文学世説新語 文學第四
1鄭玄は馬融の門下にいて三年のあいだ会えなかった
鄭玄在馬融門下,三年不得相見,髙足弟子傳授而已。嘗算渾天不合,諸弟子莫能解。或言玄能者,融召令算,一轉便決,衆咸駭服。及玄業成,辭歸,既而融有「禮樂皆東」之嘆。恐玄擅名而心忌焉。玄亦疑有追,乃坐橋下,在水上據屐。融果轉式逐之,告左右曰:「玄在土下水上而據木,此必死矣。」遂罷追,玄竟以得免。
鄭玄は馬融の門下にいたが、三年のあいだ会うことができず、すぐれた高弟が伝授するだけであった。
あるとき渾天儀の計算が合わず、弟子たちはだれも解けなかった。ある者が鄭玄ならできると言ったので、馬融は呼んで計算させたところ、一度回すとすぐ解けたので、人々はみな驚き服した。
鄭玄が学業を成し、暇を告げて帰るとき、馬融は「礼楽はみな東へ行く」という嘆きを発した。鄭玄が名を一人占めすることを恐れ、心中ねたんだのである。
鄭玄も追ってくるのではないかと疑い、そこで橋の下に座り、水の上で下駄をついて立った。馬融ははたして占いの盤を回して追わせ、側の者に告げた。「鄭玄は土の下、水の上にいて木をついている。これは必ず死んでいる。」
そこで追うのをやめたので、鄭玄はついに免れることができた。
夾注 3
《融自敘》曰:「融字季長,右扶風茂陵人。少而好問,學無常師。大將軍鄧騭召爲舍人,棄,遊武都。會羌虜起,自關以西道斷。融以謂古人有言:『左手據天下之圖,而右手刎其喉,愚夫不爲。何則?生貴於天下也。豈以曲俗咫尺爲羞,滅無限之身哉?』因往應之,爲校書郎,出爲南郡太守。」
「融自序」に「馬融は字は季長、右扶風茂陵の人である。幼くして問うことを好み、学ぶのに決まった師がなかった。大将軍の鄧騭が召して舎人としたが、これを捨てて武都に遊んだ。ちょうど羌の異民族が起こり、関から西へ道が断たれた。馬融は、古人の言葉に『左手で天下の地図を押さえ、右手で自分の喉を切ることは、愚かな男でもしない。なぜか。生は天下より貴いからである』とあるのだから、『どうして曲がった世俗のわずかなことを恥じて、限りない身を滅ぼすことがあろうか』と考え、そこで出かけて召しに応じ、校書郎となり、南郡太守として出た」とある。
《髙士傳》曰:「玄字康成,北海髙密人。八世祖崇,漢尚書。」《玄別傳》曰:「玄少好學書數,十三誦五經,好天文占候,風角隱術。年十七,見大風起,詣縣曰:『某時當有火災。』至時果然,智者異之。年二十一,博極群書,精暦數圖緯之言,兼精算術。遂去吏,師故兗州刺史第五元。先就東郡張恭祖受《周禮》、《禮記》、《春秋傳》。周流博觀,毎經歴山川,及接顏一見,皆終身不忘。扶風馬季長以英儒著名,玄往從之,參考同異。季長后戚,嫚於待士,玄不得見,住左右,自起精廬,既因紹介得通。時涿郡盧子榦爲門人冠首,季長又不解剖裂七事,玄思得五,子榦得二。季長謂子榦曰:『吾與汝皆弗如也。』季長臨別,執玄手曰:『大道東矣,子勉之!』後遇黨錮,隱居著述,凡百餘萬言。大將軍何進辟玄,乃縫掖相見。玄長八尺餘,鬚眉美秀,姿容甚偉。進待以賓禮,授以几杖。玄多所匡正,不用而退。袁紹辟玄,及去,餞之城東,欲玄必醉。會者三百餘人,皆離席奉觴,自旦及莫,度玄飲三百餘桮,而温克之容,終日無怠。獻帝在許都,徴爲大司農,行至元城卒。」
『高士伝』に「鄭玄は字は康成、北海高密の人である。八代前の祖の鄭崇は漢の尚書であった」とある。『玄別伝』に「鄭玄は幼くして書と算を学ぶのを好み、十三で五経を暗唱し、天文・占候・風角や隠れた術を好んだ。十七のとき、大風が起こるのを見て県へ出向き『いつの時に火災があるはずだ』と言ったが、その時になってはたしてそうなったので、知恵ある者は彼を並ならぬ者と見た。二十一で広く書物を究め、暦数や図緯の言に精通し、算術にも精通した。そこで役人をやめ、もとの兗州刺史の第五元を師とした。先に東郡の張恭祖のもとで『周礼』『礼記』『春秋伝』を授かった。広くめぐり歩いて多くを見、山や川を通るたび、また顔を合わせて一度見たことは、みな一生忘れなかった。扶風の馬季長がすぐれた儒者として名高かったので、鄭玄は行って従い、同じところと違うところを照らし合わせた。馬季長は後の外戚であり、士をもてなすのに無礼であったので、鄭玄は会うことができず、そのそばに住んで自ら学び舎を建てたが、やがて人の紹介によって通じることができた。そのころ涿郡の盧子幹が門人の首位であったが、馬季長はまた七つの事柄を解き分けることができず、鄭玄が考えて五つを得、子幹が二つを得た。馬季長は子幹に『わたしもお前も、みな及ばない』と言った。馬季長は別れに臨んで鄭玄の手を取り『大道は東へ行く。君は励めよ』と言った。のちに党錮に遭い、隠れ住んで著述し、およそ百万余語に及んだ。大将軍の何進が鄭玄を招いたので、ゆったりした袖の衣で会った。鄭玄は身の丈が八尺あまり、ひげと眉が美しく秀で、姿かたちがきわめて立派であった。何進は客の礼で待遇し、肘掛けと杖を与えた。鄭玄は正すべきところが多かったが、用いられないので退いた。袁紹が鄭玄を招き、去るときには城の東で見送り、鄭玄をぜひ酔わせようとした。集まった者は三百人あまりで、みな席を離れて杯を差し出し、朝から暮れまでに鄭玄は三百杯あまりを飲んだと見積もられたが、穏やかで自らを保つ姿は、一日中たるむことがなかった。献帝が許都にいたとき、召して大司農としたが、行って元城に至って亡くなった」とある。
馬融海内大儒,被服仁義。鄭玄名列門人,親傳其業,何猜忌而行鴆毒乎?委巷之言,賊夫人之子。
馬融は天下の大儒で、仁義を衣として身にまとっていた。鄭玄は門人に名を連ね、自らその学業を伝え受けたのであるから、何をねたんで毒を用いたりしようか。裏町のうわさであって、人の子を損なうものである。
2これからは注をつけたものをすべて君に差し上げよう
鄭玄欲注《春秋傳》,尚未成時,行與服子愼遇宿客舍,先未相識,服在外車上與人説己注傳意。玄聽之良久,多與己同。玄就車與語曰:「吾久欲注,尚未了。聽君向言,多與吾同。今當盡以所注與君。」遂爲服氏注。
鄭玄が『春秋伝』に注をつけようとして、まだ成らなかったころ、道中で服子慎と出会って宿屋に泊まった。それまで互いに知らなかったが、服子慎は外の車の上で、人に自分が伝に注をつけた趣旨を語っていた。
鄭玄はしばらくそれを聞いていたが、自分のものと同じところが多かった。鄭玄は車に近づいて語りかけて言った。「わたしは長く注をつけようとしてきたが、まだ終えていない。君がさきほど言ったことを聞くと、わたしと同じところが多い。これからは注をつけたものをすべて君に差し上げよう。」
そこで、それが服氏の注となった。
夾注 1
《漢南紀》曰:「服虔字子愼,河南滎陽人。少行淸苦,爲諸生,尤明《春秋左氏傳》,爲作訓解。舉孝廉,爲尚書郎、九江太守。」
『漢南紀』に「服虔は字は子慎、河南滎陽の人である。若くして行いが清らかで苦しく、諸生となり、とりわけ『春秋左氏伝』に明るく、訓解を作った。孝廉に挙げられ、尚書郎・九江太守となった」とある。
3どうして泥中にいるのか
鄭玄家奴婢皆讀書。嘗使一婢,不稱旨,將撻之。方自陳説,玄怒,使人曳箸泥中。須臾,復有一婢來,問曰:「胡爲乎泥中?」荅曰:「薄言往愬,逢彼之怒。」
鄭玄の家では、下男も下女もみな書物を読んだ。
あるとき一人の下女を使ったが、意に沿わなかったので、これを打とうとした。ちょうど自分から言い開きをしようとしたとき、鄭玄は怒り、人に命じて泥の中に引きずり出させた。
しばらくして、また一人の下女が来て尋ねた。「どうして泥中にいるのか。」
答えた。「しばらく行って訴えようとして、あの人の怒りに出会った。」
夾注 2
《衞·式微》詩也。毛公曰:「泥中,衞邑名也。」
『衛風・式微』の詩である。毛公は「泥中は衛の町の名である」と言った。
衞邶《柏舟》之詩。
衛の「邶風・柏舟」の詩である。
4子慎、子慎
服虔既善《春秋》,將爲注,欲參考同異,聞崔烈集門生講傳,遂匿姓名,爲烈門人賃作食。毎當至講時,輙竊聽戸壁間。既知不能踰己,稍共諸生敘其短長。烈聞,不測何人,然素聞虔名,意疑之。明蚤往,及未寤,便呼:「子愼!子愼!」虔不覺驚應,遂相與友善。
服虔は『春秋』をよくしていて、注をつけようとし、同じところと違うところを照らし合わせたいと思った。崔烈が門下生を集めて伝を講じていると聞くと、そこで姓名を隠し、崔烈の門人のために賃仕事で飯を炊いた。
講義の時になるたび、こっそり戸と壁のあいだで聞いた。やがて自分を越えられないとわかると、しだいに門下生たちとその優劣を論じるようになった。
崔烈はそれを聞き、どういう人物か見当がつかなかったが、もとから服虔の名を聞いていたので、心のうちで彼ではないかと疑った。
翌日の早朝に行き、まだ目を覚まさないうちに、すぐ呼んだ。「子慎、子慎。」
服虔は思わず驚いて返事をしたので、そのまま互いに友となって親しくなった。
夾注 1
摯虞《文章志》曰:「烈字威考,髙陽安平人,駰之孫,瑗之兄子也。靈帝時,官至司徒、太尉,封陽平亭侯。」
摯虞の『文章志』に「崔烈は字は威考、高陽安平の人で、崔駰の孫、崔瑗の兄の子である。霊帝のとき、官は司徒・太尉に至り、陽平亭侯に封じられた」とある。
5鍾会が『四本論』を著し、戸の外から投げ入れて走り去る
鍾會撰《四本論》,始畢,甚欲使嵇公一見。置懷中,既定,畏其難,懷不敢出,於戸外遙擲,便回急走。
鍾会が『四本論』を著し、書き終えたばかりのころ、嵇公にぜひ一度見てもらいたいと強く思った。
懐に入れて行き着いたものの、難詰されるのを恐れ、懐に入れたまま取り出す勇気がなく、戸の外から遠くへ投げ入れ、そのまま引き返して急いで走り去った。
夾注 1
《三國志·魏志》曰:「會論才性同異,傳於世。『四本』者:言才性同,才性異,才性合,才性離也。尚書傅嘏論同,中書令李豐論異,侍郎鍾會論合,屯騎校尉王廣論離。文多不載。」
『三国志・魏志』に「鍾会は才と性の同異を論じ、それが世に伝わっている。『四本』とは、才と性が同じであること、才と性が異なること、才と性が合すること、才と性が離れることを言ったものである。尚書の傅嘏が同を論じ、中書令の李豊が異を論じ、侍郎の鍾会が合を論じ、屯騎校尉の王広が離を論じた。文が長いので載せない」とある。
6王弼は自ら客となり主となって何度も論を往き来させた
何晏爲吏部尚書,有位望,時談客盈坐,王弼未弱冠,往見之。晏聞弼名,因條向者勝理語弼曰:「此理僕以爲極,可得復難不?」弼便作難,一坐人便以爲屈,於是弼自爲客主數番,皆一坐所不及。
何晏が吏部尚書となって地位と声望があったので、そのころ談論の客が席に満ちていた。王弼はまだ二十歳前であったが、出かけて彼に会った。
何晏は王弼の名を聞いていたので、さきほど出たすぐれた理を項目立てて王弼に語った。「この理をわたしは極まったものと思うが、さらに難を立てられるかね。」
王弼はすぐ難を立てたので、座の人々はみな何晏が屈したと思った。そこで王弼は自ら客となり主となって何度も論を往き来させたが、どれも座のだれにも及べないものであった。
夾注 2
《文章敘録》曰:「晏能淸言,而當時權勢,天下談士,多宗尚之。」《魏氏春秋》曰:「晏少有異才,善談《易》《老》。」
『文章叙録』に「何晏は清談が巧みで、当時の権勢ある者や天下の談論の士は、たいてい彼を宗として尊んだ」とある。『魏氏春秋』に「何晏は若くして並ならぬ才があり、『易』『老子』を語るのが巧みであった」とある。
《弼別傳》曰:「弼字輔嗣,山陽髙平人。少而察惠,十餘歳便好《莊》《老》。通辯能言,爲傅嘏所知。吏部尚書何晏甚奇之,題之曰:『後生可畏。若斯人者,可與言天人之際矣!』以弼補臺郎。弼事功雅非所長,益不留意,頗以所長笑人,故爲時士所嫉。又爲人淺而不識物情。初與王黎、荀融善,黎奪其黃門郎,於是恨黎,與融亦不終好。正始中以公事免。其秋遇癘疾亡,時年二十四。弼之卒也,晉景帝嗟歎之累日,曰:『天喪予!』其爲髙識悼惜如此。」
『弼別伝』に「王弼は字は輔嗣、山陽高平の人である。幼くして察しがよく賢く、十歳余りで『荘子』『老子』を好んだ。通じて弁じ、よく語ったので、傅嘏に知られた。吏部尚書の何晏はきわめて並ならぬ者と見て、品定めして『後から生まれた者が恐ろしい。この人のような者とは、天と人のあわいを語ることができる』と言い、王弼を台郎に任じた。王弼は実務の功績が得意とするところではなく、いよいよ心を留めず、かなり得意とすることで人を笑ったので、当時の士にねたまれた。また人柄が浅く、物事の実情を知らなかった。はじめ王黎・荀融と仲がよかったが、王黎がその黄門郎の職を奪ったので、そこで王黎を恨み、荀融とも最後までよい仲ではなかった。正始のころ、公の事で官を免じられた。その秋に疫病に遭って亡くなり、そのとき年は二十四であった。王弼が亡くなると、晋の景帝は幾日も嘆いて『天がわたしを捨てた』と言った。高い識見の人にこれほど惜しみ悼まれたのである」とある。
7この人のような者とは、天と人のあわいを語ることができる
何平叔注《老子》,始成,詣王輔嗣。見王注精奇,迺神伏曰:「若斯人,可與論天人之際矣!」因以所注爲《道德二論》。
何平叔が『老子』に注をつけ、できあがったばかりのころ、王輔嗣を訪ねた。
王弼の注が精妙で並ならぬのを見て、そこで心から服して言った。「この人のような者とは、天と人のあわいを論じることができる。」
それによって、注をつけたものを『道徳二論』とした。
夾注 1
《魏氏春秋》曰:「弼論道約美不如晏,自然出拔過之。」
『魏氏春秋』に「王弼は道を論じるのに簡潔で美しいことでは何晏に及ばないが、おのずからなる抜きんでたところは彼を越えていた」とある。
8聖人は無を体とするが、無はまた教えることができない
王輔嗣弱冠詣裴徽,徽問曰:「夫無者,誠萬物之所資,聖人莫肯致言,而老子申之無已,何邪?」弼曰:「聖人體無,無又不可以訓,故言必及有;《老》《莊》未免於有,恆訓,其所不足。」
王輔嗣が二十歳のとき裴徽を訪ねると、裴徽が尋ねた。「そもそも無とは、まことに万物が資りとするものであるのに、聖人は進んで語ったことがなく、老子はこれを述べてやまない。どうしてなのか。」
王弼が言った。「聖人は無を体としていますが、無はまた教えることができませんので、言葉は必ず有に及びました。『老子』『荘子』は有を免れていませんので、いつもその足りないところを教えたのです。」
夾注 2
《永嘉流人名》曰:「徽字文季,河東聞喜人,太常潛少弟也。仕至冀州刺史。」
『永嘉流人名』に「裴徽は字は文季、河東聞喜の人で、太常の裴潜の末の弟である。官は冀州刺史に至った」とある。
《弼別傳》曰:「弼父爲尚書郎,裴徽爲吏部郎,徽見異之,故問。」
『弼別伝』に「王弼の父が尚書郎で、裴徽が吏部郎であったが、裴徽が見て並ならぬ者と思ったので、尋ねたのである」とある。
9裴冀州が二家の意味を解きほぐす
傅嘏善言虚勝,荀粲談尚玄遠。毎至共語,有爭而不相喩。裴冀州釋二家之義,通彼我之懷,常使兩情皆得,彼此倶暢。
傅嘏は虚なるもの、すぐれたものを語るのが巧みで、荀粲は談論において玄妙で遠いものを尊んだ。ともに語り合うたび、争いながらも互いに通じ合えなかった。
裴冀州が二家の意味を解き、あちらとこちらの思うところを通じさせたので、いつも二つの心がともに満たされ、双方がともに晴れやかになった。
夾注 3
《魏志》曰:「嘏字蘭碩,北地泥陽人,傅介子之後也。累遷河南尹、尚書。嘏嘗論才性同異,鍾會集而論之。」《傅子》曰:「嘏既達治好正,而有淸理識要,如論才性,原本精微,鮮能及之。司隸鍾會年甚少,嘏以明知交會。」
『魏志』に「傅嘏は字は蘭碩、北地泥陽の人で、傅介子の後裔である。次々に昇って河南尹・尚書に至った。傅嘏はかつて才と性の同異を論じ、鍾会がそれを集めて論じた」とある。『傅子』に「傅嘏は政治に通達して正しさを好み、清らかな理と要を見抜く識見があった。才と性を論じたようなものは、根本をたずねて精緻微妙で、及びうる者がまれであった。司隷の鍾会は年がたいへん若かったが、傅嘏は明らかに見抜いて交わった」とある。
《粲別傳》曰:「粲字奉倩,潁川潁陰人,太尉彧少子也。粲諸兄儒術論議各知名。粲能言玄遠,常以子貢稱『夫子之言性與天道,不可得而聞也』,然則六籍雖存,固聖人之糠秕。能言者不能屈。」
『粲別伝』に「荀粲は字は奉倩、潁川潁陰の人で、太尉荀彧の末子である。荀粲の兄たちは儒学の学術と論議でそれぞれ名を知られた。荀粲は玄妙で遠いものを語るのが巧みで、いつも子貢が『先生の性と天道についてのお言葉は、聞くことができなかった』と言ったことを挙げ、それならば六経はあっても、もとより聖人のぬかやもみがらにすぎないとした。弁の立つ者も彼を屈服させられなかった」とある。
《粲別傳》曰:「粲太和初到京邑,與傅嘏談,嘏善名理,而粲尚玄遠,宗致雖同,倉卒時或格而不相得意。裴徽通彼我之懷,爲二家釋。頃之,粲與嘏善。」《管輅傳》曰:「裴使君有髙才逸度,善言玄妙也。」
『粲別伝』に「荀粲は太和のはじめに都に至り、傅嘏と語ったが、傅嘏は名と理をよくし、荀粲は玄妙で遠いものを尊んだので、宗とするところは同じでも、急な折にはときに食い違って互いに意が通じなかった。裴徽があちらとこちらの思うところを通じさせ、二家のために解きほぐした。しばらくして荀粲は傅嘏と仲がよくなった」とある。「管輅伝」に「裴使君は高い才と抜きんでた度量があり、玄妙なことを語るのが巧みであった」とある。
10何晏は王弼の言葉を聞いて、重ねて注をつけなかった
何晏注《老子》未畢,見王弼自説注《老子》旨。何意多所短,不復得作聲,但應諾諾。遂不復注,因作《道德論》。
何晏が『老子』の注を終えていなかったとき、王弼が『老子』に注をつけた趣旨を自ら語るのを見た。
何晏の考えは及ばないところが多く、もう声を出せず、ただ「はいはい」と応じるばかりであった。ついに重ねて注をつけることをやめ、それによって『道徳論』を著した。
夾注 1
《文章敘録》曰:「自儒者論以老子非聖人,絶禮棄學。晏説與聖人同,著論行於世也。」
『文章叙録』に「儒者たちの論によって、老子は聖人ではなく、礼を絶ち学を捨てたとされていた。何晏は聖人と同じだと説いて論を著し、それが世に広まった」とある。
11裴逸民もこのごろここにいるから、君は行って尋ねるとよい
中朝時,有懷道之流,有詣王夷甫咨疑者。値王昨已語多,小極,不復相酬荅,乃謂客曰:「身今少惡,裴逸民亦近在此,君可往問。」
中原のころ、道を心に抱く人々がいたが、王夷甫を訪ねて疑問を尋ねようとする者があった。
ちょうど王夷甫は前日すでに語りすぎて少し疲れており、応じて答えることができなかったので、客に言った。「わたしは今日は少し具合が悪い。裴逸民もこのごろここにいるから、君は行って尋ねるとよい。」
夾注 1
《晉諸公贊》曰:「裴頠談理,與王夷甫不相推下。」
『晋諸公賛』に「裴頠が理を語るのは、王夷甫と互いに譲り合わなかった」とある。
12裴頠が『崇有論』を著す
裴成公作《崇有論》,時人攻難之,莫能折。唯王夷甫來,如小屈。時人即以王理難裴,理還復申。
裴成公が『崇有論』を著すと、当時の人々がこれを攻めて難じたが、折り伏せられる者はいなかった。
ただ王夷甫が来ると、少し屈するようであった。当時の人はすぐ王夷甫の理で裴頠を難じたが、理はまた改めて述べ通された。
夾注 1
《晉諸公贊》曰:「自魏太常夏侯玄、歩兵校尉阮籍等,皆著《道德論》。於時侍中樂廣、吏部郎劉漢亦體道而言約,尚書令王夷甫講理而才虚,散騎常侍戴奧以學道爲業,後進庾敳之徒皆希慕簡曠。頠疾世俗尚虚無之理,故著《崇有》二論以折之。才博喩廣,學者不能究。後樂廣與頠淸閒欲説理,而頠辭喩豐博,廣自以體虚無,笑而不復言。」《惠帝起居注》曰:「頠著二論以規虚誕之弊。文詞精富,爲世名論。」
『晋諸公賛』に「魏の太常夏侯玄や歩兵校尉阮籍らから、みな『道徳論』を著した。そのころ侍中の楽広と吏部郎の劉漢も道を体としながら言葉は簡略で、尚書令の王夷甫は理を講じたが才は空虚であり、散騎常侍の戴奥は道を学ぶことを務めとし、後進の庾敳の輩はみな簡素で広やかなことを願い慕った。裴頠は世俗が虚無の理を尊ぶのを憎んだので、『崇有』の二論を著してこれを折り伏せた。才が広く比喩が広いので、学ぶ者は究めきれなかった。のちに楽広が裴頠と清らかに静かに理を語ろうとしたが、裴頠の言葉と比喩が豊かで広いので、楽広は自分は虚無を体としているとして、笑って重ねて語らなかった」とある。『恵帝起居注』に「裴頠は二論を著して、虚しく偽りの弊を正した。文と言葉が精緻で豊かで、世に名高い論となった」とある。
13諸葛厷が『荘子』『老子』を読んでくる
諸葛厷年少不肯學問。始與王夷甫談,便已超詣。王嘆曰:「卿天才卓出,若復小加研尋,一無所愧。」厷後看《莊》《老》,更與王語,便足相抗衡。
諸葛厷は年が若く、学び問うことを好まなかった。はじめて王夷甫と語ったが、すぐもう抜きんでた域に達していた。
王夷甫は嘆じて言った。「君は天与の才が抜きんでている。もしさらに少し磨き求めるなら、何も恥じるところがなくなるだろう。」
諸葛厷はのちに『荘子』『老子』を読み、あらためて王夷甫と語ったが、すぐ互いに肩を並べて張り合うに足りた。
夾注 1
王隱《晉書》曰:「厷字茂遠,琅邪人,魏雍州刺史緒之子。有逸才,仕至司空主簿。」
王隠の『晋書』に「諸葛厷は字は茂遠、琅邪の人で、魏の雍州刺史諸葛緒の子である。抜きんでた才があり、官は司空主簿に至った」とある。
14この子の胸の中には、きっと膏肓の病はあるまい
衞玠總角時問樂令「夢」,樂云:「是想。」衞曰:「形神所不接,而夢豈是想邪?」樂云:「因也。未嘗夢乘車入鼠穴,擣噉鐵杵,皆無想無因故也。」衞思因,經日不得,遂成病。樂聞,故命駕爲剖析之。衞即小差。樂嘆曰:「此兒胸中當必無膏肓之疾!」
衛玠が子どもの髪型をしていたころ、楽令に「夢」について尋ねると、楽令は言った。「それは想である。」
衛玠が言った。「体と神が触れていないものなのに、夢がどうして想でありましょうか。」
楽令が言った。「因である。車に乗って鼠の穴に入ったり、鉄の杵をついて食べたりする夢を見たことがないのは、みな想もなく因もないからだ。」
衛玠は因について考えたが、幾日たっても得られず、ついに病になった。楽令はそれを聞き、わざわざ車を出して彼のために解き分けてやったので、衛玠はすぐ少しよくなった。
楽令は嘆じて言った。「この子の胸の中には、きっと膏肓の病はあるまい。」
夾注 2
《周禮》有六夢:一曰正夢,謂無所感動,平安而夢也。二曰噩夢,謂驚愕而夢也。三曰思夢,謂覺時所思念也。四曰寤夢,謂覺時道之而夢也。五曰喜夢,謂喜説而夢也。六曰懼夢,謂恐懼而夢也。按,樂所言「想」者,蓋思夢也。「因」者,蓋正夢也。
『周礼』に六つの夢がある。一つめは正夢といい、感じ動かされるところなく、平安なまま見る夢を言う。二つめは噩夢といい、驚き恐れて見る夢を言う。三つめは思夢といい、目覚めているときに思い念じていたことを言う。四つめは寤夢といい、目覚めているときに口にしていたことが夢になるのを言う。五つめは喜夢といい、喜び楽しんで見る夢を言う。六つめは懼夢といい、恐れおののいて見る夢を言う。考えてみると、楽広が言った「想」とはおおむね思夢であり、「因」とはおおむね正夢である。
《春秋傳》曰:「晉景公有疾,求醫於秦,秦伯使醫緩爲之。未至,公夢疾爲二豎子。曰:『彼,良醫也。懼傷我焉!』其一曰:『居肓之上,膏之下,若我何?』醫至,曰:『疾不可爲也!在肓之上,膏之下,攻之不可達,刺之不可及,藥不至焉。』公曰:『良醫也。』」注:「肓,鬲也。心下爲膏。」
『春秋伝』に「晋の景公が病み、秦に医者を求めると、秦伯は医者の緩を遣わした。まだ着かないうちに、公は病が二人の童子になった夢を見た。一人が『あれはよい医者だ。我々を傷つけられるのが恐ろしい』と言うと、もう一人が『肓の上、膏の下にいれば、我々をどうできよう』と言った。医者が着いて『病は治せません。肓の上、膏の下にあって、治めようとしても届かず、刺しても及ばず、薬も至りません』と言った。公は『よい医者だ』と言った」とある。注に「肓は横隔膜である。心の下を膏という」とある。
15まるで人の考えと違わないな
庾子嵩讀《莊子》,開巻一尺許便放去,曰:「了不異人意。」
庾子嵩が『荘子』を読んだが、巻を開いて一尺ほど見るとすぐ放り出して言った。「まるで人の考えと違わないな。」
夾注 1
《晉陽秋》曰:「庾敳字子嵩,潁川人,侍中峻第三子。恢廓有度量,自謂是老莊之徒。曰:『昔未讀此書,意嘗謂至理如此。今見之,正與人意暗同。』仕至豫州長史。」
『晋陽秋』に「庾敳は字は子嵩、潁川の人で、侍中庾峻の第三子である。広くゆったりとして度量があり、自分は老荘の徒であると言っていた。『以前この書を読まなかったとき、心の中で、至極の理はこのようだろうと思っていた。今見てみると、ちょうど人の考えとひそかに同じであった』と言った。官は豫州長史に至った」とある。
16至ったのなら、どうして去ることができるのか
客問樂令旨「不至」者,樂亦不復剖析文句,直以麈尾柄确几曰:「至不?」客曰:「至!」樂因又舉麈尾曰:「若至者,那得去?」於是客乃悟服。樂辭約而旨達,皆此類。
ある客が楽令に「至らず」という趣旨を尋ねると、楽令はまた文句を解き分けることをせず、ただ払子の柄で肘掛けを打って言った。「至ったか。」
客が言った。「至りました。」
楽令はそこでまた払子を挙げて言った。「もし至ったのなら、どうして去ることができるのか。」
そこで客はようやく悟って服した。楽令が言葉は簡略でありながら趣旨が通ったのは、みなこうしたものであった。
夾注 1
夫藏舟潛往,交臂恆謝,一息不留,忽焉生滅。故飛鳥之影,莫見其移;馳車之輪,曾不掩地。是以去不去矣,庸有至乎?至不至矣,庸有去乎?然則前至不異後至,至名所以生;前去不異後去,去名所以立。今天下無去矣,而去者非假哉?既爲假矣,而至者豈實哉?
そもそも隠した舟もひそかに移り、腕を交わすあいだにも常に過ぎ去り、一息も留まらず、たちまち生じ滅びる。だから飛ぶ鳥の影は、その移るのが見えず、走る車の輪は、かつて地を覆うことがない。それゆえ去るは去るではないのだから、どうして至るがあろうか。至るは至るではないのだから、どうして去るがあろうか。そうであれば、前の至るは後の至ると違わないのが、至るという名の生じるゆえんであり、前の去るは後の去ると違わないのが、去るという名の立つゆえんである。いま天下に去るはないのだから、去るというのは仮のものではないか。すでに仮のものであるなら、至るというのがどうして実であろうか。
17郭象が向秀の注を盗んで自分のものとする
初,注《莊子》者數十家,莫能究其旨要。向秀於舊注外爲解義,妙析奇致,大暢玄風。唯《秋水》、《至樂》二篇未竟而秀卒。秀子幼,義遂零落,然猶有別本。郭象者,爲人薄行,有雋才。見秀義不傳於世,遂竊以爲己注。乃自注《秋水》、《至樂》二篇,又易《馬蹄》一篇,其餘衆篇,或定點文句而已。後秀義別本出,故今有向郭二《莊》,其義一也。
はじめ『荘子』に注をつけた者は数十家あったが、その趣旨の要を究めた者はいなかった。
向秀は古い注のほかに義解を作り、妙に解き分けて並ならぬ域に達し、玄妙の風を大いに晴れやかにした。ただ「秋水」「至楽」の二篇だけを終えないまま向秀は亡くなった。
向秀の子は幼く、その義解はついに散り失せたが、それでも別本が残っていた。
郭象という者は、人柄としては行いが薄かったが、抜きんでた才があった。向秀の義解が世に伝わっていないのを見て、ついにこれを盗んで自分の注とした。
そこで自ら「秋水」「至楽」の二篇に注をつけ、また「馬蹄」の一篇を書き換え、その他の諸篇は、ところによって文句を定め点を打っただけであった。
のちに向秀の義解の別本が出たので、今、向秀と郭象の二つの『荘子』があるが、その義は一つである。
夾注 3
《秀別傳》曰:「秀與嵇康、呂安爲友,趣舍不同。嵇康傲世不羈,安放逸邁俗,而秀雅好讀書。二子頗以此嗤之。後秀將注《莊子》,先以告康安,康安咸曰:『此書詎復須注?徒棄人作樂事耳!』及成,以示二子。康曰:『爾故復勝不?』安乃驚曰:『莊周不死矣!』後注《周易》,大義可觀,而與漢世諸儒互有彼此,未若隱莊之絶倫也。」《秀本傳》或言,秀遊託數賢,蕭屑卒歳,都無注述。唯好《莊子》,聊應崔譔所注,以備遺忘云。《竹林七賢論》云:「秀爲此義,讀之者無不超然,若已出塵埃而窺絶冥,始了視聽之表。有神德玄哲,能遺天下,外萬物。雖復使動競之人顧觀所徇,皆悵然自有振拔之情矣。」
『秀別伝』に「向秀は嵇康・呂安と友であったが、求めるものと捨てるものが同じでなかった。嵇康は世を見下して束縛されず、呂安は放れ逸れて俗を越えていたが、向秀は上品に書を読むのを好んだ。二人はかなりこれを笑った。のちに向秀が『荘子』に注をつけようとして、先に嵇康と呂安に告げると、嵇康と呂安はともに『この書にどうして重ねて注が必要か。むだに人の楽しみを捨てるだけだ』と言った。できあがって二人に見せると、嵇康は『お前はわざわざ上を行ったつもりか』と言い、呂安は驚いて『荘周が死んでいなかった』と言った。のちに『周易』に注をつけ、大きな義は見るに足るものであったが、漢代の諸儒とあれこれ食い違うところがあり、『荘子』をひそかに解いたものが群を抜いていたのには及ばなかった」とある。『秀本伝』には、ある説として、向秀は幾人かの賢者に寄りかかって遊び、もの寂しく歳を終えて、まったく著述がなかったという。ただ『荘子』を好み、せめて崔譔の注に応じて、忘れるのに備えたのだとも言う。『竹林七賢論』に「向秀がこの義解を作ると、読む者はだれもが超然とならずにはいられず、すでに塵を出て果てしなく暗いところをのぞき、はじめて見聞きの外を悟るかのようであった。神妙な徳と玄妙な明らかさがあって、天下を忘れ万物を外にすることができたので、たとえ動き争う人に、自分が追い求めてきたものを振り返らせたとしても、みな心もとなく思って、自ら振り切って抜け出たいという情を抱いた」とある。
《文士傳》曰:「象字子玄,河南人。少有才理,慕道好學,託志《老》《莊》。時人咸以爲王弼之亞,辟司空掾、太傅主簿。」
『文士伝』に「郭象は字は子玄、河南の人である。若くして才と理があり、道を慕って学ぶことを好み、『老子』『荘子』に志を寄せた。当時の人はみな王弼の次と見なし、司空の掾・太傅主簿に召された」とある。
《文士傳》曰:「象作《莊子注》,最有淸辭遒旨。」
『文士伝』に「郭象が『荘子注』を作ると、最も清らかな言葉と力強い趣旨があった」とある。
18おそらく同じでしょう
阮宣子有令聞,太尉王夷甫見而問曰:「《老》《莊》與聖教同異?」對曰:「將無同!」太尉善其言,辟之爲掾。世謂「三語掾」。衞玠嘲之曰:「一言可辟,何假於三?」宣子曰:「苟是天下人望,亦可無言而辟,復何假一?」遂相與爲友。
阮宣子にはよい評判があった。太尉の王夷甫が会って尋ねた。「『老子』『荘子』は聖人の教えと同じか、違うか。」
答えた。「おそらく同じでしょう。」
太尉はその言葉をよしとし、召して掾とした。世の人は「三語の掾」と言った。
衛玠がからかって言った。「一言でも召されたでしょうに、どうして三つを借りたのです。」
宣子が言った。「まことに天下が望む人であれば、言葉なしでも召されたでしょうに、どうして一つを借りたでしょうか。」
そこで互いに友となった。
夾注 1
《名士傳》曰:「阮脩字宣子,陳留尉氏人。好《老》《易》,能言理。不喜見俗人,時誤相逢,即舍去。傲然無營,家無儋石之儲,晏如也。琅邪王處仲爲鴻臚卿,謂曰:『鴻臚丞差有祿,卿常無食,能作不?』脩曰:『爲復可耳。』遂爲鴻臚丞、太子洗馬。」
『名士伝』に「阮脩は字は宣子、陳留尉氏の人である。『老子』『易』を好み、理を語ることができた。俗な人に会うのを好まず、ときに誤って出会うと、すぐ捨てて去った。傲然として求めるところがなく、家には一石の貯えもなかったが、平然としていた。琅邪の王処仲が鴻臚卿となって『鴻臚丞はいくらか俸禄がある。君はいつも食べるものがないが、やれるかね』と言うと、阮脩は『まあよいでしょう』と言った。そこで鴻臚丞・太子洗馬となった」とある。
19君たち、そんなことはするな。わたしの婿にひどい目に遭わされるぞ
裴散騎娶王太尉女。婚後三日,諸壻大會,當時名士,王裴子弟悉集。郭子玄在坐,挑與裴談。子玄才甚豐瞻,始數交未快。郭陳張甚盛,裴徐理前語,理致甚微,四坐咨嗟稱快。王亦以爲奇,謂諸人曰:「君輩勿爲爾,將受困寡人女壻!」
裴散騎が王太尉の娘を妻に迎えた。婚礼の三日後、婿たちが大いに集まり、当時の名士や王氏・裴氏の子弟がみな集まった。
郭子玄が席にいて、挑みかけて裴氏と談論した。子玄は才がきわめて豊かで、はじめ何度か応酬したときは、晴れやかにいかなかった。
郭象が述べ立て広げたものがきわめて盛んであったが、裴氏がゆっくりと前の言葉を整えると、理も到りもきわめて微妙で、座の四方が感嘆して晴れやかだと称えた。
王太尉も並ならぬと思い、人々に言った。「君たち、そんなことはするな。わたしの婿にひどい目に遭わされるぞ。」
夾注 2
《晉諸公贊》曰:「裴遐字叔道,河東人。父緯,長水校尉。遐少有理稱,辟司空掾、散騎郎。」《永嘉流人名》:「衍字夷甫,第四女適遐也。」
『晋諸公賛』に「裴遐は字は叔道、河東の人である。父の裴緯は長水校尉であった。裴遐は若くして理によって称えられ、司空の掾・散騎郎に召された」とある。『永嘉流人名』に「王衍は字は夷甫、その第四の娘が裴遐に嫁いだ」とある。
鄧粲《晉紀》曰:「遐以辯論爲業,善敘名理,辭氣淸暢,泠然若琴瑟。聞其言者,知與不知,無不歎服。」
鄧粲の『晋紀』に「裴遐は弁論を務めとし、名と理を述べるのが巧みで、言葉と気息が清らかで晴れやかで、冷ややかなことは琴や瑟のようであった。その言葉を聞いた者は、わかる者もわからぬ者も、嘆服しない者がなかった」とある。
20衛玠が謝幼輿と夜を通して微妙な話を交わす
衞玠始度江,見王大將軍。因夜坐,大將軍命謝幼輿。玠見謝,甚説之,都不復顧王,遂達旦微言。王永夕不得豫。玠體素羸,恆爲母所禁。爾夕忽極,於此病篤,遂不起。
衛玠がはじめて長江を渡り、王大将軍に会った。夜になって座ることになると、大将軍は謝幼輿を呼んだ。
衛玠は謝幼輿に会ってたいへん喜び、まったく王大将軍を顧みず、ついに夜明けに至るまで微妙な話を交わした。王大将軍は夜のあいだ、ついに加わることができなかった。
衛玠は体がもとから弱く、いつも母に止められていた。その夜ひどく疲れ、これから病が重くなり、ついに起き上がれなかった。
夾注 3
《敦別傳》曰:「敦字處仲,琅邪臨沂人。少有名理,累遷靑州刺史。避地江左,歴侍中、丞相、大將軍、揚州牧。以罪伏誅。」
『敦別伝』に「王敦は字は処仲、琅邪臨沂の人である。若くして名と理があり、次々に昇って青州刺史に至った。江左へ避難し、侍中・丞相・大将軍・揚州牧を歴任した。罪によって誅せられた」とある。
《晉陽秋》曰:「謝鯤字幼輿,陳郡人。父衡,晉碩儒。鯤性通簡,好《老》《易》,善音樂,以琴書爲業。避亂江東,爲豫章太守,王敦引爲長史。」《鯤別傳》曰:「鯤四十三卒,贈太常。」
『晋陽秋』に「謝鯤は字は幼輿、陳郡の人である。父の謝衡は晋の大儒であった。謝鯤は性質が通じて簡素で、『老子』『易』を好み、音楽が巧みで、琴と書を務めとした。乱を避けて江東に行き、豫章太守となり、王敦が引いて長史とした」とある。『鯤別伝』に「謝鯤は四十三で亡くなり、太常を贈られた」とある。
《玠別傳》曰:「玠少有名理,善《易》《老》,自抱羸疾,初不於外擅相酬對。時友歎曰:『衞君不言,言必入眞。』武昌見大將軍王敦,敦與談論,咨嗟不能自已。」
『玠別伝』に「衛玠は若くして名と理があり、『易』『老子』をよくしたが、自ら弱い病を抱えていたので、はじめは外で勝手に人と応酬することをしなかった。当時の友が嘆じて『衛君は語らないが、語れば必ず真に入る』と言った。武昌で大将軍王敦に会い、王敦は彼と論じて、感嘆して自ら止められなかった」とある。
21江左に渡ってから三つの理だけを語った
舊云:王丞相過江左,止道《聲無哀樂》、《養生》、《言盡意》,三理而已。然宛轉關生,無所不入。
昔から言われるところでは、王丞相が江左に渡ってからは、ただ「声に哀楽なし」「養生」「言は意を尽くす」の三つの理だけを語ったという。
しかし、曲がりめぐって互いに関わり生じ、入らないところがなかった。
夾注 3
嵇康《聲無哀樂論略》曰:「夫殊方異俗,歌笑不同。使錯而用之,或聞哭而懽,或聽歌而戚,然哀樂之情均也。今用均同之情,發萬殊之聲,斯非音聲之無常乎?」
嵇康の「声無哀楽論」の大略に「そもそも土地が異なり風俗が違えば、歌も笑いも同じでない。入れ違えて用いさせると、泣き声を聞いて喜ぶ者もあり、歌を聞いて悲しむ者もあるが、哀しみと楽しみの情は等しい。いま等しく同じ情を用いて、万に異なる声を発するのだから、これは音声に定まったものがないということではないか」とある。
嵇叔夜《養生論》曰:「夫蝨箸頭而黑,麝食柏而香,頸處險而癭,齒居晉而黃。豈唯蒸之使重無使輊,芬之使香無使延哉?誠能蒸以靈芝,潤以醴泉,無爲自得,體妙心玄。庶與羡門比壽,王喬爭年。何爲不可養生哉?」
嵇叔夜の「養生論」に「そもそも虱は頭について黒くなり、麝は柏を食べて香り、首は険しい土地にあって瘤ができ、歯は晋の地にあって黄ばむ。どうして、蒸して重くし軽くしないようにし、香らせて香りを立て、くずれさせないようにするだけのことであろうか。まことに霊芝で蒸し、甘い泉で潤し、為すことなくおのずから得て、体は妙に、心は玄妙にできるなら、ほとんど羨門と寿を比べ、王喬と年を争うであろう。どうして養生ができないことがあろうか」とある。
歐陽堅《石言盡意論略》曰:「夫理得於心,非言不暢。物定於彼,非名不辨。名逐物而遷,言因理而變,不得相與爲二矣。苟無其二,言無不盡矣。」
欧陽堅石の「言尽意論」の大略に「そもそも理は心に得られるが、言葉でなければ晴れやかに通じない。物はあちらに定まるが、名でなければ分けられない。名は物を追って移り、言葉は理によって変わるのだから、互いに二つとなることはできない。まことにその二つがないのであれば、言葉は尽くさないことがない」とある。
22正始の音とはまさにこのようなものだ
殷中軍爲庾公長史,下都,王丞相爲之集,桓公、王長史、王藍田、謝鎭西並在。丞相自起解帳帶麈尾,語殷曰:「身今日當與君共談析理。」既共淸言,遂達三更。丞相與殷共相往反,其餘諸賢,略無所關。既彼我相盡,丞相乃嘆曰:「向來語,乃竟未知理源所歸,至於辭喩不相負。正始之音,正當爾耳!」明旦,桓宣武語人曰:「昨夜聽殷王淸言甚佳,仁祖亦不寂寞,我亦時復造心,顧看兩王掾,輙翣如生母狗馨。」
殷中軍が庾公の長史となって都に下ってくると、王丞相が彼のために集まりを開いた。桓公・王長史・王藍田・謝鎮西がそろって居合わせた。
丞相は自ら立って帳の帯にかけた払子を解き、殷中軍に言った。「わたしは今日こそ君とともに語って理を解き分けよう。」
それから一緒に清談をし、ついに三更に至った。丞相と殷中軍が互いに往き来し、そのほかの賢者たちは、ほとんど口をはさめなかった。
やがて双方が言い尽くすと、丞相は嘆じて言った。「さきほどの話は、とうとう理の源がどこに帰するかはわからなかったが、言葉と比喩が互いに背かないという点では、正始の音とはまさにこのようなものだ。」
翌朝、桓宣武が人に言った。「昨夜、殷氏と王氏の清談を聞いたが、たいへんよかった。仁祖もまた寂しくはなかった。わたしも時おり心が至ったが、二人の王氏の掾を振り返って見ると、まるで扇いでいる母犬のようだった。」
夾注 4
按,庾亮僚屬名及《中興書》,浩爲亮司馬,非爲長史也。
考えてみると、庾亮の属僚の名簿と『中興書』では、殷浩は庾亮の司馬となっており、長史となったのではない。
《王述別傳》曰:「述字懷祖,太原晉陽人。祖湛,父承,並有髙名。述蚤孤,事親孝謹,簞瓢陋巷,宴安永日。由是爲有識所知,襲爵藍田侯。」
『王述別伝』に「王述は字は懐祖、太原晋陽の人である。祖父の王湛、父の王承は、ともに高い名声があった。王述は早くに父を失い、親に仕えて孝で慎み深く、一つの器の飯と一つの瓢の水で、狭い路地にいて一日中安らかであった。これによって識見ある人に知られ、藍田侯の爵を継いだ」とある。
王濛、王述,並爲王導所辟。
王濛と王述が、ともに王導に召された者である。
「翣如生母狗馨」は古くから読みが分かれる。ここでは翣を「扇ぐ」と読んだが、「生母狗」を一語としてまとめ、「子を産んだばかりの雌犬のようだった」と読む道も広く行われている。― 訳者
23理もまたきっとこの上にあるのだろう
殷中軍見佛經云:「理亦應阿堵上。」
殷中軍が仏典を見て言った。「理もまたきっとこの上にあるのだろう。」
夾注 1
佛經之行中國尚矣,莫詳其始。《牟子》曰:「漢明帝夜夢神人,身有日光,明日,博問群臣。通人傅毅對曰:『臣聞天竺有道者號曰佛,輕舉能飛,身有日光,殆將其神也。』於是遣羽林將軍秦景、博士弟子王遵等十二人之大月氏國,寫取佛經四十二部,在蘭臺石室。」劉子政《列仙傳》曰:「歴觀百家之中,以相檢驗,得仙者百四十六人,其七十四人已在佛經,故撰得七十。可以多聞博識者遐觀焉。」如此,即漢成哀之間,已有經矣。與《牟子》、傳記便爲不同。《魏略·西戎傳》曰:「天竺城中有臨兒國。《浮屠經》云:『其國王生浮圖。浮圖者,太子也。父曰屑頭邪,母曰莫邪。浮屠者,身服色黃,髮如靑絲,爪如銅。其母夢白象而孕。及生。從右脅出,而有髻,墜地能行七歩。』天竺又有神人曰沙津。昔漢哀帝元壽元年,博士弟子景慮,受大月氏王使伊存口傳《浮屠經》。曰復豆者,其人也。」《漢武故事》曰:「昆邪王殺休屠王,以其衆來降,得其金人之神,置之甘泉宮。金人皆長丈餘,其祭不用牛羊,唯燒香禮拜。上使依其國俗祀之。」此神全類於佛,豈當漢武之時,其經未行於中土,而但神明事之邪。故驗劉向、魚豢之説,佛至自哀成之世明矣。然則《牟》、傳所言四十二者,其文今存非妄。蓋明帝遣使廣求異聞,非是時無經也。
仏典が中国に行われてから久しいが、その始まりは詳らかでない。『牟子』に「漢の明帝が夜、体に日の光のある神人の夢を見て、翌日、群臣に広く尋ねた。博識の傅毅が答えて『臣が聞きますに、天竺に道ある者があって仏と号し、軽やかに身を挙げて飛ぶことができ、体に日の光があるといいますから、おそらくその神でしょう』と言った。そこで羽林将軍の秦景、博士弟子の王遵ら十二人を大月氏国に遣わし、仏典四十二部を写し取らせ、蘭台の石室に置いた」とある。劉子政の『列仙伝』に「百家の中を広く見渡して互いに検証し、仙となった者百四十六人を得たが、そのうち七十四人はすでに仏典にあるので、七十を選んで著した。多く聞き広く知る者は、遠くまで見渡すことができよう」とある。こうであれば、漢の成帝・哀帝のあいだにすでに経があったことになる。『牟子』や伝記とはすぐ食い違うことになる。『魏略・西戎伝』に「天竺の城の中に臨児国がある。『浮屠経』に『その国の王が浮図を生んだ。浮図とは太子である。父は屑頭邪といい、母は莫邪という。浮屠は、体の色が黄色く、髪は青い糸のようで、爪は銅のようであった。その母は白い象の夢を見て身ごもった。生まれるときには、右の脇から出てきて、髻があり、地に下りて七歩歩くことができた』とある。天竺にはまた沙津という神人がある。昔、漢の哀帝の元寿元年、博士弟子の景慮が、大月氏王の使者伊存から口伝で『浮屠経』を受けた。復豆というのが、その人である」とある。『漢武故事』に「昆邪王が休屠王を殺し、その一族を率いて降り、その金人の神を得て、甘泉宮に置いた。金人はどれも丈あまりの高さで、その祭りには牛や羊を用いず、ただ香を焼いて礼拝するだけであった。帝はその国の風俗どおりに祀らせた」とある。この神はまったく仏と同じであるから、どうして漢の武帝のとき、その経がまだ中国に行われず、ただ神明として仕えただけだったことがあろうか。だから劉向と魚豢の説を照らしてみれば、仏が哀帝・成帝の世から至っていたことは明らかである。それならば、『牟子』や伝記が言う四十二部というものは、その文が今に残っていて、でたらめではない。おそらく明帝が使者を遣わして珍しい伝えを広く求めたのであって、このとき経がなかったのではない。
24語れる人も得がたいが、解きほぐす人を求めるのも得がたい
謝安年少時,請阮光祿道白馬論。爲論以示謝,於時謝不即解阮語,重相咨盡。阮乃嘆曰:「非但能言人不可得,正索解人亦不可得!」
謝安が年若いころ、阮光禄に「白馬論」を説いてくれるよう請うた。論を作って謝安に見せたが、そのとき謝安は阮光禄の言葉をすぐには解せず、重ねて尋ねて言い尽くさせた。
阮光禄はそこで嘆じて言った。「ただ語ることのできる人を得がたいだけでなく、まさに解きほぐす人を求めることもまた得がたいのだ。」
夾注 2
《孔叢子》曰:「趙人公孫龍云:『白馬非馬。馬者所以命形,白者所以命色。夫命色者非命形,故曰白馬非馬也。』」
『孔叢子』に「趙の人の公孫龍が『白い馬は馬ではない。馬とは形を名づけるものであり、白とは色を名づけるものである。そもそも色を名づけるものは形を名づけるものではないから、白い馬は馬ではないと言う』と言った」とある。
《中興書》曰:「裕甚精論難。」
『中興書』に「阮裕は論難にきわめて精しかった」とある。
25北の人の学問は深く広く、南の人の学問は清らかで要を得ている
褚季野語孫安國云:「北人學問,淵綜廣博。」孫答曰:「南人學問,淸通簡要。」支道林聞之曰:「聖賢固所忘言。自中人以還,北人看書,如顯處視月;南人學問,如牖中窺日。」
褚季野が孫安国に言った。「北の人の学問は、深く綜べて広く博い。」
孫安国が答えた。「南の人の学問は、清らかに通じて簡にして要を得ている。」
支道林がこれを聞いて言った。「賢者や聖人は、もとより言葉を忘れたものだ。中ほどの人から下について言うなら、北の人が書を見るのは、開けた場所で月を見るようであり、南の人の学問は、窓の中から日をのぞくようだ。」
夾注 2
褚裒、孫盛並已見。
褚裒と孫盛は、ともにすでに見える。
支所言,但譬成孫褚之理也。然則學廣則難周,難周則識闇,故如顯處視月;學寡則易覈,易覈則智明,故如牖中窺日也。
支道林が言ったのは、ただ孫氏と褚氏の理を喩えて言い成したものである。それならば、学が広ければ行きわたりにくく、行きわたりにくければ識見が暗いので、開けた場所で月を見るようであり、学が少なければ見極めやすく、見極めやすければ知が明らかなので、窓の中から日をのぞくようなのである。
26君は、よい雲梯を作って下から攻め上げようとは思わないのか
劉眞長與殷淵源談,劉理如小屈,殷曰:「惡,卿不欲作將善雲梯仰攻。」
劉真長が殷淵源と語っていて、劉真長の理が少し屈するようだったので、殷淵源は言った。「おや、君はよい雲梯を作って下から攻め上げようとは思わないのか。」
夾注 1
《墨子》曰:「公輸般爲髙雲梯,欲以攻宋。墨子聞之,自魯往。裂裳裹足,日夜不休,十日十夜而至於郢。見楚王曰:『聞大王將攻宋,有之乎?』王曰:『然!』墨子曰:『請令公輸般設攻宋之具,臣請試守之。』於是公輸般設攻宋之計,墨子縈帶守之。輸九攻之,而墨子九卻之。不能入,遂輟兵。」
『墨子』に「公輸般が高い雲梯を作って、宋を攻めようとした。墨子はこれを聞き、魯から出かけた。裳を裂いて足を包み、昼夜休まず、十日十夜で郢に至った。楚王に会って『大王が宋を攻められると聞きましたが、そうですか』と言うと、王は『そうだ』と言った。墨子は『公輸般に宋を攻める道具を設けさせ、臣はそれを守ってみることを願います』と言った。そこで公輸般が宋を攻める計を設けると、墨子は帯を巡らせてこれを守った。公輸般が九度攻めたが、墨子は九度退けた。入ることができず、ついに兵を止めた」とある。
27康伯はまだわたしの奥歯の後ろの知恵を手に入れていない
殷中軍云:「康伯未得我牙後慧。」
殷中軍が言った。「康伯はまだわたしの奥歯の後ろの知恵を手に入れていない。」
夾注 1
《浩別傳》曰:「浩善《老》《易》,能淸言。」康伯,浩甥也,甚愛之。
『浩別伝』に「殷浩は『老子』『易』をよくし、清談ができた」とある。康伯は殷浩の甥で、たいへん彼をかわいがっていた。
28手ぬぐいを取って、謝の若君に顔を拭かせよ
謝鎭西少時,聞殷浩能淸言,故往造之。殷未過有所通,爲謝標榜諸義,作數百語。既有佳致,兼辭條豐蔚,甚足以動心駭聽。謝注神傾意,不覺流汗交面。殷徐語左右:「取手巾與謝郎拭面。」
謝鎮西が若いころ、殷浩が清談に巧みだと聞いて、わざわざ出かけて訪ねた。
殷浩はまだ度を越して通じるところまではいかないままに、謝鎮西のためにさまざまな義を掲げ示して、数百語を語った。やがてよい到りがあり、あわせて言葉の筋が豊かに茂って、心を動かし耳を驚かせるにきわめて十分であった。
謝鎮西は神を注ぎ意を傾け、思わず流れる汗が顔に入り交じった。
殷浩はゆっくりと側の者に言った。「手ぬぐいを取って、謝の若君に顔を拭かせよ。」
夾注 1
按,殷浩大謝尚三歳,便是時流。或當貴其勝致,故爲之揮汗。
考えてみると、殷浩は謝尚より三歳上で、つまり同じ世代である。おそらくその抜きんでた到りを貴んだので、彼のために汗をかいたのである。
29義におのずから難易があるのに、一卦で区切るというのか
宣武集諸名勝講《易》,日説一卦。簡文欲聽,聞此便還。曰:「義自當有難易,其以一卦爲限邪?」
宣武が名士たちを集めて『易』を講じ、一日に一卦を説いた。
簡文帝は聞こうとしたが、これを聞くとすぐ帰って言った。「義にはおのずから難しいものと易しいものがあるだろうに、一卦で区切るというのか。」
夾注 1
《易·乾·鑿度》曰:「孔子曰:『易者,易也,變易也,不易也。三成德,爲道包籥者,易也。其德也光明四通,日月星辰布,八卦序,四時和也。變也者,天地不變,不能成朝;夫婦不變,不能成家。不易者,其位也。天在上,地在下;君南面,臣北面;父坐,子伏。此其不易也。故易者天地人道也。』」鄭玄序《易》曰:「易之爲名也,一言而函三義:簡易一也,變易二也,不易三也。《繫辭》曰:『乾坤,易之蘊也,易之門戸也。』又曰:『乾確然示人易矣,坤隤然示人簡矣。易則易知,簡則易從。』此言其簡易法則也。又曰:『其爲道也屢遷,變動不居,周流六虚,上下無常,剛柔相易,不可以爲典要,唯變所適。』此則言其從時出入移動也。又曰:『天尊地卑,乾坤定矣;卑髙以陳,貴賤位矣;動靜有常,剛柔斷矣。』此則言其張設布列不易也。」據此三義而説,易之道,廣矣,大矣。
『易・乾・鑿度』に「孔子が『易とは、易きであり、変易であり、不易である。三つが徳を成して、道を包む鍵となるものが易である。その徳は光り明らかで四方に通じ、日月星辰が布かれ、八卦が序づけられ、四時が和する。変とは、天地が変わらなければ朝を成すことができず、夫婦が変わらなければ家を成すことができないということである。不易とは、その位である。天は上にあり地は下にあり、君は南に面し臣は北に面し、父は坐し子は伏す。これがその不易である。だから易とは天と地と人の道である』と言った」とある。鄭玄が『易』に序して「易という名は、一語で三つの義を含む。簡易が一つ、変易が二つ、不易が三つである。『繋辞』に『乾坤は易の蓄えであり、易の門戸である』とあり、また『乾は確然として人に易きを示し、坤は隤然として人に簡を示す。易ければ知りやすく、簡なれば従いやすい』とあるが、これはその簡易の法則を言ったものである。また『その道たるやしばしば移り、変動して留まらず、六虚を周り流れ、上下に定まりなく、剛と柔が互いに易わり、典要とすることはできず、ただ変の赴くところに従う』とあるが、これはその時に従って出入りし移り動くことを言ったものである。また『天は尊く地は卑しく、乾坤が定まる。卑と高とによって陳べられ、貴と賤とが位を占める。動と静に常があり、剛と柔が分かれる』とあるが、これはその張り設け布き列ねて易わらないことを言ったものである」と言った。この三つの義に拠って説けば、易の道は広く、そして大きい。
30白い栴檀は香らないわけではないが、どうして風に逆らえようか
有北來道人好才理,與林公相遇於瓦官寺,講小品。於時竺法深、孫興公悉共聽。此道人語,屢設疑難,林公辯答淸析,辭氣倶爽。此道人毎輙摧屈。孫問深公:「上人當是逆風家,向來何以都不言?」深公笑而不答。林公曰:「白旃檀非不馥,焉能逆風?」深公得此義,夷然不屑。
北から来た道人があって才と理を好んだが、林公と瓦官寺で出会い、『小品般若経』を講じた。そのとき竺法深と孫興公もみな一緒に聞いた。
この道人の言葉はしばしば疑わしいところを立てて難じたが、林公の弁じ答えるさまは清らかに解き分けられ、言葉と気息がともに晴れやかであった。この道人はそのたびに折れて屈した。
孫興公が深公に尋ねた。「上人はまさに風に逆らう家の方なのに、さきほどからどうしてまったく何も言われないのですか。」
深公は笑って答えなかった。
林公が言った。「白い栴檀は香らないわけではないが、どうして風に逆らえようか。」
深公はこの義を受け取り、平然として取り合わなかった。
夾注 2
庾法暢《人物論》曰:「法深學義淵博,名聲蚤著,弘道法師也。」
庾法暢の『人物論』に「法深は学と義が深く広く、名声が早く顕れた、道を弘めた法師である」とある。
《成實論》曰:「波利質多天樹,其香則逆風而聞。」
『成実論』に「波利質多天の樹は、その香りが風に逆らって聞こえる」とある。
31君は口の強い馬になるな
孫安國往殷中軍許共論,往反精苦,客主無間。左右進食,冷而復煗者數四。彼我奮擲麈尾,悉脱落滿餐飯中。賓主遂至莫忘食。殷乃語孫曰:「卿莫作強口馬,我當穿卿鼻。」孫曰:「卿不見決鼻牛,人當穿卿頰。」
孫安国が殷中軍のところへ行ってともに論じたが、往き来は精緻で苦しく、客と主のあいだに隙がなかった。
側の者が食事を出したが、冷めてまた温めたのが三度四度になった。双方が払子を振り投げたので、毛がすべて抜け落ちて食べる飯の中にいっぱいになった。客も主も、ついに暮れるまで食事を忘れた。
殷中軍はそこで孫安国に言った。「君は口の強い馬になるな。わたしが君の鼻を貫いてやろう。」
孫安国が言った。「君は鼻の裂けた牛を見たことがないのか。人が君の頬を貫くことになるぞ。」
夾注 1
《續晉陽秋》曰:「孫盛善理義。時中軍將軍殷浩擅名一時,能與劇談相抗者,唯盛而已。」
『続晋陽秋』に「孫盛は理と義をよくした。そのころ中軍将軍の殷浩が一時に名を一人占めしていたが、彼と激しく語り合って張り合えた者は、ただ孫盛だけであった」とある。
32支道林が「逍遥遊」に新しい理を立てる
《莊子·逍遙篇》,舊是難處,諸名賢所可鑽味而不能拔理於郭向之外。支道林在白馬寺中,將馮太常共語,因及《逍遙》。支卓然標新理於二家之表,立異義於衆賢之外,皆是諸名賢尋味之所不得。後遂用支理。
『荘子』の「逍遥遊」篇は昔から難しいところで、名だたる賢者たちが掘り下げて味わうことはできたが、郭象と向秀の外に理を引き出すことはできなかった。
支道林が白馬寺の中にいて、馮太常とともに語り、そこから「逍遥遊」に及んだ。支道林は抜きんでて新しい理を二家の外に掲げ、異なる義を諸賢の外に立てたが、どれも名だたる賢者たちが尋ね味わっても得られなかったものであった。
のちについに支道林の理が用いられた。
夾注 2
《馮氏譜》曰:「馮懷字祖思,長樂人。歴太常、護國將軍。」
『馮氏譜』に「馮懐は字は祖思、長楽の人である。太常・護国将軍を歴任した」とある。
向子期、郭子玄《逍遙義》曰:「夫大鵬之上九萬,尺鷃之起楡枋,小大雖差,各任其性。苟當其分,逍遙一也。然物之芸芸,同資有待,得其所待,然後逍遙耳。唯聖人與物冥而循大變,爲能無待而常通,豈獨自通而已。又從有待者不失其所待;不失,則同於大通矣。」支氏《逍遙論》曰:「夫逍遙者,明至人之心也。莊生建言人道,而寄指鵬、鷃。鵬以營生之路曠,故失適於體外;鷃以在近而笑遠,有矜伐於心内。至人乘天正而髙興,遊無窮於放浪;物物而不物於物,則遙然不我得,玄感不爲,不疾而速,則逍然靡不適。此所以爲逍遙也。若夫有欲當其所足;足於所足,快然有似天眞。猶饑者一飽,渇者一盈,豈忘烝嘗於糗糧,絶觴爵於醪醴哉?苟非至足,豈所以逍遙乎?」此向郭之注所未盡。
向子期と郭子玄の「逍遥義」に「そもそも大鵬が九万里の上を行き、一尺の鷃が楡や枋から飛び立つのは、小と大の差はあっても、それぞれその性に任せている。まことにその分に適っていれば、逍遥であることは一つである。しかし物は数多く、どれも等しく待つものを資りとしているので、その待つものを得て、その後に逍遥するにすぎない。ただ聖人だけが物と冥合して大いなる変化に従い、待つものなくして常に通じることができるのだが、どうして一人で自ら通じるだけであろうか。さらに、待つもののある者に従ってその待つものを失わせない。失わなければ、大いなる通達と同じになるのである」とある。支氏の「逍遥論」に「そもそも逍遥とは、至人の心を明らかにしたものである。荘生は人の道を立てて言いながら、鵬と鷃に意を寄せた。鵬は生を営む道が広いので、体の外で適うことを失い、鷃は近くにいながら遠いものを笑うので、心の内に誇り立てるところがある。至人は天の正しさに乗って高く興り、果てしないところを気ままに遊び、物を物としながら物に物とされないので、はるかに我の得るところがなく、玄妙に感じながら為さず、急がずして速いので、逍然として適わないところがない。これが逍遥となるゆえんである。もし欲があってその足るところに適い、足るところに足るというのであれば、晴れやかで天の真に似たものがある。だがそれは飢えた者が一度満腹し、渇いた者が一度満たされるようなもので、どうして干し飯で祭りの供えを忘れ、甘い酒で杯を絶つことがあろうか。まことに至極の足りようでなければ、どうして逍遥となろうか」とある。これは向秀と郭象の注が尽くしていないところである。
33田舎者が、無理に人まねをしてあんな言葉を使うのだな
殷中軍嘗至劉尹所淸言。良久,殷理小屈,遊辭不已,劉亦不復答。殷去後,乃云:「田舍兒,強學人作爾馨語。」
殷中軍がかつて劉尹のところへ行って清談をした。しばらくして殷中軍の理が少し屈すると、浮いた言葉が止まらなくなり、劉尹もそれ以上答えなかった。
殷中軍が去ったのち、こう言った。「田舎者が、無理に人まねをしてあんな言葉を使うのだな。」
夾注 2
浩也
殷浩である。
劉惔,已見。
劉惔は、すでに見える。
34煮えたぎる堀と鉄の城のようで、攻められる勢いがない
殷中軍雖思慮通長,然於才性偏精。忽言及四本,便苦湯池鐵城,無可攻之勢。
殷中軍は思慮が通じて長かったが、才と性については偏って精しかった。ふと話が「四本」に及ぶと、すぐ煮えたぎる堀と鉄の城のようで、攻められる勢いがなかった。
夾注 1
《神農書》曰:「夫有石城七仞,湯池百歩,帶甲百萬而無粟者,不能自固也。」
『神農書』に「そもそも七仞の石の城、百歩の煮えたぎる堀があり、甲をつけた兵が百万あっても、粟がない者は、自ら固めることができない」とある。
35ここに文殊がいないのだから、だれがその値を知ることができよう
支道林造《即色論》,論成,示王中郎。中郎都無言。支曰:「默而識之乎?」王曰:「既無文殊,誰能見賞?」
支道林が「即色論」を作り、論ができあがると王中郎に見せた。中郎はまったく何も言わなかった。
支道林が言った。「黙ってこれを心に刻むのですか。」
王中郎が言った。「ここに文殊がいないのだから、だれがその値を知ることができよう。」
夾注 4
支道林《集妙觀章》云:「夫色之性也,不自有色。色不自有,雖色而空。故曰色即爲空,色復異空。」
支道林の『集妙観章』に「そもそも色の性は、おのずから色があるのではない。色がおのずから有るのでないから、色であっても空である。だから色は即ち空となり、色はまた空と異なると言う」とある。
王坦之,已見。
王坦之は、すでに見える。
《論語》曰:「默而識之,誨人不倦,何有於我哉?」
『論語』に「黙ってこれを心に刻み、人に教えて倦まない。何がわたしにあろうか」とある。
《維摩詰經》曰:「文殊師利問維摩詰云:『何者是菩薩入不二法門?』時維摩詰默然無言。文殊師利歎曰:『是眞入不二法門也。』」
『維摩詰経』に「文殊師利が維摩詰に『どのようなものが、菩薩が不二の法門に入ることですか』と尋ねると、そのとき維摩詰は黙然として何も言わなかった。文殊師利は嘆じて『これこそ真に不二の法門に入ることです』と言った」とある。
36支道林が「逍遥遊」を語ると、王羲之は襟を開いた
王逸少作會稽,初至,支道林在焉。孫興公謂王曰:「支道林拔新領異,胸懷所及,乃自佳,卿欲見不?」王本自有一往雋氣,殊自輕之。後孫與支共載往王許,王都領域,不與交言。須臾,支退,後正値王當行,車已在門。支語王曰:「君未可去,貧道與君小語。」因論《莊子·逍遙遊》。支作數千言,才藻新奇,花爛映發。王遂披襟解帶,留連不能已。
王逸少が会稽を治めることになり、はじめて着いたとき、支道林がそこにいた。
孫興公が王逸少に言った。「支道林は新しいものを引き出し、人と異なるものを統べていて、胸に抱くものの至るところが、それだけでみごとです。君は会いたいと思いませんか。」
王逸少はもとから一途に抜きんでた気概があり、かなり彼を軽く見ていた。
のちに孫興公が支道林とともに車に乗って王逸少のところへ行くと、王逸少はまったく垣を守って言葉を交わさなかった。
しばらくして支道林が退くときには、ちょうど王逸少が出かけようとするところで、車がすでに門に出ていた。
支道林が王逸少に言った。「君はまだ行ってはならない。貧道が君と少し話をしよう。」
そこで『荘子』の「逍遥遊」を論じた。支道林が数千語を語ったが、才と文のあやが新しく並ならず、花が咲き乱れて照り映えるようであった。
王逸少はついに襟を開き帯を解いて、留まり続けてやめることができなかった。
夾注 1
《支法師傳》曰:「法師研十地,則知頓悟於七住;尋莊周,則辯聖人之逍遙。當時名勝,咸味其音旨。」道賢論以七沙門比竹林七賢。遁比向秀,雅尚《莊》《老》。二子異時,風尚玄同也。
『支法師伝』に「法師が十地を究めると、七住において頓悟することを知り、荘周を尋ねると、聖人の逍遥を弁じた。当時の名だたる人々は、みなその響きと趣旨を味わった」とある。『道賢論』では七人の沙門を竹林の七賢になぞらえている。支遁は向秀になぞらえられ、上品に『荘子』『老子』を尊んだ。二人は時を異にするが、風儀と尊ぶところは玄妙に同じである。
37三乗の滞った義を支道林が分けて明らかにする
三乘佛家滯義,支道林分判,使三乘炳然。諸人在下坐聽,皆云可通。支下坐,自共説,正當得兩,入三便亂。今義弟子雖傳,猶不盡得。
三乗は仏家で滞っていた義であったが、支道林が分けて判じ、三乗を明らかにした。
人々は下の席で聞いて、みな通じるとした。支道林が席を下りたあと、自分たちだけで説いてみると、ちょうど二つまでは得られたが、三つめに入るとすぐ乱れた。
今、その義は弟子が伝えてはいるが、まだ尽くしては得ていない。
夾注 1
《法華經》曰:「三乘者:一曰聲聞乘,二曰縁覺乘,三曰菩薩乘。聲聞者,悟四諦而得道也。縁覺者,悟因縁而得道也。菩薩者,行六度而得道也。然則羅漢得道,全由佛教,故以聲聞爲名也。辟支佛得道,或聞因縁而解,或聽環珮而得悟。神能獨達,故以縁覺爲名也。菩薩者,大道之人也。方便則止行六度,眞教則通修萬善,功不爲己,志存廣濟,故以大道爲名也。」
『法華経』に「三乗とは、一つめは声聞乗、二つめは縁覚乗、三つめは菩薩乗である。声聞とは、四諦を悟って道を得ることである。縁覚とは、因縁を悟って道を得ることである。菩薩とは、六度を行って道を得ることである。そうであれば、羅漢が道を得るのはまったく仏の教えによるので、声聞を名とする。辟支仏が道を得るのは、因縁を聞いて解く者もあり、環や珮の音を聞いて悟る者もあるが、神が独りで至ることができるので、縁覚を名とする。菩薩とは、大道の人である。方便としてはただ六度を行い、真の教えとしては広くあらゆる善を修め、功を自分のためにせず、志は広く済うことにあるので、大道を名とする」とある。
38君の話はよいにはよいが、どうして互いに苦しめるまでになったのか
許掾年少時,人以比王苟子,許大不平。時諸人士及於法師並在會稽西寺講,王亦在焉。許意甚忿,便往西寺與王論理,共決優劣。苦相折挫,王遂大屈。許復執王理,王執許理,更相覆疎;王復屈。許謂支法師曰:「弟子向語何似?」支從容曰:「君語佳則佳矣,何至相苦邪?豈是求理中之談哉!」
許掾が年若いころ、人々が彼を王苟子と並べて比べたので、許掾はたいへん不満であった。
そのころ名士たちと于法師がそろって会稽の西寺で講じていて、王苟子もそこにいた。
許掾は心中たいへん憤り、すぐ西寺へ行って王苟子と理を論じ、ともに優劣を決した。苦しく折り抑えたので、王苟子はついに大きく屈した。
許掾は改めて王苟子の理を取り、王苟子は許掾の理を取って、互いに裏返して述べ直したが、王苟子はまた屈した。
許掾が支法師に言った。「弟子のさきほどの話はいかがでしたか。」
支法師は落ち着いて言った。「君の話はよいにはよいが、どうして互いに苦しめるまでになったのか。それがどうして理を求めるうちの談であろうか。」
夾注 2
詢也
許詢である。
苟子,王脩小字也。《文字志》曰:「脩字敬仁,太原晉陽人。父濛,司徒左長史。脩明秀有美稱,善隸行書,號曰『流奕淸舉』。起家著作佐郎,琅邪王文學,轉中軍司馬,未拜而卒,時年二十四。昔王弼之沒,與脩同年,故脩弟熙乃歎曰:『無愧於古人,而年與之齊也。』」
苟子は王脩の幼名である。『文字志』に「王脩は字は敬仁、太原晋陽の人である。父の王濛は司徒左長史である。王脩は明らかで秀でて美しい評判があり、隷書と行書をよく書いて『流れるようにつらなり、清らかに挙がる』と称された。著作佐郎として仕え始め、琅邪王文学、転じて中軍司馬となったが、任命を受ける前に亡くなり、そのとき年は二十四であった。昔、王弼が没したのが王脩と同じ年であったので、王脩の弟の王熙は嘆いて『古人に恥じるところがないのに、年までもそれと等しい』と言った」とある。
39一生を託してきたものは、ただこの子にあるだけです
林道人詣謝公,東陽時始總角,新病起,體未堪勞。與林公講論,遂至相苦。母王夫人在壁後聽之,再遣信令還,而太傅留之。王夫人因自出云:「新婦少遭家難,一生所寄,唯在此兒。」因流涕抱兒以歸。謝公語同坐曰:「家嫂辭情忼慨,致可傳述,恨不使朝士見。」
林道人が謝公を訪ねたが、東陽はそのころ子どもの髪型で、病から起きたばかりで、体がまだ疲れに堪えられなかった。
林公と講論して、ついに互いに苦しめるまでになった。母の王夫人は壁の後ろでこれを聞き、二度も使いを出して帰らせようとしたが、太傅が引き止めた。
王夫人はそこで自ら出てきて言った。「わたくしは若いころ家の不幸に遭い、一生を託してきたものは、ただこの子にあるだけです。」
そして涙を流し、子を抱いて帰った。
謝公が同席の者に言った。「家の兄嫁の言葉と情は激しく高く、かなり語り伝えるに足るものだ。朝廷の士に見せられなかったのが残念だ。」
夾注 2
東陽,謝朗也,已見。《中興書》曰:「朗博渉有逸才,善言玄理。」
東陽は謝朗で、すでに見える。『中興書』に「謝朗は広く渉って抜きんでた才があり、玄妙な理を語るのが巧みであった」とある。
《謝氏譜》曰:「朗父據,取太康王韜女,名綏。」
『謝氏譜』に「謝朗の父の謝拠は、太康の王韜の娘を妻に迎えた。名は綏である」とある。
40二家の美しさをともに感嘆するばかりで、理がどこにあるかは分けられなかった
支道林、許掾諸人共在會稽王齋頭。支爲法師,許爲都講。支通一義,四坐莫不厭心。許送一難,衆人莫不抃舞。但共嗟詠二家之美,不辯其理之所在。
支道林と許掾ら数人が、ともに会稽王の書斎にいた。
支道林が法師となり、許掾が都講となった。支道林が一つの義を通せば、座の四方に心が満たされない者がなく、許掾が一つの難を差し出せば、人々はだれもが手を打って舞わないことがなかった。
ただ二家の美しさをともに感嘆して詠じるばかりで、その理がどこにあるかは分けられなかった。
夾注 2
簡文
簡文帝である。
《髙逸沙門傳》曰:「道林時講《維摩詰經》。」
『高逸沙門伝』に「道林はそのころ『維摩詰経』を講じていた」とある。
41今日は喪中の謝玄と思いきり語ってきたところだ
謝車騎在安西艱中,林道人往就語,將夕乃退。有人道上見者問云:「公何處來?」答云:「今日與謝孝劇談一出來。」
謝車騎が安西の喪中にあったとき、林道人が出かけて行って語り、夕方になってようやく退いた。
ある人が道の上で見かけて尋ねた。「公はどこから来られたのですか。」
答えた。「今日は喪中の謝玄と、思いきり語ってきたところだ。」
夾注 2
安西,謝奕。已見。
安西は謝奕で、すでに見える。
《玄別傳》曰:「玄能淸言,善名理。」
『玄別伝』に「謝玄は清談ができ、名と理をよくした」とある。
42君の義と言葉はまったく進んでいない
支道林初從東出,住東安寺中。王長史宿構精理,并撰其才藻,往與支語,不大當對。王敘致作數百語,自謂是名理奇藻。支徐徐謂曰:「身與君別多年,君義言了不長進。」王大慚而退。
支道林がはじめて東から出てきて、東安寺の中に住んだ。
王長史はあらかじめ精緻な理を組み立て、あわせてその才と文のあやを選んで、出かけて支道林と語ったが、大きくは渡り合えなかった。
王長史は趣旨を述べて数百語を語り、自分では名と理の並ならぬ文のあやだと思っていた。
支道林はゆっくりと言った。「わたしが君と別れてから何年にもなるが、君の義と言葉はまったく進んでいない。」
王長史は大いに恥じて退いた。
夾注 1
《髙逸沙門傳》曰:「遁居會稽,晉哀帝欽其風味,遣中使至東迎之。遁遂辭丘壑,髙歩天邑。」
『高逸沙門伝』に「支遁が会稽に住んでいると、晋の哀帝がその風趣を慕って、中使を東に遣わして迎えた。支遁はついに丘や谷に別れを告げ、天子の都に高く歩を進めた」とある。
43『小品』に二百枚の付け紙を挟む
殷中軍讀小品,下二百籤,皆是精微,世之幽滯。嘗欲與支道林辯之,竟不得。今小品猶存。
殷中軍が『小品般若経』を読み、二百枚の付け紙を挟んだが、どれも精緻微妙で、世が奥深く行き詰まっていたところであった。
かつて支道林とこれを分け明らかにしようとしたが、ついにできなかった。今も『小品』は残っている。
夾注 2
釋氏《辨空經》,有詳者焉,有略者焉。詳者爲大品,略者爲小品。
釈氏の『弁空経』には、詳しいものと簡略なものとがある。詳しいものを『大品』といい、簡略なものを『小品』という。
《髙逸沙門傳》曰:「殷浩能言名理,自以有所不達,欲訪之於遁。遂邂逅不遇,深以爲恨。其爲名識賞重,如此之至焉。」《語林》曰:「浩於佛經有所不了,故遣人迎林公,林乃虚懷欲往。王右軍駐之曰:『淵源思致淵富,既未易爲敵,且己所不解,上人未必能通。縱復服從,亦名不益髙。若佻脱不合,便喪十年所保。可不須往!』林公亦以爲然,遂止。」
『高逸沙門伝』に「殷浩は名と理を語ることができたが、自分で通達していないところがあるとして、支遁に尋ねようとした。ついに行き違って出会えず、深くそれを残念に思った。彼が名ある識者に認められ重んじられたことは、これほどまでであった」とある。『語林』に「殷浩が仏典にわからないところがあり、わざわざ人を遣わして林公を迎えようとすると、林公も心を空しくして行こうとした。王右軍がこれを止めて『殷淵源は思いと到りが深く豊かで、すでに容易には相手になれませんし、また彼が解けないところを、上人が必ず通じられるわけでもありません。たとえ従わせたとしても名が高くなるわけではなく、もし軽々しく外れて噛み合わなければ、十年守ってきたものを失います。行かれなくてもよいでしょう』と言った。林公もそのとおりだと思い、ついにやめた」とある。
44峰に登って極みに至れるかどうかは知らない
佛經以爲袪練神明,則聖人可致。簡文云:「不知便可登峰造極不?然陶練之功,尚不可誣。」
仏典では、神と明とを払い鍛えれば、聖人に至ることができるとしている。
簡文帝が言った。「峰に登って極みに至れるかどうかは知らない。しかし、練り鍛える功は、やはり偽りだとはできない。」
夾注 1
釋氏經曰:「一切衆生,皆有佛性。但能修智慧,斷煩惱,萬行具足,便成佛也。」
釈氏の経に「あらゆる衆生に、みな仏の性がある。ただ智慧を修め、煩悩を断ち、万行が具足すれば、すぐ仏となる」とある。
45君がどうして人の荷を載せて来るのか
于法開始與支公爭名,後情漸歸支,意甚不分,遂遁跡剡下。遣弟子出都,語使過會稽。於時支公正講小品。開戒弟子:「道林講,比汝至,當在某品中。」因示語攻難數十番,云:「舊此中不可復通。」弟子如言詣支公。正値講,因謹述開意。往反多時,林公遂屈。厲聲曰:「君何足復受人寄載來!」
于法開ははじめ支公と名を争っていたが、のちに人の気持ちがしだいに支公に帰したので、心中たいへん納得がいかず、ついに剡県のあたりに跡を隠した。
弟子を都に出すとき、会稽に寄るように言った。そのとき支公はちょうど『小品』を講じていた。
于法開は弟子に言い聞かせた。「道林が講じていて、お前が着くころには、きっとどの品のところにいるはずだ。」
そこで攻め難じる言葉を数十回分教えて言った。「昔から、この中は重ねて通すことができない。」
弟子は言われたとおり支公を訪ねたが、ちょうど講義の時であった。そこで慎んで于法開の趣旨を述べた。往き来を長く続けると、林公はついに屈した。
厳しい声で言った。「君がどうして人の荷を載せて来るのか。」
夾注 1
《名德沙門題目》曰:「于法開才辨從橫,以數術弘教。」《髙逸沙門傳》曰:「法開初以義學著名,後與支遁有競,故遁居剡縣,更學醫術。」
『名徳沙門題目』に「于法開は才と弁が縦横で、数術によって教えを広めた」とある。『高逸沙門伝』に「法開ははじめ義学で名高かったが、のちに支遁と競うところがあったので、支遁が剡県に住むと、あらためて医術を学んだ」とある。
46水を地に注ぐようなもので、四角いものも丸いものもほとんどない
殷中軍問:「自然無心於稟受,何以正善人少,惡人多?」諸人莫有言者。劉尹答曰:「譬如寫水著地,正自縱橫流漫,略無正方圓者。」一時絶嘆,以爲名通。
殷中軍が尋ねた。「自然は授け受けることに心がないのに、どうしてまさに善い人は少なく、悪い人は多いのか。」
人々のうちに答える者はなかった。
劉尹が答えた。「たとえば水を地に注ぐようなもので、まさにおのずから縦横に流れ広がって、四角いものも丸いものも、ほとんどありません。」
一時みな絶賛して、名高い通釈だとした。
夾注 1
《莊子》曰:「天籟者,吹萬不同,而使其自己也。」郭子玄注曰:「無既無矣,則不能生有。有之未生,又不能爲生。然則生生者誰哉?塊然而自生耳,非我生也。我不生物,物不生我,則自然而已然,謂之天然。天然非爲也,故以天言之,所以明其自然故也。」
『荘子』に「天の籟とは、万に吹きかけて同じでなく、それらをおのずからそうさせるものである」とある。郭子玄が注して「無はすでに無なのだから、有を生むことはできない。有がまだ生じていなければ、また生むこともできない。それならば、生じるものを生むのは誰か。塊のようにおのずから生じるだけで、我が生むのではない。我が物を生まず、物が我を生まないのだから、おのずからそうであって、すでにそうであるだけであり、これを天然という。天然とは為すことではないから、天として言ったのであり、そのおのずからそうであることを明らかにするためである」と言った。
47康僧淵がはじめて長江を渡る
康僧淵初過江,未有知者,恆周旋市肆,乞索以自營。忽往殷淵源許,値盛有賓客,殷使坐,麤與寒温,遂及義理。語言辭旨,曾無愧色。領略麤舉,一往參詣。由是知之。
康僧淵がはじめて長江を渡ったとき、知る人がなく、いつも市場や店先をめぐって、乞い求めて自分を養った。
ふと殷淵源のところへ行くと、ちょうど客が多く来ていた。殷淵源は座らせ、ざっと挨拶を交わしてから、ついに義と理に及んだ。
言葉と趣旨には、まったく恥じた色がなく、要を押さえてざっと挙げるだけで、ひと息に深みに至った。これによって彼が知られるようになった。
夾注 1
僧淵氏族,所出未詳。疑是胡人。尚書令沈約撰《晉書》,亦稱其有義學。
僧淵の一族と出身は詳らかでない。おそらく胡の人であろう。尚書令の沈約が著した『晋書』でも、彼に義学があったと称えている。
48眼が万の形に行くのか、万の形が眼に入ってくるのか
殷謝諸人共集。謝因問殷:「眼往屬萬形,萬形來入眼不?」
殷氏と謝氏の人々がともに集まった。
謝公はそこで殷浩に尋ねた。「眼が万の形に行くのか、万の形が眼に入ってくるのか。」
夾注 2
殷浩、謝安
殷浩と謝安である。
《成實論》曰:「眼識不待到而知虚塵,假空與明,故得見色。若眼到色到,色閒則無空明。如眼觸目,則不能見彼。當知眼識不到而知。」依如此説,則眼不往,形不入,遙屬而見也。謝有問,殷無答,疑闕文。
『成実論』に「眼の識は至るのを待たずに虚しい塵を知り、空と明とを借りるので、色を見ることができる。もし眼が至り色が至るのであれば、色のあいだに空と明がない。眼が目玉に触れるようであれば、あちらを見ることができない。まさに眼の識が至らずして知るのだと知るべきである」とある。この説によれば、眼は行かず、形は入らず、遠くからつながって見るのである。謝公の問いがあって殷浩の答えがないので、文が欠けているのではないかと思われる。
49官はもともと腐って臭く、財はもともと糞土である
人有問殷中軍:「何以將得位而夢棺器,將得財而夢矢穢?」殷曰:「官本是臭腐,所以將得而夢棺屍;財本是糞土,所以將得而夢穢汙。」時人以爲名通。
ある人が殷中軍に尋ねた。「どうして官位を得ようとするときには棺を夢に見、財を得ようとするときには糞や汚れたものを夢に見るのですか。」
殷中軍が言った。「官はもともと腐って臭いものだから、得ようとするときに棺や屍を夢に見る。財はもともと糞土だから、得ようとするときに汚れたものを夢に見る。」
当時の人は、名高い通釈だとした。
50はじめは多すぎると疑い、のちには少ないのを残念に思う
殷中軍被廢東陽,始看佛經。初視《維摩詰》,疑般若波羅密太多,後見小品,恨此語少。
殷中軍が退けられて東陽にいたとき、はじめて仏典を読んだ。
はじめ『維摩詰経』を見たときは「般若波羅蜜」が多すぎると疑ったが、のちに『小品』を見てからは、この語が少ないのを残念に思った。
夾注 3
浩黜廢事,別見。
殷浩が退けられ廃された事は、別に見える。
僧肇注《維摩經》曰:「維摩詰者,秦言淨名,蓋法身之大士,見居此土,以弘道也。」
僧肇が『維摩経』に注して「維摩詰とは、秦の言葉で浄名である。おおむね法身の大士が、この地に現れて住み、道を広めたのである」と言った。
波羅密,此言到彼岸也。經云:「到者有六焉:一曰檀;檀者,施也。二曰毗黎;毗黎者,持戒也。三曰羼提;羼提者,忍辱也。四曰尸羅;尸羅者,精進也。五曰禪;禪者,定也。六曰般若;般若者,智慧也。然則五者爲舟,般若爲導,導則倶絶有相之流,升無相之彼岸也。故曰波羅密也。」淵源未暢其致,少而疑其多;已而究其宗,多而患其少也。
波羅蜜は、ここの言葉で彼岸に至るということである。経に「至るものに六つある。一つめは檀で、檀とは施しである。二つめは毗黎で、毗黎とは戒を持つことである。三つめは羼提で、羼提とは辱めを忍ぶことである。四つめは尸羅で、尸羅とは努め励むことである。五つめは禅で、禅とは定である。六つめは般若で、般若とは智慧である」とある。そうであれば、五つが舟となり、般若が導きとなる。導けば、ともに相ある流れを絶ち、相なき彼岸に登る。だから波羅蜜という。殷淵源はまだその到りを晴れやかに知らなかったので、はじめはその多さを疑い、やがてその宗を究めてからは、多くてもその少なさを気にしたのである。
51才と性は、殷淵源の崤山と函谷のような堅さだ
支道林、殷淵源倶在相王許。簡文相王謂二人:「可試一交言。而才性殆是淵源崤函之固,君其愼焉!」支初作,改轍遠之,數四交,不覺入其玄中。相王撫肩笑曰:「此自是其勝塲,安可爭鋒!」
支道林と殷淵源がともに相王のところにいた。
簡文の相王が二人に言った。「ひとつ言葉を交わしてみるとよい。ただし才と性については、おそらく殷淵源の崤山と函谷のような堅さがあるから、君は気をつけるように。」
支道林がはじめ論を立てたときは、車輪の跡を変えて遠くを回っていたが、三度四度と往き来するうちに、思わずその玄妙の中に入ってしまった。
相王が肩をなでて笑った。「これはおのずから彼の勝ち場なのだから、どうして刃の先を争えようか。」
夾注 1
崤,謂二陵之地;函,函谷關也。並秦之險塞,王者之居。左思《魏都賦》曰:「崤函,帝王之宅。」
崤は二つの陵の地を言い、函は函谷関である。どちらも秦の険しい要害で、王となる者の住まう地である。左思の「魏都賦」に「崤と函は、帝王の宅である」とある。
52訏謨定命 遠猷辰告 — この句に上品な人の深い到りがある
謝公因子弟集聚,問毛《詩》何句最佳?遏稱曰:「昔我往矣,楊柳依依;今我來思,雨雪霏霏。」公曰:「訏謨定命,遠猷辰告。」謂此句偏有雅人深致。
謝公が子弟の集まった折に尋ねた。「毛氏の『詩』では、どの句が最もよいか。」
謝遏が挙げて言った。「『昔わたしが行ったときには、柳がしなやかに揺れていた。いまわたしが帰ることを思うと、雪まじりの雨がしきりに降る。』」
謝公が言った。「『大いなる謀りごとで命を定め、遠い図りごとを時に合わせて告げる。』」
この句にはとりわけ、上品な人の深い到りがあると言ったのである。
夾注 2
謝玄小字,已見。
謝玄の幼名で、すでに見える。
《大雅詩》也。毛萇注曰:「訏,大也。謨,謀也。辰,時也。」鄭玄注曰:「猷,圖也。大謀定命,謂正月始和,布政於邦國都鄙。」
『大雅』の詩である。毛萇が注して「訏は大である。謨は謀である。辰は時である」と言った。鄭玄が注して「猷は図である。大いなる謀りごとで命を定めるとは、正月にはじめて和し、国や都や村に政を布くことを言う」と言った。
53張憑が末席から判じる
張憑舉孝廉出都,負其才氣,謂必參時彦。欲詣劉尹,鄕里及同舉者共笑之。張遂詣劉。劉洗濯料事,處之下坐,唯通寒暑,神意不接。張欲自發無端。頃之,長史諸賢來淸言。客主有不通處,張乃遙於末坐判之,言約旨遠,足暢彼我之懷,一坐皆驚。眞長延之上坐,淸言彌日,因留宿至曉。張退,劉曰:「卿且去,正當取卿共詣撫軍。」張還船,同侶問何處宿?張笑而不答。須臾,眞長遣傳教覓張孝廉船,同侶惋愕。即同載詣撫軍。至門,劉前進謂撫軍曰:「下官今日爲公得一太常博士妙選!」既前,撫軍與之話言,咨嗟稱善曰:「張憑勃窣爲理窟。」即用爲太常博士。
張憑が孝廉に挙げられて都に出るとき、自分の才と気概を恃んで、必ず当代のすぐれた人々と交われるだろうと思っていた。
劉尹を訪ねようとすると、郷里の人も一緒に挙げられた者も、みな彼を笑った。張憑はついに劉尹を訪ねた。
劉尹は身を洗い事務を処理しながら、彼を下座に置き、ただ挨拶を交わすだけで、心も意も向けなかった。張憑は自分から口を切ろうとしたが、糸口がなかった。
しばらくして、長史や諸賢が来て清談をした。客と主のあいだで通じないところがあったので、張憑はそこで遠く末席からこれを判じたが、言葉は簡略で趣旨は遠く、双方の思うところを晴れやかにするに足りたので、座の者はみな驚いた。
真長は彼を上座へ導き、一日中清談をし、そのまま泊めて夜明けに至った。
張憑が退くとき、劉尹は言った。「君はまず行きなさい。まさに君を連れて、ともに撫軍を訪ねることにしよう。」
張憑が舟に帰ると、同行の者たちがどこで泊まったのかと尋ねた。張憑は笑って答えなかった。
しばらくして真長が使いを出して張孝廉の舟を探させたので、同行の者たちは驚きあきれた。
すぐ一緒に車に乗って撫軍を訪ねた。門に着くと、劉尹が先に進み出て撫軍に言った。「下官は今日、公のために太常博士を一人、みごとに選んでまいりました。」
それから前に進み出ると、撫軍は彼と言葉を交わし、感嘆してよしと称えた。「張憑は、ほとばしり出る理の洞窟だ。」
すぐ用いて太常博士とした。
夾注 1
宋明帝《文章志》曰:「憑字長宗,呉郡人。有意氣,爲鄕閭所稱。學尚所得,敏而有文。太守以才選舉孝廉,試策髙第。爲惔所舉,補太常博士。累遷吏部郎、御史中丞。」
宋の明帝の『文章志』に「張憑は字は長宗、呉郡の人である。意気があり、村里で称えられた。学んで高く得たところがあり、機敏で文があった。太守が才によって選び孝廉に挙げると、試験の答案が高い等級であった。劉惔に推挙されて太常博士に任じられ、次々に昇って吏部郎・御史中丞に至った」とある。
54六通と三明は帰するところが同じで、名が違うだけである
汰法師云:「『六通』、『三明』同歸,正異名耳。」
汰法師が言った。「『六通』と『三明』は帰するところが同じで、まさに名が違うだけである。」
夾注 1
《安法師傳》曰:「竺法汰者,體器弘簡,道情冥到,法師友而善焉。」一説法汰即安公弟子也。經云:「六通者,三乘之功德也。一曰天眼通,見遠方之色;二曰天耳通,聞障外之聲;三曰身通,飛行隱顯;四曰它心通,水鏡萬慮;五曰宿命通,神知已往;六曰漏盡通,慧解累世。三明者:解脱在心,朗照三世者也。」然則天眼、天耳、身通、它心、漏盡此五者,皆見在心之明也。宿命則過去心之明也。因天眼發未來之智,則未來心之明也。同歸異名,義在斯矣。
『安法師伝』に「竺法汰という者は、体と器が広く簡素で、道の情が玄妙に至り、法師は友として親しんだ」とある。一説に、法汰は安公の弟子だという。経に「六通とは、三乗の功徳である。一つめは天眼通で、遠方の色を見る。二つめは天耳通で、遮りの外の声を聞く。三つめは身通で、飛び行き隠れ現れる。四つめは他心通で、あらゆる思いを水や鏡のように映す。五つめは宿命通で、神が過ぎ去ったことを知る。六つめは漏尽通で、慧によって幾世の累いを解く。三明とは、解脱が心にあって、三世を朗らかに照らすものである」とある。そうであれば、天眼・天耳・身通・他心・漏尽のこの五つは、みな現に在る心の明である。宿命は過去の心の明である。天眼によって未来の智を発すれば、未来の心の明である。帰するところが同じで名が違うという義は、ここにある。
55「漁父」の一篇をめぐって、それぞれが思いを通す
支道林、許、謝盛德,共集王家。謝顧謂諸人:「今日可謂彦會,時既不可留,此集固亦難常。當共言詠,以寫其懷。」許便問主人,有《莊子》不?正得《漁父》一篇。謝看題,便各使四坐通。支道林先通,作七百許語,敘致精麗,才藻奇拔,衆咸稱善。於是四坐各言懷畢。謝問曰:「卿等盡不?」皆曰:「今日之言,少不自竭。」謝後麤難,因自敘其意,作萬餘語,才峰秀逸。既自難干,加意氣擬託,蕭然自得,四坐莫不厭心。支謂謝曰:「君一往奔詣,故復自佳耳。」
支道林と許氏・謝氏の盛んな徳ある人々が、ともに王氏の家に集まった。
謝公が人々を振り返って言った。「今日はすぐれた人々の会と言えよう。時はすでに引き止められず、この集まりももとよりまた常にはありえない。ともに語り詠じて、その思いを描き出そう。」
許氏はすぐ主人に『荘子』があるかと尋ね、ちょうど「漁父」の一篇を得た。
謝公は題を見て、すぐ座の一人ひとりに通させた。支道林がまず通して七百語ほどを述べたが、述べ方の到りが精緻で美しく、才と文のあやが並ならず抜きんでていたので、人々はみなよしと称えた。
そこで座の四方がそれぞれ思うところを語り終えた。
謝公が尋ねた。「君たちは言い尽くしたか。」
みな言った。「今日の言葉は、少しも自ら尽くさないものはありません。」
謝公はあとからざっと難じ、それによって自ら自分の趣旨を述べて万余語を作ったが、才の峰が秀でて抜きんでていた。もともと侵しがたいうえに、意気を寄せ託すことを加えて、もの寂しくおのずから得ていたので、座の四方に心が満たされない者がなかった。
支道林が謝公に言った。「君はひと息に駆け上って至ったのだから、やはりそれだけでみごとなのだ。」
夾注 3
許詢、謝安、王濛。
許詢と謝安と王濛である。
《莊子》曰:「孔子遊乎緇帷之林,休坐乎杏壇之上。孔子絃歌鼓琴,奏曲未半,有漁者下船而來,鬚眉交白,被髮揄袂,行原以上,距陸而止,左手據膝,右手持頤以聽。曲終而招子貢、子路語曰:『彼何爲者也?』曰:『孔氏。』曰:『孔氏何治?』子貢曰:『服忠信,行仁義,飾禮樂,選人倫,孔氏之所治也。』曰:『有土之君歟?』曰:『非也。』漁父曰:『仁則仁矣,恐不免其身。』孔子聞而求問之,遂言八疵、四病,以誡孔子。」
『荘子』に「孔子が黒い帳のような林に遊び、杏の壇の上に座って休んだ。孔子が琴を弾いて歌い、曲が半ばにも至らないうちに、漁をする者が舟から下りて来た。ひげも眉もすっかり白く、髪を解き放ち袖を垂らして、岸を歩いて上がり、陸に至って止まった。左手で膝を押さえ、右手で顎を支えて聞いていた。曲が終わると、子貢と子路を呼んで『あれは何をする者か』と言うと、『孔氏です』と言った。『孔氏は何を治めているのか』と言うと、子貢は『忠と信に従い、仁と義を行い、礼と楽を飾り、人倫を分けるのが、孔氏の治めるところです』と言った。『土地を持つ君か』と言うと、『いいえ』と言った。漁父は『仁ではあるが、その身を免れられないのではないかと恐れる』と言った。孔子はそれを聞いて行って尋ねたので、ついに八つの疵と四つの病を語って、孔子を戒めた」とある。
《文字志》曰:「安神情秀悟,善談玄速。」
『文字志』に「謝安は神も情も秀でて悟り、玄妙なことを語るのが速やかであった」とある。
56真長を来させれば、きっと彼を抑えるすべがあるだろう
殷中軍、孫安國、王、謝能言諸賢,悉在會稽王許。殷與孫共論《易》象妙於見形。孫語道合,意氣干雲。一坐咸不安孫理,而辭不能屈。會稽王慨然嘆曰:「使眞長來,故應有以制彼。」既迎眞長,孫意己不如。眞長既至,先令孫自敘本理。孫麤説己語,亦覺殊不及向。劉便作二百許語,辭難簡切,孫理遂屈。一坐同時拊掌而笑,稱美良久。
殷中軍・孫安国・王氏・謝氏など談論にすぐれた諸賢が、みな会稽王のところにいた。
殷中軍と孫安国が、ともに『易』の象が形を現すことより妙であることを論じた。孫安国の言葉は道に合い、意気は雲を突いた。座の者はみな孫安国の理に落ち着かなかったが、言葉で屈服させることができなかった。
会稽王は憤って嘆いた。「真長を来させれば、きっと彼を抑えるすべがあるだろう。」
やがて真長を迎えると、孫安国の気勢はもう前ほどでなかった。真長が着くと、まず孫安国にもとの理を自ら述べさせた。孫安国が自分の言葉をざっと述べたが、やはりさきほどにかなり及ばないのを感じた。
劉尹はすぐ二百語ほどを述べたが、言葉も難じ方も簡略で切実だったので、孫安国の理はついに屈した。座の者が一斉に手を打って笑い、長らく美しいと称えた。
夾注 1
其論略曰:「聖人知觀器不足以達變,故表圓應於蓍龜。圓應不可爲典要,故寄妙跡於六爻。六爻周流,唯化所適,故雖一畫,而吉凶並彰,微一則失之矣。擬器託象,而慶咎交著,繫器則失之矣。故設八卦者,蓋縁化之影跡也。天下者,寄見之一形也。圓影備未備之象,一形兼未形之形。故盡二儀之道,不與乾、坤齊妙。風雨之變,不與巽、坎同體矣。」
その論の大略に「聖人は、器を観るだけでは変化に至るに足りないことを知っていたので、円やかな応じ方を蓍と亀に表した。円やかな応じ方は典要とすることができないので、妙なる跡を六爻に寄せた。六爻は周り流れ、ただ変化の赴くところに従うので、たとえ一画であっても吉凶がともに顕れ、その一を微かにすればこれを失う。器に擬え象に託して、慶びと咎めが交わり顕れるので、器に繋がればこれを失う。だから八卦を設けたのは、おおむね変化によって生じた影と跡である。天下とは、見ることを寄せた一つの形である。円やかな影がまだ備わらない象を備え、一つの形がまだ形をなさない形を兼ねる。だから二儀の道を尽くしても、乾と坤と妙を等しくせず、風と雨の変化も、巽と坎と体を同じくしない」とある。
57では、だれが聖人を操るのですか
僧意在瓦官寺中,王苟子來,與共語,便使其唱理。意謂王曰:「聖人有情不?」王曰:「無。」重問曰:「聖人如柱邪?」王曰:「如籌算,雖無情,運之者有情。」僧意云:「誰運聖人邪?」苟子不得答而去。
僧意が瓦官寺の中にいたところ、王苟子が来てともに語り、そこで彼に理を唱えさせた。
僧意が王苟子に言った。「聖人に情はありますか。」
王苟子が言った。「ない。」
重ねて尋ねた。「聖人は柱のようなものですか。」
王苟子が言った。「算木のようなもので、それ自体に情はないが、それを操る者に情がある。」
僧意が言った。「では、だれが聖人を操るのですか。」
苟子は答えられずに去った。
夾注 3
未詳僧意氏族所出
僧意の一族と出身は詳らかでない。
苟子,王脩小字。
苟子は王脩の幼名である。
諸本無僧意最後一句,意疑其闕,慶校衆本皆然。唯一書有之,故取以成其義。然王脩善言理,如此論,特不近人情,猶疑斯文爲謬也。
諸本に僧意の最後の一句がないので、欠けているのではないかと思ったが、諸本を照らし合わせてもみな同じであった。ただ一つの書にこれがあるので、取ってその義を成した。しかし王脩は理を語るのが巧みであったのに、このような論はかなり人の情に近くないので、やはりこの文は誤りではないかと思われる。
58恵施の五車の書に、どうして一言も玄妙に入ったものがないのか
司馬太傅問謝車騎:「惠子其書五車,何以無一言入玄?」謝曰:「故當是其妙處不傳。」
司馬太傅が謝車騎に尋ねた。「恵子はその書が五車もあるのに、どうして一言も玄妙に入ったものがないのか。」
謝車騎が言った。「わざわざ言えば、その妙なるところが伝わらなかったのでしょう。」
夾注 1
《莊子》曰:「惠施多方,其書五車,其道舛駮,其言不中。謂卵有毛,鷄三足,馬有卵,犬可爲羊,火不熱,目不見,龜長於蛇,丁子有尾,白狗黑,連環可解。能勝人之口,不能服人之心。蓋辯者之囿也。」
『荘子』に「恵施は方術が多く、その書は五車もあったが、その道は食い違い入り交じり、その言葉は的を射ていなかった。卵に毛があり、鶏に足が三つあり、馬に卵があり、犬を羊とすることができ、火は熱くなく、目は見えず、亀は蛇より長く、おたまじゃくしに尾があり、白い犬は黒く、連なった輪を解くことができると言った。人の口には勝てたが、人の心を服させることはできなかった。おおむね弁者の囲いである」とある。
59ただ事数に至って解せなかった
殷中軍被廢,徙東陽,大讀佛經,皆精解。唯至「事數」處不解。遇見一道人,問所籤,便釋然。
殷中軍が退けられて東陽に移され、仏典を大いに読んだが、どれも精しく解した。ただ「事数」というところに至って解せなかった。
たまたま一人の道人に出会い、付け紙を挟んだところを尋ねると、すぐ晴れやかに解けた。
夾注 1
事數:謂若五陰、十二入、四諦、十二因縁、五根、五九、七覺之聲。
事数とは、五陰・十二入・四諦・十二因縁・五根・五九・七覚といった語を言う。
60わたしが『四本』を解けていたなら、談はこの程度にとどまらなかっただろう
殷仲堪精覈玄論,人謂莫不研究。殷乃嘆曰:「使我解四本,談不翅爾。」
殷仲堪が玄妙な論を精しく見極めたので、人々は研究し尽くしていないものはないと言った。
殷仲堪はそこで嘆じて言った。「わたしが『四本』を解くことができていたなら、談はこの程度にとどまらなかっただろう。」
夾注 1
周祗《隆安記》曰:「仲堪好學而有理思也。」
周祗の『隆安記』に「殷仲堪は学ぶことを好み、理の思考があった」とある。
61銅の山が西で崩れると霊妙な鐘が東で応えた、それが『易』ですか
殷荊州曾問遠公:「易以何爲體?」答曰:「易以感爲體。」殷曰:「銅山西崩,靈鐘東應,便是易耶?」遠公笑而不答。
殷荊州がかつて遠公に尋ねた。「『易』は何を体とするのですか。」
答えた。「『易』は感を体とします。」
殷荊州が言った。「銅の山が西で崩れると、霊妙な鐘が東で応えたという、それが『易』ですか。」
遠公は笑って答えなかった。
夾注 2
《張野遠法師銘》曰:「沙門釋惠遠,鴈門樓煩人。本姓賈氏,世爲冠族。年十二,隨舅令狐氏遊學許洛。年二十一,欲南渡,就范宣子學,道阻不通,遇釋道安以爲師。抽簪落髮,研求法藏。釋曇翼毎資以燈燭之費。誦鑒淹遠,髙悟冥賾。安常歎曰:『道流東國,其在遠乎?』襄陽既沒,振錫南遊,結宇靈嶽。自年六十,不復出山。名被流沙,彼國僧衆,皆稱漢地有大乘沙門。毎至然香禮拜,輙東向致敬。年八十三而終。」
「張野遠法師銘」に「沙門の釈恵遠は、雁門楼煩の人である。もとの姓は賈氏で、代々冠をつける一族であった。十二のとき、母方の叔父の令狐氏に従って許と洛で学び歩いた。二十一のとき、南へ渡って范宣子のもとで学ぼうとしたが、道が塞がって通れず、釈道安に出会って師とした。かんざしを抜き髪を落として、法の蔵を究め求めた。釈曇翼がいつも灯火の費用を出してやった。暗唱と見極めが深く遠く、高い悟りが玄妙な奥を探った。道安はいつも嘆じて『道が東の国に流れるとすれば、それは恵遠にあろう』と言った。襄陽が落ちると、錫杖を振って南に遊び、霊嶽に庵を結んだ。六十からは二度と山を出なかった。名は流沙にまで及び、その国の僧たちはみな、漢の地に大乗の沙門がいると称えた。香を焚いて礼拝するたび、東に向かって敬意を表した。八十三で世を終えた」とある。
《東方朔傳》曰:「孝武皇帝時,未央宮前殿鐘無故自鳴,三日三夜不止。詔問太史待詔王朔,朔言恐有兵氣。更問東方朔,朔曰:『臣聞:銅者,山之子;山者,銅之母,以陰陽氣類言之,子母相感,山恐有崩弛者,故鐘先鳴。《易》曰:「鳴鶴在陰,其子和之。」精之至也。其應在後五日内。』居三日,南郡太守上書言山崩,延袤二十餘里。」樊英別傳曰:「漢順帝時,殿下鐘鳴,問英。對曰:『蜀瑉山崩。山於銅爲母,母崩子鳴,非聖朝災。』後蜀果土山崩,日月相應。」二説微異,故並載之。
「東方朔伝」に「孝武皇帝のとき、未央宮の前殿の鐘が理由もなく自ら鳴り、三日三夜やまなかった。詔によって太史待詔の王朔に尋ねると、王朔はおそらく兵乱の気があるのだろうと言った。あらためて東方朔に尋ねると、東方朔は『臣が聞きますに、銅は山の子、山は銅の母だといいます。陰陽の気と類とで言えば、子と母が互いに感じ合うのですから、山にはおそらく崩れ落ちたところがあるので、鐘が先に鳴ったのです。『易』に「鳴く鶴が陰にいれば、その子が和する」とありますが、精の至りです。その応じるものは、この後五日のうちにあるでしょう』と言った。三日して、南郡太守が書を上げて、山が崩れ、二十里あまりにわたったと言った」とある。「樊英別伝」に「漢の順帝のとき、殿下の鐘が鳴ったので、樊英に尋ねた。答えて『蜀の瑉山が崩れました。山は銅にとって母ですから、母が崩れて子が鳴るのであって、聖なる朝廷の災いではありません』と言った。のちに蜀で、はたして土の山が崩れ、日と月とが符合した」とある。二つの説が少し異なるので、あわせて載せる。
62君は四度往き来したあとで、きっと同じになるのを見るだろう
羊孚弟娶王永言女。及王家見壻,孚送弟倶往。時永言父東陽尚在,殷仲堪是東陽女壻,亦在坐。孚雅善理義,乃與仲堪道《齊物》。殷難之,羊云:「君四番後,當得見同。」殷笑曰:「乃可得盡,何必相同?」乃至四番後一通。殷咨嗟曰:「僕便無以相異。」嘆爲新拔者久之。
羊孚の弟が王永言の娘を妻に迎えた。王氏の家で婿を迎えるとき、羊孚は弟を送ってともに出かけた。
そのとき王永言の父の東陽太守がまだ生きており、殷仲堪が東陽太守の婿であったので、やはり席にいた。
羊孚は上品に理と義をよくしたので、そこで殷仲堪と「斉物論」を語った。殷仲堪がこれを難じると、羊孚は言った。「君は四度往き来したあとで、きっと同じになるのを見るだろう。」
殷仲堪が笑って言った。「言い尽くすことはできようが、どうして必ず互いに同じになろうか。」
ついに四度往き来したあと、一つに通じた。
殷仲堪は感嘆して言った。「わたしには、もう互いに違うというところがない。」
新たに抜きんでた者だと、長く感嘆した。
夾注 4
孚弟,輔也。《羊氏譜》曰:「輔字幼仁,泰山人。祖楷,尚書郎。父綏,中書郎。輔仕至衞軍功曹。娶琅邪王訥之女,字僧首。」
羊孚の弟は羊輔である。『羊氏譜』に「羊輔は字は幼仁、泰山の人である。祖父の羊楷は尚書郎、父の羊綏は中書郎である。羊輔は官が衛軍功曹に至った。琅邪の王訥之の娘を妻に迎えたが、字は僧首である」とある。
《王氏譜》曰:「訥之字永言,琅邪人。祖彪之,光祿大夫。父臨之,東陽太守。訥之歴尚書左丞、御史中丞。」
『王氏譜』に「王訥之は字は永言、琅邪の人である。祖父の王彪之は光禄大夫、父の王臨之は東陽太守である。王訥之は尚書左丞・御史中丞を歴任した」とある。
《殷氏譜》曰:「仲堪娶琅邪王臨之女,字英彦。」
『殷氏譜』に「殷仲堪は琅邪の王臨之の娘を妻に迎えたが、字は英彦である」とある。
《莊子》篇也
『荘子』の篇である。
63三日『道徳経』を読まないだけで舌の根が強張る
殷仲堪云:「三日不讀《道德經》,便覺舌本間強。」
殷仲堪が言った。「三日『道徳経』を読まないだけで、もう舌の根のあたりが強張るのを感じる。」
夾注 1
《晉安帝紀》曰:「仲堪有思理,能淸言。」
『晋安帝紀』に「殷仲堪は思いと理があり、清談ができた」とある。
64提婆が『阿毗曇』を講じる
提婆初至,爲東亭第講《阿毗曇》。始發講,坐裁半,僧彌便云:「都已曉。」即於坐分數四有意道人更就餘屋自講。提婆講竟,東亭問法岡道人曰:「弟子都未解,阿彌那得已解?所得云何?」曰:「大略全是,故當小未精覈耳。」
提婆がはじめて着いたとき、東亭侯の邸で『阿毗曇』を講じた。
講義を始めて、席がやっと半ばになったころ、僧弥がすぐに言った。「もうすべてわかった。」
そこで席から心ある道人を三、四人分けて、あらためて別の部屋へ行き、自分で講じた。
提婆が講義を終えると、東亭侯が法岡道人に尋ねた。「弟子はまったく解せないのに、阿弥がどうしてもう解せたものか。得たところはどうであったか。」
言った。「おおむねすべて正しいのですが、わざわざ言えば、少し精しく見極めていないだけです。」
夾注 3
《出經敘》曰:「僧伽提婆,罽賓人,姓瞿氏。俊朗有深鑒,苻堅至長安,出諸經。後渡江,遠法師請譯《阿毗曇》。」遠法師《阿毗曇敘》曰:「阿毗曇,心者,三藏之要領,詠歌之微言。源流廣大,管綜衆經,領其宗會,故作者以心爲名焉。有出家開士字法勝,以阿毗曇源流廣大,卒難尋究,別撰斯部,凡二百五十偈,以爲要解,號之曰『心』。罽賓沙門僧伽提婆,少玩斯文,因請令譯焉。」阿毗曇者,晉言大法也。道標法師曰:「阿毗曇者,秦言無比法也。」
「出経序」に「僧伽提婆は罽賓の人で、姓は瞿氏である。俊敏で明らかで深い見極めがあり、苻堅が長安に至ると、諸経を出した。のちに長江を渡り、遠法師が請うて『阿毗曇』を訳させた」とある。遠法師の「阿毗曇序」に「阿毗曇とは、三蔵の要の綱であり、詠い歌う微妙な言葉である。源と流れが広大で、諸経を統べ合わせ、その宗と会とを統べるので、著した者は心を名とした。出家の開士で字が法勝という者があり、阿毗曇は源と流れが広大で、ついに尋ね究めがたいので、別にこの部を著した。およそ二百五十の偈で要の解釈とし、これを『心』と呼んだ。罽賓の沙門僧伽提婆は、若くしてこの文を愛玩していたので、請うて訳させた」とある。阿毗曇とは、晋の言葉で大法である。道標法師は「阿毗曇とは、秦の言葉で無比法である」と言った。
法岡,未詳氏族。
法岡は、一族が詳らかでない。
《出經敘》曰:「提婆以隆安初遊京師,東亭侯王珣迎至舍講《阿毗曇》。提婆宗致既明,振發義奧,王僧彌一聽便自講,其明義易啓人心如此。未詳年卒。」
「出経序」に「提婆は隆安のはじめに都に遊び、東亭侯の王珣が迎えて邸に至らせ『阿毗曇』を講じさせた。提婆の宗と到りはすでに明らかで、義の奥を振り起こしたので、王僧弥は一度聞くだけですぐ自分で講じた。その義を明らかにして人の心を開くことは、これほど容易であった。没した年は詳らかでない」とある。
65これはまさに、君がよりわかるようになったのだ
桓南郡與殷荊州共談,毎相攻難。年餘後,但一兩番。桓自嘆才思轉退。殷云:「此乃是君轉解。」
桓南郡が殷荊州とともに語るとき、互いに攻め難じるたびにそうであった。一年あまり後には、ただ一、二度の往き来だけになった。
桓南郡が自ら才と思いが退いたと嘆くと、殷荊州は言った。「これはまさに、君がよりわかるようになったのだ。」
夾注 1
周祗《隆安記》曰:「玄善言理,棄郡還國,常與殷荊州仲堪終日談論不輟。」
周祗の『隆安記』に「桓玄は理を語るのが巧みで、郡を捨てて自分の国に帰り、いつも殷荊州の殷仲堪と一日中論じ合ってやめなかった」とある。
66豆がらは釜の下で燃え、豆は釜の中で泣く
文帝嘗令東阿王七歩中作詩,不成者行大法。應聲便爲詩曰:「煮豆持作羹,漉菽以爲汁。萁在釜下然,豆在釜中泣。本自同根生,相煎何太急?」帝深有慚色。
文帝がかつて東阿王に、七歩のうちに詩を作らせ、できなければ大法を行うと言った。
声に応じてすぐ詩を作った。「豆を煮て羹を作り、豆を漉して汁とする。豆がらは釜の下で燃え、豆は釜の中で泣く。もとは同じ根から生えたのに、互いに煎るのをどうしてそう急ぐのか。」
帝は深く恥じた色をした。
夾注 1
《魏志》曰:「陳思王植字子建,文帝同母弟也。年十餘歳誦詩論及辭賦數萬言。善屬文,太祖嘗視其文曰:『汝倩人邪?』植跪曰:『出言爲論,下筆成章,顧當面試,柰何倩人?』時鄴銅雀臺新成,太祖悉將諸子登之,使各爲賦。植援筆立成,可觀。性簡易,不治威儀,輿馬服飾,不尚華麗。毎見難問,應聲而答,太祖寵愛之,幾爲太子者數矣。文帝即位,封鄄城侯,後徙雍丘,復封東阿。植毎求試不得,而國亟遷易,汲汲無懽。年四十一薨。」
『魏志』に「陳思王の曹植は字は子建、文帝と母を同じくする弟である。十歳あまりで詩や論、辞賦を数万語暗唱した。文を作るのが巧みで、太祖がかつてその文を見て『お前は人を雇ったのか』と言うと、曹植は跪いて『言葉を出せば論となり、筆を下せば章となります。顔を合わせて試されればよいのに、どうして人を雇いましょうか』と言った。そのころ鄴に銅雀台が新しくできたので、太祖は子らをみな連れて登り、それぞれに賦を作らせたが、曹植は筆を引いてその場で仕上げ、見るに足るものであった。性質は簡素で、威厳や身構えを整えず、車馬や衣服や飾りに華やかさを尊ばなかった。難しい問いを見るたび、声に応じて答えたので、太祖は彼をかわいがり、太子にしようとしたことが何度もあった。文帝が位に即くと、鄄城侯に封じられ、のちに雍丘に移され、あらためて東阿に封じられた。曹植は試されることを求めるたびに得られず、国がたびたび移し替えられたので、気ばかり焦って楽しみがなかった。四十一で亡くなった」とある。
67阮籍は酔いの残るまま起きて筆を下し、直すところがなかった
魏朝封晉文王爲公,備禮九錫,文王固讓不受。公卿將校當詣府敦喩。司空鄭沖馳遣信就阮籍求文。籍時在袁孝尼家,宿醉扶起,書札爲之,無所點定,乃寫付使。時人以爲神筆。
魏の朝廷が晋の文王を公に封じ、礼を備えて九錫を与えると、文王は固く辞して受けなかった。
公卿や将校が官府に出向いて篤く説き勧めなければならなかった。司空の鄭沖が急いで使いを出して、阮籍に文を求めた。
阮籍はそのとき袁孝尼の家にいたが、前夜の酔いが残ったまま助け起こされ、書き札でこれを作ると、点を打って直すところがなかった。そこで写して使いに渡した。
当時の人は神の筆だとした。
夾注 3
沖,已見。
鄭沖は、すでに見える。
《袁氏世紀》曰:「準字孝尼,陳郡陽夏人。父渙,魏郎中令。準忠信居正,不恥下問,唯恐人不勝己也。世事多險,故治退不敢求進。著書十萬餘言。」荀綽《兗州記》曰:「準有雋才,泰始中,位給事中。」
『袁氏世紀』に「袁準は字は孝尼、陳郡陽夏の人である。父の袁渙は魏の郎中令である。袁準は忠実で誠があり、正しさに身を置いて、下の者に問うことを恥じず、ただ人が自分に勝れないことばかりを気にした。世の事には険しいところが多いので、退くことに努めて、あえて進むことを求めなかった。書を十万語あまり著した」とある。荀綽の『兗州記』に「袁準は抜きんでた才があり、泰始のころ、位は給事中であった」とある。
顧愷之《晉文章記》曰:「阮籍勸進,落落有宏致,至轉説徐而攝之也。」一本注阮籍《勸進文》略曰:「竊聞明公固讓,沖等眷眷,實懷愚心。以爲聖王作制,百代同風,褒德賞功,其來久矣。周公藉已成之業,據既安之勢,光宅曲阜,奄有龜蒙。明公宜奉聖旨,受茲介福也。」
顧愷之の『晋文章記』に「阮籍の「勧進文」は、堂々として広やかな到りがあり、言い回しを転じるところでは、ゆっくりとこれを押さえた」とある。ある本の注に、阮籍の「勧進文」の大略として「ひそかに伺いますに、明公が固く辞しておられるので、沖らは慕わしく、まことに愚かな心を抱いております。思いますに、聖王が制を作り、百代にわたって風を同じくし、徳を褒め功に賞したのは、その来ること久しいものです。周公はすでに成った業を借り、すでに安らかな勢いに拠って、曲阜に輝かしく居を定め、亀山と蒙山をことごとく領しました。明公はまさに聖旨を奉じ、この大いなる福を受けるべきです」とある。
68左思が「三都賦」を作り、皇甫謐に序をもらう
左太沖作《三都賦》初成,時人互有譏訾,思意不愜。後示張公。張曰:「此二《京》可三,然君文未重於世,宜以經髙名之士。」思乃詢求於皇甫謐。謐見之嗟嘆,遂爲作敘。於是先相非貳者,莫不斂袵讚述焉。
左太沖が「三都賦」を作り、できあがったばかりのころ、当時の人々が互いに謗りそしったので、左思の心は満たされなかった。
のちに張公に見せると、張公は言った。「これは二つの「京都賦」と並んで三つになるに足る。しかし君の文はまだ世に重んじられていないから、高い名のある士を経るのがよい。」
左思はそこで皇甫謐に尋ね求めた。皇甫謐はこれを見て感嘆し、ついに序を作ってやった。
そこで、先に非として二心を抱いていた者たちは、だれもが襟を正して讃え述べないことがなかった。
夾注 4
《思別傳》曰:「思字太沖,齊國臨淄人。父雍起於筆札,多所掌練,爲殿中御史。思蚤喪母,雍憐之,不甚教其書學。及長,博覽名文,遍閲百家。司空張華辟爲祭酒,賈謐舉爲祕書郎。謐誅,歸鄕里,專思著述。齊王冏請爲記室參軍,不起。時爲《三都賦》未成也。後數年疾終。其《三都賦》改定,至終乃上。初,作《蜀都賦》云:『金馬電發於髙岡,碧鷄振翼而雲披。鬼彈飛丸以礌礉,火井騰光以赫曦。』今無鬼彈,故其賦往往不同。思爲人无吏幹而有文才,又頗以椒房自矜,故齊人不重也。」
『思別伝』に「左思は字は太沖、斉国臨淄の人である。父の左雍は筆と札で身を起こし、掌り習熟したところが多く、殿中御史となった。左思は早くに母を失い、左雍は彼を憐れんで、その書と学問をそれほど教えなかった。成長すると、名高い文を広く見、百家をあまねく読んだ。司空の張華が召して祭酒とし、賈謐が推挙して秘書郎とした。賈謐が誅せられると郷里に帰り、もっぱら著述に心を注いだ。斉王の司馬冏が請うて記室参軍にしようとしたが、応じなかった。そのころ「三都賦」はまだ成っていなかった。数年後に病で世を終えた。その「三都賦」は改め定めて、終わるときにようやく奉った。はじめ「蜀都賦」を作って『金馬が高い丘から電のように出で、碧鶏が翼を振って雲を開く。鬼弾が弾を飛ばして打ちつけ、火井が光を上げて赤々と輝く』と言ったが、今は鬼弾がないので、その賦はときどき同じでない。左思は人柄として役人の腕がなく文才があり、またかなり后妃の一族であることを誇ったので、斉の人は重んじなかった」とある。
張華,已見。
張華は、すでに見える。
王隱《晉書》曰:「謐字士安,安定朝那人,漢太尉嵩曾孫也。祖叔獻,灞陵令。父叔侯,舉孝廉。謐族從皆累世富貴,獨守寒素。所養叔母歎曰:『昔孟母以三徙成子,曾父以亨家存教,豈我居不卜鄰,何爾魯之甚乎?修身篤學,自汝得之,於我何有?』因對之流涕,謐乃感激。年二十餘,就鄕里席坦受書,遭人而問,少有寧日。武帝借其書二車,遂博覽。太子中庶子、議郎徴,並不就,終於家。」
王隠の『晋書』に「皇甫謐は字は士安、安定朝那の人で、漢の太尉皇甫嵩の曾孫である。祖父の皇甫叔献は灞陵令、父の皇甫叔侯は孝廉に挙げられた。皇甫謐の一族はみな代々豊かで貴かったが、彼だけは貧しく質素なままでいた。育ててくれた叔母が嘆いて『昔、孟子の母は三度移って子を成し、曾子の父は豚を煮て教えを守った。わたしが住むのに隣を選ばなかったからなのか、どうしてそんなに鈍いのか。身を修め学を篤くするのは、お前が自分で得るものであって、わたしに何があろう』と言い、そのまま向かい合って涙を流したので、皇甫謐はそこで奮い立った。二十歳あまりで郷里の席坦のもとで書を授かり、人に会えば問うので、安らかな日が少なかった。武帝がその書を二車分貸したので、ついに広く読んだ。太子中庶子・議郎として召されたが、どちらも就かず、家で世を終えた」とある。
《思別傳》曰:「思造張載,問瑉蜀事,交接亦疎。皇甫謐西州髙士,摯仲治宿儒知名,非思倫匹。劉淵林、衞伯輿並蚤終,皆不爲思賦序注也。凡諸注解,皆思自爲,欲重其文,故假時人名姓也。」
『思別伝』に「左思は張載を訪ねて瑉山と蜀の事を尋ねたが、交わりも疎かった。皇甫謐は西州の高士、摯仲治は古参の儒者として名高く、左思の同輩ではない。劉淵林と衛伯輿はどちらも早くに世を終えたので、みな左思の賦に序や注を作ってやったのではない。およそ諸々の注や解は、みな左思が自ら作ったもので、その文を重んじさせようとして、当時の人の姓名を借りたのである」とある。
69劉伶が「酒徳頌」を著す
劉伶著《酒德頌》,意氣所寄。
劉伶が「酒徳頌」を著したが、意気を寄せたものである。
夾注 1
《名士傳》曰:「伶字伯倫,沛郡人。肆意放蕩,以宇宙爲狹。常乘鹿車,攜一壺酒,使人荷鍤隨之,云:『死便掘地以埋。』土木形骸,遨游一世。」《竹林七賢》論曰:「伶處天地閒,悠悠蕩蕩,无所用心。嘗與俗士相牾,其人攘袂而起,欲必築之。伶和其色曰:『鷄肋豈足以當尊拳!』其人不覺廢然而返。未嘗措意文章,終其世,凡著《酒德頌》一篇而已。其辭曰:『有大人先生者,以天地爲一朝,萬期爲須臾,日月爲扃牖,八荒爲庭衢。行无轍跡,居无室廬,幕天席地,縱意所如。行則操巵執瓢,動則挈榼提壺,唯酒是務,焉知其餘?有貴介公子,縉紳處士,聞吾風聲,議其所以。乃奮袂攘襟,怒目切齒,陳説禮法,是非鋒起。先生於是方捧罌承糟,銜杯漱醪,奮髯箕踞,枕麴藉糟。無思無慮,其樂陶陶。兀然而醉,慌爾而醒,靜聽不聞雷霆之聲,熟視不見太山之形,不覺寒暑之切肌,利欲之感情。俯觀萬物之擾擾,如江、漢之載浮萍。二豪侍側焉,如蜾蠃之與螟蛉』。」
『名士伝』に「劉伶は字は伯倫、沛郡の人である。意のままに放ち蕩れて、宇宙を狭いとした。いつも鹿車に乗り、酒壺一つを携え、人に鋤を担わせて付き従わせ『死んだらすぐ地を掘って埋めよ』と言った。土や木のような体で、一生を遊び歩いた」とある。『竹林七賢論』に「劉伶は天地のあいだにあって、ゆったりと揺蕩い、心を用いるところがなかった。かつて俗な士と行き違いになり、その人が袖をまくって立ち上がり、ぜひとも打とうとした。劉伶は顔色を和らげて『鶏のあばら骨が、どうして尊いお拳を受けるに足りましょう』と言うと、その人は思わず気が抜けて帰った。かつて文章に意を向けたことがなく、その生涯を終えるまでに、およそ「酒徳頌」一篇を著しただけであった。その言葉に『大人先生という者があって、天地を一朝とし、万年を束の間とし、日と月を戸と窓とし、八方の荒れ地を庭と街路とする。行くのに車輪の跡がなく、住むのに部屋も家もなく、天を幕とし地を席として、意の赴くままにする。行けば盃を取り瓢を持ち、動けば樽を抱え壺を提げ、ただ酒にのみ励んで、どうしてその他を知ろうか。高貴な公子や、冠と帯の処士があって、わたしの風聞を聞き、その所以を論じる。そこで袖を振り襟をまくり、目を怒らせ歯を噛み、礼法を並べ立てるので、是と非が刃のように立ち上がる。先生はそのとき、ちょうど甕を抱えて糟を受け、杯をくわえて濁り酒をすすぎ、ひげを振って足を投げ出して座り、麹を枕に糟を敷いて寝る。思いもなく憂いもなく、その楽しみはゆったりと和らぐ。ぽつんと酔い、ぼんやりと醒め、静かに聞いても雷の音が聞こえず、よく見ても泰山の形が見えず、寒さ暑さが肌に迫るのも、利や欲が情を動かすのも感じない。見下ろして万物の騒がしさを見れば、長江や漢水が浮き草を載せているようである。二人の豪が傍らに侍るのは、似我蜂と青虫のようなものだ』とある」とある。
70楽広が趣旨を出し、潘岳が文を作る
樂令善於淸言,而不長於手筆。將讓河南尹,請潘岳爲表。潘云:「可作耳。要當得君意。」樂爲述己所以爲讓,標位二百許語。潘直取錯綜,便成名筆。時人咸云:「若樂不假潘之文,潘不取樂之旨,則無以成斯矣。」
楽令は清談が巧みであったが、筆を執ることは得意でなかった。
河南尹を辞そうとして、潘岳に表を作ってくれるよう請うと、潘岳は言った。「作ることはできる。ただし君の意を得なければならない。」
楽令が自分の辞そうとする理由を述べ、立場と趣旨を二百語ほど示すと、潘岳はそれをそのまま取って組み合わせ、たちまち名高い文となった。
当時の人はみな言った。「もし楽広が潘岳の文を借りず、潘岳が楽広の趣旨を取らなかったら、これを成すことはできなかっただろう。」
夾注 1
《晉陽秋》曰:「岳字安仁,滎陽人。夙以才穎發名。善屬文,淸綺絶世,蔡邕未能過也。仕至黃門侍郎,爲孫秀所害。」
『晋陽秋』に「潘岳は字は安仁、滎陽の人である。早くから才が秀でて名を発した。文を作るのが巧みで、清らかで美しいことは世に抜きんでており、蔡邕も越えられなかった。官は黄門侍郎に至り、孫秀に害された」とある。
71これはただ穏やかで上品なだけでなく、孝と悌の性が別に見える
夏侯湛作《周詩》成,示潘安仁。安仁曰:「此非徒温雅,乃別見孝悌之性。」潘因此遂作《家風詩》。
夏侯湛が「周詩」を作り上げ、潘安仁に見せた。
安仁が言った。「これはただ穏やかで上品なだけでなく、そこに孝と悌の性が別に見える。」
潘岳はこれによって、ついに「家風詩」を作った。
夾注 3
《文士傳》曰:「湛字孝若,譙國人,魏征西將軍夏侯淵曾孫也。有盛才,文章巧思,善補雅詞,名亞潘岳。歴中書侍郎。」《湛集》載其敘曰:「《周詩》者,《南陔》、《白華》、《華黍》、《由庚》、《崇丘》、《由儀》六篇,有其義而亡其辭。湛續其亡,故云《周詩》也。」
『文士伝』に「夏侯湛は字は孝若、譙国の人で、魏の征西将軍夏侯淵の曾孫である。盛んな才があり、文章の構想に巧みで、上品な言葉を補うのが得意で、名は潘岳に次いだ。中書侍郎を歴任した」とある。『湛集』にその序が載っていて「「周詩」とは、「南陔」「白華」「華黍」「由庚」「崇丘」「由儀」の六篇が、その義はあってその辞が失われているので、わたしがその失われたものを継いだ。だから「周詩」というのである」とある。
其詩曰:「既殷斯虔,仰説洪恩。夕定辰省,奉朝侍昏。宵中告退,鷄鳴在門。孳孳恭誨,夙夜是敦。」
その詩に「すでに篤く慎み、仰いで大いなる恩を讃える。夕べに寝床を定め明け方に安否を伺い、朝を奉じ暮れに侍る。夜半に退出を告げ、鶏が鳴けば門に立つ。せっせと慎んで教えを受け、朝も夜もこれを篤くする」とある。
岳《家風詩》載其宗祖之德及自戒也。
潘岳の「家風詩」は、その祖先の徳と自ら戒めることを載せたものである。
72文が情から生じるのか、情が文から生じるのか
孫子荊除婦服,作詩以示王武子。王曰:「未知文生於情,情生於文。覽之悽然,增伉儷之重。」
孫子荊が妻の喪服を脱ぎ、詩を作って王武子に見せた。
王武子が言った。「文が情から生じるのか、情が文から生じるのか、わからない。これを見ると悲しくなり、連れ合いの重さをいっそう増させる。」
夾注 2
《孫楚集》云:「婦胡毋氏也。」其詩曰:「時邁不停,日月電流。神爽登遐,忽已一周。禮制有敘,告除靈丘。臨祠感痛,中心若抽。」
『孫楚集』に「妻は胡毋氏である」とある。その詩に「時は過ぎて止まらず、日も月も電のように流れる。魂は遠くへ登り、たちまちもう一年が経った。礼の制に順序があるので、霊の丘に喪を解くことを告げる。祠に臨んで痛みを覚え、心の中が抜かれるようだ」とある。
一作「文於情生,情於文生」。
ある本には「文が情から生じ、情が文から生じる」となっている。
73太叔広は弁舌、摯仲治は筆で、互いに笑い合う
太叔廣甚辯給,而摯仲治長於翰墨,倶爲列卿。毎至公坐,廣談,仲治不能對。退著筆難廣,廣又不能答。
太叔広は弁舌がきわめて達者で、摯仲治は筆と墨に秀でていたが、ともに列卿となった。
公の席に出るたび、太叔広が語ると摯仲治は答えられず、退いて文を書いて太叔広を難じると、太叔広はまた答えられなかった。
夾注 1
王隱《晉書》曰:「廣字季思,東平人。拜成都王爲太弟。欲使詣洛,廣子孫多在洛,慮害,乃自殺。摯虞字仲治,京兆長安人。祖茂,秀才。父模,太僕卿。虞少好學,師事皇甫謐,善校練文義,多所著述。歴祕書監、太常卿。從惠帝至長安,遂流離鄠杜間。性好博古,而文籍蕩盡。永嘉五年,洛中大饑,遂餓而死。虞與廣名位略同,廣長口才,虞長筆才,倶少政事。衆坐廣談,虞不能對;虞退筆難廣,廣不能答。於是更相嗤笑,紛然於世。廣無可記,虞多所録,於斯爲勝也。」
王隠の『晋書』に「太叔広は字は季思、東平の人である。成都王を太弟に立てることを願った。洛陽へ出向かせようとしたが、太叔広の子や孫が多く洛陽にいて、害を受けることを恐れ、そこで自ら死んだ。摯虞は字は仲治、京兆長安の人である。祖父の摯茂は秀才、父の摯模は太僕卿である。摯虞は若くして学ぶことを好み、皇甫謐を師として仕え、文の義を照らし合わせて習熟するのが巧みで、著述したところが多かった。秘書監・太常卿を歴任した。恵帝に従って長安に至り、ついに鄠と杜のあいだを流れ歩いた。性質として古いことを広く知るのを好んだが、文書も書籍もすべて失われた。永嘉五年、洛陽の中で大きな飢饉があり、ついに飢えて死んだ。摯虞は太叔広と名も位もおおよそ同じであったが、太叔広は口の才に秀で、摯虞は筆の才に秀で、どちらも政務には拙かった。人々の席で太叔広が語ると摯虞は答えられず、摯虞が退いて筆で太叔広を難じると、太叔広は答えられなかった。そこで互いに笑い合い、世に紛々としていた。太叔広は記すべきものがなく、摯虞は録したところが多いので、この点では勝っていた」とある。
74お前はもう一度わたしの論を考えてみよ
江左殷太常父子,並能言理,亦有辯訥之異。揚州口談至劇,太常輙云:「汝更思吾論。」
江左の殷太常父子は、ともに理を語ることができたが、やはり弁が立つのと口が重いのとの違いがあった。
揚州刺史の口での語りがきわめて激しくなると、太常はそのたびに言った。「お前はもう一度わたしの論を考えてみよ。」
夾注 1
《中興書》曰:「殷融字洪遠,陳郡人。桓彝有人倫鑒,見融甚歎美之。著象不盡意、大賢須易論,理義精微,談者稱焉。兄子浩亦能淸言,毎與浩談,有時而屈,退而著論,融更居長。爲司徒左西屬。飲酒善舞,終日嘯詠,未嘗以世務自嬰。累遷吏部尚書、太常卿,卒。」
『中興書』に「殷融は字は洪遠、陳郡の人である。桓彝は人を見分ける眼識があったが、殷融を見てたいへん感嘆し美しいとした。「象不尽意」「大賢須易論」を著すと、理と義が精緻微妙で、談論する者が称えた。兄の子の殷浩も清談ができたので、殷浩と語るたびに、時には屈することがあったが、退いて論を著すと、殷融のほうがまた勝っていた。司徒左西属となった。酒を飲むのを好み舞いが巧みで、一日中うそぶき詠じて、かつて世の務めで自らを縛ることがなかった。次々に昇って吏部尚書・太常卿に至り、亡くなった」とある。
75まさに意がある、ないのあいだにある
庾子嵩作《意賦》成,從子文康見,問曰:「若有意邪?非賦之所盡;若無意邪?復何所賦?」答曰:「正在有意無意之間。」
庾子嵩が「意賦」を作り上げると、甥の文康が見て尋ねた。「もし意があるのなら、賦で尽くせるものではありません。もし意がないのなら、いったい何を賦にするのですか。」
答えた。「まさに意がある、ないのあいだにある。」
夾注 1
《晉陽秋》曰:「敳,永嘉中爲石勒所害。先是敳見王室多難,知終嬰其禍,乃作意賦以寄懷。」
『晋陽秋』に「庾敳は、永嘉のころ石勒に害された。これより先、庾敳は王室に難が多いのを見て、ついにはその禍に巻き込まれると知り、そこで「意賦」を作って思いを寄せた」とある。
76林に静かな樹はなく、川に止まる流れはない
郭景純詩云:「林無靜樹,川無停流。」阮孚云:「泓崢蕭瑟,實不可言。毎讀此文,輙覺神超形越。」
郭景純の詩に「林に静かな樹はなく、川に止まる流れはない」とある。
阮孚が言った。「深く高く、もの寂しくて、まことに言葉にできない。この文を読むたび、思わず神が飛び越え、形を越えるのを感じる。」
夾注 2
王隱《晉書》曰:「郭璞字景純,河東聞喜人。父瑗,建平太守。」《璞別傳》曰:「璞奇博多通,文藻粲麗,才學賞豫,足參上流。其詩賦誄頌,並傳於世,而訥於言。造次詠語,常人無異。又不持儀檢,形質穨索,縱情嫚惰,時有醉飽之失。友人干令升戒之曰:『此伐性之斧也。』璞曰:『吾所受有分,恆恐用之不盡,豈酒色之能害!』王敦取爲參軍。敦縱兵都輦,乃咨以大事,璞極言成敗,不爲回屈。敦忌而害之。」詩,璞《幽思篇》者。
王隠の『晋書』に「郭璞は字は景純、河東聞喜の人である。父の郭瑗は建平太守である」とある。『璞別伝』に「郭璞は並ならず博くよく通じ、文のあやは輝かしく美しく、才と学が認められて、上流に加わるに足りた。その詩・賦・誄・頌はともに世に伝わるが、言葉には拙かった。とっさに詠む言葉は、普通の人と違わなかった。また身構えや自制を持たず、体も質も崩れゆるみ、情を気ままにして怠り、ときに酒と食に過ぎる失があった。友人の干令升が戒めて『これは性を伐る斧です』と言うと、郭璞は『わたしの受けたものには分があり、いつも使い尽くせないことを恐れているのだから、どうして酒や色が害しえよう』と言った。王敦が召して参軍とした。王敦が兵を都で気ままに動かし、そこで大事を尋ねると、郭璞は成るか敗れるかを言い尽くし、曲げようとしなかった。王敦は嫌って彼を害した」とある。詩は、郭璞の「幽思篇」である。
阮孚,別見。
阮孚は、別に見える。
77庾闡が「揚都賦」を作り、温嶠と庾亮を讃える
庾闡始作《揚都賦》,道温庾云:「温挺義之標,庾作民之望。方響則金聲,比德則玉亮。」庾公聞賦成,求看,兼贈貺之。闡更改「望」爲「雋」,以「亮」爲「潤」云。
庾闡がはじめて「揚都賦」を作ったとき、温嶠と庾亮について言って「温嶠は義の標を抜き立て、庾亮は民の望みとなる。響きに比べれば金の声、徳に比べれば玉の明らかさである」とした。
庾公は賦ができたと聞いて見せてくれるよう求め、あわせて贈り物を届けた。庾闡はあらためて「望」の字を「雋」に改め、「亮」の字を「潤」に改めたという。
夾注 2
《中興書》曰:「闡字仲初,潁川人,太尉亮之族也。少孤,九歳便能屬文。遷散騎侍郎,領大著作。爲《揚都賦》,邈絶當時。五十四卒。」
『中興書』に「庾闡は字は仲初、潁川の人で、太尉庾亮の一族である。幼くして父を失ったが、九歳でもう文を作ることができた。散騎侍郎に移り、大著作を兼ねた。「揚都賦」を作ると、当時はるかに抜きんでていた。五十四で亡くなった」とある。
庾亮の名の字である亮を避けて、文字を改めたのである。― 訳者
78これを見ると心がほどける
孫興公作《庾公誄》。袁羊曰:「見此張緩。」於時以爲名賞。
孫興公が「庾公誄」を作ると、袁羊が言った。「これを見ると心がほどける。」
当時、名高い讃辞だとされた。
夾注 1
《袁氏家傳》曰:「喬有文才。」
『袁氏家伝』に「袁喬は文才があった」とある。
79これは家の下に家を架けたにすぎない
庾仲初作《揚都賦》成,以呈庾亮;亮以親族之懷,大爲其名價云:「可三二京,四三都。」於此人人競寫,都下紙爲之貴。謝太傅云:「不得爾。此是屋下架屋耳!事事擬學,而不免儉狹。」
庾仲初が「揚都賦」を作り上げて庾亮に差し出すと、庾亮は一族としての思いから、大いにその名の値を上げて言った。「『二京賦』と並んで三つになるに足り、『三都賦』と並んで四つになるに足る。」
そこで人々が競って写したので、都の紙がそのために高くなった。
謝太傅が言った。「そうはいかない。これは家の下に家を架けたにすぎない。事ごとに真似て学んで、こまごまと狭いことを免れていない。」
夾注 1
王隱論揚雄《太玄經》》曰:「《玄經》雖妙,非益也。是以古人謂其屋下架屋。」
王隠が揚雄の『太玄経』を論じて「『玄経』は妙ではあるが、益ではない。だから古人はそれを家の下に家を架けたと言った」と言った。
80明公にお会いしていなければ、荊州の老いた従事であっただけでしょう
習鑿齒史才不常,宣武甚器之,未三十,便用爲荊州治中。鑿齒謝牋亦云:「不遇明公,荊州老從事耳!」後至都見簡文,返命,宣武問「見相王何如?」答云:「一生不曾見此人!」從此忤旨,出爲衡陽郡,性理遂錯。於病中猶作《漢晉春秋》,品評卓逸。
習鑿歯は史の才が並でなかったので、宣武はたいへん器量ある者と見て、三十にもならないうちに荊州治中として用いた。
習鑿歯の礼を述べる書状にも、こうあった。「明公にお会いしていなければ、荊州の老いた従事であっただけでしょう。」
のちに都に至って簡文帝に会い、帰って報告すると、宣武が尋ねた。「相王に会ってどうであったか。」
答えた。「一生このような人を見たことがありません。」
これより意に背き、衡陽郡に出され、性も理もついに狂ってしまった。病の中でもなお『漢晋春秋』を著し、その品評は抜きんでて優れていた。
夾注 1
《續晉陽秋》曰:「鑿齒少而博學,才情秀逸,温甚奇之。自州從事歳中三轉至治中。後以忤旨,左遷戸曹參軍、衡陽太守。在郡著《漢晉春秋》,斥温覬覦之心也。」《鑿齒集》載其論,略曰:「靜漢末累世之交爭,廓九域之蒙晦,大定千載之盛功者,皆司馬氏也。若以魏有代王之德,則不足;有靜亂之功,則孫劉鼎立,共王、秦政,猶不見敘於帝王,況暫制數州之衆哉?且漢有係周之業,則晉無所承魏之跡矣。春秋之時,呉楚稱王。若推有德,彼必自係於周,不推呉楚也。況長轡廟堂,呉蜀兩定,天下之功也。」
『続晋陽秋』に「習鑿歯は若くして広く学び、才と情が秀でて抜きんでていたので、桓温はたいへん並ならぬ者と見た。州従事から一年のうちに三度移って治中に至った。のちに意に背いたため、戸曹参軍・衡陽太守に左遷された。郡にいて『漢晋春秋』を著し、桓温の窺い覗う心を退けた」とある。『鑿歯集』にその論が載っていて、大略に「漢末の幾世にもわたる争いを静め、九つの地域の暗さを払い、千年の盛んな功を大きく定めたのは、みな司馬氏である。もし魏に王に代わる徳があるとすれば足りず、乱を静めた功があるとすれば、孫氏と劉氏が鼎の足のように並び立ち、共王や秦の政と同じで、やはり帝王として序に入れられないのに、ましてしばらく数州の人々を統べただけであればなおさらである。また漢に周を継いだ業があるとすれば、晋には魏を継いだ跡はない。春秋の時には、呉と楚が王と称した。もし徳のある者を推すなら、彼らは必ず自ら周につながるのであって、呉や楚を推すのではない。まして朝廷で長く手綱を取り、呉と蜀をどちらも平定したのは、天下の功である」とある。
81「三都賦」と「二京賦」は五経の鼓笛である
孫興公云:「三都、二京,五經鼓吹。」
孫興公が言った。「『三都賦』と『二京賦』は、五経の鼓笛である。」
夾注 1
言此五賦是經典之羽翼。
この五つの賦が経典の羽翼だという意味である。
82男子の徳は事と行いに表れ、婦人の美しさは誄でなければ顕れない
謝太傅問主簿陸退「張憑何以作母誄而不作父誄?」退答曰:「故當是丈夫之德,表於事行;婦人之美,非誄不顯。」
謝太傅が主簿の陸退に尋ねた。「張憑はどうして母の誄を作って、父の誄を作らなかったのか。」
陸退が答えた。「わざわざ言えば、男子の徳は事と行いに表れ、婦人の美しさは誄でなければ顕れないからでしょう。」
夾注 2
《陸氏譜》曰:「退字黎民,呉郡人。髙祖凱,呉丞相。祖仰,吏部郎。父伊,州主簿。退仕至光祿大夫。」
『陸氏譜』に「陸退は字は黎民、呉郡の人である。高祖父の陸凱は呉の丞相、祖父の陸仰は吏部郎、父の陸伊は州主簿である。陸退は官が光禄大夫に至った」とある。
《陸氏譜》曰:「退,憑婿也。」
『陸氏譜』に「陸退は、張憑の婿である」とある。
83敬仁が作った論を見ると、もう微妙な談に加わるに足る
王敬仁年十三,作《賢人論》。長史送示眞長,眞長答云:「見敬仁所作論,便足參微言。」
王敬仁が十三のとき、「賢人論」を作った。
長史が真長に送って見せると、真長は答えた。「敬仁が作った論を見ると、もう微妙な談に加わるに足る。」
夾注 1
《脩集》載其論曰:「或問『易稱賢人,黃裳元吉,苟未能闇與理會,何得不求通?求通則有損,有損則元吉之稱將虚設乎?』答曰:『賢人誠未能闇與理會,當居然人從,比之理盡,猶一豪之領一梁。一豪之領一梁,雖於理有損,不足以撓梁。賢有情之至寡,豪有形之至小,豪不至撓梁,於賢人何有損之者哉?』」
『脩集』にその論が載っていて「ある人が『「易」に賢人を称えて「黄色い裳だから大いに吉だ」とあるが、まことにまだ暗いうちに理と合うことができないなら、どうして通じることを求めずにいられよう。通じることを求めれば損があり、損があれば大いに吉だという称えが、むなしく設けられたことにならないか』と尋ねた。答えて『賢人がまことにまだ暗いうちに理と合えず、そのまま人に従うというのは、理の尽きたところに比べれば、なお一本の毛が一本の梁を支えるようなものである。一本の毛が一本の梁を支えるのは、理には損があっても、梁を撓ませるには足りない。賢人は情あるもののうちで極めて少ない者であり、毛は形あるもののうちで極めて小さいものである。毛が梁を撓ませるに至らないのだから、賢人に何の損があろうか』と言った」とある。
84潘岳の文は錦を広げたよう、陸機の文は砂をかき分けて金を選ぶよう
孫興公云:「潘文爛若披錦,無處不善;陸文若排沙簡金,往往見寶。」
孫興公が言った。「潘岳の文は咲き乱れて錦を広げたようで、よくないところがない。陸機の文は砂をかき分けて金を選ぶようで、ときどき宝が見える。」
夾注 2
《續文章志》曰:「岳爲文選言簡章,淸綺絶倫。」
『続文章志』に「潘岳は文を作るのに言葉を選び章を整え、清らかで美しいことが群を抜いていた」とある。
《文章傳》曰:「機善屬文,司空張華見其文章,篇篇稱善,猶譏其作文大治。謂曰:『人之作文,患於不才;至子爲文,乃患太多也。』」
『文章伝』に「陸機は文を作るのが巧みであったが、司空の張華がその文章を見て、篇ごとによしと称えながらも、なおその文の作りが磨きすぎだと謗った。『人が文を作るのに、才のないことを心配するものだが、君の文に至っては、かえって多すぎることを心配する』と言った」とある。
85玄度の五言詩は、当代の人に比べて妙に抜きんでている
簡文稱許掾云:「玄度五言詩,可謂妙絶時人。」
簡文帝が許掾を称えて言った。「玄度の五言詩は、当代の人に比べて妙に抜きんでていると言えよう。」
夾注 1
《續晉陽秋》曰:「詢有才藻,善屬文。自司馬相如、王裦、揚雄諸賢,世尚賦頌,皆體則《詩》《騷》,傍綜百家之言。及至建安,而詩章大盛。逮乎西朝之末,潘陸之徒雖時有質文,而宗歸不異也。正始中,王弼、何晏好《莊》《老》玄勝之談,而世遂貴焉。至江左李充尤盛。故郭璞五言始會合道家之言而韻之。詢及太原孫綽轉相祖尚,又加以三世之辭,而《詩》《騷》之體盡矣。詢綽並爲一時文宗,自此作者悉體之。至義熙中,謝混始改。
『続晋陽秋』に「許詢は才と文のあやがあり、文を作るのが巧みであった。司馬相如・王褒・揚雄ら諸賢から、世は賦と頌を尊んだが、どれも『詩』と「離騒」を本として、傍らに諸家の言を綜べていた。建安に至って、詩が大いに盛んになった。西の朝廷の末に至っては、潘岳や陸機の輩が、ときに質と文のありようはあっても、宗とするところは異ならなかった。正始のころ、王弼と何晏が『荘子』『老子』の玄妙ですぐれた談を好んだので、世はついにこれを貴んだ。江左に至って李充がいっそう盛んであった。だから郭璞の五言詩が、はじめて道家の言を取り合わせて韻を付けた。許詢と太原の孫綽が互いに受け継いで尊び、さらに三世の辞を加えたので、『詩』と「離騒」の体は尽きた。許詢と孫綽はともに一時の文の宗となり、これより作る者はみなこれを体とした。義熙のころに至って、謝混がはじめて改めた」とある。
86地に投げれば金と石の音がするはずだ
孫興公作《天台賦》成,以示范榮期,云:「卿試擲地,要作金石聲。」范曰:「恐子之金石,非宮商中聲!」然毎至佳句,輙云:「應是我輩語。」
孫興公が「天台賦」を作り上げ、范栄期に見せて言った。「君、試しに地に投げてみてくれ。きっと金と石の音がするはずだ。」
范栄期が言った。「君の金と石が、宮や商に合う音でないのではないかと恐れる。」
しかし、よい句に至るたびに、そのたびに言った。「これはわれらの言葉であるべきだ。」
夾注 2
《中興書》曰:「范啓字榮期,愼陽人。父堅,護軍。啓以才義顯於世,仕至黃門郎。」
『中興書』に「范啓は字は栄期、慎陽の人である。父の范堅は護軍である。范啓は才と義で世に顕れ、官は黄門郎に至った」とある。
「赤城霞起而建標,瀑布飛流而界道」,此賦之佳處。
「赤い城に霞が立ちのぼって標を立て、滝が飛び流れて道を分ける」とあるのが、この賦のよいところである。
87これは安石の砕けた金だ
桓公見謝安石作《簡文諡議》,看竟,擲與坐上諸客曰:「此是安石碎金。」
桓公が謝安石の作った「簡文諡議」を見て、見終わると、席上の客たちに投げ渡して言った。「これは安石の砕けた金だ。」
夾注 1
劉謙之《晉紀》載安《議》曰:「謹按諡法:『一德不懈曰簡,道德博聞曰文。』易簡而天下之理得,觀乎人文,化成天下,儀之景行,猶有彷彿。宜尊號曰太宗,諡曰簡文。」
劉謙之の『晋紀』に謝安の「議」が載っていて「謹んで諡法を調べますに『一つの徳をもって怠らないのを簡といい、道と徳が広く聞くところが多いのを文という』とあります。易く簡やかであって天下の理が得られ、人の文を観て天下を化し成すのですから、大いなる行いに比べれば、なお似通うところがあります。まさに尊号を太宗とし、諡を簡文とされるべきです」とある。
88袁宏が租を運ぶ舟で「詠史詩」を詠む
袁虎少貧,嘗爲人傭載運租。謝鎭西經船行,其夜淸風朗月,聞江渚間估客船上有詠詩聲,甚有情致。所誦五言,又其所未嘗聞,嘆美不能已。即遣委曲訊問,乃是袁自詠其所作詠史詩。因此相要,大相賞得。
袁虎は若いころ貧しく、かつて人に雇われて租を運んだ。
謝鎮西が舟で通り過ぎるとき、その夜は清らかな風と明るい月があった。川の中州のあいだの商人の舟の上から詩を詠む声が聞こえてきたが、たいへん情と到りがあった。暗唱している五言詩も、まだ聞いたことのないものだったので、感嘆し美しいと思ってやめられなかった。
すぐ人を遣わして詳しく尋ねさせると、まさに袁虎が自分の作った「詠史詩」を詠んでいたのであった。これによって互いに迎え合い、大いに互いに認め合った。
夾注 2
虎,袁宏小字也。
虎は袁宏の幼名である。
《續晉陽秋》曰:「虎少有逸才,文章絶麗,曾爲詠史詩,是其風情所寄。少孤而貧,以運租爲業。鎭西謝尚,時鎭牛渚,乘秋佳風月,率爾與左右微服泛江。會虎在運租船中諷詠,聲既淸會,辭文藻拔。非尚所曾聞,遂住聽之,乃遣問訊。答曰:『是袁臨汝郎誦詩,即其詠史之作也。』尚佳其率有勝致,即遣要迎,談話申旦。自此名譽日茂。」
『続晋陽秋』に「袁虎は若くして抜きんでた才があり、文章はきわめて美しかったが、かつて「詠史詩」を作ったのは、その風情を寄せたものである。幼くして父を失い貧しかったので、租を運ぶのを務めとした。鎮西将軍の謝尚は、そのころ牛渚を守っていて、秋のよい風と月に乗じて、ふと側の者と普段着で川に舟を浮かべた。ちょうど袁虎が租を運ぶ舟の中で詠じていて、声はすでに清らかに整い、言葉も文も抜きんでていた。謝尚がかつて聞いたことのないものだったので、ついに留まって聞き、そこで人を遣わして尋ねさせた。答えて『これは袁臨汝の若君が詩を暗唱しているので、まさにその詠史の作です』と言った。謝尚はそのさっぱりと抜きんでた到りがあることを美しいと思い、すぐ人を遣わして迎え、語り合って夜明けに至った。これより名と誉れが日ごとに盛んになった」とある。
89潘岳の文は浅いが清らか、陸機の文は深いが荒れている
孫興公云:「潘文淺而淨,陸文深而蕪。」
孫興公が言った。「潘岳の文は浅いが清らかで、陸機の文は深いが荒れている。」
90裴氏が『語林』を作り、遠近に伝わる
裴郎作《語林》,始出,大爲遠近所傳。時流年少,無不傳寫,各有一通。載王東亭作《經王公酒壚下賦》,甚有才情。
裴郎が『語林』を作り、出たばかりのころ、大いに遠近で伝えられた。
そのころ時流を追う若者たちは、だれもが写し伝えて、それぞれ一通を持っていた。
王東亭が作った「王公の酒蔵の下を通って作った賦」が載っているが、たいへん才と情があった。
夾注 1
《裴氏家傳》曰:「裴榮字榮期,河東人。父稚,豐城令。榮期少有風姿才氣,好論古今人物。撰《語林》數巻,號曰《裴子》。」檀道鸞謂裴松之,以爲啓作《語林》,榮儻別名啓乎?
『裴氏家伝』に「裴栄は字は栄期、河東の人である。父の裴稚は豊城令である。栄期は若くして風貌と姿、才と気があり、古今の人物を論じるのを好んだ。『語林』数巻を著し、『裴子』と呼んだ」とある。檀道鸞は裴松之に、裴啓が『語林』を作ったと言っているが、裴栄にはもしや別に啓という名があったのだろうか。
91わたしも作れば、君は名を付けるところがなくなるだろう
謝萬作《八賢論》,與孫興公往反,小有利鈍。謝後出以示顧君齊,顧曰:「我亦作,知卿當無所名。」
謝万が「八賢論」を作って孫興公と往き来したが、少し鋭いところと鈍いところがあった。
謝万がのちにそれを取り出して顧君斉に見せると、顧君斉は言った。「わたしもまた作れば、君はきっと名を付けるところがなくなるだろう。」
夾注 2
《中興書》曰:「萬善屬文,能談論。」《萬集》載其敘四隱四顯,爲八賢之論,謂漁父、屈原、季主、賈誼、楚老、龔勝、孫登、嵇康也。其旨以處者爲優,出者爲劣。孫綽難之,以謂體玄識遠者,出處同歸。文多不載。
『中興書』に「謝万は文を作るのが巧みで、談論ができた」とある。『万集』に、四人の隠れた者と四人の顕れた者を述べて八賢の論としたものが載っていて、漁父・屈原・季主・賈誼・楚の老人・龔勝・孫登・嵇康を言う。その趣旨は、隠れた者を優れたものとし、世に出た者を劣ったものとした。孫綽はこれを難じて、玄妙を体とし遠くを知る者は、出ることも隠れることも同じところに帰すると言った。文が長いので載せない。
《顧氏譜》曰:「夷字君齊,呉郡人。祖廞,孝廉。父霸,少府卿。夷辟州主簿,不就。」
『顧氏譜』に「顧夷は字は君斉、呉郡の人である。祖父の顧廞は孝廉、父の顧霸は少府卿である。顧夷は州主簿に召されたが、就かなかった」とある。
92流れる風をさかのぼって独り書き尽くす
桓宣武命袁彦伯作《北征賦》,既成,公與時賢共看,咸嗟嘆之。時王珣在坐云:「恨少一句,得『寫』字足韻,當佳。」袁即於坐攬筆益云:「感不絶於余心,泝流風而獨寫。」公謂王曰:「當今不得不以此事推袁。」
桓宣武が袁彦伯に「北征賦」を作らせた。できあがると、公は当時の賢者たちとともに見て、みな感嘆した。
そのとき王珣が席にいて言った。「一句足りないのが残念です。「写」の字を得て韻を満たせば、きっとよくなるでしょう。」
袁彦伯はすぐ席で筆を取って書き足して「感は我が心に絶えず、流れる風をさかのぼって独り書き尽くす」とした。
公が王珣に言った。「今はこの件で袁彦伯を推さないわけにはいかない。」
夾注 2
《續晉陽秋》曰:「宏從温征鮮卑,故作《北征賦》,宏文之髙者。」
『続晋陽秋』に「袁宏は桓温に従って鮮卑を討ったので「北征賦」を作った。袁宏の文のうちで高いものである」とある。
《宏集》載其賦云:「聞所聞於相傳,云獲麟於此野。誕靈物以瑞德,奚授體於虞者。悲尼父之慟泣,似實慟而非假。豈一物之足傷,實致傷於天下。感不絶於余心,溯流風而獨寫。」《晉陽秋》曰:「宏嘗與王珣、伏滔同侍温坐,温令滔讀其賦,至『致傷於天下』,於此改韻。云:『此韻所詠,慨深千載。今於「天下」之後便移韻,於寫送之致,如爲未盡。』滔乃云:『得益「寫」一句,或當小勝。』桓公語宏:『卿試思益之。』宏應聲而益,王伏稱善。」
『宏集』にその賦が載っていて「言い伝えで聞いたところを聞くと、この野で麒麟を得たという。霊妙な物を生んで瑞祥の徳としたのに、どうしてその体を狩人に与えたのか。尼父の嘆き泣くのを悲しむが、まことに嘆きであって偽りではないようだ。どうして一つの物が傷むに足りよう。実は天下に傷みが及んだのである。感は我が心に絶えず、流れる風をさかのぼって独り書き尽くす」とある。『晋陽秋』に「袁宏はかつて王珣・伏滔とともに桓温の席に侍していたが、桓温が伏滔にその賦を読ませ、『天下に傷みが及んだ』に至って、ここで韻が変わった。『この韻が詠むところは、慨きが千年に深い。いま「天下」の後ですぐ韻を移すのは、書き送る到りにおいて、尽くしていないようだ』と言った。伏滔はそこで『「写」の一句を足せば、あるいは少し勝るかもしれません』と言った。桓公が袁宏に『君、試しに足すことを考えてみよ』と言うと、袁宏は声に応じて足し、王珣と伏滔はよしと称えた」とある。
93曹輔佐の才は、白地の明光錦のようなものだ
孫興公道:「曹輔佐才如白地明光錦,裁爲負版絝,非無文采,酷無裁製。」
孫興公が言った。「曹輔佐の才は、白地の明光錦のようなものだが、裁って文書を担ぐ者の袴を作ったので、文のあやがないわけではないが、まるで裁ち方がない。」
夾注 2
《中興書》曰:「曹毗字輔佐,譙國人,魏大司馬休曾孫也。好文籍,能屬詞,累遷太學博士、尚書郎、光祿勳。」
『中興書』に「曹毗は字は輔佐、譙国の人で、魏の大司馬曹休の曾孫である。文と書籍を好み、詞を作るのが巧みで、次々に昇って太学博士・尚書郎・光禄勲に至った」とある。
《論語》曰:「孔子式負版者。」鄭氏注曰:「版,謂邦國籍也。負之者,賤隸人也。」
『論語』に「孔子は文書を担ぐ者に車上から礼をされた」とある。鄭氏が注して「版とは国の戸籍を言う。これを担ぐ者は、身分の低い下役である」と言った。
94わたしが人々と江北のことを語ったのは、ただ戯れにしたことにすぎない
袁伯彦作《名士傳》成,見謝公。公笑曰:「我嘗與諸人道江北事,特作狡獪耳!」彦伯遂以箸書。
袁伯彦が『名士伝』を作り上げ、謝公に会った。
謝公が笑って言った。「わたしがかつて人々と江北のことを語ったのは、ただ戯れにしたことにすぎない。」
彦伯はついにこれを書き留めて書に入れた。
夾注 1
宏以夏侯太初、何平叔、王輔嗣爲正始名士,阮嗣宗、嵇叔夜、山巨源、向子期、劉伯倫、阮仲容、王濬仲爲竹林名士,裴叔則、樂彦輔、王夷甫、庾子嵩、王安期、阮千里、衞叔寶、謝幼輿爲中朝名士。
袁宏は、夏侯太初・何平叔・王輔嗣を正始の名士とし、阮嗣宗・嵇叔夜・山巨源・向子期・劉伯倫・阮仲容・王濬仲を竹林の名士とし、裴叔則・楽彦輔・王夷甫・庾子嵩・王安期・阮千里・衛叔宝・謝幼輿を中朝の名士とした。
95東亭侯が申し上げる文を作り直したが、前の一字もなかった
王東亭到桓公吏,既伏閣下;桓公令人竊取其白事。東亭即於閣下更作,無復向一字。
王東亭が桓公の属官として着任したとき、すでに役所の下に控えていた。桓公は人に命じて、その申し上げる文をこっそり取ってこさせた。
東亭はすぐ役所の下であらためて作ったが、前のものと一字も同じでなかった。
夾注 1
《續晉陽秋》曰:「珣學渉通敏,文髙當世。」
『続晋陽秋』に「王珣は学が広く渉って通じ機敏で、文が当代で高かった」とある。
96袁宏が馬に寄りかかったまま七枚を書く
桓宣武北征,袁虎時從,被責免官。會須露布文,喚袁倚馬前會作;手不輟筆,俄得七紙,絶可觀。東亭在側,極嘆其才。袁虎云:「當令齒舌間得利。」
桓宣武が北を討ったとき、袁虎はそのころ従軍していたが、責めを受けて官を免じられた。
ちょうど露布の文が必要になり、袁虎を呼んで馬の前に寄りかかったまま作らせたところ、手は筆を止めず、わずかのあいだに七枚を得たが、きわめて見るに足るものであった。
東亭が傍らにいて、その才を極めて感嘆した。
袁虎が言った。「ぜひ歯と舌のあいだで利を得られるようにしてほしい。」
夾注 1
《温別傳>曰:「温以太和四年上疎自征鮮卑。」
「温別伝」に「桓温は太和四年に上奏して自ら鮮卑を討った」とある。
97百度鍛えた精金は、切れば断つことができる
袁宏始作《東征賦》,都不道陶公。胡奴誘之狹室中,臨以白刃,曰:「先公勳業如是!君作《東征賦》,云何相忽略?」宏窘蹙無計,便答:「我大道公,何以云無?」因誦曰:「精金百鍊,在割能斷。功則治人,職思靖亂。長沙之勳,爲史所讚。」
袁宏がはじめて「東征賦」を作ったとき、陶公をまったく語らなかった。
胡奴が彼を狭い部屋に誘い込み、白刃を突きつけて言った。「亡き父の勲功と業績はこのとおりだ。君が「東征賦」を作っておきながら、どうしてこれほど見落としたのか。」
袁宏は追い詰められて窮し、なすすべがなく、すぐ答えた。「わたしは陶公を大いに語ったのに、どうしてないと言われるのか。」
それから暗唱した。「百度鍛えた精金は、切れば断つことができる。功としては人を治め、職としては乱を静めることを思った。長沙公の勲功は、史書が讃えたものである。」
夾注 2
胡奴,陶範。別見。
胡奴は陶範である。別に見える。
《續晉陽秋》曰:「宏爲大司馬記室參軍,後爲《東征賦》,悉稱過江諸名望。時桓温在南州,宏語衆云:『我決不及桓宣城。』時伏滔在温府,與宏善,苦諫之,宏笑而不答。滔密以啓温,温甚忿,以宏一時文宗,又聞此賦有聲,不欲令人顯聞之。後遊靑山飲酌,既歸,公命宏同載,衆爲危懼。行數里,問宏曰:『聞君作《東征賦》,多稱先賢,何故不及家君?』宏答曰:『尊公稱謂,自非下官所敢專,故未呈啓,不敢顯之耳。』温乃云:『君欲爲何辭?』宏即答云:『風鑒散朗,或搜或引。身雖可亡,道不可隕。則宣城之節,信爲允也。』温泫然而止。」二説不同,故詳載焉。
『続晋陽秋』に「袁宏は大司馬記室参軍となり、のちに「東征賦」を作って、長江を渡って来た名望ある人々をすべて称えた。そのころ桓温は南州にいたが、袁宏は人々に『わたしは決して桓宣城には及ばない』と言った。そのころ伏滔が桓温の官府にいて、袁宏と仲がよかったので、苦心して諫めたが、袁宏は笑って答えなかった。伏滔がひそかに桓温に申し上げると、桓温はたいへん憤ったが、袁宏が一時の文の宗であり、またこの賦に評判があると聞いていたので、人に広く知られるようにはしたくなかった。のちに青山に遊んで酒を飲み、帰ってから、桓公は袁宏に同じ車に乗るよう命じたので、人々は危ぶんで恐れた。数里行ってから、袁宏に『聞くところでは君が「東征賦」を作って先賢を多く称えたそうだが、どういうわけでわが父に及ばなかったのか』と尋ねた。袁宏は『尊公のお称えは、もとより下官が勝手にできることではありませんので、まだ申し上げて顕わにしていないだけです』と答えた。桓温はそこで『君はどういう言葉にしようとするのか』と言うと、袁宏はすぐ『風格と見識は晴れ晴れと明らかで、あるいは探しあるいは引いた。身は亡びることがあっても、道は落ちることがない』と答えた。つまり宣城公の節であり、まことに適切だというのである。桓温は涙を流してやめた」とある。二つの説が同じでないので、詳しく載せる。
98見分けられない者は、後から出たからといって捨て置くでしょう
或問顧長康:「君《箏賦》何如嵇康《琴賦》?」顧曰:「不賞者作後出相遺,深識者亦以髙奇見貴。」
ある人が顧長康に尋ねた。「君の「箏賦」は、嵇康の「琴賦」に比べてどうか。」
顧長康が言った。「見分けられない者は、後から出たからといって捨て置くでしょうが、深く知る者はまた、高く並ならぬものとして貴ぶでしょう。」
夾注 1
《中興書》曰:「愷之博學有才氣,爲人遲鈍而自矜尚,爲時所笑。」宋明帝《文章志》曰:「桓温云:『顧長康體中癡黠各半,合而論之,正平平耳。』世云有三絶,畫絶、文絶、癡絶。」《續晉陽秋》曰:「愷之矜伐過實,諸年少因相稱譽,以爲戲弄。爲散騎常侍,與謝瞻連省,夜於月下長詠,自云得先賢風制,瞻毎遙贊之。愷之得此,彌自力忘倦。瞻將眠,語搥腳人令代,愷之不覺有異,遂幾申旦而後止。」
『中興書』に「顧愷之は広く学び才と気があったが、人柄が鈍くて、しかも自ら誇り高ぶったので、当時の人の笑いものになった」とある。宋の明帝の『文章志』に「桓温が『顧長康は体の中に愚かさとずるさが半分ずつで、合わせて論ずれば、まさにただ平々凡々であるだけだ』と言った。世に三つの絶があるといい、画が絶、文が絶、愚かさが絶というのである」とある。『続晋陽秋』に「顧愷之の誇りが実際を越えていたので、若者たちはそれにつけこんで互いに褒め称え、戯れの弄びものにした。散騎常侍となり、謝瞻と役所を隣り合わせていたが、夜に月の下で長く詠じ、自ら先賢の風格と作法を得たと言うと、謝瞻はいつも遠くから彼を讃えた。顧愷之はそれを得て、いよいよ自ら励んで疲れを忘れた。謝瞻が眠ろうとして、足を叩く者に代わるように言ったが、顧愷之は違いがあることに気づかず、ついに夜明け近くになってようやくやめた」とある。
99殷仲文が袁豹の半分でも読んでいたら、才は班固に劣らなかっただろう
殷仲文天才宏贍,而讀書不甚廣,博亮嘆曰:「若使殷仲文讀書半袁豹,才不減班固。」
殷仲文は天与の才が広く豊かであったが、読書はそれほど広くなかった。
傅亮が嘆じて言った。「もし殷仲文が袁豹の半分でも読んでいたら、才は班固に劣らなかっただろう。」
夾注 5
《續晉陽秋》曰:「仲文雅有才藻,著文數十篇。」
『続晋陽秋』に「殷仲文は上品に才と文のあやがあり、文を数十篇著した」とある。
亮,別見。
傅亮は、別に見える。
丘淵之《文章敘》曰:「豹字士蔚,陳郡人。祖耽,歴陽太守。父質,琅邪内史。豹隆安中著作佐郎,累遷太尉長史、丹陽尹。義熙九年卒。」
丘淵之の「文章叙」に「袁豹は字は士蔚、陳郡の人である。祖父の袁耽は歴陽太守、父の袁質は琅邪内史である。袁豹は隆安のころ著作佐郎となり、次々に昇って太尉長史・丹陽尹に至った。義熙九年に亡くなった」とある。
《續漢書》曰:「固字孟堅,右扶風人。幼有俊才,學無常師,善屬文,經傳無不究覽。」
『続漢書』に「班固は字は孟堅、右扶風の人である。幼くして俊才があり、学ぶのに決まった師がなく、文を作るのが巧みで、経と伝に究め見ないものがなかった」とある。
底本は博亮だが、傅亮の誤りと見る。この書のsn-07でも傅亮と記している。― 訳者
100清らかさを資りとして化し、気に乗って降りしきる
羊孚作《雪贊》云:「資淸以化,乘氣以霏。遇象能鮮,即潔成輝。」桓胤遂以書扇。
羊孚が「雪賛」を作って「清らかさを資りとして化し、気に乗って降りしきる。象に出会えば鮮やかになり、潔さに即いて輝きを成す」とした。
桓胤はついにこれを扇に書きつけた。
夾注 1
《中興書》曰:「胤字茂祖,譙國人。祖沖,太尉。父嗣,江州刺史。胤少有淸操,以恬退見稱,仕至中書令。玄敗,徙安成郡,後見誅。」
『中興書』に「桓胤は字は茂祖、譙国の人である。祖父の桓沖は太尉、父の桓嗣は江州刺史である。桓胤は若くして清らかな操があり、静かに退くことで称えられ、官は中書令に至った。桓玄が敗れると安成郡に移され、のちに誅された」とある。
101出会うものに昔のままの物はない。どうして早く老いずにいられよう
王孝伯在京行散,至其弟王睹戸前,問:「古詩中何句爲最?」睹思未答。孝伯詠「所遇無故物,焉得不速老」,此句爲佳。
王孝伯が都で薬の効きに任せて歩いていて、その弟の王睹の戸の前に至って尋ねた。「古い詩の中で、どの句が最もよいか。」
王睹は考えて、まだ答えられなかった。
孝伯は「出会うものに昔のままの物はない。どうして早く老いずにいられよう」と詠じ、この句がよいとした。
夾注 1
睹,王爽小字也。《中興書》曰:「爽字季明,恭第四弟也。仕至侍中,恭事敗,贈太常。」
睹は王爽の幼名である。『中興書』に「王爽は字は季明、王恭の第四の弟である。官は侍中に至り、王恭の事が失敗すると、太常を贈られた」とある。
102桓玄が江陵の南楼に登って王孝伯の誄を作る
桓玄嘗登江陵城南樓云:「我今欲爲王孝伯作誄。」因吟嘯良久,隨而下筆。一坐之間,誄以之成。
桓玄がかつて江陵城の南楼に登って言った。「わたしは今、王孝伯のために誄を作ろうと思う。」
それから詠じうそぶくことを長くしてから、続いて筆を下した。ひと座りのあいだに、誄はこうしてできあがった。
夾注 1
《晉安帝紀》曰:「玄文翰之美,髙於一世。」《玄集》載其誄敘曰:「隆安二年九月十七日,前將軍、靑兗二州刺史、太原王孝伯薨。川岳降神,哲人是育。既爽其靈,不貽其福。天道茫昧,孰測倚伏?犬馬反噬,豺狼翹陸。嶺摧髙梧,林殘故竹。人之云亡,邦國喪牧。於以誄之,爰旌芳郁。」文多不盡載。
『晋安帝紀』に「桓玄は文と筆の美しさが一世に高かった」とある。『玄集』にその誄の序が載っていて「隆安二年九月十七日、前将軍、青・兗二州刺史、太原の王孝伯が亡くなった。川と岳が神を降し、哲人を育て、すでにその霊を晴れやかにしておいて、その福を授けなかった。天の道は茫々として暗く、だれが倚るか伏すかを測れよう。犬や馬が逆に噛みつき、豺や狼が跳ね回る。嶺では高い梧が砕け、林では古い竹が傷んだ。人が亡くなり、国は牧する者を失った。そこでこれを誄して、その芳しい香りを旌す」とある。文が長いので、すべては載せない。
103五か所の祝いの板がそろって入ってくる
桓玄初并西夏,領荊江二州,二府一國。於時始雪,五處倶賀,五版並入。玄在聽事上,版至即答。版後皆粲然成章,不相揉雜。
桓玄がはじめて西夏を併せ、荊州と江州の二州を統べると、二つの官府と一つの国であった。
そのころ初雪が降り、五か所からともに祝いが来て、五枚の板がそろって入ってきた。
桓玄は庁の上にいて、板が届くとすぐ答えた。板の後ろはみな輝かしく章を成し、互いに入り交じらなかった。
夾注 1
《玄別傳》曰:「玄既克殷仲堪,後楊佺期,遣使諷朝廷,朝廷以玄都督八州,領江州、荊州二刺史。」
『玄別伝』に「桓玄は殷仲堪を破り、のちに楊佺期を破ると、使いを遣わして朝廷にほのめかしたので、朝廷は桓玄に八州を都督させ、江州・荊州の二州の刺史を兼ねさせた」とある。
104子道、子道、来るのがどうしてこんなに遅かったのか
桓玄下都,羊孚時爲兗州別駕,從京來詣門,牋云:「自頃世故睽離,心事淪薀。明公啓晨光於積晦,澄百流以一源。」桓見牋,馳喚前,云:「子道,子道,來何遲?」即用爲記室參軍。孟昶爲劉牢之主簿,詣門謝,見云:「羊侯,羊侯,百口賴卿!」
桓玄が都へ下るとき、羊孚はそのころ兗州別駕であったが、都から来て門に至り、書状を差し出した。「このところ世の事が食い違い離れて、心の事が沈み積もっておりました。明公が積もった暗さに暁の光を開き、百の流れを一つの源に澄まされました。」
桓玄は書状を見て、急いで呼んで前に来させて言った。「子道、子道、来るのがどうしてこんなに遅かったのか。」
すぐ用いて記室参軍とした。
孟昶は劉牢之の主簿であったが、門に至って礼を述べ、会って言った。「羊侯、羊侯、百人の命が君にかかっております。」
夾注 2
別。
別に見える。
《續晉陽秋》曰:「牢之字道堅,彭城人,世以將顯。父遁,征虜將軍。牢之沈毅多計數,爲謝玄參軍。苻堅之役,以驍猛成功。及平王恭,轉徐州刺史。桓玄下都,以牢之爲前鋒,行征西將軍。玄至歸降,用爲會稽内史。欲解其兵,奔而縊死。」
『続晋陽秋』に「劉牢之は字は道堅、彭城の人で、代々将として顕れた。父の劉遁は征虜将軍である。劉牢之は沈着で剛毅、はかりごとが多く、謝玄の参軍となった。苻堅との戦役では、勇猛さで功を成した。王恭を平定するに至って、徐州刺史に移った。桓玄が都へ下ると、劉牢之を先鋒として、征西将軍の任を行わせた。桓玄が至ると降ったので、会稽内史として用いた。その兵を解こうとしたので、逃げて首を吊って死んだ」とある。