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言語世説新語 言語第二

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 108 · 漢字 6,685字 · 朗読 26.7分

世説新語(世に語られた新しい話) 上巻上 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1堯の徳がまだ現れていないので衣を逆さに着たのです

邊文禮見袁奉髙,失次序。奉髙曰:「昔堯聘許由,面無怍色;先生何爲『顛倒衣裳』?」文禮答曰:「明府初臨,堯德未彰,是以賤民顛倒衣裳耳。」

辺文礼が袁奉高にお目にかかったとき、順序を取り違えた。奉高は言った。「昔、堯が許由を招いたときも、許由の顔に恥じる色はなかった。先生はどうして『衣を逆さに着た』のか」

文礼は答えた。「府君がお着きになったばかりで堯の徳がまだ現れていないので、賤しい民が衣を逆さに着たというだけです」

夾注 4

閎也

袁閎である。

《文士傳》曰:「邊讓字文禮,陳留人。才俊辯逸,大將軍何進聞其名,召署令史,以禮見之。讓占對閑雅,聲氣如流,坐客皆慕之。讓出就曹,時孔融、王朗等並前爲掾,共書刺從讓,讓平衡與交接。後爲九江太守,爲魏武帝所殺。」

『文士伝』に言う。「辺譲は字は文礼、陳留の人である。才がすぐれて弁舌がよく、大将軍の何進がその名を聞いて召して令史に任じ、礼をもって会った。辺譲は問答がゆったりと雅やかで、声も気も流れるようだったので、居並ぶ客は皆彼を慕った。辺譲が出て曹に行くと、当時、孔融や王朗らが皆先に属官となっていたが、そろって名刺を書いて辺譲に従った。辺譲は秤のように平らに彼らと交わった。のちに九江太守となったが、魏の武帝に殺された」

皇甫謐曰:「由字武仲,陽城槐里人也。堯舜皆師而學事焉,後隱於沛澤之中,堯乃致天下而讓焉。由爲人據義履方,邪席不坐,邪饍不食,聞堯讓而去。其友巣父聞由爲堯所讓,以爲汚己,乃臨池洗耳。池主怒曰:『何以汚我水?』由於是遁耕於中嶽潁水之陽,箕山之下,終身無經天下色。死葬箕山之巓,在陽城之南十里。堯因就其墓,號曰『箕山公神』,以配食五嶽,世世奉祀,至今不絶也。」

皇甫謐が言う。「許由は字は武仲、陽城槐里の人である。堯も舜も皆彼を師として学び仕えたが、のちに沛沢のなかに隠れたので、堯はそこで天下を持ってきて譲ろうとした。許由は人として義に拠り方正を踏み、曲がった席には座らず、曲がった食事は食べなかったが、堯が譲ろうとしていると聞いて去った。その友の巣父は、許由が堯から譲られることになったと聞いて、自分の身が汚れたと思い、池に行って耳を洗った。池の主は怒って『どうして私の水を汚すのか』と言った。許由はそこで逃れて中嶽の潁水の北、箕山のふもとで畑を耕し、一生天下を治める顔色を見せなかった。死んで箕山の頂に葬られたが、それは陽城の南十里のところである。堯はそこでその墓に行き、『箕山公神』と号して五嶽に配して祭らせ、代々奉って今に至るまで絶えない」

按:袁閎卒於太尉掾,未嘗爲汝南,斯説謬矣。

考えてみると、袁閎は太尉の属官のまま亡くなり、汝南を任されたことはないので、この話は誤りである。

2月のなかに何もなければ、この上なく明るいだろう

徐孺子年九歳,嘗月下戲,人語之曰:「若令月中無物,當極明邪!」徐曰:「不然,譬如人眼中有瞳子,無此必不明。」

徐孺子が九歳のとき、月の下で遊んでいると、ある人が言った。「もし月のなかに何もなければ、この上なく明るいだろうな」

徐孺子は言った。「そうではありません。たとえば人の目に瞳があるのと同じで、これがなければ必ず明るくありません」

夾注 2

穉也

徐穉である。

《五經通議》曰:「月中有兔、蟾蜍者何?月,陰也;蟾蜍,亦陰也;而與兔並明,陰繫於陽也。」

『五経通議』に言う。「月のなかに兎と蟾蜍がいるというのは何か。月は陰であり、蟾蜍も陰である。それが兎とともに明るいのは、陰が陽に繋がっているからである」

3幼いころ賢い者が大きくなって必ず立派とはかぎらない

孔文舉年十歳,隨父到洛。時李元禮有盛名,爲司隸校尉,詣門者皆雋才淸稱,及中表親戚乃通。文舉至門,謂吏曰:「我是李府君親。」既通,前坐。元禮問曰:「君與僕有何親?」對曰:「昔先君仲尼與君先人伯陽,有師資之尊;是僕與君奕世爲通好也。」元禮及賓客莫不奇之。太中大夫陳韙後至,人以其語語之。韙曰:「小時了了,大未必佳!」文舉曰:「想君小時,必當了了!」韙大踧踖。

孔文挙が十歳のとき、父に従って洛陽に着いた。当時、李元礼は名が高く司隷校尉であったが、その門に参じるのは皆すぐれた才と清らかな評判のある者で、内外の親族でなければ取り次がれなかった。

文挙は門に着いて、役人に言った。「私は李府君のご親族です」

取り次がれて前に座ると、元礼は尋ねた。「君と私にどんな親しさがあるのか」

答えて言った。「昔、私の先祖の仲尼とあなたのご先祖の伯陽には、師弟としての尊びがありました。これは私とあなたが代々親しく交わってきた間柄ということです」

元礼も客も皆これを不思議に思わない者はなかった。

太中大夫の陳韙があとから来て、人々がその話を伝えると、陳韙は言った。「幼いころ賢い者が、大きくなって必ず立派とはかぎりませんな」

文挙は言った。「思いますに、あなたは幼いころ必ず賢かったのでしょうね」

陳韙は大いに気まずくなった。

夾注 2

融也

孔融である。

《續漢書》曰:「孔融字文舉,魯國人,孔子二十四世孫也。髙祖父尚,鉅鹿太守。父宙,泰山都尉。」《融別傳》曰:「融四歳,與兄食梨,輒引小者。人問其故?答曰:『小兒,法當取小者。』年十歳,隨父詣京師。河南尹李膺有重名,融欲觀其爲人,遂造之。膺問:『髙明父祖,嘗與僕周旋乎?』融曰:『然。先君孔子與君先人李老君,同德比義,而相師友。則融與君累世通家也。』衆坐莫不歎息,僉曰:『異童子也!』太中大夫陳韙後至,同坐以告。韙曰:『人小時了了者,長大未必能奇。』融應聲曰:『即如所言,君之幼時,豈實慧乎?』膺大笑,顧謂融曰:『長大必爲偉器。』」

『続漢書』に言う。「孔融は字は文挙、魯国の人で、孔子の二十四代の孫である。高祖父の孔尚は鉅鹿太守、父の孔宙は泰山都尉であった」。『融別伝』に言う。「孔融は四歳のとき、兄と梨を食べるのにいつも小さいものを取った。人がその理由を問うと、『小さい子は、決まりとして小さいほうを取るべきです』と答えた。十歳で父に従って都に着いた。河南尹の李膺は重い名があったので、孔融はその人柄を見ようとして訪ねて行った。李膺が『ご立派なあなたの父や祖父は、かつて私と行き来があったのか』と問うと、孔融は『そうです。先祖の孔子とあなたのご先祖の李老君は、徳を同じくし義を並べて、互いに師であり友でありました。ですから私とあなたは幾代も交わってきた家です』と言った。居並ぶ者は皆嘆息し、そろって『変わった子だ』と言った。太中大夫の陳韙があとから来て、同席の者がこれを告げると、陳韙は『人は幼いころ賢い者が、大きくなって必ずすぐれているとはかぎらない』と言った。孔融は声に応じて『ではおっしゃるとおりなら、あなたの幼いころは本当に賢かったのでしょうか』と言った。李膺は大いに笑い、孔融を顧みて『大きくなれば必ず偉い器になるだろう』と言った」

4盗むのにどうして礼を尽くすのですか

孔文舉有二子,大者六歳,小者五歳。晝日父眠,小者床頭盜酒飲之。大兒謂曰:「何以不拜?」荅曰:「偸,那得行禮!」

孔文挙に二人の子があり、兄は六歳、弟は五歳であった。昼に父が寝ているあいだ、弟が寝台の枕もとで酒を盗んで飲んだ。

兄が言った。「どうして拝礼しないのだ」

答えて言った。「盗むのにどうして礼を尽くすのですか」

5ひっくり返った巣の下に無事な卵があるのをご覧になりましたか

孔融被收,中外惶怖。時融兒大者九歳,小者八歳。二兒故琢釘戲,了無遽容。融謂使者曰:「冀罪止於身,二兒可得全不?」兒徐進曰:「大人豈見覆巣之下,復有完卵乎?」尋亦收至。

孔融が捕らえられると、内も外も恐れおののいた。そのとき孔融の子は兄が九歳、弟が八歳であったが、二人はわざと釘打ち遊びをして、少しも慌てた顔をしなかった。

孔融は使者に言った。「罪が私の身で止まり、二人の子は無事でいられればと願います」

子がゆっくり進み出て言った。「あなたさまは、ひっくり返った巣の下に無事な卵があるのをご覧になったことがありますか」

やがて捕らえに来る者が着いた。

夾注 1

《魏氏春秋》曰:「融對孫權使有訕謗之言,坐棄市。二子方八歳、九歳,融見收,奕棋端坐不起。左右曰:『而父見執。』二子曰:『安有巣覆而卵不破者哉!』遂倶見殺。」《世語》曰:「魏太祖以歳儉禁酒,融謂酒以成禮,不宜禁。由是惑衆,太祖收寘法焉。二子齠齔見收,顧謂二子曰:『何以不辟?』二子曰:『父尚如此,復何所辟?』」裴松之以爲《世語》云融兒不辟,知必倶死,猶差可安。孫盛之言,誠所未譬。八歳小兒,能懸了禍患,聰明特達,卓然既遠,則其憂樂之情,固亦有過成人矣。安有見父被執,而無變容,奕棋不起,若在暇豫者乎?昔申生就命,言不忘父,不以己之將死而廢念父之情也。父安尚猶若茲,而況顛沛哉!盛以此爲美談,無乃賊夫人之子與?蓋由好奇情多,而不知言之傷理也。

『魏氏春秋』に言う。「孔融は孫権の使者に向かってそしりの言葉を口にし、市で処刑される罪に当たった。二人の子はちょうど八歳と九歳であったが、孔融が捕らえられても、碁を打って端座し立ち上がらなかった。側の者が『お前の父が捕らえられたぞ』と言うと、二人の子は『どうして巣がひっくり返って卵が割れないことがありましょうか』と言った。ついにともに殺された」。『世語』に言う。「魏の太祖が不作の年だからと酒を禁じると、孔融は酒は礼を成すものだから禁じるべきでないと言った。これによって衆を惑わしたとして、太祖は捕らえて法にかけた。二人の子が乳歯の替わるころに捕らえられると、孔融は顧みて『どうして逃げないのか』と言い、二人の子は『父上さえこうなのに、どこへ逃げましょうか』と言った」。裴松之はこう考えた。『世語』で孔融の子が逃げなかったのは必ずともに死ぬと知っていたからだというのは、まだ幾分落ち着いて読める。孫盛の言葉は、まことに理解できない。八歳の子どもが禍や憂いをはっきり見抜き、聡明さが人並み外れて通じ、抜きん出て遠くまで見ていたのなら、その憂え楽しむ心も、もとより大人に勝るところがあったはずである。どうして父が捕らえられるのを見ても顔色を変えず、碁を打って立ち上がらず、暇をもてあそぶようでいられようか。昔、申生は死に就くときも言葉に父を忘れなかった。自分が死ぬからといって父を思う心を捨てなかったのである。父が安らかなときでさえこうなのに、ましてや倒れ伏すときはどうか。孫盛がこれを美しい話としたのは、人の子を害することではないか。おおかた珍しいものを好む心が多くて、その言葉が理を損なうことに気づかなかったせいである。

6高く明らかな君が、どうして忠臣や孝子を罰しようか

潁川太守髠陳仲弓。客有問元方:「府君何如?」元方曰:「髙明之君也。」「足下家君何如?」曰:「忠臣孝子也。」客曰:「《易》稱『二人同心,其利斷金;同心之言,其臭如蘭。』何有髙明之君而刑忠臣孝子者乎?」元方曰:「足下言何其謬也!故不相荅。」客曰:「足下但因傴爲恭不能答。」元方曰:「昔髙宗放孝子孝己,尹吉甫放孝子伯奇,董仲舒放孝子符起。唯此三君,髙明之君;唯此三子,忠臣孝子。」客慚而退。

潁川太守が陳仲弓に髪を剃る刑を下した。ある客が元方に尋ねた。「府君はどういうお方か」

元方は言った。「高く明らかな君です」

「あなたの父上はどういうお方か」

言った。「忠臣であり孝子です」

客は言った。「『易』に『二人が心を同じくすれば、その鋭さは金を断ち、心を同じくした言葉は、その香りが蘭のようだ』とある。どうして高く明らかな君がいて、忠臣で孝子である人に刑を下すことがあろうか」

元方は言った。「あなたの言葉は何と誤っているのか。だから答えません」

客は言った。「あなたはただ猫背を恭しさに見せかけて答えられないだけだ」

元方は言った。「昔、高宗は孝子の孝己を追い、尹吉甫は孝子の伯奇を追い、董仲舒は孝子の符起を追った。ただこの三人の君が高く明らかな君であり、ただこの三人の子が忠臣で孝子である」

客は恥じて退いた。

夾注 5

按,寔之在鄕里,州郡有疑獄不能決者,皆將詣寔,或到而情首,或中途改辭,或託狂悸,皆曰「寧爲刑戮所苦,不爲陳君所非。」豈有盛德感人若斯之甚,而不自衞,反招刑辟,殆不然乎?此所謂東野之言耳!

考えてみると、陳寔が郷里にいたとき、州や郡に疑わしくて裁けない訴えがあれば皆陳寔のところへ持って行った。あるいは着いてから実情を白状し、あるいは途中で言葉を変え、あるいは狂ったふりをして、みな「刑罰に苦しむほうがまだよい、陳君に間違っていると言われたくない」と言った。これほど盛んな徳が人を動かしておきながら、自分の身を守れず、かえって刑罰を招くことがあろうか。おそらくそうではない。これがいわゆる田舎者の言葉というものである。

王廙注《繫辭》曰:「金,至堅矣,同心者,其利無不入。蘭,芳物也,無不樂者。言其同心者,物無不樂也。」

王廙が『繫辞』に注して言う。「金はきわめて堅い。心を同じくする者は、その鋭さが入らないところがない。蘭は香しいものであり、楽しまない者はない。心を同じくする者には、物として楽しまないものがないことを言うのである」

《帝王世紀》曰:「殷髙宗武丁有賢子孝己,其母蚤死,髙宗惑後妻之言,放之而死,天下哀之。」

『帝王世紀』に言う。「殷の高宗の武丁に賢い子の孝己があったが、その母が早く死に、高宗が後妻の言葉に惑わされてこれを追ったので死んだ。天下はこれを哀しんだ」

《琴操》曰:「尹吉甫,周卿也,有子伯奇,母死更娶。後妻生子曰伯邽。乃譖伯奇於吉甫,於是放伯奇於野。宣王出遊,吉甫從,伯奇乃作歌,以言感之。宣王聞之曰:『此孝子之辭也。』吉甫乃求伯奇於野,而射殺後妻。」

『琴操』に言う。「尹吉甫は周の卿である。子の伯奇があったが、母が死んで再び娶った。後妻が子を生んで伯邽といった。そこで尹吉甫に伯奇を讒言したので、伯奇を野に追った。宣王が遊びに出るとき尹吉甫が従ったが、伯奇はそこで歌を作り、言葉で彼の心を動かした。宣王はこれを聞いて『これは孝子の言葉だ』と言った。尹吉甫はそこで野で伯奇を探し、後妻を射殺した」

未詳

詳しくない。

7自分の親を愛さずに他人を愛するのは、徳に背くことではないか

荀慈明與汝南袁閬相見,問潁川人士,慈明先及諸兄。閬笑曰:「士但可因親舊而已乎?」慈明曰:「足下相難,依據者何經?」閬曰:「方問國士而及諸兄,是以尤之耳。」慈明曰:「昔者祁奚内舉不失其子,外舉不失其讎,以爲至公。公旦《文王》之詩,不論堯舜之德,而頌文武者,親親之義也。《春秋》之義,内其國而外諸夏。且不愛其親而愛他人者,不爲悖德乎?」

荀慈明が汝南の袁閬と会って潁川の人物を尋ねられると、慈明はまず自分の兄たちのことに及んだ。

袁閬は笑って言った。「士というのは、ただ親しい者や古い知り合いによるだけなのか」

慈明は言った。「あなたが私を責めるのは、どの経典に拠っているのか」

袁閬は言った。「いま国の士を尋ねたのに兄たちのことに及んだので、それを責めたのだ」

慈明は言った。「昔、祁奚は内に挙げて自分の子を漏らさず、外に挙げて自分の仇を漏らさなかったので、至って公平だとされた。周公旦が「文王」の詩で堯や舜の徳を論じず、文王と武王を頌えたのは、親を親とする義である。『春秋』の義もまた、自分の国を内とし中原の諸国を外とする。そのうえ、自分の親を愛さずに他人を愛するのは、徳に背くことではないか」

夾注 2

荀爽,一名諝。《漢南紀》曰:「諝文章典籍無不渉,時人諺曰:『荀氏八龍,慈明無雙。』潛處篤志,徴聘無所就。」張璠《漢紀》曰:「董卓秉政,復徴爽,爽欲遁去,吏持之急。起布衣,九十五日而至三公。」

荀爽で、一名を荀諝という。『漢南紀』に言う。「荀諝は文章も典籍も渉らないものがなかった。当時の人の諺に『荀氏の八龍のうち、慈明に並ぶ者なし』と言った。静かに身を処して志を篤くし、召されても赴くことがなかった」。張璠の『漢紀』に言う。「董卓が政を握って再び荀爽を召すと、荀爽は逃げようとしたが、役人が急いで引き止めた。布衣から身を起こして九十五日で三公に至った」

《春秋傳》曰:「祁奚爲中軍尉,請老,晉侯問嗣焉。稱解狐,其讎也。將立之而卒。又問焉。對曰:『午也可。』其子也。君子謂祁奚可謂能舉善矣。稱其讎不爲諂,立其子不爲比。」

『春秋伝』に言う。「祁奚が中軍尉となり、老いて退くことを願うと、晋侯は後継ぎを尋ねた。解狐を挙げたが、それは彼の仇であった。立てようとしたところで解狐が死んだ。また尋ねると、『午がよいでしょう』と答えたが、それは彼の子であった。君子は、祁奚は善い人を挙げることができたと言える、その仇を挙げたのは諂いではなく、その子を立てたのは身内びいきではない、と言った」

8禰衡が漁陽の摻撾を打ち鳴らす

禰衡被魏武謫爲鼓吏,正月半試鼓。衡揚枹爲漁陽摻撾,淵淵有金石聲,四坐爲之改容。孔融曰:「禰衡罪同胥靡,不能發明王之夢。」魏武慚而赦之。

禰衡は魏の武帝に罰せられて鼓を打つ役人にされたが、正月の半ばに鼓を試した。禰衡が撥を振り上げて漁陽の摻撾を打つと、深々と金石の響きが鳴り、居並ぶ者は皆それで顔色を改めた。

孔融は言った。「禰衡の罪は胥靡と同じですが、明らかな王の夢に現れることはできませんね」

魏の武帝は恥じて彼を赦した。

夾注 2

《典略》曰:「衡字正平,平原般人也。」《文士傳》曰:「衡不知先所出,逸才飄舉。少與孔融作爾汝之交,時衡未滿二十,融已五十。敬衡才秀,共結殷勤,不能相違。以建安初北遊,或勸其詣京師貴遊者,衡懷一刺,遂至漫滅,竟無所詣。融數與武帝牋,稱其才,帝傾心欲見。衡稱疾不肯往,而數有言論。帝甚忿之,以其才名不殺,圖欲辱之,乃令録爲鼓吏。後至八月朝會,大閲試鼓節,作三重閣,列坐賓客。以帛絹製衣,作一岑牟,一單絞及小㡓。鼓吏度者,皆當脱其故衣,著此新衣。次傳衡,衡撃鼓爲漁陽摻檛,蹋地來前,躡𫘈腳足,容態不常,鼓聲甚悲,音節殊妙。坐客莫不慷慨,知必衡也。既度,不肯易衣。吏呵之曰:『鼓吏何獨不易服?』衡便止。當武帝前,先脱㡓,次脱餘衣,裸身而立。徐徐乃著岑牟,次著單絞,後乃著㡓。畢,復撃鼓摻槌而去,顏色無怍。武帝笑謂四坐曰:『本欲辱衡,衡反辱孤。』至今有漁陽摻檛,自衡造也。爲黃祖所殺。」

『典略』に言う。「禰衡は字は正平、平原般の人である」。『文士伝』に言う。「禰衡はどこから出た者か分からないが、すぐれた才がひらりと高く舞った。若くして孔融と呼び捨てで呼び合う仲になったが、そのとき禰衡は二十にもならず、孔融はすでに五十であった。禰衡の才の秀でたことを敬い、ともに篤い交わりを結んで互いに離れられなかった。建安のはじめに北に遊んだとき、ある人が都の貴人を訪ねるよう勧めたので、禰衡は名刺一枚を懐にしたが、ついに文字が擦り切れるまで、とうとうどこも訪ねなかった。孔融はたびたび武帝に書を送ってその才を称えたので、帝は心を傾けて会いたがった。禰衡は病と称して行こうとせず、たびたび批判を口にした。帝はたいそう腹を立てたが、その才と名のゆえに殺さず、辱めようと考えて、鼓を打つ役人として登録させた。のちに八月の朝会に至り、鼓の節を大いに検分し競わせるにあたって、三層の楼を建て、客を列ねて座らせた。絹で衣を作り、岑牟一つ、単衣一枚と小さな袴を作った。鼓の役人として通る者は皆、自分の古い衣を脱いでこの新しい衣を着ることになっていた。順番が禰衡に回ると、禰衡は鼓を打って漁陽の摻撾をやり、地を踏んで前に出、足を運ぶ姿が尋常でなく、鼓の音はたいそう悲しく、節回しはことに妙であった。居並ぶ客は皆胸を打たれ、きっと禰衡だと知った。通り終えても衣を替えようとしないので、役人が叱って『鼓の役人がどうして一人だけ服を替えないのか』と言うと、禰衡はすぐに手を止めた。武帝の前で、まず袴を脱ぎ、次に残りの衣を脱ぎ、裸で立った。ゆっくりと岑牟をかぶり、次に単衣を着て、最後に袴を着けた。終わると再び鼓を打ち撥を回しながら去ったが、顔色に恥じるところがなかった。武帝は笑って居並ぶ者に『もともと禰衡を辱めようとしたのに、禰衡がかえって私を辱めた』と言った。今に漁陽の摻撾があるのは、禰衡から作られたものである。黄祖に殺された」

皇甫謐《帝王世紀》曰:「武丁夢天賜己賢人,使百工寫其象,求諸天下。見築者胥靡,衣褐於傅巖之野,是謂傅説。」張晏曰:「胥靡,刑名。胥,相也;靡,從也。謂相從坐輕刑也。」

皇甫謐の『帝王世紀』に言う。「武丁は天が自分に賢人を賜わる夢を見て、諸々の工人にその姿を描かせ、天下に探させた。土壁を築く胥靡が傅巌の野で粗衣を着ているのを見つけたが、これが傅説である」。張晏が言う。「胥靡は刑の名である。胥は相、靡は従うこと。互いに連れ合って軽い刑に当たることを言う」

9龐士元が二千里を行って司馬徳操を訪ねる

南郡龐士元聞司馬德操在潁川,故二千里候之。至,遇德操采桑,士元從車中謂曰:「吾聞丈夫處世,當帶金佩紫,焉有屈洪流之量,而執絲婦之事。」德操曰:「子且下車,子適知邪徑之速,不慮失道之迷。昔伯成耦耕,不慕諸侯之榮;原憲桑樞,不易有官之宅。何有坐則華屋,行則肥馬,侍女數十,然後爲奇。此乃許父所以忼慨,夷齊所以長嘆。雖有竊秦之爵,千駟之富,不足貴也!」士元曰:「僕生出邊垂,寡見大義。若不一叩洪鐘,伐雷鼓,則不識其音響也。」

南郡の龐士元は、司馬徳操が潁川にいると聞いて、わざわざ二千里を行って彼を訪ねた。

着いてみると徳操が桑の葉を摘んでいるところに出会ったので、士元は車の中から言った。「私が聞くところでは、大丈夫がこの世に生きるなら金の印を帯び紫の紐を結ぶべきだといいます。それをどうして大河のような度量を曲げて、糸を紡ぐ女の仕事を手にしておられるのですか」

徳操は言った。「君はまず車を降りなさい。君は近道の速いことばかり知って、道に迷うことは考えていない。

昔、伯成子高は並んで畑を耕し、諸侯の栄えを慕わなかった。原憲は桑の木を戸の軸にしても、官のある家と取り替えなかった。どうして座れば立派な家、出歩けば肥えた馬、仕える女が数十人、そうでなければ立派だということがあろうか。

これこそ許由と巣父が心を痛めたところであり、伯夷と叔斉が長く嘆いたところだ。たとえ秦を盗んだ爵位や、四千頭の馬の豊かさがあっても、貴ぶには足らない」

士元は言った。「私は辺境に生まれ育って、大いなる義を見ることが少なかった。もし一度大きな鐘を叩き、雷のような鼓を打たなかったら、その響きを知らなかったでしょう」

夾注 7

《蜀志》曰:「龐統字士元,襄陽人。少時樸鈍,未有識者。潁川司馬徽有知人之鑒,士元弱冠往見徽,徽采桑樹上,坐士元樹下,共語,自晝至夜。徽異之曰:『生當爲南州士人之冠冕。』由是漸顯。」《襄陽記》曰:「士元,德公之從子也。年少未有識者,唯德公重之。年十八,使往見德操,與語,歎曰:『德公誠知人,實盛德也。』後劉備訪世事於德操,德操曰:『俗士豈識時務,此閒自有伏龍、鳳雛。』謂諸葛孔明與士元也。」《華陽國志》曰:「劉備引士元爲軍師中郎將,從攻洛,爲流矢所中,卒。時年三十八。」

『蜀志』に言う。「龐統は字は士元、襄陽の人である。若いころは素朴で鈍く、見抜く者がなかった。潁川の司馬徽は人を見る眼があったが、士元は二十歳で司馬徽に会いに行った。司馬徽は桑の木の上で葉を摘み、士元は木の下に座って、ともに語り合い、昼から夜まで続いた。司馬徽は彼を不思議に思って『きっと南州の士人の冠となるだろう』と言った。これによってだんだんと世に現れた」。『襄陽記』に言う。「士元は龐徳公の甥である。年が若くて見抜く者がなく、ただ徳公だけが彼を重んじた。十八歳のとき徳操に会いに行かせると、語り合って嘆き、『徳公はまことに人を知る。実に盛んな徳である』と言った。のちに劉備が徳操に世の事を尋ねると、徳操は『俗な士がどうして時勢を知りましょう。ここにはおのずから伏龍と鳳の雛がおります』と言った。諸葛孔明と士元を指したのである」。『華陽国志』に言う。「劉備は士元を引いて軍師中郎将としたが、洛を攻めるのに従って、流れ矢に当たって亡くなった。そのとき三十八歳であった」

《司馬徽別傳》曰:「徽字德操,潁川陽翟人。有人倫鑒識,居荊州。知劉表性暗,必害善人,乃括囊不談議時人。有以人物問徽者,初不辨其髙下,毎輒言『佳』。其婦諫曰:『人質所疑,君宜辨論,而一皆言佳,豈人所以咨君之意乎?』徽曰:『如君所言,亦復佳。』其婉約遜遁如此。嘗有妄認徽豬者,便推與之。後得其豬,叩頭來還,徽又厚辭謝之。劉表子琮往候徽,遣問在不?會徽自鋤園,琮左右問:『司馬君在邪?』徽曰:『我是也。』琮左右見其醜陋,罵曰:『死傭,將軍諸郎欲求見司馬君,汝何等田奴,而自稱是邪!』徽歸,刈頭著幘出見。琮左右見徽故是向老翁,恐,向琮道之。琮起,叩頭辭謝。徽乃謂曰:『卿眞不可,然吾甚羞之。此自鋤園,唯卿知之耳。』有人臨蠶求簇箔者,徽自棄其蠶而與之。或曰:『凡人損己以贍人者,謂彼急我緩也。今彼此正等,何爲與人?』徽曰:『人未嘗求己,求之不與將慚。何有以財物令人慚者!』人謂劉表曰:『司馬德操,奇士也,但未遇耳。』表後見之,曰:『世閒人爲妄語,此直小書生耳。』其智而能愚皆此類。荊州破,爲曹操所得,操欲大用,會其病死。」

『司馬徽別伝』に言う。「司馬徽は字は徳操、潁川陽翟の人である。人を見分ける眼があり、荊州に住んでいた。劉表の性が暗く、必ず善い人を害すると知って、そこで袋の口を締めるように当時の人の評を口にしなかった。人物を司馬徽に尋ねる者があっても、はじめからその高下を分けず、いつも『よい』とだけ言った。その妻が諫めて『人が本当に迷っていることを、あなたは分けて論ずるべきでしょうに、一様に皆よいとだけ言う。それが人があなたに尋ねる意でしょうか』と言うと、司馬徽は『あなたの言葉もまたよい』と言った。そのやわらかく控え目に退くことはこのようであった。かつて司馬徽の豚だと勝手に言い張る者があったので、すぐに押しやって与えた。のちにその者が自分の豚を見つけ、頭を下げて返しに来ると、司馬徽はまた厚い言葉で礼を言った。劉表の子の劉琮が司馬徽を訪ねようとして、在宅かどうか尋ねにやった。ちょうど司馬徽が自分で畑を鋤いていたので、劉琮の供の者が『司馬君はおられるか』と尋ねると、司馬徽は『私がそれだ』と言った。劉琮の供の者はその身なりの貧しいのを見て、罵って『死にぞんじめ、将軍のご子息が司馬君にお目にかかりたいとおっしゃるのに、お前はどこの田の下男で、自分がそれだなどと言うのか』と言った。司馬徽は帰って髪を整え、頭巾をかぶって出て会った。劉琮の供の者は、司馬徽がまさにさきほどの老人であるのを見て恐れ、劉琮にそのことを話した。劉琮は立ち上がり、頭を下げて詫びた。司馬徽はそこで『あなたは本当に困ったことだ。しかし私はこれをひどく恥ずかしく思う。自分で畑を鋤いていたことは、あなただけが知っていてくれ』と言った。蚕の時期に蚕棚と箔を求めに来る者があると、司馬徽は自分の蚕を捨ててそれを与えた。ある者が『およそ人が自分のものを損じて他人に足してやるのは、相手が急ぎ自分は余裕があるからです。いま双方がちょうど同じなのに、どうして人に与えるのですか』と言うと、司馬徽は『人はこれまで私に求めたことがない。求めたのに与えなければ、相手は恥じるだろう。どうして財物で人を恥じ入らせられようか』と言った。ある人が劉表に『司馬徳操はすぐれた士ですが、ただ世に遇わないだけです』と言ったので、劉表はのちに彼に会って『世間の人は根拠のないことを言うものだ。これはただの小さな書生に過ぎぬ』と言った。その賢くありながら愚かでいられることは、みなこういう類である。荊州が破れると曹操に手に入れられ、曹操は大いに用いようとしたが、ちょうど病で死んだ」

《莊子》曰:「堯治天下,伯成子髙立爲諸侯,禹爲天子,伯成辭諸侯而耕於野。禹往見之,趨就下風而問焉。子髙曰:『昔堯治天下,不賞而民勸,不罰而民畏。今子賞罰而民且不仁,德自此衰,刑自此立。夫子盍行邪?毋落吾事!』」

『荘子』に言う。「堯が天下を治めたとき、伯成子高は立って諸侯となったが、禹が天子になると、伯成子高は諸侯を辞して野で畑を耕した。禹が行って会い、風下に進んで尋ねた。子高は『昔、堯が天下を治めたときは、賞を与えなくても民は励み、罰しなくても民は畏れました。いまあなたが賞し罰しても民は仁でない。徳はここから衰え、刑はここから立ったのです。あなたはどうして行かれないのか。私の仕事を邪魔しないでください』と言った」

《家語》曰:「原憲字子思,宋人,孔子弟子。居魯,環堵之室,茨以生草,蓬戸不完,桑樞而瓮牖,上漏下濕,坐而絃歌。子貢軒車不容巷,往見之,曰:『先生何病也?』憲曰:『憲聞無財謂之貧,學而不能行謂之病。今憲貧也,非病也。夫希世而行,比周而友,學以爲人,教以爲己。仁義之慝,輿馬之飾,憲不忍爲也。』」

『家語』に言う。「原憲は字は子思、宋の人で、孔子の弟子である。魯に住んでいたが、一間四方の部屋に生の草で屋根を葺き、蓬の戸は完全でなく、桑の木を戸の軸とし割れた甕を窓にして、上は漏り下は湿っていたが、座って琴を弾き歌っていた。子貢は高い車が路地に入らないまま訪ねて行き、『先生は何の病ですか』と言った。原憲は『私が聞くところでは、財のないのを貧といい、学んで行えないのを病という。いま私は貧しいのであって、病んでいるのではない。およそ世の受けを狙って行い、仲間を組んで友とし、学を人に見せるためにし、教えを自分のためにする。仁義を隠れ蓑にし、車馬を飾るようなことは、私には堪えられないのだ』と言った」

許由、巣父。

許由と巣父である。

《孟子》曰:「伯夷、叔齊目不視惡色,耳不聽惡聲,與鄕人居,若在塗炭,蓋聖人之淸也。」

『孟子』に言う。「伯夷と叔斉は目で悪い色を見ず、耳で悪い声を聞かず、里の人とともにいると泥や炭のなかにいるようであった。おおよそ聖人の清らかさである」

《古史考》曰:「呂不韋爲秦子楚行千金貨於華陽夫人,請立子楚爲嗣。及子楚立,封不韋洛陽十萬戸,號文信侯。」以詐獲爵,故曰竊也。《論語》曰:「齊景公有馬千駟,民無德而稱焉。」孔安國曰:「千駟,四千匹。」

『古史考』に言う。「呂不韋は秦の子楚のために千金の財を華陽夫人に使い、子楚を後継ぎに立てるよう請うた。子楚が立つと、呂不韋を洛陽十万戸に封じ、文信侯と号した」。偽りで爵位を得たので、盗んだと言うのである。『論語』に言う。「斉の景公には四千頭の馬があったが、民が徳として称えるものはなかった」。孔安国が言う。「千駟とは四千匹である」

10陛下の網の目が粗くないせいでもあります

劉公幹以失敬罹罪,文帝問曰:「卿何以不謹於文憲?」楨荅曰:「臣誠庸短,亦由陛下綱目不疎。」

劉公幹が敬いを失って罪に当たると、文帝は尋ねた。「卿はどうして文に定めた法を慎まなかったのか」

劉楨は答えた。「臣がまことに愚かで足りないせいでもありますが、また陛下の網の目が粗くないせいでもあります」

夾注 2

《典略》曰:「劉楨字公幹,東平寧陽人。建安十六年,世子爲五官中郎將,妙選文學,使楨隨侍太子。酒酣坐歡,乃使夫人甄氏出拜,坐上客多伏,而楨獨平視。他日公聞,乃收楨,減死輸作部。」《文士傳》曰:「楨性辯捷,所問應聲而答。坐平視甄夫人,配輸作部,使磨石。武帝至尚方觀作者,見楨匡坐正色磨石。武帝問曰:『石何如?』楨因得喩己自理,跪而對曰:『石出荊山懸巖之巓,外有五色之章,内含卞氏之珍。磨之不加瑩,雕之不增文,稟氣堅貞,受之自然。顧其理枉屈紆繞而不得申。』帝顧左右大笑,即日赦之。」

『典略』に言う。「劉楨は字は公幹、東平寧陽の人である。建安十六年、世子が五官中郎将となり、文学に秀でた者を選び抜いて、劉楨を太子に随侍させた。酒が進んで座が賑わうと、夫人の甄氏を出して拝礼させたが、座の客は多くが伏せたのに、劉楨だけが正面から見た。別の日、公がこれを聞いて劉楨を捕らえ、死を減じて労役の部に送った」。『文士伝』に言う。「劉楨は性として弁が立って素早く、問われたことに声に応じて答えた。座して甄夫人を正面から見たため労役の部に配され、石を磨かされた。武帝が尚方に来て働く者を見ていると、劉楨が端座し顔色を正して石を磨いているのを見た。武帝が『石はどうだ』と尋ねると、劉楨はそれで自分の身をたとえて申し述べることができ、膝をついて『石は荊山の切り立った崖の頂から出て、外には五色の模様があり、内には卞氏の珍宝を含んでおります。磨いても光が増さず、刻んでも模様が加わりません。受けた気が堅く正しく、おのずからそうなっているのです。ただその理が曲がりくねって伸びられないのが惜しいのです』と答えた。帝は左右を顧みて大いに笑い、その日のうちに彼を赦した」

《魏志》曰:「帝諱丕,字子桓,受漢禪。」按,諸書或云楨被刑魏武之世,建安二十年病亡。後七年,文帝乃即位。而謂楨得罪黃初之時,謬矣。

『魏志』に言う。「帝は諱は丕、字は子桓、漢の禅譲を受けた」。考えてみると、諸書には劉楨が魏の武帝の世に刑を受け、建安二十年に病で亡くなったとある。その七年のちに文帝が位に即いた。それなのに劉楨が黄初のころに罪を得たというのは誤りである。

11震えて恐ろしく、汗が水のように流れました

鍾毓、鍾會少有令譽。年十三,魏文帝聞之,語其父鍾繇曰:「可令二子來。」於是敕見。毓面有汗,帝曰:「卿面何以汗?」毓對曰:「戰戰惶惶,汗出如漿。」復問會:「卿何以不汗?」對曰:「戰戰慄慄,汗不敢出。」

鍾毓と鍾会は幼いころからよい誉れがあった。十三歳のとき、魏の文帝がこれを聞いて、その父の鍾繇に言った。「二人の子を来させなさい」

そこで詔によって会った。鍾毓の顔に汗があったので、帝は言った。「卿の顔にはどうして汗があるのか」

鍾毓は答えた。「震えて恐ろしく、汗が水のように流れました」

重ねて鍾会に尋ねた。「卿はどうして汗がないのか」

答えて言った。「震えて震えて、汗が出ることさえできませんでした」

夾注 2

《魏書》曰:「毓字穉叔,潁川長社人,相國繇長子也。年十四,爲散騎侍郎,機捷談笑有父風,仕至車騎將軍。」

『魏書』に言う。「鍾毓は字は穉叔、潁川長社の人で、相国の鍾繇の長子である。十四歳で散騎侍郎となり、機敏で談笑に父の風格があり、官は車騎将軍に至った」

《魏志》曰:「繇字元常,家貧好學,爲《周易》、《老子》訓。歴大理、相國,遷太傅。」

『魏志』に言う。「鍾繇は字は元常、家は貧しかったが学を好み、『周易』と『老子』の解釈を著した。大理、相国を歴任し、太傅に遷った」

12盗むのはもともと礼でないので、拝礼しませんでした

鍾毓兄弟小時,値父晝寢,因共偸服藥酒。其父時覺,且託寐以觀之。毓拜而後飲,會飲而不拜。既而問毓何以拜?毓曰:「『酒以成禮』,不敢不拜。」又問會何以不拜?會曰:「偸本非禮,所以不拜。」

鍾毓の兄弟が幼いころ、父が昼寝をしているときに、一緒に薬酒を盗んで飲んだ。その父はそのとき目覚めていたが、わざと寝たふりをしてこれを見ていた。

鍾毓は拝礼してから飲み、鍾会は飲んで拝礼しなかった。あとで鍾毓にどうして拝礼したのかと尋ねると、鍾毓は言った。「『酒は礼を成すもの』ですから、拝礼しないわけにはいきませんでした」

また鍾会にどうして拝礼しなかったのかと尋ねると、鍾会は言った。「盗むのはもともと礼ではありませんから、拝礼しなかったのです」

夾注 1

《魏志》曰:「會字士季,繇少子也。敏惠夙成。中護軍蔣濟著論,謂觀其眸子,足以知人。會年五歳,繇遣見濟。濟甚異之,曰:『非常人也!』及壯,有才數,精練名理,累遷黃門侍郎。諸葛誕反,文王征之,會謀居多,時人謂之子房。拜鎭西將軍。伐蜀,蜀平,進位司徒。自謂功名蓋世,不可復爲人下。謂所親曰:『我淮南已來,畫無遺策,四海共知,持此欲安歸乎?』遂謀反,見誅,時年四十。」

『魏志』に言う。「鍾会は字は士季、鍾繇の末子である。敏く賢く、早くから出来上がっていた。中護軍の蔣済が論を著して、その眸を見れば人を知るに足ると言った。鍾会が五歳のとき、鍾繇は蔣済に会わせにやった。蔣済はたいそう不思議に思い、『並の人ではない』と言った。成長すると才と計があり、名理に精通して、累進して黄門侍郎に至った。諸葛誕が反すると文王がこれを討ったが、鍾会の計るところが多かったので、当時の人は彼を子房と呼んだ。鎮西将軍に任じられた。蜀を討ち、蜀が平定されると司徒に位が進んだ。自分で功名が世を覆い、もう人の下にいられないと思った。親しい者に『私は淮南以来、計に漏れがなく、四海がともに知っている。これを持ってどこに帰ろうというのか』と言った。ついに謀反して誅され、そのとき四十歳であった」

13この館の名を渭陽となさいませ

魏明帝爲外祖母築舘於甄氏。既成,自行視,謂左右曰:「舘當以何爲名?」侍中繆襲曰:「陛下聖思齊於哲王;罔極過於曾閔。此舘之興,情鍾舅氏,宜以『渭陽』爲名。」

魏の明帝が母方の祖母のために甄氏の家に館を建てた。出来上がると自ら行って見て、側の者に言った。「この館は何と名づけたらよいか」

侍中の繆襲が言った。「陛下の聖なる思いは明らかな王たちと並び、尽きることのない孝は曾参と閔子騫を越えています。この館をお建てになったのは心が母方の家に集まったからですから、『渭陽』と名づけられるのがよろしいでしょう」

夾注 3

《魏本傳》曰:「帝諱叡,字元仲,文帝太子。以其母廢,未立爲嗣。文帝與倶獵,見子母鹿,文帝射其母,應絃而倒。復令帝射其子,帝置弓泣曰:『陛下已殺其母,臣不忍復殺其子。』文帝曰:『好語動人心。』遂定爲嗣。是爲明帝。」《魏書》曰:「文昭甄皇后,明帝母也。父逸,上蔡令。烈宗即位,追封上蔡君。嫡孫象襲爵,象薨,子暢嗣,起大第,車駕親自臨之。」

『魏本伝』に言う。「帝は諱は叡、字は元仲、文帝の太子である。その母が廃されたので、まだ後継ぎに立てられていなかった。文帝とともに狩りをしたとき、母子の鹿を見て、文帝はその母鹿を射、弦の音とともに倒した。重ねて帝にその子鹿を射させようとすると、帝は弓を置いて泣き、『陛下はすでにその母を殺されました。臣はさらにその子を殺すに堪えません』と言った。文帝は『よい言葉は人の心を動かす』と言い、ついに後継ぎと定めた。これが明帝である」。『魏書』に言う。「文昭甄皇后は明帝の母である。父の甄逸は上蔡令であったが、烈宗が位に即くと上蔡君に追封した。嫡孫の甄象が爵を継ぎ、甄象が亡くなると子の甄暢が嗣いで、大きな邸を建てたので、帝の車駕が自らそこに臨んだ」

《文章敘録》曰:「襲字熙伯,東海蘭陵人。有才學,累遷侍中、光祿勳。」

『文章叙録』に言う。「繆襲は字は熙伯、東海蘭陵の人である。才と学があり、累進して侍中、光禄勲に至った」

《秦詩》曰:「渭陽,康公念母也。康公之母,晉獻公之女。文公遭驪姬之難,未反而秦姬卒。穆公納文公,康公時爲太子,贈送文公於渭之陽,念母之不見也。我見舅氏,如母存焉。」按,《魏書》:「帝於後園爲象母起觀,名其里曰渭陽。」然則象母即帝之舅母,非外祖母也。且「渭陽」爲舘名,亦乖舊史也。

『秦詩』に言う。「渭陽は、康公が母を思ったものである。康公の母は晋の献公の娘である。文公が驪姫の難に遭って帰れないうちに、秦姫が亡くなった。穆公が文公を迎え入れたとき、康公はそのとき太子で、渭水の北で文公を送り、母に会えないことを思った。私が舅氏に会うと、母が生きておられるようだ、と言ったのである」。考えてみると、『魏書』に「帝は後園に甄象の母のために楼を建て、その里を渭陽と名づけた」とある。それならば甄象の母は帝の舅の妻であって、母方の祖母ではない。また「渭陽」を館の名としたのも、古い史書と食い違っている。

14五石散を服むと精神が晴れやかに開ける

何平叔云:「服五石散,非唯治病,亦覺神明開朗。」

何平叔は言った。「五石散を服むと、病を治すだけでなく、精神が晴れやかに開けるのも感じられる」

夾注 1

《魏略》曰:「何晏字平叔,南陽宛人,漢大將軍進孫也。或云何苗孫也。尚主,又好色,故黃初時無所事任。正始中,曹爽用爲中書,主選舉,宿舊者多得濟拔。爲司馬宣王所誅。」秦丞相《寒食散論》曰:「寒食散之方雖出漢代,而用之者寡,靡有傳焉。魏尚書何晏首獲神效,由是大行於世,服者相尋也。」

『魏略』に言う。「何晏は字は平叔、南陽宛の人で、漢の大将軍の何進の孫である。何苗の孫だという者もある。公主に娶り、また色を好んだので、黄初のころは任される職がなかった。正始のころ、曹爽が彼を中書として用い、人の選挙を主らせたので、古くからの者が多く引き上げられた。司馬宣王に誅された」。秦の丞相の『寒食散論』に言う。「寒食散の処方は漢代に出たが、用いる者が少なく、伝わるものがなかった。魏の尚書の何晏が初めて神妙な効き目を得たので、これによって世に大いに広まり、服む者が相次いだ」

15一尺の表でも天文の度数を測れる

嵇中散語趙景眞:「卿瞳子白黑分明,有白起之風;恨量小狹。」趙云:「尺表能審璣衡之度,寸管能測往復之氣;何必在大?但問識如何耳!」

嵇中散が趙景真に言った。「君は瞳の白と黒がはっきりしていて、白起の風格がある。ただ度量が狭いのが惜しい」

趙景真は言った。「一尺の影棒でも璣衡の度数を測ることができ、一寸の管でも行き来する気を測ることができます。どうして必ず大きさにあるでしょうか。ただ見識がどうであるかを問うだけです」

夾注 4

嵇紹《趙至敘》曰:「至字景眞,代郡人。漢末,其祖流宕客緱氏。令新之官,至年十二,與母共道傍看,母曰:『汝先世非微賤家也,汝後能如此不?』至曰:『可爾耳。』歸便求師誦書,蚤聞父耕叱牛聲,釋書而泣。師問之,答曰:『自傷不能致榮華,而使老父不免勤苦。』年十四,入太學觀,時先君在學寫石經古文,事訖去。遂隨車問先君姓名。先君曰:『年少何以問我?』至曰:『觀君風器非常,故問耳。』先君具告之。至年十五,陽病,數數狂走五里三里,爲家追得,又炙身體十數處。年十六,遂亡命,徑至洛陽,求索先君不得。至鄴,沛國史仲和是魏領軍史渙孫也,至便依之,遂名翼,字陽和。先君到鄴,至具道太學中事,便逐先君歸山陽經年。至長七尺三寸,潔白黑髮,赤脣明目,鬢鬚不多,閒詳安諦,體若不勝衣。先君嘗謂之曰:『卿頭小而鋭,瞳子白黑分明,視瞻停諦,有白起風。』至論議淸辯,有從橫才,然亦不以自長也。孟元基辟爲遼東從事,在郡斷九獄,見稱淸當。自痛棄親遠遊,母亡不見,吐血發病,服未竟而亡。」

嵇紹の『趙至叙』に言う。「趙至は字は景真、代郡の人である。漢の末に、その祖父が流れ流れて緱氏に寄り住んだ。県令が新しく赴任するとき、趙至は十二歳で母とともに道端で見ていた。母が『お前の先代は微賤な家ではなかった。お前も後にこうなれるだろうか』と言うと、趙至は『できます』と言った。帰るとすぐ師を求めて書を誦したが、朝に父が畑を耕して牛を叱る声を聞くと、書を置いて泣いた。師が尋ねると、『自分で栄えを成せず、老いた父に苦労を免れさせられないのが悲しいのです』と答えた。十四歳で太学を見に入ったが、そのとき亡き父上は学校で石経の古文を写しておられ、仕事を終えて立ち去られた。そこで車を追って父上の姓名を尋ねると、父上は『年若いのにどうして私に尋ねるのか』と言われた。趙至は『あなたの風格と器量が尋常でないのを見たので、お尋ねするのです』と言った。父上はこと細かに告げられた。趙至は十五歳で病を装い、しばしば狂ったように三里五里と走り出しては家の者に追いつかれ、また体の十数か所に灸を据えられた。十六歳でついに逃げ出し、まっすぐ洛陽に着いて父上を探したが見つからなかった。鄴に着くと、沛国の史仲和は魏の領軍の史渙の孫であったが、趙至はすぐ彼に寄り、そこで名を翼、字を陽和とした。父上が鄴に着かれると、趙至は太学での事をこと細かに話し、すぐ父上に従って山陽に帰り、一年を過ごした。趙至は身の丈七尺三寸、肌が白く髪は黒く、唇は赤く目は明るく、鬢と髭は多くなく、ゆったりとして細やかで落ち着いて静かで、体は衣に負けそうなほどであった。父上はかつて彼に『君は頭が小さく尖り、瞳の白と黒がはっきりし、見つめるさまが止まって確かだ。白起の風格がある』と言われた。趙至は論議が清らかで明晰で、縦横の才があったが、それでも自分を長じているとはしなかった。孟元基が召して遼東従事とすると、郡で九つの訴えを裁いて、清らかで当を得ていると称えられた。親を捨てて遠く遊び、母が死んでも会えなかったことを自ら痛み、血を吐いて病み、喪を終えないうちに亡くなった」

嚴尤《三將敘》曰:「白起,平原君勸趙孝成王受馮亭,王曰:『受之,秦兵必至,武安君必將,誰能當之者乎?』對曰:『澠池之會,臣察武安君小頭而面鋭,瞳子白黑分明,視瞻不轉。小頭而面鋭者,敢斷決也;瞳子白黑分明者,見事明也;視瞻不轉者,執志強也。可與持久,難與爭鋒。廉頗爲人,勇鷙而愛士,知難而忍恥,與之野戰則不如,持守足以當之。』王從其計。」

厳尤の『三将叙』に言う。「白起について。平原君が趙の孝成王に馮亭を受け入れるよう勧めると、王は『受け入れれば秦の兵が必ず来る。武安君が必ず将となるだろうが、誰が彼に当たれようか』と言った。答えて『澠池の会で、臣は武安君を見るに、頭が小さく顔が尖り、瞳の白と黒がはっきりし、見つめるさまが動きませんでした。頭が小さく顔が尖った者は思い切って断を下し、瞳の白と黒がはっきりした者は事を見ることが明るく、見つめるさまが動かない者は志を保つことが強い。ともに長く持ちこたえることはできても、ともに矛先を争うのは難しいのです。廉頗の人柄は勇猛で士を愛し、難を知って恥を忍びます。彼と野で戦えば及びませんが、守るなら彼に当たるに足ります』と言った。王はその計に従った」

《周髀》曰:「夏至,北方二萬六千里,冬至,南方十三萬五千里,日中樹表則無影矣。周髀長八尺,夏至日,晷尺六寸。髀,股也;晷,句也。正南千里,句尺五寸;正北千里,句尺七寸。周髀之書也。」

『周髀』に言う。「夏至には北方へ二万六千里、冬至には南方へ十三万五千里で、真昼に表を立てれば影がなくなる。周髀の長さは八尺で、夏至の日の影は一尺六寸である。髀は股、晷は句である。真南へ千里では句が一尺五寸、真北へ千里では句が一尺七寸である。『周髀』の書である」

《呂氏春秋》曰:「黃帝使伶倫自大夏之西、崑崙之陰,取竹之嶰谷生,其竅厚薄均者,斷兩節,閒而吹之,以爲黃鐘之管。製十二笛,以聽鳳凰之鳴。雄鳴六,雌鳴六,以爲律呂。」《續漢書·律暦志》曰:「十二律之變,至於六十,以律候氣。候氣之法:爲室三重,戸閉,塗釁必周,密布緹幔,以木爲案,加律其上,以葭莩灰抑其内,爲氣所動者,其灰散也。以此候之。」

『呂氏春秋』に言う。「黄帝は伶倫に命じて大夏の西、崑崙の北で、嶰谷に生えた竹を取らせたが、その穴の厚さが均しいものを二節切って、そのあいだを吹いて黄鐘の管とした。十二の笛を作り、鳳凰の鳴き声を聴いた。雄が六度鳴き、雌が六度鳴いたので、これを律と呂とした」。『続漢書・律暦志』に言う。「十二律の変化は六十に至り、律によって気を候う。気を候う法は、部屋を三重にして戸を閉じ、塗りと目張りを必ず行きわたらせ、緹の幔を密に張り、木で案を作ってその上に律を置き、葭の内皮の灰をその中に押しておく。気に動かされたものは、その灰が散る。これによって候うのである」

16法が恐ろしくて来ただけです

司馬景王東征,取上黨李喜,以爲從事中郎。因問喜曰:「昔先公辟君不就,今孤召君,何以來?」喜對曰:「先公以禮見待,故得以禮進退;明公以法見繩,喜畏法而至耳!」

司馬景王が東を討ち、上党の李喜を連れてきて従事中郎とした。そこで李喜に尋ねた。「昔、亡き父が君を召したときには赴かなかったのに、いま私が君を召すと、どうして来たのか」

李喜は答えた。「亡きお父上は礼をもって遇されましたので、礼をもって進退することができました。明公は法をもって縛られますので、私は法が恐ろしくて来ただけです」

夾注 2

《魏書》曰:「司馬師字子元,相國宣文侯長子也。以道德淸粹,重於朝廷,爲大將軍、録尚書事。毋丘儉反,師自征之,薨諡景王。」

『魏書』に言う。「司馬師は字は子元、相国の宣文侯の長子である。道徳が清らかで純粋であったため朝廷で重んじられ、大将軍、録尚書事となった。毋丘倹が反すると、司馬師は自ら討ち、亡くなって景王と諡された」

《晉諸公贊》曰:「喜字季和,上黨銅鞮人也。少有髙行,研精藝學。宣帝爲相國,辟喜,喜固辭疾。景帝輔政,爲從事中郎,累遷光祿大夫,特進。贈太保。」

『晋諸公賛』に言う。「李喜は字は季和、上党銅鞮の人である。若いころから高い行いがあり、技芸と学問を深く究めた。宣帝が相国となって李喜を召したが、李喜は固く病と辞した。景帝が政を輔けたとき従事中郎となり、累進して光禄大夫、特進に至った。太保を贈られた」

17鳳よ鳳よ — もとより鳳は一つです

鄧艾口吃,語稱「艾艾……」。晉文王戲之曰:「卿云『艾艾……』,爲是幾艾?」對曰:「『鳳兮,鳳兮』,故是一『鳳』。」

鄧艾は言葉を吃って、話すときに「艾が、艾が」と言った。晋の文王はからかって言った。「卿が『艾が、艾が』と言うが、艾は幾人いるのか」

答えて言った。「『鳳よ、鳳よ』と言いますが、もとより鳳は一つです」

夾注 2

《魏志》曰:「艾字士載,棘陽人,少爲農人養犢。年十二,隨母至潁川,讀故太丘長碑文曰『言爲世範,行爲士則』。遂名範,字士則。後宗族有同者,故改焉。毎見髙山大澤,輒規度指畫軍營處所,時人多笑焉。後見司馬宣王,三辟爲掾,累遷征西將軍。伐蜀,蜀平,進位太尉。爲衞瓘所害。」

『魏志』に言う。「鄧艾は字は士載、棘陽の人で、若いころ農夫として子牛を飼っていた。十二歳で母に従って潁川に着き、昔の太丘の長の碑文に『言は世の模範となり、行いは士の規範となる』とあるのを読んだ。そこで名を範、字を士則とした。のちに一族に同じ名の者があったので改めた。高い山や大きな沢を見るたびに、すぐに軍営の場所を測って指し示したので、当時の人は多く笑った。のちに司馬宣王に会うと、三度召して属官とし、累進して征西将軍に至った。蜀を討ち、蜀が平定されると太尉に位が進んだ。衛瓘に害された」

朱鳳《晉紀》曰:「文王諱昭,字子上,宣帝次子也。」《列仙傳》曰:「陸通者,楚狂接輿也。好養性,遊諸名山。嘗遇孔子而歌曰:『鳳兮鳳兮,何德之衰!往者不可諫,來者猶可追。』後入蜀,在峨嵋山中也。」

朱鳳の『晋紀』に言う。「文王は諱は昭、字は子上、宣帝の次子である」。『列仙伝』に言う。「陸通は楚の狂人の接輿である。性を養うことを好み、名高い山々に遊んだ。かつて孔子に出会って歌い、『鳳よ鳳よ、何と徳の衰えたことか。去った者は諫められないが、来る者はまだ追える』と言った。のちに蜀に入り、峨嵋山のなかにいた」

18巣父と許由は狭く自ら守った士で、さほど慕うに足りません

嵇中散既被誅,向子期舉郡計入洛,文王引進,問曰:「聞君有箕山之志,何以在此?」對曰:「巣許狷介之士,不足多慕。」王大咨嗟。

嵇中散が誅されたのち、向子期が郡の会計の文書を持って洛陽に入ると、文王は引き入れて尋ねた。「君には箕山の志があると聞いたが、どうしてここにいるのか」

答えて言った。「巣父と許由は狭く自ら守った士で、さほど慕うに足りません」

王は大いに感嘆した。

夾注 1

《向秀別傳》曰:「秀字子期,河内人。少爲同郡山濤所知,又與譙國嵇康、東平呂安友善,並有拔俗之韻,其進止無不同,而造事營生業亦不異。常與嵇康偶鍛於洛邑,與呂安灌園於山陽,不慮家之有無,外物不足怫其心。弱冠著儒道論,棄而不録,好事者或存之。或云是其族人所作,困於不行,乃告秀,欲假其名。秀笑曰:『可復爾耳。』後康被誅,秀遂失圖。乃應歳舉,到京師,詣大將軍司馬文王,文王問曰:『聞君有箕山之志,何能自屈?』秀曰:『常謂彼人不達堯意,本非所慕也。』一坐皆説,隨次轉至黃門侍郎、散騎常侍。」

『向秀別伝』に言う。「向秀は字は子期、河内の人である。若くして同郡の山濤に認められ、また譙国の嵇康、東平の呂安と親しく交わり、みな俗を抜け出た風韻があって、その進退も違わず、仕事をし生業を営むことも異ならなかった。いつも嵇康と洛邑で向かい合って鉄を打ち、呂安と山陽で畑に水をやり、家にあるかないかを気にせず、外の物が彼の心を乱すには足りなかった。二十歳で儒と道を論じた文を著したが、捨てて書き残さなかったのを、好事家が留めておいた。あるいは、それは一族の者が作ったもので、世に行われないのに困り、向秀に告げてその名を借りようとしたのだという。向秀は笑って『またそうしなさい』と言ったという。のちに嵇康が誅されると、向秀はついに拠りどころを失った。そこで年ごとの推挙に応じて都に着き、大将軍の司馬文王を訪ねた。文王が『君には箕山の志があると聞いたが、どうして自ら屈することができたのか』と尋ねると、向秀は『いつも、あの人たちは堯の意を分かっていなかったと思っていました。もともと慕うところではありません』と言った。居並ぶ者は皆喜び、順を追って黄門侍郎、散騎常侍に移った」

19天は一を得て清らかになる

晉武帝始登阼,探策得「一」。王者世數,繫此多少。帝既不説,群臣失色,莫能有言者。侍中裴楷進曰:「臣聞:『天得一以淸,地得一以寧,侯王得一以爲天下貞。』」帝説。群臣嘆服。

晋の武帝が位に即いたばかりのころ、籤を引くと「一」が出た。王者として続く代の数がこの多少にかかっているとされていた。帝は喜ばず、群臣は顔色を失って、誰も物を言える者がなかった。

侍中の裴楷が進み出て言った。「臣が聞くところでは『天は一を得て清らかになり、地は一を得て安らかになり、侯や王は一を得て天下の貞となる』と申します」

帝は喜び、群臣は感嘆して服した。

夾注 2

《晉世譜》曰:「世祖諱炎,字安宇,咸熙二年受魏禪。」

『晋世譜』に言う。「世祖は諱は炎、字は安宇、咸熙二年に魏の禅譲を受けた」

王弼《老子注》云:「一者,數之始,物之極也。各是一物,所以爲主也。各以其一,致此淸、寧、貞。」

王弼の『老子』の注に言う。「一は数の始め、物の極みである。それぞれが一つの物であり、だから主となる。それぞれがその一をもって、この清、寧、貞に至るのである」

20臣は呉の牛のようなもので、月を見て喘ぐのです

滿奮畏風,在晉武帝坐;北窗作琉璃屛,實密似疎,奮有難色。帝笑之。奮荅曰:「臣猶呉牛,見月而喘。」

満奮は風を恐れていた。晋の武帝の座にいると、北の窓に瑠璃の屏があって、実は目が詰まっているのに透いて見えたので、満奮は困った顔をした。帝は笑った。

満奮は答えた。「臣は呉の牛のようなもので、月を見て喘ぐのです」

夾注 2

荀綽《冀州記》曰:「奮字武秋,髙平人,魏太尉寵之孫也。性淸平有識,自吏部郎出爲冀州刺史。」《晉諸公贊》曰:「奮體量淸雅,有曾祖寵之風,遷尚書令,爲荀顗所害。」

荀綽の『冀州記』に言う。「満奮は字は武秋、高平の人で、魏の太尉の満寵の孫である。性は清らかで平らかで識見があり、吏部郎から冀州刺史として出た」。『晋諸公賛』に言う。「満奮は体も度量も清らかで雅やかで、曾祖父の満寵の風格があった。尚書令に遷ったが、荀顗に害された」

今之水牛,唯生江淮間,故謂之呉牛也。南土多暑,而此牛畏熱,見月疑是日,所以見月則喘。

今の水牛は江水と淮水のあいだにしか生まれないので、呉の牛という。南の地は暑さが多いが、この牛は暑さを恐れ、月を見ると日かと疑うので、それで月を見ると喘ぐのである。

21家では孝を思い、君に仕えては忠を思います

諸葛靚在呉,於朝堂大會。孫皓問:「卿字仲思,爲何所思?」對曰:「在家思孝,事君思忠,朋友思信,如斯而已。」

諸葛靚が呉にいたとき、朝堂で大きな集まりがあった。孫皓が尋ねた。「卿の字は仲思だが、何を思うのか」

答えて言った。「家では孝を思い、君に仕えては忠を思い、友には信を思います。このようであるだけです」

夾注 1

《晉諸公贊》曰:「靚字仲思,琅邪人,司空誕少子也。雅正有才望。誕以壽陽叛,遣靚入質於呉,以靚爲右將軍、大司馬。」

『晋諸公賛』に言う。「諸葛靚は字は仲思、琅邪の人で、司空の諸葛誕の末子である。雅やかで正しく、才と名望があった。諸葛誕が寿陽で叛き、諸葛靚を呉に人質として送ったので、呉は諸葛靚を右将軍、大司馬とした」

22夜を照らす珠が、必ず孟津の河から出るとはかぎりません

蔡洪赴洛,洛中人問曰:「幕府初開,群公辟命,求英奇於仄陋,采賢㒞於巖穴。君呉楚之士,亡國之餘,有何異才而應斯舉?」蔡荅曰:「夜光之珠,不必出於孟津之河;盈握之璧,不必采於崑崙之山。大禹生於東夷,文王生於西羌,聖賢所出,何必常處?昔武王伐紂,遷頑民於洛邑,得無諸君是其苗裔乎?」

蔡洪が洛陽に赴くと、洛陽の人々が尋ねた。「幕府が開かれたばかりで、諸公が召し命じ、低く狭いところからすぐれた者を求め、岩穴から賢く秀でた者を採っています。あなたは呉や楚の士で、亡んだ国の残りだが、どんな変わった才があってこの召しに応じたのか」

蔡洪は答えた。「夜を照らす珠が、必ず孟津の河から出るとはかぎらず、ひと握りの璧が、必ず崑崙の山で採れるとはかぎりません。大禹は東夷に生まれ、文王は西羌に生まれました。聖人や賢人の出るところが、どうして必ず決まった場所でしょうか。

昔、武王が紂を討って頑な民を洛邑に移しましたが、皆さんがその末裔ではありませんか」

夾注 5

《洪集録》曰:「洪字叔開,呉郡人,有才辯,初仕呉朝。太康中,本州從事,舉秀才。」王隱《晉書》曰:「洪仕至松滋令。」

『洪集録』に言う。「蔡洪は字は叔開、呉郡の人である。才と弁があり、はじめ呉の朝廷に仕えた。太康のころ、本州の従事となり、秀才に推挙された」。王隠の『晋書』に言う。「蔡洪は官が松滋令に至った」

舊説云:「隋侯出行,有蛇斬而中斷者,侯連而續之,蛇遂得生而去。後銜明月珠以報其德,光明照夜同晝,因曰『隋珠』。」左思《蜀都賦》所謂「隋侯鄙其夜光也」。

古い言い伝えに言う。「隋侯が道を行くと、蛇が斬られて真ん中が切れたものがあったので、侯がつないで続けてやると、蛇はついに生きて去った。のちに明月の珠をくわえて来てその徳に報いたが、その明るさは夜を昼のように照らしたので、『隋の珠』と言った」。左思の「蜀都賦」にいわゆる「隋侯はその夜光を取るに足らぬものとした」とあるのがこれである。

按,《孟子》曰:「舜生於諸馮,東夷人也;文王生於岐周,西戎人也。」則東夷是舜非禹也。

考えてみると、『孟子』に「舜は諸馮に生まれたので東夷の人であり、文王は岐周に生まれたので西戎の人である」とある。それならば東夷は舜であって禹ではない。

《尚書》曰:「成周既成,遷殷頑民,作多士。」孔安國注曰:「殷大夫心不則德義之經,故徙於王都,邇教誨也。」

『尚書』に言う。「成周が出来上がると、殷の頑な民を移して「多士」を作った」。孔安国が注して言う。「殷の大夫は心に徳義の常を手本としなかったので、王都に移して近くで教え諭したのである」

按,華令思舉秀才入洛,與王武子相酬對,皆與此言不異,無容二人同有此辭。疑《世説》穿鑿也。

考えてみると、華令思が秀才に推挙されて洛陽に入り、王武子と交わした問答が、すべてこの言葉と変わらない。二人が同じくこういう言葉を言ったはずはない。『世説』が無理にこじつけたのではないかと思う。

23洛水に遊んで帰り、その日が楽しかったかと尋ねられる

諸名士共至洛水戲。還,樂令問王夷甫曰:「今日戲,樂乎?」王曰:「裴僕射善談名理,混混有雅致;張茂先論《史》《漢》,靡靡可聽;我與王安豐説延陵、子房,亦超超玄箸。」

名高い士たちが連れ立って洛水に遊びに行った。帰ってくると、楽令が王夷甫に尋ねた。「今日の遊びは楽しかったか」

王夷甫は言った。「裴僕射は名理を語るのが巧みで、滔々として雅やかな味があった。張茂先は『史記』と『漢書』を論じて、なめらかで聞くに足った。私と王安豊は延陵季子と張子房を語ったが、これもまた遥かに高く奥深かった」

夾注 7

《竹林七賢論》曰:「王濟諸人嘗至洛水解禊事。明日,或問濟曰:『昨遊,有何語議?』濟云云。」

『竹林七賢論』に言う。「王済ら数人がかつて洛水に行って禊の事を行った。翌日、ある者が王済に『昨日の遊びには、どんな話や議論があったか』と尋ねると、王済は云々と言った」

廣也

楽広である。

虞預《晉書》曰:「王衍字夷甫,琅邪臨沂人,司徒戎從弟。父乂,平北將軍。夷甫蚤知名,以淸虚通理稱,仕至太尉,爲石勒所害。」

虞預の『晋書』に言う。「王衍は字は夷甫、琅邪臨沂の人で、司徒の王戎の従弟である。父の王乂は平北将軍である。夷甫は早くから名を知られ、清らかで虚しく理に通じていると称えられ、官は太尉に至ったが、石勒に害された」

《晉惠帝起居注》曰:「裴頠字逸民,河東聞喜人,司空秀之少子也。」《冀州記》曰:「頠弘濟有淸識,稽古善言名理。履行髙整,自少知名。歴侍中、尚書左僕射,爲趙王倫所害。」

『晋恵帝起居注』に言う。「裴頠は字は逸民、河東聞喜の人で、司空の裴秀の末子である」。『冀州記』に言う。「裴頠は広く人を救い清らかな識見があり、古を考えて名理を語るのが巧みであった。身の処し方が高く整っていて、若いころから名を知られた。侍中、尚書左僕射を歴任したが、趙王の司馬倫に害された」

晉陽秋曰:「華博覽洽聞,無不貫綜。世祖嘗問漢事,及建章千門萬戸。華畫地成圖,應對如流,張安世不能過也。」

『晋陽秋』に言う。「張華は広く見渡し隅々まで聞き、貫き通さないものがなかった。世祖がかつて漢の事や建章宮の千門万戸を尋ねると、張華は地に描いて図を成し、応答が流れるようで、張安世も超えられなかった」

戎也

王戎である。

《晉諸公贊》曰:「夷甫好尚談稱,爲時人物所宗。」

『晋諸公賛』に言う。「夷甫は談論と評を好み、当時の人物の宗と仰がれた」

24互いに自分の土地の山河と人物を誇り合う

王武子、孫子荊、各言其土地人物之美。王云:「其地坦而平,其水淡而淸,其人廉且貞。」孫云:「其山㠑巍以嵯峨,其水㳌渫而揚波,其人磊砢而英多。」

王武子と孫子荊が、それぞれ自分の土地と人物の美しさを語った。

王武子は言った。「その地は平らかで均しく、その水は澄んで清らかで、その人は廉潔で正しい」

孫子荊は言った。「その山はそびえ立って険しく、その水はあふれて波を立て、その人はたくましくすぐれた者が多い」

夾注 3

《晉諸公贊》曰:「王濟字武子,太原晉陽人,司徒渾第二子也。有俊才,能淸言。起家中書郎,終太僕。」

『晋諸公賛』に言う。「王済は字は武子、太原晋陽の人で、司徒の王渾の第二子である。すぐれた才があり、清談が巧みであった。中書郎から身を起こし、太僕で終わった」

《文士傳》曰:「孫楚字子荊,太原中都人也。」《晉陽秋》曰:「楚,驃騎將軍資之孫,南陽太守弘之子。鄕人王濟,豪俊公子,爲本州大中正,訪問弘爲鄕里品狀,濟曰:『此人非鄕評所能名,吾自狀之曰:「天才英特,亮拔不群。」』仕至馮翊太守。」

『文士伝』に言う。「孫楚は字は子荊、太原中都の人である」。『晋陽秋』に言う。「孫楚は驃騎将軍の孫資の孫、南陽太守の孫弘の子である。里の人の王済は豪放なすぐれた公子で、本州の大中正であったが、孫弘の郷里での品定めを問われると、王済は『この人は郷里の評では名づけられるものではない。私が自分で評して「天与の才がすぐれて特異で、明らかに抜きん出て群を離れている」と言おう』と言った。官は馮翊太守に至った」

按,《三秦記》、《語林》載蜀人伊籍稱呉土地人物,與此語同。

考えてみると、『三秦記』と『語林』に、蜀の人の伊籍が呉の土地と人物を称えた話が載っているが、この言葉と同じである。

25どうして五人の息子を一人の娘と取り替えましょうか

樂令女適大將軍成都王頴。王兄長沙王執權於洛,遂構兵相圖。長沙王親近小人,遠外君子,凡在朝者,人懷危懼。樂令既允朝望,加有婚親,群小讒於長沙。長沙嘗問樂令,樂令神色自若,徐荅曰:「豈以五男易一女?」由是釋然,無復疑慮。

楽令の娘が大将軍の成都王の司馬頴に嫁いだ。司馬頴の兄の長沙王が洛陽で権を握り、ついに兵を起こして互いに図り合った。

長沙王は小人を近づけ君子を遠ざけたので、およそ朝廷にいる者は皆、心に危うさを抱いた。楽令は朝廷の望みにかなっているうえに婚姻の親しさまであったので、多くの小人が長沙王に讒言した。

長沙王がかつて楽令に問うと、楽令は顔色も変えず、ゆっくりと答えた。「どうして五人の息子を一人の娘と取り替えましょうか」

これによって疑いが解け、二度と疑ったり心配したりすることはなかった。

夾注 3

虞預《晉書》曰:「樂廣字彦輔,南陽人。淸夷沖曠,加有理識。累遷侍中、河南尹。在朝廷用心虚淡,時人重其貞貴,代王戎爲尚書令。」《八王故事》曰:「司馬頴字叔度,世祖第十九子,封成都王、大將軍。」

虞預の『晋書』に言う。「楽広は字は彦輔、南陽の人である。清らかで穏やかで、おおらかで広く、そのうえ理と識見があった。累進して侍中、河南尹に至った。朝廷では心の用い方を虚しく淡々とさせたので、当時の人はその正しく気高いことを重んじ、王戎に代わって尚書令となった」。『八王故事』に言う。「司馬頴は字は叔度、世祖の第十九子で、成都王、大将軍に封ぜられた」

《晉百官名》曰:「司馬乂字士度,封長沙王。」《八王故事》曰:「世祖第十七子。」

『晋百官名』に言う。「司馬乂は字は士度、長沙王に封ぜられた」。『八王故事』に言う。「世祖の第十七子である」

《晉陽秋》曰:「成都王之起兵,長沙王猜廣,廣曰:『寧以一女而易五男?』乂猶疑之,遂以憂卒。」

『晋陽秋』に言う。「成都王が兵を起こすと、長沙王は楽広を疑った。楽広は『一人の娘のために五人の息子を取り替えましょうか』と言った。司馬乂はなお彼を疑ったので、ついに憂いのうちに亡くなった」

26千里の蓴菜の羹がありますが、まだ塩と豆の醢を入れていないだけです

陸機詣王武子,武子前置數斛羊酪,指以示陸曰:「卿江東何以敵此?」陸云:「有千里蓴羹,但未下鹽豉耳!」

陸機が王武子を訪ねると、武子は前に羊の乳の凝りを数斛置いて、指し示して陸機に見せ、言った。「卿の江東では何をもってこれに敵うか」

陸機は言った。「千里の蓴菜の羹がありますが、ただまだ塩と豆の醢を入れていないだけです」

夾注 1

《晉陽秋》曰:「機字士衡,呉郡人。祖遜,呉丞相。父抗,大司馬。機與弟雲並有俊才。司空張華見而説之,曰:『平呉之利,在獲二俊。』」《機別傳》曰:「博學善屬文,非禮不動。入晉,仕著作郎,至平原内史。」

『晋陽秋』に言う。「陸機は字は士衡、呉郡の人である。祖父の陸遜は呉の丞相、父の陸抗は大司馬である。陸機と弟の陸雲はともにすぐれた才があった。司空の張華は見て喜び、『呉を平定した利は、二人の俊才を得たことにある』と言った」。『機別伝』に言う。「広く学んで文を作るのが巧みで、礼でなければ動かなかった。晋に入って著作郎に仕え、平原内史に至った」

27君子のところに来て病ませるから、それで瘧なのです

中朝有小兒,父病,行乞藥。主人問病,曰:「患瘧也。」主人曰:「尊侯明德君子,何以病瘧?」荅曰:「來病君子,所以爲瘧耳。」

中原にある子どもが、父が病んだので、歩き回って薬を乞うた。主人が病を尋ねると言った。「瘧を患っています」

主人は言った。「君のお父上は明らかな徳のある君子なのに、どうして瘧を病まれるのか」

答えて言った。「君子のところに来て病ませるから、それで瘧なのです」

夾注 1

俗傳行瘧鬼小,多不病巨人。故光武嘗謂景丹曰:「嘗聞壯士不病瘧,大將軍反病瘧耶?」

世間では、瘧を流行らせる鬼は小さくて、多くは大きな人を病ませられないと伝えられていた。だから光武帝はかつて景丹に「壮士は瘧を病まないと聞いていたが、大将軍がかえって瘧を病むのか」と言ったのである。

28私が崔杼から離れているのは、府君が陳恆から離れているのと同じです

崔正熊詣都郡。都郡將姓陳,問正熊:「君去崔杼幾世?」荅曰:「民去崔杼,如明府之去陳恆。」

崔正熊が都郡に赴いた。都郡の将は姓が陳氏であったが、正熊に尋ねた。「君は崔杼から何代離れているのか」

答えて言った。「私が崔杼から離れているのは、府君が陳恆から離れているのと同じです」

夾注 1

《晉百官名》曰:「崔豹字正熊,燕國人,惠帝時官至太傅丞。」

『晋百官名』に言う。「崔豹は字は正熊、燕国の人で、恵帝のとき官は太傅丞に至った」

29人の国の土地に寄り住んで、いつも恥じている

元帝始過江,謂顧驃騎曰:「寄人國土,心常懷慚。」榮跪對曰:「臣聞王者以天下爲家,是以耿亳無定處,九鼎遷洛邑。願陛下勿以遷都爲念。」

元帝が江を渡ってきたばかりのころ、顧驃騎に言った。「人の国の土地に寄り住んでいるので、心にいつも恥じる思いを抱いている」

顧栄は膝をついて答えた。「臣が聞くところでは、王者は天下を家とすると申します。それゆえ耿や亳には定まった場所がなく、九鼎は洛邑に移されました。願わくは陛下、都を移されたことをお心にかけられませぬよう」

夾注 3

朱鳳《晉書》曰:「帝諱叡,字景文。祖伷,封琅邪王,父恭王瑾嗣。帝襲爵爲琅邪王。少而明惠,因亂過江起義,遂即皇帝位。諡法曰:『始建國都曰元。』」

朱鳳の『晋書』に言う。「帝は諱は叡、字は景文である。祖父の司馬伷は琅邪王に封ぜられ、父の恭王の司馬瑾が嗣いだ。帝は爵を継いで琅邪王となった。幼くして明るく賢く、乱に乗じて江を渡り義を起こし、ついに皇帝の位に即いた。諡法に『初めて国の都を建てた者を元という』とある」

《帝王世紀》曰:「殷祖乙徙耿,爲河所毀,今河東皮氏耿鄕是也。盤庚五遷,復南居亳,今景亳是也。」

『帝王世紀』に言う。「殷の祖乙は耿に移ったが、河に壊された。今の河東の皮氏の耿郷がそこである。盤庚は五度移り、また南の亳に住んだ。今の景亳がそこである」

《春秋傳》曰:「武王克商,遷九鼎於洛邑。」今之偃師是也。

『春秋伝』に言う。「武王が商を破り、九鼎を洛邑に移した」。今の偃師がそこである。

30清らかで虚しいものが日ごとに来て、濁りが日ごとに去るからだ

庾公造周伯仁,伯仁曰:「君何所欣説而忽肥?」庾曰:「君復何所憂慘而忽瘦?」伯仁曰:「吾無所憂,直是淸虚日來,滓穢日去耳。」

庾公が周伯仁を訪ねると、伯仁は言った。「君は何が嬉しくて急に太ったのか」

庾公は言った。「君はまた何が憂わしくて急に痩せたのか」

伯仁は言った。「私は憂うところがない。ただ清らかで虚しいものが日ごとに来て、濁りが日ごとに去るだけだ」

夾注 1

虞預《晉書》曰:「周顗字伯仁,汝南安城人,揚州刺史浚長子也。」《晉陽秋》曰:「顗有風流才氣,少知名,正體嶷然,儕輩不敢媟也。汝南賁泰淵通淸操之士,嘗歎曰:『汝潁固多賢士,自頃陵遲,雅道殆衰,今復見周伯仁。伯仁將祛舊風,淸我邦族矣。』舉寒素,累遷尚書僕射,爲王敦所害。」

虞預の『晋書』に言う。「周顗は字は伯仁、汝南安城の人で、揚州刺史の周浚の長子である」。『晋陽秋』に言う。「周顗は風流と才気があり、若くして名を知られたが、身の構えが正しく厳かで、同輩も馴れ馴れしくできなかった。汝南の賁泰は広く通じ清らかな操を持つ士であったが、かつて嘆いて『汝水と潁水の地はもとより賢い士が多かったが、近ごろは衰え崩れて、雅やかな道がほとんど絶えようとしていた。それがいま再び周伯仁を見る。伯仁はこれから古い風を払って、我が郷里を清めるだろう』と言った。寒素に推挙され、累進して尚書僕射に至ったが、王敦に害された」

31風景は変わらないが、山河が違うだけだ

過江諸人,毎至美日,輒相邀新亭,藉卉飲宴。周侯中坐而嘆曰:「風景不殊,正自有山河之異。」皆相視流涕,唯王丞相愀然變色曰:「當共戮力王室,克復神州,何至作楚囚相對邪?」

江を渡ってきた人々は、よい日になるたびに互いに新亭に誘い合い、草を敷いて飲み宴を開いた。

周侯は座の中で嘆いた。「風景は変わらないのに、ただ山と川が違うだけだ」

皆が互いに顔を見合わせて涙を流したが、ただ王丞相だけが顔色を沈ませて言った。「ともに王室に力を尽くして神州を取り戻すべきところを、どうして楚の囚人のように向かい合っているのか」

夾注 4

《丹陽記》曰:「新亭,呉舊立,先基崩淪。隆安中,丹陽尹司馬恢之徙創今地。」

『丹陽記』に言う。「新亭は呉の時に立てたものだが、もとの基が崩れ落ちた。隆安のころ、丹陽尹の司馬恢之が今の地に移して新しく建てた」

顗。

周顗である。

導也

王導である。

《春秋傳》曰:「楚伐鄭,諸侯救之。鄭執鄖公鍾儀獻晉,景公觀軍府,見而問之曰:『南冠而縶者爲誰?』有司對曰:『楚囚也。』使稅之。問其族,對曰:『伶人也。』『能爲樂乎?』曰:『先父之職,敢有二事。』與之琴,操南音。范文子曰:『楚囚,君子也。樂操土風,不忘舊也。君盍歸之?以合晉楚之成。』」

『春秋伝』に言う。「楚が鄭を討つと、諸侯がこれを救った。鄭は鄖公の鍾儀を捕らえて晋に献じた。景公が軍府を見て回っていて彼を見かけ、『南の冠をかぶって縛られているのは誰か』と尋ねた。役人が『楚の囚人です』と答えた。縄を解かせた。その一族を尋ねると、『楽人です』と答えた。『音楽ができるか』と問うと、『亡き父の職ですから、ほかの事をいたしましょうか』と言った。琴を与えると、南の調べを弾いた。范文子は『楚の囚人は君子です。音楽に故郷の調べを弾くのは、昔を忘れていないのです。君はなぜ彼を帰されないのですか。それで晋と楚の和を結ばれては』と言った」

32この果てしなさを見ると、百々の思いが入り混じる

衞洗馬初欲渡江,形神慘顇,語左右云:「見此芒芒,不覺百端交集。苟未免有情,亦復誰能遣此!」

衛洗馬が初めて江を渡ろうとしたとき、体も心も痛ましく衰えていたが、側の者に言った。「この果てしなさを見ると、思わず百々の思いが入り混じってくる。まことにまだ情を離れられないのだから、また誰がこれを払いのけられようか」

夾注 1

《晉諸公贊》曰:「衞玠字叔寶,河東安邑人。祖父瓘,太尉。父恆,黃門侍郎。」《玠別傳》曰:「玠穎識通達,天韻標令,陳郡謝幼輿敬以亞父之禮。論者以爲出王眉子、平子、武子之右。世咸謂『諸王三子,不如衞家一兒』。娶樂廣女。裴叔道曰:『妻父有冰淸之姿,婿有璧潤之望,所謂秦晉之匹也。』爲太子洗馬。永嘉四年,南至江夏,與兄別於梁里澗,語曰:『在三之義,人之所重,今日忠臣致身之道,可不勉乎?』行至豫章,乃卒。」

『晋諸公賛』に言う。「衛玠は字は叔宝、河東安邑の人である。祖父の衛瓘は太尉、父の衛恆は黄門侍郎である」。『玠別伝』に言う。「衛玠は秀でた識見が通じて通達し、生まれつきの風韻が抜きん出て美しく、陳郡の謝幼輿は父に次ぐ礼で敬った。論ずる者は、王眉子・王平子・王武子の上に出ると言った。世はみな『諸々の王氏の三人の子は、衛家の一人の子に及ばない』と言った。楽広の娘を娶ったが、裴叔道は『妻の父には氷のように清らかな姿があり、婿には玉のように潤う評判がある。いわゆる秦と晋の釣り合いだ』と言った。太子洗馬となった。永嘉四年、南に下って江夏に至り、兄と梁里の澗で別れ、『三つに仕える義は人の重んじるところです。今日、忠臣が身を捧げる道に、励まずにおられましょうか』と言った。豫章に至って、そこで亡くなった」

33この人は珪璋のように独り通じ、機敏で鋒がある

顧司空未知名,詣王丞相。丞相小極,對之疲睡。顧思所以叩會之,因謂同坐曰:「昔毎聞元公、道公協贊中宗,保全江表;體小不安,令人喘息。」丞相因覺,謂顧曰:「此子珪璋特達,機警有鋒。」

顧司空がまだ名を知られていなかったころ、王丞相を訪ねた。丞相は少し疲れていて、彼と向かい合ったまま眠ってしまった。

顧司空は彼を促して気づかせる手だてを考え、そこで同席の者に言った。「昔、元公と道公が中宗を助けて江南を保たれたとお聞きするたびに思うのですが、お体が少し優れないと、人を息苦しくさせますね」

丞相はそこで目を覚まし、顧司空に言った。「この人は珪璋のように独り通じ、機敏で鋒がある」

夾注 3

《顧和別傳》曰:「和字君孝,呉郡人。祖容,呉荊州刺史。父相,晉臨海太守。和總角知名,族人顧榮雅相器愛,曰『此吾家之騏驥也,必振衰族。』累遷尚書令。」

『顧和別伝』に言う。「顧和は字は君孝、呉郡の人である。祖父の顧容は呉の荊州刺史、父の顧相は晋の臨海太守である。顧和は幼いころから名を知られ、一族の顧栄がたいそう器として愛し、『これは我が家の騏驥である。必ず衰えた一族を振り立てるだろう』と言った。累進して尚書令に至った」

顧榮

顧栄である。

鄧粲《晉紀》曰:「導與元帝有布衣之好,知中國將亂,勸帝渡江,求爲安東司馬,政皆決之,號『仲父』。晉中興之功,導實居其首。」

鄧粲の『晋紀』に言う。「王導は元帝と布衣のころからの親しみがあったが、中国が乱れようとしていると知って、帝に江を渡るよう勧め、自ら安東司馬となることを求めて政をすべて決したので、『仲父』と呼ばれた。晋が中興した功は、王導が実にその首位を占める」

34東南の美であるだけでなく、まことに海内の秀である

會稽賀生,體識淸遠,言行以禮。不徒東南之美,實爲海内之秀。

会稽の賀生は、体も識見も清らかで遠く、言行を礼にかなわせた。東南の美であるだけでなく、まことに海内の秀である。

夾注 2

賀循別見

賀循については別に見える。

《爾雅》曰:「東南之美者,有會稽之竹箭焉。」

『爾雅』に言う。「東南の美しいものには、会稽の竹の矢がある」

35私は河北で功を立てよう、君は江南で名を広めてくれ

劉琨雖隔閡寇戎,志存本朝,謂温嶠曰:「班彪識劉氏之復興,馬援知漢光之可輔。今晉阼雖衰,天命未改。吾欲立功於河北,使卿延譽於江南。子其行乎?」温曰:「嶠雖不敏,才非昔人,明公以桓文之姿,建匡立之功,豈敢辭命!」

劉琨は胡の軍勢に隔てられていたが、志は本朝にあり、温嶠に言った。「班彪は劉氏が再び興ることを見抜き、馬援は漢の光武帝が輔けるに足ると知った。いま晋の王朝は衰えているが、天命はまだ改まっていない。私は河北で功を立て、君には江南で名を広めてもらいたい。君は行ってくれるか」

温嶠は言った。「私は敏くはなく、才も昔の人には及びませんが、明公が桓公や文公の姿で、傾いた国を正し立てる功を立てられるのに、どうして命を辞せましょうか」

夾注 3

王隱《晉書》曰:「琨字越石,中山魏昌人。祖邁,有經國之才。父璠,光祿大夫。琨少稱俊朗,累遷司徒長史、尚書右丞。迎大駕於長安,以有殊勳,封廣武侯。年三十五,出爲并州刺史,爲段日磾所害。」

王隠の『晋書』に言う。「劉琨は字は越石、中山魏昌の人である。祖父の劉邁は国を治める才があり、父の劉璠は光禄大夫であった。劉琨は若くしてすぐれて明るいと称えられ、累進して司徒長史、尚書右丞に至った。長安で帝の車駕を迎え、格別の勲功があるとして広武侯に封ぜられた。三十五歳で并州刺史として出たが、段日磾に害された」

《漢書·敘傳》曰:「彪字叔皮,扶風人,客於天水。隴西隗囂有窺覦之志,彪作《王命論》以諷之。」《東觀漢記》曰:「馬援字文淵,茂陵人。從公孫述、隗囂遊,後見光武曰:『天下反覆,盜名字者不可勝數,今見陛下寥廓大度,同符髙祖,乃知帝王自有眞也。』帝甚壯之。」

『漢書・叙伝』に言う。「班彪は字は叔皮、扶風の人で、天水に寄り住んだ。隴西の隗囂に位を窺う志があったので、班彪は「王命論」を作ってそれを諷した」。『東観漢記』に言う。「馬援は字は文淵、茂陵の人である。公孫述や隗囂のもとを渡り歩いたが、のちに光武帝に会って『天下がひっくり返り、名を盗む者は数えきれません。いま陛下の広く大きな度量が高祖と符を合わせるようであるのを見て、帝王にはおのずから真のものがあると知りました』と言った。帝はたいそう彼を頼もしく思った」

虞預《晉書》曰:「嶠字太眞,太原祁人。少標俊淸徹,英穎顯名,爲司空劉琨左司馬。是時二都傾覆,天下大亂,琨聞元皇受命中興,慷慨幽朔,志存本朝。使嶠奉使,嶠喟然對曰:『嶠雖乏管張之才,而明公有桓文之志,敢辭不敏,以違髙旨?』以左長史奉使勸進,累遷驃騎大將軍。」

虞預の『晋書』に言う。「温嶠は字は太真、太原祁の人である。若くして抜きん出てすぐれ清らかに澄み、英明で秀でて名が現れ、司空の劉琨の左司馬となった。このとき二つの都が倒れ、天下が大いに乱れたが、劉琨は元皇帝が命を受けて中興したと聞き、北の地で胸を熱くして、志は本朝にあった。温嶠を使者として遣わすと、温嶠は深く嘆いて『私は管仲や張良の才には乏しいですが、明公に桓公や文公の志がおありなのに、敏くないと辞して高いお心に背きましょうか』と答えた。左長史として使者に立ち即位を勧め、累進して驃騎大将軍に至った」

36江左にはおのずから管夷吾がいる。もう何を憂えよう

温嶠初爲劉琨使來過江。於時江左營建始爾,綱紀未舉。温新至,深有諸慮。既詣王丞相,陳主上幽越,社稷焚滅,山陵夷毀之酷,有黍離之痛。温忠慨深烈,言與泗倶,丞相亦與之對泣。敘情既畢,便深自陳結,丞相亦厚相酬納。既出,懽然言曰:「江左自有管夷吾,此復何憂?」

温嶠は初め劉琨の使者として江を渡ってきた。そのころ江左は建て始めたばかりで、綱も紀もまだ立っていなかったので、着いたばかりの温嶠はいろいろと深く憂えた。

王丞相を訪ねて、主上が幽閉され、社稷が焼け滅び、山陵が崩され壊された酷さを申し述べ、黍離の痛みがあった。温嶠の忠と憤りは深く激しく、言葉と涙がともに出たので、丞相も彼と向かい合って泣いた。

思いを述べ終えると、すぐに深く自らを申し述べて結びを求めたので、丞相も厚く応じて受け入れた。

退出すると、喜んで言った。「江左にはおのずから管夷吾がいる。もう何を憂えよう」

夾注 1

《史記》曰:「管仲夷吾者,潁上人。相齊桓公,九合諸侯,一匡天下。」《語林》曰:「初温奉使勸進,晉王大集賓客見之。温公始入,姿形甚陋,合坐盡驚。既坐,陳説九服分崩,皇室弛絶,晉王君臣莫不歔欷。及言天下不可以無主,聞者莫不踴躍,植髮穿冠。王丞相深相付託。温公既見丞相,便遊樂不住,曰『既見管仲,天下事無復憂。』」

『史記』に言う。「管仲夷吾は潁水のほとりの人である。斉の桓公を輔け、九度諸侯を集め、一度天下を正した」。『語林』に言う。「はじめ温嶠が使者として即位を勧めたとき、晋王は賓客を大いに集めて彼に会った。温公が初めて入ってくると、姿がたいそう貧相で、居並ぶ者は皆驚いた。座ってから、九服が分かれ崩れ、皇室が緩み絶えようとしていることを述べると、晋王も臣も泣かない者がなかった。天下に主がなくてはならないという言葉に及ぶと、聞く者は皆躍り上がり、髪が立って冠を突き抜けた。王丞相は深く彼に信頼を寄せた。温公は丞相に会ってから、嬉しくてたまらず、『すでに管仲に会ったのだから、天下の事にもう憂いはない』と言った」

37謹んで尊体のご起居はいかがかとお尋ねします

王敦兄含爲光祿勳。敦既逆謀,屯據南州,含委職奔姑孰。王丞相詣闕謝。司徒、丞相、揚州官僚問訊,倉卒不知何辭。顧司空時爲揚州別駕,援翰曰:「王光祿遠避流言,明公蒙塵路次,群下不寧,不審尊體起居何如?」

王敦の兄の王含が光禄勲であった。王敦が逆らう企てを起こして南州に陣を構えると、王含は職を捨てて姑孰に逃げた。王丞相は宮門に参じて謝罪した。

司徒、丞相府、揚州の官僚たちが見舞いを述べようとしたが、急なことで何と言えばよいか分からなかった。

顧司空はそのとき揚州別駕であったが、筆を取って書いた。「王光禄どのは遠く流言を避けられ、明公は道の途中で塵をかぶっておられます。下の者たちは落ち着きません。謹んで尊体のご起居はいかがかとお尋ねします」

夾注 3

《含別傳》曰:「含字處弘,琅邪臨沂人。累遷徐州刺史、光祿勳,與弟敦作逆,伏誅。」

『含別伝』に言う。「王含は字は処弘、琅邪臨沂の人である。累進して徐州刺史、光禄勲に至ったが、弟の王敦とともに逆らう事をして誅された」

鄧粲《晉紀》曰:「初,王導協贊中興,敦有方面之功。敦以劉隗爲閒己,舉兵討之。故含南奔武昌,朝廷始警備也。」

鄧粲の『晋紀』に言う。「はじめ王導が中興を助け、王敦には一方面の功があった。王敦は劉隗が自分を遮っていると考え、兵を挙げてこれを討った。そこで王含は南の武昌に逃げ、朝廷は初めて警戒し備えた」

《中興書》曰:「導從兄敦,舉兵討劉隗,導率子弟二十餘人,旦旦到公車,泥首謝罪。」

『中興書』に言う。「王導の従兄の王敦が兵を挙げて劉隗を討ったので、王導は子弟二十余人を率い、毎朝公車のところに来て、頭を泥につけて罪を謝した」

38朱博の鳴き声が、心にまことに恥ずかしい

郗太尉拜司空,語同坐曰:「平生意不在多,値世故紛紜,遂至臺鼎。朱博翰音,實愧於懷。」

郗太尉が司空に任じられて、同席の者に言った。「一生、志は多くを求めるところにはなかったが、世の乱れた時に遭って、ついに三公に至った。朱博の鳴き声が、まことに心に恥ずかしい」

夾注 1

《漢書》曰:「朱博字子元,杜陵人。爲丞相,臨拜,延登受策,有大聲如鐘鳴。上問揚雄,李尋對曰:『洪範所謂鼓妖者也。人君不聰,空名得進,則有無形之聲。』博後坐事自殺。」《故序傳》曰:「博之翰音,鼓妖先作。」《易·中孚》曰:「上九,翰音登於天,貞凶。」王弼注曰:「翰,髙飛也。飛者,音飛而實不從也。」

『漢書』に言う。「朱博は字は子元、杜陵の人である。丞相となって任命を受けるとき、引かれて登り策を受けると、鐘が鳴るような大きな音がした。上が揚雄に尋ねると、李尋が『洪範にいわゆる鼓妖です。人君が聡明でなく、空しい名が引き上げられると、形のない音が起こります』と答えた。朱博はのちに事に当たって自殺した」。『故序伝』に言う。「朱博の鳴き声には、鼓妖が先に起こった」。『易・中孚』に言う。「上九、鳴き声が天に登る。正しくとも凶」。王弼が注して言う。「翰は高く飛ぶことである。飛ぶものは、音が飛んでも実が従わない」

39応対の煩わしさを省くためだ

髙坐道人不作漢語,或問此意,簡文曰:「以簡應對之煩。」

高坐の道人は中国の言葉を使わなかった。ある者がその意を尋ねると、簡文帝は言った。「応対の煩わしさを省くためだ」

夾注 1

《髙坐別傳》曰:「和尚胡名尸黎密,西域人。傳云國王子,以國讓弟,遂爲沙門。永嘉中,始到此土,止於大市中。和尚天姿髙朗,風韻遒邁。丞相王公一見奇之,以爲吾之徒也。周僕射領選,撫其背而歎曰:『若選得此賢,令人無恨。』俄而周侯遇害,和尚對其靈坐,作胡祝數千言,音聲髙暢,既而揮涕收涙,其哀樂廢興皆此類。性髙簡,不學晉語。諸公與之言,皆因傳譯。然神領意得,頓在言前。」《塔寺記》曰:「尸黎密冢曰髙坐,在石子岡。常行頭陀,卒於梅岡,即葬焉。晉元帝於冢邊立寺,因名髙坐。」

『高坐別伝』に言う。「和尚の胡の名は尸黎密、西域の人である。伝えでは国王の子で、国を弟に譲ってついに沙門になったという。永嘉のころ、初めてこの地に着き、大市のなかに留まった。和尚は生まれつきの姿が高く明るく、風韻が強く抜きん出ていた。丞相の王公は一目見て不思議に思い、我が仲間だとした。周僕射が選挙を預かっていたとき、その背をなでて嘆き、『もしこの賢者を選べたら、人に悔いがないだろう』と言った。やがて周侯が害されると、和尚はその霊座に向かって胡の言葉で数千語の祝りを唱えたが、声は高く伸びやかで、やがて涙を払って拭った。その哀しみと楽しみの起こり消えるさまは、みなこういう類であった。性は高く簡素で、晋の言葉を学ばなかった。諸公が彼と話すときは皆通訳によった。しかし精神で察し意で得て、たちまち言葉より先にあった」。『塔寺記』に言う。「尸黎密の墓を高坐といい、石子岡にある。いつも頭陀行をしていたが、梅岡で亡くなり、そこに葬った。晋の元帝が墓の傍らに寺を立て、それによって高坐と名づけた」

40どうして近くの明公を置いて、遠く嵇康や阮籍を望みましょうか

周僕射雍容好儀形,詣王公,初下車,隱數人,王公含笑看之。既坐,傲然嘯詠。王公曰:「卿欲希嵇阮邪?」荅曰:「何敢近舍明公,遠希嵇阮!」

周僕射はゆったりと落ち着いて姿が立派であった。王公を訪ねて車を降りたばかりのところで、数人を覆い隠すほどだったので、王公は笑いを含んで彼を見ていた。座ってから傲然と口笛を吹き詩を吟じたので、王公は言った。「卿は嵇康や阮籍にならおうというのか」

答えて言った。「どうして近くの明公を置いて、遠く嵇康や阮籍を望みましょうか」

夾注 1

鄧粲《晉紀》曰:「伯仁儀容弘偉,善於俛仰應答,精神足以蔭映數人。深自持,能致人,而未嘗往焉。」

鄧粲の『晋紀』に言う。「伯仁は姿が大きく立派で、うつむき仰ぎして応答するのが巧みで、その精神は数人を覆い隠すに足った。深く自らを保ち、人を来させることができたが、自分から出向いたことはなかった」

41この方は渡しと橋を架けることに疲れておられる

庾公嘗入佛圖,見臥佛,曰:「此子疲於津梁。」於時以爲名言。

庾公がかつて寺に入って臥した仏を見て言った。「この方は渡しと橋を架けることに疲れておられる」

当時の人はこれを名言とした。

夾注 1

《涅槃經》云:「如來背痛,於雙樹閒北首而臥,故後之圖繪者爲此象。」

『涅槃経』に言う。「如来は背が痛んで、沙羅双樹のあいだに北へ頭を向けて臥された。それゆえ後の絵を描く者はこの姿を作ったのである」

42甘羅にくらべれば、もう年を取りすぎています

摯瞻曾作四郡太守、大將軍戸曹參軍,復出作内史,年始二十九。嘗別王敦,敦謂瞻曰:「卿年未三十,已爲萬石,亦太蚤!」瞻曰:「方於將軍,少爲太蚤;比之甘羅,已爲太老。」

摯瞻はかつて四つの郡の太守と大将軍の戸曹参軍を務め、さらに出て内史となったが、年はわずか二十九であった。

かつて王敦と別れるとき、王敦は摯瞻に言った。「卿は三十にもならずしてすでに万石となった。これも早すぎる」

摯瞻は言った。「将軍にくらべれば少し早すぎますが、甘羅にくらべれば、もう年を取りすぎています」

夾注 2

《摯氏世本》曰:「瞻字景游,京兆長安人,太常虞兄子也。父育,涼州刺史。瞻少善屬文,起家著作郎。中朝亂,依王敦爲戸曹參軍。歴安豐、新蔡、西陽太守。見敦以故壞裘賜老病外部都督。瞻諫曰『尊裘雖故,不宜與小吏。』敦曰:『何爲不可?』瞻時因醉,曰:『若上服皆可用賜,貂蟬亦可賜下乎?』敦曰:『非喩,所引如此,不堪二千石。』瞻曰:『瞻視去西陽,如脱屣耳!』敦反,乃左遷隨郡内史。」

『摯氏世本』に言う。「摯瞻は字は景游、京兆長安の人で、太常の摯虞の甥である。父の摯育は涼州刺史であった。摯瞻は若くして文を作るのが巧みで、著作郎から身を起こした。中原が乱れると王敦に寄って戸曹参軍となり、安豊・新蔡・西陽の太守を歴任した。王敦が古びて破れた皮衣を老いて病んだ外部都督に与えるのを見て、摯瞻は『お召し物は古びていても、小役人に与えるべきではありません』と諫めた。王敦が『どうしていけないのか』と言うと、摯瞻はそのとき酔っていて『もし上の衣服がすべて下賜できるのなら、貂と蟬の飾りも下の者に賜われますか』と言った。王敦は『たとえになっていない。引くところがこれでは、二千石には堪えられぬ』と言った。摯瞻は『私が西陽を去るのは、靴を脱ぐようなものです』と言った。王敦は反して、そこで随郡内史に左遷した」

《摯氏世本》曰:「瞻髙亮有氣節,故以此答敦。後知敦有異志。建興四年,與第五琦據荊州以距敦,竟爲所害。」《史記》曰:「甘羅,秦相茂之孫也。年十二,而秦相呂不韋欲使張唐相燕,唐不肯行,甘羅説而行之。又請車五乘以使趙,還報秦,秦封甘羅爲上卿,賜以甘茂田宅。」

『摯氏世本』に言う。「摯瞻は高く明るく気節があったので、これによって王敦に答えたのである。のちに王敦に異志があることを知った。建興四年、第五琦とともに荊州を拠って王敦を拒んだが、ついに彼に害された」。『史記』に言う。「甘羅は秦の相の甘茂の孫である。十二歳のとき、秦の相の呂不韋が張唐を燕の相として遣わそうとしたが、張唐が行こうとしなかったので、甘羅が説いて行かせた。また車五乗を願って趙に使いし、帰って秦に報告したので、秦は甘羅を上卿に封じ、甘茂の田宅を与えた」

43孔雀が先生のお宅の鳥だとは聞いたことがありません

梁國楊氏子,九歳,甚聰惠。孔君平詣其父,父不在,乃呼兒出,爲設果。果有楊梅,孔指以示兒曰:「此是君家果。」兒應聲荅曰:「未聞孔雀是夫子家禽。」

梁国の楊氏の子は九歳で、たいそう聡明であった。孔君平がその父を訪ねたが、父が不在だったので、子を呼び出すと、子は果物を並べて出した。

果物のなかに楊梅があったので、孔君平は指し示して子に見せ、言った。「これは君の家の果物だね」

子は声に応じて答えた。「孔雀が先生のお宅の鳥だとは聞いたことがありません」

夾注 1

王隱《晉書》曰:「孔坦字君平,會稽山陰人。善《春秋》,有文辯。厯太子舍人,累遷廷尉卿。」

王隠の『晋書』に言う。「孔坦は字は君平、会稽山陰の人である。『春秋』に通じ、文と弁があった。太子舎人を歴任し、累進して廷尉卿に至った」

44晏平仲の倹しさでも、狐の皮衣を数十年着た

孔廷尉以裘與從弟沈,沈辭不受。廷尉曰:「晏平仲之儉,祠其先人,豚肩不掩豆,猶狐裘數十年,卿復何辭此?」於是受而服之。

孔廷尉が皮衣を従弟の孔沈に与えると、孔沈は辞して受けなかった。

廷尉は言った。「晏平仲は倹しくて、先祖を祭るときも豚の肩が豆を覆えなかったのに、それでも狐の皮衣を数十年着た。卿はまた何を辞するのか」

そこで受け取って着た。

夾注 2

《孔氏譜》曰:「沈字德度,會稽山陰人。祖父奕,全椒令。父群,鴻臚卿。沈至琅邪王文學。」

『孔氏譜』に言う。「孔沈は字は徳度、会稽山陰の人である。祖父の孔奕は全椒令、父の孔群は鴻臚卿である。孔沈は琅邪王文学に至った」

《劉向別録》曰:「晏平仲名嬰,東萊夷維人。事齊靈公、莊公,以節儉力行重於齊。」《禮記》曰:「晏平仲祀其先人,豚肩不掩豆,君子以爲儉也。」又曰:「晏子一狐裘三十年,晏子焉知禮?」注:「豚,俎實也。豆,徑尺。言併豚之兩肩不能掩豆,喩少也。」

『劉向別録』に言う。「晏平仲は名は嬰、東莱夷維の人である。斉の霊公、荘公に仕え、節倹と力行によって斉で重んじられた」。『礼記』に言う。「晏平仲が先祖を祭るとき、豚の肩が豆を覆えなかったので、君子は倹しいとした」。また言う。「晏子は一つの狐の皮衣を三十年着た。晏子がどうして礼を知っていようか」。注に言う。「豚は俎に載せるものである。豆は径が一尺。豚の両肩を併せても豆を覆えないというのは、少ないことをたとえたのである」

45仏図澄が石虎を鷗だと思っている

佛圖澄與諸石遊,林公曰:「澄以石虎爲海鷗鳥。」

仏図澄が石氏の一族と交わっていたので、林公は言った。「仏図澄は石虎を海の鷗だと思っている」

夾注 2

《澄別傳》曰:「道人佛圖澄,不知何許人,出於燉煌,好佛道,出家爲沙門。永嘉中,至洛陽,値京師有難,潛遁草澤間。石勒雄異好殺害,因勒大將軍郭默略見勒。以麻油塗掌,占見吉凶。數百里外聽浮圖鈴聲,逆知禍福。勒甚敬信之。虎即位,亦師澄,號大和尚。自知終日,開棺無屍,唯袈裟法服在焉。」

『澄別伝』に言う。「道人の仏図澄はどこの人か分からないが、燉煌から出た。仏道を好み、家を出て沙門となった。永嘉のころ洛陽に着いたが、都に難がある時に遭って、草や沢のあいだに隠れ住んだ。石勒はすぐれて人並みでなかったが殺害を好んだので、石勒の大将軍の郭黒略を通して石勒に会った。麻油を手のひらに塗って吉凶を占い見、数百里の外から塔の鈴の音を聞いて禍福を予め知った。石勒はたいそう彼を敬い信じた。石虎が位に即くと、やはり仏図澄を師として大和尚と呼んだ。自ら死ぬ日を知っていたが、棺を開くと屍がなく、ただ袈裟と法服だけがあった」

《趙書》曰:「虎字季龍,勒從弟也。征伐毎斬將搴旗。勒死,誅勒諸兒,襲位。」《莊子》曰:「海上之人好鷗者,毎旦之海上,從鷗遊,鷗之至者數百而不止。其父曰『吾聞鷗鳥從汝遊,取來玩之。』明日之海上,鷗舞而不下。」

『趙書』に言う。「石虎は字は季龍、石勒の従弟である。征伐のたびに将を斬り旗を抜いた。石勒が死ぬと石勒の子たちを誅して位を継いだ」。『荘子』に言う。「海辺の人で鷗を好む者があり、毎朝海辺に行って鷗と遊ぶと、集まる鷗は数百にとどまらなかった。その父が『私が聞くには鷗がお前に従って遊ぶというから、取ってきて見せてくれ』と言った。翌日海辺に行くと、鷗は舞って降りてこなかった」

46座に孔子がいないのに、どうして顔回を見分けられましょう

謝仁祖年八歳,謝豫章將送客,爾時語已神悟,自參上流。諸人咸共嘆之曰:「年少一坐之顏回。」仁祖曰:「坐無尼父,焉別顏回?」

謝仁祖が八歳のとき、謝豫章が客を送るところであったが、そのころすでに言葉が神妙に行き届いていて、自分から上座に加わった。

人々は皆ともに嘆いて言った。「年若い、この座の顔回だ」

仁祖は言った。「座に孔子がいないのに、どうして顔回を見分けられましょう」

夾注 2

鯤子別見

謝鯤の子で、別に見える。

《晉陽秋》曰:「謝尚字仁祖,陳郡人,鯤之子也。齠齔喪兄,哀慟過人。及遭父喪,温嶠唁之,尚號叫極哀。既而收涕告訴,有異常童。嶠奇之,由是知名,仕至鎭西將軍、豫州刺史。」

『晋陽秋』に言う。「謝尚は字は仁祖、陳郡の人で、謝鯤の子である。乳歯の替わるころに兄を失い、哀しみ悼むことが人に勝っていた。父の喪に遭うと、温嶠が弔ったが、謝尚は叫んできわめて哀しんだ。やがて涙を収めて述べたが、普通の子どもと違うところがあった。温嶠は彼を不思議に思い、これによって名を知られ、官は鎮西将軍、豫州刺史に至った」

47その時には豎刁がいなかったので、陶公には残す言葉がなかった

陶公疾篤,都無獻替之言,朝士以爲恨。仁祖聞之曰:「時無豎刁,故不貽陶公話言。」時賢以爲德音。

陶公の病が重かったが、何の諫言も残さなかったので、朝廷の士は残念に思った。

仁祖はこれを聞いて言った。「その時には豎刁のような者がいなかったので、陶公には残す言葉がなかったのだ」

当時の賢者はこれを徳のある言葉とした。

夾注 2

《陶氏敘》曰:「侃字士衡,其先鄱陽人,後徙尋陽。侃少有遠概綱維宇宙之志。察孝廉入洛,司空張華見而謂曰:『後來匡主寧民,君其人也。』劉弘鎭沔南,取爲長史,謂侃曰:『昔吾爲羊太傅參佐,見語云:「君後當居身處。」今相觀,亦復然矣。』累遷湘廣荊三州刺史,加羽葆鼓吹,封長沙郡公、大將軍。贊拜不名,劍履上殿。進太尉,贈大司馬,諡桓公。」按,王隱《晉書》載侃臨終表曰:「臣少長孤寒,始願有限,過蒙先朝厯世異恩。臣年垂八十,位極人臣,啓手啓足,當復何恨!但以餘寇未誅,山陵未復,所以憤慨兼懷,唯此而已!猶冀犬馬之齒,尚可少延,欲爲陛下北呑石虎,西誅李雄,勢遂不振,良圖永息。臨書振腕,涕泗橫流。伏願遴選代人,使必得良才,足以奉宣王猷,遵成志業。則雖死之日,猶生之年。」有表若此,非無獻替。

『陶氏叙』に言う。「陶侃は字は士衡、その先祖は鄱陽の人であったが、のちに尋陽に移った。陶侃は若くして遠くを見る気概と宇宙を綱とする志があった。孝廉に察せられて洛陽に入ると、司空の張華が見て『後の世に主を正し民を安んじる者は、君がその人であろう』と言った。劉弘が沔南を鎮めたとき、取って長史とし、陶侃に『昔、私が羊太傅の参佐であったとき、「君は後に私の地位に居るだろう」と言われた。いま君を見ると、やはりそのとおりだ』と言った。累進して湘州・広州・荊州三州の刺史に至り、羽葆鼓吹を加えられて長沙郡公、大将軍に封ぜられた。拝するとき名を呼ばれず、剣を帯び履を履いたまま殿に上った。太尉に進み、大司馬を贈られ、諡は桓公である」。考えてみると、王隠の『晋書』に陶侃が臨終に奉った表が載っていて、こう言う。「臣は若いころ孤児として貧しく育ち、初めに願ったところには限りがありましたのに、先の朝廷から代々格別の恩を過分に受けました。臣の年は八十に近づき、位は人臣として極まりました。手を伸ばし足を伸ばして死ぬのに、また何の恨みがありましょうか。ただ残る賊を誅せず、山陵を取り戻せなかったので、憤りと嘆きを併せて抱くのは、ただこればかりです。なお犬馬の齢が少しでも延びて、陛下のために北に石虎を呑み、西に李雄を誅したいと思いましたが、勢いはついに振るわず、よい計も永く絶えました。書を前にして腕を震わせ、涙と鼻水が横に流れます。伏して願いますに、代わる人をよくお選びになり、必ずよい才を得て、王の道を広く宣べ、志と業を遵んで成し遂げられるようにしてください。そうであれば、死ぬ日でも、なお生きている年と同じです」。このような表があるのだから、諫言がなかったのではない。

《呂氏春秋》曰:「管仲病,桓公問曰:『子如不諱,誰代子相者?豎刁何如?』管仲曰『自宮以事君,非人情,必不可用!』後果亂齊。」

『呂氏春秋』に言う。「管仲が病んだとき、桓公は『あなたがもし起てないなら、誰があなたに代わって相となるか。豎刁はどうか』と尋ねた。管仲は『自ら宮刑して君に仕えるのは人の情ではありません。必ず用いてはなりません』と言った。のちに果たして斉を乱した」

48あなたが自ら朱の門と見るのです。私は蓬の戸に遊ぶようなものです

竺法深在簡文坐,劉尹問:「道人何以遊朱門?」荅曰:「君自見其朱門,貧道如遊蓬戸。」或云卞令。

竺法深が簡文帝の座にいると、劉尹が尋ねた。「道人はどうして朱の門に遊ばれるのですか」

答えて言った。「あなたが自らそれを朱の門と見るのです。貧道は蓬の戸に遊ぶようなものです」

ある者は卞令だという。

夾注 2

《髙逸沙門傳》曰:「法師居會稽,皇帝重其風德,遣使迎焉,法師暫出應命。司徒會稽王天性虚澹,與法師結殷勤之歡。師雖升履丹墀,出入朱邸,泯然曠達,不異蓬宇也。」

『高逸沙門伝』に言う。「法師は会稽に住んでいたが、皇帝はその風格と徳を重んじ、使者を遣わして迎えたので、法師はしばらく出て命に応じた。司徒の会稽王は生まれつきの性が虚しく淡々としていて、法師と篤い喜びを結んだ。法師は丹の階を踏み朱の邸を出入りしたが、跡を残さず広々と通達していて、蓬の家と変わらなかった」

別見。

別に見える。

49小さい者も大きい者もなく、公に従って行く

孫盛爲庾公記室參軍,從獵,將其二兒倶行。庾公不知,忽於獵塲見齊莊,時年七八歳。庾謂曰:「君亦復來邪?」應聲荅曰:「所謂『無小無大,從公于邁』。」

孫盛が庾公の記室参軍となって狩りに従うとき、二人の子を連れて一緒に行った。庾公は知らずにいたが、ふいに狩り場で斉荘を見かけた。そのとき七つ八つであった。

庾公は言った。「君も来たのか」

声に応じて答えた。「いわゆる『小さい者も大きい者もなく、公に従って行く』です」

夾注 1

《中興書》曰:「盛字安國,太原中都人。博學強識,厯著作郎,瀏陽令。庾亮爲荊州,以爲征西主簿,累遷祕書監。」

『中興書』に言う。「孫盛は字は安国、太原中都の人である。広く学んで記憶が強く、著作郎、瀏陽令を歴任した。庾亮が荊州にいたとき征西主簿とし、累進して祕書監に至った」

50聖人は生まれながらに知るので、及び慕うのは難しいのです

孫齊由、齊莊二人,少時詣庾公,公問:「齊由何字?」荅曰:「字齊由。」公曰:「欲何齊邪?」曰:「齊許由。」「齊莊何字?」荅曰:「字齊莊。」公曰:「欲何齊?」曰:「齊莊周。」公曰:「何不慕仲尼而慕莊周?」對曰:「聖人生知,故難企慕。」庾公大喜小兒對。

孫斉由と孫斉荘の二人が幼いころ庾公を訪ねると、庾公は尋ねた。「斉由は何を字としたのか」

答えて言った。「字は斉由です」

庾公は言った。「何に斉しくなろうというのか」

言った。「許由に斉しくなろうとするのです」

「斉荘は何を字としたのか」

答えて言った。「字は斉荘です」

庾公は言った。「何に斉しくなろうというのか」

言った。「荘周に斉しくなろうとするのです」

庾公は言った。「どうして仲尼を慕わずに荘周を慕うのか」

答えて言った。「聖人は生まれながらに知りますから、及び慕うのは難しいのです」

庾公は子どもの答えを大いに喜んだ。

夾注 2

《晉百官名》曰:「孫潛字齊由,太原人。」《中興書》曰:「潛,盛長子也。豫章太守殷仲堪下討王國寶,潛時在郡,逼爲咨議參軍,固辭不就,遂以憂卒。」

『晋百官名』に言う。「孫潜は字は斉由、太原の人である」。『中興書』に言う。「孫潜は孫盛の長子である。豫章太守の殷仲堪が下って王国宝を討つとき、孫潜はそのとき郡にいて、無理に咨議参軍とされたが、固く辞して赴かず、ついに憂いのうちに亡くなった」

《孫放別傳》曰:「放字齊莊,監君次子也。年八歳,太尉庾公召見之。放淸秀,欲觀試,乃授紙筆令書,放便自疎名字。公題後問之曰:『爲欲慕莊周邪?』放書答曰:『意欲慕之。』公曰:『何故不慕仲尼而慕莊周?』放曰:『仲尼生而知之,非希企所及;至於莊周,是其次者,故慕耳。』公謂賓客曰:『王輔嗣應答,恐不能勝之。』卒長沙王相。」

『孫放別伝』に言う。「孫放は字は斉荘、監君の次子である。八歳のとき、太尉の庾公が召して会った。孫放が清らかで秀でていたので、試してみようと紙と筆を授けて書かせると、孫放はすぐに自分で名と字を記した。庾公はそのあとに題を付けて尋ねた。『荘周を慕おうというのか』。孫放は書いて『心では彼を慕いたいと思います』と答えた。庾公が『どういうわけで仲尼を慕わずに荘周を慕うのか』と言うと、孫放は『仲尼は生まれながらに知られたので、望んで及べるところではありません。荘周なら、その次の人ですから、慕うだけです』と言った。庾公は賓客に『王輔嗣が答えても、おそらくこれには勝てまい』と言った。長沙王の相で終わった」

51情を忘れられるので泣かず、忘れられないので泣くのです

張玄之、顧敷,是顧和中外孫,皆少而聰惠。和並知之,而常謂顧勝,親重偏至,張頗不懕。於時張年九歳,顧年七歳,和與倶至寺中。見佛般泥洹像,弟子有泣者,有不泣者,和以問二孫。玄謂「被親故泣,不被親故不泣」。敷曰:「不然,當由忘情故不泣,不能忘情故泣。」

張玄之と顧敷は顧和の内外の孫で、どちらも幼くして聡明であった。顧和は二人ともを認めていたが、いつも顧敷が勝ると言って、可愛がり重んじることが一方に偏っていたので、張玄之はかなり面白くなかった。

そのとき張玄之は九歳、顧敷は七歳であったが、顧和は二人を連れて寺に行った。仏が涅槃に入る像を見ると、弟子のなかに泣く者もあり泣かない者もあった。顧和はこれを二人の孫に尋ねた。

張玄之は「親しんだ者はだから泣き、親しまなかった者はだから泣かないのです」と言った。

顧敷は言った。「そうではありません。情を忘れられたので泣かず、情を忘れられないので泣くのです」

夾注 2

敷別見。《續晉陽秋》曰:「張玄之字祖希,呉郡太守澄之孫也。少以學顯,厯吏部尚書,出爲冠軍將軍、呉興太守。會稽内史謝玄同時之郡,論者以爲南北之望。玄之名亞謝玄,時亦稱『南北二玄』,卒於郡。」

顧敷については別に見える。『続晋陽秋』に言う。「張玄之は字は祖希、呉郡太守の張澄之の孫である。若くして学で世に現れ、吏部尚書を歴任し、冠軍将軍、呉興太守として出た。会稽内史の謝玄が同じころ郡にいたので、論ずる者は南北の望みだと言った。張玄之の名は謝玄に次いだので、当時また『南北の二玄』と称された。郡で亡くなった」

《大智度論》曰:「佛在陰菴羅雙樹閒入般涅槃,臥北首,大地震動。諸三學人,僉然不樂,郁伊交涕。諸無學人,但念諸法,一切無常。」

『大智度論』に言う。「仏が陰の菴羅双樹のあいだで般涅槃に入り、北へ頭を向けて臥されると、大地が震え動いた。三学にある人々は皆楽しまず、ふさいで涙を流し合った。無学の人々は、ただ諸々の法がすべて無常であることを念じていた」

52清らかな者は求めず、貪る者には与えないので、残っているのです

庾法畼造庾太尉,握麈尾至佳,公曰:「此至佳,那得在?」法畼曰:「廉者不求,貪者不與,故得在耳。」

庾法暢が庾太尉を訪ねたが、手にした麈尾がきわめて見事であった。庾公は言った。「これはきわめて見事だが、どうして手元に残っているのか」

法暢は言った。「清らかな者は求めず、貪る者には与えませんので、それで残っているだけです」

夾注 1

法畼氏族所出未詳。法畼著《人物論》,自敘其美云:「悟鋭有神,才辭通辯。」

法暢の一族と出自は詳しくない。法暢は『人物論』を著し、自分で己の美点を述べて「悟りが鋭く神があり、才と言葉に通じて弁が立つ」と言っている。

53よいから献じたのであって、新しいから献じたのではありません

庾穉恭爲荊州,以毛扇上武帝。武帝疑是故物。侍中劉劭曰:「柏梁雲構,工匠先居其下;管絃繁奏,鍾夔先聽其音。穉恭上扇,以好不以新。」庾後聞之曰:「此人宜在帝左右。」

庾穉恭が荊州にいたとき、羽の扇を武帝に献じた。武帝は古い物ではないかと疑った。

侍中の劉劭が言った。「柏梁台の雲のような構えも、工匠が先にその下にいました。管弦をにぎやかに奏するのも、鍾子期と夔が先にその音を聴きました。穉恭が扇を献じたのは、よいからであって、新しいからではありません」

庾穉恭はのちにこれを聞いて言った。「この人は帝の側にいるべきだ」

夾注 4

《庾翼別傳》曰:「翼字穉恭,潁川鄢陵人也。少有大度、時論以經略許之。兄太尉亮薨、朝議推才,乃以翼都督七州。進征南將軍、荊州刺史。」

『庾翼別伝』に言う。「庾翼は字は穉恭、潁川鄢陵の人である。若くして大きな度量があり、当時の論者は国を経略する才と認めた。兄の太尉の庾亮が亡くなると、朝議は才を推して、庾翼に七州を都督させた。征南将軍、荊州刺史に進んだ」

傅咸《羽扇賦》序曰:「昔呉人直截鳥翼而搖之,風不減方圓二扇,而功無加,然中國莫有生意者。滅呉之後,翕然貴之,無人不用。」按,庾懌以白羽扇獻武帝,帝嫌其非新,反之,不聞翼也。

傅咸の「羽扇賦」の序に言う。「昔、呉の人が鳥の翼をまっすぐ切って振ったが、風は角形や円形の扇に劣らず、手間も増えなかった。それでも中国では作ろうという気を起こす者がなかった。呉を滅ぼしたのちに、一気にこれを貴んで、用いない者がなくなった」。考えてみると、庾懌が白い羽の扇を武帝に献じ、帝は新しくないのを嫌って返したというのであって、庾翼だとは聞いていない。

《文字志》曰:「劭,字彦祖,彭城叢亭人。祖訥,司隸校尉。父松,成皋令。劭博識好學,多藝能,善草隸。初仕領軍參軍,太傅出東,劭謂京洛必危,乃單馬奔揚州。歴侍中、豫章太守。」

『文字志』に言う。「劉劭は字は彦祖、彭城叢亭の人である。祖父の劉訥は司隷校尉、父の劉松は成皋令である。劉劭は広く知って学を好み、才芸が多く、草書と隷書が巧みであった。初め領軍参軍に仕えたが、太傅が東に出ると、劉劭は都の洛陽が必ず危うくなると考え、そこで単騎で揚州に逃げた。侍中、豫章太守を歴任した」

鍾,鍾期也。夔,舜樂正。

鍾は鍾子期である。夔は舜の楽正である。

54国にはおのずから周公がいます

何驃騎亡後,徴褚公入。既至石頭,王長史、劉尹同詣褚。褚曰:「眞長何以處我?」眞長顧王曰:「此子能言。」褚因視王,王曰:「國自有周公。」

何驃騎が亡くなったのち、褚公が召し入れられた。石頭に着くと、王長史と劉尹がともに褚公を訪ねた。

褚公は言った。「真長は私をどう扱うつもりか」

真長は王長史を顧みて言った。「この人が言えます」

褚公がそこで王長史を見ると、王長史は言った。「国にはおのずから周公がいます」

夾注 2

何充別見。

何充については別に見える。

《晉陽秋》曰:「充之卒,議者謂太后父裒宜秉朝政,裒自丹徒入朝。吏部尚書劉遐勸裒曰『會稽王令德,國之周公也,足下宜以大政付之。』裒長史王胡之亦勸歸藩,於是固辭歸京。」

『晋陽秋』に言う。「何充が亡くなると、論ずる者は太后の父の褚裒が朝政を執るべきだと言ったので、褚裒は丹徒から入朝した。吏部尚書の劉遐は褚裒に勧めて『会稽王は美しい徳があり、国の周公です。あなたは大政を彼にお任せになるべきです』と言った。褚裒の長史の王胡之も藩に帰るよう勧めたので、そこで固く辞して都に帰った」

55木でさえこうなのに、人がどうして堪えられよう

桓公北征經金城,見前爲琅邪時種柳,皆已十圍,慨然曰:「木猶如此,人何以堪!」攀枝執條,泫然流涙。

桓公が北を討って金城を通りかかり、以前琅邪内史であったころに植えた柳が皆すでに十抱えになっているのを見て、感に打たれて言った。「木でさえこうなのに、人がどうして堪えられよう」

枝を手に取り小枝を握って、はらはらと涙を流した。

夾注 1

《桓温別傳》曰:「温字元子,譙國龍亢人,漢五更桓榮後也。父彝,有識鑒。温少有豪邁風氣,爲温嶠所知,累遷琅邪内史,進征西大將軍,鎭西夏。時逆胡未誅,餘燼假息,温親勒郡卒,建旗致討,淸蕩伊洛,展敬園陵。薨,諡宣武侯。」

『桓温別伝』に言う。「桓温は字は元子、譙国龍亢の人で、漢の五更の桓栄の後裔である。父の桓彝は人を見る眼があった。桓温は若くして豪放な気風があり、温嶠に認められ、累進して琅邪内史に至り、征西大将軍に進んで西夏を鎮めた。当時、逆らう胡はまだ誅されず、残り火が息をついでいたが、桓温は自ら郡の兵を率い、旗を立てて討ち、伊水と洛水を清め払って、園陵に敬意を捧げた。亡くなって宣武侯と諡された」

56長兄が殳を執って、王の先駆けとなる

簡文作撫軍時,嘗與桓宣武倶入朝,更相讓在前。宣武不得已而先之,因曰:「伯也執殳,爲王前驅。」簡文曰:「所謂『無小無大,從公于邁』。」

簡文帝が撫軍将軍であったころ、かつて桓宣武とともに朝廷に入ったが、互いに先に行けと譲り合った。宣武はやむなく先に立ち、そこで言った。「『長兄が殳を執って、王の先駆けとなる』」

簡文帝は言った。「いわゆる『小さい者も大きい者もなく、公に従って行く』です」

夾注 1

《衞詩》也。殳,長一丈二尺,無刃。

『衛詩』である。殳は長さ一丈二尺で、刃がない。

57蒲と柳は秋を望むだけで散り、松と柏は霜をしのいでなお茂ります

顧悅與簡文同年,而髮蚤白。簡文曰:「卿何以先白?」對曰:「蒲柳之姿,望秋而落;松柏之質,凌霜猶茂。」

顧悦は簡文帝と同年であったが、髪が早く白くなった。簡文帝は言った。「卿はどうして先に白くなったのか」

答えて言った。「蒲と柳の姿は秋を望むだけで散り、松と柏の質は霜をしのいでなお茂ります」

夾注 2

《中興書》曰:「悅字君叔,晉陵人。初爲殷浩揚州別駕。浩卒,上疎理浩。或諫以浩爲太宗所廢,必不依許,悅固爭之,浩果得申,物論稱之。後至尚書左丞。」

『中興書』に言う。「顧悦は字は君叔、晋陵の人である。初め殷浩の揚州別駕となった。殷浩が亡くなると、上疏して殷浩の名誉を明らかにしようとした。ある者が、殷浩は太宗が廃した人だから必ず許されまいと諫めたが、顧悦は固く争い、殷浩は果たして名誉を回復したので、世の論は彼を称えた。のちに尚書左丞に至った」

顧凱之爲父傳曰:「君以直道陵遲於世。入見王,王髮無二毛,而君已斑白,問君年,乃曰:『卿何偏蚤白?』君曰:『松柏之姿,經霜猶茂;臣蒲柳之質,望秋先零。受命之異也。』王稱善久之。」

顧凱之が父のために作った伝に言う。「君は真っ直ぐな道を行ったため世に遅れた。入って王にお目にかかると、王は髪に二色がないのに、君はすでに半白であった。君の年を尋ね、そこで『卿はどうしてひとり早く白くなったのか』と言われた。君は『松と柏の姿は霜を経てもなお茂りますが、臣の蒲と柳の質は秋を望むだけで先に散ります。受けた命が違うからです』と言った。王は長いあいだ善しと称えられた」

58すでに忠臣となったので、孝子にはなれない

桓公入峽,絶壁天懸,騰波迅急。迺嘆曰:「既爲忠臣,不得爲孝子,如何?」

桓公が峡に入ると、切り立った崖が天に懸かり、沸き立つ波が速く急であった。そこで嘆いた。「すでに忠臣となったのだから、孝子にはなれない。どうしたものか」

夾注 2

《晉陽秋》曰:「温以永和二年,率所領七千餘人伐蜀,拜表輒行。」

『晋陽秋』に言う。「桓温は永和二年、率いていた七千余人を引いて蜀を討ったが、表を奉ってすぐに出発した」

《漢書》曰:「王陽爲益州刺史,行部至邛僰九折阪,歎曰:『奉先人遺體,奈何數乘此險!』以病去官。後王尊爲刺史,至其阪,問吏曰:『非王陽所畏之道邪?』吏曰:『是!』叱其馭曰:『驅之,王陽爲孝子,王尊爲忠臣。』」

『漢書』に言う。「王陽が益州刺史となって部内を巡り、邛僰の九折阪に至って嘆き、『先人の残された体を奉っておきながら、どうしてこんな険しいところを何度も通れようか』と言い、病と称して官を去った。のちに王尊が刺史となり、その阪に至って役人に『王陽が恐れた道ではないか』と尋ねた。役人が『そうです』と言った。御者を叱って『駆けよ。王陽は孝子となり、王尊は忠臣となろう』と言った」

59志士は朝廷の危うさを痛み、忠臣は主の辱めを哀しむ

初,熒惑入太微,尋廢海西。簡文登阼,復入太微,帝惡之。時郗超爲中書在直。引超入曰:「天命脩短,故非所計,政當無復近日事不?」超曰:「大司馬方將外固封疆,内鎭社稷,必無若此之慮。臣爲陛下以百口保之。」帝因誦庾仲初詩曰:「志士痛朝危,忠臣哀主辱。」聲甚悽厲。郗受假還東,帝曰:「致意尊公,家國之事,遂至於此!由是身不能以道匡衞,思患預防,愧嘆之深,言何能喩?」因泣下流襟。

はじめ熒惑が太微に入り、やがて海西公が廃された。簡文帝が位に即くと、また太微に入ったので、帝はこれを嫌った。

そのとき郗超が中書として当直していたので、郗超を引き入れて言った。「天命の長短はもとより計るところではないが、ただ近ごろのような事はもう二度とないだろうね」

郗超は言った。「大司馬はまさに外に辺境を固め、内に社稷を鎮めようとしておられますから、必ずこのようなご心配はございません。臣は陛下のために一族百人をもってこれを保証いたします」

帝はそこで庾仲初の詩を誦した。「志士は朝廷の危うさを痛み、忠臣は主の辱めを哀しむ」

声はたいそう悲しく激しかった。

郗超が暇をもらって東に帰ると、帝は言った。「ご尊父に私の思いを伝えてほしい。家と国の事が、ついにこの始末になった。これは私自身が道をもって正し守り、憂いを思って予め防げなかったせいだ。恥ずかしく嘆かわしいことが深く、言葉でどう言い表せよう」

そこで涙が流れて襟を濡らした。

夾注 5

《晉陽秋》曰:「泰和六年閏十月,熒惑守太微端門。十一月,大司馬桓温廢帝爲海西公。」《晉安帝紀》曰:「桓温於枋頭奔敗,知民望之去也,乃屠袁眞於壽陽。既而謂郗超曰:『足以雪枋頭之恥乎?』超曰:『未厭有識之情也。公六十之年,敗於大舉,不建髙世之勳,未足以鎭厭民望。』因説温以廢立之事。時温夙有此謀,深納超言,遂廢海西。」

『晋陽秋』に言う。「泰和六年閏十月、熒惑が太微の端門を守った。十一月、大司馬の桓温が帝を廃して海西公とした」。『晋安帝紀』に言う。「桓温は枋頭で逃げ敗れ、民の望みが離れたのを知って、そこで袁真を寿陽で屠った。やがて郗超に『枋頭の恥を雪ぐに足るか』と言うと、郗超は『まだ見識のある者の心を満たしてはいません。公は六十の年で、大挙した戦に敗れ、世に高い勲を立てられなかったのですから、民の望みを鎮め満たすには足りません』と言い、それによって桓温に廃立の事を説いた。そのとき桓温はもとからこの企てがあったので、郗超の言葉を深く受け入れ、ついに海西公を廃した」

徐廣《晉紀》曰:「咸安元年十二月,熒惑逆行入太微,至二年七月,猶在焉。帝懲海西之事,心甚憂之。」

徐広の『晋紀』に言う。「咸安元年十二月、熒惑が逆行して太微に入り、二年七月までなおそこにあった。帝は海西公の事に懲りて、心にたいそう憂えた」

《中興書》曰:「超字景興,髙平人,司空愔之子也。少而卓犖不羈,有曠世之度。累遷中書郎、司徒左長史。」

『中興書』に言う。「郗超は字は景興、高平の人で、司空の郗愔の子である。若くして抜きん出て束縛されず、世に稀な度量があった。累進して中書郎、司徒左長史に至った」

庾闡《從征詩》也

庾闡の「従征詩」である。

《續晉陽秋》曰:「帝外壓彊臣,憂憤不得志,在位二年而崩。」

『続晋陽秋』に言う。「帝は外から強い臣に圧されて、憂え憤って志を得られず、在位二年で崩じた」

60某がここにいる

簡文在暗室中坐,召宣武。宣武至,問上何在?簡文曰:「某在斯。」時人以爲能。

簡文帝が暗い部屋の中に座って宣武を呼んだ。宣武が来て、主上はどこにおられるかと尋ねると、簡文帝は言った。「某がここにいる」

当時の人はうまいと思った。

夾注 1

《論語》曰:「師冕見,及階,子曰:『階也。』及席,子曰:『席也。』皆坐,子告之曰:『某在斯,某在斯。』」注:「歴告坐中人也。」

『論語』に言う。「楽師の冕が見えに来て、階に至ると、子は『階です』と言われ、席に至ると、子は『席です』と言われ、皆が座ると、子は告げて『某がここにおり、某がここにおります』と言われた」。注に言う。「座にいる人を順に告げたのである」

61心にかなうところが、必ず遠くにあるとはかぎらない

簡文入華林園,顧謂左右曰:「會心處,不必在遠。翳然林水,便自有濠濮閒想也。覺鳥獸禽魚,自來親人。」

簡文帝が華林園に入り、側の者を顧みて言った。「心にかなうところが、必ず遠くにあるとはかぎらない。木陰の深い林と水があれば、おのずから濠水や濮水のほとりの思いがある。鳥も獣も魚も、おのずから来て人に親しむように思われる」

夾注 1

濠濮,二水名也。《莊子》曰:「莊子與惠子遊濠梁水上,莊子曰:『儵魚出游從容,是魚樂也。』惠子曰:『子非魚,安知魚之樂邪?』莊子曰:『子非我,安知我之不知魚之樂也?』」「莊周釣在濮水,楚王使二大夫造焉,曰:『願以境内累莊子。』莊子持竿不顧,曰:『吾聞楚有神龜者,死已三千年矣,巾笥而藏於廟。此寧曳尾於塗中,寧留骨而貴乎?』二大夫曰:『寧曳尾於塗中。』莊子曰:『往矣!吾亦寧曳尾於塗中。』」

濠と濮は二つの水の名である。『荘子』に言う。「荘子が恵子と濠水の橋の上に遊んでいて、荘子が『儵魚が出てゆったり泳いでいる。これが魚の楽しみだ』と言った。恵子が『君は魚ではないのに、どうして魚の楽しみが分かるのか』と言うと、荘子は『君は私ではないのに、どうして私が魚の楽しみを知らないと分かるのか』と言った」。「荘周が濮水で釣りをしていると、楚王が大夫二人を遣わして『国内の事で荘子を煩わせたいのです』と言った。荘子は竿を持ったまま振り向かず、『私が聞くには、楚に神亀があって、死んでからすでに三千年、布に包んで廟に収めてあるという。これは泥の中に尾を引きずることを望むか、骨を残して貴ばれることを望むか』と言った。二人の大夫は『泥の中に尾を引きずることを望むでしょう』と言った。荘子は『帰られよ。私も泥の中に尾を引きずろう』と言った」

62中年は哀しみと楽しみに傷つくので、糸と竹に頼って紛らわすのです

謝太傅語王右軍曰:「中年傷於哀樂,與親友別,輒作數日惡。」王曰:「年在桑楡,自然至此,正賴絲竹陶寫。恆恐兒輩覺,損欣樂之趣。」

謝太傅が王右軍に言った。「中年は哀しみと楽しみに傷つくので、親しい友と別れると、すぐに何日か気持ちが悪くなる」

王右軍は言った。「年が桑と楡にかかっているのだから、おのずからそうなるのだ。ただ糸と竹に頼って紛らわすばかりだが、いつも子どもたちに気づかれて、喜び楽しむ味を損なわれるのが怖い」

夾注 1

《文字志》曰:「王羲之字逸少,琅邪臨沂人。父礦,淮南太守。羲之少朗拔,爲叔父廙所賞。善草隸,累遷江州刺史、右軍將軍、會稽内史。」

『文字志』に言う。「王羲之は字は逸少、琅邪臨沂の人である。父の王曠は淮南太守である。王羲之は若くして明るく抜きん出ていて、叔父の王廙に認められた。草書と隷書が巧みで、累進して江州刺史、右軍将軍、会稽内史に至った」

63貧道はその精神の駿なることを重んじるのです

支道林常養數匹馬。或言,道人畜馬不韻,支曰:「貧道重其神駿。」

支道林はいつも馬を数頭飼っていた。ある者が、道人が馬を飼うのは風韻がないと言うと、支道林は言った。「貧道はその精神の駿なることを重んじるのです」

夾注 1

《髙逸沙門傳》曰:「支遁字道林,河内林慮人,或曰陳留人,本姓關氏。少而任心獨往,風期髙亮,家世奉法。嘗於餘杭山沈思道行,泠然獨暢。年二十五始釋形入道。年五十三終於洛陽。」

『高逸沙門伝』に言う。「支遁は字は道林、河内林慮の人であるが、陳留の人だという者もあり、もとの姓は関氏である。若くして心のままに独り行き、風格と志が高く明るく、家は代々仏法を奉じていた。かつて余杭山で道の行いを深く思い、涼やかに独りのびやかであった。二十五歳で初めて形を捨てて道に入った。五十三歳で洛陽で終わった」

64これは究極とは関わりなく、もとより金華殿の話です

劉尹與桓宣武共聽講《禮記》。桓云:「時有入心處,便覺咫尺玄門。」劉曰:「此未關至極,自是金華殿之語。」

劉尹と桓宣武がともに『礼記』の講義を聴いた。桓宣武は言った。「ときどき心に入るところがあって、奥深い門が目の前にあるように思える」

劉尹は言った。「これは究極とは関わりなく、もとより金華殿の話です」

夾注 1

《漢書·敘傳》曰:「班伯少受詩於師丹。大將軍王鳳薦伯於成帝,宜勸學,召見宴暱,拜爲中常侍。時上方向學,鄭寬中、張禹朝夕入説《尚書》、《論語》於金華殿,詔伯受之。」

『漢書・叙伝』に言う。「班伯は若くして師丹に詩を学んだ。大将軍の王鳳が班伯を成帝に推挙し、学を勧められるのがよいと言ったので、召して会い、近く置いて中常侍に任じた。当時、上はまさに学に心を向けられ、鄭寛中と張禹が朝夕に入って金華殿で『尚書』と『論語』を講じたので、詔によって班伯にこれを受けさせた」

65名は天の聞こえに広まりましたが、血筋は聖なる世に絶えました

羊秉爲撫軍參軍,少亡,有令譽。夏侯孝若爲之敘,極相讚悼。羊權爲黃門侍郎,侍簡文坐。帝問曰:「夏侯湛作《羊秉敘》絶可想。是卿何物?有後不?」權潸然對曰:「亡伯令問夙彰,而無有繼嗣。雖名播天聽,然胤絶聖世。」帝嗟慨久之。

羊秉は撫軍参軍となったが若くして亡くなり、よい誉れがあった。夏侯孝若が彼のために叙を作り、きわめて称え悼んだ。

羊権が黄門侍郎となって簡文帝の座に侍していると、帝は尋ねた。「夏侯湛が作った「羊秉叙」はこの上なく心に残るものだ。彼は卿の何に当たるのか。後嗣はあるのか」

羊権は涙を流して答えた。「亡き伯父のよい評判は早くから世に現れましたが、跡を継ぐ者がありません。名は天の聞こえに広まりましたが、血筋は聖なる世に絶えました」

帝は長いあいだ嘆き惜しんだ。

夾注 3

《羊秉敘》曰:「秉字長達,太山平陽人。漢南陽太守續曾孫。大父魏郡府君,即車騎掾元子也。府君夫人鄭氏無子,乃養秉。齠齔而佳,小心敬愼。十歳而鄭夫人薨,秉思容盡哀,俄而公府掾及夫人並卒,秉群從父率禮相承,人不閒其親,雍雍如也。仕參撫軍將軍事,將奮千里之足,揮沖天之翼,惜乎春秋三十有二而卒。昔罕虎死,子産以爲無與爲善,自夫子之沒,有子産之歎矣!亡後有子男又不育,是何行善而禍繁也?豈非司馬生之所惑歟?」

「羊秉叙」に言う。「羊秉は字は長達、太山平陽の人である。漢の南陽太守の羊続の曾孫である。祖父は魏郡府君、すなわち車騎掾の長子である。府君の夫人の鄭氏に子がなかったので、羊秉を養った。乳歯の替わるころから美しく、細やかに気を配り敬い慎んだ。十歳で鄭夫人が亡くなると、羊秉は慕う顔で哀しみを尽くした。やがて公府の掾と夫人がともに亡くなると、羊秉は数人の従父たちと礼に従って互いに支え合い、人はその親疎を見分けられないほど和やかであった。仕えて撫軍将軍の事に参じ、千里を行く足を奮い、天を衝く翼を揮おうとしていたのに、惜しくも三十二歳で亡くなった。昔、罕虎が死んだとき、子産はともに善を為す者がいなくなったと言ったが、この人が没してからは、子産の嘆きがある。亡くなったあと男の子があったが、それも育たなかった。これはどうして善を行う者に禍が重なるのか。司馬遷が惑ったところではないか」

別見

別に見える。

羊氏譜曰:「權字道輿,徐州刺史悅之子也。仕至尚書左丞。」

『羊氏譜』に言う。「羊権は字は道輿、徐州刺史の羊悦の子である。官は尚書左丞に至った」

66これは天がおのずから高いのと同じだけです

王長史與劉眞長別後相見,王謂劉曰:「卿更長進。」荅曰:「此若天之自髙耳。」

王長史が劉真長と別れたのちに会い、王長史は劉真長に言った。「卿はさらに進んだな」

答えて言った。「これは天がおのずから高いのと同じだけです」

夾注 2

《王長史別傳》曰:「濛字仲祖,太原晉陽人。其先出自周室,經漢魏,世爲大族。祖父佐,北軍中候。父訥,葉令。濛神氣淸韶,年十餘歳,放邁不群。弱冠檢尚,風流雅正,外絶榮競,内寡私慾。辟司徒掾、中書郎,以后父贈光祿大夫。」

『王長史別伝』に言う。「王濛は字は仲祖、太原晋陽の人である。その先祖は周の王室から出て、漢と魏を経て、代々大族であった。祖父の王佐は北軍中候、父の王訥は葉令である。王濛は精神と気が清らかで美しく、十歳余りで抜きん出て群を離れていた。二十歳で身を慎み、風流が雅やかで正しく、外には栄えを争うことを断ち、内には私欲が少なかった。司徒掾、中書郎に召され、后の父として光禄大夫を贈られた」

《語林》曰:「仲祖語眞長曰:『卿近大進。』劉曰『卿仰看邪?』王問何意?劉曰:『不爾,何由測天之髙也。』」

『語林』に言う。「仲祖が真長に『卿は近ごろ大いに進んだ』と言うと、劉は『卿は仰いで見ているのですか』と言った。王長史がどういう意味かと問うと、劉は『そうでなければ、何によって天の高さを測れましょう』と言った」

67高い松の下には清らかな風があるはずだと思っているのだ

劉尹云:「人想王荊産佳,此想長松下當有淸風耳。」

劉尹は言った。「人々は王荊産をよいと思っているが、これは高い松の下には清らかな風があるはずだと思っているだけだ」

夾注 1

荊産,王微小字也。《王氏譜》曰:「微字幼仁,琅邪人。祖父乂,平北將軍。父澄,荊州刺史。微歴尚書郎、右軍司馬。」

荊産は王微の幼名である。『王氏譜』に言う。「王微は字は幼仁、琅邪の人である。祖父の王乂は平北将軍、父の王澄は荊州刺史である。王微は尚書郎、右軍司馬を歴任した」

68もし介の葛盧が来朝すれば、この言葉に暗くはあるまい

王仲祖聞蠻語不解,茫然曰:「若使介葛盧來朝,故當不昧此語。」

王仲祖が蛮の言葉を聞いて分からず、途方に暮れて言った。「もし介の葛盧が来朝したら、さすがにこの言葉に暗くはあるまい」

夾注 1

《春秋傳》曰:「介葛盧來朝魯,聞牛鳴曰:『是生三犧,皆用之矣。其音云。』問之而信。」杜預注曰:「介,東夷國。葛盧,其君名也。」

『春秋伝』に言う。「介の葛盧が魯に来朝したとき、牛の鳴き声を聞いて『この牛は三頭の犠を生んだが、みな使ってしまったな。その声がそう言っている』と言った。尋ねると本当であった」。杜預が注して言う。「介は東夷の国である。葛盧はその君の名である」

69吉凶が人から出ると知っているなら、私がどうしてこれを保てないことがあろう

劉眞長爲丹陽尹,許玄度出都就劉宿,床帷新麗,飲食豐甘。許曰:「若保全此處,殊勝東山。」劉曰:「卿若知吉凶由人,吾安得不保此!」王逸少在坐曰:「令巣許遇稷契,當無此言。」二人並有愧色。

劉真長が丹陽尹であったとき、許玄度が都に出てきて劉真長のところに泊まった。寝台も帷も新しく美しく、飲み食いも豊かで甘かった。

許玄度は言った。「もしこの場所を保ち続けられるなら、東山よりずっとよいな」

劉真長は言った。「卿がもし吉凶が人から出ると知っているなら、私がどうしてこれを保てないことがあろうか」

王逸少が座にいて言った。「巣父と許由を稷や契に出会わせたなら、こういう言葉はなかったはずだ」

二人ともに恥じる色があった。

夾注 2

《續晉陽秋》曰:「許詢字玄度,髙陽人,魏中領軍允玄孫。總角秀惠,衆稱神童,長而風情簡素,司徒掾辟,不就,蚤卒。」

『続晋陽秋』に言う。「許詢は字は玄度、高陽の人で、魏の中領軍の許允の玄孫である。幼いころから秀でて賢く、人々は神童と称えた。成長して風情が簡素で、司徒掾に召されたが赴かず、早く亡くなった」

《春秋傳》曰:「吉凶無門,唯人所召。」

『春秋伝』に言う。「吉凶に門はなく、ただ人が招くところである」

70空しい談論が務めを損ない、浮いた文章が肝心なことを妨げます

王右軍與謝太傅共登冶城。謝悠然遠想,有髙世之志。王謂謝曰:「夏禹勤王,手足胼胝;文王旰食,日不暇給。今四郊多壘,宜人人自效。而虚談廢務,浮文妨要,恐非當今所宜。」謝荅曰:「秦任商鞅,二世而亡,豈淸言致患邪?」

王右軍と謝太傅がともに冶城に登った。謝太傅はゆったりと遠くを思い、世を超える志があった。

王右軍は謝太傅に言った。「夏の禹は王の事に励んで手足にたこができ、文王は日が傾いてから食事をして日が足りなかった。いま四方の郊に砦が多いのだから、人それぞれが自ら力を尽くすべきだ。それなのに空しい談論が務めを損ない、浮いた文章が肝心なことを妨げている。おそらく今日ふさわしいことではあるまい」

謝太傅は答えた。「秦は商鞅を用いたが二代で亡んだ。どうして清談が憂いを招いたといえよう」

夾注 5

《揚州記》曰:「冶城,呉時鼓鑄之所。呉平,猶不廢。王茂弘所治也。」

『揚州記』に言う。「冶城は呉のとき鋳物をした場所である。呉が平定されてもなお廃されなかった。王茂弘が治めたところである」

《帝王世紀》曰:「禹治洪水,手足胼胝。世傳禹病偏枯,足不相過,今稱禹歩是也。」

『帝王世紀』に言う。「禹が洪水を治めて手足にたこができた。世に伝えるところでは、禹は体の片側が萎える病で、足が互いを越せなかったという。今日、禹歩と称するのがこれである」

《尚書》曰:「文王自朝至於日昃,不遑暇食。」

『尚書』に言う。「文王は朝から日が傾くまで、食事をする暇もなかった」

《禮記》曰:「四郊多壘,卿大夫之辱也。」

『礼記』に言う。「四方の郊に砦が多いのは、卿と大夫の恥である」

《戰國策》曰:「衞商鞅,諸庶孽子,名鞅,姓公孫氏。少好刑名學,爲秦孝公相,封於商。」

『戦国策』に言う。「衛の商鞅は多くの庶子の一人で、名は鞅、姓は公孫氏である。若くして刑名の学を好み、秦の孝公の相となって商に封ぜられた」

71柳の綿が風に舞い上がるというのには及びません

謝太傅寒雪日内集,與兒女講論文義。俄而雪驟,公欣然曰:「白雪紛紛何所似?」兄子胡兒曰:「撒鹽空中差可擬。」兄女曰:「未若柳絮因風起。」公大笑樂。即公大兄無奕女,左將軍王凝之妻也。

謝太傅が雪の降る寒い日に一家を集めて、子どもたちと文の意を論じ合った。やがて雪が激しくなると、公は喜んで言った。「白い雪がしきりに降るのは、何に似ているか」

兄の子の胡児は言った。「塩を空に撒いたのにたとえられましょう」

兄の娘は言った。「柳の綿が風に舞い上がるというのには及びません」

公は大いに笑って喜んだ。これは公の長兄の無奕の娘で、左将軍の王凝之の妻である。

夾注 2

胡兒,謝朗小字也。《續晉陽秋》曰:「朗字長度,安次兄據之長子。安蚤知之。文義艷發,名亞於玄,仕至東陽太守。」

胡児は謝朗の幼名である。『続晋陽秋』に言う。「謝朗は字は長度、謝安の次兄の謝拠の長子である。謝安は早くから彼を認めていた。文の意が華やかに発し、名は謝玄に次いだ。官は東陽太守に至った」

《王氏譜》曰:「凝之字叔平,右將軍羲之第二子也。歴江州刺史、左將軍、會稽内史。」《晉安帝紀》曰:「凝之事五斗米道。孫恩之攻會稽,凝之謂民吏曰:『不須備防,吾已請大道,許遣鬼兵相助,賊自破矣。』既不設備,遂爲恩所害。」《婦人集》曰:「謝夫人名道蘊,有文才。所著詩、賦、誄、頌傳於世。」

『王氏譜』に言う。「王凝之は字は叔平、右将軍の王羲之の第二子である。江州刺史、左将軍、会稽内史を歴任した」。『晋安帝紀』に言う。「王凝之は五斗米道を信じていた。孫恩が会稽を攻めたとき、王凝之は民や役人に『防ぎ備える必要はない。私はすでに大道に祈り、鬼の兵を遣わして助けてくださる許しを得た。賊はおのずから破れるだろう』と言った。備えをしなかったので、ついに孫恩に害された」。『婦人集』に言う。「謝夫人は名は道蘊、文才があった。著した詩、賦、誄、頌が世に伝わる」

72よいもなく、よくないもない

王中郎令伏玄度、習鑿齒論靑楚人物。臨成,以示韓康伯。康伯都無言,王曰:「何故不言?」韓曰:「無可無不可。」

王中郎が伏玄度と習鑿歯に、青州と楚の地の人物を論じさせた。出来上がると、韓康伯に見せた。

康伯は何も言わなかったので、王中郎は言った。「どうして何も言わないのか」

韓康伯は言った。「よいもなく、よくないもない」

夾注 3

《王中郎傳》曰:「坦之字文度,太原晉陽人。祖東海太守承,淸淡平遠。父述,貞貴簡正。坦之器度淳深,孝友天至,譽輯朝野,標的當時。累遷侍中、中書令,領北中郎將,徐兗二州刺史。」《中興書》曰:「伏滔,字玄度,平昌安丘人。少有才學,舉秀才。大司馬桓温參軍,領大著作,掌國史,遊撃將軍,卒。習鑿齒,字彦威,襄陽人。少以文稱,善尺牘。桓温在荊州,辟爲從事。歴治中別駕,遷滎陽太守。」

『王中郎伝』に言う。「王坦之は字は文度、太原晋陽の人である。祖父の東海太守の王承は清談が平らかで遠く、父の王述は正しく気高く簡素で端正であった。王坦之は器と度量が篤く深く、孝と友愛が天から備わっていて、誉れが朝廷と野に集まり、当時の的となった。累進して侍中、中書令に至り、北中郎将を兼ねて徐州・兗州二州の刺史となった」。『中興書』に言う。「伏滔は字は玄度、平昌安丘の人である。若くして才と学があり、秀才に推挙された。大司馬の桓温の参軍となり、大著作を兼ねて国史を預かり、遊撃将軍を務めて亡くなった。習鑿歯は字は彦威、襄陽の人である。若くして文で称えられ、手紙が巧みであった。桓温が荊州にいたとき召して従事とした。治中、別駕を歴任し、滎陽太守に遷った」

滔集載其論略曰:「滔以春秋時鮑叔、管仲、隰朋、召忽、輪扁、甯戚、麥丘人、逢丑父、晏嬰、涓子;戰國時公羊髙、孟軻、鄒衍、田單、荀卿、鄒奭、莒大夫、田子方、檀子、魯連、淳于髡、盻子、田光、顏歜、黔子、於陵仲子、王叔、即墨大夫;前漢時伏徴君、終軍、東郭先生、叔孫通、萬石君、東方朔、安期先生;後漢時大司徒伏三老、江革、逢萌、禽慶、承幼子、徐防、薛方、鄭康成、周孟玉、劉祖榮、臨孝存、侍其、元矩、孫賓碩、劉仲謀、劉公山、王儀伯、郎宗、禰正平、劉成國;魏時管幼安、邴根矩、華子魚、徐偉長、任昭先、伏髙陽。此皆靑士有才德者也。鑿齒以神農生於黔中,《邵南》詠其美化,春秋稱其多才,《漢廣》之風,不同《鷄鳴》之篇,子文、叔敖,羞與管仲比德。接輿之歌《鳳兮》,《漁父》之詠滄浪,漢陰丈人之折子貢,市南宜僚、屠羊説之不爲利回,魯仲連不及老萊夫妻,田光之於屈原,鄧禹、卓茂無敵於天下,管幼安不勝龐公,龐士元不推華子魚,何鄧二尚書,獨歩於魏朝,樂令無對於晉世。昔伏羲葬南郡,少昊葬長沙,舜葬零陵。比其人,則準的如此;論其土,則群聖之所葬;考其風,則詩人之所歌;尋其事,則未有赤眉、黃巾之賊。此何如靑州邪?」滔與相往反,鑿齒無以對也。

伏滔の文集にその論の要旨が載っていて、こう言う。「私は春秋のときの鮑叔・管仲・隰朋・召忽・輪扁・甯戚・麦丘の人・逢丑父・晏嬰・涓子、戦国のときの公羊高・孟軻・鄒衍・田単・荀卿・鄒奭・莒の大夫・田子方・檀子・魯連・淳于髡・盻子・田光・顔歜・黔子・於陵仲子・王叔・即墨の大夫、前漢のときの伏徴君・終軍・東郭先生・叔孫通・万石君・東方朔・安期先生、後漢のときの大司徒の伏三老・江革・逢萌・禽慶・承幼子・徐防・薛方・鄭康成・周孟玉・劉祖栄・臨孝存・侍其・元矩・孫賓碩・劉仲謀・劉公山・王儀伯・郎宗・禰正平・劉成国、魏のときの管幼安・邴根矩・華子魚・徐偉長・任昭先・伏高陽を挙げる。これらはみな青州の士で才と徳のある者たちである」。習鑿歯は、神農は黔中に生まれ、「邵南」はその美しい教化を詠み、『春秋』はその才の多いことを称え、「漢広」の風は「鶏鳴」の篇と同じでなく、子文と叔敖は管仲と徳をくらべられるのを恥じ、接輿は「鳳よ」と歌い、「漁父」は滄浪を詠み、漢陰の老人は子貢を折り、市南宜僚と羊を屠る説は利のために心を転じず、魯仲連は老萊夫妻に及ばず、田光は屈原に対してそうであり、鄧禹と卓茂は天下に敵がなく、管幼安は龐徳公に勝てず、龐士元は華子魚を推さず、何晏と鄧颺の二尚書は魏の朝廷で独り歩き、楽広は晋の世に並ぶ者がなかったと言った。「昔、伏羲は南郡に葬られ、少昊は長沙に葬られ、舜は零陵に葬られた。その人をくらべれば的はこのとおり、その土地を論ずれば諸々の聖人が葬られたところ、その風を考えれば詩人が歌ったところ、その事を尋ねれば赤眉や黄巾のような賊がまだ出たことがない。これは青州とくらべてどうか」と言った。伏滔は互いに言い合ったが、習鑿歯は答えようがなかった。

馬融注《論語》曰:「唯義所在。」

馬融が『論語』に注して言う。「ただ義のあるところに従うのである」

73清らかな風と明るい月があれば、すぐに玄度が思われる

劉尹云:「淸風朗月,輒思玄度。」

劉尹は言った。「清らかな風と明るい月があれば、すぐに玄度が思われる」

夾注 1

《晉中興士人書》曰:「許珣能淸言,於時士人皆欽慕仰愛之。」

『晋中興士人書』に言う。「許珣は清談が巧みで、当時の士人は皆欽み慕い仰ぎ愛した」

74秦や漢の君であれば、必ず裾をまくって足を濡らしたであろう

荀中郎在京口,登北固望海云:「雖未覩三山,便自使人有凌雲意。若秦漢之君,必當褰裳濡足。」

荀中郎が京口にいたとき、北固に登って海を望んで言った。「三山は見えないが、それでもおのずから人に雲を越える心を起こさせる。もし秦や漢の君であれば、必ず裾をまくって足を濡らしたであろう」

夾注 3

《晉陽秋》曰:「荀羡字令則,潁川人,光祿大夫崧之子也。淸和有識裁,少以主婿爲駙馬都尉。是時殷浩參謀百揆,引羡爲援,頻蒞義興、呉郡,超授北中郎將、徐州刺史,以蕃屛焉。」《中興書》曰:「羡年二十八,出爲徐兗二州。中興方伯之少,未有若羡者也。」

『晋陽秋』に言う。「荀羡は字は令則、潁川の人で、光禄大夫の荀崧の子である。清らかで和やかで識見と判断があり、若くして公主の婿として駙馬都尉となった。このとき殷浩が百官を取りしきって図っていたが、荀羡を引いて助けとしたので、続けて義興と呉郡を治め、飛び越えて北中郎将、徐州刺史を授けられ、藩の屏とされた」。『中興書』に言う。「荀羡は二十八歳で徐州・兗州二州に出た。中興以来、方伯の若さで荀羡のような者はなかった」

《南徐州記》曰:「城西北有別嶺入江,三面臨水,髙數十丈,號曰北固。」

『南徐州記』に言う。「城の西北に別の嶺が江に入り、三面が水に臨み、高さが数十丈あるので、北固と呼ぶ」

《史記·封禪書》曰:「蓬萊、方丈、瀛洲此三山,世傳在海中,去人不遠。嘗有至者,言諸仙人不死藥在焉。黃金白銀爲宮闕,草物禽獸盡白,望之如雲。及至,反居水下。欲到,即風引船而去,終莫能至。秦始皇登會稽,並海上,冀遇三神山之奇藥。漢武帝既封泰山,無風雨變至,方士更言蓬萊諸藥可得,於是上欣然東至海,冀獲蓬萊者。」

『史記・封禅書』に言う。「蓬萊・方丈・瀛洲のこの三山は、世に海の中にあって人から遠くないと伝えられる。かつて至った者があって、諸々の仙人の不死の薬がそこにあると言った。黄金と白銀で宮殿を造り、草も鳥獣もすべて白く、望めば雲のようである。近づくと、かえって水の下にある。着こうとすると、風が船を引いて去らせ、ついに至ることができない。秦の始皇は会稽に登り、海沿いに進んで、三神山の珍しい薬に出会うことを望んだ。漢の武帝は泰山に封禅したが、風雨の変化が起こらなかったので、方士がさらに蓬萊の諸々の薬が得られると言い、そこで上は喜んで東の海に至り、蓬萊を得ることを望んだ」

75もし郗超がこの言葉を聞いたら、必ず天の河にまでは至らなかったろう

謝公云:「賢聖去人,其間亦邇。」子姪未之許。公嘆曰:「若郗超聞此語,必不至河漢。」

謝公は言った。「賢人や聖人が人から離れている隔たりも、また近いものだ」

子や甥たちがこれを認めなかったので、公は嘆いた。「もし郗超がこの言葉を聞いたら、必ず天の河にまでは至らなかったろう」

夾注 1

《超別傳》曰:「超精於理義,沙門支道林以爲一時之俊。」《莊子》曰:「肩吾問於連叔曰:『吾聞言於接輿,大而無當,往而不反。怪怖其言,猶河漢而無極也。』」

『超別伝』に言う。「郗超は理と義に精通していて、沙門の支道林は一時の俊才だとした」。『荘子』に言う。「肩吾が連叔に問うて『私は接輿から言葉を聞いたが、大きくて当たるところがなく、行って帰ってこない。その言葉が怪しく恐ろしく、天の河のように果てがないようであった』と言った」

76空を突く姿があるのに、どうして人の目の慰み物になろうとするか

支公好鶴,住剡東𡵙山,有人遺其雙鶴;少時,翅長欲飛。支意惜之,乃鎩其翮。鶴軒翥不能復起,乃舒翼反頭視之,如有懊喪意。林曰:「既有凌霄之姿,何肯爲人作耳目近玩?」養令翮成,置使飛去。

支公は鶴が好きで、剡の東の𡵙山に住んでいたが、ある人が鶴一対を贈ってくれた。しばらくして翼が伸びて飛び立とうとしたので、支公は惜しむ気持ちから、その羽の軸を切った。

鶴は翼を持ち上げても再び飛び立てず、そこで翼を広げて頭をめぐらしてそれを見たが、残念がって気落ちした様子だった。

林公は言った。「空を突く姿があるのに、どうして人の耳目に近い慰み物になろうとするか」

養って羽の軸が伸びると、放して飛び去らせた。

夾注 1

《支公書》曰:「山去會稽二百里。」

『支公書』に言う。「山は会稽から二百里離れている」

77もとより深く溜まってとどまり、受け入れて流れ出さないのだろう

謝中郎經曲阿後湖,問左右:「此是何水?」荅曰:「曲阿湖。」謝曰:「故當淵注渟著,納而不流。」

謝中郎が曲阿の後湖を通りかかり、側の者に尋ねた。「これは何という水か」

答えて言った。「曲阿湖です」

謝中郎は言った。「もとより深く溜まってとどまり、受け入れて流れ出さないのだろう」

夾注 2

《中興書》曰:「謝萬字萬石,太傅安弟也。才氣髙俊,蚤知名,歴吏部郎、西中郎將、豫州刺史、散騎常侍。」

『中興書』に言う。「謝万は字は万石、太傅の謝安の弟である。才と気が高くすぐれ、早く名を知られ、吏部郎、西中郎将、豫州刺史、散騎常侍を歴任した」

《太康地記》曰:「曲阿本名雲陽,秦始皇以有王氣,鑿北阬山以敗其勢,截其直道,使其阿曲,故曰曲阿也。呉還爲雲陽,今復名曲阿。」

『太康地記』に言う。「曲阿はもとの名を雲陽といったが、秦の始皇が王者の気があるというので、北の阬山を掘ってその勢いを損ない、その真っ直ぐな道を断ち切って岸を曲げさせたので、曲阿という。呉はまた雲陽に戻したが、今は再び曲阿と名づけている」

78欲しがる者が多くを求めなかったので、与える者に少なさを忘れさせたのです

晉武帝毎餉山濤恒少。謝太傅以問子弟,車騎荅曰:「當由欲者不多,而使與者忘少。」

晋の武帝が山濤に下される物はいつも少なかった。謝太傅がこれを子弟に尋ねると、車騎は答えた。「欲しがる者が多くを求めなかったので、与える者に少なさを忘れさせたのです」

夾注 3

安也

謝安である。

玄也

謝玄である。

謝車騎家傳曰:「玄字幼度,鎭西奕第三子也。神理明俊,善微言。叔父太傅嘗與子姪燕集,問:『武帝任山公以三事,任以官人。至於賜予,不過斤合。當有旨不?』玄答:『有辭致也。』」

「謝車騎家伝」に言う。「謝玄は字は幼度、鎮西将軍の謝奕の第三子である。精神も理も明るくすぐれ、微妙な言葉が巧みであった。叔父の太傅がかつて子や甥たちと集まって宴をしていたとき、『武帝は山公に三つの事を任せ、人を選ぶ仕事を任せた。ところが下賜となると斤や合を超えなかった。意味があるのだろうか』と尋ねると、謝玄は『言い味がございます』と答えた」

79康伯が来たら、河を渡って舟を焼こう

謝胡兒語庾道季:「諸人莫當就卿談,可堅城壘。」庾曰:「若文度來,我以偏師待之;康伯來,濟河焚舟。」

謝胡児が庾道季に言った。「人々はあなたと談じに来られないだろうから、城壁を固められるとよい」

庾道季は言った。「もし文度が来たら、私は手分けした兵で迎えよう。康伯が来たら、河を渡って舟を焼こう」

夾注 2

道季,庾龢小字。徐廣《晉紀》曰:「龢字道季,太尉亮子也。風情率悟,以文談致稱於時。歴仕至丹陽尹,兼中領軍。」

道季は庾龢の幼名である。徐広の『晋紀』に言う。「庾龢は字は道季、太尉の庾亮の子である。風情がさっぱりと悟っていて、文と談論によって当時称えられた。仕えて丹陽尹に至り、中領軍を兼ねた」

《春秋傳》曰:「秦伯伐晉,濟河焚舟。」杜預曰:「示必死。」

『春秋伝』に言う。「秦伯が晋を討つのに、河を渡って舟を焼いた」。杜預が言う。「必ず死ぬ覚悟を示したのである」

80追い詰められた猿が林に走るのに、どこに木を選ぶ暇がありましょう

李弘度常嘆不被遇。殷揚州知其家貧,問:「君能屈志百里不?」李荅曰:「北門之嘆,久已上聞;窮猿奔林,豈暇擇木?」遂授剡縣。

李弘度はいつも世に認められないことを嘆いていた。殷揚州はその家が貧しいことを知って尋ねた。「君は志を屈めて百里の県を務められるか」

李弘度は答えた。「北門の嘆きは、すでに久しく上にお聞き届けいただいております。追い詰められた猿が林に走るのに、どこに木を選ぶ暇がありましょう」

そこで剡県を授けた。

夾注 3

《中興書》曰:「李充字弘度,江夏郢人也。祖康、父矩,皆有美名。充初辟丞相掾、記室參軍,以貧,求剡縣,遷大著作、中書郎。」

『中興書』に言う。「李充は字は弘度、江夏郢の人である。祖父の李康、父の李矩はともに美しい名があった。李充は初め丞相掾、記室参軍に召されたが、貧しかったので剡県を求め、大著作、中書郎に遷った」

殷浩別見

殷浩については別に見える。

《衞詩》:「北門,刺仕不得志也。」

『衛詩』に「北門は、仕えて志を得られないことを刺ったものである」とある。

81人の心を開いて洗うだけでなく、日も月も清らかに明るくなる

王司州至呉興印渚中看,嘆曰:「非唯使人情開滌,亦覺日月淸朗。」

王司州が呉興の印渚に着いて眺め、嘆いて言った。「人の心を開いて洗うだけでなく、日も月も清らかに明るくなるのが感じられる」

夾注 1

《王胡之別傳》曰:「胡之字脩齡,琅邪臨沂人,王廙之子也。歴呉興太守,徴侍中、丹陽尹、祕書監,並不就。拜使持節,都督司州諸軍事、西中郎將、司州刺史。」《呉興記》曰:「於潛縣東七十里,有印渚,渚傍有白石山,峻壁四十丈。印渚蓋衆溪之下流也。印渚已上至縣,悉石瀨惡道,不可行船;印渚已下,水道無險,故行旅集焉。」

『王胡之別伝』に言う。「王胡之は字は脩齢、琅邪臨沂の人で、王廙の子である。呉興太守を歴任し、侍中、丹陽尹、祕書監に召されたが、いずれも赴かなかった。使持節、司州の諸軍事を都督する西中郎将、司州刺史に任じられた」。『呉興記』に言う。「於潜県の東七十里に印渚があり、渚の傍らに白石山があって、険しい壁が四十丈ある。印渚はおおよそ諸々の渓の下流である。印渚から上は県まで、すべて石の瀬で道が悪く、船を通せない。印渚から下は水路に険しさがないので、旅人が集まる」

82阿酃はもともと少しは才と器量があるな

謝萬作豫州都督,新拜,當西之都邑,相送累日,謝疲頓。於是髙侍中往,徑就謝坐,因問:「卿今仗節方州,當疆理西蕃,何以爲政?」謝粗道其意。髙便爲謝道形勢,作數百語。謝遂起坐。髙去後,謝追曰:「阿酃故麤有才具。」謝因此得終坐。

謝万が豫州都督となり、任命されたばかりで西の都邑に向かうことになったが、何日も送別が続いて疲れ果てていた。

そこへ高侍中が行き、まっすぐ謝万の座に進んで尋ねた。「あなたはいま節を帯びて一つの州を任され、西の藩を治めるべきところですが、何をもって政をなさいますか」

謝万は大まかにその考えを語った。高侍中はすぐに謝万のために形勢を語り、数百語を述べたので、謝万はついに起き上がって座り直した。

高侍中が去ったあと、謝万は続けて言った。「阿酃はもともと少しは才と器量があるな」

謝万はこれによって座を最後まで務めることができた。

夾注 2

《中興書》曰:「髙崧字茂琰,廣陵人。父悝,光祿大夫。崧少好學,善史傳,累遷吏部郎、侍中,以公累免官。」

『中興書』に言う。「高崧は字は茂琰、広陵の人である。父の高悝は光禄大夫である。高崧は若くして学を好み、史伝に通じ、累進して吏部郎、侍中に至ったが、公の過失に連座して官を免じられた」

阿酃,崧小字也。

阿酃は高崧の幼名である。

83川と山が遠く開けて、まさしく万里の勢いがある

袁彦伯爲謝安南司馬,都下諸人送至瀨鄕。將別,既自悽惘,嘆曰:「江山遼落,居然有萬里之勢。」

袁彦伯が謝安南の司馬となったとき、都の人々が瀬郷まで送った。別れようとすると、すでに自ら悲しく心細くなって、嘆いて言った。「川と山が遠く開けて、まさしく万里の勢いがある」

夾注 2

安南,謝奉,別見。

安南は謝奉で、別に見える。

《續晉陽秋》曰:「袁宏字彦伯,陳郡人,魏郎中令煥六世孫也。祖猷,侍中。父勗,臨汝令。宏起家建威參軍,安南司馬記室。太傅謝安賞宏機捷辯速,自吏部郎出爲東陽郡,乃祖之於冶亭,時賢皆集。安欲卒迫試之,執手將別,顧左右取一扇而贈之。宏應聲答曰:『輒當奉揚仁風,慰彼黎庶。』合坐歎其要捷。性直亮,故位不顯也。在郡卒。」

『続晋陽秋』に言う。「袁宏は字は彦伯、陳郡の人で、魏の郎中令の袁煥の六代の孫である。祖父の袁猷は侍中、父の袁勗は臨汝令である。袁宏は建威参軍から身を起こし、安南司馬記室となった。太傅の謝安は袁宏の機敏で弁の速いことを買っていたが、吏部郎から東陽郡に出ることになったので、冶亭で送別の宴を開き、当時の賢者が皆集まった。謝安は急に彼を試そうとして、手を取って別れようとしながら、側を顧みて扇を一つ取って贈った。袁宏は声に応じて『すぐに仁の風を奉じて掲げ、あの民たちを慰めましょう』と答えたので、居並ぶ者はその的を射た速さに嘆じた。性が真っ直ぐで明らかだったので、位は顕れなかった。郡で亡くなった」

84楓や柳は一抱えあっても、何に使えるのか

孫綽賦《遂初》,築室畎川,自言見止足之分。齋前種一株松,恒自手壅治之。髙世遠時亦鄰居,語孫曰:「松樹子非不楚楚可憐,但永無棟梁用耳!」孫曰:「楓柳雖合抱,亦何所施?」

孫綽は「遂初賦」を作り、畎川に家を建てて、自ら止まり足るべき分を見たと言った。書斎の前に松を一株植え、いつも自分の手で土を盛り手入れしていた。

高世遠はそのころ隣に住んでいたが、孫綽に言った。「松の若木は美しく可愛くないわけではないが、ただいつまでも棟や梁に使えないだけだ」

孫綽は言った。「楓や柳は一抱えあっても、いったい何に使えるのか」

夾注 2

《中興書》曰:「綽字興公,太原中都人。少以文稱,歴太學博士、大著作、散騎常侍。」《遂初賦》敘曰:「余少慕老莊之道,仰其風流久矣。卻感於陵賢妻之言,悵然悟之。乃經始東山,建五畝之宅,帶長阜,倚茂林,孰與坐華幕撃鐘鼓者同年而語其樂哉!」

『中興書』に言う。「孫綽は字は興公、太原中都の人である。若くして文で称えられ、太学博士、大著作、散騎常侍を歴任した」。「遂初賦」の叙に言う。「私は若いころから老荘の道を慕い、その風流を仰いで久しい。かえって於陵の賢い妻の言葉に感じて、はっとこれを悟った。そこで東山を開き始め、五畝の宅を建て、長い丘を帯び、茂った林に寄りかかった。華やかな幕に座って鐘や鼓を打つ者と、どうして同じ年に並べてその楽しみを語れようか」

世遠,髙柔字也。別見。

世遠は高柔の字である。別に見える。

85遠く重なる城を望めば、朱の楼が夕映えの雲のようだ

桓征西治江陵城甚麗,會賓僚出江津望之,云:「若能目此城者有賞。」顧長康時爲客,在坐,目曰:「遙望層城,丹樓如霞。」桓即賞以二婢。

桓征西が江陵城を造ったのはたいそう美しかった。賓客と属僚を集めて江の渡し場に出て眺め、言った。「もしこの城を言い表せる者があれば賞をやろう」

顧長康はそのとき客として座にいたが、言い表して言った。「遠く重なる城を望めば、朱の楼が夕映えの雲のようだ」

桓征西はすぐに婢二人を賞として与えた。

夾注 1

盛弘之《荊州記》曰:「荊州城臨漢江,臨江王所治。王被徴,出城北門而車軸折,父老泣曰:『吾王去不還矣!』從此不開北門。」

盛弘之の『荊州記』に言う。「荊州城は漢江に臨み、臨江王が治めたところである。王が召されて城の北門を出たところで車軸が折れたので、老人たちは泣いて『我が王は行って帰られまい』と言った。これより北門を開かなかった」

86銅雀台の上の妓女には及ばない

王子敬語王孝伯曰:「羊叔子自復佳耳,然亦何與人事?」故不如銅雀臺上妓。」

王子敬が王孝伯に言った。「羊叔子はそれなりによいだけだ。しかしまた人の事に何の関わりがあろう。だから銅雀台の上の妓女には及ばない」

夾注 2

《晉諸公贊》曰:「羊祜字叔子,太山平陽人也。世長吏二千石,至祜九世,以淸德稱。爲兒時,遊汶濱,有行父止而觀焉,歎息曰:『處士大好相,善爲之,未六十,當有重功於天下。即富貴,無相忘。』遂去,莫知所在。累遷都督荊州諸軍事。自在南夏,呉人説服,稱曰羊公,莫敢名者。南州人聞公喪,號哭罷市。」

『晋諸公賛』に言う。「羊祜は字は叔子、太山平陽の人である。代々二千石の長吏を務めて羊祜で九代になるが、清らかな徳で称えられた。子どものころ汶水のほとりで遊んでいると、通りかかった老人が足を止めて見つめ、嘆息して『処士どのは大いによい相だ。しっかりやりなさい。六十にならぬうちに、きっと天下に重い功があるだろう。富貴になられたら、互いに忘れないように』と言い、ついに去って、どこにいるか分からなくなった。累進して荊州の諸軍事を都督するに至った。南夏にあってから、呉の人も喜んで服し、羊公と称えて、敢えて名を呼ぶ者がなかった。南州の人は公の喪を聞いて、号泣して市を閉じた」

魏武遺令曰:「以吾妾與妓人皆著銅雀臺上,施六尺床繐帷,月朝十五日,輒使向帳作伎。」

魏の武帝の遺令に言う。「私の妾と妓女は皆銅雀台の上に置き、六尺の床と薄い帷を設けて、月の朔日と十五日には、そのたびに帳に向かって芸をさせよ」

87何と平らかに連なっていることか

林公見東陽長山曰:「何其坦迤!」

林公が東陽の長山を見て言った。「何と平らかに連なっていることか」

夾注 1

《會稽土地志》曰:「山靡迤而長,縣因山得名。」

『会稽土地志』に言う。「山が斜めに連なって長いので、県が山によって名を得た」

88千の巌が競って秀で、万の谷が競って流れる

顧長康從會稽還,人問山川之美。顧云:「千巖競秀,萬壑爭流,草木蒙籠其上,若雲興霞蔚。」

顧長康が会稽から帰ってくると、人々が山と川の美しさを尋ねた。

顧長康は言った。「千の巌が競って秀で、万の谷が競って流れ、草木がその上に茂っていて、雲が湧き夕映えが盛るようです」

夾注 1

丘淵之《文章録》曰:「顧愷之字長康,晉陵人。父説,尚書左丞。愷之,義熙初爲散騎常侍。」

丘淵之の『文章録』に言う。「顧愷之は字は長康、晋陵の人である。父の顧悦は尚書左丞である。顧愷之は義熙のはじめに散騎常侍となった」

89哀しみが来れば哭するのだ。決まった時などあろうか

簡文崩,孝武年十餘歳立,至暝不臨。左右啓「依常應臨」。帝曰:「哀至則哭,何常之有!」

簡文帝が崩じ、孝武帝が十歳余りで即いたが、日が暮れるまで哭さなかった。側の者が「いつものとおり哭されるべきです」と申し上げると、帝は言った。「哀しみが来れば哭するのだ。決まった時などあろうか」

夾注 1

宋明帝《文章志》曰:「孝武皇帝諱昌明,簡文第三子也。初,簡文觀讖書曰:『晉氏阼盡昌明。』及帝誕育,東方始明,故因生時以爲諱,而相與忘告。簡文問之,乃以諱對。簡文流涕曰:『不意我家昌明便出。』帝聰惠,推賢任才,年三十五崩。」

宋の明帝の『文章志』に言う。「孝武皇帝は諱は昌明、簡文帝の第三子である。はじめ簡文帝が讖書を見ると『晋氏の位は昌明に尽きる』とあった。帝が生まれたとき東の方が明け始めたので、生まれた時をもって諱としたが、互いに告げるのを忘れていた。簡文帝が尋ねると、そこで諱を答えた。簡文帝は涙を流して『思いがけず我が家の昌明がもう出てきたか』と言った。帝は聡明で賢く、賢者を推し才ある者を任じたが、三十五歳で崩じた」

90明るい鏡が度々映して疲れ、清らかな流れが恵みの風を厭がるのを見たことがありますか

孝武將講《孝經》,謝公兄弟與諸人私庭講習,車武子難苦問謝,謂袁羊曰:「不問則德音有遺;多問則重勞二謝。」袁曰:「必無此嫌。」車曰:「何以知爾?」袁曰:「何嘗見明鏡疲於屢照,淸流憚於惠風?」

孝武帝が『孝経』を講じようとしたので、謝公の兄弟と人々が私邸の庭で予め習い合った。

車武子は謝公に難しいことを尋ねるのを苦にして、袁羊に言った。「尋ねなければ徳のあるお言葉を聞き漏らすし、たくさん尋ねれば二人の謝公を重ねて煩わせることになる」

袁羊は言った。「必ずそういう気遣いは要らないでしょう」

車武子は言った。「どうしてそれが分かるのか」

袁羊は言った。「明るい鏡が度々映して疲れ、清らかな流れが恵みの風を厭がるのを、いつ見たことがありますか」

夾注 3

《續晉陽秋》曰:「寧康三年九月九日,帝講《孝經》。僕射謝安侍坐,吏部尚書陸納兼侍中卞耽讀,黃門侍郎謝石、吏部袁宏兼執經,中書郎車胤、丹陽尹王混摘句。」

『続晋陽秋』に言う。「寧康三年九月九日、帝が『孝経』を講じた。僕射の謝安が侍坐し、吏部尚書の陸納と兼侍中の卞耽が読み、黄門侍郎の謝石と吏部の袁宏が兼ねて経を持ち、中書郎の車胤と丹陽尹の王混が句を摘んだ」

車胤別見。

車胤については別に見える。

袁羊,喬小字也。《袁氏家傳》曰:「喬字彦升,陳郡人。父瑰,光祿大夫。喬歴尚書郎、江夏相。從桓温平蜀,封湘西伯、益州刺史。」

袁羊は袁喬の幼名である。『袁氏家伝』に言う。「袁喬は字は彦升、陳郡の人である。父の袁瑰は光禄大夫である。袁喬は尚書郎、江夏相を歴任した。桓温に従って蜀を平定し、湘西伯、益州刺史に封ぜられた」

91山陰の道を行くと、受け止めるのに暇がない

王子敬云:「從山陰道上行,山川自相映發,使人應接不暇;若秋冬之際,尤難爲壞。」

王子敬は言った。「山陰の道を行くと、山と川がおのずから互いに映え合って、人に受け止める暇を与えない。もし秋と冬のあいだなら、なおさら心に収めがたい」

夾注 2

《會稽土地志》曰:「邑在山陰,故以名焉。」

『会稽土地志』に言う。「邑が山の北にあるので、それによって名づけた」

《會稽郡記》曰:「會稽境特多名山水,峰崿隆峻,吐納雲霧。松栝楓柏,擢榦竦條,潭壑鏡徹,淸流瀉注。王子敬見之曰:『山水之美,使人應接不暇。』」

『会稽郡記』に言う。「会稽の地には名高い山水がとりわけ多く、峰や崖が高く険しく、雲と霧を吐き吞む。松、檜、楓、柏が幹を抜き枝を立て、淵や谷は鏡のように澄み、清らかな流れが注ぎ落ちる。王子敬はこれを見て『山水の美しさが人に受け止める暇を与えない』と言った」

92芝や蘭や玉の木のようなもので、庭に生えていてほしいだけです

謝太傅問諸子姪:「子弟亦何預人事,而正欲使其佳?」諸人莫有言者,車騎荅曰:「譬如芝蘭玉樹,欲使其生於階庭耳。」

謝太傅が子や甥たちに尋ねた。「子弟がいったい人の世の何に関わるというので、わざわざ彼らを立派にしようとするのか」

人々は誰も言う者がなかったが、車騎が答えた。「たとえば芝や蘭や玉の木のようなもので、それが階や庭に生えていてほしいだけです」

夾注 1

謝玄

謝玄である。

93郊や邑はまだ舞い散っていたのに、林と峰はもう真っ白でした

道壹道人好整飾音辭,從都下還東山,經呉中。已而會雪下,未甚寒。諸道人問在道所經。壹公曰:「風霜固所不論,乃先集其慘澹。郊邑正自飄瞥,林岫便已皓然。」

道壹道人は言葉を整え飾るのを好んだ。都から東山に帰る途中、呉のあたりを通った。やがてちょうど雪が降ったが、それほど寒くはなかった。

人々の道人が道中の様子を尋ねると、壹公は言った。「風も霜ももとより言うまでもなく、まずその寒々しさが集まってきました。郊や邑はまだ舞い散っていたのに、林と峰はもう真っ白でした」

夾注 1

王珣《遊嚴陵瀨詩》敘曰:「道壹姓竺氏,名德。」沙門題目曰:「道壹文鋒富贍,孫綽爲之贊曰:『馳騁遊説,言固不虚。唯茲壹公,綽然有餘。譬若春圃,載芬載敷。條柯猗蔚,枝榦扶疎。』」

王珣の「遊厳陵瀬詩」の叙に言う。「道壹は姓は竺氏、名は徳である」。沙門の題目に言う。「道壹は文の鋒が豊かである。孫綽はこれを賛して『馳せ出て説き回り、言葉はまことに虚しくない。ただこの壹公だけがゆったりと余りがある。たとえば春の菜畑のようで、香りを載せて広げる。枝も幹も茂り合い、小枝が伸び広がる』と言った」

94桑の実が甘く香り、鴟鴞が声を改めます

張天錫爲涼州刺史,稱制西隅。既爲苻堅所禽,用爲侍中。後於壽陽倶敗,至都,爲孝武所器;毎入,言論無不竟日。頗有嫉之者,於坐問張:「北方何物可貴?」張曰:「桑椹甘香,鴟鴞革響;淳酪養性,人無嫉心。」

張天錫は涼州刺史となり、西の隅で天子を称した。苻堅に捕らえられると、侍中として用いられた。のちに寿陽でともに敗れ、都に着くと孝武帝に器として認められ、入るたびに話が一日中尽きないことがなかった。

かなり彼を妬む者があって、座で張天錫に尋ねた。「北方には何の物が貴ぶに足るのか」

張天錫は言った。「桑の実が甘く香り、鴟鴞が声を改め、濃い乳が性を養い、人に妬む心がない」

夾注 3

張資《涼州記》曰:「天錫字純嘏,安定烏氏人,張耳後也。曾祖軌,永嘉中爲涼州刺史,値京師大亂,遂據涼土。天錫簒位,自立爲涼州牧。苻堅使將姚萇攻沒涼州,天錫歸長安,堅以爲侍中、比部尚書、歸義侯。從堅至壽陽,堅軍敗,遂南歸。拜散騎常侍、西平公。」《中興書》曰:「天錫後以貧拜廬江太守。薨,贈侍中。」

張資の『涼州記』に言う。「張天錫は字は純嘏、安定烏氏の人で、張耳の後裔である。曾祖父の張軌が永嘉のころ涼州刺史となったが、都が大いに乱れた時に遭って、ついに涼州の地を拠った。張天錫は位を奪い、自ら涼州牧となった。苻堅が将の姚萇に涼州を攻め落とさせたので、張天錫は長安に帰り、苻堅は彼を侍中、比部尚書、帰義侯とした。苻堅に従って寿陽に至ったが、苻堅の軍が敗れると、ついに南に帰った。散騎常侍、西平公に任じられた」。『中興書』に言う。「張天錫はのちに貧しさのため廬江太守に任じられた。亡くなって侍中を贈られた」

《詩·魯頌》曰:「翩彼飛鴞,集於泮林。食我桑椹,懷我好音。」

『詩・魯頌』に言う。「ひらひらと飛ぶあの鴞が、泮宮の林に集まり、我が桑の実を食べて、我らによい声を抱いてくれる」

《西河舊事》曰:「河西牛羊肥,酪過精好,但寫酪置革上,都不解散也。」

『西河旧事』に言う。「河西では牛や羊が肥えて、乳が並外れてよく、ただ乳を注いで革の上に置いても、まるで崩れ散らない」

95山が崩れ海が涸れたら、魚と鳥は何に頼ろう

顧長康拜桓宣武墓,作詩云:「山崩溟海竭,魚鳥將何依。」人問之曰:「卿憑重桓乃爾,哭之狀其可見乎?」顧曰:「鼻如廣莫長風,眼如懸河決溜。」或曰:「聲如震雷破山,涙如傾河注海。」

顧長康が桓宣武の墓に拝して、詩を作った。「山が崩れ海が涸れた。魚と鳥はこれから何に頼ろう」

人々が尋ねた。「卿は桓公にこれほど深く頼っていたのだから、哭した様子を見せてもらえるか」

顧長康は言った。「鼻は広く遥かな大風のようで、目は懸かった河が決して流れ出すようであった」

ある者はこう言った。「声は雷が轟いて山を砕くようで、涙は河を傾けて海に注ぐようであった」

夾注 2

宋明帝《文章志》曰:「愷之爲桓温參軍,甚被親暱。」

宋の明帝の『文章志』に言う。「顧愷之は桓温の参軍となり、たいそう親しく愛された」

《春秋考異郵》曰:「距不周風四十五日,廣莫風至。廣莫者,精大備也。蓋北風也,一日寒風。」

『春秋考異郵』に言う。「不周風から四十五日を隔てて、広莫風が至る。広莫とは、精が大いに備わったものである。おおよそ北風であり、別名を寒風という」

96むしろ蘭が砕け玉が折れようと、蕭や艾として茂りはしない

毛伯成既負其才氣,常稱:「寧爲蘭摧玉折,不作蕭敷艾榮。」

毛伯成は自分の才と気を恃んでいて、いつもこう称えていた。「むしろ蘭が砕け玉が折れようとも、蕭や艾として茂り栄えはしない」

夾注 1

《征西寮屬名》曰:「毛玄字伯成,潁川人。仕至征西行軍參軍。」

『征西寮属名』に言う。「毛玄は字は伯成、潁川の人である。官は征西行軍参軍に至った」

97世尊は黙っておられた。それがお許しです

范甯作豫章,八日請佛有板。衆僧疑,或欲作荅。有小沙彌在坐末曰:「世尊默然,則爲許可。」衆從其義。

范寧が豫章太守となり、四月八日に仏に願う札を奉った。僧たちは迷い、ある者は答えを作ろうとした。

若い沙弥が座の末にいて言った。「世尊は黙っておられました。それがお許しです」

僧たちはその意に従った。

夾注 1

《中興書》曰:「甯字武子,愼陽縣人。博學通覽,累遷中書郎、豫章太守。」

『中興書』に言う。「范寧は字は武子、慎陽県の人である。広く学んで隅々まで読み、累進して中書郎、豫章太守に至った」

98薄い雲が点々と添えられているのには及ばないかと思います

司馬太傅齋中夜坐,於時天月明淨,都無纖翳;太傅嘆以爲佳。謝景重在坐,荅曰:「意謂乃不如微雲點綴。」太傅因戲謝曰:「卿居心不淨,乃復強欲滓穢太淸邪?」

司馬太傅が書斎で夜に座っていたが、そのとき空の月が明るく澄んで、糸ほどの遮りもなかった。太傅は嘆じて美しいと言った。

謝景重が座にいて答えた。「私の思いでは、薄い雲が点々と添えられているのには及ばないかと思います」

太傅はそこで謝景重をからかった。「卿は心の持ち方が清らかでないので、あえて大いなる清らかさを濁そうとまでするのか」

夾注 2

《孝文王傳》曰:「王諱道子,簡文皇帝第五子也。封會稽王,領司徒、揚州刺史,進太傅。爲桓玄所害,贈丞相。」

「孝文王伝」に言う。「王は諱は道子、簡文皇帝の第五子である。会稽王に封ぜられ、司徒と揚州刺史を兼ね、太傅に進んだ。桓玄に害され、丞相を贈られた」

《續晉陽秋》曰:「謝重字景重,陳郡人。父朗,東陽太守。重明秀有才會,終驃騎長史。」

『続晋陽秋』に言う。「謝重は字は景重、陳郡の人である。父の謝朗は東陽太守である。謝重は明るく秀でて才と機知があり、驃騎長史で終わった」

99陽が衰え陰が増したので、天の歩みが険しかったのです

王中郎甚愛張天錫,問之曰:「卿觀過江諸人經緯,江左軌轍,有何偉異?後來之彦,復何如中原?」張曰:「研求幽邃,自王何以還;因時脩制,荀樂之風。」王曰:「卿知見有餘,何故爲苻堅所制?」荅曰:「陽消陰息,故天歩屯蹇;否剝成象,豈足多譏?」

王中郎は張天錫をたいそう買っていて、彼に尋ねた。「卿の見るところ、江を渡ってきた人々の治めぶりや江左の足跡に、何かすぐれて変わったところがあるか。後から出てきた俊才は、また中原とくらべてどうか」

張天錫は言った。「奥深いところを究め尋ねたのは王弼と何晏以来のことであり、時に応じて制度を整えたのは荀氏と楽氏の風です」

王中郎は言った。「卿は知るところ見るところが十分なのに、どういうわけで苻堅に押さえられたのか」

答えて言った。「陽が衰え陰が増したので、天の歩みが険しく難しかったのです。否と剥の卦が象を成していたのですから、どうして多くを責めるに足りましょうか」

夾注 2

荀顗、荀勗脩定法制,樂則未聞。

荀顗と荀勗が法と制度を整え定めた。楽氏については聞いていない。

張資《涼州記》曰:「天錫明鑒穎發,英聲少著。」

張資の『涼州記』に言う。「張天錫は明らかに見抜き秀でて現れ、すぐれた評判が若くして知られた」

100どうして五人の息子を一人の娘と取り替えましょうか

謝景重女適王孝伯兒,二門公甚相愛美。謝爲太傅長史,被彈;王即取作長史,帶晉陵郡。太傅已構嫌孝伯,不欲使其得謝,還取作咨議。外示縶維,而實以乖閒之。及孝伯敗後,太傅繞東府城行散,僚屬悉在南門要望候拜,時謂謝曰:「王甯異謀,云是卿爲其計。」謝曾無懼色,斂笏對曰:「樂彦輔有言:『豈以五男易一女?』」太傅善其對,因舉酒勸之曰:「故自佳!故自佳!」

謝景重の娘が王孝伯の子に嫁いだので、二つの家の当主は互いにたいそう愛し美しいこととしていた。

謝景重が太傅の長史となったが弾劾を受けたので、王孝伯はすぐに引き取って長史とし、晋陵郡を帯びさせた。太傅はすでに王孝伯と仲が悪くなっていて、彼が謝景重を得るのを望まず、また引き取って咨議とした。外には繋ぎ留めるように見せて、実は二人を引き離そうとしたのである。

王孝伯が敗れたのち、太傅が東府城を回りながら薬の気を散らして歩いていると、属僚たちはみな南門で待ち望んで拝した。そのとき謝景重に言った。「王寧が別の企てを起こしたのは、卿がその計を立てたからだというぞ」

謝景重は少しも恐れる色なく、笏を正して答えた。「楽彦輔の言葉がございます。『どうして五人の息子を一人の娘と取り替えましょうか』」

太傅はその答えを善しとし、そこで杯を挙げて勧めて言った。「もとよりよい。もとよりよい」

夾注 3

《謝女譜》曰:「重女月鏡,適王恭子愔之。」

『謝女譜』に言う。「謝重の娘の月鏡が、王恭の子の王愔之に嫁いだ」

《丹陽記》曰:「東府城西,有簡文爲會稽王時第,東則孝文王道子府。道子領揚州,仍住先舍,故俗稱東府。」

『丹陽記』に言う。「東府城の西に、簡文帝が会稽王であったときの邸があり、東は孝文王の司馬道子の府である。司馬道子は揚州を兼ねながら、そのまま以前の住まいに留まったので、世俗では東府と呼ぶ」

阿甯,王恭小字也。

阿寧は王恭の幼名である。

101入り乱れた議論は、聖なるお見立てで裁かれることです

桓玄義興還後,見司馬太傅,太傅已醉,坐上多客,問人云:「桓温來欲作賊,如何?」桓玄伏不得起。謝景重時爲長史,舉板荅曰:「故宣武公黜昏暗,登聖明,功超伊霍。紛紜之議,裁之聖鑒。」太傅曰:「我知!我知!」即舉酒云:「桓義興,勸卿酒。」桓出謝過。

桓玄が義興から帰ったのち、司馬太傅にお目にかかると、太傅はすでに酔っていて、座には客が多かった。人々に尋ねた。「桓温が来て賊を企てたというが、どうだ」

桓玄は伏せて起き上がれなかった。

謝景重はそのとき長史であったが、笏を挙げて答えた。「亡き宣武公は昏く暗い者を退け、聖く明らかな方を立てられましたから、功は伊尹と霍光を超えます。入り乱れた議論は、聖なるお見立てで裁かれることです」

太傅は言った。「分かっている、分かっている」

そして杯を挙げて言った。「桓義興、卿に酒を勧めよう」

桓玄は退出して過ちを謝した。

夾注 2

《晉安帝紀》曰:「温在姑孰,諷朝廷,求九錫。謝安使吏部郎袁宏具其草,以示僕射王彪之。彪之作色曰:『丈夫豈可以此事語人邪?』安徐問其計。彪之曰:『聞其疾已篤,且可緩其事。』安從之,故不行。」

『晋安帝紀』に言う。「桓温は姑孰にいて朝廷にほのめかし、九錫を求めた。謝安は吏部郎の袁宏にその草案を整えさせ、僕射の王彪之に見せた。王彪之は顔色を変えて『大丈夫がどうしてこんな事を人に言えようか』と言った。謝安はゆっくりとその計を尋ねた。王彪之は『彼の病がすでに重いと聞いています。まずはその事を引き延ばされるのがよい』と言った。謝安はこれに従ったので、実現しなかった」

檀道鸞論之曰:「道子可謂易於由言,謝重能解紛紜矣。」

檀道鸞がこれを論じて言う。「司馬道子は言葉に流されやすかったと言えるし、謝重は入り乱れた事を解くことができた」

102曲がりくねらせたので、測りがたいように見えるのです

宣武移鎭南州,制街衢平直。人謂王東亭曰:「丞相初營建康,無所因承,而制置紆曲,方此爲劣。」東亭曰:「此丞相乃所以爲巧。江左地促,不如中國;若使阡陌條暢,則一覽而盡;故紆餘委曲,若不可測。」

宣武が鎮を南州に移し、街路を真っ直ぐに整えた。人々が王東亭に言った。「丞相が初めて建康を造られたときは受け継ぐものがなかったのに、曲がりくねるように配置されました。これにくらべれば劣ります」

東亭は言った。「これが丞相が巧みであった理由だ。江左は土地が狭く、中国には及ばない。もし道や畦を見通しよく通したら、ひと眺めで尽きてしまう。だから曲がりくねらせて、測りがたいように見せられたのだ」

夾注 2

《王司徒傳》曰:「王珣字元琳,丞相導之孫,領軍洽之子也。少以淸秀稱。大司馬桓温辟爲主簿,從討袁眞,封交趾望海縣東亭侯,累遷尚書左僕射、領選、進尚書令。」

『王司徒伝』に言う。「王珣は字は元琳、丞相の王導の孫で、領軍の王洽の子である。若くして清らかで秀でていると称えられた。大司馬の桓温が召して主簿とし、袁真を討つのに従って交趾望海県の東亭侯に封ぜられ、累進して尚書左僕射となり選挙を預かって、尚書令に進んだ」

《晉陽秋》曰:「蘇峻既誅,大事克平之後,都邑殘荒。温嶠議徙都豫章,以即豐全。朝士及三呉豪傑,謂可遷都會稽,王導獨謂『不宜遷都。建業,往之秣陵,古者既有帝王所治之表,又孫仲謀、劉玄德倶謂是王者之宅。今雖凋殘,宜修勞來旋定之道,鎭靜群情。且百堵皆作,何患不克復乎!』終至康寧,導之策也。」

『晋陽秋』に言う。「蘇峻が誅され、大事が治まったのち、都は荒れ果てていた。温嶠は都を豫章に移して豊かさに就こうと議し、朝廷の士や三呉の豪傑は会稽に都を移すべきだと言った。王導だけが独り『都を移してはなりません。建業は昔の秣陵で、古くからすでに帝王が治めた跡があり、また孫仲謀も劉玄徳もともにここが王者の宅だと言いました。いま衰え荒れてはいますが、労い招いて落ち着かせる道を修め、人々の心を鎮め静めるべきです。そのうえ多くの土塀をみな築くのですから、どうして回復できないと心配しましょう』と言った。ついに安らかさに至ったのは、王導の計である」

103どうして賢者を賢とすることを色を好むようにしたのでないと言えよう

桓玄詣殷荊州,殷在妾房晝眠,左右辭不之通。桓後言及此事,殷云:「初不眠,縱有此,豈不以『賢賢易色』也。」

桓玄が殷荊州を訪ねたが、殷荊州が妾の部屋で昼寝をしていたので、側の者が断って取り次がなかった。

桓玄がのちにこの事を口にすると、殷荊州は言った。「はじめから寝てはいなかった。たとえそうだったとしても、どうして『賢者を賢とすることを色を好むようにする』のでなかったと言えよう」

夾注 1

孔安國注《論語》曰:「言以好色之心好賢人則善。」

孔安国が『論語』に注して言う。「色を好む心で賢人を好むならよい、という意味である」

104妖しくて、しかも浮いているからでしょう

桓玄問羊孚:「何以共重呉聲?」羊曰:「當以其妖而浮。」

桓玄が羊孚に尋ねた。「どういうわけで皆が呉の調べを重んじるのか」

羊孚は言った。「それが妖しくて、しかも浮いているからでしょう」

夾注 1

《羊氏譜》曰:「孚字子道,泰山人。祖楷,尚書郎。父綏,中書郎。孚歴太學博士、州別駕、太尉參軍。年四十六卒。」

『羊氏譜』に言う。「羊孚は字は子道、泰山の人である。祖父の羊楷は尚書郎、父の羊綏は中書郎である。羊孚は太学博士、州別駕、太尉参軍を歴任し、四十六歳で亡くなった」

105もとより神を迎える器だからです

謝混問羊孚:「何以器舉瑚璉?」羊曰:「故當以爲接神之器。」

謝混が羊孚に尋ねた。「どういうわけで器のうちで瑚と璉を挙げるのか」

羊孚は言った。「もとより神を迎える器だからです」

夾注 1

《晉安帝紀》曰:「混字叔源,陳郡人,司空琰少子也。文學砥礪立名。累遷中書令、尚書左僕射。坐黨劉毅伏誅。」《論語》:「子貢問曰:『賜也何如?』子曰:『汝器也。』曰:『何器也?』曰:『瑚璉也。』」鄭玄注曰:「黍稷器。夏曰瑚,殷曰璉。」

『晋安帝紀』に言う。「謝混は字は叔源、陳郡の人で、司空の謝琰の末子である。文と学を磨いて名を立てた。累進して中書令、尚書左僕射に至った。劉毅の党に連座して誅された」。『論語』に「子貢が『私はどうでしょうか』と問うと、子は『お前は器だ』と言われた。『何の器でしょうか』と言うと、『瑚璉だ』と言われた」とある。鄭玄が注して言う。「黍や稷を盛る器である。夏では瑚、殷では璉といった」

106聖なる徳が深く重いので、厚い地も載せきれないのです

桓玄既簒位,後御床微陷,群臣失色。侍中殷仲文進曰:「當由聖德淵重,厚地所以不能載。」時人善之。

桓玄が位を奪ったのち、御座の床が少し沈んだので、群臣は顔色を失った。

侍中の殷仲文が進み出て言った。「これはまさしく聖なる徳が深く重いので、厚い地も載せきれないのです」

当時の人はこれを善しとした。

夾注 1

《續晉陽秋》曰:「仲文字仲文,陳郡人。祖融,太常。父康,呉興太守。仲文聞玄平京邑,棄郡投焉。玄甚説之,引爲咨議參軍。時王謐見禮而不親,卞範之被親而少禮。其寵遇隆重,兼於王卞矣。及玄簒位,以佐命親貴,厚自封崇。輿馬器服,窮極綺麗,後房妓妾數十,絲竹不絶音。性甚貪吝,多納賄賂,家累千金,常若不足。玄既敗,先投義軍。累遷侍中尚書。以罪伏誅。」

『続晋陽秋』に言う。「殷仲文は字も仲文、陳郡の人である。祖父の殷融は太常、父の殷康は呉興太守である。殷仲文は桓玄が都を平定したと聞いて、郡を捨てて彼のもとに投じた。桓玄はたいそう喜んで、引いて咨議参軍とした。当時、王謐は礼をもって遇されたが親しくはなく、卞範之は親しまれたが礼が少なかったが、彼の寵愛と待遇の厚さは王謐と卞範之を兼ねていた。桓玄が位を奪うと、佐命の功で親しく貴ばれ、自ら厚く封じ高めた。車馬も器も衣服も華美を極め、奥の部屋の妓妾は数十人、糸と竹の音が絶えなかった。性はたいそう貪欲で吝嗇で、賄賂を多く受けて家に千金を積んだのに、いつも足りないかのようであった。桓玄が敗れると、先に義軍に投じた。累進して侍中、尚書に至ったが、罪によって誅された」

107潘岳の「秋興賦」の叙に言うには

桓玄既簒位,將改置直舘,問左右:「虎賁中郎省,應在何處?」有人荅曰:「無省。」當時殊忤旨。問:「何以知無?」荅曰:「潘岳《秋興賦》敘曰:『余兼虎賁中郎將,寓直散騎之省。』玄咨嗟稱善。

桓玄が位を奪ったのち、当直の館を改めて置こうとして、側の者に尋ねた。「虎賁中郎の省は、どこにあるべきか」

ある者が答えた。「省はありません」

そのとき大いに意に逆らった。尋ねた。「どうしてないと分かるのか」

答えて言った。「潘岳の「秋興賦」の叙に『私は虎賁中郎将を兼ねて、散騎の省に寄って当直した』とあります」

桓玄は感嘆して善しと称えた。

夾注 2

岳別見。其賦敘曰:「晉十有四年,余年三十二始見二毛,以太尉掾兼虎賁中郎將,寓直散騎之省。髙閣連雲,陽景罕曜。僕野人也,猥廁朝列,譬猶池魚籠鳥!有江湖山藪之思。於是染翰操紙,慨然而賦。於時秋至,故以秋興命篇。」

潘岳については別に見える。その賦の叙に言う。「晋の十四年、私は三十二歳で初めて白髪が見え、太尉掾として虎賁中郎将を兼ね、散騎の省に寄って当直した。高い楼が雲に連なり、日の光が差すことは稀であった。私は野の人であるのに、恐れ多くも朝廷の列に交じったので、たとえば池の魚、籠の鳥のようで、江や湖、山や沢への思いがある。そこで筆を染め紙を取り、感に打たれて賦を作る。このとき秋が来ていたので、秋の興をもって篇の名とした」

劉謙之《晉紀》曰:「玄欲復虎賁中郎將,疑應直與不,訪之僚佐,咸莫能定。參軍劉簡之對曰:『昔潘岳《秋興賦》敘云:「余兼虎賁中郎將,寓直於散騎之省。」以此言之,是應直也。』玄懽然從之。」此語微異,又答者未知姓名,故詳載之。

劉謙之の『晋紀』に言う。「桓玄は虎賁中郎将を復そうとして、当直すべきかどうか迷い、属僚や補佐に尋ねたが、誰も定められなかった。参軍の劉簡之が答えて『昔、潘岳の「秋興賦」の叙に「私は虎賁中郎将を兼ねて、散騎の省に寄って当直した」とあります。これによって言えば、当直すべきです』と言うと、桓玄は喜んでこれに従った」。この話は少し異なり、また答えた者の姓名が分からないので、詳しく載せておく。

108影を恐れる者が、まだ心を忘れられないのでしょう

謝靈運好戴曲柄笠,孔隱士謂曰:「卿欲希心髙遠,何不能遺曲蓋之貌?」謝荅曰:「將不畏影者,未能忘懷。」

謝霊運は柄の曲がった笠をかぶるのを好んだので、孔隠士は言った。「あなたは心を高く遠いところに置きたいと思いながら、どうして曲がった蓋の姿を捨てられないのですか」

謝霊運は答えた。「影を恐れる者が、まだ心を忘れられないのでしょう」

夾注 3

丘淵之《新集録》曰:「靈運,陳郡陽夏人。祖玄,車騎將軍。父渙,祕書郎。靈運歴祕書監、侍中、臨川内史。以罪伏誅。」

丘淵之の『新集録』に言う。「謝霊運は陳郡陽夏の人である。祖父の謝玄は車騎将軍、父の謝渙は祕書郎である。謝霊運は祕書監、侍中、臨川内史を歴任した。罪によって誅された」

宋書曰:「孔淳之字彦深,魯國人。少以辭榮就約,徴聘無所就。元嘉初,散騎郎徴,不到,隱上虞山。」

『宋書』に言う。「孔淳之は字は彦深、魯国の人である。若くして栄えを辞して簡素に就き、召されても赴くことがなかった。元嘉のはじめに散騎郎として召されたが行かず、上虞山に隠れた」

《莊子》云:「漁父謂孔子曰:『人有畏影惡跡而去之走者,舉足逾數而跡逾多,走逾疾而影不離,自以尚遲,疾走不休,絶力而死。不知處陰以休影,處靜以息跡,愚亦甚矣!子脩心守眞,還以物與人,則無異矣。不脩身而求之人,不亦外事者乎?』」

『荘子』に言う。「漁父が孔子に『人のなかに自分の影を恐れ自分の足跡を嫌い、これを振り払おうと走り出した者がいた。足を上げるほど足跡は増え、走るほど影は離れなかった。自分でまだ遅いと思って、速く走るのをやめず、力が尽きて死んだ。陰にいれば影が休み、静かにしていれば足跡が止まることを知らなかったのだから、愚かさもまた甚だしい。あなたが心を修め真を守り、物を人に返してやれば、違いはなくなる。身を修めずに人に求めるのは、やはり外に事を求めることではないか』と言った」