金庾信 中金庾信中
1道薩城で殷相を斬る
太和二年秋八月,百濟將軍殷相,來攻石吐等七城。王命庾信及竹旨、陳春、天存等將軍,出禦之。分三軍為五道,擊之,互相勝負,經旬不解,至於僵屍滿野,流血浮杵。於是,屯於道薩城下,歇馬餉士,以圖再擧。時,有水鳥東飛,過庾信之幕,將士見之,以為不祥。庾信曰:「此不足怪也。」謂衆曰:「今日,必有百濟人來諜。汝等佯不知,勿敢誰何。」又使徇于軍中曰:「堅壁不動,待明日援軍至,然後,決戰。」諜者聞之,歸報殷相。殷相等謂有加兵,不能不疑懼。於是,庾信等一時奮擊,大克之,生獲將軍達率正仲、士卒一百人,斬佐平殷相、達率自堅等十人及卒八千九百八十人,獲馬一萬匹、鎧一千八百領,其他器械稱是。及歸還,路見百濟佐平正福與卒一千人來降,皆放之,任其所往。至京城,大王迎門,勞慰優厚。
太和二年の秋八月、百済の将軍殷相が石吐など七つの城を攻めに来た。王は庾信および竹旨・陳春・天存らの将軍に命じて出て防がせた。三軍を分けて五つの道とし、これを撃ったが、互いに勝ち負けして十日を経ても解けず、倒れた屍が野に満ち、流れる血に杵が浮くほどになった。
そこで道薩城の下に陣し、馬を休め兵に食わせて、再び挙げることを図った。そのとき水鳥が東に飛んで庾信の幕を過ぎたので、将や兵はこれを見て不祥だとした。
庾信が言った。「これは怪しむに足りない。」そして人々に言った。「今日は必ず百済の人が来て諜するであろう。おまえたちは知らぬふりをして、敢えて誰かと問うな。」
また軍中に触れ回らせた。「壁を固めて動くな。明日、援軍が至るのを待ってから決戦する。」
諜者はこれを聞いて帰り、殷相に報せた。殷相らは兵を加えるものと思い、疑い恐れずにはいられなかった。
そこで庾信らが一斉に奮い立って撃ち、大いに勝って、将軍の達率正仲と兵百人を生け捕り、佐平の殷相、達率の自堅ら十人と兵八千九百八十人を斬り、馬一万匹、鎧千八百領を得、その他の武具もこれに見合うほどであった。
帰る途中、道で百済の佐平正福が兵千人とともに降ってくるのを見て、みな放して行きたいところに任せた。京城に至ると、大王は門に迎えて労い慰めること厚かった。
2春秋を迎えて立てる
永徽五年,眞德大王薨,無嗣。庾信與宰相閼川伊飡謀,迎春秋伊飡,卽位,是為太宗大王。
永徽五年、真徳大王が亡くなり、嗣ぐ者がなかった。庾信は宰相の閼川伊飡と謀り、春秋伊飡を迎えて即位させた。これが太宗大王である。
3百済には道がない
永徽六年乙卯秋九月,庾信入百濟,攻刀比川城克之。是時,百濟君臣,奢泰淫逸,不恤國事。民怨神怒,災怪屢見。庾信告於王曰:「百濟無道,其罪過於桀、紂,此誠順天弔民伐罪之秋也。」
永徽六年乙卯の秋九月、庾信は百済に入り、刀比川城を攻めてこれに勝った。
このとき百済の君と臣は奢り淫らに放埒で、国の事を顧みなかった。民は怨み神は怒り、災いと怪しみがしばしば現れた。庾信が王に申し上げた。「百済には道がなく、その罪は桀や紂を越えています。これはまことに天に順い民を弔い罪を討つべき時です。」
4租未𡊠が任子に言葉を伝える
先是,租未𡊠級飡為夫山縣令,被虜於百濟,為佐平任子之家奴。從事勤恪,曾無懈慢,任子憐之不疑,縱其出入,乃逃歸,以百濟之事,告庾信。庾信知租未𡊠忠正而可用,乃語曰:「吾聞任子專百濟之事,思有以與謀而未末由。子其為我,再歸言之。」答曰:「公不以僕為不肖,而指使之,雖死無悔。」遂復入於百濟,告任子曰:「奴自以謂旣為國民,宜知國俗,是以,出遊累旬不返,不勝犬馬戀主之誠,故此來耳。」任子信之不責。租未𡊠伺間報曰:「前者,畏罪不敢直言,其實,往新羅還來。庾信諭我來告於君曰:『邦國興亡,不可先知,若君國亡,則君依於我國,我國亡,則吾依於君國。』」任子聞之,嘿然無言。租未𡊠惶懼而退,待罪數月。任子喚而問之曰:「汝前說庾信之言,若何?」租未𡊠驚恐而對,如前所言。任子曰:「爾所傳,我已悉知,可歸告之。」遂來說,兼及中外之事,丁寧詳悉。於是,愈急幷吞之謀。
これより先、租未𡊠級飡が夫山県令となっていたが、百済に捕らえられて佐平任子の家の奴となった。事に従って勤め慎み、かつて怠りや驕りがなかったので、任子は憐れんで疑わず、その出入りを放任した。そこで逃げ帰り、百済の事を庾信に告げた。
庾信は租未𡊠が忠実で正しく用いるに足ると知り、こう言った。「私が聞くに任子は百済の事をもっぱらにしているという。彼とともに謀る手だてを思ってきたが、まだ術がない。おまえは私のために、もう一度帰って言ってくれないか。」
答えて言った。「公がわたくしを愚かだとせず、指して用いてくださるのですから、死んでも悔いはありません。」
そしてまた百済に入り、任子に申し上げた。「奴はすでに自分がこの国の民となったのだから国の風俗を知るべきだと思い、出て遊び歩いて幾十日も帰りませんでした。犬馬が主を慕う誠に堪えられず、それでこうして戻ってまいったまでです。」任子はこれを信じて責めなかった。
租未𡊠は折を見て申し上げた。「さきには罪を恐れて敢えて正直に申せませんでした。実は新羅に行って帰ってきたのです。庾信がわたくしを諭して来て君に告げよと言い、『国の興亡は先には知れない。もし君の国が亡べば君は我が国に寄り、我が国が亡べば私が君の国に寄ろう』と申しました。」
任子はこれを聞いて黙って何も言わなかった。租未𡊠は恐れて退き、幾月か罪を待った。
任子が呼んで問うた。「おまえが先に話した庾信の言葉は、どのようであったか。」租未𡊠は驚き恐れながら、先に言ったとおりに答えた。
任子が言った。「おまえが伝えたことは、私がすでにすべて承知した。帰って告げてよい。」
そして帰って話し、あわせて内外の事まで丁寧に詳しく述べた。そこで併せ呑む謀をいよいよ急いだ。
5百済を滅ぼす
太宗大王七年庚申夏六月,大王與太子法敏,將伐百濟,大發兵,至南川而營。時,入唐請師波珍飡金仁問,與唐大將軍蘇定方、劉伯英,領兵十三萬,過海到德物島,先遣從者文泉來告。王命太子與將軍庾信、眞珠、天存等,以大船一百艘,載兵士會之。太子見將軍蘇定方,定方謂太子曰:「吾由海路,太子登陸行,以七月十日,會于百濟王都泗沘之城。」太子來告大王,率將士,行至沙羅之停。將軍蘇定方、金仁問等,沿海入技。海岸泥濘,陷不可行。乃布柳席,以出師。唐、羅合擊百濟滅之。此役也,庾信之功為多。於是,唐皇帝聞之,遣使褒嘉之。將軍定方謂庾信、仁問、良圖三人曰:「吾受命以便宜從事,今以所得百濟之地,分錫公等為食邑,以酬厥功,如何?」庾信對曰:「大將軍以天兵來,副寡君之望,雪小國之讐,寡君及一國臣民,喜抃之不暇,而吾等獨受賜以自利,其如義何。
太宗大王七年庚申の夏六月、大王は太子の法敏とともに百済を討とうとして大いに兵を挙げ、南川に至って陣営を構えた。
そのとき唐に入って兵を請うていた波珍飡の金仁問が、唐の大将軍蘇定方・劉伯英とともに兵十三万を率いて海を渡り、徳物島に至って、まず従者の文泉を遣わして告げた。王は太子と将軍の庾信・真珠・天存らに命じ、大船百艘に兵を載せてこれに会わせた。
太子が将軍蘇定方に会うと、定方が太子に言った。「私は海路を行き、太子は陸に上がって行き、七月十日に百済の王都泗沘城で会おう。」
太子は来て大王に告げ、将と兵を率いて行き、沙羅の停に至った。
将軍蘇定方と金仁問らは海沿いに技伐浦に入ったが、海岸が泥濘で、はまって行くことができなかったので、柳の席を敷いて兵を出した。唐と新羅が合わせて撃ち、百済を滅ぼした。この役では庾信の功が多かった。そこで唐の皇帝がこれを聞き、使いを遣わして褒め嘉した。
将軍定方が庾信・仁問・良図の三人に言った。「私は命を受けて都合のよいように事を行っている。いま得た百済の地を公らに分け与えて食邑とし、その功に報いたいが、どうか。」
庾信が答えた。「大将軍が天の兵を率いて来られ、我が君の望みに添い、小国の仇を雪いでくださったので、我が君と国中の臣と民は喜んで手を打つ暇もないほどです。それなのに我らだけが賜りを受けて自ら利するとすれば、その義においてどうでしょうか。
6唐が新羅をうかがう
」遂不受。唐人旣滅百濟,營於泗沘之丘,陰謀侵新羅。我王知之,召群臣問策。多美公進曰:「令我民,詐為百濟之人,服其服,若欲為賊者,唐人必擊之。因與之戰,可以得志矣。」庾信曰:「斯言可取,請從之。」王曰:「唐軍為我滅敵,而反與之戰,天其祐我耶。」庾信曰:「犬畏其主,而主踏其脚,則咬之,豈可遇難,而不自救乎。請大王許之。」唐人諜知我有備,虜百濟王及臣寮九十三人、卒二萬人,以九月三日,自泗沘泛船而歸,留郞將劉仁願等,鎭守之。定方旣獻俘,天子慰藉之曰:「何不因而伐新羅。」定方曰:「新羅其君仁而愛民,其臣忠以事國,下之人事其上,如父兄,雖小,不可謀也。」
」そして受けなかった。
唐の人はすでに百済を滅ぼし、泗沘の丘に陣営を構えて、ひそかに新羅を侵すことを謀った。我が王はこれを知り、群臣を召して策を問うた。
多美公が進み出て言った。「我が民に偽って百済の人のふりをさせ、その服を着せて賊になろうとするようにさせれば、唐の人は必ずこれを撃つでしょう。それによって彼らと戦えば、志を得ることができます。」
庾信が言った。「この言は取るに足ります。どうかこれに従ってください。」
王が言った。「唐の軍が我のために敵を滅ぼしたのに、かえって彼らと戦えば、天は我を助けるだろうか。」
庾信が言った。「犬はその主を畏れますが、主がその脚を踏めば噛むものです。どうして難に遭って自ら救わずにいられましょうか。どうか大王はお許しください。」
唐の人は諜して我に備えがあることを知り、百済の王と臣下九十三人、兵二万人を捕らえ、九月三日に泗沘から船を出して帰り、郎将の劉仁願らを留めて鎮め守らせた。
定方が捕虜を献じると、天子は慰めて言った。「どうしてそのついでに新羅を討たなかったのか。」
定方が言った。「新羅はその君が仁にして民を愛し、その臣は忠をもって国に仕え、下の人が上に仕えること父兄のようです。小さいとはいえ、謀ることはできません。」
7北漢山城の囲みが解け、高句麗の諜者を帰す
龍朔元年春,王謂百濟餘燼尚在,不可不滅,以伊飡品日、蘇判文王、大阿飡良圖等,為將軍,往伐之,不克。又遣伊飡欽純一作欽春、眞欽、天存、蘇判竹旨等,濟師。高句麗、靺鞨,謂新羅銳兵皆在百濟,內虛可擣,發兵,水陸並進,圍北漢山城。高句麗營其西,靺鞨屯其東,攻擊浹旬,城中危懼,忽有大星落於賊營,又雷雨震擊,賊等疑駭,解圍而遁。初,庾信聞賊圍城曰:「人力旣竭,陰助可資。」詣佛寺,設壇祈禱。會有天變,皆謂至誠所感也。庾信嘗以中秋夜,領子弟,立大門外,忽有人從西來。庾信知高句麗諜者,呼使之前曰:「而國有底事乎。」其人俯而不敢對。庾信曰:「無畏也,但以實告。」又不言。庾信告之曰:「吾國王,上不違天意,下不失人心,百姓欣然,皆樂其業,今爾見之,往告而國人。」遂慰送之。麗人聞之曰:「新羅雖小國,庾信為相,不可輕也。」
龍朔元年の春、王は百済の残り火がなお在るので滅ぼさないわけにはいかないとし、伊飡の品日、蘇判の文王、大阿飡の良図らを将軍として行って討たせたが、勝てなかった。また伊飡の欽純(欽春とも書く)、真欽・天存、蘇判の竹旨らを遣わして兵を増した。
高句麗と靺鞨は、新羅の鋭い兵がみな百済にあって内が空だから撃てるとし、兵を出して水陸ともに進み、北漢山城を囲んだ。高句麗はその西に陣営を構え、靺鞨はその東に陣して十日にわたって攻めたので、城中は危うみ恐れた。たちまち大きな星が賊の陣営に落ち、また雷雨が打ちつけたので、賊は疑い驚いて囲みを解いて逃げた。
はじめ庾信は賊が城を囲んだと聞いて言った。「人の力はすでに尽きた。神の助けに頼るほかない。」そして寺に詣で、壇を設けて祈った。ちょうど天の異変があったので、みな至誠が感じさせたものだといった。
庾信はかつて中秋の夜に子弟を率いて大門の外に立っていたが、たちまち西から来る人があった。庾信は高句麗の諜者だと知り、呼んで前に来させて言った。「おまえの国に何事かあるのか。」その人はうつむいて敢えて答えなかった。
庾信が言った。「恐れるな。ただ事実のままに告げよ。」それでも言わなかった。
庾信は彼に告げた。「我が国の王は、上は天の意に違わず、下は人の心を失わず、民は喜んでみなその生業を楽しんでいる。いまおまえはこれを見たのだから、行っておまえの国の人に告げよ。」そして慰めて帰らせた。
高句麗の人はこれを聞いて言った。「新羅は小国であっても、庾信が相となっているのだから、軽んじることはできない。」
8瓮山城を攻める
六月,唐高宗皇帝遣將軍蘇定方等,征高句麗。入唐宿衛金仁問,受命來告兵期,兼諭出兵會伐。於是,文武大王率庾信、仁問、文訓等,發大兵向高句麗,行次南川州。鎭守劉仁願,以所領兵,自泗沘泛船,至鞋浦下陸,亦營於南川州。時,有司報:「前路有百濟殘賊,屯聚瓮山城遮路,不可直前。」於是,庾信以兵進而圍城。使人近城下,與賊將語曰:「而國不龔,致大國之討。順命者賞,不順命者戮。今汝等,獨守孤城,欲何為乎。終必塗地,不如出降。非獨存命,富貴可期也。」賊高聲唱曰:「雖蕞爾小城,兵食俱足,士卒義勇,寧為死戰,誓不生降。」庾信笑曰:「窮鳥困獸,猶知自救,此之謂也。」乃揮旗鳴鼓攻之。大王登高見戰士,淚語激勵之,士皆奮突,鋒刃不顧。
六月、唐の高宗皇帝が将軍の蘇定方らを遣わして高句麗を討たせた。唐に入って宿衛していた金仁問が命を受けて来て出兵の時期を告げ、あわせて兵を出して合わせ討つよう諭した。
そこで文武大王は庾信・仁問・文訓らを率いて大軍を起こし、高句麗へ向かって南川州に宿った。鎮め守っていた劉仁願も、率いる兵をもって泗沘から船を出し、鞋浦に至って陸に下り、同じく南川州に陣営を構えた。
そのとき役人が報せた。「前の道に百済の残った賊が瓮山城に集まって道を遮っていますので、まっすぐ進むことができません。」
そこで庾信は兵を進めて城を囲んだ。人を遣わして城の下に近づかせ、賊の将と語らせた。「おまえの国が恭しくないために、大国の討伐を招いた。命に順う者は賞し、命に順わない者は殺す。いまおまえたちはひとり孤立した城を守って、何をしようというのか。ついには必ず地に塗れるのだから、出て降るに越したことはない。ひとり命を保つだけでなく、富貴も期することができる。」
賊は高い声で叫んだ。「わずかに小さな城であっても、兵も食もともに足り、兵は義にして勇ましい。むしろ死を覚悟して戦おうとも、誓って生きて降りはしない。」
庾信は笑って言った。「窮まった鳥、困った獣もなお自ら救うことを知るというのは、これを言うのだ。」そして旗を振り鼓を鳴らして攻めた。大王は高いところに登って戦う兵を見、涙ながらの言葉で励ましたので、兵はみな奮い立って突き進み、刃を顧みなかった。
9庾信がひとり命を受ける
九月二十七日,城陷,捉賊將戮之,放其民。論功賞賚將士,劉仁願亦分絹有差。於是,饗士秣馬,欲往會唐兵。大王前遣太監大監文泉,移書蘇將軍,至是復命,遂傳定方之言曰:「我受命萬里,涉滄海而討賊,艤舟海岸,旣踰月矣。大王軍士不至,粮道不繼,其危殆甚矣。王其圖之。」大王問群臣如之何而可。皆言深入敵境輸粮,勢不得達矣。大王患之,咨嗟。庾信前對曰:「臣過叨恩遇,忝辱重寄。國家之事,雖死不避,今日是老臣盡節之日也。當向敵國,以副蘇將軍之意。」大王前席執其手下淚曰:「得公賢弼,可以無憂。若今玆之役,罔愆于素,則公之功德,曷日可忘。」庾信旣受命,至懸鼓岑之岫寺,齊戒卽靈室,閉戶獨坐,焚香累日夜而後出。私自喜曰:「吾今之行,得不死矣。」將行,王以手書告庾信:「出彊之後,賞罰專之,可也。」
九月二十七日、城が陥り、賊の将を捕らえて殺し、その民は放した。功を論じて将と兵に賞を与え、劉仁願にもまた絹を差をつけて分けた。
そこで兵に食わせ馬に飼い、行って唐の兵と合わせようとした。大王は先に太監の大監文泉を遣わして蘇将軍に書を送っていたが、このとき復命し、ついに定方の言葉を伝えた。「私は万里に命を受け、青い海を渡って賊を討ち、海岸に船を寄せてすでに月を越えた。大王の軍士は至らず、糧道も続かず、その危うさは甚だしい。王はこれを図られよ。」
大王は群臣にどうすればよいかと問うたが、みな敵の境深くに入って糧を運ぶのは、勢いとして届きえないと言った。大王はこれを憂えて嘆息した。
庾信が前に進み出て答えた。「臣は過ぎた恩遇をいただき、重い任を辱めてまいりました。国の事であれば、死んでも避けません。今日こそ老臣が節を尽くす日です。まさに敵国へ向かって蘇将軍の意に添いましょう。」
大王は席の前に進んでその手を取り、涙を落として言った。「公のような賢い輔けを得たのだから、憂いはないであろう。もし今度の役が平素と違わぬものであれば、公の功と徳をどの日に忘れようか。」
庾信は命を受けると、懸鼓岑の岫寺に至り、斎戒して霊室に入り、戸を閉じてひとり座り、香を焚いて幾日幾夜を過ごした後に出てきた。そしてひそかに自ら喜んで言った。「私の今度の行きは、死なずに済むであろう。」
出発しようとするとき、王は手ずから書いて庾信に告げた。「境を出た後は、賞罰をもっぱらにしてよい。」
10十日に高句麗の境に入る
十二月十日,與副將軍仁問、眞服、良圖等九將軍,率兵載粮,入高句麗之界。
十二月十日、副将軍の仁問・真服・良図ら九人の将軍とともに兵を率い、糧を載せて高句麗の境に入った。
11七重河を渡って平壌へ向かう
壬戌正月二十三日,至七重河,人皆恐懼,不敢先登。庾信曰:「諸君若怕死,豈合來此。」遂先自上船而濟,諸將卒,相隨渡河。入高句麗之境,慮麗人要於大路,遂自險隘以行,至於䔉壤。庾信與諸將士曰:「麗、濟二國,侵凌我疆埸,賊害我人民,或虜丁壯,以斬戮之,或俘幼少,以奴使之者,久矣,其可不痛乎。吾今所以不畏死赴難者,欲藉大國之力,滅二城,以雪國讐。誓心告天,以期陰助,而未知衆心如何,故言及之。若輕敵者,必成功而歸,若畏敵,則豈免其禽獲乎。宜同心協力,無不以一當百,是所望於諸公者也。」諸將卒皆曰:「願奉將軍之命,不敢有偸生之心。」乃鼓行向平壤。路逢賊兵,逆擊克之,所得甲兵,甚多。至障塞之險,會天寒烈,人馬疲憊,往往僵仆。
壬戌の正月二十三日、七重河に至ると、人々はみな恐れて敢えて先に登らなかった。庾信が言った。「諸君がもし死を怖れるのなら、どうしてここに来るのがふさわしかろうか。」そしてまず自ら船に乗って渡ったので、諸将と兵も相継いで河を渡った。
高句麗の境に入り、高句麗の人が大路で待ち受けることを慮って、ついに険しく狭い道を通って䔉壤に至った。
庾信は諸将と兵に言った。「高句麗と百済の二国が我が境を侵し踏みにじり、我が民を害し、あるいは壮年の男を捕らえて斬り殺し、あるいは幼い者を虜にして奴として使うことが久しい。どうして痛ましくないことがあろうか。私がいま死を畏れずに難に赴くのは、大国の力を借りて二つの城を滅ぼし、国の仇を雪ごうとするためである。心に誓い天に告げて神の助けを期したが、人々の心がどうであるかわからないので、それでこう言うのである。もし敵を軽んじる者であれば必ず功を成して帰るであろうが、もし敵を畏れるなら、どうして捕らえられることを免れようか。心を同じくし力を合わせ、一をもって百に当たらない者がないようにすべきである。これが諸公に望むところである。」
諸将と兵はみな言った。「将軍の命を奉じたいと願います。敢えて生き延びようとする心は持ちません。」
そこで鼓を打ちながら平壌へ向かった。道で賊の兵に出会い、迎え撃ってこれに勝ち、得た甲や武器は非常に多かった。障塞の険しいところに至ると、ちょうど天気がひどく寒く、人も馬も疲れ果てて、ときおり硬くなって倒れた。
12裂起が蘇定方のもとへ行く
庾信露肩執鞭,策馬以前驅。衆人見之,努力奔走出汗,不敢言寒。遂過險,距平壤不遠,庾信曰:「唐軍乏食窘迫,宜先報之。」乃喚步騎監裂起曰:「吾少與爾遊,知爾志節,今欲致意於蘇將軍,而難其人,汝可行否。」裂起曰:「吾雖不肖,濫中軍職,況辱將軍便使令。雖死之日,猶生之年。」遂與壯士仇近等十五人,詣平壤,見蘇將軍曰:「庾信等領兵致資粮,已達近境。」定方喜以書謝之。庾信等行抵楊隩,見一老人,問之,具悉敵國消息,賜之布帛,辭不受而去。庾信營楊隩,遣解漢語者仁問、良圖及子軍勝等,達唐營,以王旨餽軍糧。定方以食盡兵疲,不能力戰,及得粮,便廻唐。良圖以兵八百人,泛海還國。時,麗人伏兵,欲要擊我軍於歸路。庾信以鼓及桴,繫群牛腰尾,使揮擊有聲,又積柴草燃之,使煙火不絶,夜半,潛行至瓢河,急渡岸休兵。
庾信は肩をあらわにして鞭を取り、馬に鞭打って先頭を駆けた。人々はこれを見て力を尽くして走り、汗を出して、敢えて寒いとは言わなかった。
ついに険しいところを過ぎ、平壌から遠くないところに至ると、庾信が言った。「唐の軍は食が乏しくて窮しているであろう。まず報せるべきである。」
そこで歩騎監の裂起を呼んで言った。「私は若いときからおまえと交わり、おまえの志と節を知っている。いま蘇将軍に意を伝えたいが、その人を得るのが難しい。おまえは行けるか。」
裂起が言った。「わたくしは愚かではありますが、みだりに軍の職にあり、まして将軍のご使命を辱めるのですから、たとえ死ぬ日であっても、なお生きる年と同じです。」
そして壮士の仇近ら十五人とともに平壌に詣り、蘇将軍に会って言った。「庾信らが兵を率いて資と糧を運び、すでに近い境に達しました。」定方は喜んで書をもって謝した。
庾信らは行って楊隩に至り、一人の老人に会って問うと、敵国の消息をくわしく知らせてくれた。布と絹を与えたが、辞して受けずに去った。
庾信は楊隩に陣営を構え、漢の言葉のわかる仁問・良図と子の軍勝らを遣わして唐の陣営に至らせ、王の旨をもって軍糧を贈らせた。定方は食が尽き兵が疲れて力戦できなかったが、糧を得るとすぐ唐に帰った。良図は兵八百人をもって海を渡り国に帰った。
そのとき高句麗の人が兵を伏せ、帰り道で我が軍を待ち受けて撃とうとした。庾信は鼓と撥を牛の群れの腰と尾に繋ぎ、振れば音が出るようにし、また柴や草を積んで燃やし、煙と火が絶えないようにした。夜半にひそかに進んで瓢河に至り、急いで渡って岸で兵を休ませた。
13豆率城で倭人を降す
麗人知之來追,庾信使萬弩俱發。麗軍且退,率勵諸幢將士分發,拒擊敗之,生禽將軍一人,斬首一萬餘級。王聞之,遣使勞之。及至,賞賜封邑爵位有差。龍朔三年癸亥,百濟諸城,潛圖興復,其渠帥據豆率城,乞師於倭為援助。大王親率庾信、仁問、天存、竹旨等將軍,以七月十七日,征討,次熊津州,與鎭守劉仁願合兵,八月十三日,至于豆率城。百濟人與倭人出陣,我軍力戰大敗之,百濟與倭人皆降。大王謂倭人曰:「惟我與爾國,隔海分疆,未嘗交構,但結好講和,聘問交通,何故今日與百濟同惡,以謀我國?今爾軍卒在我掌握之中,不忍殺之,爾其歸告爾王。」任其所之。分兵擊諸城降之,唯任存城,地險城固,而又粮多,是以攻之三旬,不能下,士卒疲困厭兵。大王曰:「今雖一城未下,而諸餘城保皆降,不可謂無功。」乃振旅而還。
高句麗の人はこれを知って追って来たので、庾信は万の弩を一斉に放たせた。高句麗の軍が退くと、諸幢の将と兵を率いて励まし、分けて差し向け、拒み撃って破り、将軍一人を生け捕り、一万余りの首を斬った。王はこれを聞いて使いを遣わして労った。至ると、賞と封邑と爵位を差をつけて与えた。
龍朔三年癸亥、百済の諸城がひそかに復興を図り、その首領が豆率城に拠り、倭に兵を乞うて助けとした。大王は自ら庾信・仁問・天存・竹旨らの将軍を率い、七月十七日に討ちに行き、熊津州に宿り、鎮め守っていた劉仁願と兵を合わせ、八月十三日に豆率城に至った。
百済の人が倭人とともに陣を出したので、我が軍は力戦して大いにこれを破り、百済と倭人はみな降った。大王は倭人に言った。「そもそも我とおまえの国とは海を隔てて境を分け、かつて争い構えたことがなく、ただ好を結んで和を講じ、聘問して往き来してきた。どうして今日、百済と悪を同じくして我が国を謀るのか。いまおまえの兵は我が掌の中にあるが、これを殺すに忍びない。おまえたちは帰っておまえの王に告げよ。」そして行きたいところに任せた。
兵を分けて諸城を攻めて降したが、ただ任存城だけは地が険しく城が固く、また糧が多かったので、これを攻めて三十日になっても落とすことができず、兵は疲れ困って戦を厭った。
大王が言った。「いま一つの城が落ちないとはいえ、その他の諸城はみな降ったのだから、功がないとはいえない。」そこで軍を整えて帰った。
14田五百結を与える
冬十一月二十日,至京,賜庾信田五百結,其餘將卒賞賜有差。
冬十一月二十日、京に至って庾信に田五百結を与え、その他の将と兵にも賞を差をつけて与えた。