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徳行世説新語 德行第一

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 47 · 漢字 3,033字 · 朗読 12.1分

世説新語(世に語られた新しい話) 上巻上 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1陳仲挙は車に乗り手綱を取って天下を清めようという志を抱いた

陳仲舉言爲士則,行爲世範,登車攬轡,有澄淸天下之志。爲豫章太守,至,便問徐孺子所在,欲先看之。主簿白:「群情欲府君先入廨。」陳曰:「武王式商容之閭,席不暇煖。吾之禮賢,有何不可?」

陳仲挙は、言葉が士人の規範となり、行いが世の模範となった。車に乗って手綱を取れば、天下を清めようという志があった。

豫章の太守となって着任すると、すぐに徐孺子はどこにいるかと尋ね、まず会おうとした。主簿が申し上げた。「皆の思いは、府君がまず役所にお入りになることを望んでおります」

陳仲挙は言った。「武王は商容の里を通るとき車の前木に身をかがめて礼をし、席を温める暇もなかった。私が賢者に礼を尽くすのに、何の不都合があろうか」

夾注 5

《汝南先賢傳》曰:「陳蕃字仲舉,汝南平輿人。有室荒蕪不掃除,曰:『大丈夫當爲國家掃天下。』値漢桓之末,閹豎用事,外戚豪橫。及拜太傅,與大將軍竇武謀誅宦官,反爲所害。」

『汝南先賢伝』に言う。「陳蕃は字は仲挙、汝南平輿の人である。部屋が荒れ散らかっていても掃かず、『大丈夫は国家のために天下を掃き清めるべきだ』と言った。漢の桓帝の末年にあたり、宦官が事を執り、外戚が横暴であった。太傅に任ぜられると、大将軍の竇武とともに宦官を誅する計を立てたが、かえって害された」

《海内先賢傳》曰:「蕃爲尚書,以忠正忤貴戚,不得在臺,遷豫章太守。」

『海内先賢伝』に言う。「陳蕃は尚書となり、忠正であったために貴戚の意に逆らい、朝廷にとどまることができず、豫章太守に遷された」

謝承《後漢書》曰:「徐穉字孺子,豫章南昌人。淸妙髙跱,超世絶俗。前後爲諸公所辟,雖不就,及其死,萬里赴弔。常豫炙鷄一隻,以綿漬酒中,㬥乾以裹鷄,徑到所赴冢隧外,以水漬綿,斗米飯,白茅爲藉,以鷄置前。酹酒畢,留謁即去,不見喪主。」

謝承の『後漢書』に言う。「徐穉は字は孺子、豫章南昌の人である。清らかで奥深く、高く構えて世を超え、俗を絶っていた。前後して諸公に召されたが出仕せず、その人が死ぬと万里の道を駆けつけて弔った。いつも前もって鶏を一羽炙り、綿を酒に浸して日に干し、それで鶏を包んで持ち、まっすぐ弔う墓道の外に着くと、綿を水に浸し、一斗の米の飯を炊き、白茅を敷物として鶏を前に置いた。酒を注ぎ終えると、面会を請う書きつけだけを残してすぐに去り、喪主には会わなかった」

許叔重曰:「商容,殷之賢人,老子師也。」車上跽曰式。」

許叔重が言う。「商容は殷の賢人で、老子の師である」。車の上で膝をつくことを式という。

袁宏《漢紀》曰:「蕃在豫章,爲穉獨設一榻,去則懸之,見禮如此。」

袁宏の『漢紀』に言う。「陳蕃が豫章にいたとき、徐穉のためにただ一つの寝台を設け、彼が去ると掛けておいた。礼を尽くすことがこのようであった」

2ひと月も黄叔度に会わないと卑しくけちな心が生き返る

周子居常云:「吾時月不見黃叔度,則鄙吝之心已復生矣。」

周子居はいつも言っていた。「私はひと月ほど黄叔度に会わないと、卑しくけちな心がいつのまにか生き返ってくる」

夾注 1

子居別見《典略》曰:「黃憲字叔度,汝南愼陽人。時論者咸云『顏子復生』。而族出孤鄙,父爲牛醫。潁川荀季和執憲手曰:『足下吾師範也。』後見袁奉髙曰:『卿國有顏子,寧知之乎?』奉髙曰:『卿見吾叔度邪?』戴良少所服下,見憲則自降簿,悵然若有所失。母問:『汝何不樂乎?復從牛醫兒所來邪?』良曰:『瞻之在前,忽焉在後,所謂良之師也。』」

子居については別に見える。『典略』に言う。「黄憲は字は叔度、汝南慎陽の人である。当時論ずる者は皆『顔回が生まれ変わった』と言った。しかし一族は辺れた低い出で、父は牛の医者であった。潁川の荀季和は黄憲の手を取って『あなたは私の師であり模範です』と言った。のちに袁奉高に会って『あなたの国に顔回がいるが、知っているか』と言うと、奉高は『あなたは我らの叔度に会ったのか』と言った。戴良は人に頭を下げることがまれであったが、黄憲に会うと自分から身を低くし、何かを失ったようにしょんぼりした。母が『お前はどうして楽しくないのか。また牛の医者の子のところから帰ってきたのか』と問うと、戴良は『仰ぎ見れば前にいたものが、たちまち後ろにいる。これがいわゆる私の師です』と言った」

3黄叔度は万頃の池のように満々としている

郭林宗至汝南造袁奉髙,車不停軌,鸞不輟軛。詣黃叔度,乃彌日信宿。人問其故,林宗曰:「叔度汪汪如萬頃之陂。澄之不淸,擾之不濁,其器深廣,難測量也。」

郭林宗が汝南に着いて袁奉高を訪ねたときは、車は輪の跡にとどまらず、鈴は軛で鳴りやまなかった。ところが黄叔度のところへ行っては、一日を過ごして二晩も泊まった。

人々がその理由を尋ねると、林宗は言った。「叔度は万頃の池のように満々としている。清めようとしても清まらず、濁そうとしても濁らない。その器は深く広く、測りがたい」

夾注 2

《續漢書》曰:「郭泰字林宗,太原介休人。泰少孤,年二十,行學至成皋屈伯彦精廬。乏食,衣不蓋形,而處約味道,不改其樂。李元禮一見稱之曰:『吾見士多矣,無如林宗者也。』及卒,蔡伯喈爲作碑,曰:『吾爲人作銘,未嘗不有慚容,唯爲郭有道碑頌無愧耳。』初,以有道君子徴。泰曰:『吾觀乾象人事,天之所廢不可支也。』遂辭以疾。」《汝南先賢傳》曰:「袁宏字奉髙,愼陽人。友黃叔度於童齒,薦陳仲舉於家巷。辟太尉掾,卒。」

『続漢書』に言う。「郭泰は字は林宗、太原介休の人である。郭泰は幼くして父を失い、二十歳で学びに出て、成皋の屈伯彦の塾に着いた。食べ物に乏しく、衣は身を覆わなかったが、つましく暮らして道を味わい、その楽しみを変えなかった。李元礼は一目見て称え、『私は士人を多く見てきたが、林宗に及ぶ者はいない』と言った。亡くなると蔡伯喈が碑文を作り、『私は人のために銘を作って恥じる思いのなかったことがないが、ただ郭有道の碑の頌だけは恥じるところがない』と言った。はじめ、有道の君子として召された。郭泰は『私が天の兆しと人の事を見るに、天が廃てるものは支えきれない』と言い、ついに病と称して辞した」。『汝南先賢伝』に言う。「袁宏は字は奉高、慎陽の人である。幼いころから黄叔度と友であり、陳仲挙を村里で推挙した。太尉の属官に召されたが、亡くなった」

《泰別傳》曰:「薛恭祖問之,泰曰:『奉髙之器,譬諸汎濫,雖淸易挹也。』」

『泰別伝』に言う。「薛恭祖が尋ねると、郭泰は『奉高の器は、溢れ流れる水にたとえられる。清らかではあるが、容易に汲み取れてしまう』と言った」

4その座敷に上がった者は龍門に登ったといわれた

李元禮風格秀整,髙自標持,欲以天下名教是非爲己任。後進之士,有升其堂者,皆以爲登龍門。

李元礼は風格が秀でて整い、みずから高く身を保ち、天下の名教における是非を正すことを自分の任としようとした。

後進の士のうち、その座敷に上がった者があれば、皆が龍門に登ったといった。

夾注 2

薛瑩《後漢書》曰:「李膺字元禮,潁川襄城人。抗志淸妙,有文武雋才。遷司隸校尉,爲黨事自殺。」

薛瑩の『後漢書』に言う。「李膺は字は元礼、潁川襄城の人である。志を高く持ち、清らかで奥深く、文武に秀でた才があった。司隷校尉に遷ったが、党錮の事件のために自ら死んだ」

《三秦記》曰:「龍門,一名河津,去長安九百里。水懸絶,龜魚之屬莫能上,上則化爲龍矣。」

『三秦記』に言う。「龍門は一名を河津といい、長安から九百里離れている。水が掛かるように切れ落ちていて、亀や魚の類は登ることができないが、登れば龍になる」

5荀君の清らかな識見と鍾君の至れる徳

李元禮嘗嘆荀淑、鍾皓曰:「荀君淸識難尚,鍾君至德可師。」

李元礼はかつて荀淑と鍾皓を称えて言った。「荀君の清らかな識見には及びがたく、鍾君の至れる徳は師とするに足る」

夾注 2

《先賢行狀》曰:「荀淑,字季和,潁川潁陰人也。所拔韋褐芻牧之中,執案刀筆之吏,皆爲英彦。舉方正,補朗陵侯相,所在流化。鍾皓字季明,潁川長社人。父、祖至德著名。皓髙風承世,除林慮長,不之官。人位不足,天爵有餘。」

『先賢行状』に言う。「荀淑は字は季和、潁川潁陰の人である。彼が粗衣をまとって草を刈り家畜を飼う者のなかから、また文書を扱う下役のなかから抜き出した者は、皆すぐれた人物となった。方正に推挙されて朗陵侯の相に任じられ、行くところごとに教化が広まった。鍾皓は字は季明、潁川長社の人である。父と祖父が至れる徳で名を知られた。鍾皓は高い風格を代々受け継ぎ、林慮の長に任じられたが、官に赴かなかった。人の与える位は足りなかったが、天の与えた位は余りあった」

《海内先賢傳》曰:「潁川先輩,爲海内所師者:定陵陳穉叔、潁陰荀淑、長社鍾皓。少府李膺宗此三君,常言:『荀君淸識難尚,陳鍾至德可師。』」

『海内先賢伝』に言う。「潁川の先輩で天下が師と仰いだ者は、定陵の陳穉叔、潁陰の荀淑、長社の鍾皓である。少府の李膺はこの三君を尊び、いつも『荀君の清らかな識見には及びがたく、陳君と鍾君の至れる徳は師とするに足る』と言っていた」

6陳太丘が荀朗陵を訪ね、真人が東へ行くと奏された

陳太丘詣荀朗陵,貧儉無僕役。乃使元方將車,季方持杖後從。長文尚小,載箸車中。既至,荀使叔慈應門,慈明行酒,餘六龍下食。文若亦小,坐箸厀前。於時太史奏:「眞人東行。」

陳太丘が荀朗陵を訪ねようとしたが、貧しく倹しくて使う召使いがいなかった。そこで元方に車を御させ、季方には杖を持って後ろに従わせた。長文はまだ幼かったので、車の中に乗せた。

着くと、荀淑は叔慈に門で迎えさせ、慈明に酒をまわらせ、残りの六人の龍に食事を出させた。文若もまだ幼かったので、膝の前に座らせた。

そのとき太史が奏した。「真人が東へ行きます」

夾注 4

陳寔字仲弓,潁川許昌人。爲聞喜令、太丘長,風化宣流。

陳寔は字は仲弓、潁川許昌の人である。聞喜の令、太丘の長となり、教化が広く行きわたった。

《先賢行狀》曰:「陳紀字元方,寔長子也。至德絶俗,與寔髙名並著,而弟諶又配之。毎宰府辟召,羔鴈成群,世號『三君』,百城皆圖畫。」

『先賢行状』に言う。「陳紀は字は元方、陳寔の長子である。至れる徳が俗を絶ち、陳寔の高い名と並んで世に知られ、弟の陳諶もまたこれに並んだ。宰相の府から召されるたびに贈り物の羔や雁が群れをなし、世は『三君』と呼び、どの城でも皆その姿を絵に描いた」

張璠《漢紀》曰:「淑有八子:儉、鯤、靖、燾、汪、爽、肅、敷。淑居西豪里,縣令苑康曰,『昔髙陽氏有才子八人』,遂署其里爲『髙陽里』。時人號曰『八龍』。」

張璠の『漢紀』に言う。「荀淑には八人の子があった。倹・鯤・靖・燾・汪・爽・肅・敷である。荀淑は西豪里に住んでいたが、県令の苑康が『昔、高陽氏には才ある子が八人あった』と言い、ついにその里を『高陽里』と名づけた。当時の人は『八龍』と呼んだ」

檀道鸞《續晉陽秋》曰:「陳仲弓從諸子姪造荀父子,於時德星聚,太史奏:『五百里賢人聚。』」

檀道鸞の『続晋陽秋』に言う。「陳仲弓が子や甥たちを連れて荀淑父子を訪ねたとき、徳の星が集まったので、太史が『五百里のうちに賢人が集まっています』と奏した」

7桂の木がどうして泰山の高さを知ろうか

客有問陳季方:「足下家君太丘,有何功德,而荷天下重名?」季方曰:「吾家君譬如桂樹生泰山之阿,上有萬仞之髙,下有不測之深;上爲甘露所霑,下爲淵泉所潤。當斯之時,桂樹焉知泰山之髙,淵泉之深,不知有功德與無也!」

ある客が陳季方に尋ねた。「あなたのお父上の太丘どのには、どんな功徳があって天下の重い名を担っておられるのですか」

季方は言った。「私の父はたとえば、桂の木が泰山の山あいに生えているようなものです。上には万仞の高さがあり、下には測りがたい深さがある。上は甘露に濡れ、下は淵の泉に潤される。

こういうときに、桂の木がどうして泰山の高いことを、淵の泉の深いことを知りましょうか。功徳があるのかないのかも知らないのです」

夾注 1

《海内先賢傳》曰:「陳諶字季方,寔少子也。才識博達,司空掾公車徴,不就。」

『海内先賢伝』に言う。「陳諶は字は季方、陳寔の末子である。才と識見が広く通じていて、司空の属官として公の車を遣わして召されたが、赴かなかった」

8元方を兄とするのも難しく季方を弟とするのも難しい

陳元方子長文有英才,與季方子孝先,各論其父功德,爭之不能決,咨於太丘。太丘曰:「元方難爲兄,季方難爲弟。」

陳元方の子の長文はすぐれた才があり、季方の子の孝先とそれぞれ自分の父の功徳を論じ合って、争っても決められず、太丘に尋ねた。

太丘は言った。「元方を兄とするのも難しく、季方を弟とするのも難しい」

夾注 3

《魏書》曰:「陳群字長文,祖寔,嘗謂宗人曰:『此兒必興吾宗。』及長,有識度。其所善,皆父黨。」

『魏書』に言う。「陳群は字は長文である。祖父の陳寔はかつて一族の者に『この子はきっと我が家を興すだろう』と言った。成長すると識見と度量があった。彼が善しとした者は、皆父の友人たちであった」

《陳氏譜》曰:「諶子忠,字孝先。州辟不就。」

『陳氏譜』に言う。「陳諶の子の陳忠は字は孝先である。州から召されたが赴かなかった」

一作「元方難爲弟,季方難爲兄」。

ある本には「元方を弟とするのも難しく、季方を兄とするのも難しい」とある。

9荀巨伯が友の病を見に行って賊を退かせた

荀巨伯遠看友人疾,値胡賊攻郡,友人語巨伯曰:「吾今死矣,子可去!」巨伯曰:「遠來相視,子令吾去;敗義以求生,豈荀巨伯所行邪?」賊既至,謂巨伯曰:「大軍至,一郡盡空。汝何男子,而敢獨止?」巨伯曰:「友人有疾,不忍委之,寧以我身代友人命。」賊相謂曰:「我輩無義之人,而入有義之國!」遂班軍而還,一郡並獲全。

荀巨伯が遠くまで友の病を見に行ったところ、胡の賊が郡を攻めるときに出会った。友は巨伯に言った。「私はもう死ぬ。君は去りなさい」

巨伯は言った。「遠くから見に来たのに、君は私に去れと言う。義を損なって生を求めるのが、どうして荀巨伯のすることだろうか」

賊が着くと、巨伯に言った。「大軍が来て、郡中がすっかり空になった。お前はどういう男で、よくも一人だけ残っているのか」

巨伯は言った。「友が病んでいて見捨てるに堪えない。むしろこの身で友の命に代わろう」

賊は互いに言い合った。「我らは義のない人間なのに、義のある国に入ってしまった」

そこで軍を返して引き上げたので、郡中はすべて無事であった。

夾注 1

《荀氏家傳》曰:「巨伯,漢桓帝時人也。亦出潁川,未詳其始末。」

『荀氏家伝』に言う。「巨伯は漢の桓帝のころの人である。やはり潁川の出であるが、その始終は詳しくない」

10華歆は厳しく陳氏兄弟は和やかだったが、どちらも道を外さなかった

華歆遇子弟甚整,雖閒室之内,嚴若朝典。陳元方兄弟恣柔愛之道,而二門之裏,兩不失雍熙之軌焉。

華歆は子弟への接し方がきわめて整っていて、くつろいだ部屋の中でも朝廷の典礼のように厳しかった。陳元方の兄弟は和やかで情愛をこめた道を思うままにしたが、二つの家はどちらも睦やかな道筋を失わなかった。

夾注 1

《魏志》曰:「歆字子魚,平原髙唐人。」《魏略》曰:「靈帝時,與北海邴原、管寧倶遊學相善,時號三人爲一龍。謂歆爲龍頭,原爲龍腹,寧爲龍尾。

『魏志』に言う。「華歆は字は子魚、平原高唐の人である」。『魏略』に言う。「霊帝のころ、北海の邴原・管寧とともに学びに出て互いに親しく、当時は三人を一匹の龍と称し、華歆を龍の頭、邴原を龍の腹、管寧を龍の尾と言った」

11管寧が敷物を割いて別に座った

管寧、華歆共園中鋤菜,見地有片金,管揮鋤與瓦石不異,華捉而擲去之。又嘗同席讀書,有乘軒冕過門者,寧讀如故,歆廢書出看。寧割席分坐曰:「子非吾友也。」

管寧と華歆が一緒に畑で菜の草を取っていると、地面に金のかけらがあるのを見つけた。管寧は鍬を振るうことが瓦や石と変わらなかったが、華歆は拾い上げてから投げ捨てた。

またあるとき同じ敷物で書を読んでいると、車に乗り冠をかぶった者が門の前を通りかかった。管寧はそのまま読み続けたが、華歆は書を置いて出て見た。

管寧は敷物を割いて別に座り、言った。「君は私の友ではない」

夾注 2

《傅子》曰:「寧字幼安,北海朱虚人,齊相管仲之後也。」

『傅子』に言う。「管寧は字は幼安、北海朱虚の人で、斉の相の管仲の後裔である」

《魏略》曰:「寧少恬靜,常笑邴原、華子魚有仕宦意。及歆爲司徒,上書讓寧。寧聞之笑曰:『子魚本欲作老吏,故榮之耳。』」

『魏略』に言う。「管寧は若いころから穏やかで静かで、いつも邴原と華子魚に仕官の心があるのを笑っていた。華歆が司徒となって上書し、その位を管寧に譲ろうとしたとき、管寧はこれを聞いて笑い、『子魚はもともと年寄りの役人になりたかったのだから、それを栄えと思うだけだ』と言った」

12華歆に学ぶといって殻だけを学んだ

王朗毎以識度推華歆。歆蜡日,嘗集子姪燕飲,王亦學之。有人向張華説此事,張曰:「王之學華,皆是形骸之外,去之所以更遠。」

王朗はいつも識見と度量の点で華歆を上に置いていた。華歆が蜡の日に子や甥を集めて酒宴を開いたことがあり、王朗もこれを真似た。

ある人が張華にこの事を話すと、張華は言った。「王朗が華歆に学んだのは、どれも形のうわべだけだ。だから学ぶほどかえって遠ざかるのだ」

夾注 3

《魏書》曰:「朗字景興,東海郯人,魏司徒。」

『魏書』に言う。「王朗は字は景興、東海郯の人で、魏の司徒である」

《禮記》曰:「天子大蜡八,伊耆氏始爲蜡。蜡,索也。歳十二月,合聚萬物而索饗之。」《五經要義》曰:「三代名臘:夏曰嘉平,殷曰淸祀,周曰大蜡,總謂之臘。」晉博士張亮議曰:「蜡者,合聚百物索饗之,歳終休老息民也。臘者,祭宗廟五祀。《傳》曰:『臘,接也。』祭則新故交接也。秦漢以來,臘之明日爲祝歳,古之遺語也。」

『礼記』に言う。「天子は八つの神に大蜡を行う。伊耆氏が初めて蜡を行った。蜡とは索めることである。年の十二月に万物を集めて索め、これを饗ける」。『五経要義』に言う。「三代は臘を名づけて、夏は嘉平、殷は清祀、周は大蜡といい、総じて臘という」。晋の博士の張亮が論じて言う。「蜡とは、百物を集めて索め饗けさせ、年の終わりに老いた者を休ませ民を休ませることである。臘とは、宗廟と五祀を祭ることである。『伝』に『臘は接ぐことである』という。祭れば新しいものと古いものが接ぎ合わさるのである。秦漢以来、臘の翌日を祝歳としたのは、古い言葉の残りである」

王隱《晉書》曰:「張華字茂先,范陽人也。累遷司空,而爲趙王倫所害。」

王隠の『晋書』に言う。「張華は字は茂先、范陽の人である。累進して司空に至ったが、趙王の司馬倫に害された」

13すでに受け入れたのに、急だからといって見捨てられようか

華歆、王朗倶乘船避難,有一人欲依附,歆輒難之。朗曰:「幸尚寬,何爲不可?」後賊追至,王欲捨所攜人。歆曰:「本所以疑,正爲此耳。既已納其自託,寧可以急相棄邪?」遂攜拯如初。世以此定華王之優劣。

華歆と王朗が一緒に船に乗って難を避けていると、一人の男がついて来たいと願った。華歆がすぐに渋ると、王朗は言った。「幸いまだ余裕がある。どうしていけないのか」

のちに賊が追いついてくると、王朗は連れてきた男を捨てようとした。華歆は言った。「はじめに私がためらったのは、まさにこのためだ。すでに彼が身を預けるのを受け入れたのに、急だからといって見捨てられようか」

そこで初めのとおり連れて助けた。世はこの事で華歆と王朗の優劣を定めた。

夾注 1

華嶠《譜敘》曰:「歆爲下邽令,漢室方亂,乃與同志士鄭太等六七人避世。自武關出,道遇一丈夫獨行,願得與倶。皆哀許之。歆獨曰:『不可。今在危險中,禍福患害,義猶一也。今無故受之,不知其義,若有進退,可中棄乎?』衆不忍,卒與倶行。此丈夫中道墮井,皆欲棄之。歆乃曰:『已與倶矣,棄之不義。』卒共還,出之而後別。」

華嶠の『譜叙』に言う。「華歆が下邽の令であったとき、漢の王室がまさに乱れたので、志を同じくする士の鄭太ら六、七人と世を避けた。武関を出たところ、道で独り行く男に出会い、一緒に行きたいと願った。皆あわれんで許した。華歆だけが『いけない。いま危険のなかにあって、禍福も患害も、義から見れば同じ一つである。いま理由もなく彼を受け入れれば、その心のうちは分からない。もし進退に迫られたとき、途中で捨てられるだろうか』と言った。皆は見捨てるに堪えず、ついに一緒に行った。この男が途中で井戸に落ちると、皆が捨てようとした。華歆は『すでに一緒に来たのだから、捨てるのは義でない』と言い、ついに皆で戻って引き上げ、そのうえで別れた」

14王祥が木を抱いて泣いた

王祥事後母朱夫人甚謹,家有一李樹,結子殊好,母恆使守之。時風雨忽至,祥抱樹而泣。祥嘗在別床眠,母自往闇斫之。値祥私起,空斫得被。既還,知母憾之不已,因跪前請死。母於是感悟,愛之如己子。

王祥は継母の朱夫人に仕えることがきわめて慎み深かった。家に李の木が一本あって実がとてもよく、母はいつもそれを守らせた。あるとき風雨が急に来ると、王祥は木を抱いて泣いた。

王祥が別の寝台で寝ていたとき、母は自ら行って闇のなかで斬ろうとした。ちょうど王祥が用のために起きていたので、むなしく布団だけを斬った。王祥は戻ってきて、母の恨みがなお止まないことを知り、そこで膝をついて前に進み、死を願った。母はここで心を動かして悟り、自分の子のように彼を愛した。

夾注 2

《晉諸公贊》曰:「祥字休徴,琅邪臨沂人。」《祥世家》曰:「祥父融,娶髙平薛氏,生祥。繼室以廬江朱氏,生覽。」《晉陽秋》曰:「後母數譖祥,屢以非理使祥,弟覽輒與祥倶。又虐使祥婦,覽妻亦趨而共之。母患,方盛寒冰凍,母欲生魚,祥解衣將剖冰求之,會有處冰小解,魚出。」蕭廣濟《孝子傳》曰:「祥後母忽欲黃雀炙,祥念難卒致。須臾,有數十黃雀飛入其幕。母之所須,必自奔走,無不得焉。其誠至如此。」

『晋諸公賛』に言う。「王祥は字は休徴、琅邪臨沂の人である」。『祥世家』に言う。「王祥の父の王融は高平の薛氏を娶って王祥を生み、続いて廬江の朱氏を娶って王覧を生んだ」。『晋陽秋』に言う。「継母はしばしば王祥を讒言し、何度も理に合わぬ事を王祥にさせたが、弟の王覧はいつも王祥とともにした。また王祥の妻をむごく使うと、王覧の妻も駆けつけてともにした。母が病んだとき、ちょうど厳しい寒さで氷が張っていたが、母が生きた魚を欲しがった。王祥が衣を脱いで氷を割って求めようとすると、ちょうど氷が少し解けたところがあって、魚が出てきた」。蕭広済の『孝子伝』に言う。「王祥の継母がふと黄雀の炙り物を欲しがった。王祥は急に手に入れるのは難しいと思った。しばらくすると、数十羽の黄雀がその幕の中に飛び込んできた。母が欲しがるものは、必ず自ら走り回って得られないことがなかった。その誠はこのようであった」

虞預《晉書》曰:「祥以後母故,陵遲不仕。年向六十,刺史呂虔檄爲別駕,時人歌之曰:『海沂之康,寔賴王祥;邦國不空,別駕之功!』累遷太保。」

虞預の『晋書』に言う。「王祥は継母のことがあって、志を屈めて仕えなかった。年が六十に近づいたころ、刺史の呂虔が檄を送って別駕としたので、当時の人は歌って『海沂の安らかさは、まことに王祥のおかげ。国が空にならぬのは、別駕の功だ』と言った。累進して太保に至った」

15阮嗣宗は人を善し悪しと言ったことがない

晉文王稱阮嗣宗至愼,毎與之言,言皆玄遠,未嘗臧否人物。

晋の文王は阮嗣宗を至って慎み深い人だと称え、彼と話すたびに言葉はみな奥深く遠く、人を善し悪しと言ったことがなかったという。

夾注 1

《魏書》曰:「文王諱昭,字子上,宣帝第二子也。」《魏氏春秋》曰:「阮籍字嗣宗,陳留尉氏人,阮瑀子也。宏達不羈,不拘禮俗。兗州刺史王昶請與相見,終日不得與言。昶愧嘆之,自以不能測也。口不論事,自然髙邁。」李康《家誡》曰:「昔嘗侍坐於先帝,時有三長史倶見,臨辭出,上曰:『爲官長當淸、當愼、當勤,修此三者,何患不治乎?』並受詔。上顧謂吾等曰:『必不得已而去,於斯三者何先?』或對曰『淸固爲本』。復問吾,吾對曰:『淸愼之道,相須而成,必不得已,愼乃爲大。』上曰:『辦言得之矣,可舉近世能愼者誰乎?』吾乃舉故太尉荀景倩、尚書董仲達、僕射王公仲。上曰:『此諸人者,温恭朝夕,執事有恪,亦各其愼也。然天下之至愼者,其唯阮嗣宗乎!毎與之言,言及玄遠,而未嘗評論時事,臧否人物,可謂至愼乎!』」

『魏書』に言う。「文王は諱は昭、字は子上、宣帝の第二子である」。『魏氏春秋』に言う。「阮籍は字は嗣宗、陳留尉氏の人で、阮瑀の子である。広く通じて束縛されず、礼俗にこだわらなかった。兗州刺史の王昶が会いたいと請ったが、一日かけても言葉を交わせなかった。王昶は恥じて嘆き、自分には測れないと思った。口に出して事を論じないのに、おのずから高く抜きん出ていた」。李康の『家誡』に言う。「昔、先帝のそばに侍って座っていたとき、三人の長史が一緒にお目にかかった。退出しようとしたとき、上は『官の長となるには清くあれ、慎み深くあれ、勤めよ。この三つを修めれば、何を治まらないと心配しようか』と言われ、皆が詔を受けた。上は我らを顧みて『どうしても一つを捨てなければならないなら、この三つのうちどれが先か』と言われた。ある者は『清がもとより本です』と答えた。重ねて私に問われたので、私は『清と慎の道は互いに助け合って成るものですが、どうしてもと言われるなら、慎こそ大きいでしょう』と答えた。上は『お前の言葉は当たっている。近ごろ慎み深くあり得た者を挙げれば誰か』と言われた。私はそこで元の太尉の荀景倩、尚書の董仲達、僕射の王公仲を挙げた。上は『この人々は朝夕おだやかで恭しく、事に当たって慎みがある。これもそれぞれの慎みである。しかし天下の至って慎み深い者は、ただ阮嗣宗であろう。彼と話すたびに言葉は奥深く遠いところに及ぶが、時事を評したり人を善し悪しと言ったりしたことがない。至って慎み深いと言えよう』と言われた」

16嵇康と二十年暮らして喜怒の色を見たことがない

王戎云:「與嵇康居二十年,未嘗見其喜慍之色。」

王戎は言った。「嵇康と二十年ともに暮らしたが、彼が喜んだり怒ったりする顔色を見たことがない」

夾注 1

《康集敘》曰:「康字叔夜,譙國銍人。」王隱《晉書》曰:「嵇本姓溪,其先避怨徙上虞,移譙國銍縣。以出自會稽,取國一支,音同本奚焉。」虞預《晉書》曰:「銍有嵇山,家於其側,因氏焉。」《康別傳》曰:「康性含垢藏瑕,愛惡不爭於懷,喜怒不寄於顏。所知王濬沖在襄城,面數百,未嘗見其疾聲朱顏。此亦方中之美範,人倫之勝業也。」《文章敘録》曰:「康以魏長樂亭主婿遷郎中,拜中散大夫。」

『康集叙』に言う。「嵇康は字は叔夜、譙国銍の人である」。王隠の『晋書』に言う。「嵇氏はもと姓が奚であったが、その先祖が怨みを避けて上虞に移り、さらに譙国銍県に移った。会稽から出たので国の名の一部を取ったもので、音はもとの奚と同じである」。虞預の『晋書』に言う。「銍に嵇山があり、その傍らに家を構えたので、これを氏とした」。『康別伝』に言う。「嵇康は性として汚れを含み瑕を隠し、愛憎を胸の中で争わせず、喜怒を顔に託さなかった。知り合いの王濬沖は襄城にいて顔を合わせたことが数百度あるが、彼が声を荒らげたり顔を赤らめたりするのを見たことがないという。これもまた身の処し方の美しい模範であり、人倫のすぐれた業である」。『文章叙録』に言う。「嵇康は魏の長楽亭主の婿として郎中に遷り、中散大夫に任じられた」

17和嶠は生きる孝子、王戎は死ぬ孝子だ

王戎、和嶠同時遭大喪,倶以孝稱。王鷄骨支床,和哭泣備禮。武帝謂劉仲雄曰:「卿數省王和不?聞和哀苦過禮,使人憂之。」仲雄曰:「和嶠雖備禮,神氣不損;王戎雖不備禮,而哀毀骨立。臣以和嶠生孝,王戎死孝。陛下不應憂嶠,而應憂戎。」

王戎と和嶠が同じころに大きな喪に遭い、どちらも孝で称えられた。王戎は鶏の骨のように痩せて寝台にもたれ、和嶠は泣き哭して礼を尽くした。

武帝が劉仲雄に言った。「卿は王戎と和嶠をよく見舞っているか。和嶠の哀しみ方が礼を越えていると聞くが、人を心配させることだ」

仲雄は言った。「和嶠は礼を尽くしてはいますが、精神と気力は損なわれていません。王戎は礼を尽くしてはいませんが、哀しみに身を削って骨だけになっています。臣は和嶠を生きる孝子、王戎を死ぬ孝子だと思います。陛下は和嶠をご心配になるのではなく、王戎をご心配になるべきです」

夾注 3

《晉諸公贊》曰:「戎字濬沖,琅邪人,太保祥宗族也。文皇帝輔政,鍾會薦之曰:『裴楷淸通,王戎簡要。』即倶辟爲掾。晉踐祚,累遷荊州刺史,以平呉功,封安豐侯。」《晉陽秋》曰:「戎爲豫州刺史,遭母憂,性至孝,不拘禮制,飲酒食肉,或觀棊弈,而容貌毀悴,杖而後起。時汝南和嶠,亦名士也,以禮法自持。處大憂,量米而食,然憔悴哀毀,不逮戎也。」

『晋諸公賛』に言う。「王戎は字は濬沖、琅邪の人で、太保の王祥の一族である。文皇帝が政を輔けていたとき、鍾会が彼を推挙して『裴楷は清らかで通じており、王戎は簡潔で要を得ています』と言ったので、すぐに二人とも属官に召した。晋が位に即くと累進して荊州刺史となり、呉を平定した功で安豊侯に封ぜられた」。『晋陽秋』に言う。「王戎が豫州刺史であったとき母の喪に遭ったが、性はきわめて孝でありながら礼の定めにこだわらず、酒を飲み肉を食い、ときには碁を見たりもしたのに、顔も身も削られて痩せ、杖をついてようやく立ち上がった。当時、汝南の和嶠も名士であったが、礼法でみずからを保った。大きな喪に居て米を量って食べたが、やつれて哀しみに削られることでは王戎に及ばなかった」

王隱《晉書》曰:「劉毅字仲雄,東萊掖人,漢城陽景王後也。亮直淸方,見有不善,必評論之。王公大人,望風憚之。僑居陽平,太守杜恕致爲功曹,沙汰郡吏三百餘人。三魏僉曰:『但聞劉功曹,不聞杜府君。』累遷尚書、司隸校尉。」

王隠の『晋書』に言う。「劉毅は字は仲雄、東莱掖の人で、漢の城陽景王の後裔である。明るく真っ直ぐで清く方正であり、善くないことを見れば必ず評して言ったので、王公や大人も彼の風を望んで恐れた。陽平に仮住まいしていたとき、太守の杜恕が功曹としたので、郡の役人三百余人をふるい落とした。三魏の地では皆が『劉功曹の名は聞こえるが、杜府君の名は聞こえない』と言った。累進して尚書、司隷校尉に至った」

《晉陽秋》曰:「世祖及時談以此貴戎也。」

『晋陽秋』に言う。「世祖と当時の論者は、このことで王戎を貴んだ」

18余りあるところから減らして足りないところを補うのが天の道だ

梁王、趙王,國之近屬,貴重當時。裴令公歳請二國租錢數百萬,以恤中表之貧者。或譏之曰:「何以乞物行惠?」裴曰:「損有餘,補不足,天之道也。」

梁王と趙王は国の近い親族で、当時は貴く重んじられていた。裴令公は毎年この二国の租税の銭数百万を請い受けて、内外の親族のうち貧しい者を助けた。

ある者が責めて言った。「どうして人から乞うた物で恵みを施すのか」

裴令公は言った。「余りあるところから減らして足りないところを補うのが、天の道だ」

夾注 3

朱鳳《晉書》曰:「宣帝張夫人生梁孝王彤,字子徽,位至太宰。桓夫人生趙王倫,字子彝,位至相國。」

朱鳳の『晋書』に言う。「宣帝の張夫人が梁孝王の司馬彤を生んだ。字は子徽、位は太宰に至った。桓夫人が趙王の司馬倫を生んだ。字は子彝、位は相国に至った」

《晉諸公贊》曰:「裴楷字叔則,河東聞喜人,司空秀之從弟也。父徽,冀州刺史,有雋識。楷特精易義。累遷河南尹、中書令,卒。」

『晋諸公賛』に言う。「裴楷は字は叔則、河東聞喜の人で、司空の裴秀の従弟である。父の裴徽は冀州刺史で、すぐれた識見があった。裴楷はとりわけ『易』の義に精しかった。累進して河南尹、中書令に至り、亡くなった」

《名士傳》曰:「楷行己取與,任心而動,毀譽雖至,處之晏然,皆此類。」

『名士伝』に言う。「裴楷は身の処し方や物のやりとりを心のままに行い、謗りも誉れも届いてもこれを安らかに受け止めた。みなこういう類である」

19徳がその言葉を覆い隠していたのではないか

王戎云:「太保居在正始中,不在能言之流。及與之言,理中淸遠,將無以德掩其言!」

王戎は言った。「太保どのは正始のころ、言葉の巧みな者の列には入っておられなかった。ところが語り合ってみると、理が当たって清らかで遠かった。徳がその言葉を覆い隠していたのではないか」

夾注 1

《晉陽秋》曰:「祥少有美德行。」

『晋陽秋』に言う。「王祥は若いころから美しい徳行があった」

20一度の号泣が人を傷つけるものならば

王安豐遭艱,至性過人。裴令往弔之,曰:「若使一慟果能傷人,濬沖必不免滅性之譏。」

王安豊が喪に遭い、その至れる性は人に勝っていた。裴令公が弔いに行って言った。「もし一度の号泣が本当に人を傷つけうるのなら、濬沖は命を損なったという謗りを免れまい」

夾注 1

《曲禮》曰:「居喪之禮,毀瘠不形,視聽不衰,不勝喪,乃比於不慈不孝。」孝經曰:「毀不滅性,聖人之教也。」

『曲礼』に言う。「喪に居る礼は、身が削られ痩せても骨が現れるまでにはせず、見聞きする力が衰えないようにする。喪に堪えられなければ、慈愛がなく孝がないのと同じに見なされる」。『孝経』に言う。「削られても命を損なわないのが、聖人の教えである」

21父の香典に届いた数百万を王戎は一つも受けなかった

王戎父渾有令名,官至涼州刺史。渾薨,所歴九郡義故,懷其德惠,相率致賻數百萬,戎悉不受。

王戎の父の王渾はよい名があり、官は涼州刺史に至った。王渾が亡くなると、彼が勤めた九つの郡の旧部下たちがその徳と恵みを慕って、相連れて香典数百万を届けたが、王戎は一つも受けなかった。

夾注 2

《世語》曰:「渾字長源,有才望。歴尚書、涼州刺史。」

『世語』に言う。「王渾は字は長源、才と名望があった。尚書、涼州刺史を歴任した」

虞預《晉書》曰:「戎由是顯名。」

虞預の『晋書』に言う。「王戎はこれによって名が世に現れた」

22布五百疋で罪人を買い戻し従事中郎とした

劉道眞嘗爲徒,扶風王駿以五百疋布贖之,既而用爲從事中郎。當時以爲美事。

劉道真はかつて罪を得て労役に就く身であったが、扶風王の司馬駿が布五百疋で彼を買い戻し、ほどなく従事中郎に任じた。当時の人はこれを美しい事とした。

夾注 2

《晉百官名》曰:「劉寶字道眞,髙平人。」徒,罪役作者。

『晋百官名』に言う。「劉宝は字は道真、高平の人である」。徒とは、罪を得て労役に就く者である。

虞預《晉書》曰:「駿字子臧,宣帝第十七子,好學至孝。」《晉諸公贊》曰:「駿八歳爲散騎常侍,侍魏齊王講。晉受禪,封扶風王,鎭關中,爲政最美。薨,贈武王。西土思之,但見其碑贊者,皆拜之而泣。其遺愛如此。」

虞預の『晋書』に言う。「司馬駿は字は子臧、宣帝の第十七子で、学を好み至って孝であった」。『晋諸公賛』に言う。「司馬駿は八歳で散騎常侍となり、魏の斉王の講義に侍した。晋が禅譲を受けると扶風王に封ぜられ、関中を鎮め、政がもっとも美しかった。亡くなると武王の号を贈られた。西の地の人は彼を慕い、その碑の賛を見る者は皆これに拝して泣いた。残した愛はこのようであった」

23名教のうちにもおのずから楽しい場所がある

王平子、胡毋彦國諸人,皆以任放爲達,或有裸體者。樂廣笑曰:「名教中自有樂地,何爲乃爾也!」

王平子や胡毋彦国といった人々は、皆気ままに振る舞うことを達観とし、裸になる者さえあった。

楽広は笑って言った。「名教のうちにもおのずから楽しい場所があるのに、どうしてそこまでするのか」

夾注 1

《晉諸公贊》曰:「王澄,字平子,有達識,荊州刺史。」《永嘉流人名》曰:「胡毋輔之字彦國,泰山奉髙人,湘州刺史。」王隱《晉書》曰:「魏末阮籍,嗜酒荒放,露頭散髮,裸袒箕踞。其後貴遊子弟阮瞻、王澄、謝鯤、胡毋輔之之徒,皆祖述於籍,謂得大道之本。故去巾幘,脱衣服,露醜惡,同禽獸。甚者名之爲通,次者名之爲達也。」

『晋諸公賛』に言う。「王澄は字は平子、達した識見があり、荊州刺史であった」。『永嘉流人名』に言う。「胡毋輔之は字は彦国、泰山奉高の人で、湘州刺史であった」。王隠の『晋書』に言う。「魏の末に阮籍は酒を嗜んで荒れ放ち、頭をあらわにし髪を振り乱し、裸で足を投げ出して座った。その後、貴い家の子弟の阮瞻・王澄・謝鯤・胡毋輔之の輩は、皆阮籍にならって大道の本を得たと言った。そこで頭巾を取り、衣を脱いで醜いところをあらわにし、禽獣と同じになった。ひどい者を通と名づけ、その次を達と名づけた」

24郗公が飯を頬に含んで帰り、二人の子に吐いて食べさせた

郗公値永嘉喪亂,在鄕里甚窮餒,鄕人以公名德,傳共飴之。公常攜兄子邁及外生周翼二小兒往食。鄕人曰:「各自饑困,以君之賢,欲共濟君耳;恐不能兼有所存。」公於是獨往食,輒含飯著兩頰邊,還吐與二兒。後並得存,同過江。郗公亡,翼爲剡縣解職歸,席苫於公靈床頭,心喪終三年。

郗公は永嘉の乱に遭い、郷里でひどく窮して飢えていた。郷の人々は彼の名と徳のゆえに、順に回しながら皆で食べさせた。

郗公はいつも兄の子の郗邁と姉妹の子の周翼という二人の子を連れて行って食べた。郷の人々は言った。「それぞれが飢えて苦しんでおりますが、あなたが賢いので、皆であなたを助けたいのです。あわせて二人まで生かすことはできそうにありません」

郗公はそこで一人で行って食べ、飯を両の頬に含んで帰り、二人の子に吐いて食べさせた。のちに二人ともに生き延び、ともに江を渡った。

郗公が亡くなると、周翼は剡県の職を辞して帰り、公の霊床の枕もとに苫を敷き、心の喪に服して三年を終えた。

夾注 2

《郗鑒別傳》曰:「鑒字道徽,髙平金鄕人。漢御史大夫郗慮後也。少有體正,耽思經籍,以儒雅著名。永嘉末,天下大亂,饑饉相望,冠帶以下,皆割己之資供鑒。元皇徴爲領軍,遷司空、太尉。」《中興書》曰:「鑒兄子邁,字思遠,有幹世才略。累遷少府、中護軍。」

『郗鑒別伝』に言う。「郗鑒は字は道徽、高平金郷の人である。漢の御史大夫の郗慮の後裔である。若いころから正しい身構えがあり、経籍に思いをひそめ、儒雅をもって名を知られた。永嘉の末、天下が大いに乱れて飢饉が相次ぐと、士人から下の者まで皆が自分の蓄えを割いて郗鑒に供えた。元皇帝が召して領軍とし、司空、太尉に遷った」。『中興書』に言う。「郗鑒の兄の子の郗邁は字は思遠、世を治める才と略があった。累進して少府、中護軍に至った」

《周氏譜》曰:「翼字子卿,陳郡人。祖奕,上谷太守。父優,車騎咨議。歴剡令、靑州刺史、少府卿,六十四而卒。」

『周氏譜』に言う。「周翼は字は子卿、陳郡の人である。祖父の周奕は上谷太守、父の周優は車騎咨議であった。剡令、青州刺史、少府卿を歴任し、六十四で亡くなった」

25肉を焼いていた男が、のちに危ないたびに側で守ってくれた

顧榮在洛陽,嘗應人請,覺行炙人有欲炙之色,因輟己施焉;同坐嗤之。榮曰:「豈有終日執之,而不知其味者乎?」後遭亂渡江,毎經危急,常有一人左右己;問其所以,乃受炙人也。

顧栄が洛陽にいたとき、人の招きに応じて出かけ、肉を焼く男にその肉を食べたそうな顔色があるのに気づいて、自分の分を割いて与えた。同席の者がこれを嘲ると、顧栄は言った。「一日中肉を手にしていながら、その味を知らない者があろうか」

のちに乱に遭って江を渡るとき、危ない目に遭うたびに、いつも一人の男が側で守ってくれた。その理由を尋ねると、あの肉を受けた男であった。

夾注 1

《文士傳》曰:「榮字彦先,呉郡人。其先越王句踐之支庶,封於顧邑,子孫遂氏焉,世爲呉著姓。大父雍,呉丞相。父穆,宜都太守。榮少朗雋機警,風穎標徹,歴廷尉正。曾在省與同僚共飲,見行炙者有異於常僕,乃割炙以噉之。後趙王倫篡位,其子爲中領軍,逼用榮爲長史。及倫誅,榮亦被執。凡受戮等輩十有餘人。或有救榮者,問其故。曰:『某省中受炙臣也。』榮乃悟而嘆曰:『一餐之惠,恩今不忘,古人豈虚言哉!』」

『文士伝』に言う。「顧栄は字は彦先、呉郡の人である。その先祖は越王句践の支流で顧邑に封ぜられ、子孫がついにこれを氏とし、代々呉の名高い姓であった。祖父の顧雍は呉の丞相、父の顧穆は宜都太守であった。顧栄は若くして明るく秀でて機敏で、風格が抜きん出ており、廷尉正を歴任した。かつて役所で同僚とともに飲んでいたとき、肉を焼く者が普通の召使いと違うのを見て、肉を割いて食べさせた。のちに趙王の司馬倫が位を奪い、その子が中領軍となって、顧栄を無理に長史として用いた。司馬倫が誅されると顧栄も捕らえられた。ともに殺される者は十余人であったが、ある者が顧栄を助けようとしたので、その理由を尋ねた。すると『私は役所で肉をいただいた臣です』と言った。顧栄はそこで悟り、嘆いて『一度の食事の恵みを今まで忘れずにいる。古人の言葉がどうして虚言であろうか』と言った」

26百里奚がどうして羊の皮五枚より軽かろうか

祖光祿少孤貧,性至孝,常自爲母炊爨作食。王平北聞其佳名,以兩婢餉之,因取爲中郎。有人戲之者曰:「奴價倍婢。」祖云:「百里奚亦何必輕於五羖之皮邪?」

祖光禄は幼くして父を失って貧しかったが、性はきわめて孝で、いつも自ら母のために火を焚いて食事を作った。王平北がそのよい名を聞いて、婢二人を贈り、ほどなく中郎に取り立てた。

ある者がからかって言った。「奴の値は婢の倍ですな」

祖光禄は言った。「百里奚とて、どうして羊の皮五枚より軽かろうか」

夾注 3

王隱《晉書》曰:「祖納字士言,范陽遒人,九世孝廉。納諸母三兄,最治行操,能淸言,歴太子中庶子,廷尉卿。避地江南,温嶠薦爲光祿大夫。」

王隠の『晋書』に言う。「祖納は字は士言、范陽遒の人で、九代にわたる孝廉の家である。祖納は数人の母と三人の兄のうちで、もっともよく身を修め、清談が巧みで、太子中庶子、廷尉卿を歴任した。江南に避難すると、温嶠が推挙して光禄大夫となった」

《王乂別傳》曰:「乂字叔元,琅邪臨沂人。時蜀新平,二將作亂,文帝西之長安,乃徴爲相國司馬,遷大尚書、出督幽州諸軍事、平北將軍。」

『王乂別伝』に言う。「王乂は字は叔元、琅邪臨沂の人である。当時、蜀が平定されたばかりで二人の将が乱を起こしたので、文帝は西の長安へ向かい、そこで召されて相国司馬となり、大尚書に遷り、幽州の諸軍事を監督する平北将軍として出た」

《楚國先賢傳》曰:「百里奚字凡伯,楚國人。少仕於虞,爲大夫。晉欲假道於虞以伐虢,諫而不聽,奚乃去之。」《説苑》曰:「秦穆公使賈人載鹽於虞,諸賈人買百里奚以五羊皮。穆公觀鹽,怪其牛肥,問其故,對曰:『飲食以時,使之不暴,是以肥也。』公令有司沐浴衣冠之。公孫支讓其卿位,號曰『五羖大夫』。」

『楚国先賢伝』に言う。「百里奚は字は凡伯、楚国の人である。若いころ虞に仕えて大夫となった。晋が虞に道を借りて虢を討とうとしたとき、諫めたが聞き入れられず、百里奚はそこで去った」。『説苑』に言う。「秦の穆公が商人に塩を虞へ運ばせたとき、商人たちは百里奚を羊の皮五枚で買った。穆公が塩を見ていて、その牛が肥えているのを不思議に思って理由を尋ねると、『飲み食いを時に合わせ、使うのに荒々しくしませんので、それで肥えているのです』と答えた。穆公は役人に命じて彼を沐浴させ、衣冠を着けさせた。公孫支がその卿の位を譲り、『五羖大夫』と号した」

27胡威の清らかさとて、これに勝ろうか

周鎭罷臨川郡還都,未及上住,泊靑溪渚。王丞相往看之。時夏月,暴雨卒至,舫至狹小,而又大漏,殆無復坐處。王曰:「胡威之淸,何以過此!」即啓用爲呉興郡。

周鎮が臨川郡を辞めて都に帰ったが、まだ住まいを得られず、青渓の岸に舟を泊めていた。王丞相が見に行った。

時は夏で、にわか雨が急に降ってきたが、舟はひどく狭く、そのうえ大いに漏れて、座る場所さえないほどであった。

王丞相は言った。「胡威の清らかさとて、どうしてこれに勝ろうか」

そこですぐに奏して呉興郡に用いさせた。

夾注 3

《永嘉流人名》曰:「鎭字康時,陳留尉氏人也。祖父和,故安令。父震,司空長史。」《中興書》曰:「鎭淸約寡慾,所在有異績。」

『永嘉流人名』に言う。「周鎮は字は康時、陳留尉氏の人である。祖父の周和は元の安令、父の周震は司空長史であった」。『中興書』に言う。「周鎮は清らかで倹しく欲が少なく、行く先ごとに際立った功績があった」

《丞相別傳》曰:「王導字茂弘,琅邪人。祖覽,以德行稱。父裁,侍御史。導少知名,家世貧約,恬暢樂道,未嘗以風塵經懷也。」

『丞相別伝』に言う。「王導は字は茂弘、琅邪の人である。祖父の王覧は徳行で称えられ、父の王裁は侍御史であった。王導は若いころから名を知られたが、家は代々貧しく倹しかった。それでも安らかにのびのびと道を楽しみ、塵のような俗事を心にかけたことがなかった」

《晉陽秋》曰:「胡威字伯虎,淮南人。父質以忠淸顯。質爲荊州,威自京師往省之。及告歸,質賜威絹一匹。威跪曰:『大人淸髙,於何得此?』質曰:『是吾奉祿之餘,故以爲汝糧耳。』威受而去。毎至客舍,自放驢取樵爨炊。食畢,復隨旅進道。質帳下都督陰齎糧要之,因與爲伴。毎事相助經營之,又進少飯,威疑之,密誘問之,乃知都督也。謝而遣之。後以白質,質杖都督一百,除其吏名。父子淸愼如此。及威爲徐州,世祖賜見,與論邊事及平生。帝嘆其父淸,因謂威曰:『卿淸孰與父?』對曰:『臣淸不如也。』帝曰:『何以爲勝汝邪?』對曰:『臣父淸畏人知,臣淸畏人不知,是以不如遠矣。』」

『晋陽秋』に言う。「胡威は字は伯虎、淮南の人である。父の胡質は忠と清らかさで世に知られた。胡質が荊州にいたとき、胡威は都から訪ねて行った。帰ると告げると、胡質は胡威に絹一匹を与えた。胡威は膝をついて『お父上は清らかで高潔なのに、どこでこれを得られたのですか』と言った。胡質は『これは私の俸禄の余りだ。だからお前の路銀にするのだ』と言った。胡威は受け取って去った。宿に着くたびに自分で驢馬を放して飼い、薪を取って飯を炊き、食べ終わるとまた旅人に従って道を行った。胡質の帳下都督がこっそり食糧を携えて彼を待ち受け、連れ合いとなって、何事も助けて世話をし、さらに飯を少し分け与えた。胡威はこれを疑い、ひそかに誘って問うたところ、都督であることを知った。礼を述べて帰した。のちに胡質に申し上げると、胡質は都督を杖で百たたき、その役人の名を除いた。父子の清らかさと慎み深さはこのようであった。胡威が徐州刺史になったとき、世祖が召して見え、辺境の事や来歴を語り合った。帝はその父の清らかさを嘆き、そこで胡威に『卿の清らかさは父とくらべてどうか』と言われた。『臣の清らかさは及びません』と答えた。帝が『何をもってお前より勝るのか』と言われると、『臣の父は清らかさが人に知られることを恐れましたが、臣は清らかさが人に知られないことを恐れます。それゆえ遠く及ばないのです』と答えた」

28鄧攸が甥を生かすために自分の子を捨てた

鄧攸始避難,於道中棄己子,全弟子。既過江,取一妾,甚寵愛。歴年後訊其所由,妾具説,是北人遭亂,憶父母姓名,乃攸之甥也。攸素有德業,言行無玷,聞之哀恨終身,遂不復畜妾。

鄧攸がはじめ乱を避けたとき、道で自分の子を捨てて、弟の子を生かした。

江を渡ってから一人の妾を置き、たいそう愛した。何年かのちにその来歴を尋ねると、妾はこと細かに語り、北の人で乱に遭ったと言い、父母の姓と名を思い出したが、それは鄧攸の姉妹の娘であった。

鄧攸はもとより徳も業もあって言行に瑕がなかったが、これを聞いて一生悲しみ悔い、ついに二度と妾を置かなかった。

夾注 1

《晉陽秋》曰:「攸字伯道,平陽襄陵人。七歳喪父母及祖父母,持重九年。性淸愼平簡。」鄧粲《晉紀》曰:「永嘉中,攸爲石勒所獲,召見,立幕下與語,説之,坐而飯焉。攸車所止,與胡人鄰轂,胡人失火燒車營,勒吏案問胡,胡誣攸。攸度不可與爭,乃曰:『向爲老姥作粥,失火延逸,罪應萬死。』勒知遣之。所誣胡厚德攸,遺其驢馬,護送令得逸。」王隱《晉書》曰:「攸以路遠,斫壞車,以牛馬負妻子以叛,賊又掠其牛馬。攸語妻曰:『吾弟早亡,唯有遺民。今當歩走,儋兩兒盡死,不如棄己兒,抱遺民。吾後猶當有兒。』婦從之。」《中興書》曰:「攸棄兒於草中,兒啼呼追之,至莫復及。攸明日繫兒於樹而去,遂渡江,至尚書左僕射,卒。弟子綏服攸齊衰三年。」

『晋陽秋』に言う。「鄧攸は字は伯道、平陽襄陵の人である。七歳で父母と祖父母を失い、九年の重い喪に服した。性は清らかで慎み深く、おだやかで簡素であった」。鄧粲の『晋紀』に言う。「永嘉のころ、鄧攸は石勒に捕らえられ、召し出されて幕の下に立って語り合ったが、石勒は喜んで座らせ、食事を出した。鄧攸の車が止まったところは胡人と車輪を並べていたが、胡人が火を出して車の陣営を焼いた。石勒の役人が胡人を取り調べると、胡人は鄧攸を偽って訴えた。鄧攸は争えないと見て、『さきほど老婆のために粥を炊いていて火を出し、燃え広がらせました。罪は万死に値します』と言った。石勒は事情を知って彼を放した。偽って訴えた胡人は鄧攸を深く徳として、その驢馬と馬を贈り、護送して逃れさせた」。王隠の『晋書』に言う。「鄧攸は道が遠いので車を壊し、牛馬に妻子を乗せて逃げたが、賊がまたその牛馬を奪った。鄧攸は妻に『私の弟は早く死んで、ただ遺民だけが残った。これから歩いて行くのに二人の子を担げば二人とも死んでしまう。自分の子を捨てて遺民を抱くほかはない。私はあとでまた子を持てるだろう』と言い、妻はこれに従った」。『中興書』に言う。「鄧攸が子を草のなかに捨てると、子は泣き叫んで追いかけ、日が暮れるまで追いつけなかった。鄧攸は翌日、子を木に縛りつけて去り、ついに江を渡って、尚書左僕射に至って亡くなった。弟の子の鄧綏は鄧攸のために斉衰三年の喪に服した」

29行李を封じたまま開けるに堪えなかった

王長豫爲人謹順,事親盡色養之孝。丞相見長豫輒喜,見敬豫輒嗔。長豫與丞相語,恒以愼密爲端。丞相還臺,及行,未嘗不送至車後。恒與曹夫人併當箱篋。長豫亡後,丞相還臺,登車後,哭至臺門。曹夫人作簏,封而不忍開。

王長豫は人柄が慎み深く従順で、親に仕えて顔色をうかがい養う孝を尽くした。丞相は長豫を見ればすぐ喜び、敬豫を見ればすぐ怒った。

長豫は丞相と話すとき、いつも慎み深く口を固くすることを第一とした。丞相が役所に戻るときは、出かけるたびに車の後ろまで送らないことがなかった。いつも曹夫人とともに箱や櫃を片づけた。

長豫が亡くなったあと、丞相は役所に戻るとき、車に乗ってから役所の門に着くまで泣き続けた。曹夫人は長豫が作った竹籠を封じたまま、開けるに堪えなかった。

夾注 4

《中興書》曰:「王悅字長豫,丞相導長子也。仕至中書侍郎。

『中興書』に言う。「王悦は字は長豫、丞相の王導の長子である。官は中書侍郎に至った」

《文字志》曰:「王恬字敬豫,導次子也。少卓犖不羈,疾學尚武,不爲導所重。至中軍將軍。多才藝,善隸書,與濟陽江虨以善奕聞。」

『文字志』に言う。「王恬は字は敬豫、王導の次子である。若いころ抜きん出て束縛されず、学を嫌って武を好んだので、王導に重んじられなかった。中軍将軍に至った。多くの才芸があり、礼に明るく、隷書が巧みで、済陽の江虨とともに碁の名手として知られた」

《王氏譜》曰:「導娶彭城曹韶女,名淑。」

『王氏譜』に言う。「王導は彭城の曹韶の娘を娶った。名は淑である」

「曹夫人作簏」の作を、子の長豫が作ったものと読んだ。前に「いつも曹夫人とともに箱や櫃を片づけた」とあるので、曹夫人が長豫とともに詰めていた行李をそのままにしておいた、という読み方も立つ。 ― 訳者

30桓常侍は深公の悪口を言わなかった

桓常侍聞人道深公者,輒曰:「此公既有宿名,加先達知稱,又與先人至交,不宜説之。」

桓常侍は、人が深公のことを話すのを聞くと、すぐにこう言った。「この方はすでに古くからの名があり、そのうえ先達が認めて称えてもおり、また亡き父と至って親しかった。あれこれ言うべきことではない」

夾注 1

《桓彝別傳》曰:「彝字茂倫,譙國龍亢人,漢五更桓榮十世孫也。父穎,有髙名。彝少孤,識鑒明朗,避亂渡江,累遷散騎常侍。」僧法深,不知其俗姓,蓋衣冠之胤也。道徽髙扇,譽播山東,爲中州劉公弟子。値永嘉亂,投跡楊土,居止京邑,内持法綱,外允具瞻,弘道之法師也。以業慈淸淨,而不耐風塵,考室剡縣東二百里𡵙山中,同遊十餘人,髙棲浩然。支道林宗其風範,與髙麗道人書,稱其德行。年七十有九,終於山中也。」

『桓彝別伝』に言う。「桓彝は字は茂倫、譙国龍亢の人で、漢の五更の桓栄の十代の孫である。父の桓穎は高い名があった。桓彝は幼くして父を失ったが、識見が明るく澄んでいて、乱を避けて江を渡り、累進して散騎常侍に至った」。僧の法深は、その俗姓は分からないが、おそらく士人の家の子孫であろう。道の美しさが高く広まり、誉れが山東に伝わり、中州の劉公の弟子となった。永嘉の乱に遭って揚の地に身を寄せ、都に住まい、内には法の綱を保ち、外には仰ぎ見られるにふさわしく、道を広めた法師である。慈しみと清浄を業としたが、塵の世に堪えられず、剡県の東二百里の𡵙山のなかに室を構え、ともに遊ぶ者が十余人、高く棲んでのびのびとしていた。支道林はその風格と模範を宗とし、高句麗の僧への手紙でその徳行を称えた。七十九歳で山のなかで終わった。

31自分が落ち着かないものを人に移せようか

庾公乘馬有的盧,或語令賣去。庾云:「賣之必有買者,即復害其主。寧可不安己而移於他人哉?」昔孫叔敖殺兩頭蛇以爲後人,古之美談,效之,不亦達乎!」

庾公の乗る馬に的盧があった。ある者が売ってしまえと言うと、庾公は言った。「これを売れば必ず買う者があり、そうすればまたその主を害することになる。自分が落ち着かないからといって、どうして人に移せようか。

昔、孫叔敖が双頭の蛇を殺して後の人のためにしたのは、古人の美しい話である。これに倣うのも、また達というものではないか」

夾注 3

《晉陽秋》曰:「庾亮字元規,潁川鄢陵人,明穆皇后長兄也。淵雅有德量,時人方之夏侯太初、陳長文之倫。侍從父琛,避地會稽,端拱嶷然,郡人嚴憚之。覲接之者,數人而已。累遷征西大將軍、荊州刺史。」《伯樂相馬經》曰:「馬白頟入口至齒者,名曰楡鴈,一名的盧。奴乘客死,主乘棄市,凶馬也。」

『晋陽秋』に言う。「庾亮は字は元規、潁川鄢陵の人で、明穆皇后の長兄である。奥深く雅やかで徳と度量があり、当時の人は夏侯太初や陳長文の輩にくらべた。叔父の庾琛に従って会稽に避難し、端然と手を組んで厳かであったので、郡の人は彼をたいそう恐れた。会うことができた者は数人だけであった。累進して征西大将軍、荊州刺史に至った」。『伯楽相馬経』に言う。「馬の白い額が口から歯まで入っているものを楡雁といい、一名を的盧という。奴が乗れば客死し、主が乗れば市で処刑される、凶の馬である」

《語林》曰:「殷浩勸公賣馬。」

『語林』に言う。「殷浩が庾公に馬を売るよう勧めた」

賈誼《新書》曰:「孫叔敖爲兒時,出道上,見兩頭蛇,殺而埋之。歸見其母,泣。問其故,對曰:『夫見兩頭蛇者,必死。今出見之,故爾。』母曰:『蛇今安在?』對曰:『恐後人見,殺而埋之矣。』母曰:『夫有陰德,必有陽報,爾無憂也。』後遂興於楚朝。及長,爲楚令尹。」

賈誼の『新書』に言う。「孫叔敖が子どものころ、道に出て双頭の蛇を見つけ、殺して埋めた。帰って母に会うと泣いた。その理由を問うと、『双頭の蛇を見た者は必ず死ぬといいます。いま出かけてそれを見たので、こうしているのです』と答えた。母が『蛇は今どこにいるのか』と問うと、『後の人が見るのを恐れて、殺して埋めました』と答えた。母は『およそ陰の徳があれば必ず陽の報いがある。お前は心配しなくてよい』と言った。のちについに楚の朝廷で立身し、成長して楚の令尹となった」

32私に車があって人が借りられないなら、車は何のためか

阮光祿在剡,曾有好車,借者無不皆給。有人葬母,意欲借而不敢言。阮後聞之,嘆曰:「吾有車而使人不敢借,何以車爲?」遂焚之。

阮光禄が剡にいたとき、よい車があって、借りたいという者には皆与えないことがなかった。

ある者が母を葬るのに、借りたいと思いながら言い出せなかった。阮光禄はのちにこれを聞いて嘆いた。「私に車があるのに、人が借りようとさえしなかった。車が何の役に立つのか」

そこで焼いてしまった。

夾注 1

《阮光祿別傳》曰:「裕字思曠,陳留尉氏人。祖略,齊國内史。父顗,汝南太守。裕淹通有理識,累遷侍中。以疾築室會稽剡山。徴金紫光祿大夫,不就。年六十一卒。」

『阮光禄別伝』に言う。「阮裕は字は思曠、陳留尉氏の人である。祖父の阮略は斉国内史、父の阮顗は汝南太守であった。阮裕は広く通じて理と識見があり、累進して侍中に至った。病のために会稽の剡山に室を構えた。金紫光禄大夫に召されたが赴かなかった。六十一歳で亡くなった」

33八つの弟が兄に老人を可哀想だと言った

謝奕作剡令,有一老翁犯法,謝以醇酒罰之,乃至過醉,而猶未已。太傅時年七八歳,箸靑布絝,在兄膝邊坐,諫曰:「阿兄,老翁可念,何可作此?」奕於是改容曰:「阿奴欲放去邪?」遂遣之。

謝奕が剡の令であったとき、一人の老人が法を犯したので、謝奕は強い酒で罰し、ひどく酔うまでになってもまだやめなかった。

太傅はそのとき七つ八つで、青い布の袴をはいて兄の膝のそばに座っていたが、諫めて言った。「兄上、老人が可哀想です。どうしてこんなことをなさるのですか」

謝奕はそこで顔色を改めて言った。「お前は放してやりたいのか」

そして帰してやった。

夾注 1

《中興書》曰:「謝奕字無奕,陳郡陽夏人。祖衡,太子少傅。父裒,吏部尚書。奕少有器鑒,辟太尉掾、剡令,累遷豫州刺史。」

『中興書』に言う。「謝奕は字は無奕、陳郡陽夏の人である。祖父の謝衡は太子少傅、父の謝裒は吏部尚書であった。謝奕は若いころから人の器量を見る目があり、太尉の属官、剡の令に召され、累進して豫州刺史に至った」

34褚季野は口を開かずとも四季の気がそろっている

謝太傅絶重褚公,常稱:「褚季野雖不言,而四時之氣亦備。」

謝太傅は褚公をきわめて重んじ、いつも称えて言った。「褚季野は口を開かないが、それでも四季の気がそろっている」

夾注 1

《文字志》曰:「謝安字安石,奕弟也。世有學行,安弘粹通遠,温雅融暢。桓彝見其四歳時,稱之曰:『此兒風神秀徹,當繼蹤王東海。』善行書。累遷太保、録尚書事。贈太傅。」《晉陽秋》曰:「褚裒字季野,河南陽翟人。祖䂮,安東將軍。父治,武昌太守。裒少有簡貴之風,沖默之稱。累遷江兗二州刺史。贈侍中、太傅。」

『文字志』に言う。「謝安は字は安石、謝奕の弟である。代々学問と行いがあったが、謝安は広く純粋で通じて遠く、温かく雅やかでのびのびとしていた。桓彝は彼の四歳のころを見て称え、『この子は風格と精神が秀でて澄んでいる。きっと王東海の跡を継ぐだろう』と言った。行書が巧みであった。累進して太保、録尚書事に至り、太傅を贈られた」。『晋陽秋』に言う。「褚裒は字は季野、河南陽翟の人である。祖父の褚䂮は安東将軍、父の褚治は武昌太守であった。褚裒は若いころから簡素で気高い風格があり、静かで口を開かぬと称された。累進して江州・兗州二州の刺史に至った。侍中、太傅を贈られた」

35丘が祈ってから久しい

劉尹在郡,臨終綿惙,聞閣下祠神鼓舞。正色曰:「莫得淫祀!」外請殺車中牛祭神。眞長答曰:「丘之禱久矣,勿復爲煩。」

劉尹が郡にいて、死に臨んで息も細くなっていたとき、役所の下で神を祭り、鼓を打って舞う音を聞いた。

顔色を正して言った。「みだりな祭りをするな」

外の者が車を引く牛を殺して神を祭らせてほしいと願うと、真長は答えた。「丘が祈ってから久しい。これ以上煩わせるな」

夾注 2

《劉尹別傳》曰:「惔字眞長,沛國蕭人也。漢氏之後。眞長有雅裁,雖蓽門陋巷,晏如也。歴司徒左長史、侍中、丹陽尹。爲政務鎭靜信誠,風塵不能移也。」

『劉尹別伝』に言う。「劉惔は字は真長、沛国蕭の人である。漢の王室の後裔である。真長には雅やかな品があり、柴の門のさびれた裏町に住んでも安らかであった。司徒左長史、侍中、丹陽尹を歴任した。政を行うにあたっては静かに鎮めることと誠実さに努め、塵の世が彼を動かすことはできなかった」

包氏《論語》曰:「禱,請也。」孔安國曰:「孔子素行合於神明,故曰:『丘之禱久矣。』」

包氏の『論語』の注に言う。「禱とは請うことである」。孔安国が言う。「孔子の平生の行いは神明にかなっていたので、『丘が祈ってから久しい』と言ったのである」

36私はいつも自分をもって子を教えている

謝公夫人教兒,問太傅:「那得初不見君教兒?」答曰:「我常自教兒。」

謝公の夫人が子を教えていて、太傅に尋ねた。「どうして今まであなたが子を教えるのを見たことがないのでしょう」

答えて言った。「私はいつも自分をもって子を教えている」

夾注 1

《謝氏譜》曰:「安娶沛國劉耽女。」按:太尉劉子眞,淸潔有志操,行己以禮。而二子不才,並黷貨致罪。子眞坐免官。客曰:「子奚不訓導之?」子眞曰:「吾之行事,是其耳目所聞見,而不放效,豈嚴訓所變邪?」安石之旨,同子眞之意也。

『謝氏譜』に言う。「謝安は沛国の劉耽の娘を娶った」。考えてみると、太尉の劉子真は清らかで潔く志操があり、礼をもって身を処した。ところが二人の子は才がなく、どちらも財に汚れて罪を得たので、子真はこれに連座して官を免じられた。客が「あなたはなぜ彼らを教え導かなかったのか」と言うと、子真は「私の行いはあの子たちの耳目が聞き見ているところなのに、それを倣わないのだ。どうして厳しい教えで変わるだろうか」と言った。安石の意は子真の意と同じである。

37鼠のために人を損なってよいものか

晉簡文爲撫軍時,所坐床上塵不聽拂,見鼠行跡,視以爲佳。有參軍見鼠白日行,以手板批殺之,撫軍意色不悅,門下起彈;教曰:「鼠被害,尚不能忘懷;今復以鼠損人,無乃不可乎?」

晋の簡文帝が撫軍将軍であったころ、座る寝台の上の塵を払わせず、鼠が歩いた跡を見ると、それをよいものと思っていた。

ある参軍が鼠が白昼に歩いているのを見て、手に持った笏で打ち殺した。撫軍は心も顔色も喜ばなかったので、配下の者が彼を弾劾しようとした。

撫軍は告げて言った。「鼠が害されたことさえまだ胸から去らないのに、いままた鼠のために人を損なうのは、よくないことではないか」

夾注 1

《續晉陽秋》曰:「帝諱昱,字道萬,中宗少子也。仁聞有智度。穆帝幼沖,以撫軍輔政。大司馬桓温廢海西公而立帝,在位三年而崩。」

『続晋陽秋』に言う。「帝は諱は昱、字は道万、中宗の末子である。仁があると聞こえ、知と度量があった。穆帝が幼かったので、撫軍将軍として政を輔けた。大司馬の桓温が海西公を廃して帝を立てたが、在位三年で崩じた」

38痛くて泣いたのではなく、身を傷つけてはならぬからです

范宣年八歳,後園挑菜,誤傷指,大啼。人問:「痛邪?」答曰:「非爲痛也;但身體髮膚,不敢毀傷,是以啼耳。」宣潔行廉約,韓豫章遺絹百匹,不受;減五十匹,復不受。如是減半,遂至一匹,既終不受。韓後與范同載,就車中裂二丈與范,云:「人寧可使婦無褌邪?」范笑而受之。

范宣が八歳のとき、裏庭で菜を摘んでいて誤って指を傷つけ、大声で泣いた。人が尋ねた。「痛いのか」

答えて言った。「痛いからではありません。ただ身体と髪膚は傷つけてはならないものですから、それで泣くのです」

范宣は行いが潔く倹しかった。韓豫章が絹百匹を贈ると受けず、五十匹に減らしてもまた受けなかった。こうして半分ずつ減らしてついに一匹になったが、それでも最後まで受けなかった。

韓豫章はのちに范宣と同じ車に乗り、車の中で二丈を裂いて范宣に与え、言った。「人として妻に下袴もないままにしておけようか」

范宣は笑って受け取った。

夾注 2

《宣別傳》曰:「宣字子宣,陳留人,漢萊蕪長范丹後也。年十歳,能誦詩書。兒童時,手傷改容,家人以其年幼,皆異之。徴太學博士、散騎常侍,一無所就。年五十四卒。」

『宣別伝』に言う。「范宣は字は子宣、陳留の人で、漢の莱蕪の長であった范丹の後裔である。十歳で詩書を暗誦できた。子どものころ、手を傷つけて顔色を改めたので、家の者はその年の幼さを思って皆不思議に思った。太学博士、散騎常侍に召されたが、一つも赴かなかった。五十四歳で亡くなった」

《中興書》曰:「宣家至貧,罕交人事。豫章太守殷羡見宣茅茨不完,欲爲改室,宣固辭。羡愛之,以宣貧,加年饑疾疫,厚餉給之,宣又不受。」《續晉陽秋》曰:「韓伯字康伯,潁川人。好學,善言理。歴豫章太守、領軍將軍。」

『中興書』に言う。「范宣の家はきわめて貧しく、人との交わりもまれであった。豫章太守の殷羨は范宣の茅屋が完全でないのを見て、部屋を直してやろうとしたが、范宣は固く辞した。殷羨は彼を愛し、范宣が貧しいうえに飢饉と疫病が重なったので、手厚く贈り物をしたが、范宣はまた受けなかった」。『続晋陽秋』に言う。「韓伯は字は康伯、潁川の人である。学を好み、理を語るのが巧みであった。豫章太守、領軍将軍を歴任した」

39ただ郗家と離縁したことが思い出されます

王子敬病篤,道家上章應首過,問子敬「由來有何異同得失?」子敬云:「不覺有餘事,唯憶與郗家離婚。」

王子敬の病が重くなったとき、道家では章を奉るにはまず過ちを申し述べるべきだというので、子敬に尋ねた。「これまでにどのような食い違いや得失がございましたか」

子敬は言った。「ほかの事は思い当たらないが、ただ郗家と離縁したことが思い出されるだけだ」

夾注 1

《王氏譜》曰:「獻之娶髙平郗曇女,名道茂,後離婚。」《獻之別傳》曰:「祖父曠,淮南太守。父羲之,右將軍。咸寧中,詔尚餘姚公主,遷中書令,卒。」

『王氏譜』に言う。「王献之は高平の郗曇の娘を娶った。名は道茂であるが、のちに離縁した」。『献之別伝』に言う。「祖父の王曠は淮南太守、父の王羲之は右将軍である。咸寧のころ、詔によって余姚公主に娶り、中書令に遷って亡くなった」

40貧しさは士の常である。どうして枝に登ってその根を捨てられようか

殷仲堪既爲荊州,値水儉,食常五盌,外無餘肴。飯粒脱落盤席閒,輒拾以噉之。雖欲率物,亦縁其性眞素。毎語子弟云:「勿以我受任方州,云我豁平昔時意。今吾處之不易。貧者士之常,焉得登枝而捐其本?爾曹其存之!」

殷仲堪が荊州にいたとき、水害で不作になったので、食膳はいつも五つの器だけで、ほかに副えの菜はなかった。飯粒が盆や敷物のあいだに落ちると、すぐに拾って食べた。人を導こうとしてのことでもあったが、またその性が真っ正直で飾らないところから出ていた。

子弟にいつもこう言っていた。「私が一方の州を任されたからといって、私が昔の志を捨てたと言うな。いま私がここにあるのも容易ではない。貧しさは士の常である。どうして枝に登ったからといってその根を捨てられようか。お前たちはこれを心にとめておけ」

夾注 1

《晉安帝紀》曰:「仲堪,陳郡人,太常融孫也。車騎將軍謝玄請爲長史,孝武説之,俄爲黃門侍郎。自殺袁悅之後,上深爲晏駕後計,故先出王恭爲北蕃。荊州刺史王忱死,乃中詔用仲堪代焉。」

『晋安帝紀』に言う。「殷仲堪は陳郡の人で、太常の殷融の孫である。車騎将軍の謝玄が請うて長史とし、孝武帝が彼を気に入って、ほどなく黄門侍郎となった。袁悦を殺して以来、上は崩御のあとのことを深く考えていたので、まず王恭を北の藩として出した。荊州刺史の王忱が死ぬと、そこで詔を下して殷仲堪に代わらせた」

41殷覬は顔色を静かにして退いた

初桓南郡、楊廣共説殷荊州,宜奪殷覬南蠻以自樹。覬亦即曉其旨,嘗因行散,率爾去下舍,便不復還。内外無預知者,意色蕭然,遠同鬬生之無慍。時論以此多之。

はじめ桓南郡と楊広がともに殷荊州を説いて、殷覬の南蛮校尉の職を奪って自分の勢いを立てるようにさせようとした。

殷覬もすぐにその意を察し、薬を服んで歩くついでに、ふいに下の屋敷を去って二度と戻らなかった。内外に前から知っていた者はなく、心も顔色も静かで、遠く鬬生のように怒る色がなかった。当時の論者はこのことで彼を高く買った。

夾注 2

《桓玄別傳》曰:「玄字敬道,譙國龍亢人,大司馬温少子也。幼童中,温甚愛之。臨終命以爲嗣。年七歳,襲封南郡公,拜太子洗馬、義興太守。不得志,少時去職,歸其國。與荊州刺史殷仲堪素舊,情好甚隆。」周祗《隆安記》曰:「廣字德度,弘農人,楊震後也。」《晉安帝紀》曰:「覬字伯道,陳郡人。由中書郎出爲南蠻校尉。覬亦以率易才悟著稱,與從弟仲堪倶知名。」《中興書》曰:「初,仲堪欲起兵,密邀覬,覬不同。楊廣與弟佺期勸殺覬,仲堪不許。」

『桓玄別伝』に言う。「桓玄は字は敬道、譙国龍亢の人で、大司馬の桓温の末子である。幼いころ、桓温はたいそう彼を愛し、臨終に跡を継がせるよう命じた。七歳で南郡公を継ぎ、太子洗馬、義興太守に任じられた。志を得られず、しばらくして職を去り、自分の国に帰った。荊州刺史の殷仲堪ともとから長い付き合いで、情愛がきわめて厚かった」。周祗の『隆安記』に言う。「楊広は字は徳度、弘農の人で、楊震の後裔である」。『晋安帝紀』に言う。「殷覬は字は伯道、陳郡の人である。中書郎から南蛮校尉として出た。殷覬もさっぱりとして才の鋭いことで称えられ、従弟の殷仲堪とともに名を知られた」。『中興書』に言う。「はじめ殷仲堪が兵を起こそうとしてひそかに殷覬を誘ったが、殷覬は同意しなかった。楊広と弟の楊佺期は殷覬を殺すよう勧めたが、殷仲堪は許さなかった」

《春秋傳》曰:「楚令尹子文,鬬氏也。」《論語》曰:「令尹子文,三仕爲令尹,無喜色;三已之,無慍色。」

『春秋伝』に言う。「楚の令尹の子文は鬬氏である」。『論語』に言う。「令尹の子文は三度仕えて令尹となったが喜ぶ色がなく、三度やめさせられたが怒る色がなかった」

42王綏を試しに孝子を務めていると言った

王僕射在江州,爲殷桓所逐,奔竄豫章,存亡未測。王綏在都,既憂戚在貌,居處飲食,毎事有降。時人謂爲試守孝子。

王僕射が江州にいて殷仲堪と桓玄に追われ、豫章へ逃げ隠れたので、生きているか死んでいるか分からなかった。

王綏は都にいて、憂いと悲しみが顔に現れ、住まいも飲み食いも何事につけ落とした。当時の人は、試しに孝子を務めていると言った。

夾注 2

徐廣《晉紀》曰:「王愉字茂和,太原晉陽人,安北將軍坦之次子也。以輔國司馬,出爲江州刺史。愉始至鎭,而桓玄、楊佺期舉兵以應王恭,乘流奄至,愉無防,惶遽奔臨川,爲玄所得。玄篡位,遷尚書左僕射。」

徐広の『晋紀』に言う。「王愉は字は茂和、太原晋陽の人で、安北将軍の王坦之の次子である。輔国司馬から江州刺史として出た。王愉が鎮に着いたばかりのところへ桓玄と楊佺期が兵を挙げて王恭に応じ、流れに乗って不意に到った。王愉は防ぐ備えがなく、慌てて臨川に逃げ、桓玄に捕らえられた。桓玄が位を奪うと、尚書左僕射に遷った」

《中興書》曰:「綏字彦猷,愉子也。少有令譽。自王渾至坦之,六世盛德,綏又知名,於時冠冕,莫與爲比。位至中書令、荊州刺史。桓玄敗後,與父愉謀反,伏誅。」

『中興書』に言う。「王綏は字は彦猷、王愉の子である。若くしてよい誉れがあった。王渾から王坦之まで六代にわたって盛んな徳があり、王綏もまた名を知られて、当時の士人の家では並ぶ者がなかった。位は中書令、荊州刺史に至った。桓玄が敗れたのち、父の王愉とともに謀反して誅された」

43羅企生は死に臨んで弟一人を借りて老母を養わせた

桓南郡既破殷荊州,收殷將佐十許人,咨議羅企生亦在焉。桓素待企生厚,將有所戮,先遣人語云:「若謝我,當釋罪。」企生荅曰:「爲殷荊州吏,今荊州奔亡,存亡未判,我何顏謝桓公?」既出市,桓又遣人問欲何言?答曰:「昔晉文王殺嵇康,而嵇紹爲晉忠臣。從公乞一弟以養老母。」桓亦如言宥之。桓先曾以一羔裘與企生母胡,胡時在豫章,企生問至,即日焚裘。

桓南郡が殷荊州を破り、殷氏の将や補佐の十人余りを捕らえたが、咨議の羅企生もそのなかにいた。

桓玄はもとより羅企生を厚く遇していたので、殺そうとしながら、まず人を遣って告げた。「もし私に謝るなら、罪を解いてやろう」

羅企生は答えた。「殷荊州の役人となったのに、いま荊州どのが逃げて生死も分からない。私が何の顔で桓公に謝れようか」

市に引き出されると、桓玄はまた人を遣って何か言いたいことがあるかと尋ねた。答えて言った。「昔、晋の文王は嵇康を殺したが、嵇紹は晋の忠臣となった。公に弟一人を借りて、老いた母を養わせてほしい」

桓玄もその言葉のとおりに許した。

桓玄は以前、羔の皮衣を一つ羅企生の母の胡氏に与えたことがあった。胡氏はそのとき豫章にいたが、羅企生の知らせが届くと、その日のうちに皮衣を焼いた。

夾注 4

玄也

桓玄である。

《玄別傳》曰:「玄克荊州,殺殷道護及仲堪參軍羅企生、鮑季禮,皆仲堪所親仗也。」

『玄別伝』に言う。「桓玄が荊州を取り、殷道護と殷仲堪の参軍の羅企生、鮑季礼を殺した。みな殷仲堪が身近に頼っていた者たちである」

《中興書》曰:「企生字宗伯,豫章人。殷仲堪初請爲府功曹,桓玄來攻,轉咨議參軍。仲堪多疑少決,企生深憂之,謂其弟遵生曰:『殷侯仁而無斷,事必無成。成敗天也,吾當死生以之。』及仲堪走,文武並無送者,唯企生從焉。路經家門,遵生紿之曰:『作如此分別,何可不執手?』企生回馬授手,遵生便牽下之,謂曰:『家有老母,將欲何行?』企生揮泣曰:『今日之事,我必死之。汝等奉養,不失子道,一門之内,有忠與孝,亦復何恨!』遵生抱之愈急,仲堪於路待之。企生遙呼曰:『今日死生是同,願少見待!』仲堪見其無脱埋,策馬而去。俄而玄至,人士悉詣玄,企生獨不往而營理仲堪家。或謂曰:『玄性猜急,未能取卿誠節,若遂不詣,禍必至矣!』企生正色曰:『我殷侯吏,見遇以國士,不能共殄醜逆,致此奔敗,何面目就桓求生乎?』玄聞,怒而收之。謂曰:『相遇如此,何以見負?』企生曰:『使君口血未乾,而生此姦計,自傷力劣,不能翦定凶逆,我死恨晩爾!』玄遂斬之。時年三十有七,衆咸悼之。」

『中興書』に言う。「羅企生は字は宗伯、豫章の人である。殷仲堪がはじめ請うて府の功曹とし、桓玄が攻めて来ると咨議参軍に転じた。殷仲堪は疑いが多く決断が少なかったので、羅企生はこれを深く憂え、弟の羅遵生に『殷侯は仁であるが断がない。事は必ず成るまい。成否は天である。私は生死をこれとともにしよう』と言った。殷仲堪が逃げるとき、文武の役人は誰も送らず、ただ羅企生だけが従った。道が自分の家の門を通ると、羅遵生は偽って『こうして別れるのに、どうして手を取らずにいられるか』と言った。羅企生が馬を回して手を差し出すと、羅遵生はすぐに引き下ろして『家には老いた母がいる。どこへ行こうというのか』と言った。羅企生は涙を払って『今日の事は、私は必ず死ぬ。お前たちが母を養って子の道を失わなければ、一門のうちに忠と孝がある。また何の恨みがあろうか』と言った。羅遵生はますます強く抱きしめ、殷仲堪は道で彼を待っていた。羅企生は遠くから『今日は生死をともにしたい。少しお待ちください』と呼んだ。殷仲堪は彼に抜け出せる見込みがないのを見て、馬に鞭を打って去った。やがて桓玄が到ると、士人は皆桓玄のもとへ行ったが、羅企生だけは行かず、殷仲堪の家を世話していた。ある者が『桓玄は性が疑い深く気短で、あなたの誠の節を受け取ることはできまい。このまま行かなければ、必ず禍が及ぶぞ』と言った。羅企生は顔色を正して『私は殷侯の役人で、国士として遇された。ともに醜い逆賊を滅ぼすことができず、こうして逃げ敗れさせてしまった。何の面目があって桓玄のもとに行き、生を求められようか』と言った。桓玄が聞いて怒り、彼を捕らえた。『こんなに遇してやったのに、なぜ私を裏切るのか』と言うと、羅企生は『使君の口の血も乾かぬうちにこんな姦計を立てた。自分の力が足りず、凶逆を断ち切れなかったことが悔しいだけだ。私は死ぬのが遅かったことが恨めしい』と言った。桓玄はついに彼を斬った。そのとき三十七歳で、人々は皆これを悼んだ」

王隱《晉書》曰:「紹字延祖,譙國銍人。父康有奇才雋辯。紹十歳而孤,事母孝謹,累遷散騎常侍。惠帝敗於蕩陰,百官左右皆奔散,唯紹儼然端冕,以身衞帝。兵交御輦,飛箭雨集,遂以見害也。」

王隠の『晋書』に言う。「嵇紹は字は延祖、譙国銍の人である。父の嵇康はすぐれた才と鋭い弁舌があった。嵇紹は十歳で父を失い、母に孝で慎み深く仕え、累進して散騎常侍に至った。恵帝が蕩陰で敗れると、百官も側近も皆逃げ散ったが、ただ嵇紹だけが厳かに冠を正し、身をもって帝を守った。兵が御輿にぶつかり、飛ぶ矢が雨のように集まって、ついに害された」

44私は身に余分な物を置かない人間です

王恭從會稽還,王大看之,見其坐六尺簟,因語恭:「卿東來,故應有此物,可以一領及我?」恭無言。大去後,即舉所坐者送之。既無餘席,便坐薦上。後大聞之,甚驚,曰:「吾本謂卿多,故求耳。」對曰:「丈人不悉恭;恭作人無長物。」

王恭が会稽から帰ってくると、王大が見に来て、彼が六尺の竹の敷物に座っているのを見て、王恭に言った。「卿は東から来たのだから、もとよりこういう物があるだろう。一枚ばかり私にくれないか」

王恭は何も言わなかった。王大が去ったあと、すぐに自分が座っていたものを送った。ほかに敷物がないので、藁の敷物の上に座った。

のちに王大がこれを聞いてたいそう驚き、言った。「私はもともと卿にたくさんあると思って求めたのだ」

答えて言った。「ご老人は私をご存じない。私は人として余分な物を置かないのです」

夾注 2

周祗《隆安記》曰:「恭字孝伯,太原晉陽人。祖父濛,司徒左長史,風流標望。父蘊,鎭軍將軍,亦得世譽。」《恭別傳》曰:「恭淸廉貴峻,志存格正。起家著作郎,歴丹陽尹、中書令。出爲五州都督、前將軍、靑兗二州刺史。」

周祗の『隆安記』に言う。「王恭は字は孝伯、太原晋陽の人である。祖父の王濛は司徒左長史で、風流と名望が高かった。父の王蘊は鎮軍将軍で、やはり世の誉れを得た」。『恭別伝』に言う。「王恭は清らかで廉潔、気高く厳しく、志は正すことにあった。著作郎から身を起こし、丹陽尹、中書令を歴任した。五州の都督、前将軍、青州・兗州二州の刺史として出た」

王忱,小字佛大。《晉安帝紀》曰:「忱字元達,平北將軍坦之第四子也。甚得名於當世,與族子恭少相善,齊聲見稱。仕至荊州刺史。」

王忱で、幼名は仏大である。『晋安帝紀』に言う。「王忱は字は元達、平北将軍の王坦之の第四子である。当時の世でたいそう名を得て、一族の甥の王恭と若いころから親しく、並べて称えられた。官は荊州刺史に至った」

45焦げ飯を集めていた男がひとり生き延びた

呉郡陳遺,家至孝,母好食鐺底焦飯。遺作郡主簿,恒裝一囊,毎煮食,輒貯録焦飯,歸以遺母。後値孫恩賊出呉郡,袁府君即日便征,遺已聚斂得數斗焦飯,未展歸家,遂帶以從軍。戰於滬瀆,敗。軍人潰散,逃走山澤,皆多餓死;遺獨以焦飯得活。時人以爲純孝之報也。

呉郡の陳遺は家にあって至って孝で、母は鍋底の焦げ飯を好んで食べた。陳遺は郡の主簿となってから、いつも袋一つを用意して、飯を炊くたびに焦げ飯を取りためておき、帰って母に差し上げた。

のちに孫恩の賊が呉郡に出てくると、袁府君はその日のうちに討ちに出た。陳遺はすでに焦げ飯を数斗ためていたが、家に帰る間もなく、そのまま背負って従軍した。

滬瀆で戦って敗れた。兵は崩れて散り、山や沢に逃げて皆多くが飢え死にしたが、陳遺だけが焦げ飯で生き延びた。当時の人はこれを純粋な孝の報いだと言った。

夾注 3

未詳

詳しくない。

《晉安帝紀》曰:「孫恩一名靈秀,琅邪人。叔父泰,事五斗米道,以謀反誅。恩逸逃於海上,聚衆十萬人,攻沒郡縣。後爲臨海太守辛昺斬首送之。」

『晋安帝紀』に言う。「孫恩は一名を霊秀、琅邪の人である。叔父の孫泰は五斗米道に仕え、謀反を企てて誅された。孫恩は海の上に逃れ、十万の衆を集めて郡県を攻め落とした。のちに臨海太守の辛昺に首を斬られて送られた」

山松別見

袁山松については別に見える。

46孔僕射が一日中涙を流したので、見る者は真の孝子だと言った

孔僕射爲孝武侍中,豫蒙眷接烈宗山陵。孔時爲太常,形素羸瘦,著重服,竟日涕泗流漣,見者以爲眞孝子。

孔僕射は孝武帝の侍中となって目をかけていただいたが、烈宗の山陵に臨むときであった。孔僕射はそのとき太常であったが、体はもとより痩せており、重い喪服を着て一日中涙と鼻水を流し続けたので、見る者は真の孝子だと言った。

夾注 1

《續晉陽秋》曰:「孔安國字安國,會稽山陰人,車騎愉第六子也。少而孤貧,能善樹節,以儒素見稱。歴侍中、太常、尚書,遷左僕射、特進,卒。」

『続晋陽秋』に言う。「孔安国は字も安国、会稽山陰の人で、車騎将軍の孔愉の第六子である。幼くして父を失い貧しかったが、よく節を立てて、儒者らしい素朴さで称えられた。侍中、太常、尚書を歴任し、左僕射、特進に遷って亡くなった」

47呉氏の二人の兄弟の泣き声が隣人の心を動かした

呉道助、附子兄弟,居在丹陽郡。後遭母童夫人艱,朝夕哭臨。及思至,賓客弔省,號踊哀絶,路人爲之落涙。韓康伯時爲丹陽尹,母殷在郡,毎聞二呉之哭,輒爲悽惻。語康伯曰:「汝若爲選官,當好料理此人。」康伯亦甚相知。韓後果爲吏部尚書。大呉不免哀制,小呉遂大貴達。

呉道助と弟の附子の兄弟が丹陽郡に住んでいた。のちに母の童夫人の喪に遭い、朝夕に哭した。思いがこみ上げるときや客が弔いに来るときには、叫び跳ねて哀しみに息も絶えそうだったので、道を行く人もそのために涙を落とした。

韓康伯はそのとき丹陽尹であったが、母の殷氏が郡にいて、二人の呉氏の哭する声を聞くたびに、すぐに痛ましく思った。康伯に言った。「お前がもし人を選ぶ官につくことがあれば、この人たちをよく世話してやりなさい」

康伯も彼らをたいそう認めていた。韓康伯はのちに果たして吏部尚書となった。兄の呉氏は喪の制に堪えられなかったが、弟の呉氏はついに大いに貴く栄えた。

夾注 2

道助,坦之小字。附子,隱之小字也。《呉氏譜》曰:「坦之字處靖,濮陽人。仕至西中郎將功曹。父堅,取東苑童儈女,名秦姬。」

道助は呉坦之の幼名、附子は呉隠之の幼名である。『呉氏譜』に言う。「呉坦之は字は処靖、濮陽の人である。官は西中郎将功曹に至った。父の呉堅が東苑の童儈の娘を娶った。名は秦姫である」

鄭緝《孝子傳》曰:「隱之字處默,少有孝行,遭母喪,哀毀過禮。時與太常韓康伯鄰居,康伯母揚州刺史殷浩之妹,聰明婦人也。隱之毎哭,康伯母輒輟事流涕,悲不自勝,終其喪如此。謂康伯曰:『汝後若居銓衡,當用此輩人。』後康伯爲吏部尚書,乃進用之。」《晉安帝紀》曰:「隱之既有至性,加以廉潔,奉祿頒九族,冬月無被。桓玄欲革嶺南之弊,以爲廣州刺史。去州二十里有貪泉,世傳飲之者其心無厭。隱之乃至水上,酌而飲之,因賦詩曰:『石門有貪泉,一歃重千金。試使夷齊飲,終當不易心。』爲盧循所攻,還京師。歴尚書、領軍將軍。」《晉中興書》曰:「舊云:往廣州,飲貪泉,失廉潔之性。呉隱之爲刺史,自酌貪泉飲之,題石門爲詩云云。」

鄭緝の『孝子伝』に言う。「呉隠之は字は処黙、若いころから孝行があり、母の喪に遭って哀しみに身を削ることが礼を越えた。そのとき太常の韓康伯と隣り合って住んでいたが、康伯の母は揚州刺史の殷浩の妹で、聡明な婦人であった。呉隠之が哭するたびに、康伯の母はすぐに手を止めて涙を流し、悲しみに堪えられず、その喪が終わるまでこのようであった。康伯に『お前はのちにもし人を量る地位につくことがあれば、こういう人を用いなさい』と言った。のちに康伯が吏部尚書となって、そこで彼を取り立てて用いた」。『晋安帝紀』に言う。「呉隠之は至れる性があったうえに廉潔でもあり、俸禄を九族に分け与えて、冬でも掛布がなかった。桓玄は嶺南の弊風を改めようとして、彼を広州刺史とした。州から二十里離れたところに貪泉があり、世にこの水を飲む者は心に飽くことがなくなると伝えられていた。呉隠之はそこで水辺に行き、汲んで飲み、詩を賦して『石門に貪泉があり、ひと口が千金より重い。試しに伯夷と叔斉に飲ませても、ついに心を変えはしまい』と言った。盧循に攻められて都に帰った。尚書、領軍将軍を歴任した」。『晋中興書』に言う。「昔から、広州に行って貪泉を飲むと廉潔な性を失うと言われていた。呉隠之が刺史となり、自ら貪泉を汲んで飲み、石門に詩を題して云々とある」