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政事世説新語 政事第三

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 26 · 漢字 1,671字 · 朗読 6.7分

世説新語(世に語られた新しい話) 上巻下 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1不忠不孝であれば、その罪より大きいものはない

陳仲弓爲太丘長,時吏有詐稱母病求假,事覺收之,令吏殺焉。主簿請付獄,考衆姦。仲弓曰:「欺君不忠,病母不孝;不忠不孝,其罪莫大。考求衆姦,豈復過此?」

陳仲弓が太丘の長であったとき、ある役人が母が病だと偽って休暇を願い出たことがあった。事が明らかになると、これを捕らえ、役人に命じて殺させた。

主簿が獄に送ってほかのさまざまな不正を調べたいと願うと、仲弓は言った。「君主を欺いたのは不忠であり、母を病と偽ったのは不孝である。不忠不孝であれば、その罪より大きいものはない。さまざまな不正を調べ出したとして、どうしてこれより重いものがあろうか。」

夾注 1

陳寔已別見。

陳寔については、すでに別のところに見える。

2盗賊が財貨の持ち主を殺すのが、血を分けた者どうしの殺し合いに及ぼうか

陳仲弓爲太丘長,有劫賊殺財主,主者捕之。未至發所,道聞民有在草不起子者,回車往治之。主簿曰:「賊大,宜先按討。」仲弓曰:「盜殺財主,何如骨肉相殘?」

陳仲弓が太丘の長であったとき、強盗が財貨の持ち主を殺した事件があり、担当の役人がこれを捕らえに行った。

まだ現場に着かないうちに、道で、民のうちに生まれたばかりの子を育てない者があると聞き、車を返してそちらへ行き、これを裁いた。

主簿が言った。「賊の件が大事です。まず調べて討つべきです。」

仲弓が言った。「盗賊が財貨の持ち主を殺すのが、どうして血を分けた者どうしの殺し合いに及ぼうか。」

夾注 1

按,後漢時賈彪有此事,不聞寔也。

考えてみると、後漢のとき賈彪にこうした事があり、陳寔にあったとは聞かない。

3周公は孔子を師とせず、孔子もまた周公を師としませんでした

陳元方年十一時,候袁公。袁公問曰:「賢家君在太丘,遠近稱之,何所履行?」元方曰:「老父在太丘,彊者綏之以德,弱者撫之以仁,恣其所安,久而益敬。」袁公曰:「孤往者嘗爲鄴令,正行此事。不知卿家君法孤?孤法卿父?」元方曰:「周公、孔子,異世而出,周旋動靜,萬里如一;周公不師孔子,孔子亦不師周公。」

陳元方が十一歳のとき、袁公に拝謁した。袁公が尋ねた。「ご尊父が太丘におられたとき、遠近の人がみな褒めたたえたが、何を行われたのか。」

元方が言った。「老父が太丘におりましたとき、強い者は徳によって安んじ、弱い者は仁によっていたわり、その安らかであるままに任せましたので、時がたつほどいよいよ敬われました。」

袁公が言った。「わたしは昔、鄴の令となって、まさにこのことを行った。ご尊父がわたしを手本とされたのか、わたしがご尊父を手本としたのか、わからぬな。」

元方が言った。「周公と孔子とは世を異にして世に出ましたが、立ち居ふるまいは万里を隔てて一つのようでした。周公は孔子を師とせず、孔子もまた周公を師としませんでした。」

夾注 3

陳紀已見。

陳紀については、すでに見える。

袁宏《漢紀》曰:「寔爲太丘,其政不嚴而治,百姓敬之。」

袁宏の『漢紀』に「陳寔が太丘を治め、その政は厳しくないのに治まり、民はこれを敬った」とある。

檢衆《漢書》,袁氏諸公,未知誰爲鄴令?故闕其文以待通識者。

もろもろの『漢書』を調べても、袁氏の諸公のうち誰が鄴の令となったのかわからない。それゆえその文を空けておき、広く知る人を待つ。

4会稽の鶏は鳴くことができない

賀太傅作呉郡,初不出門。呉中諸強族輕之,乃題府門云:「會稽鷄,不能啼。」賀聞故出行,至門反顧,索筆足之曰:「不可啼,殺呉兒!」於是至諸屯邸,檢校諸顧陸役使官兵及藏逋亡,悉以事言上,罪者甚衆。陸抗時爲江陵都督,故下請孫皓,然後得釋。

賀太傅が呉郡の太守となり、はじめは門を出なかった。呉の地の有力な一族はこれを軽く見て、役所の門に書きつけた。「会稽の鶏は鳴くことができない。」

賀太傅はこれを聞き、わざと出かけ、門に至って振り返り、筆を求めて書き足した。「鳴けなくとも、呉の若造は殺せる。」

そこで諸方の屯田や邸宅に出向き、顧氏・陸氏が官の兵を使役したことや、逃亡者をかくまったことを調べ上げ、ことごとく事として上に申し上げたので、罪に問われた者がきわめて多かった。

陸抗はそのとき江陵都督であったが、わざわざ下って孫皓に願い出て、そのあとでようやく放免を得た。

夾注 2

環濟《呉紀》曰:「賀邵字興伯,會稽山陰人。祖齊,父景,並歴美官。邵歴散騎常侍,出爲呉郡太守。後遷太子太傅。」

環済の『呉紀』に「賀邵は字は興伯、会稽山陰の人である。祖父の賀斉、父の賀景は、いずれもよい官を歴任した。賀邵は散騎常侍を歴任し、呉郡太守として出た。のちに太子太傅に移った」とある。

《呉録》曰:「抗字幼節,呉郡人,丞相遜子,孫策外孫也。爲江陵都督,累遷大司馬、荊州牧。」

『呉録』に「陸抗は字は幼節、呉郡の人で、丞相陸遜の子、孫策の外孫である。江陵都督となり、次々に昇って大司馬・荊州牧に至った」とある。

5楼閣の東に大きな牛がいる

山公以器重朝望,年踰七十,猶知管時任。貴勝年少,若和、裴、王之徒,並共言詠。有署閣柱曰:「閣東,有大牛,和嶠鞅,裴楷鞦,王濟剔嬲不得休。」或云:潘尼作之。

山公は器量が重く朝廷の望みを担い、年が七十を越えてもなお、その時々の任務を執り行うことができた。

身分高く人にすぐれた若者たち、たとえば和嶠・裴楷・王済といった連中が、みな口をそろえて語り、うたった。ある者が楼閣の柱に書きつけた。「楼閣の東に大きな牛がいる。和嶠がむながい、裴楷がしりがい、王済がつつき立てて休む間もない。」

ある人は、潘尼がこれを作ったという。

夾注 3

虞預《晉書》曰:「山濤字巨源,河内懷人。祖本,郡孝廉。父曜,冤句令。濤蚤孤而貧,少有器量,宿士猶不慢之。年十七,宗人謂宣帝曰:『濤當與景文共綱紀天下者也。』帝戲曰:『卿小族,那得此快人邪?』好莊老,與嵇康善。爲河内從事,與石鑒共傳宿,濤夜起蹋鑒曰:『今何等時而眠也!知太傅臥何意?』鑒曰:『宰相三日不朝,與尺一令歸第,君何慮焉?』濤曰:『咄!石生,無事馬蹄閒也。』投傳而去,果有曹爽事,遂隱身不交世務。累遷吏部尚書、僕射、太子少傅、司徒。年七十九薨,諡康侯。」

虞預の『晋書』に「山濤は字は巨源、河内懐の人である。祖父の山本は郡の孝廉、父の山曜は冤句の令であった。山濤は早くに父を失って貧しかったが、若くして器量があり、年長の士もなおこれをあなどらなかった。十七のとき、一族の者が宣帝に『山濤はまさしく景帝・文帝とともに天下を治める者でしょう』と言うと、帝は戯れて『そなたの小さな一族から、どうしてこのような気持ちのよい人物が出たのか』と言った。『荘子』『老子』を好み、嵇康と親しかった。河内の従事となり、石鑒とともに駅舎に泊まったが、山濤は夜に起きて石鑒を踏みつけ『今がどういう時だと思って眠っているのか。太傅が臥せっているのはどういう意味かわかるか』と言った。石鑒は『宰相が三日も朝廷に出なければ、一尺の詔を下して邸に帰らせるだけのこと。君は何を心配するのか』と言った。山濤は『ちっ、石生よ。馬の蹄のあいだに用もなくいるな』と言い、駅の割り符を投げ捨てて去った。はたして曹爽の事件が起こり、ついに身を隠して世の務めに関わらなかった。次々に昇って吏部尚書・僕射・太子少傅・司徒に至った。七十九歳で亡くなり、康侯と諡された」とある。

王隱《晉書》曰:「初,濤領吏部,潘岳内非之,密爲作謠曰:『閣東,有大牛,王濟鞅,裴楷鞦,和嶠刺促不得休。』」《竹林七賢論》曰:「濤之處選,非望路絶,故貽是言。」

王隠の『晋書』に「はじめ山濤が吏部を預かると、潘岳は内心これをよしとせず、ひそかに歌を作って『楼閣の東に大きな牛がいる。王済がむながい、裴楷がしりがい、和嶠が突き立てて休む間もない』と言った」とある。『竹林七賢論』に「山濤が人を選ぶ任にあったため、望んでいた道が絶たれ、それでこういう言葉を残したのである」とある。

《文士傳》曰:「尼字正叔,滎陽人。祖最,尚書左丞。父滿,平原太守。並以文學稱。尼少有淸才,文詞温雅。初應州辟,終太常卿。」

『文士伝』に「潘尼は字は正叔、滎陽の人である。祖父の潘最は尚書左丞、父の潘満は平原太守で、いずれも文学で名を知られた。潘尼は若くして清らかな才があり、文章は穏やかで上品であった。はじめ州の召しに応じ、太常卿で終わった」とある。

6皋陶の厳しく明らかな趣旨は、わたしの探り当てるところではありません

賈充初定律令,與羊祜共咨太傅鄭沖。沖曰:「皋陶嚴明之旨,非僕闇懦所探。」羊曰:「上意欲令小加弘潤。」沖乃粗下意。

賈充が初めて律令を定めるとき、羊祜とともに太傅の鄭沖に意見を求めた。

鄭沖が言った。「皋陶の厳しく明らかな趣旨は、暗く弱いわたしの探り当てるところではありません。」

羊祜が言った。「上のお考えは、少しばかり広げ潤してほしいということです。」

鄭沖はそこで、おおまかに考えを示した。

夾注 3

《晉諸公贊》曰:「充字公閭,襄陵人。父逵,魏豫州刺史。充起家爲尚書,遷廷尉,聽訟稱平。晉受禪,封魯郡公。充有才識,明達治體,加善刑法,由此與散騎常侍裴楷共定科令,蠲除密網,以爲晉律。薨,贈太宰。」

『晋諸公賛』に「賈充は字は公閭、襄陵の人である。父の賈逵は魏の豫州刺史であった。賈充は尚書として仕え始め、廷尉に移り、訴えを聞くのが公平だと評された。晋が禅譲を受けると魯郡公に封じられた。賈充は才と見識があり、政治の要体に明らかに通じ、さらに刑法に通じていたので、これによって散騎常侍の裴楷とともに法令を定め、こまかすぎる網を取り除いて晋の律とした。亡くなると太宰を贈られた」とある。

王隱《晉書》曰:「沖字文和,滎陽開封人。有核練才,淸虚寡慾,喜論經史,草衣縕袍,不以爲憂。累遷司徒、太保。晉受禪,進太傅。」

王隠の『晋書』に「鄭沖は字は文和、滎陽開封の人である。調べ鍛える才があり、清らかで欲が少なく、経書や史書を論じるのを好み、草の衣と古綿の上着でいても、それを憂えとしなかった。次々に昇って司徒・太保に至り、晋が禅譲を受けると太傅に進んだ」とある。

《續晉陽秋》曰:「初,文帝命荀朂、賈充、裴秀等分定禮儀律令,皆先咨鄭沖,然後施行也。」

『続晋陽秋』に「はじめ文帝が荀勗・賈充・裴秀らに分担して礼儀と律令を定めさせたが、みな先に鄭沖に意見を求めてから施行した」とある。

7山司徒の人選びは、才ある者を見落としたことがなかった

山司徒前後選,殆周遍百官,舉無失才。凡所題目,皆如其言。唯用陸亮,是詔所用,與公意異,爭之不從。亮亦尋爲賄敗。

山司徒が前後にわたって人を選び、ほとんどあらゆる官に行きわたったが、推挙において才ある者を見落としたことがなかった。およそ品定めして言ったことは、すべてその言葉どおりであった。

ただ陸亮を用いたことだけは詔によって用いられたもので、公の考えとは違い、争ったが聞き入れられなかった。陸亮もやがて賄賂で身を崩した。

夾注 1

《晉諸公贊》曰:「亮字長興,河内野王人,太常陸乂兄也。性髙明而率至,爲賈充所親待。山濤爲左僕射領選,濤行業即與充異,自以爲世祖所敬,選用之事,與充咨論,充毎不得其所欲。好事者説充:『宜授心腹人爲吏部尚書,參同選舉。若意不齊,事不得諧,可不召公與選,而實得敘所懷。』充以爲然。乃啓亮公忠無私。濤以亮將與己異,又恐其協情不允,累啓亮可爲左丞相,非選官才。世祖不許,濤乃辭疾還家。亮在職果不能允,坐事免官。」

『晋諸公賛』に「陸亮は字は長興、河内野王の人で、太常の陸乂の兄である。性質は高く明らかで率直きわまり、賈充に親しく待遇された。山濤が左僕射として人選びを預かったが、山濤の行いと業は賈充とは違い、また自分は世祖に敬われていると思っていたので、選び用いる事を賈充と相談するたびに、賈充はいつも望むところを得られなかった。事を好む者が賈充にすすめて『腹心の人に吏部尚書を授け、選挙にともに参加させるのがよいでしょう。もし考えがそろわず事が調わないときは、公を召して選ばずにすませることもでき、実は思うところを述べ通すことができます』と言った。賈充はそれをもっともだと思い、そこで陸亮は公正忠実で私心がないと上申した。山濤は陸亮が自分と違うことになると考え、またその者が情に合わせて公平を欠くことを恐れ、陸亮は左丞相にはなれようが官を選ぶ才ではないと重ねて上申した。世祖が許さなかったので、山濤はそこで病と称して辞し、家に帰った。陸亮は職にあって、はたして公平でありえず、事に連座して官を免じられた」とある。

8天地も四季も、なお消えたり満ちたりすることがある

嵇康被誅後,山公舉康子紹爲祕書丞。紹咨公出處,公曰:「爲君思之久矣!天地四時,猶有消息,而況人乎?」

嵇康が殺されたのち、山公は嵇康の子の嵇紹を推挙して秘書丞とした。

嵇紹が山公に、仕えるべきか退くべきかを尋ねると、山公は言った。「君のために考えてきたのは、もう久しい。天地も四季も、なお消えたり満ちたりすることがある。まして人であればなおさらではないか。」

夾注 3

《山公啓事》曰:「詔選祕書丞。濤薦曰:『紹平簡温敏,有文思,又曉音,當成濟也。猶宜先作祕書郎。』詔曰:『紹如此,便可爲丞,不足復爲郎也。』」《晉諸公贊》曰:「康遇事後二十年,紹乃爲濤所拔。」王隱《晉書》曰:「時以紹父康被法,選官不敢舉。年二十八,山濤啓用之,世祖發詔,以爲祕書丞。」

『山公啓事』に「詔によって秘書丞を選ばせた。山濤が推薦して『嵇紹は平らかで簡素、穏やかで機敏、文の才があり、また音律もわかるので、きっと役に立つでしょう。それでもまず秘書郎にするのがよいと存じます』と言った。詔に『嵇紹がそのようであれば、すぐ丞にしてよい。あらためて郎にするまでもない』とあった」とある。『晋諸公賛』に「嵇康が事に遭ってから二十年後、嵇紹はようやく山濤に抜かれた」とある。王隠の『晋書』に「そのころ嵇紹の父の嵇康が法に処せられたため、選任の官は推挙する勇気がなかった。二十八のとき山濤が上申して用い、世祖が詔を出して秘書丞とした」とある。

《竹林七賢論》曰:「紹懼不自容,將解褐,故咨之於濤。」

『竹林七賢論』に「嵇紹は自分が受け入れられないことを恐れ、官に就こうとして、わざわざ山濤に尋ねたのである」とある。

王隱《晉書》曰:「紹字延祖,雅有文才,山濤啓武帝云云。」

王隠の『晋書』に「嵇紹は字は延祖、上品な文才があり、山濤が武帝に上申してかくかくであったという」とある。

9池の魚など、何を惜しむほどのことがあろうか

王安期爲東海郡,小吏盜池中魚,綱紀推之。王曰:「文王之囿,與衆共之。池魚復何足惜!」

王安期が東海郡を治めていたとき、下役の役人が池の魚を盗んだので、取り締まりの役がこれを問い詰めた。

王安期は言った。「文王の園も人々と共にしたものだ。池の魚など、何を惜しむほどのことがあろうか。」

夾注 2

《名士傳》曰:「王承字安期,太原晉陽人。父湛,汝南太守。承沖淡寡慾,無所循尚。累遷東海内史,爲政淸靜,吏民懷之。避亂渡江,是時道路寇盜,人懷憂懼,承毎遇艱險,處之怡然。元皇爲鎭東,引爲從事中郎。」

『名士伝』に「王承は字は安期、太原晋陽の人である。父の王湛は汝南太守であった。王承は淡泊で欲が少なく、追い求めて尊ぶものがなかった。次々に昇って東海内史に至り、政治を清らかで静かに行ったので、役人も民も彼を慕った。乱を避けて長江を渡ったが、そのころ道には盗賊がいて人々は憂えと恐れを抱いていたのに、王承は難所や危険に出会うたび、これに平然と対した。元皇帝が鎮東将軍であったとき、引き立てて従事中郎とした」とある。

《孟子》曰:「齊宣王問:『文王之囿,方七十里,有諸?若是其大乎?』對曰:『民猶以爲小也。』王曰:『寡人之囿,方四十里,民猶以爲大,何邪?』孟子曰:『文王之囿,芻蕘者往焉,與民同之,民以爲小,不亦宜乎?今王之囿,殺糜鹿者如殺人罪,是以四十里爲阱於國中也,民以爲大,不亦宜乎?』」

『孟子』に「斉の宣王が『文王の園は四方七十里であったというが、そのような事があったのか。それほど大きかったのか』と尋ねると、答えて『民はそれでも小さいと思っていました』と言った。王が『わたしの園は四方四十里だが、民はそれでも大きいと思う。どうしてか』と言うと、孟子は『文王の園は、草を刈り薪を取る者がそこへ入り、民と共にしたのですから、民が小さいと思ったのも当然ではありませんか。今の王の園は、大鹿や鹿を殺した者を人殺しと同じ罪にします。これは四十里を国の中の落とし穴にしたようなものです。民が大きいと思うのも当然ではありませんか』と言った」とある。

10甯越を鞭打って威厳を立てるのは、政治の根本ではない

王安期作東海郡,吏録一犯夜人來。王問:「何處來?」云:「從師家受書還,不覺日晩。」王曰:「鞭撻甯越以立威名,恐非致理之本。」使吏送令歸家。

王安期が東海郡を治めていたとき、役人が夜間の外出禁止を破った者を一人書き留めて連れてきた。

王安期が尋ねた。「どこから来たのか。」

答えて言った。「師の家で書物を教わって帰るところで、日が暮れたのに気づきませんでした。」

王安期が言った。「甯越のような者を鞭打って威厳と名を立てるのは、政治を行き届かせる根本ではあるまい。」

役人に言いつけて、家に帰らせた。

夾注 1

《呂氏春秋》曰:「甯越者,中牟鄙人也。苦耕稼之勞,謂其友曰:『何爲可以免此苦也?』其友曰:『莫如學也。學三十歳,則可以達矣。』甯越曰:『請以十五歳。人將休,吾不敢休;人將臥,吾不敢臥。』學十五歳而爲周威公之師也。」

『呂氏春秋』に「甯越は中牟の田舎の人である。耕作の苦労をつらく思い、その友に『どうすればこの苦しみを免れられるだろうか』と言うと、友は『学ぶのにまさるものはない。三十年学べば通達できる』と言った。甯越は『十五年でやりたい。人が休もうとするとき、わたしは休まない。人が寝ようとするとき、わたしは寝ない』と言った。十五年学んで、周の威公の師となった」とある。

11わたしの侍中を返せ

成帝在石頭,任讓在帝前戮侍中鍾雅、右衞將軍劉超,帝泣曰:「還我侍中!」讓不奉詔,遂斬超、雅。事平之後,陶公與讓有舊,欲宥之。許柳兒思妣者至佳,諸公欲全之。若全思妣,則不得不爲陶全讓,於是欲并宥之。事奏,帝曰:「讓是殺我侍中者,不可宥!」諸公以少主不可違,并斬二人。

成帝が石頭にいたとき、任譲が帝の前で侍中の鍾雅と右衛将軍の劉超を殺した。

帝は泣いて言った。「わたしの侍中を返せ。」

任譲は詔を奉じず、ついに劉超と鍾雅を斬った。

事が治まったのち、陶公は任譲と古いなじみであったので、これを許そうとした。許柳の子の思妣はきわめてすぐれた人物であったので、諸公は彼を助けたいと思った。もし思妣を助けるなら、陶公のために任譲も助けないわけにはいかないので、そこで二人ともに許そうとした。

事を奏上すると、帝は言った。「任譲はわたしの侍中を殺した者だ。許すことはできない。」

諸公は幼い主君に背くことはできないとして、二人をともに斬った。

夾注 6

《晉世譜》曰:「帝諱衍,字世根,明帝太子。年二十二崩。」

『晋世譜』に「帝は諱は衍、字は世根、明帝の太子である。二十二歳で亡くなった」とある。

《晉陽秋》曰:「讓,樂安人,諸任之後。隨蘇峻作亂。」《雅別傳》曰:「雅字彦胄,潁川長社人,魏太傅鍾繇弟仲常曾孫也。少有才志,累遷至侍中。」

『晋陽秋』に「任譲は楽安の人で、もろもろの任氏の後裔である。蘇峻に従って乱を起こした」とある。『雅別伝』に「鍾雅は字は彦胄、潁川長社の人で、魏の太傅鍾繇の弟、鍾仲常の曾孫である。若くして才と志があり、次々に昇って侍中に至った」とある。

《晉陽秋》曰:「超字世踰,琅邪人,漢成陽景王六世孫。封臨沂慈鄕侯,遂家焉。父徴爲琅邪國上將軍。超爲縣小吏,稍遷記室掾、安東舍人。忠淸愼密,爲中宗所拔。自以職在中書,絶不與人交關書疎,閉門不通賓客,家無儋石之儲。討王敦有功,封零陽伯,爲義興太守。而受拜及往還朝,莫有知者,其愼默如此。遷右衞大將軍。」

『晋陽秋』に「劉超は字は世踰、琅邪の人で、漢の成陽景王の六代の孫である。臨沂慈郷侯に封じられ、そのままそこに住みついた。父の劉徴は琅邪国の上将軍となった。劉超は県の下役の役人となり、しだいに記室掾・安東舎人に移った。忠実で清らか、慎み深く細やかであったので、中宗に抜かれた。自分の職が中書にあるからとして、人と手紙をやりとりすることを一切やめ、門を閉じて客を通さず、家には一石の貯えもなかった。王敦を討って功があり、零陽伯に封じられ、義興太守となった。しかし任命を受けたことや朝廷を往き来したことを知る者はなく、その慎み深く黙していることはこのようであった。右衛大将軍に移った」とある。

《雅別傳》曰:「蘇峻逼主上幸石頭,雅與劉超並侍帝側匡衞,與石頭中人密期拔至尊出,事覺被害。」

『雅別伝』に「蘇峻が主上に迫って石頭へ移らせたので、鍾雅は劉超とともに帝の傍らに侍して助け守り、石頭の中の人と密かに約束して至尊を連れ出そうとしたが、事が明らかになって害を受けた」とある。

《許氏譜》曰:「柳字季祖,髙陽人。祖允,魏中領軍。父猛,吏部郎。」劉謙之《晉紀》曰:「柳妻,祖逖子渙女。蘇峻招祖約爲逆,約遣柳以衆會峻。既克京師,拜丹陽尹。後以罪誅。」

『許氏譜』に「許柳は字は季祖、高陽の人である。祖父の許允は魏の中領軍、父の許猛は吏部郎である」とある。劉謙之の『晋紀』に「許柳の妻は、祖逖の子の祖渙の娘である。蘇峻が祖約を招いて反逆させると、祖約は許柳に兵を率いて蘇峻と合流させた。都を落としてのち、丹陽尹に任じられた。のちに罪によって殺された」とある。

《許氏譜》曰:「永字思妣。」

『許氏譜』に「許永は字は思妣である」とある。

12蘭闍、蘭闍

王丞相拜揚州,賓客數百人並加霑接,人人有説色。唯有臨海一客姓任及數胡人爲未洽,公因便還到過任邊云:「君出,臨海便無復人。」任大喜説。因過胡人前彈指云:「蘭闍,蘭闍。」群胡同笑,四坐並懽。

王丞相が揚州刺史に任じられたとき、数百人の客にみな分け隔てなく応対したので、だれもが喜びの色を浮かべた。

ただ臨海から来た任という姓の客一人と、胡人の数人だけが満ち足りていなかった。

公はそこで引き返して任のそばを通りながら言った。「君が出てきたので、臨海にはもう人がいなくなったわけだ。」

任は大いに喜んだ。続いて胡人の前を通りながら指を弾いて言った。「蘭闍、蘭闍。」

胡人たちはそろって笑い、座の四方がみな喜んだ。

夾注 2

《語林》曰:「任名顒,時官在都,預王公坐。」

『語林』に「任は名は顒、そのころ官について都にいて、王公の席に加わった」とある。

《晉陽秋》曰:「王導接誘應會,少有牾者。雖疎交常賓,一見多輸寫款誠,自謂爲導所遇,同之舊暱。」

『晋陽秋』に「王導は人を迎え導いて応対するのに、逆らう者が少なかった。疎遠な付き合いのありふれた客でも、一度会えばたいてい真心を注ぎ出し、自分は王導に認められて古くからの親しい間柄と同じだと思った」とある。

13公は年長でわたしは若輩ですから、その場では言うべきことがわかりませんでした

陸太尉詣王丞相咨事,過後輙翻異。王公怪其如此,後以問陸。陸曰:「公長民短,臨時不知所言,既後覺其不可耳。」

陸太尉は王丞相のもとへ行って事を相談したが、済んだあとになると、きまって言を翻して違うことを言った。王公はそのようであるのを不思議に思い、のちに陸太尉に尋ねた。

陸太尉は言った。「公は年長で、わたしは若輩ですから、その場では言うべきことがわからず、あとになってそれがよくないと気づいたまでのことです。」

夾注 1

《陸玩別傳》曰:「玩字士瑤,呉郡呉人。祖瑁,父英,仕郡有譽。玩器量淹雅,累遷侍中、尚書左僕射、尚書令,贈太尉。」

『陸玩別伝』に「陸玩は字は士瑤、呉郡呉の人である。祖父の陸瑁、父の陸英は郡に仕えて誉れがあった。陸玩は器量が広く上品で、次々に昇って侍中・尚書左僕射・尚書令に至り、太尉を贈られた」とある。

14公が事をなおざりにされたことを、天下もまた正しいとはしませんでした

丞相嘗夏月至石頭看庾公。庾公正料事,丞相云:「暑可小簡之。」庾公曰:「公之遺事,天下亦未以爲允。」

丞相はあるとき、夏の月に石頭へ行って庾公に会った。庾公はちょうど事務を処理していたので、丞相は言った。「暑いのだから、少し手を抜いてもよいでしょう。」

庾公は言った。「公が事をなおざりにされたことを、天下もまた正しいとはしませんでした。」

夾注 1

《殷羡言行》曰:「王公薨後,庾冰代相,網密刑峻。羡時行,遇收捕者於途,慨然歎曰:『丙吉問牛喘,似不爾!』嘗從容謂冰曰:『卿輩自是網目不失,皆是小道小善耳。至如王公,故能行無理事。』謝安石毎歎詠此唱。庾赤玉曾問羡:『王公治何似?詎是所長?』羡曰:『其餘令績,不復稱論。然三捉三治,三休三敗。』」

『殷羨言行』に「王公が亡くなったのち、庾冰が代わって宰相となり、法の網は細かく刑は厳しかった。殷羨はそのころ出歩いていて、道で捕らえられていく者に出会い、憤って『丙吉が牛の喘ぎを尋ねたのは、こうではなかったようだ』と嘆いた。あるときくつろいだ折に庾冰に向かって『あなた方は確かに網の目を漏らさないが、みな小さな道、小さな善にすぎません。王公のような人になると、わざと理に合わぬ事も行うことができました』と言った。謝安石はいつもこの言葉を嘆じて口にした。庾赤玉がかつて殷羨に『王公の政治はどうであったか。どこが優れていたのか』と尋ねると、殷羨は『そのほかのよい功績は、あらためて論じ立てはしません。しかし三度取り上げて三度治め、三度やめて三度崩しました』と言った」とある。

15人はわたしを愚かだと言うが、後の人はきっとこの愚かさを慕うだろう

丞相末年,略不復省事,正封籙諾之。自嘆曰:「人言我憒憒,後人當思此憒憒。」

丞相は晩年、ほとんど事務を省みることをせず、ただ封をして上げてきたものに「よし」と言うだけであった。

自ら嘆いて言った。「人はわたしを愚かだと言うが、後の人はきっとこの愚かさを慕うだろう。」

夾注 1

徐廣《歴紀》曰:「導阿衡三世,經綸夷險,政務寬恕,事從簡易,故垂遺愛之譽也。」

徐広の『歴紀』に「王導は三代にわたって阿衡の任にあり、平らかなときも険しいときも世を治め、政務を寛容と許しによって行い、事を簡素と容易さに従わせたので、残した慈愛の誉れを後に垂れた」とある。

16陶公がおがくずと竹の根を蓄えておく

陶公性檢厲,勤於事。作荊州時,敕船官悉録鋸木屑,不限多少,咸不解此意。後正會,値積雪始晴,聽事前除雪後猶濕,於是悉用木屑覆之,都無所妨。官用竹,皆令録厚頭,積之如山。後桓宣武伐蜀,裝船,悉以作釘。又云:嘗發所在竹篙,有一官長連根取之,仍當足,乃超兩階用之。

陶公は性質が引き締まって厳しく、事務に勤勉であった。

荊州にいたとき、船を預かる役人におがくずをすべて書き留めて集めさせ、多い少ないを問わなかったので、だれもその意図がわからなかった。のちに正月の朝賀のとき、ちょうど積もった雪が晴れたばかりで、庁舎の前の庭が雪のあとでまだ湿っていた。そこですべておがくずを使って覆ったので、まったく妨げがなかった。

官で竹を使うときには、いつも厚い根を書き留めて取っておかせ、積み上がったものが山のようであった。のちに桓宣武が蜀を討つとき、船を仕立てるのに、すべてこれで釘を作った。

また、こうも言う。かつてその地の竹の竿を出させたとき、ある役人が根ごと抜いて取り、そのまま足に用いたので、二階級を飛び越して登用したという。

夾注 1

《晉陽秋》曰:「侃練核庶事,勤務稼穡,雖戎陳武士,皆勸厲之。有奉饋者,皆問其所由。若力役所致,懽喜慰賜;若他所得,則呵辱還之。是以軍民勤於農稼,家給人足。性纖密好問,頗類趙廣漢。嘗課營種柳,都尉夏施盜拔武昌郡西門所種。侃後自出,駐車施門,問:『此是武昌西門柳,何以盜之?』施惶怖首伏,三軍稱其明察。侃勤而整,自強不息。又好督勸於人,常云:『民生在勤,大禹聖人,猶惜寸陰,至於凡俗,當惜分陰。豈可遊逸,生無益於時,死無聞於後,是自棄也。又老莊浮華,非先王之法言而不敢行。君子當正其衣冠,攝以威儀,何有亂頭養望,自謂宏達邪?』」《中興書》曰:「侃嘗檢校佐吏,若得樗蒲博弈之具,投之曰:『樗蒲,老子入胡所作,外國戲耳。圍棋,堯舜以教愚子。博弈,紂所造。諸君國器,何以爲此?若王事之暇,患邑邑者,文士何不讀書?武士何不射弓?』談者無以易也。」

『晋陽秋』に「陶侃はもろもろの事務に習熟して見極め、農事に力を入れ、たとえ戦陣の武士であっても、みなこれを勧め励ました。献上する者があれば、いつもその由来を尋ね、もし自分が働いて得たものであれば喜んで労い与え、もしほかから得たものであれば、叱りはずかしめて返した。そのため軍人も民も農事に勤勉で、家も人も足りていた。性質は細やかで問うことを好み、かなり趙広漢に似ていた。かつて陣営に柳を植えることを課したが、都尉の夏施が武昌郡の西門に植えたものを盗んで抜いた。陶侃はのちに自ら出かけ、夏施の門前に車を止めて『これは武昌の西門の柳である。どうして盗んだのか』と尋ねると、夏施は恐れて自白し、三軍はその明察を称えた。陶侃は勤勉で整っており、自ら努めて休まなかった。また人を督励するのを好み、いつも『民の生は勤勉にある。大禹は聖人であってもなお一寸の光陰を惜しんだ。普通の人であれば、一分の光陰を惜しむべきである。どうして遊び怠けて、生きて時の役に立たず、死んで後に名が聞こえないままでいられよう。それは自分を捨てるものだ。また老子荘子は浮かれた華やかさで、先王の法にかなった言葉ではないから、あえて行わない。君子は衣冠を正し、威儀をもって身を引き締めるべきである。どうして髪を乱したまま評判ばかりを養い、自分は広く通達していると言えようか』と言った」とある。『中興書』に「陶侃はかつて補佐の役人を調べ、もし樗蒲や囲碁の道具を見つけると、それを投げ捨てて『樗蒲は老子が胡の地に入って作ったもので、外国の遊びにすぎない。囲碁は堯舜が愚かな子を教えるために作ったものだ。博打は紂が作ったものだ。諸君は国の器であるのに、どうしてこんなことをするのか。もし公務の合間に気が晴れないのを気にするなら、文の士はなぜ書を読まないのか。武の士はなぜ弓を射ないのか』と言った。議論する者も、これを言い換えようがなかった」とある。

17郭林宗のような門番を得られるなら

何驃騎作會稽,虞存弟謇作郡主簿,以何見客勞損,欲白斷常客,使家人節量,擇可通者作白事成,以見存。存時爲何上佐,正與謇共食,語云:「白事甚好,待我食畢作教。」食竟,取筆題白事後云:「若得門庭長如郭林宗者,當如所白。汝何處得此人?」謇於是止。

何驃騎が会稽を治めていたとき、虞存の弟の虞謇が郡の主簿となったが、何驃騎が客に会うことで疲れ傷むのを見て、普通の客を断ることを申し上げ、家の者に見計らって通してよい者を選ばせようとした。申し上げる文を作り、虞存に見せた。

虞存はそのとき何驃騎の上佐であったが、ちょうど虞謇と食事をともにしていて言った。「申し上げる文はたいへんよい。わたしが食べ終わるのを待って、返事を書こう。」

食事を終えると、筆を取って文の後ろに書いた。「もし郭林宗のような門番を得られるなら、申し上げるとおりにしよう。お前はどこでそんな人を手に入れるのか。」

虞謇はそこでやめた。

夾注 3

《晉陽秋》曰:「何充字次道,廬江人。思韻淹通,有文義才情。累遷會稽内史、侍中、驃騎將軍、揚州刺史。贈司徒。」

『晋陽秋』に「何充は字は次道、廬江の人である。思いと響きが深く通じ、文のこころと才気があった。次々に昇って会稽内史・侍中・驃騎将軍・揚州刺史に至り、司徒を贈られた」とある。

《孫統存誄敘》曰:「存字道長,會稽山陰人也。祖陽,散騎常侍。父偉,州西曹。存幼而卓拔,風情髙逸,歴衞軍長史、尚書吏部郎。」范汪《棋品》曰:「謇字道眞,仕至郡功曹。」

孫統の「存誄序」に「虞存は字は道長、会稽山陰の人である。祖父の虞陽は散騎常侍、父の虞偉は州の西曹であった。虞存は幼くして抜きんでており、風情が高く世俗を離れていて、衛軍長史・尚書吏部郎を歴任した」とある。范汪の『棋品』に「虞謇は字は道真、官は郡の功曹に至った」とある。

《泰別傳》曰:「泰字林宗,有人倫鑒識。題品海内之士,或在幼童,或在里肆,後皆成英彦六十餘人。自著書一巻,論取士之本,未行,遭亂亡失。」

『泰別伝』に「郭泰は字は林宗、人を見分ける眼識があった。天下の士を品定めしたが、幼い子どもであった者も、町の店先にいた者も、のちにみなすぐれた人物となったのが六十人あまりであった。自ら書一巻を著して士を取る根本を論じたが、世に出す前に乱に遭って失われた」とある。

18わたしがこれを見なければ、君たちは何によって生きていけるのか

王劉與深公共看何驃騎,驃騎看文書不顧之。王謂何曰:「我今故與深公來相看,望卿擺撥常務,應對共言,哪得方低頭看此邪?」何曰:「我不看此,卿等何以得存?」諸人以爲佳。

王濛と劉惔が深公とともに何驃騎に会いに行ったが、驃騎は文書を見ていて彼らを振り向きもしなかった。

王濛が何驃騎に言った。「わたしは今日わざわざ深公とともにお目にかかりに来たのです。あなたが日ごろの務めを押しのけて、応対してともに語ってくださるのを望んでいました。どうしてちょうど頭を下げてそれを見ておられるのか。」

何驃騎が言った。「わたしがこれを見なければ、君たちは何によって生きていけるのか。」

人々はよい言葉だとした。

夾注 1

《晉陽秋》曰:「何充與王濛、劉惔好尚不同,由此見譏於當世。」

『晋陽秋』に「何充は王濛・劉惔と好み尊ぶところが同じでなかったため、これによって当時の世から謗られた」とある。

19わたしはそれでも重すぎるのではないかと心配している

桓公在荊州,全欲以德被江漢,恥以威刑肅物。令史受杖,正從朱衣上過。桓式年少,從外來,云:「向從閣下過,見令史受杖,上捎雲根,下拂地足。」意譏不著。桓公云:「我猶患其重。」

桓公が荊州にいたとき、もっぱら徳を長江と漢水の地に及ぼそうとし、威厳と刑罰で人や物を引き締めるのを恥とした。令史が杖で打たれるときも、ただ赤い衣の上をかすめて過ぎるだけであった。

桓式は年が若かったが、外から来て言った。「さきほど役所の下を通って、令史が杖を受けるのを見ましたが、上は雲の根をかすめ、下は地面をはたくばかりでした。」

当たっていないと謗るつもりであった。

桓公が言った。「わたしはそれでも重すぎるのではないかと心配している。」

夾注 2

《温別傳》曰:「温以永和元年自徐州遷荊州刺史,在州寬和,百姓安之。」

『温別伝』に「桓温は永和元年に徐州から荊州刺史に移ったが、州にあって寛やかで和やかであったので、民はこれを安らかに思った」とある。

式,桓歆小字也。《桓氏譜》曰:「歆字叔道,温第三子,仕至尚書。」

式は桓歆の幼名である。『桓氏譜』に「桓歆は字は叔道、桓温の第三子で、官は尚書に至った」とある。

20一日に万の事があるのに、どうして速くできようか

簡文爲相,事動經年,然後得過。桓公甚患其遲,常加勸免。太宗曰:「一日萬機,那得速!」

簡文帝が宰相であったとき、事が動き出すと年を越してからようやく通るようになった。桓公はその遅さをひどく気にして、いつも励まし勧めた。

太宗は言った。「一日に万の事があるのに、どうして速くできようか。」

夾注 1

《尚書·皋陶謨》:「一日萬機。」孔安國曰:「幾,微也。言當戒懼萬事之微。」

『尚書・皋陶謨』に「一日に万機」とある。孔安国は「幾は微ということである。万事の微細なきざしを戒め恐れるべきだと言ったのである」と言った。

21厳しい政治のあとを受け継ぐのですから、和やかさと静けさによって治められるでしょう

山遐去東陽,王長史就簡文索東陽云:「承藉猛政,故可以和靜致治。」

山遐が東陽を去ると、王長史は簡文帝に東陽の任を願って言った。「厳しい政治のあとを受け継ぐのですから、わざわざ和やかさと静けさによって治めを成すことができるでしょう。」

夾注 1

《東陽記》云:「遐字彦林,河内人。祖濤,司徒。父簡,儀同三司。遐歴武陵王友、東陽太守。」《江惇傳》曰:「山遐爲東陽,風政嚴苛,多任刑殺,郡内苦之。惇隱東陽,以仁恕懷物,遐感其德,爲微損威猛。」

『東陽記』に「山遐は字は彦林、河内の人である。祖父の山濤は司徒、父の山簡は儀同三司であった。山遐は武陵王の友・東陽太守を歴任した」とある。「江惇伝」に「山遐が東陽を治め、その風儀と政治は厳しく苛烈で、しばしば刑罰と処刑に任せたので、郡の内は苦しんだ。江惇は東陽に隠れ住み、仁と寛恕によって人を包んだので、山遐はその徳に感じ、威厳と厳しさを少し和らげた」とある。

22刺史が厳しいので、夜道を行く勇気がないのだ

殷浩始作揚州,劉尹行,日小欲晩,便使左右取襆,人問其故?荅曰:「刺史嚴,不敢夜行。」

殷浩が初めて揚州刺史となったとき、劉尹が出歩いていて、日が少し暮れかかると、すぐ側の者に包みを取ってこさせた。

人々がその理由を尋ねると、答えた。「刺史が厳しいので、夜道を行く勇気がないのだ。」

夾注 1

《浩別傳》曰:「浩字淵源,陳郡長平人。祖識,濮陽相。父羡,光祿勳。浩少有重名,仕至揚州刺史、中軍將軍。」《中興書》曰:「建元初,庾亮兄弟、何充等相尋薨,太宗以撫軍輔政,徴浩爲揚州,從民譽也。」

『浩別伝』に「殷浩は字は淵源、陳郡長平の人である。祖父の殷識は濮陽相、父の殷羨は光禄勲であった。殷浩は若くして重い名声があり、官は揚州刺史・中軍将軍に至った」とある。『中興書』に「建元のはじめ、庾亮の兄弟や何充らが相次いで亡くなったので、太宗は撫軍将軍として政を助け、殷浩を揚州に召した。民の評判に従ったのである」とある。

23この連中を置いておけないなら、何をもって都と言えるのか

謝公時,兵厮逋亡,多近竄南塘,下諸舫中。或欲求一時搜索,謝公不許,云:「若不容置此輩,何以爲京都?」

謝公のころ、兵士や召使いが逃げ隠れることが多く、たいてい近くの南塘に隠れ、さまざまな舟の中へ下りていった。

ある者が一度に捜索することを願い出たが、謝公は許さずに言った。「もしこの連中を置いておけないなら、何をもって都と言えるのか。」

夾注 1

《續晉陽秋》曰:「自中原喪亂,民離本域,江左造創,豪族併兼,或客寓流離,名籍不立。太元中,外禦強氐,蒐簡民實,三呉頗加澄檢,正其里伍。其中時有山湖遁逸,往來都邑者。後將軍安方接客,時人有於坐言:『宜糾舍藏之失者。』安毎以厚德化物,去其煩細。又以強寇入境,不宜加動人情。乃答之云:『卿所憂,在於客耳!然不爾,何以爲京都?』言者有慚色。」

『続晋陽秋』に「中原が崩れ乱れてから、民はもとの土地を離れ、江左が新たに築かれると、豪族が併せ呑み、あるいは寄寓して流れ離れ、名も戸籍も立たなかった。太元のころ、外に強い氐を防ぎながら民の実情を調べ上げたが、三呉ではかなり清らかに点検して、その村組を正した。その中には、ときに山や湖に隠れ住みながら都を往き来する者があった。後将軍の謝安がちょうど客を迎えていたとき、その場にいた当時の人の中に『かくまい隠した落ち度を正すべきです』と言う者があった。謝安はいつも厚い徳によって人を感化し、煩わしく細かなことを取り除いていた。また強い敵が境内に入っているので、人心を揺り動かすべきではないと考えた。そこで答えて『あなたが心配しているのは寄寓の者のことだけだ。しかしそうでなければ、何をもって都と言えるのか』と言うと、言った者は恥じた顔色をした」とある。

24王僧弥が自分の考えで半ばほどを改める

王大爲吏部郎,嘗作選草,臨當奏,王僧彌來,聊出示之。僧彌得便以己意改易所選者近半,王大甚以爲佳,更寫即奏。

王大が吏部郎となり、あるとき人選の草案を作ったが、奏上しようとするころに王僧弥が来たので、ちょっと取り出して見せた。

僧弥はそれを手にすると、すぐ自分の考えで、選ばれた者の半ばほどを改め変えた。王大はたいへんよいと思い、書き直してすぐ奏上した。

夾注 2

王忱已見。

王忱については、すでに見える。

僧彌,王珉小字也。《珉別傳》曰:「珉字季琰,琅邪人,丞相導孫,中領軍洽少子。有才蓺,善行書,名出兄珣右,累遷侍中、中書令。贈太常。」

僧弥は王珉の幼名である。『珉別伝』に「王珉は字は季琰、琅邪の人で、丞相王導の孫、中領軍王洽の末子である。才と技があり、行書をよく書き、名は兄の王珣の上に出て、次々に昇って侍中・中書令に至った。太常を贈られた」とある。

25ただ張祖希との情が日ごとに厚くなるばかりだ

王東亭與張冠軍善。王既作呉郡,人問小令曰:「東亭作郡,風政何似?」答曰:「不知治化何如,唯與張祖希情好日隆耳。」

王東亭は張冠軍と仲がよかった。王東亭が呉郡を治めることになると、人々が小令に尋ねた。「東亭が郡を治めているが、その風儀と政治はどうか。」

答えて言った。「治めと教化がどうであるかは知らないが、ただ張祖希との情が日ごとに厚くなるばかりだ。」

夾注 2

張玄已見。

張玄については、すでに見える。

《續晉陽秋》曰:「王獻之爲中書令,王珉代之,時人曰『大小王令』。」

『続晋陽秋』に「王献之が中書令となり、王珉がこれに代わったので、当時の人は『大小の王令』と言った」とある。

26皋陶は刑罰の制度を作りましたが、賢くないとはされません

殷仲堪當之荊州,王東亭問曰:「德以居全爲稱,仁以不害物爲名。方今宰牧華夏,處殺戮之職,與本操將不乖乎?」殷答曰:「皋陶造刑辟之制,不爲不賢;孔丘居司寇之任,未爲不仁。」

殷仲堪が荊州へ赴こうとしたとき、王東亭が尋ねた。「徳は全きところに身を置くことをもって称とし、仁は物を害さないことをもって名とします。いま華夏を治め、人を殺す職に身を置かれることになりますが、もともと守ってこられたものと食い違わないでしょうか。」

殷仲堪が答えた。「皋陶は刑罰の制度を作りましたが、賢くないとはされません。孔丘は司寇の任にありましたが、仁がないとはされません。」

夾注 2

《古史考》曰:「庭堅號曰皋陶,舜謀臣也。舜舉之於堯,堯令作士,主刑。」

『古史考』に「庭堅は号を皋陶といい、舜の謀臣である。舜が彼を堯に推挙すると、堯は士とならせて刑罰を司らせた」とある。

《家語》曰:「孔子自魯司空爲大司寇,三日而誅亂法大夫少正卯。」

『家語』に「孔子は魯の司空から大司寇となり、三日で法を乱した大夫の少正卯を誅した」とある。