,作國之干城,君之爪牙。決勝否於矢石之間,必上得天道,下得地理,中得人心,然後可得成功。今我國以忠信而存,百濟以慠慢而亡,高句麗以驕滿而殆,今若以我之直,擊彼之曲,可以得志。況憑大國明天子之威稜哉。往矣勉焉,無墮乃事!」二公拜曰:「奉以周旋,不敢失墮。」文武大王旣與英公,破平壤,還到南漢州,謂群臣曰:「昔者,百濟明襛王在古利山,謀侵我國,庾信之祖武力角干,為將逆擊之,乘勝俘其王及宰相四人與士卒,以折其衝。又其父舒玄,為良州摠管,屢與百濟戰,挫其銳,使不得犯境。故邊民安農桑之業,君臣無宵旰之憂。今,庾信承祖考之業,為社稷之臣,出將入相,功績茂焉。

このときになって庾信に申し上げた。「我らは才なくして、いま大王に従って測りがたい地に赴きます。どうすればよいでしょうか。お教えいただきたいと願います。」

答えた。「そもそも将たる者は国の楯と城となり、君の爪と牙となる。矢と石の間で勝ち負けを決するのだから、必ず上は天の道を得、下は地の利を得、中は人の心を得て、そうしてのちに功を成すことができる。いま我が国は忠と信によって存し、百済は驕り慢って亡び、高句麗は驕り満ちて危うい。いまもし我の直をもって彼の曲を撃てば、志を得ることができる。まして大国の明らかな天子の威に頼っているのだから。行って励め、おまえたちの務めを落とすな。」

二公は拝して言った。「奉じて行き渡らせ、敢えて落としません。」

文武大王はすでに英公とともに平壌を破り、帰って南漢州に至り、群臣に言った。

「昔、百済の明襛王が古利山にあって我が国を侵すことを謀ったとき、庾信の祖父の武力角干が将となって迎え撃ち、勝ちに乗じてその王と宰相四人と兵を捕らえ、その鋒を折った。またその父の舒玄は良州摠管となって、しばしば百済と戦ってその鋭さをくじき、境を犯させなかった。だから辺りの民は農と桑の業を安んじ、君と臣は夜も明け方も憂えることがなかった。いま庾信は祖父と父の業を継いで社稷の臣となり、出れば将、入れば相として、功績が盛んである。

3太大舒発翰を授け、庾信が病む

若不倚賴公之一門,國之興亡,未可知也,其於職賞,宜如何也。」群臣曰:「誠如王旨。」於是,授太大舒發翰之職,食邑五百戶。仍賜輿杖,上殿不趨,其諸察寮佐,各賜位一級。摠章元年,唐皇帝,旣策英公之功,遂遣使宣慰,濟師助戰,兼賜金帛。亦授詔書於庾信,以褒奬之,且諭入朝,而不果行。其詔書傳於家,至五世孫失焉。咸寧咸亨四年癸酉,是文武大王十三年。春,妖星見地震,大王憂之。庾信進曰:「今之變異,厄在老臣,非國家之災也,王請勿憂。」大王曰:「若此則寡人所甚憂也。」命有司祈禳之。夏六月,人或見戎服持兵器數十人,自庾信宅泣而去,俄而不見。庾信聞之曰:「此必陰兵護我者,見我福盡,是以去,吾其死矣。」後,旬有餘日,寢疾,大王親臨慰問,庾信曰:「臣願竭股肱之力,以奉元首,而犬馬之疾至此,今日之後,不復再見龍顔矣。

もし公の一門に頼らなかったなら、国の興亡はどうなったかわからない。その職と賞はどのようにすべきであろうか。」

群臣が言った。「まことに王の御旨のとおりです。」そこで太大舒発翰の職を授け、食邑五百戸を与えた。さらに輿と杖を賜り、殿に上がるときに小走りしなくてよいこととし、その諸々の僚佐にもそれぞれ位一級を賜った。

摠章元年、唐の皇帝はすでに英公の功を策し、ついに使いを遣わして慰めを宣べ、兵を増して戦いを助け、あわせて金と絹を賜った。また庾信にも詔書を授けて褒め励まし、かつ入朝するよう諭したが、行くことはできなかった。その詔書は家に伝わったが、五世の孫に至って失われた。

咸亨四年癸酉は文武大王十三年である。春に妖しい星が現れ地が震えたので、大王はこれを憂えた。

庾信が進み出て言った。「いまの変異は厄が老臣にあるのであって、国の災いではありません。王はご心配なさいませんように。」

大王が言った。「それならば、これは寡人がはなはだ憂えるところである。」そして役所に命じて祈り払わせた。

夏六月、ある人が、戎服を着て武器を持った数十人が庾信の家から泣いて出て行くのを見たが、ほどなく見えなくなった。庾信はこれを聞いて言った。「これは必ず私を護っていた陰の兵である。私の福が尽きたのを見て、それで去ったのだから、私は死ぬのであろう。」

後、十日あまりして病に臥した。大王が自ら臨んで慰問すると、庾信が言った。「臣は手足の力を尽くして元首をお奉りしたいと願いましたが、犬馬のような身の病がここに至りました。今日より後は、再び龍顔を拝することはありません。」

4庾信が亡くなる

」大王泣曰:「寡人之有卿,如魚有水,若有不可諱,其如人民何,其如社稷何。」庾信對曰:「臣愚不肖,豈能有益於國家,所幸者,明上,用之不疑,任之勿貳,故得攀附王明,成尺寸功,三韓為一家,百姓無二心,雖未至太平,亦可謂小康。臣觀自古繼體之君,靡不有初,鮮克有終,累世功績,一朝隳廢,甚可痛也。伏願:殿下,知成功之不易,念守成之亦難,疏遠小人,親近君子,使朝廷和於上,民物安於下,禍亂不作,基業無窮,則臣死且無憾。」王泣而受之。至秋七月一日,薨于私第之正寢,享年七十有九。大王聞訃震慟,贈賻彩帛一千匹、租二千石,以供喪事,給軍樂鼓吹一百人,出葬于金山原,命有司立碑,以紀功名,又定入民戶,以守墓焉。妻智炤夫人,太宗大王第三女也。

大王は泣いて言った。「寡人に卿があるのは、魚に水があるようなものである。もし避けられぬことがあれば、人民をどうし、社稷をどうしようか。」

庾信が答えた。「臣は愚かで及ばぬ者ですから、どうして国家に益があったでしょう。幸いであったのは、明らかな上がこれを用いて疑わず、任せて二心を持たれなかったことです。それゆえ王の明らかさに寄り添って寸尺の功を成し、三韓が一つの家となり、民に二心がなくなりました。太平には至らなかったとはいえ、また小康といってよいでしょう。

臣が見ますに、昔から世を継いだ君に初めのない者はありませんが、よく終わりを全うする者はまれで、幾代の功績が一朝に崩れ廃れてしまうのは、はなはだ痛ましいことです。伏して願います、殿下は功を成すことが容易でないことを知り、成ったものを守ることもまた難しいことを念い、小人を遠ざけ君子を近づけ、上では朝廷が和し、下では民と物が安らかで、禍と乱が起こらず、国の基が無窮となるようにしてくださいますなら、臣は死んでも恨みはありません。」

王は泣いてこれを受けた。

秋七月一日に至って私邸の正寝で亡くなった。年は七十九であった。大王は訃を聞いて震え慟き、彩りの絹千匹と租二千石を贈って喪の事に供させ、軍楽の鼓吹百人を給して金山の原に葬らせた。役所に命じて碑を立てて功と名を記させ、また民戸を定めて入れて墓を守らせた。

妻の智炤夫人は、太宗大王の第三の娘である。

5子孫と興武大王

生子五人,長曰三光伊飡,次元述蘇判,次元貞海干,次長耳大阿飡,次元望大阿飡。女子四人,又庶子軍勝阿飡,失其母姓氏。後,智炤夫人,落髮衣褐,為比丘尼,時,大王謂夫人曰:「今,中外平安,君臣高枕而無憂者,是太大角干之賜也,惟夫人宜其室家,儆誡相成,陰功茂焉,寡人欲報之德,未嘗一日忘于心。其餽南城租每年一千石。」後,興德大王封公為興武大王。初,法敏王,納高句麗叛衆,又據百濟故地有之。唐高宗大怒,遣師來討,唐軍與靺鞨,營於石門之野。王遣將軍義福、春長等禦之,營於帶方之野。時,長槍幢獨別營,遇唐兵三千餘人,捉送大將軍之營。於是,諸幢共言:「長槍營獨處成功,必得厚賞,吾等不宜屯聚,徒自勞耳。」遂各別兵分散。

子を五人生んだ。長を三光伊飡といい、次を元述蘇判、次を元貞海干、次を長耳大阿飡、次を元望大阿飡という。女子は四人で、また庶子の軍勝阿飡があるが、その母の姓氏は失われている。

後に智炤夫人は髪を落とし粗い衣を着て比丘尼となった。そのとき大王が夫人に言った。「いま内外が平安で、君と臣が枕を高くして憂いがないのは、太大角干の賜である。ただ夫人はその家をよくし、戒め合い助け合って、陰の功が盛んであった。寡人はその徳に報いたいと思い、一日も心に忘れたことがない。」そして南城の租を毎年千石ずつ贈らせた。

後に興徳大王は公を封じて興武大王とした。

はじめ法敏王が高句麗の叛いた者たちを受け入れ、また百済の旧地を占めてこれを有したので、唐の高宗は大いに怒り、兵を遣わして討たせた。唐の軍は靺鞨とともに石門の野に陣営を構えたので、王は将軍の義福・春長らを遣わして防がせ、帯方の野に陣営を構えた。

そのとき長槍幢がひとり別に陣営を構えていたが、唐の兵三千余人に出会ってこれを捕らえ、大将軍の陣営に送った。そこで諸幢がともに言った。「長槍の営はひとりで功を成したから、必ず厚い賞を得るであろう。我らは集まっていても、いたずらに自ら労するだけだ。」ついにそれぞれ兵を別にして散った。

6元述が死にきれない

唐兵與靺鞨,乘其未陣擊之,吾人大敗,將軍曉川、義文等死之。庾信子元述,為裨將,亦欲戰死,其佐淡凌,止之曰:「大丈夫,非死之難,處死之為難也。若死而無成,不若生而圖後效。」答田曰:「男兒不苟生,將何面目以見吾父乎。」便欲策馬而走,淡凌攬轡不放,遂不能死,隨上將軍出蕪荑嶺,唐兵追及之。居烈州大監阿珍含一吉干,謂上將軍曰:「公等努力速去。吾年已七十,能得幾時活也!此時是吾死日也。」便橫戟突陣而死,其子亦隨而死。大將軍等,微行入京。大王聞之,問庾信曰:「軍敗如此,奈何。」對曰:「唐人之謀,不可測也。宜使將卒各守要害。但元述不惟辱王命,而亦負家訓,可斬也。」大王曰:「元述裨將,不可獨施重刑。」乃赦之。元述慙懼,不敢見父,隱道遁於田園,至父薨後,求見母氏。

唐の兵は靺鞨とともに、その陣の整わないうちに乗じて撃ったので、我が人は大いに敗れ、将軍の暁川・義文らが死んだ。

庾信の子の元述は裨将となっていて、同じく戦って死のうとしたが、その佐の淡凌が止めて言った。「大丈夫は死ぬことが難しいのではなく、死に処を選ぶことが難しいのです。もし死んで成すところがないなら、生きて後の効を図るに越したことはありません。」

答えて言った。「男子が苟且に生きて、どんな顔をして我が父に会えようか。」そして馬に鞭打って走ろうとしたが、淡凌が手綱を取って放さなかったので、ついに死ぬことができなかった。

上将軍に従って蕪荑嶺を出ると、唐の兵が追いついた。居烈州の大監である阿珍含一吉干が上将軍に言った。「公らは力を尽くして速く行かれよ。私は年すでに七十、あとどれほど生きられようか。この時こそ私の死ぬ日である。」そして戟を横たえて陣に突き入って死に、その子もまた従って死んだ。

大将軍らはひそかに行って京に入った。大王はこれを聞いて庾信に問うた。「軍がこのように敗れた。どうすればよいか。」

答えた。「唐の人の謀は測りがたいものです。将と兵にそれぞれ要害を守らせるべきです。ただ元述は王命を辱めたばかりでなく、家の訓にも背きましたから、斬るべきです。」

大王が言った。「元述は裨将である。ひとりだけ重い刑に処することはできない。」そして赦した。

元述は恥じ恐れて敢えて父に会えず、道を隠れて田園に逃れ、父が亡くなった後に至って母に会うことを求めた。

7母が元述に会わない

母氏曰:「婦人有三從之義,今旣寡矣,宜從於子。若元述者,旣不得為子於先君,吾焉得為其母乎。」遂不見之。元述慟哭擗踴而不能去,夫人終不見焉。元述嘆曰:「為淡凌所誤,至於此極。」乃入大伯山太伯山。至乙亥年,唐兵來,攻買蘇川城,元述聞之,欲死之,以雪前恥,遂力戰有功賞,以不容於父母,憤恨不仕,以終其身。嫡孫允中,仕聖德大王,為大阿飡,屢承恩顧,王之親屬,頗嫉妬之。時,屬仲秋之望,王登月城岑頭眺望,乃與侍從官,置酒以娛,命喚允中,有諫者曰:「今,宗室戚里,豈無好人,而獨召疎遠之臣,豈所謂親親者乎。」王曰:「今,寡人與卿等,安平無事者,允中祖之德也,若如公言,忘棄之,則非善善及子孫之義也。」遂賜允中密坐,言及其祖平生,日晚告退,賜絶影山馬一匹,群臣觖望而已。

母が言った。「婦人には三従の義がある。いますでに寡となったのだから、子に従うべきである。しかし元述のような者は、すでに亡き父に子となれなかったのだから、私がどうしてその母となれようか。」そしてついに会わなかった。

元述は慟哭し、胸を打ち足を踏み鳴らして去ることができなかったが、夫人はとうとう会わなかった。元述は嘆いて言った。「淡凌に誤られて、ここまで来てしまった。」そして太白山に入った。

乙亥の年に至って唐の兵が来て買蘇川城を攻めたので、元述はこれを聞き、死んで前の恥を雪ごうとして、ついに力戦して功があり賞を受けた。しかし父母に容れられなかったことを憤り恨んで仕えず、その身を終えた。

嫡孫の允中は聖徳大王に仕えて大阿飡となり、しばしば恩と顧みを受けたので、王の親族はこれをひどく妬み憎んだ。

そのときちょうど仲秋の望であったので、王は月城の岑の頂に登って眺め、そこで侍従の官とともに酒を置いて楽しみ、允中を喚ぶよう命じた。

諫める者があって言った。「いま宗室や外戚にどうしてよい人がないことがありましょう。それなのにひとり疎遠な臣をお召しになるのは、どうしていわゆる親を親しむことでありましょうか。」

王が言った。「いま寡人が卿らとともに安らかで事がないのは、允中の祖父の徳である。もし公の言うようにこれを忘れ棄てるなら、善を善として子孫にまで及ぼす義ではない。」

そして允中に近い席を賜り、その祖父の生涯に話が及んだ。日が暮れて退出を告げると、絶影山の馬一匹を賜ったので、群臣は物足りなく思うばかりであった。

8允中と金巖

開元二十一年,大唐遣使敎翰諭曰:「靺鞨、渤海,外稱蕃翰,內懷狡猾,今欲出兵問罪,卿亦發兵,相為掎角,聞有舊將金庾信孫允中在,須差此人為將。」仍賜允中金帛若干。於是,大王命允中、弟允文等四將軍,率兵會唐兵,伐渤海。允中庶孫巖,性聰敏,好習方術,少壯為伊飡,入唐宿衛,間就師,學陰陽家法,聞一隅,則反之以三隅,自述遁甲立成之法,呈於其師,師撫憮然曰:「不圖吾子之明達,至於此也。」從是而後,不敢以弟子待之。大曆中還國,為司天大博士,歷良、康、漢三州大守太守,復為執事侍郞、浿江鎭頭上。所至盡心撫字,三務之餘,敎之以六陣兵法,人皆便之。嘗有蝗蟲,自西入浿江之界,蠢然蔽野,百姓憂懼。巖登山頂,焚香析祈天,忽風雨大作,蝗蟲盡死。

開元二十一年、大唐が使いを遣わして詔で諭した。「靺鞨と渤海は、外には藩屏と称しながら、内には狡猾さを懐いている。いま兵を出して罪を問おうとするので、卿もまた兵を出して互いに前後から挟み取れ。聞くところでは旧い将の金庾信の孫の允中がいるという。ぜひこの人を選んで将とせよ。」そして允中に金と絹をいくらか賜った。

そこで大王は允中と弟の允文ら四人の将軍に命じて兵を率い、唐の兵と合わせて渤海を討たせた。

允中の庶孫の巖は、性が聡く敏くて方術を習うことを好んだ。若くして伊飡となり、唐に入って宿衛し、合間に師について陰陽家の法を学んだが、一隅を聞けば三隅をもって返すほどであった。自ら遁甲立成の法を述べてその師に呈すると、師は撫でて驚き言った。「わが子の明らかさと通じようがここまでとは思わなかった。」これより後は、敢えて弟子として扱わなかった。

大暦年間に国に帰って司天大博士となり、良州・康州・漢州の三州の太守を歴任し、さらに執事侍郎・浿江鎮頭上となった。至るところで心を尽くして撫で慈しみ、三季の農の合間に六陣の兵法を教えたので、人はみなこれを便としていた。

かつて蝗が西から浿江の境に入り、うごめいて野を覆ったので、民は憂え恐れた。巖は山の頂に登って香を焚き天に祈ると、たちまち風と雨が大いに起こり、蝗はことごとく死んだ。

9金巖が日本に行き、庾信の墓から旋風が起こる

大曆十四年己未,受命聘日本國。其國王,知其賢,欲勒留之。會,大唐使臣高鶴林來,相見甚懽。倭人認巖為大國所知,故不敢留乃還。夏四月,旋風坌起,自庾信墓,至始祖大王之陵,塵霧暗冥,不辨人物,守陵人聞其中若有哭泣悲嘆之聲。惠恭大王,聞之恐懼,遣大臣金敬信,致祭謝過,仍於鷲仙寺,納田三十結,以資冥福。是寺,庾信平麗、濟二國,所營立也。庾信玄孫新羅執事郞長淸,作行錄十卷,行於世。頗多釀辭,故刪落之,取其可書者,為之傳。論曰:唐李絳對憲宗曰:「遠邪侫,進忠直,與大臣言,敬而信,無使小人參焉,與賢者遊,親而禮,無使不肖預焉。」誠哉,斯言也,實為君之要道也。故《書》曰:「任賢勿貳,去邪勿疑。」觀夫新羅之待庾信也,親近而無間,委任而不貳,謀行言聽,不使怨乎不以,可謂得六五童蒙之吉。

大暦十四年己未、命を受けて日本国に聘問した。その国の王は彼が賢いことを知り、強いて留めようとした。ちょうど大唐の使臣の高鶴林が来て、相見てたいそう喜んだ。倭の人は巖を大国に知られた者と認め、そのため敢えて留めず、そのまま帰った。

夏四月、旋風がもうもうと起こり、庾信の墓から始祖大王の陵まで至り、塵と霧が暗くなって人も物も見分けられなかった。陵を守る人は、その中から泣き悲しみ嘆くような声が聞こえるのを耳にした。

恵恭大王はこれを聞いて恐れ、大臣の金敬信を遣わして祭りを致し過ちを謝らせ、さらに鷲仙寺に田三十結を納めて冥福を資けさせた。この寺は、庾信が高句麗・百済の二国を平らげて営み立てたものである。

庾信の玄孫で新羅の執事郎である長清が『行録』十巻を作り、世に行われている。かなり作り事の言葉が多いので、削り落として書くに足るものを取り、これを伝とした。

論じていう。

唐の李絳が憲宗に答えて言った。「邪なへつらう者を遠ざけ、忠で正しい者を進め、大臣と語るときは敬んで信じ、小人を参らせないようにし、賢者と交わるときは親しんで礼をもってし、不肖の者を預からせないようにしてください。」

まことであるな、この言葉は。実に君たる者の要の道である。だから『書経』に「賢を任じて二心を持たず、邪を去って疑うな」とある。

かの新羅が庾信を遇したさまを見ると、親しみ近づけて隔てがなく、任せて二心なく、謀れば行い、言えば聴いて、用いられないという恨みを抱かせなかった。六五の童蒙の吉を得たというべきである。

10史論 — この国の人は今も讃える

故庾信得以行其志,與上國協謀,合三土為一家,能以功名終焉。雖有乙支文德之智略、張保皋之義勇,微中國之書,則泯滅而無聞,若庾信,則鄕人稱頌之,至今不亡。士大夫知之,可也,至於蒭童牧豎,亦能知之,則其為人也,必有以異於人矣。

だから庾信はその志を行うことができ、上国と謀を合わせ、三つの地を一つの家として、功と名をもって終えることができた。

乙支文徳の智略や張保皐の義勇があっても、中国の書がなければ消え失せて聞こえなかったであろう。庾信のような人は、この国の人が讃え称えて今に至るまで滅びていない。士大夫が知っているのは当然として、草刈りの子や牛飼いの子までもよく知っているのだから、その人となりには必ず人と異なるところがあったのである。