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丕寧子

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 2 · 漢字 369字 · 朗読 1.5分

三国史記(三国時代の正史) 列傳 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1丕寧子が死を決める

丕寧子,不知鄕邑族姓。眞德王元年丁未,百濟以大兵,來攻茂山、甘勿、桐岑等三城,庾信率步騎一萬,拒之。百濟兵甚銳,苦戰不能克,士氣索而力憊。庾信知丕寧子有力戰深入之志,召謂曰:「歲寒然後,知松栢之後彫。今日之事,急矣,非子誰能奮勵出奇,以激衆心乎?」因與之飲酒,以示殷勤。丕寧子再拜云:「今於稠人廣衆之中,獨以事屬我,可謂知己矣,固當以死報之。」出謂奴合節曰:「吾今日上為國家,下為知己,死之。吾子擧眞,雖幼年,有壯志,必欲與之俱死,若父子倂命,則家人其將疇依?汝其與擧眞好收吾骸骨,歸以慰母心。」言畢,卽鞭馬橫槊,災突賊陣,格殺數人而死。擧眞望之欲去,合節請曰:「大人有言,令合節與阿郞還家,安慰夫人。

丕寧子は、郷や邑も族や姓もわからない。

真徳王元年丁未、百済が大軍で茂山・甘勿・桐岑の三つの城を攻めに来たので、庾信は歩兵と騎兵一万を率いてこれを防いだ。百済の兵はたいそう鋭く、苦しく戦っても勝てず、士気はくじけ力は尽きた。

庾信は丕寧子に力の限り戦って深く入る志があると知って、呼んで言った。「寒い季節になって初めて、松と柏が後れて凋むことがわかる。今日の事は急である。お前でなければ誰が奮い立って奇をあらわし、多くの心を激させられようか。」そして彼と酒を飲んで、心からの情を示した。

丕寧子は再び拝して言った。「今、込み合った人、広い衆のなかで、ただ私だけに事を託されるとは、知己といえます。まことに死をもって報いましょう。」

出て、奴の合節に言った。「私は今日、上は国家のため、下は知己のために死ぬ。私の子の挙真は幼い年だが壮んな志があって、必ず私とともに死もうとするだろう。もし父と子がともに命を捨てれば、家の者は誰に頼ればよいのか。お前は挙真とともに私の骸をよく収め、帰って母の心を慰めてくれ。」

言い終わると、すぐ馬に鞭を当て槊を横たえ、賊の陣に突き入り、数人を打ち殺して死んだ。

挙真がこれを見て行こうとすると、合節が願って言った。「ご主人は、合節が阿郎とともに家に帰って夫人を安んじ慰めよと言われました。

2三人がみな死ぬ

今子負父命棄母慈,可謂孝乎?」執馬轡不放。擧眞曰:「見父死而苟存,豈所謂孝子乎?」卽以劒擊折合節臂,奔入敵中戰死。合節曰:「私天崩矣,不死何為?」亦交鋒而死。軍士見三人之死,感激爭進,所向挫鋒陷陣,大敗賊兵,斬首三千餘級。庾信收三屍,脫衣覆之,哭甚哀。大王聞之涕淚,以禮合葬於反知山,恩賞妻子、九族尤渥。

今あなたが父の命に背き、母の慈しみを捨てるのは、孝といえましょうか。」そして馬の手綱を握って放さなかった。

挙真は言った。「父が死ぬのを見ていたずらに生きるのが、どうしていわゆる孝子であろうか。」そのまま剣で合節の腕を打ち折り、敵の中に走り入って戦い死んだ。

合節は言った。「私の天が崩れた。死なずに何をしよう。」やはり刃を交えて死んだ。

兵士たちは三人の死を見て感激し、争って進み、向かうところで鋒をくじき陣を落として、賊の兵を大いに破り、三千余の首を斬った。

庾信は三つの屍を収め、衣を脱いで覆い、哭することがたいそう哀しかった。大王はこれを聞いて涙を流し、礼をもって反知山に合葬し、妻子と九族への恩と賞をいよいよ篤くした。