雅量世説新語 雅量第六
1爪で手のひらを押しつけ、血が敷布団を濡らした
豫章太守顧邵,是雍之子。邵在郡卒,雍盛集僚屬,自圍棊。外啓信至,而無兒書,雖神氣不變,而心了其故。以爪掐掌,血流沾褥。賓客既散,方嘆曰:「已無延陵之髙,豈可有喪明之責?」於是豁情散哀,顏色自若。
豫章太守の顧邵は、顧雍の子である。
顧邵が任地で亡くなったとき、顧雍は属官たちを大勢集めて、自分は碁を打っていた。外から知らせが届いたと申し上げてきたが、息子の手紙がなかったので、顔つきや気配は変わらなかったものの、心の中でその理由を悟った。爪で手のひらを押しつけ、血が流れて敷布団を濡らした。
客が散ってからようやく嘆いて言った。「もともと延陵季子のような高さはないのだから、どうして目を失ったという責めまで受けられよう。」
そして心を開いて哀しみを散らし、顔色は平然としていた。
夾注 3
環濟《呉紀》曰:「邵字孝則,呉郡人。年二十七起家爲豫章太守,舉善以教民,風化大行。」
環済の『呉紀』に言う。「顧邵は字は孝則、呉郡の人である。二十七歳で仕え始めて豫章太守となり、善いことを取り上げて民を教えたので、風儀の改まりが大いに行き渡った。」
《江表傳》曰:「雍字元歎,曾就蔡伯喈,伯喈賞異之,以其名與之。」《呉志》曰:「雍累遷尚書令,封陽遂鄕侯,拜侯還第,家人不知。爲人不飲酒,寡言語。孫權嘗曰:『顧侯在坐,令人不樂。』位至丞相。」
『江表伝』に言う。「顧雍は字は元歎である。かつて蔡伯喈のもとで学んだが、伯喈は褒めて格別に思い、自分の名を彼に与えた。」『呉志』に言う。「顧雍は官を重ねて尚書令に至り、陽遂郷侯に封じられたが、侯に任じられて家に帰っても、家の者は知らなかった。人柄は酒を飲まず、言葉が少なかった。孫権はかつて『顧侯が席にいると、人を楽しくなくさせる』と言った。位は丞相に至った。」
《禮記》曰:「延陵季子適齊,及其反也,其長子死,葬於嬴博之閒。孔子曰:『延陵季子,呉之習於禮者也。』往而觀其葬焉。其坎深不至於泉,其斂以時服。既葬而封,廣輪掩坎,其髙可隱也。既封,左袒,右還其封,且號者三,曰:『骨肉歸復於土,命也。若魂氣,則無不之也。』而遂行。孔子曰:『延陵季子之於禮也,其合矣乎!』子夏哭其子而喪其明,曾子弔之,曰:『朋友喪明則哭之。』曾子哭,子夏亦哭,曰:『天乎!予之無罪也。』曾子怒曰:『商,汝何無罪也?吾與汝事夫子於洙泗之間,退而老於西河之上,使西河之民,疑汝於夫子,爾罪一也。喪爾親,使民未有聞焉,爾罪二也。喪爾子,喪爾明,爾罪三也。』子夏投其杖而拜曰:『吾過矣!吾過矣!』」
『礼記』に言う。「延陵季子が斉に行き、帰る途中になって、その長男が死んだので、嬴と博の間に葬った。孔子は『延陵季子は、呉で礼に通じた人である』と言われ、行ってその葬りをご覧になった。その穴の深さは泉には達せず、その納棺は季節の衣で行った。葬ってから封を盛ったが、幅も長さも穴を覆うだけで、その高さは寄りかかれるほどであった。封を終えると、左の肩を脱ぎ、右回りにその封を回りながら、三度声を挙げて言った。『骨肉が土に帰るのは運命である。魂の気となれば、行かないところはない。』そしてそのまま去った。孔子は『延陵季子は礼について、かなっていたな』と言われた。子夏が自分の子を哭して目を失うと、曾子は弔いに行き、『友が目を失えば、これを哭するものだ』と言った。曾子が哭すると、子夏もまた哭して、『天よ、わたしに罪はありません』と言った。曾子は怒って言った。『商よ、お前にどうして罪がないのか。わたしはお前とともに洙水と泗水の間で先生にお仕えしたが、退いて西河のほとりで老い、西河の民にお前を先生かと疑わせた。これがお前の罪の一つだ。親の喪に際して、民に何も聞こえるところがなかった。これがお前の罪の二つだ。子の喪に際して、お前の目を失った。これがお前の罪の三つだ。』子夏はその杖を投げ出して拝礼し、『わたしが過った。わたしが過った』と言った。」
2『広陵散』は今、絶えてしまうのだな
嵇中散臨刑東市,神氣不變。索琴彈之,奏《廣陵散》。曲終,曰:「袁孝尼嘗請學此散,吾靳,固不與,《廣陵散》於今絶矣!」太學生三千人上書,請以爲師,不許。文王亦尋悔焉。
嵇中散が東の市で刑に臨んだが、顔つきや気配は変わらなかった。
琴を求めて弾き、『広陵散』を奏した。曲が終わると言った。「袁孝尼がかつてこの散を学びたいと願ったが、わたしは惜しんで、どうしても与えなかった。『広陵散』は今、絶えてしまうのだな。」
太学の学生三千人が上書して、彼を師とすることを願ったが、許されなかった。文王も後になって悔いた。
夾注 2
《晉陽秋》曰:「初,康與東平呂安親善。安嫡兄遜淫安妻徐氏,安欲告遜遣妻,以咨於康,康喩而抑之。遜内不自安,陰告安撾母,表求徙邊。安當徙,訴自理,辭引康。」《文士傳》曰:「呂安罹事,康詣獄以明之。鍾會庭論康,曰:『今皇道開明,四海風靡,邊鄙無詭隨之民,街巷無異口之議。而康上不臣天子,下不事王侯,輕時傲世,不爲物用,無益於今,有敗於俗。昔太公誅華士,孔子戮少正卯,以其負才亂群惑衆也。今不誅康,無以淸潔王道。』於是録康閉獄,臨死,而兄弟親族咸與共別。康顏色不變,問其兄曰:『向以琴來不邪?』兄曰:『以來。』康取調之,爲《太平引》,曲成,歎曰:『《太平引》於今絶也!』」
『晋陽秋』に言う。「はじめ、嵇康は東平の呂安と親しく仲が良かった。呂安の嫡兄の呂遜が呂安の妻の徐氏を犯したので、呂安は呂遜を訴えて妻を離縁しようとし、嵇康に相談したが、嵇康は言い聞かせて抑えた。呂遜は内心落ち着かず、ひそかに呂安が母を打ったと訴え、上表して辺境へ移すよう求めた。呂安が移されることになり、訴え出て自分の筋を明かしたが、その言葉が嵇康を引き込んだ。」『文士伝』に言う。「呂安が事件に巻き込まれると、嵇康は獄に出向いてこれを明かそうとした。鍾会は朝廷で嵇康を論じて言った。『今、帝の道は開けて明るく、四海は風に靡くようであって、辺りの地には偽って従う民もなく、街や巷には異なる口の議論もありません。ところが嵇康は上は天子に臣として仕えず、下は王侯に仕えず、時代を軽んじ世を侮って、世の用に立たず、今に益がなく、風俗を損なうところがあります。昔、太公が華士を誅し、孔子が少正卯を殺したのは、才を負って群れを乱し人々を惑わしたからです。今、嵇康を誅さなければ、王の道を清く潔くすることはできません。』そこで嵇康を記録して獄に閉じ込めた。死に臨んで、兄弟や近い一族がみな一緒に別れを告げた。嵇康は顔色を変えず、その兄に尋ねた。『さきほど、琴を持って来ませんでしたか。』兄は『持って来た』と言った。嵇康は手に取って調え、『太平引』を奏し、曲が出来上がると嘆いて言った。『「太平引」は今、絶えてしまうのだな。』」
王隱《晉書》曰:「康之下獄,太學生數千人請之,於時豪俊皆隨康入獄,悉解喩,一時散遣。康竟與安同誅。」
王隠の『晋書』に言う。「嵇康が獄に下されると、太学の学生数千人が彼のことを願い出て、そのとき傑出した者たちがみな嵇康に従って獄に入ろうとしたので、すべて言い聞かせて、一度に散り散りに帰らせた。嵇康はついに呂安とともに誅された。」
3雷が寄りかかっていた柱を砕いても、顔色が変わらなかった
夏侯太初嘗倚柱作書。時大雨,霹靂破所倚柱,衣服焦然,神色無變,書亦如故。賓客左右,皆跌蕩不得住。
夏侯太初がかつて柱にもたれて字を書いていた。
そのとき大雨が降り、雷が寄りかかっていた柱を砕いて衣服が焦げたが、顔つきも気配も変わらず、字もいつもどおりであった。
客も側近も、みな転んだり揺らいだりして立っていられなかった。
夾注 1
見顧愷之《書贊》。《語林》曰:「太初從魏帝拜陵,陪列於松柏下。時暴雨霹靂,正中所立之樹。冠冕焦壞,左右睹之皆伏,太初顏色不改。」臧榮緒又以爲諸葛誕也。
顧愷之の『画賛』に見える。『語林』に言う。「太初が魏の帝に従って陵に拝礼し、松と柏の下に列に並んで控えていた。そのとき激しい雨の中、雷がちょうど立っていた場所の木に落ちた。冠と冕は焦げて崩れ、側近たちはそれを見てみな伏せたが、太初は顔色を変えなかった。」臧栄緒はまた、諸葛誕のことだとしている。
4道端にあって実が多いのだから、これはきっと苦い李だ
王戎七歳,嘗與諸小兒遊,看道邊李樹多子折枝,諸兒競走取之,唯戎不動。人問之,答曰:「樹在道邊而多子,此必苦李。」取之信然。
王戎が七歳のとき、かつて何人かの子供たちと遊んでいて、道端の李の木に実が多くて枝がたわんでいるのを見た。
子供たちは争って走って取りに行ったが、王戎だけは動かなかった。
人々が尋ねると、答えた。「木が道端にあって実が多い。これはきっと苦い李だ。」
取ってみると、本当にそうであった。
夾注 1
《名士傳》曰:「戎由是幼有神理之稱也。」
『名士伝』に言う。「王戎はこれによって、幼くして神妙な理をわきまえているという評判が立った。」
5虎が欄をつかんで吼えても、静かなまま動かなかった
魏明帝於宣武塲上斷虎爪牙,縱百姓觀之。王戎七歳,亦往看。虎承閒攀欄而吼,其聲震地,觀者無不辟易顛仆;戎湛然不動,了無恐色。
魏の明帝が宣武場で虎の爪と牙を切り、民にこれを見せた。
王戎は七歳で、やはり行って見た。虎が隙をついて欄をつかんで吼えると、その声は地を震わせ、見ていた者は退いてひっくり返らない者がなかった。
王戎は静かなまま動かず、まったく恐れる顔色がなかった。
夾注 1
《竹林七賢論》曰:「明帝自閣上望見,使人問戎姓名而異之。」
『竹林七賢論』に言う。「明帝は楼の上から見ていて、人をやって王戎の姓名を尋ね、彼を格別に思った。」
6王戎は受け取らないまま、その手紙には丁寧に返事をした
王戎爲侍中,南郡太守劉肇遺筒中牋布五端,戎雖不受,厚報其書。
王戎が侍中であったとき、南郡太守の劉肇が筒に入った上質の布五疋を贈った。
王戎は受け取らなかったが、その手紙には丁寧に返事をした。
夾注 1
《晉陽秋》曰:「司隸校尉劉毅奏:『南郡太守劉肈以布五十疋雜物遺前豫州刺史王戎,請檻車徴付廷尉治罪,除名終身。』戎以書未達,不坐。」《竹林七賢論》曰:「戎報肈書,議者僉以爲譏。世祖患之,乃發口詔曰:『以戎之爲士,義豈懷私?』」議者乃息,戎亦不謝。」
『晋陽秋』に言う。「司隷校尉の劉毅が上奏した。『南郡太守の劉肇が布五十疋と雑物を前の豫州刺史王戎に贈りました。檻車で召し出して廷尉に付して罪を裁き、名を除いて一生仕えられぬようにすることを願います。』王戎は手紙が届いていなかったとして、罪に当たらなかった。」『竹林七賢論』に言う。「王戎が劉肇に返事をした手紙について、議する者はみな謗りに当たると考えた。世祖はこれを気にかけて、口頭の詔を出して『王戎の士としてのあり方からして、義においてどうして私心を抱くことがあろうか』と言ったので、議する者はそこでやみ、王戎も謝らなかった。」
7裴叔則は捕らえられても立ち居振る舞いが平然としていた
裴叔則被收,神氣無變,舉止自若。求紙筆作書。書成,救者多,乃得免。後位儀同三司。
裴叔則が捕らえられたとき、顔つきも気配も変わらず、立ち居振る舞いが平然としていた。
紙と筆を求めて書状を作り、書状が出来上がると、救おうとする者が多く、それで免れることができた。後に位は儀同三司に至った。
夾注 1
《晉諸公贊》曰:「楷息瓚,取楊駿女。駿誅,以相婚黨,收付廷尉。侍中傅祗證楷素意,由此得免。」《名士傳》曰:「楚王之難,李肇惡楷名重,收將害之。楷神色不變,舉動自若,諸人請救,得免。」《晉陽秋》曰:「楷與王戎倶加儀同三司。」
『晋諸公賛』に言う。「裴楷の子の裴瓚が楊駿の娘を迎えた。楊駿が誅されると、縁組した仲間だということで捕らえて廷尉に付した。侍中の傅祗が裴楷のもともとの意を証言したので、これによって免れることができた。」『名士伝』に言う。「楚王の難のとき、李肇は裴楷の名が重いことを憎み、捕らえて害そうとした。裴楷は顔つきも顔色も変わらず、振る舞いが平然としていたが、人々が救いを願って、免れることができた。」『晋陽秋』に言う。「裴楷は王戎とともに儀同三司を加えられた。」
8わたしの眼の光を見てくれ。これが牛の背の上まで届くのだ
王夷甫嘗屬族人事,經時未行,遇於一處飲燕,因語之曰:「近屬尊事,那得不行?」族人大怒,便舉樏擲其面。夷甫都無言,盥洗畢,牽王丞相臂,與共載去。在車中照鏡語丞相曰:「汝看我眼光,迺出牛背上。」
王夷甫がかつて一族の者に用事を頼んだが、時が経っても果たされなかった。
ある所で飲み会をしているときに出会ったので、そこで彼に言った。「このところあなたに用事を頼んだのに、どうして果たしてくれないのか。」
一族の者は大いに怒り、すぐに重箱を取り上げてその顔に投げつけた。
夷甫はまったく何も言わず、洗い終えると、王丞相の腕を引いて、一緒に車に乗って帰った。
車の中で鏡に映して見ながら、丞相に言った。「君、わたしの眼の光を見てくれ。これが牛の背の上まで届くのだ。」
夾注 1
王夷甫蓋自謂風神英俊,不至與人校。
王夷甫は、おおかた自分では風格と気の持ちようが抜きんでて秀でており、人と張り合うには及ばないと思っていたのである。
9ただ、暗いままに受け止めたというだけです
裴遐在周馥所,馥設主人。遐與人圍棊,馥司馬行酒。遐正戲,不時爲飲。司馬恚,因曳遐墜地。遐還坐,舉止如常,顏色不變,復戲如故。王夷甫問遐:「當時何得顏色不異?」答曰:「直是闇當故耳。」
裴遐が周馥のところにいたとき、周馥が主人役を務めていた。
裴遐が人と碁を打っていると、周馥の司馬が酒を回した。裴遐はちょうど打っているところで、すぐには飲まなかった。
司馬は腹を立て、そこで裴遐を引きずって地面に落とした。裴遐は席に戻ったが、立ち居振る舞いはいつもどおりで、顔色も変わらず、また元のように打った。
王夷甫が裴遐に尋ねた。「あのとき、どうして顔色が変わらずにいられたのか。」
答えた。「ただ、暗いままに受け止めたというだけです。」
夾注 2
鄧粲《晉紀》曰:「馥字祖宣,汝南人。代劉淮爲鎭東將軍,鎭壽陽。移檄四方,欲奉迎天子。元皇使甘卓攻之,馥出奔,道卒。」
鄧粲の『晋紀』に言う。「周馥は字は祖宣、汝南の人である。劉淮に代わって鎮東将軍となり、寿陽に鎮した。四方に檄を回して、天子を奉じて迎えようとした。元皇帝が甘卓に彼を攻めさせると、周馥は逃げ出し、道中で死んだ。」
一作「闇故當耳」。一作「眞是鬥將故耳」。
ある本には「暗いゆえに受け止めたというだけです」とあり、ある本には「まことに戦う将であるゆえだけです」とある。
10小人の思惑で君子の心を測った、というものだな
劉慶孫在太傅府,於時人士,多爲所構。唯庾子嵩縱心事外,無迹可閒。後以其性儉家富,説太傅令換千萬,冀其有吝,於此可乘。太傅於衆坐中問庾,庾時頽然已醉,幘墜几上,以頭就穿取,徐答云:「下官家故可有兩娑千萬,隨公所取。」於是乃服。後有人向庾道此,庾曰:「可謂以小人之慮,度君子之心。」
劉慶孫が太傅の府にいたとき、当時の人士は多くが彼に仕組まれて落とされた。ただ庾子嵩だけは心を世事の外に放っていて、付け入る隙となる痕がなかった。
後に、その性質が倹しく家が富んでいることにつけ込み、太傅に千万を融通させるよう持ちかけ、彼が惜しむのを期して、それで付け入れると考えた。
太傅が大勢の席の中で庾子嵩に尋ねると、庾子嵩はそのときぐったりとすでに酔っていて、頭巾が机の上に落ちていたが、頭をそこへ当ててかぶり直し、ゆっくり答えた。「下官の家には、ちょうど二口ばかりの千万がございます。公のお取りになるままにいたしましょう。」
そこで相手は屈服した。
後にある人が庾子嵩にこのことを話すと、庾子嵩は言った。「小人の思惑で君子の心を測った、というものだな。」
夾注 1
《晉陽秋》曰:「劉輿字慶孫,中山人。有豪俠才算,善交結。爲范陽王虓所暱,虓薨,太傅召之,大相委仗,用爲長史。」《八王故事》曰:「司馬越字元超,髙密王泰長子。少尚布衣之操,爲中外所歸。累遷司空、太傅。」
『晋陽秋』に言う。「劉輿は字は慶孫、中山の人である。義侠の才と計算があり、人と交わり結ぶのが上手であった。范陽王司馬虓に親しくされ、司馬虓が亡くなると、太傅が彼を召して大いに事を委ね頼りにし、長史として用いた。」『八王故事』に言う。「司馬越は字は元超、高密王司馬泰の長男である。若くして布衣の節操を尊び、内外の人の帰するところとなった。官を重ねて司空・太傅に至った。」
11白眼の小僧が、とうとうやりだしたな
王夷甫與裴景聲志好不同。景聲惡欲取之,卒不能回。乃故詣王,肆言極罵,要王答己,欲以分謗。王不爲動色,徐曰:「白眼兒遂作。」
王夷甫と裴景声は、志も好みも同じではなかった。
景声は憎んで彼を取り込もうとしたが、ついに向きを変えさせられなかった。そこでわざと王夷甫を訪ね、言いたいだけ言って極まで罵り、王夷甫の返答を引き出して、それで謗りを分け合おうとした。
王夷甫はそれで顔色を動かさず、ゆっくり言った。「白眼の小僧が、とうとうやりだしたな。」
夾注 1
《晉諸公贊》曰:「邈字景聲,河東聞喜人。少有通才,從兄頠器賞之,毎與淸言,終日達曙。自謂理構多如,輙毎謝之,然未能出也。歴太傅從事中郎、左司馬,監東海王軍事。少爲文士,而經事爲將,雖非其才,而以罕重稱也。」
『晋諸公賛』に言う。「裴邈は字は景声、河東の聞喜の人である。若くして通じた才があり、従兄の裴頠が器量を認めて褒め、ともに清談をするたびに、一日かけて明け方に至った。自分では理の組み立てが多く彼と同じだと思って、そのたびに礼を言っていたが、超えることはできなかった。太傅従事中郎・左司馬を歴任し、東海王の軍事を監した。若いころは文の士であったが、事を経て将となり、その才ではなかったけれども、珍しいことで重んじられ称えられた。」
12おのずと君の雅な志を全うできるだろう
王夷甫長裴成公四歳,不與相知。時共集一處,皆當時名士,謂王曰:「裴令令望何足計!」王便卿裴。裴曰:「自可全君雅志。」
王夷甫は裴成公より四歳年上であったが、互いに付き合おうとしなかった。
あるとき一緒に一つの所に集まったが、みな当時の名士であった。王夷甫に言った。「裴令の名望など、どうして数えるに足りましょう。」
王夷甫はすぐに裴氏を「卿」と呼んだ。
裴氏は言った。「おのずと君の雅な志を全うできるだろう。」
夾注 1
裴頠,已見。
裴頠のことで、すでに前に出ている。
13わたしは角頭巾をかぶってそのまま烏衣へ帰るだけだ
有往來者云庾公有東下意,或謂王公可潛稍嚴,以備不虞。王公曰:「我與元規雖倶王臣,本懷布衣之好,若其欲來,吾角巾徑還烏衣,何所稍嚴。」
行き来する者が、庾公に東へ下る意があると言ったので、ある人が王公に、ひそかに少し警備を固めて、思わぬ事に備えるようにと勧めた。
王公は言った。「わたしと元規は、ともに王の臣ではあるが、もともと布衣のころのよしみを抱いている。もし彼が来ようというのなら、わたしは角頭巾をかぶってそのまま烏衣へ帰るだけだ。何を少しでも固めることがあろうか。」
夾注 2
《丹陽記》曰:「烏衣之起,呉時烏衣營處所也。江左初立,琅邪諸王所居。」
『丹陽記』に言う。「烏衣という名の起こりは、呉のとき烏衣営があった場所である。江左が初めて立ったとき、琅邪の王氏の人々が住んだところである。」
《中興書》曰:「於是風塵自消,内外緝穆。」
『中興書』に言う。「これによって塵の風は自ずから消え、内外が和らぎ睦んだ。」
14主簿と付き合いたいのであって、人の机の上の事を知りたいのではない
王丞相主簿欲檢校帳下,公語主簿,欲與主簿周旋,無爲知人几案間事。
王丞相の主簿が幕の下を調べようとしたので、公は主簿に言った。主簿と付き合っていきたいのであって、人の机の上の事を知りたいのではない、と。
15一生のうちに何足の下駄を履くことになるのか、分からないものだな
祖士少好財,阮遙集好屐並恒自經營。同是一累而未判其得失。人有詣祖,見料視財物。客至,屛當未盡,餘兩小簏箸背後,傾身障之,意未能平。或有詣阮,見自吹火蠟屐,因嘆曰:「未知一生當箸幾量屐?」神色閑暢。於是勝負始分。
祖士少は財を好み、阮遙集は下駄を好んで、どちらもつねに自分で手入れをしていた。同じく一つの囚われであって、その良し悪しは決めかねていた。
ある人が祖士少を訪ねると、財物を数え調べているところであった。客が来たので、片付けきれず、残った二つの小箱を背の後ろに置き、体を傾けてそれを隠したが、気持ちが落ち着かなかった。
ある人が阮遙集を訪ねると、自分で火を吹いて下駄に蝋を引いているところで、そのついでに嘆いて言った。「一生のうちに何足の下駄を履くことになるのか、分からないものだな。」
顔つきも顔色もゆったりとのびのびしていた。そこで優劣がはじめて分かれた。
夾注 2
《祖約別傳》曰:「約字士少,范陽遒人。累遷平西將軍、豫州刺史,鎭壽陽。與蘇峻反,峻敗,約投石勒。約本幽州冠族,賓客塡門,勒登髙望見車騎,大驚。又使佔奪鄕里先人田地,地主多恨。勒惡之,遂誅約。」《晉陽秋》曰:「阮孚字遙集,陳留人,咸第二子也。少有智調,而無俊異。累遷侍中、吏部尚書、廣州刺史。」
『祖約別伝』に言う。「祖約は字は士少、范陽の遒の人である。官を重ねて平西将軍・豫州刺史に至り、寿陽に鎮した。蘇峻とともに反いたが、蘇峻が敗れると、祖約は石勒のもとへ逃げ込んだ。祖約はもともと幽州第一の家柄であったので、客が門に溢れた。石勒は高いところに登って車馬の多さを見て大いに驚いた。また郷里の先人の田地を奪い取らせたので、土地の主は多くが恨んだ。石勒はこれを憎み、ついに祖約を誅した。」『晋陽秋』に言う。「阮孚は字は遙集、陳留の人で、阮咸の次男である。若くして知恵と調和があったが、際立って変わったところはなかった。官を重ねて侍中・吏部尚書・広州刺史に至った。」
《孚別傳》曰:「孚風韻疎誕,少有門風。」
『孚別伝』に言う。「阮孚は風韻が粗く放埒であったが、若いころから家の風格があった。」
16この中でも、眠れる場所を得るのは難しいものだな
許侍中、顧司空倶作丞相從事,爾時已被遇,遊宴集聚,略無不同。嘗夜至丞相許戲,二人歡極,丞相便命使入己帳眠。顧至曉回轉,不得快孰。許上床便咍臺大鼾。丞相顧諸客曰:「此中亦難得眠處。」
許侍中と顧司空がともに丞相の従事となったが、そのころすでに目をかけられて、遊びや宴や集まりが、ほとんど同じでないことがなかった。
あるとき夜に丞相のところに来て遊び、二人はひどく喜んだので、丞相はそのまま自分の帳の中に入って寝るように命じた。
顧司空は明け方まで寝返りを打って、ぐっすり眠れなかったが、許侍中は寝台に上がるとすぐにぐうぐうと大きな鼾をかいた。
丞相は客たちを振り返って言った。「この中でも、眠れる場所を得るのは難しいものだな。」
夾注 2
《晉百官名》曰:「許璪字思文,義興陽羡人。」《許氏譜》曰:「璪祖艶,字子良,永興長。父裴,字季顯,烏程令。璪仕至吏部侍郎。」
『晋百官名』に言う。「許璪は字は思文、義興の陽羨の人である。」『許氏譜』に言う。「許璪の祖父の許艶は字は子良、永興の長である。父の許裴は字は季顕、烏程令である。許璪は官が吏部侍郎に至った。」
顧和字君孝,少知名。族人顧榮曰:「此吾家騏驥也,必興吾宗。」仕至尚書令。五子:治、隗、淳、履之。
顧和は字は君孝、若くして名を知られた。一族の顧栄は「これはわが家の駿馬だ。きっとわが一門を興すだろう」と言った。官は尚書令に至った。五人の子は、顧治・顧隗・顧淳・顧履之である。
17阿恭を見れば、元規が作り物でないことが分かる
庾太尉風儀偉長,不輕舉止,時人皆以爲假。亮有大兒數歳,雅重之質,便自如此,人知是天性。温太眞嘗隱幔怛之,此兒神色恬然,乃徐跪曰:「君侯何以爲此?」論者謂不減亮。蘇峻時遇害。或云:「見阿恭,知元規非假。」
庾太尉は風格も立ち居も立派で大きく、振る舞いを軽々しくしなかったので、当時の人はみな作り物だと思っていた。
庾亮に数歳の長男があったが、上品で重々しい性質がそのまま自ずからこのようであったので、人々はこれが生まれつきの性だと知った。
温太真がかつて幕に隠れてこの子を驚かせたが、この子は顔つきも顔色も落ち着いたままで、ゆっくり膝をついて言った。「君侯はどうしてこんなことをなさるのですか。」
論ずる者は、庾亮に劣らないと言った。蘇峻のときに害を受けた。
ある人は言った。「阿恭を見れば、元規が作り物でないことが分かる。」
夾注 2
《庾氏譜》曰:「會字會宗,太尉亮長子。年十九,咸和六年遇害。」
『庾氏譜』に言う。「庾会は字は会宗、太尉庾亮の長男である。年十九、咸和六年に害を受けた。」
阿恭,會小字也。
阿恭は庾会の幼名である。
18褚裒が牛小屋の下で名札を整えて参った
褚公於章安令遷太尉記室參軍,名字已顯而位微,人未多識。公東出,乘估客船,送故吏數人投錢唐亭住。爾時呉興沈充爲縣令,當送客過浙江,客出,亭吏驅公移牛屋下。潮水至,沈令起彷徨,問:「牛屋下是何物人?」吏云:「昨有一傖父來寄亭中,有尊貴客,權移之。」令有酒色,因遙問「傖父欲食䴵不?姓何等?可共語。」褚因舉手答曰:「河南褚季野。」遠近久承公名,令於是大遽,不敢移公,便於牛屋下脩刺詣公。更宰殺爲饌,具於公前,鞭撻亭吏,欲以謝慚。公與之酌宴,言色無異,狀如不覺。令送公至界。
褚公が章安令から太尉記室参軍に移ったが、名はすでに知られていたのに地位は低く、人々はまだあまり彼を知らなかった。
褚公が東へ出るとき、商人の船に乗り、昔の属吏が数人見送って、銭唐の亭に入って泊まった。
そのころ呉興の沈充が県令であったが、客を見送って浙江を渡らせることになっていた。客が出て来ると、亭の役人は褚公を追い立てて牛小屋の下へ移した。
潮が満ちてくると、沈令は起き出してうろうろしながら尋ねた。「牛小屋の下にいるのは、どういう者か。」
役人は言った。「昨日、北の田舎者が一人来て亭の中に泊まっておりましたが、尊く貴いお客がおいでですので、ひとまず移しました。」
県令は酒の気があったので、そこで遠くから尋ねた。「北の田舎者は餅を食いたいか。姓は何というのか。一緒に話せる者か。」
褚公はそこで手を挙げて答えた。「河南の褚季野です。」
遠近の者が長く公の名を聞いていたので、県令はそこで大いに慌て、あえて公を移すこともできず、そのまま牛小屋の下で名札を整えて公のもとへ参った。
改めて家畜を屠って料理を作り、公の前に揃え、亭の役人を鞭打って、それで恥を謝ろうとした。
公は彼と酒を酌み交わして宴を楽しんだが、言葉も顔色も変わったところがなく、まるで気づいていないかのようであった。県令は公を国境まで送った。
夾注 4
按,庾亮《啓參佐名》:「裒時直爲參軍,不掌記室也。」
按ずるに、庾亮の「参佐の名を申し上げた文」には「褚裒はそのときただ参軍であって、記室を掌っていなかった」とある。
《錢唐縣記》曰:「縣近海,爲潮漂沒,縣諸豪姓,斂錢雇人,輦土爲塘,因以爲名也。」
『銭唐県記』に言う。「県が海に近く、潮に流されて水没するので、県の諸々の有力な家が金を集めて人を雇い、土を運んで堤とした。それにちなんで名としたのである。」
未詳
詳しくは分からない。
《晉陽秋》曰:「呉人以中州人爲傖。」
『晋陽秋』に言う。「呉の人は中原の人を傖と呼んだ。」
19東の寝台の上に腹を出して寝て、聞こえていないかのような方がおりました
郗太傅在京口,遣門生與王丞相書,求女壻。丞相語郗信:「君往東廂,任意選之。」門生歸,白郗曰:「王家諸郎,亦皆可嘉,聞來覓婿,咸自矜持;唯有一郎,在東床上坦腹臥,如不聞。」郗公云:「正此好!」訪之,乃是逸少,因嫁女與焉。
郗太傅が京口にいて、門下の学生を遣わし、王丞相に手紙を渡して婿を求めた。
丞相は郗氏の使いに言った。「君は東の脇部屋へ行って、思うままに選びなさい。」
門下の学生は帰って郗氏に申し上げた。「王氏の家の若君たちは、どなたもみな見事でしたが、婿を探しに来たと聞いて、みな自分の身ごなしを取り繕っておりました。ただ一人の若君だけが、東の寝台の上に腹を出して寝ていて、聞こえていないかのようでした。」
郗公は言った。「まさにその人がよい。」
尋ねてみると、それが逸少であったので、そこで娘を彼に嫁がせた。
夾注 1
《王氏譜》曰:「逸少,羲之小字。羲之妻,太傅郗鑒女,名璿,字子房。」
『王氏譜』に言う。「逸少は王羲之の幼名である。王羲之の妻は、太傅郗鑒の娘で、名は璿、字は子房である。」
20羊固の豊かで華やかなのは、羊曼の飾らず率直なのに及ばない
過江初,拜官,輿飾供饌。羊曼拜丹陽尹,客來蚤者,並得佳設。日晏漸罄,不復及精,隨客早晩,不問貴賤。羊固拜臨海,竟日皆美供。雖晩至,亦獲盛饌。時論以固之豐華,不如曼之眞率。
江を渡って来たはじめのころは、官に任じられると、車を飾り、料理をふるまった。
羊曼が丹陽尹に任じられたときは、客が早く来れば立派な膳にあずかり、日が暮れて次々になくなってくると、もう上等なものは出なかった。客の早いか遅いかに従うだけで、身分の貴賤は問わなかった。
羊固が臨海に任じられたときは、一日中どれも立派なもてなしで、遅く来ても、やはり盛んな料理にあずかった。
当時の評は、羊固の豊かで華やかなのは、羊曼の飾らず率直なのに及ばない、とした。
夾注 2
《曼別傳》曰:「曼字延祖,泰山南城人。父暨,陽平太守。曼頽縱宏任,飲酒誕節,與陳留阮放等號『兗州八達』。累遷丹陽尹,爲蘇峻所害。」
『曼別伝』に言う。「羊曼は字は延祖、泰山の南城の人である。父の羊暨は陽平太守である。羊曼はくずれるように気ままで、大まかに任せきり、酒を飲んで節度にこだわらず、陳留の阮放らとともに『兗州八達』と呼ばれた。官を重ねて丹陽尹に至り、蘇峻に害された。」
明帝《東宮僚屬名》曰:「固字道安,太山人。」《文字志》曰:「固父坦,車騎長史。固善草行,著名一時,避亂渡江,累遷黃門侍郎。褒其淸儉,贈大鴻臚。」
明帝の『東宮僚属名』に言う。「羊固は字は道安、太山の人である。」『文字志』に言う。「羊固の父の羊坦は車騎長史である。羊固は草書と行書が上手で、一時に名が知られた。乱を避けて江を渡り、官を重ねて黄門侍郎に至った。その清らかで倹しいことを褒めて、大鴻臚を贈られた。」
21阿奴の火攻めは、もとより下の策というものだな
周仲智飲酒醉,瞋目還面謂伯仁曰:「君才不如弟,而橫得重名!」須臾,舉蠟燭火擲伯仁。伯仁笑曰:「阿奴火攻,固出下策耳!」
周仲智が酒を飲んで酔い、目を見張って顔を向け直して伯仁に言った。「君は才では弟に及ばないのに、不当に重い名を得ている。」
しばらくして、蝋燭の火を取り上げて伯仁に投げつけた。
伯仁は笑って言った。「阿奴の火攻めは、もとより下の策というものだな。」
夾注 1
《孫子兵法》曰:「火攻有五:一曰火人,二曰火積,三曰火車,四曰火軍,五曰火隊。凡軍必知五火之變,故以火攻者,明也。」
『孫子兵法』に言う。「火攻めに五つある。一つは人を焼くこと、二つは蓄えを焼くこと、三つは車を焼くこと、四つは軍を焼くこと、五つは隊を焼くことである。およそ軍は必ず五つの火の変化を知らねばならない。だから火をもって攻める者は、明らかなのである。」
22この中が、最も測りがたいところです
顧和始爲揚州從事。月旦當朝,未入頃,停車州門外。周侯詣丞相,歴和車邊。和覓蝨,夷然不動。周既過,反還,指顧心曰:「此中何所有?」顧搏蝨如故,徐應曰:「此中最是難測地。」周侯既入,語丞相曰:「卿州吏中有一令僕才。」
顧和がはじめて揚州従事となった。
月の初めの日に朝廷へ出るときで、まだ入る前のしばらく、州の門の外に車を停めていた。
周侯が丞相を訪ねる途中、顧和の車の脇を通った。顧和は虱を探していて、平然として動かなかった。
周侯は通り過ぎてから引き返して来て、顧和の胸を指して言った。「この中に何があるのか。」
顧和はそのまま虱を取りながら、ゆっくり応じた。「この中が、最も測りがたいところです。」
周侯は入ってから丞相に言った。「卿の州の属吏の中に、尚書令や僕射になる器が一人いる。」
夾注 2
《語林》曰:「周侯飲酒已醉,著白祫,憑兩人來詣丞相。」
『語林』に言う。「周侯は酒を飲んですでに酔い、白い袷を着て、二人に寄りかかって丞相を訪ねて来た。」
《中興書》曰:「和有操量,弱冠知名。」
『中興書』に言う。「顧和は節操と度量があり、二十歳で名を知られた。」
23この腕前を、どうして賊のものにさせられよう
庾太尉與蘇峻戰,敗,率左右十餘人,乘小船西奔。亂兵相剝掠,射誤中柂工,應絃而倒。舉船上咸失色分散,亮不動容,徐曰:「此手那可使著賊!」衆迺安。
庾太尉が蘇峻と戦って敗れ、側近十余人を率いて小舟に乗り、西へ逃げた。
乱れた兵が互いに剥ぎ取り奪い合う中、矢を射て誤って舵取りに当て、弦の音に応じて倒れた。舟の上にいた者はみな顔色を失って散り散りになった。
庾亮は顔色を動かさず、ゆっくり言った。「この腕前を、どうして賊のものにさせられよう。」
人々はそこで落ち着いた。
夾注 1
《晉陽秋》曰:「蘇峻作逆,詔亮都督征討,戰於建陽門外,王師敗績,亮於陳攜二弟奔温嶠。」
『晋陽秋』に言う。「蘇峻が逆らいを起こしたので、詔によって庾亮に征討を都督させ、建陽門の外で戦ったが、王の軍は敗れ、庾亮は陣中で二人の弟を連れて温嶠のもとへ逃げた。」
24馬から落ちて地面に転がっても、気持ちも顔色も平然としていた
庾小征西嘗出未還。婦母阮是劉萬安妻,與女上安陵城樓上。俄頃翼歸,策良馬,盛輿衞。阮語女:「聞庾郎能騎,我何由得見?」婦告翼,翼便爲於道開鹵簿盤馬,始兩轉,墜馬墮地,意色自若。
庾小征西がかつて出かけて、まだ帰っていなかった。
妻の母の阮氏は劉万安の妻であったが、娘と一緒に安陵の城楼の上に登った。
しばらくして庾翼が帰って来たが、良い馬に鞭を当て、車と護衛が盛んであった。
阮氏は娘に言った。「庾の若様は馬が上手だと聞いているが、わたしはどうしたら見られるだろうか。」
妻が庾翼に伝えると、庾翼はすぐに道で行列を広げて馬を乗り回した。二周したところで、馬から落ちて地面に転がったが、気持ちも顔色も平然としていた。
夾注 2
《劉氏譜》曰:「劉綏妻陳留阮蕃女,字幼娥。」綏,別見。
『劉氏譜』に言う。「劉綏の妻は陳留の阮蕃の娘で、字は幼娥である。」劉綏は別に出ている。
《庾氏傳》曰:「翼娶髙平劉綏女,字靜女。」
『庾氏伝』に言う。「庾翼は高平の劉綏の娘を迎えた。字は静女である。」
25朝廷の間に、やはりこういう賢い人がいるものだ
宣武與簡文、太宰共載,密令人在輿前後鳴鼓大叫。鹵簿中驚擾,太宰惶怖求下輿。顧看簡文,穆然淸恬。宣武語人曰:「朝廷間故復有此賢。」
宣武が簡文帝と太宰と一緒に車に乗り、ひそかに人に命じて車の前後で鼓を鳴らし大声で叫ばせた。
行列の中が驚き騒ぐと、太宰は怖がって車から下りることを求めた。簡文帝を振り返って見ると、ひたすら静かに清く落ち着いていた。
宣武は人に言った。「朝廷の間に、やはりこういう賢い人がいるものだ。」
夾注 3
桓温
桓温である。
武陵王晞
武陵王司馬晞である。
《續晉陽秋》曰:「帝性温深,雅有局鎭。嘗與桓温、太宰武陵王晞同乘,至板橋,温密敕令無因鳴角鼓譟,部伍並驚馳,温陽駭異,晞大震,帝舉止自若,音顏無變。温毎以此稱其德量,故論者謂温服憚也。」
『続晋陽秋』に言う。「帝は性質が温かく深く、上品に度量と落ち着きがあった。かつて桓温と太宰の武陵王司馬晞と同じ車に乗り、板橋まで来たとき、桓温がひそかに、理由もなく角笛を吹き鼓を打って騒げと命じたので、隊列はいっせいに驚いて走り出した。桓温はわざと驚いて不思議がり、司馬晞は大いに震えたが、帝は立ち居振る舞いが平然として、声も顔色も変わらなかった。桓温はつねにこのことでその徳と度量を称えたので、論ずる者は、桓温が従い恐れていたのだと言う。」
26王劭がしっかり座って動かなかった
王劭、王薈共詣宣武,正値收庾希家。薈不自安,逡巡欲去;劭堅坐不動,待收信還,得不定迺出。論者以劭爲優。
王劭と王薈が一緒に宣武を訪ねたが、ちょうど庾希の家を捕らえているところであった。
王薈は身が落ち着かず、ためらって帰ろうとしたが、王劭はしっかり座って動かなかった。捕らえに行った知らせが戻って、まだ定まっていないと分かってから、そこで出て行った。
論ずる者は王劭を勝っているとした。
夾注 2
《劭薈別傳》曰:「劭字敬倫,丞相導第五子。淸貴簡素,研味玄賾。大司馬桓温稱爲『鳳鶵』。累遷尚書僕射、呉國内史。薈字敬文,丞相最小子。有淸譽,夷泰無競,仕至鎭軍將軍。」
『劭薈別伝』に言う。「王劭は字は敬倫、丞相王導の五男である。清らかで貴く、簡素で飾らず、奥深く幽玄なものを磨き味わった。大司馬の桓温は称えて『鳳の雛』と言った。官を重ねて尚書僕射・呉国内史に至った。王薈は字は敬文、丞相の一番下の子である。清らかな評判があり、穏やかで争わず、官は鎮軍将軍に至った。」
《中興書》曰:「希字始彦,司空冰長子。累遷徐兗二州刺史。希兄弟貴盛,桓温忌之,諷免希官,遂奔於暨陽。初,郭璞筮冰子孫必有大禍,唯固三陽可以有後。故希求鎭山陽,弟友爲東陽,希自家暨陽。及温誅希,弟柔、倩聞希難,逃於海陵。後還京口聚衆,事敗,爲温所誅。」
『中興書』に言う。「庾希は字は始彦、司空庾冰の長男である。官を重ねて徐州・兗州二州の刺史に至った。庾希の兄弟は貴く栄えていたので、桓温はこれを妬み、ほのめかして庾希の官を免じさせたので、ついに暨陽へ逃げた。はじめ、郭璞が占って、庾冰の子孫には必ず大きな禍があるが、ただ三つの陽を固めれば後を残せると言った。そのため庾希は山陽を守ることを求め、弟の庾友は東陽となり、庾希は自分で暨陽に家を構えた。桓温が庾希を誅すると、弟の庾柔と庾倩は庾希の難を聞いて海陵へ逃げた。後に京口へ戻って人を集めたが、事が破れて、桓温に誅された。」
27郗生は、幕に入った客と言うべきですな
桓宣武與郗超議芟夷朝臣,條牒既定,其夜同宿。明晨起,呼謝安、王坦之入,擲疎示之。郗猶在帳内,謝都無言,王直擲還,云:多!宣武取筆欲除,郗不覺竊從帳中與宣武言。謝含笑曰:「郗生可謂入幕賓也。」
桓宣武が郗超と、朝廷の臣を刈り取って除くことを議し、箇条と書付が定まると、その夜は一緒に泊まった。
翌朝起きて、謝安と王坦之を呼び入れ、書付を投げて見せた。
郗超はまだ帳の中にいた。謝安はまったく何も言わず、王坦之はそのまま投げ返して言った。「多すぎます。」
宣武が筆を取って削ろうとすると、郗超が思わず、こっそり帳の中から宣武に話しかけた。
謝安は笑いを含んで言った。「郗生は、幕に入った客と言うべきですな。」
夾注 2
《續晉陽秋》曰:「超謂温雄武,當樂推之運,遂深自委結。温亦深相器重,故潛謀密計,莫不預焉。」
『続晋陽秋』に言う。「郗超は、桓温は雄々しく武に優れ、人々が喜んで推す運にあると見て、ついに深く自分を委ね結びついた。桓温もまた深く彼を器量ある者として重んじたので、ひそかな謀りや密かな計らいに、与からないものはなかった。」
帳,一作帷。
帳は、ある本には帷となっている。
28このままでは、帰れなくなるだろう
謝太傅盤桓東山時,與孫興公諸人汎海戲。風起浪涌,孫王諸人色並遽,便唱使還。太傅神情方王,吟嘯不言。舟人以公貌閑意説,猶去不止。既風轉急,浪猛,諸人皆諠動不坐。公徐云:「如此,將無歸!」衆人即承響而回。於是審其量,足以鎭安朝野。
謝太傅が東山でぶらぶらしていたころ、孫興公たちと海に舟を出して遊んだ。
風が立ち波が湧き上がると、孫氏や王氏たちは顔色がいっせいに切迫して、すぐに帰ろうと声を上げた。
太傅は気持ちがちょうど盛り上がっていて、吟じ口笛を吹いて何も言わなかった。船人は公の様子がゆったりして楽しそうだというので、そのまま進んでやめなかった。
やがて風はいっそう急になり、波も荒くなって、人々はみな騒ぎ動いて座っていられなかった。
公はゆっくり言った。「このままでは、帰れなくなるだろう。」
人々はすぐにその声に従って引き返した。
これによって、その度量が朝廷も民間も押さえて安らかにするに足るものだと見定められた。
夾注 1
《中興書》曰:「安先居會稽,與支道林、王羲之、許詢共遊處。出則漁弋山水,入則談説屬文,未嘗有處世意也。」
『中興書』に言う。「謝安はそれより前は会稽に住み、支道林・王羲之・許詢とともに遊び暮らした。出れば山や水で魚を取り狩りをし、入れば語り合って文を綴り、これまで世に出る意はまったくなかった。」
29階段を見やりながら席へ進み、そこで洛生詠をした
桓公伏甲設饌,廣延朝士,因此欲誅謝安、王坦之。王甚遽,問謝曰:「當作何計?」謝神意不變,謂文度曰:「晉阼存亡,在此一行。」相與倶前。王之恐狀,轉見於色。謝之寬容,愈表於貌。望階趨席,方作洛生詠,諷「浩浩洪流」。桓憚其曠遠,乃趣解兵。王謝舊齊名,於此始判優劣。
桓公が甲を着た兵を伏せて料理を設け、朝廷の士を広く招いたが、これによって謝安と王坦之を誅そうとしたのであった。
王坦之はひどく切迫して、謝安に尋ねた。「どういう策を取るべきでしょうか。」
謝安は気持ちも思いも変わらず、文度に言った。「晋の王朝が残るか滅ぶかは、この一歩にかかっている。」
二人は連れ立って前に進んだ。王坦之の恐れる様子はますます顔色に現れ、謝安の落ち着いた寛さはますます姿に表れた。
階段を見やりながら席へ進み、そこで洛生詠をして、「浩浩たる洪流」を吟じた。
桓公はその広く遠い構えを憚り、そこで急いで兵を解いた。
王氏と謝氏は以前から名を並べていたが、これによってはじめて優劣が分かれた。
夾注 2
《晉安帝紀》曰:「簡文晏駕,遺詔桓温依諸葛亮、王導故事,温大怒,以爲黜其權,謝安、王坦之所建也。入赴山陵,百官拜於道側,在位望者,戰慄失色。或云自此欲殺王謝。」
『晋安帝紀』に言う。「簡文帝が亡くなるとき、遺詔で桓温に諸葛亮と王導の先例に従えとあったので、桓温は大いに怒り、その権勢を退けたのは謝安と王坦之が立てたことだと考えた。山陵に馳せ参じたとき、百官が道の脇で拝礼したが、位にあって見える者たちは震えて顔色を失った。ある人は、これから王氏と謝氏を殺そうとしたのだと言う。」
按,《宋明帝文章志》曰:「安能作洛下書生詠,而少有鼻疾,語音濁。後名流多斅其詠,弗能及,手掩鼻而吟焉。桓温止新亭,大陳兵衞,呼安及坦之,欲於坐害之。王入失措,倒執手版,汗流霑衣。安神姿舉動,不異於常。舉目徧歴温左右衞士,謂温曰:『安聞諸侯有道,守在四鄰。明公何有壁間著阿堵輩?』温笑曰:『正自不能不爾。』於是矜莊之心頓盡。命部左右,促燕行觴,笑語移日。
按ずるに、『宋明帝文章志』に言う。「謝安は洛下の書生の吟じ方ができたが、少し鼻の病があって声が濁っていた。後に名の知れた人々は多くその吟じ方を真似たが、及ばないので、手で鼻をふさいで吟じた。桓温が新亭に留まり、兵と護衛を大がかりに並べて、謝安と王坦之を呼び、その席で害そうとした。王坦之は入って取り乱し、手板を逆さに持ち、汗が流れて衣を濡らした。謝安は気配も姿も振る舞いも、いつもと違わなかった。目を上げて桓温の側の護衛の兵を一通り見渡し、桓温に言った。『わたしの聞くところでは、諸侯に道があれば、守りは四方の隣にあるとのことです。明公はどうして壁の間にこういう連中を置いておられるのですか。』桓温は笑って『まったく、そうしないわけにもいかないのだ』と言った。そこで誇り張った気持ちはたちまち消えた。側近に命じて、急いで宴を開き杯を回させ、笑い語って日を過ごした。」
30命のために、しばらく我慢できないのですか
謝太傅與王文度共詣郗超,日旰未得前,王便欲去。謝曰:「不能爲性命忍俄頃?」
謝太傅が王文度と一緒に郗超を訪ねたが、日が暮れるまで前に通されず、王文度はすぐに帰ろうとした。
謝太傅は言った。「命のために、しばらく我慢できないのですか。」
夾注 1
超得寵桓温,專殺生之威。
郗超は桓温に寵愛されて、殺し生かす威を独り占めにしていた。
31わたしはもともと、君の顔のことなど考えていない
支道林還東,時賢並送於征虜亭。蔡子叔前至,坐近林公。謝萬石後來,坐小遠。蔡暫起,謝移就其處。蔡還,見謝在焉,因合褥舉謝擲地,自復坐。謝冠幘傾脱,乃徐起振衣就席,神意甚平,不覺瞋沮。坐定,謂蔡曰:「卿奇人,殆壞我面。」蔡答曰:「我本不爲卿面作計。」其後,二人倶不介意。
支道林が東へ帰るとき、当時の賢い人たちがそろって征虜亭で見送った。
蔡子叔が先に着いて林公の近くに座り、謝万石が後から来て少し離れて座った。
蔡氏がしばらく立ったので、謝氏がその場所に移って座った。蔡氏が戻って、謝氏がそこにいるのを見ると、そこで敷布団ごとまとめて謝氏を持ち上げて地面に投げ、自分はまた座った。
謝氏は冠も頭巾も傾いで脱げたが、そこでゆっくり起きて衣を払い、席に戻った。気持ちも思いもたいへん平らかで、怒りや落胆を覚えなかった。
席が定まると、蔡氏に言った。「卿は変わった人だ。もう少しでわたしの顔を壊すところだった。」
蔡氏は答えた。「わたしはもともと、君の顔のことなど考えていない。」
その後、二人はどちらも気にかけなかった。
夾注 3
《髙逸沙門傳》曰:「遁爲哀帝所迎,遊京邑久,心在故山,乃拂衣王都,還就巖穴。」
『高逸沙門伝』に言う。「支遁は哀帝に迎えられ、都に遊んで久しくなったが、心は昔の山にあったので、そこで王の都で衣を払い、岩屋へ帰って行った。」
《丹陽記》曰:「太安中,征虜將軍謝安立此亭,因以爲名。」
『丹陽記』に言う。「太安年間に、征虜将軍の謝安がこの亭を建てたので、それにちなんで名としたのである。」
《中興書》曰:「蔡糸字子叔,濟陽人,司徒謨第二子。有文理,仕至撫軍長史。」
『中興書』に言う。「蔡糸は字は子叔、済陽の人で、司徒蔡謨の次男である。文と理があり、官は撫軍長史に至った。」
32米を減らしてくださった
郗嘉賓欽崇釋道安德問,餉米千斛,修書累紙,意寄殷勤。道安答直云:「損米。」愈覺有待之爲煩。
郗嘉賓は釈道安の徳と評判を敬い尊んで、米千斛を贈り、何枚もの紙に手紙を書いて、思いの寄せ方が篤かった。
道安の返事はただこう言った。「米を減らしてくださった。」
頼るものがあることが、かえって煩わしいのだと、いよいよ感じさせる。
夾注 1
《安和上傳》曰:「釋道安者,常山薄柳人,本姓衞,年十二作沙門。神性聰敏而貌至陋,佛圖澄甚重之。値石氏亂,於陸渾山木食修學,爲慕容俊所逼,乃住襄陽。以佛法東流,經籍錯謬,更爲條章,標序篇目,爲之注解。自支道林等皆宗其理。無疾卒。」
『安和上伝』に言う。「釈道安という人は常山の薄柳の人で、もとの姓は衛氏であるが、十二歳で沙門となった。気性は聡く機敏であったが、容貌はきわめて醜く、仏図澄はたいへん重んじた。石氏の乱に遭って、陸渾山で木の実を食べながら学を修めたが、慕容俊に迫られて、そこで襄陽に住んだ。仏法が東へ流れて経典に食い違いや誤りがあったので、改めて条と章を立て、篇の題目を示して並べ、これに注解を付けた。支道林らも、みなその理を頭と仰いだ。病もなく亡くなった。」
33謝奉は、やはり変わった士だ
謝安南免吏部尚書還東,謝太傅赴桓公司馬出西,相遇破岡。既當遠別,遂停三日共語。太傅欲慰其失官,安南輙引以它端。雖信宿中塗,竟不言及此事。太傅深恨在心未盡,謂同舟曰:「謝奉故是奇士。」
謝安南が吏部尚書を免じられて東へ帰り、謝太傅は桓公の司馬として赴任して西へ行き、破岡で出会った。
もう遠く別れることになるので、ついに三日留まって一緒に語り合った。
太傅がその官を失ったことを慰めようとすると、安南はそのたびに別の話に引き取った。道中で二晩泊まったけれども、ついにこの事に触れて語らなかった。
太傅は心に尽くしきれないことを深く残念に思い、同じ舟の者に言った。「謝奉は、やはり変わった士だ。」
夾注 1
《晉百官名》曰:「謝奉字弘道,會稽山陰人。」《謝氏譜》曰:「奉祖端,散騎常侍。父鳳,丞相主簿。奉歴安南將軍、廣州刺史、吏部尚書。」
『晋百官名』に言う。「謝奉は字は弘道、会稽の山陰の人である。」『謝氏譜』に言う。「謝奉の祖父の謝端は散騎常侍、父の謝鳳は丞相主簿である。謝奉は安南将軍・広州刺史・吏部尚書を歴任した。」
34謝公がしみじみとその度量を知った
戴公從東出,謝太傅往看之。謝本輕戴,見但與論琴書。戴既無吝色,而談琴書愈妙。謝悠然知其量。
戴公が東から出て来たので、謝太傅が行って会った。
謝公はもともと戴公を軽く見ていて、会っても琴と書のことだけを論じた。
戴公は惜しむ顔色もなく、琴と書を語ることがいよいよ妙であった。謝公はしみじみとその度量を知った。
夾注 1
《晉安帝紀》曰:「戴逵字安道,譙國人。少有淸操,恬和通任,爲劉眞長所知。性甚快暢,泰於娯生。好鼓琴,善屬文,尤樂遊燕,多與髙門風流者游,談者許其通隱。屢辭徴命,遂著髙尚之稱。」
『晋安帝紀』に言う。「戴逵は字は安道、譙国の人である。若くして清らかな節操があり、落ち着いて和やかで、通じて任せきったので、劉真長に認められた。性質はたいへんさっぱりとのびやかで、生を楽しむのに十分であった。琴を弾くのを好み、文を綴るのが上手で、とりわけ遊びや宴を楽しみ、多く名門の風流な人たちと交わったので、語る者はその通じた隠れ方を認めた。たびたび召しを辞して、ついに高く尚しいという評判を得た。」
35子供たちが賊を大いに破りました
謝公與人圍棊,俄而謝玄淮上信至。看書竟,默然無言,徐向局。客問淮上利害?答曰:「小兒輩大破賊。」意色舉止,不異於常。
謝公が人と碁を打っていると、やがて謝玄が淮水のほとりから送った知らせが届いた。
手紙を見終えると、黙って何も言わず、ゆっくり盤に向き直った。
客が淮水のほとりの利害を尋ねると、答えた。「子供たちが賊を大いに破りました。」
気持ちも顔色も振る舞いも、いつもと違わなかった。
夾注 1
《續晉陽秋》曰:「初,苻堅南寇,京師大震。謝安無懼色,方命駕出墅,與兄子玄圍棋。夜還乃處分,少日皆辦。破賊又無喜容。其髙量如此。」《謝車騎傳》曰:「氐賊苻堅,傾國大出,衆號百萬。朝廷遣諸軍距之,凡八萬。堅進屯壽陽,玄爲前鋒都督,與從弟琰等選精鋭決戰。射傷堅,俘獲數萬計,得僞輦及雲母車,寶器山積,錦剡萬端,牛、馬、臚、騾、駝十萬頭匹。」
『続晋陽秋』に言う。「はじめ、苻堅が南へ攻め込むと、都は大いに震えた。謝安は恐れる顔色もなく、ちょうど車を出せと命じて別荘に出かけ、兄の子の謝玄と碁を打った。夜に帰ってから手配を分け与えると、数日のうちにすべて整った。賊を破ってからも、また喜ぶ顔色がなかった。その高い度量はこのようであった。」『謝車騎伝』に言う。「氐の賊の苻堅が国を傾けて大挙して出て来たが、軍勢は百万と称した。朝廷は諸軍を遣わしてこれを防いだが、合わせて八万であった。苻堅は進んで寿陽に駐屯し、謝玄は前鋒都督となって、従弟の謝琰らとともに精鋭を選んで決戦した。苻堅を射て傷つけ、捕らえた者は数万と数えられ、偽りの帝の輦や雲母の車を得て、宝の器は山のように積まれ、錦は万端、牛・馬・驢・騾・駱駝は十万頭であった。」
36世間はこれによって二人の王氏の精神の大きさを定めた
王子猷、子敬曾倶坐一室,上忽發火,子猷遽走避,不惶取屐;子敬神色恬然,徐喚左右,扶憑而出,不異平常。世以此定二王神宇。
王子猷と子敬がかつて一緒に一つの部屋に座っていたが、上から突然火が出た。
子猷は慌てて走って逃げ、下駄を取る間もなかったが、子敬は顔つきも顔色も落ち着いたままで、ゆっくり側近を呼び、支えられて出てきて、いつもと違わなかった。
世間はこれによって二人の王氏の精神の大きさを定めた。
夾注 2
《晉百官名》曰:「王徽之,字子猷。」《中興書》曰:「徽之,羲之第五子。卓犖不羈,欲爲傲達,仕至黃門侍郎。」
『晋百官名』に言う。「王徽之は字は子猷である。」『中興書』に言う。「王徽之は王羲之の五男である。抜きんでて縛られず、傲然として達観しようとし、官は黄門侍郎に至った。」
《續晉陽秋》曰:「獻之雖不脩賞貫,而容止不妄。」
『続晋陽秋』に言う。「王献之は、褒め讃えや習い込みを修めなかったけれども、立ち居振る舞いはみだりにしなかった。」
37軸を握って、この場を片づけてしまうのがよいだろう
苻堅遊魂近境,謝太傅謂子敬曰:「可將當軸,了其此處。」
苻堅のさまよう魂が国境近くまで来ると、謝太傅は子敬に言った。「軸を握って、この場を片づけてしまうのがよいだろう。」
夾注 1
堅,別見。
苻堅は別に出ている。
38衛軍、僧弥がずいぶん慎んで省みないもので、上の国を侵し越えておりますな
王僧彌、謝車騎共王小奴許集。僧彌舉酒勸謝云:「奉使君一觴。」謝曰:「可爾。」僧彌勃然起,作色曰:「汝故是呉興溪中釣碣耳!何敢譸張!」謝徐撫掌而笑曰:「衞軍,僧彌殊不肅省,乃侵陵上國也。」
王僧弥と謝車騎が一緒に王小奴のところに集まった。
僧弥は酒を取り上げて謝氏に勧めて言った。「使君に一杯さしあげます。」
謝氏は言った。「そうしてくれ。」
僧弥はかっとして立ち上がり、顔色を作って言った。「お前はしょせん呉興の谷川で釣りをしている石ころにすぎない。どうしてよくもごまかすのか。」
謝氏はゆっくり手を打って笑って言った。「衛軍、僧弥がずいぶん慎んで省みないもので、上の国を侵し越えておりますな。」
夾注 3
王珉、謝玄並已見。小奴,王薈小字也。
王珉と謝玄は、ともにすでに前に出ている。小奴は王薈の幼名である。
謝玄曾爲徐州,故云使君。
謝玄がかつて徐州刺史となったので、使君と言ったのである。
玄叔父安,曾爲呉興,玄少時從之遊。故珉云然。
謝玄の叔父の謝安がかつて呉興を治め、謝玄は若いころ彼に従って遊んだ。だから王珉がそう言ったのである。
39これは公や輔佐の器だ
王東亭爲桓宣武主簿,既承藉,有美譽,公甚欲其人地爲一府之望。初,見謝失儀,而神色自若。坐上賓客即相貶笑。公曰:「不然,觀其情貌,必自不凡。吾當試之。」後因月朝閣下伏,公於内走馬直出突之,左右皆宕仆,而王不動。名價於是大重,咸云「是公輔器也」。
王東亭が桓宣武の主簿となったが、すでに受け継いだものがあり、美しい評判もあったので、公はその人柄と家格で一つの府の望みとしたいと強く思っていた。
はじめて会ったとき、作法を外したのに、顔つきも顔色も平然としていた。席にいた客たちはすぐに互いに見下して笑った。
公は言った。「そうではない。その情や姿を見ると、きっと並ではない。わたしが試してみよう。」
後に、月の初めの朝の出仕で役所の下に伏せていたとき、公が内から馬を走らせてまっすぐ出て来て彼に突っ掛かった。側の者はみな転び倒れたが、王東亭は動かなかった。
名声はこれで大いに重くなり、みな「これは公や輔佐の器だ」と言った。
夾注 1
《續晉陽秋》曰:「珣初辟大司馬掾,桓温至重之,常稱『王掾必爲黑頭公,未易才也』。」
『続晋陽秋』に言う。「王珣ははじめ大司馬の掾に召されたが、桓温はこの上なく重んじて、つねに『王掾は必ず黒髪のうちに公となるだろう。なまやさしい才ではない』と称えた。」
40長い星よ、お前に酒一杯を勧める
太元末,長星見,孝武心甚惡之。夜,華林園中飲酒,舉桮屬星云:「長星!勸爾一桮酒。自古何時有萬歳天子?」
太元の末に長い星が現れると、孝武帝は心のうちでひどくこれを嫌った。
夜、華林園の中で酒を飲んでいて、杯を挙げて星に向けて言った。「長い星よ、お前に酒一杯を勧める。昔から、いつ万歳の天子があったというのか。」
夾注 1
徐廣《晉紀》曰:「泰元二十年九月,有蓬星如粉絮,東南行,歴須女、至央星。」按,太元末,唯有此妖,不聞長星也。且漢文八年,有長星出東方。文穎注曰:「長星有光芒,或竟天,或長十丈,或二、三丈,無常也。」此星見,多爲兵革事。此後十六年,文帝乃崩。蓋知長星非關天子,世説虚也。
徐広の『晋紀』に言う。「泰元二十年九月、蓬のような星があって綿くずのようであり、東南へ行き、須女を過ぎて央星に至った。」按ずるに、太元の末にはこの妖しい星だけがあって、長い星という話は聞かない。また漢の文帝八年に、長い星が東方に出た。文穎が注して言う。「長い星は光の芒があり、あるものは天を貫き、あるものは長さ十丈、あるものは二、三丈で、定まりがない。」この星が現れると、多くは兵乱の事となる。この後十六年して、文帝は亡くなった。おおよそ、長い星は天子に関わりがないと分かるので、『世説』は当たっていない。
41殷仲堪が気落ちして、ぼんやりしてしまった
殷荊州有所識,作賦,是束皙慢戲之流。殷甚以爲有才,語王恭:「適見新文,甚可觀。」便於手巾函中出之。王讀,殷笑之不自勝。王看竟,既不笑,亦不言好惡,但以如意帖之而已。殷悵然自失。
殷荊州に知り合いがあって、賦を作ったが、それは束晳のおどけた戯れの類いであった。
殷荊州はたいへん才があると思って、王恭に言った。「ちょうど新しい文を見たのだが、なかなか読む価値がある。」
そしてすぐに手巾の箱の中から取り出した。
王恭が読んでいる間、殷荊州は笑いを自分で抑えられなかった。
王恭は読み終えてからも、笑いもせず、良いとも悪いとも言わず、ただ如意でそれを押さえただけであった。
殷荊州は気落ちして、ぼんやりしてしまった。
夾注 1
《文士傳》曰:「晳字廣微,陽平元城人,漢太子太傅踈廣後也。王莽末,廣曾孫孟達自東海避難元城,改姓,去『踈』之『足』以爲束氏。晳博學多識,問無不對。元康中,有人自嵩髙山下得竹簡一枚,上兩行科斗書,司空張華以問晳。晳曰:『此明帝顯節陵中策文也。』檢校果然。曾爲麥并賦諸文,文甚俳謔。三十九歳卒,元城爲之廢市。」
『文士伝』に言う。「束晳は字は広微、陽平の元城の人で、漢の太子太傅疏広の後である。王莽の末に、疏広の曾孫の疏孟達が東海から元城へ難を避けて移り、姓を改め、『疏』から『足』を取り去って束氏とした。束晳は広く学んで知るところが多く、尋ねられて答えられないことがなかった。元康年間に、ある人が嵩高山の下で竹簡一枚を手に入れたが、その上に二行の蝌蚪文字があったので、司空の張華が束晳に尋ねた。束晳は『これは明帝の顕節陵の中の策文です』と言ったが、調べてみると本当にそうであった。かつて「麦餅賦」など諸々の文を作ったが、文はたいへん戯れめいていた。三十九歳で亡くなり、元城は彼のために市を閉じた。」
42わたしは義として留まるわけにはまいりません
羊綏第二子孚,少有雋才,與謝益壽相好,嘗蚤往謝許,未食。俄而王齊、王暏來。既先不相識,王向席有不説色,欲使羊去。羊了不眄,唯腳委几上,詠矚自若。謝與王敘寒温數語畢,還與羊談賞,王方悟其奇,乃合共語。須臾食下,二王都不得餐,唯屬羊不暇。羊不大應對之,而盛進食,食畢便退。遂苦相留,羊義不住,直云:「向者不得從命,中國尚虚。」二王是孝伯兩弟。
羊綏の次男の羊孚は、若くして秀でた才があり、謝益寿と仲が良かった。
あるとき朝早く謝氏のところへ行ったが、まだ食事をしていなかった。やがて王斉と王睹が来た。
以前から互いに知り合いではなかったので、王氏たちは席に向かって不快な顔色を見せ、羊孚を帰らせようとした。
羊孚はまったく見向きもせず、ただ足を机の上に投げ出して、吟じたり外を見やったり、平然としていた。
謝氏が王氏たちと挨拶の言葉を数言交わし終えると、戻って羊孚と語り合って褒めた。王氏たちはそこでようやくその人物の際立ったところに気づき、それで一緒に語り合った。
しばらくして食事が出ると、二人の王氏はまったく食べることができず、ひたすら羊孚に付き合うので手が離せなかった。
羊孚はさほど相手にせず、せっせと食事を進め、食べ終わるとすぐに退いた。
そこで苦心して引き止めると、羊孚は義として留まらず、まっすぐに言った。「さきほどはご命令に従えませんでしたから、腹の中はまだ空いております。」
二人の王氏は、孝伯の二人の弟である。
夾注 2
益壽,謝混小字也。
益寿は謝混の幼名である。
王睹已見。齊,王熙小字也。《中興書》曰:「熙字叔和,恭次弟。尚鄱陽公主,太子洗馬,早卒。」
王睹はすでに前に出ている。斉は王熙の幼名である。『中興書』に言う。「王熙は字は叔和、王恭の次の弟である。鄱陽公主に娶り、太子洗馬となったが、早く亡くなった。」