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強首强首

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 3 · 漢字 650字 · 朗読 2.6分

三国史記(三国時代の正史) 列傳 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1強首が儒学を学ぶ

强首,中原京沙梁人也。父昔諦奈麻。其母,夢見人有角,而妊身及生,頭後有高骨。昔諦以兒就當時所謂賢者,問曰:「此兒頭骨如此,何也?」答曰:「吾聞之,伏羲虎形,女媧蛇身,神農牛頭,皐陶馬口,則聖賢同類,而其相亦有不凡者。又觀兒首有黶子,於相法,面黶無好,頭黶無惡,則此必奇物乎!」父還謂其妻曰:「爾子非常兒也,好養育之,當作將來之國士也。」及壯,自知讀書,通曉義理。父欲觀其志,問曰:「爾學佛乎?學儒乎?」對曰:「愚聞之,佛世外敎也。愚人間人,安用學佛為?願學儒者之道。」父曰:「從爾所好。」遂就師讀《孝經》、《曲禮》、《爾雅》、《文選》。所聞雖淺近,而所得愈高遠,魁然為一時之傑。遂入仕歷官,為時聞人。

強首は中原京の沙梁の人である。父は奈麻の昔諦である。

その母は夢に角のある人を見て身ごもったが、生まれると頭の後ろに高い骨があった。昔諦は子を連れて当時いわゆる賢者のもとに赴いて問うた。「この子の頭の骨がこのようなのは、どうしたことでしょうか。」

答えた。「私が聞くに、伏羲は虎の形、女媧は蛇の身、神農は牛の頭、皐陶は馬の口であったといいます。聖賢は同じ類でありながら、その相もまた凡でないところがあるのです。また子の頭に黶子があるのを見ますが、相法では顔の黶は好いことがなく、頭の黶は悪いことがないといいます。それならばこれは必ず奇なる人物でしょう。」

父は帰ってその妻に言った。「おまえの子は並の子ではない。よく養い育てて、将来の国の士とするがよい。」

成長すると自ら書を読むことを知り、義と理に通じ悟った。父はその志を見ようとして問うた。「おまえは仏を学ぶか、儒を学ぶか。」

答えた。「わたくしが聞くに、仏は世の外の教えだといいます。わたくしは人間世界の人ですから、どうして仏を学びましょうか。儒者の道を学びたいと願います。」

父が言った。「おまえの好むようにせよ。」

そしてついに師について『孝経』『曲礼』『爾雅』『文選』を読んだ。聞いたところは浅く近いものであっても、得たところはいよいよ高く遠く、抜きん出て一時の傑となった。ついに仕えて官を歴て、当時の名高い人となった。

2糟糠の妻を棄てない

强首嘗與釜谷冶家之女野合,情好頗篤。及年二十歲,父母媒邑中之女有容行者,將妻之,强首辭不可以再娶。父怒曰:「爾有時名,國人無不知,而以微者為偶,不亦可恥乎。」强首再拜曰:「貧且賤非所羞也,學道而不行之,誠所羞也。嘗聞古人之言曰:『糟糠之妻,不下堂;貧賤之交,不可忘。』則賤妾所不忍棄者也。」及太宗大王卽位,唐使者至,傳詔書。其中有難讀處,王召問之。在王前一見說釋無疑滯。王驚喜,恨相見之晚,問其姓名。對曰:「臣本任那加良人,名牛頭。」王曰:「見卿頭骨,可稱强首先生。」使製廻謝唐皇帝詔書表。文工而意盡,王益奇之,不稱名,言任生而已。强首未嘗謀生,家貧怡如也。王命有司,歲賜新城租一百石。文武王曰:「强首文章自任,能以書翰致意於中國及麗、濟二邦,故能結好成功。

強首はかつて釜谷の冶屋の娘と野合し、情と睦まじさがかなり篤かった。年が二十歳になると、父母が邑中の娘で容貌と行いのある者を媒して妻とさせようとしたが、強首は辞して、再び娶ることはできないと言った。

父が怒って言った。「おまえは当代に名があり、国の人で知らない者がないのに、微賤な者を連れ合いとするのは、恥ずべきではないか。」

強首は再拝して言った。「貧しく、また賤しいのは恥じるところではありません。道を学んでこれを行わないことこそ、まことに恥じるところです。かつて古人の言葉を聞きましたが、『糟糠の妻は堂より下さず、貧賤の交わりは忘るべからず』といいます。であれば賤しい妻は、棄てるに忍びない者です。」

太宗大王が即位すると、唐の使者が至って詔書を伝えた。その中に読みにくいところがあったので、王は召して問うた。王の前で一度見ると、説き解いて滞るところがなかった。

王は驚き喜び、会うのが遅かったことを恨み、その姓名を問うた。答えた。「臣はもと任那加良の人で、名は牛頭です。」

王が言った。「卿の頭の骨を見るに、強首先生と称してよかろう。」

唐の皇帝に返して謝する詔書の表を作らせると、文は巧みで意は尽くされていた。王はいよいよ奇として、名を呼ばず、ただ任生というばかりであった。

強首はかつて暮らしを図ることをせず、家は貧しかったが悠然としていた。王は役所に命じて、毎年新城の租百石を賜らせた。

文武王が言った。「強首は文章を自ら任として、よく書をもって中国および高句麗・百済の二邦に意を致した。だから好を結び功を成すことができた。

3強首が亡くなり、その妻が租を受けない

我先王請兵於唐,以平麗、濟者,雖曰武功,亦由文章之助焉。則强首之功,豈可忽也?」授位沙飡,增俸歲租二百石。至神文大王時卒,葬事官供其賻。贈衣物匹段尤多,家人無所私,皆歸之佛事。其妻乏於食,欲還鄕里。大臣聞之,請王賜租百石。妻辭曰:「妾,賤者也,衣食從夫,受國恩多矣。今旣獨矣,豈敢再辱厚賜乎?」遂不受而歸。新羅古記曰:「文章則强首、帝文、守眞、良圖、風訓、骨番。」帝文已下事逸,不得立傳。

我が先王が唐に兵を請うて高句麗と百済を平らげたのは、武功とはいえ、また文章の助けによるものである。であれば強首の功を、どうして忽せにできようか。」そして沙飡の位を授け、俸を毎年租二百石に増した。

神文大王の時に至って亡くなり、葬の事は官がその贈り物を供した。贈った衣類や品物、匹段はことに多かったが、家の者は私するところなく、みな仏事に回した。

その妻は食に乏しく、郷里に帰ろうとした。大臣がこれを聞いて王に請い、租百石を賜らせた。妻は辞して言った。「わたくしは賤しい者です。衣も食も夫に従って得、国の恩を受けたことが多くあります。いますでにひとりとなりましたのに、どうして敢えて重ねて厚い賜りを辱めましょうか。」そしてついに受けずに帰った。

『新羅古記』に「文章では強首・帝文・守真・良図・風訓・骨番」とあるが、帝文より下は事が失われて伝を立てることができない。