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識鑒 (人を見抜く眼)世説新語 識鑒第七

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 28 · 漢字 2,051字 · 朗読 8.2分

世説新語(世に語られた新しい話) 中巻上 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1あなたは乱世の英雄であり、治世の奸賊だ

曹公少時見喬玄,玄謂曰:「天下方亂,群雄虎爭,撥而理之,非君乎?然君實亂世之英雄,治世之姦賊。恨吾老矣,不見君富貴,當以子孫相累。」

曹公が若いころ喬玄に会うと、喬玄は言った。「天下はまさに乱れ、群雄が虎のように争っている。これを収めて正すのは、あなたではないか。しかしあなたは実のところ、乱世の英雄であり、治世の奸賊だ。私は年老いて、あなたの富貴を見られないのが残念だ。ぜひ子孫をあなたに託したい。」

夾注 1

《續漢書》曰:「玄字公祖,梁國睢陽人。少治禮及《嚴氏春秋》。累遷尚書令。玄嚴明有才略,長於知人。初,魏武帝爲諸生,未知名也,玄甚異之。」《魏書》曰:「玄見太祖曰:『吾見士多矣,未有若君者!天下將亂,非命世之才不能濟也。能安之者,其在君乎?』」按,《世語》曰:「玄謂太祖:『君未有名,可交許子將。』太祖乃造子將,子將納焉。」孫盛《雜語》曰:「太祖嘗問許子將:『我何如人?』固問,然後子將答曰:『治世之能臣,亂世之姦雄。』太祖大笑。」《世説》所言謬矣。

『続漢書』に言う、「喬玄は字は公祖、梁国睢陽の人である。若くして礼と厳氏の『春秋』を学んだ。官を重ねて尚書令に至った。喬玄は厳格で明晰、才略があり、人を見抜くことに長けていた。初め、魏の武帝が一書生にすぎず、まだ名を知られていなかったころ、喬玄は彼をとりわけ非凡だと見ていた」。『魏書』に言う、「喬玄は太祖に会って言った、『私は多くの士を見てきたが、あなたのような者はいなかった。天下はまさに乱れようとしており、世に名を残す才でなければ救えない。これを安んじうる者は、あなたではないか』」。按ずるに、『世語』に言う、「喬玄は太祖に『あなたはまだ名がない。許子将と交わるとよい』と言った。太祖はそこで子将を訪ね、子将は彼を受け入れた」。孫盛の『雑語』に言う、「太祖がかつて許子将に『私はどのような人間か』と問い、重ねて問うたところ、そこでようやく子将は『治世の能臣、乱世の奸雄だ』と答え、太祖は大いに笑った」。『世説』の言うところは誤りである。

2辺境に拠って険しい地を守れば、一方の主となるには十分です

曹公問裴潛曰:「卿昔與劉備共在荊州,卿以備才如何?」潛曰:「使居中國,能亂人,不能爲治。若乘邊守險,足爲一方之主。」

曹公が裴潜に問うた。「君は昔、劉備とともに荊州にいた。君は備の才をどう見るか。」

裴潜は言った。「中原に置けば、人を乱すことはできても、治めることはできません。もし辺境に拠って険しい地を守れば、一方の主となるには十分です。」

夾注 1

《魏志》曰:「潛字文行,河東人。避亂荊州,劉表待之賓客禮。潛私謂王粲、司馬芝曰:『劉牧非霸王之才,而欲以西伯自處,其敗無日矣!』遂南渡,適長沙。」

『魏志』に言う、「裴潜は字は文行、河東の人である。乱を避けて荊州に行き、劉表は彼を賓客の礼で遇した。潜は密かに王粲・司馬芝に言った、『劉牧は覇王の才ではないのに、西伯になぞらえて身を処そうとしている。その敗れるのは日もあるまい』。そして南へ渡り、長沙へ行った」。

3この三人の賢者はみな徳を損なう人間にすぎない

何晏、鄧颺、夏侯玄並求傅嘏交,而嘏終不許。諸人乃因荀粲説合之,謂嘏曰:「夏侯太初一時之傑士,虚心於子,而卿意懷不可,交合則好成,不合則致隟。二賢若穆,則國之休,此藺相如所以下廉頗也。」傅曰:「夏侯太初志大心勞,能合虚譽,誠所謂利口覆國之人。何晏、鄧颺有爲而躁,博而寡要,外好利而内無關籥,貴同惡異,多言而妬前。多言多釁,妬前無親。以吾觀之:此三賢者,皆敗德之人爾!遠之猶恐罹禍,況可親之邪?」後皆如其言。

何晏・鄧颺・夏侯玄がそろって傅嘏と交わりたいと求めたが、傅嘏は最後まで承知しなかった。

そこで一同は荀粲を通して話をまとめようとし、傅嘏に言った。「夏侯太初は当代の傑出した士で、あなたに心を開いているのに、あなたの方は受け入れられないと思っている。交わって気が合えば良いものが生まれ、合わなければ隙が生じる。二人の賢者が睦めば国の喜びだ。これこそ藺相如が廉頗に身を低くした理由だ。」

傅嘏は言った。「夏侯太初は志が大きく心が労し、虚しい評判を集めることができる。まさに言うところの、鋭い口で国を覆す人物だ。何晏と鄧颺は事を構えては焦り、博識だが要を欠き、外では利を好み、内には閂がない。同じを尊び異を憎み、口数が多く先を行く者を妬む。口数が多ければ隙が多く、先を行く者を妬めば親しみがない。私の見るところ、この三人の賢者はみな徳を損なう人間にすぎない。遠ざけてさえ災いに遭うのを恐れるのに、まして親しめるものか。」

後にすべて彼の言ったとおりになった。

夾注 3

《魏略》曰:「鄧颺字玄茂,南陽宛人,鄧禹之後也。少得士名。明帝時爲中書郎,以與李勝等爲浮華被斥。正始中,遷侍中尚書。爲人好貨,臧艾以父妾與颺,得顯官,京師爲之語曰:『以官易富鄧玄茂。』何晏選不得人,頗由颺,以黨曹爽誅。」

『魏略』に言う、「鄧颺は字は玄茂、南陽宛の人で、鄧禹の子孫である。若くして士としての名を得た。明帝の時に中書郎となったが、李勝らとともに浮華だとして退けられた。正始年間に侍中尚書に移った。人柄は財貨を好み、臧艾が父の妾を鄧颺に与えて高い官を得たので、都ではこれを『官を富と取り替えた鄧玄茂』と言った。何晏が人選で適材を得られなかったのは、かなり鄧颺のせいである。曹爽の党として誅された」。

《史記》曰:「相如以功大拜上卿,位在廉頗右。頗怒,欲辱之。相如毎稱疾,望見,引車避匿。其舍人欲去之,相如曰:『夫以秦王之威而吾廷叱之,何畏廉將軍哉?顧秦彊趙弱,秦以吾二人故不敢加兵於趙。今兩虎鬥,勢不倶生,吾以公家急而後私讎也。』頗聞,謝罪。」

『史記』に言う、「相如は功が大きいとして上卿に任じられ、位は廉頗の上にあった。廉頗は怒り、彼を辱めようとした。相如はいつも病と称し、遠くに見かけると車を引いて避け隠れた。その家臣が去ろうとすると、相如は言った、『あの秦王の威をもってしても、私は朝廷で彼を叱りつけた。どうして廉将軍を恐れようか。ただ秦が強く趙が弱いのに、秦は我々二人のゆえに趙へ兵を向けられないのだ。いま二頭の虎が闘えば、勢いとして共には生きられない。私は公の急を先にして私の讐を後にしているのだ』。廉頗はこれを聞き、罪を謝した」。

《傅子》曰:「是時何晏以才辯顯於貴戚之閒,鄧颺好交通,合徒黨,鬻聲名於閭閻,夏侯玄以貴臣子,少有重名,皆求交於嘏,嘏不納也。嘏友人荀粲有淸識遠志,然猶勸嘏結交云。」

『傅子』に言う、「このころ何晏は才と弁舌で貴戚の間に名を現し、鄧颺は交わりを広げるのを好んで徒党を組み、巷に名を売り、夏侯玄は貴臣の子として若くして重い名があり、みな傅嘏と交わりたいと求めたが、傅嘏は受け入れなかった。傅嘏の友人の荀粲は清い識見と遠い志をもっていたが、それでも傅嘏に交わりを結ぶよう勧めたという」。

4山少傅の言葉こそ天下の名言だ

晉武帝講武於宣武塲,帝欲偃武修文,親自臨幸,悉召群臣。山公謂不宜爾,因與諸尚書言孫呉用兵本意。遂究論,舉坐無不咨嗟。皆曰:「山少傅乃天下名言。」後諸王驕汰,輕遘禍難,於是寇盜處處蟻合,郡國多以無備,不能制服,遂漸熾盛,皆如公言。時人以謂山濤不學孫呉而闇與之理會。王夷甫亦嘆云:「公闇與道合。」

晋の武帝が宣武場で武を講じたとき、帝は武を伏せて文を修めようとし、自ら臨んで群臣をことごとく召した。

山公はそうすべきではないと言い、そこで尚書たちと孫武・呉起が兵を用いた本来の意図を語った。ついに論を究めると、居並ぶ者すべてが感嘆しないではいられなかった。

みな言った。「山少傅の言葉こそ天下の名言だ。」

後に諸王が驕り奢って軽々しく禍難を招き、そこで盗賊が各地で蟻のように集まった。郡や国はおおむね備えがなく抑え込めなかったので、ついに次第に勢いを増した。すべて公の言ったとおりであった。

当時の人は、山濤は孫武・呉起を学んでいないのに、知らぬうちにその理に合ったと言った。王夷甫もまた感嘆した。「公は知らぬうちに道に合っている。」

夾注 2

《史記》曰:「孫武,齊人。呉起,衞人。並善兵法。」《竹林七賢論》曰:「咸寧中,呉既平,上將爲桃林、華山之事,息役弭兵,示天下以大安。於是州郡悉去兵,大郡置武吏百人,小郡五十人。時京師猶講武,山濤因論孫呉用兵本意。濤爲人常簡默,蓋以爲國者不可以忘戰,故及之。」《名士傳》曰:「濤居魏晉之閒,無所標明,嘗與尚書盧欽言及用兵本意。武帝聞之,曰:『山少傅名言也。』」

『史記』に言う、「孫武は斉の人、呉起は衛の人で、ともに兵法に長けていた」。『竹林七賢論』に言う、「咸寧年間、呉が平定されると、上は桃林・華山の事をおこなって役を休め兵を収め、天下に大いなる安らぎを示そうとした。そこで州郡はみな兵を取り払い、大郡には武吏百人、小郡には五十人を置いた。当時、都ではなお武を講じていたので、山濤はそれに託して孫武・呉起が兵を用いた本来の意図を論じた。山濤は人柄がつねに簡素で寡黙であったが、おそらく国というものは戦を忘れてはならないと考えて、これに及んだのである」。『名士伝』に言う、「山濤は魏と晋の間に在って、何も表立って明らかにしなかったが、かつて尚書の盧欽と兵を用いる本来の意図について語った。武帝がこれを聞いて、『山少傅の名言である』と言った」。

《竹林七賢論》曰:「永寧之後,諸王構禍,狡虜欻起,皆如濤言。」《名士傳》曰:「王夷甫推歎濤『晻晻爲與道合,其深不可測』。皆此類也。」

『竹林七賢論』に言う、「永寧の後、諸王が禍を構え、狡猾な胡虜が突然起こり、すべて山濤の言ったとおりになった」。『名士伝』に言う、「王夷甫は山濤を推して感嘆し、『晻晻として知らぬうちに道に合い、その深さは測りがたい』と言った。みなこの類である」。

5天下を乱す者は、必ずこの子だ

王夷甫父乂爲平北將軍,有公事,使行人論不得。時夷甫在京師,命駕見僕射羊祜、尚書山濤。夷甫時總角,姿才秀異,敘致既快,事加有理,濤甚奇之。既退,看之不輟,乃嘆曰:「生兒不當如王夷甫邪?」羊祜曰:「亂天下者,必此子也!」

王夷甫の父の王乂が平北将軍だったとき、公の用務があって使者を遣わして掛け合わせたが、話がつかなかった。

そのころ夷甫は都にいて、車を出して僕射の羊祜と尚書の山濤に会った。

夷甫はそのころ総角の少年で、姿も才も抜きん出てすぐれており、述べ方がすでに明快で、その上に事に理があったので、山濤は彼をたいそう非凡だと思った。

退いた後も見やるのをやめず、そして感嘆した。「子を生むなら、まさに王夷甫のようであるべきではないか。」

羊祜は言った。「天下を乱す者は、必ずこの子だ。」

夾注 1

《晉陽秋》曰:「夷甫父乂,有簡書,將免官,夷甫年十七,見所繼從舅羊祜,申陳事狀,辭甚俊偉。祜不然之,夷甫拂衣而起。祜顧謂賓客曰:『此人必將以盛名處當世大位,然敗俗傷化者,必此人也!』」《漢晉春秋》曰:「初,羊祜以軍法欲斬王戎,夷甫又忿祜言其必敗,不相貴重。天下爲之語曰:『二王當朝,世人莫敢稱羊公之有德。』」

『晋陽秋』に言う、「夷甫の父の王乂に弾劾の文書があり、官を免じられようとしていた。夷甫は十七歳で、継いだ筋の母方の叔父である羊祜に会い、事の次第を申し述べたが、その言葉はきわめて卓抜で堂々としていた。羊祜がそれを認めなかったので、夷甫は衣を払って立ち上がった。羊祜は賓客を顧みて言った、『この人は必ず盛大な名声によって当代の大位に就くだろう。しかし、風俗を崩し教化を損なう者も、必ずこの人だ』」。『漢晋春秋』に言う、「初め、羊祜は軍法によって王戎を斬ろうとし、夷甫もまた羊祜が自分は必ず敗れると言ったのを憤り、互いに重んじ合わなかった。天下はこれを『二人の王氏が朝廷にあっては、世人は誰も羊公に徳があるとは言えない』と言った」。

6蜂の目はすでに露れているが、豺の声がまだ振るっていないだけだ

潘陽仲見王敦少時,謂曰:「君『蜂目』已露,但『豺聲』未振耳。必能食人,亦當爲人所食。」

潘陽仲は王敦が若いころの彼を見て言った。「君は『蜂の目』がすでに露れているが、ただ『豺の声』がまだ振るっていないだけだ。必ず人を食うことができ、また人に食われることにもなるだろう。」

夾注 1

《晉陽秋》曰:「潘滔字陽仲,滎陽人,太常尼從子也。有文學才識。永嘉末,爲河南尹,遇害。」《漢晉春秋》曰:「初,王夷甫言東海王越,轉王敦爲揚州。潘滔初爲太傅長史,言於太傅曰:『王處仲蜂目已露,豺聲未發,今樹之江外,肆其豪彊之心,是賊之也。』」《晉陽秋》曰:「敦爲太子舍人,與滔同僚,故有此言。」習孫二説,便小遷異。《春秋傳》曰:「楚令尹子上謂世子商臣,蜂目而豺聲,忍人也。」

『晋陽秋』に言う、「潘滔は字は陽仲、滎陽の人で、太常の潘尼の甥である。文学の才と識見があった。永嘉の末に河南尹となり、害に遭った」。『漢晋春秋』に言う、「初め、王夷甫が東海王の司馬越に言って、王敦を揚州へ移させた。潘滔は太傅長史になったばかりのころ、太傅に言った、『王処仲は蜂の目がすでに露れ、豺の声がまだ出ていません。いま彼を江の外に植え、その豪強な心を思うままにさせるのは、賊を育てることです』」。『晋陽秋』に言う、「王敦は太子舎人となり、潘滔と同僚だったので、この言葉があった」。習氏と孫氏の二説は、やや移り違っている。『春秋伝』に言う、「楚の令尹の子上は、世子の商臣を、蜂の目で豺の声、残忍な人だと言った」。

7これがあってよかった

石勒不知書,使人讀《漢書》。聞酈食其勸立六國後,刻印將授之,大驚曰:「此法當失,云何得遂有天下?」至留侯諫,迺曰:「賴有此耳!」

石勒は文字を知らなかったので、人に『漢書』を読ませた。

酈食其が六国の後裔を立てるよう勧め、印を刻んで授けようとしたところを聞くと、大いに驚いて言った。「この手は失敗するはずだ。どうしてついに天下を得られたのか。」

留侯が諫めるところに至って、そこで言った。「これがあってよかった。」

夾注 2

《石勒傳》曰:「勒字世龍,上黨武鄕人,匈奴之苗裔也。雄勇好騎射。晉元康中,流宕山東,與平原茌平人師歡家庸,耳恆聞鼓角鞞鐸之音,勒私異之。初,勒鄕里原上地中生石日長,類鐵騎之象。國中生人參,葩葉甚盛。於時父老相者皆云:『此胡體貌奇異,有不可知。』勸邑人厚遇之,人多哂而不信。永嘉初,豪傑並起,與胡王陽等十八騎詣汲桑,爲左前督。桑敗,共推勒爲主。攻下州縣,都於襄國。後僭正號,死,諡明皇帝。」

『石勒伝』に言う、「勒は字は世竜、上党武郷の人で、匈奴の末裔である。雄々しく勇ましく、騎射を好んだ。晋の元康年間、山東を流れ歩き、平原茌平の人の師歓の家で雇われ働いたが、耳にはつねに鼓・角・鞞・鐸の音が聞こえ、勒は密かにこれを異としていた。初め、勒の郷里の丘の地中に生じた石が日ごとに伸び、鉄騎の姿に似ていた。国中に人参が生じ、花も葉もたいそう盛んであった。そのころ父老や人相見はみな言った、『この胡は体も顔つきも奇異で、測り知れないものがある』。そして邑の人に彼を厚く遇するよう勧めたが、人は多く笑って信じなかった。永嘉の初め、豪傑が並び起こると、胡王の陽ら十八騎とともに汲桑のもとへ行き、左前督となった。桑が敗れると、みなで勒を推して主とした。州県を攻め落とし、襄国に都した。後に僭して帝号を称し、死ぬと諡を明皇帝とした」。

鄧粲《晉紀》曰:「勒手不能書,目不識字,毎於軍中令人誦讀,聽之,皆解其意。」《漢書》曰:「項羽急圍漢王於滎陽,漢王與酈食其謀撓楚權。食其勸立六國後,王令趣刻印。張良入諫,以爲不可。輟食吐哺駡酈生曰:『豎儒幾敗乃公事!』趣令銷印。」

鄧粲の『晋紀』に言う、「勒は手で書けず、目で字を識らなかったので、軍中でいつも人に誦み読ませ、それを聞けばみなその意を解した」。『漢書』に言う、「項羽が漢王を滎陽で急に囲むと、漢王は酈食其と楚の権を挫く策を謀った。食其は六国の後裔を立てるよう勧め、王は急いで印を刻ませた。張良が入って諫め、よくないとした。王は食事をやめ、口の物を吐き出して酈生を罵った、『小僧の儒者め、もう少しでお前の主の事業を台無しにするところだった』。そして急いで印を鋳潰させた」。

8私が老いて、その大成を見られないのが惜しいだけだ

衞玠年五歳,神衿可愛。祖太保曰:「此兒有異,顧吾老,不見其大耳!」

衛玠は五歳のとき、精神も佇まいも愛すべきものだった。

祖父の太保は言った。「この子には人と違うところがある。ただ、私が老いて、その大成を見られないのが惜しいだけだ。」

夾注 1

《晉諸公贊》曰:「瓘字伯玉,河東安邑人。少以明識淸允稱。傅嘏極貴重之,謂之甯武子。仕至太保,爲楚王瑋所害。」《玠別傳》曰:「玠有虚令之秀,淸勝之氣,在群伍之中,有異人之望。祖太保見玠五歳曰:『此兒神爽聰令,與衆大異,恐吾年老,不及見爾。』」

『晋諸公賛』に言う、「瓘は字は伯玉、河東安邑の人である。若くして明らかな識見と清い誠実さで称された。傅嘏は彼をきわめて重んじ、甯武子と呼んだ。官は太保に至り、楚王の司馬瑋に害された」。『玠別伝』に言う、「玠には虚にして美しい秀でたところと、清らかで勝れた気があり、人々の中にあっては人並みでない人物という期待があった。祖父の太保は玠の五歳のころを見て言った、『この子は精神が爽やかで聡く優れ、衆人と大いに違う。私は年老いて、見るまで及ばないのではないかと恐れる』」。

9華彦夏は識見と才が足らず、強引な決断が余っている

劉越石云:「華彦夏識能不足,彊果有餘。」

劉越石は言った。「華彦夏は識見と才が足らず、強引な決断が余っている。」

夾注 1

虞預《晉書》曰:「華軼字彦夏,平原人,魏太尉歆曾孫也。累遷江州刺史。傾心下士,甚得士歡心。以不從元皇命見誅。」《漢晉春秋》曰:「劉琨知軼必敗,謂其自取之也。」

虞預の『晋書』に言う、「華軼は字は彦夏、平原の人で、魏の太尉の華歆の曾孫である。官を重ねて江州刺史に至った。心を傾けて士に身を低くし、士の喜ぶ心をおおいに得た。元皇帝の命に従わなかったため誅された」。『漢晋春秋』に言う、「劉琨は軼が必ず敗れると知り、自ら招いたことだと言った」。

10どうして数千里の外で官に縛られ、名と爵を求められよう

張季鷹辟齊王東曹掾,在洛見秋風起,因思呉中菰菜羹、鱸魚膾,曰:「人生貴得適意爾,何能羈宦數千里以要名爵!」遂命駕便歸。俄而齊王敗,時人皆謂爲見機。

張季鷹は斉王の東曹掾に召されたが、洛陽にいて秋風が立つのを見、それで呉の地の菰菜の羹と鱸の膾を思い出して言った。「人が生きるうえで貴いのは心に適うことを得ることだけだ。どうして数千里の外で官に縛られ、名と爵を求められよう。」

そして車を出すよう命じ、そのまま帰った。

やがて斉王は敗れ、当時の人はみな機を見たのだと言った。

夾注 1

《文士傳》曰:「張翰字季鷹。父儼,呉大鴻臚。翰有淸才美望,博學善屬文,造次立成,辭義淸新。大司馬齊王冏辟爲東曹掾。翰謂同郡顧榮曰:『天下紛紛未已,夫有四海之名者,求退良難。吾本山林間人,無望於時久矣。子善以明防前,以智慮後。』榮捉其手,愴然曰:『吾亦與子採南山蕨,飲三江水爾!』翰以疾歸,府以輙去除吏名。性至孝,遭母艱,哀毀過禮。自以年宿,不營當世,以疾終於家。」

『文士伝』に言う、「張翰は字は季鷹。父の儼は呉の大鴻臚である。翰は清い才と美しい評判があり、博学で文を作るのがうまく、とっさでもすぐに書き上げ、言葉も意味も清新だった。大司馬の斉王司馬冏が召して東曹掾とした。翰は同郡の顧栄に言った、『天下の紛れはまだ止まない。四海に名のある者は、退くことを求めるのが本当に難しい。私はもともと山林の人で、時世に望みを持たなくなって久しい。君は明によく先を防ぎ、智で後を慮りなさい』。顧栄はその手を取り、痛ましげに言った、『私もまた君と南山の蕨を採り、三江の水を飲むだけだ』。翰は病を理由に帰り、府は勝手に去ったとして吏の名を削った。性質はきわめて孝で、母の喪に遭うと哀しみに痩せ衰えて礼を越えた。自ら年を取ったと考え、当世を営まず、病で家に没した」。

11明府は必ず黒髪のうちに公になられる

諸葛道明初過江左,自名道明,名亞王庾之下。先爲臨沂令,丞相謂曰:「明府當爲黑頭公。」

諸葛道明が初めて江左に渡ってきたとき、自ら道明と名乗り、その名は王氏・庾氏の次に位した。

先に臨沂令であったころ、丞相が彼に言った。「明府は必ず黒髪のうちに公になられる。」

夾注 2

《中興書》曰:「恢避難過江,與潁川荀道明、陳留蔡道明倶有名譽,號曰『中興三明』。時人爲之語曰:『京都三明各有名,蔡氏儒雅荀葛淸。』」

『中興書』に言う、「恢は難を避けて江を渡り、潁川の荀道明・陳留の蔡道明とともに名も誉れもあり、『中興の三明』と呼ばれた。当時の人はこれを『京都の三明はそれぞれ名がある。蔡氏は儒雅、荀氏と葛氏は清らかだ』と言った」。

《語林》曰:「丞相拜司空,諸葛道明在公坐,指冠冕曰:『君當復著此。』」

『語林』に言う、「丞相が司空に任じられたとき、諸葛道明は公の席にいて、冠と冕を指して『あなたはまたこれをお召しになるでしょう』と言った」。

12志がその器量より大きい。いずれ砦の間で死ぬだろう

王平子素不知眉子,曰:「志大其量,終當死塢壁間。」

王平子はもともと眉子を認めず、言った。「志がその器量より大きい。いずれ砦の間で死ぬだろう。」

夾注 1

《晉諸公贊》曰:「王玄字眉子,夷甫子也。東海王越辟爲掾,後行陳留太守。大行威罰,爲塢人所害。」

『晋諸公賛』に言う、「王玄は字は眉子、夷甫の子である。東海王の司馬越が召して掾とし、後に陳留太守を代行した。威と罰を大いに行い、砦の人々に害された」。

13楊朗が後に多くの人を見出し、人々はその人を見る眼を称えた

王大將軍始下,楊朗苦諫不從,遂爲王致力,乘「中鳴雲露車」逕前曰:「聽下官鼓音,一進而捷。」王先把其手曰:「事克,當相用爲荊州。」既而忘之,以爲南郡。王敗後,明帝收朗,欲殺之。帝尋崩,得免。後兼三公,署數十人爲官屬。此諸人當時並無名,後皆被知遇,於時稱其知人。

王大将軍が初めて下ってきたとき、楊朗は苦心して諫めたが聞き入れられず、ついに王のために力を尽くした。

「中鳴雲露車」に乗って真っすぐ前に進み出て言った。「下官の鼓の音を聞き、一度進めば勝てます。」

王はまず彼の手を取って言った。「事が成ったら、君を荊州に用いよう。」

ところがそれを忘れ、南郡に任じた。

王が敗れた後、明帝は朗を捕らえて殺そうとした。帝がやがて崩じたので、免れることができた。

後に三公を兼ね、数十人を官属に置いた。この人々は当時はいずれも無名であったが、後にみな知遇を得たので、当時の人は彼の人を見る眼を称えた。

夾注 1

《晉百官名》曰:「朗字世彦,弘農人。」《楊氏譜》曰:「朗祖囂,典軍校尉。父淮,冀州刺史。」王隱《晉書》曰:「朗有器識才量,善能當世。仕至雍州刺史。」

『晋百官名』に言う、「朗は字は世彦、弘農の人である」。『楊氏譜』に言う、「朗の祖父の囂は典軍校尉、父の淮は冀州刺史である」。王隠の『晋書』に言う、「朗は器量と識見、才と度量があり、当世によく適った。官は雍州刺史に至った」。

14ただ阿奴だけが平凡で、お母さまの目の届くところにいるでしょう

周伯仁母冬至舉酒賜三子曰:「吾本謂度江託足無所。爾家有相,爾等並羅列吾前,復何憂?」周嵩起,長跪而泣曰:「不如阿母言。伯仁爲人志大而才短,名重而識闇,好乘人之弊,此非自全之道。嵩性狼抗,亦不容於世。唯阿奴碌碌,當在阿母目下耳!」

周伯仁の母は冬至の日に酒を挙げて三人の子に賜わり、言った。「私はもともと、江を渡れば足を託す所もあるまいと思っていた。お前たちの家には天の助けがあり、お前たちがそろって私の前に並んでいる。これ以上何を心配しよう。」

周嵩は立ち上がり、長跪して泣きながら言った。「お母さまの言うようではありません。伯仁は人柄として志は大きいが才は短く、名は重いが識見は暗く、人の弱みに乗るのを好みます。これは自らを全うする道ではありません。私は性質が荒く強張っていて、やはり世に容れられません。ただ阿奴だけが平凡で、きっとお母さまの目の届くところにいるでしょう。」

夾注 1

鄧粲《晉紀》曰:「阿奴,嵩之弟周謨也。」三周並已見。

鄧粲の『晋紀』に言う、「阿奴は嵩の弟の周謨である」。三人の周氏はいずれもすでに見えている。

15それこそ行くべき理由です

王大將軍既亡,王應欲投世儒,世儒爲江州。王含欲投王舒,舒爲荊州。含語應曰:「大將軍平素與江州云何?而汝欲歸之。」應曰:「此迺所以宜往也。江州當人彊盛時,能抗同異,此非常人所行。及覩衰厄,必興愍惻。荊州守文,豈能作意表行事?」含不從,遂共投舒。舒果沈含父子於江。彬聞應當來,密具船以待之,竟不得來,深以爲恨。

王大将軍が死ぬと、王応は世儒のもとへ行こうとした。世儒は江州にいた。王含は王舒のもとへ行こうとした。王舒は荊州にいた。

王含は応に言った。「大将軍は平素、江州とどうであったか。それなのにお前は彼のもとへ行こうというのか。」

応は言った。「それこそ行くべき理由です。江州は人が強く盛んなときにも異を唱えて抗することができました。これは並の人のすることではありません。衰えて行き詰まったのを見れば、必ず憐れみの心を起こすでしょう。荊州は文を守る人です。どうして思いの外のことができましょうか。」

王含は従わず、ついにともに舒のもとへ行った。舒は果たして含父子を江に沈めた。

彬は応が来ると聞いて、ひそかに船を用意して待っていたが、ついに来られなかったので、深くそれを恨んだ。

夾注 4

《晉陽秋》曰:「應字安期,含子也。敦無子,養爲嗣,以爲武衞將軍,用爲副貳,伏誅。」

『晋陽秋』に言う、「応は字は安期、含の子である。敦に子がなく、養って嗣とし、武衛将軍として副とした。誅に伏した」。

《王彬別傳》曰:「彬字世儒,琅邪人。祖覽,父正,並有名德。彬爽氣出儕類,有雅正之韻。與元帝姨兄弟,佐佑皇業,累遷侍中。從兄敦下石頭,害周伯仁,彬與顗素善,往哭其屍,甚慟。既而見敦,敦怪其有慘容而問之。答曰:『向哭周伯仁,情不能已。』敦曰:『伯仁自致刑戮,汝復何爲者哉?』彬曰:『伯仁淸譽之士,有何罪?』因數敦曰:『抗旌犯上,殺戮忠良!』音辭慷慨,與涙倶下。敦怒甚。丞相在坐,代爲之解,命彬曰:『拜謝。』彬曰:『有足疾。比來見天子尚不能拜,何跪之有?』敦曰:『腳疾何如頸疾?』以親故不害之。累遷江州刺史、左僕射。贈衞將軍。」

『王彬別伝』に言う、「彬は字は世儒、琅邪の人である。祖父の覽と父の正はともに名と徳があった。彬は爽やかな気が同輩に抜きんでており、雅正な趣があった。元帝と母方の従兄弟で、皇室の業を助け、官を重ねて侍中に至った。従兄の敦が石頭に下って周伯仁を害したとき、彬は顗ともとから親しかったので、行ってその屍に哭し、ひどく悲しんだ。やがて敦に会うと、敦はその痛ましい顔つきを怪しんで尋ねた。答えて言った、『先ほど周伯仁に哭して、情を抑えられませんでした』。敦は『伯仁は自ら刑死を招いたのだ。お前は何をしているのか』と言い、彬は『伯仁は清い評判の士です。何の罪がありましょう』と言い、そこで敦を責めた、『旗を挙げて上を犯し、忠良を殺戮しました』。声も言葉も激しく、涙とともに流れ落ちた。敦はひどく怒った。丞相が席にいて代わりに取りなそうとし、彬に『拝して謝れ』と命じた。彬は『足の病があります。近ごろは天子にお目にかかってさえ拝せません。どうして跪けましょう』と言い、敦は『足の病は首の病とどちらがましか』と言った。身内であるゆえに彼を害さなかった。官を重ねて江州刺史・左僕射に至り、衛将軍を贈られた」。

《傳》曰:「舒字處明,琅邪人。祖覽,知名。父會,御史。舒器業簡素,有文武榦。中宗用爲北中郎將、荊州刺史、尚書僕射。出爲會稽太守。以父名會,累表自陳。討蘇峻有功,封彭澤侯,贈車騎大將軍。」

『伝』に言う、「舒は字は処明、琅邪の人である。祖父の覽は名が知られ、父の会は御史である。舒は器量も仕事ぶりも簡素で、文武の才幹があった。中宗が用いて北中郎将・荊州刺史・尚書僕射とした。会稽太守として出たが、父の名が会であるため、何度も表を上げて自ら申し述べた。蘇峻を討って功があり、彭澤侯に封じられ、車騎大将軍を贈られた」。

含之投舒,舒遣軍逆之,含父子赴水死。昔酈寄賣友見譏,況販兄弟以求安,舒非人矣!

含が舒のもとへ行くと、舒は軍を遣わして迎え、含父子は水に入って死んだ。昔、酈寄は友を売って譏られた。まして兄弟を売り渡して安らぎを求めたのだから、舒は人ではない。

16この方は少し人と違う。これではないか

武昌孟嘉作庾太尉州從事,已知名。褚太傅有知人鑒,罷豫章還,過武昌,問庾曰:「聞孟從事佳,今在此不?」庾云:「卿自求之。」褚眄睞良久,指嘉曰:「此君小異,得無是乎?」庾大笑曰:「然!」於時既嘆褚之默識,又欣嘉之見賞。

武昌の孟嘉は庾太尉の州従事となり、すでに名を知られていた。

褚太傅は人を見抜く眼があった。豫章の任を辞して帰る途中、武昌に立ち寄って庾公に尋ねた。「孟従事は良い人物だと聞いたが、いまここにいるか。」

庾公は言った。「君が自分で探してみよ。」

褚太傅はしばらく見回し、嘉を指して言った。「この方は少し人と違う。これではないか。」

庾公は大いに笑って言った。「そのとおりだ。」

そのとき人々は褚太傅の黙した識見に感嘆し、また嘉が認められたことを喜んだ。

夾注 1

《嘉別傳》曰:「嘉字萬年,江夏鄳人。曾祖父宗,呉司空。祖父揖,晉廬陵太守。宗葬武昌陽新縣,子孫家焉。嘉少以淸操知名。太尉庾亮領江州,辟嘉部廬陵從事。下都還,亮引問風俗得失。對曰:『待還,當問從事吏。』亮舉麈尾掩口而笑,語弟翼曰:『孟嘉故是盛德人。』轉勸學從事。太傅褚裒有器識,亮正旦大會,裒問亮:『聞江州有孟嘉,何在?』亮曰:『在坐,卿但自覓。』裒歴觀久之,指嘉曰:『將無是乎?』亮欣然而笑,喜裒得嘉,奇嘉爲裒所得,乃益器之。後爲征西桓温參軍,九月九日温遊龍山,參寮畢集,時佐史並著戎服,風吹嘉帽墮落,温戒左右勿言,以觀其舉止。嘉初不覺,良久如廁,命取還之。令孫盛作文嘲之,成,著嘉坐。嘉還即答,四坐嗟歎。嘉喜酣暢,愈多不亂。温問:『酒有何好?而卿嗜之。』嘉曰:『明公未得酒中趣爾。』又問:『聽伎,絲不如竹,竹不如肉,何也?』答曰:『漸近自然。』轉從事中郎,遷長史。年五十三而卒。」

『嘉別伝』に言う、「嘉は字は万年、江夏鄳の人である。曾祖父の宗は呉の司空、祖父の揖は晋の廬陵太守である。宗が武昌陽新県に葬られ、子孫はそこに住みついた。嘉は若くして清い操で名を知られた。太尉の庾亮が江州を領すると、嘉を召して廬陵の従事に配した。都へ下って帰ると、亮は話を引き出して風俗の是非を尋ねた。答えて言った、『帰るのを待って、従事の吏に尋ねるべきでしょう』。亮は麈尾を挙げて口を覆って笑い、弟の翼に言った、『孟嘉はさすがに徳の盛んな人だ』。そして勧学従事に移した。太傅の褚裒は器量と識見があった。亮が元旦に大いに人を集めたとき、裒は亮に尋ねた、『江州に孟嘉がいると聞いたが、どこにいるのか』。亮は『席にいる。君はただ自分で見つけよ』と言った。裒はしばらく一人ずつ見てゆき、嘉を指して『これではあるまいか』と言った。亮は嬉しそうに笑い、裒が嘉を見つけたのを喜び、嘉が裒に見つけられたのを非凡だと思って、いよいよ彼を重んじた。後に征西将軍の桓温の参軍となった。九月九日、温が龍山に遊んだとき、参佐も僚属もことごとく集まり、そのとき佐史はみな軍服を着ていた。風が吹いて嘉の帽が落ちたが、温は左右に言うなと戒め、その振る舞いを見ようとした。嘉は初め気づかず、しばらくして厠に立ったので、命じて取って返させた。孫盛に文を作らせてからかわせ、できあがると嘉の席に置いた。嘉は戻るとすぐに答え、満座は感嘆した。嘉は心ゆくまで飲むのを喜び、多く飲むほどいよいよ乱れなかった。温が尋ねた、『酒に何の良さがあって、君はこれを好むのか』。嘉は『明公がまだ酒の中の趣を得ておられないだけです』と言った。また尋ねた、『伎を聴くとき、糸は竹に及ばず、竹は肉に及ばない。どうしてか』。答えて言った、『次第に自然に近づくからです』。従事中郎に移り、長史に遷った。五十三歳で没した」。

17この子はただ絵が上手いだけではない

戴安道年十餘歳,在瓦官寺畫。王長史見之曰:「此童非徒能畫,亦終當致名。恨吾老,不見其盛時耳!」

戴安道は十余歳のとき、瓦官寺で絵を描いていた。

王長史はそれを見て言った。「この子はただ絵が上手いだけではない。いずれ必ず名を成すだろう。私が老いて、その盛りの時を見られないのが残念だ。」

夾注 1

《續晉陽秋》曰:「逵善圖畫,窮巧丹靑也。」

『続晋陽秋』に言う、「逵は絵が巧みで、丹青の技を極めた」。

18君たちは本当に殷淵源が起たないことを憂えているのか

王仲祖、謝仁祖、劉眞長倶至丹陽墓所省殷揚州,殊有確然之志。既反,王謝相謂曰:「淵源不起,當如蒼生何?」深爲憂嘆。劉曰:「卿諸人眞憂淵源不起邪?」

王仲祖・謝仁祖・劉真長がそろって丹陽の墓所まで行って殷揚州を見舞ったが、殷はかなり固く定まった志を持っていた。

帰ってから王と謝は言い合った。「淵源が起たなければ、蒼生をどうしたらよいのか。」

深く憂えて嘆いた。

劉は言った。「君たちは本当に淵源が起たないことを憂えているのか。」

夾注 1

《中興書》曰:「浩棲遲積年,累聘不至。」

『中興書』に言う、「浩は長年退いて暮らし、何度招かれても出てこなかった」。

19彼を行かせれば必ず西楚を平定できますが、二度と抑えられなくなるのではないかと恐れます

小庾臨終,自表以子園客爲代。朝廷慮其不從命,未知所遣,乃共議用桓温。劉尹曰:「使伊去,必能克定西楚,然恐不可復制。」

小庾が臨終のとき、自ら表を上げて子の園客を代わりに立てようとした。

朝廷は彼が命に従わないことを心配し、誰を遣わすべきか分からず、そこで相談して桓温を用いることにした。

劉尹は言った。「彼を行かせれば、必ず西楚を平定できます。しかし、二度と抑えられなくなるのではないかと恐れます。」

夾注 2

園客,爰之小字也。《庾氏譜》曰:「爰之字仲眞,翼第二子。」《中興書》曰:「爰之有父翼風,桓温徙於豫章。年三十六而卒。」

園客は爰之の幼名である。『庾氏譜』に言う、「爰之は字は仲真、翼の第二子である」。『中興書』に言う、「爰之には父の翼の風格があったが、桓温が豫章へ移した。三十六歳で没した」。

《陶侃別傳》曰:「庾翼薨,表其子爰之代爲荊州。何充曰:『陶公重勳也,臨終髙讓。丞相未薨,敬豫爲四品將軍,於今不改。親則道恩,優遊散騎,未有超卓若此之授。』乃以徐州刺史桓温爲安西將軍、荊州刺史。」宋明帝《文章志》曰:「翼表其子代任,朝廷畏憚之,議者欲以授桓温。時簡文輔政,然之。劉惔曰:『温去必能定西楚,然恐不能復制。願大王自鎭上流,惔請爲從軍司馬。』簡文不許。温後果如惔所算也。」

『陶侃別伝』に言う、「庾翼が薨じ、その子の爰之を代わりに荊州とするよう表した。何充は言った、『陶公は重い勲功がありながら、臨終に高く譲りました。丞相がまだ薨じないころ、敬豫は四品将軍で、今に至るまで改まっていません。親しさでいえば道恩が散騎に悠々としています。これほど飛び越えた授け方はまだありません』。そこで徐州刺史の桓温を安西将軍・荊州刺史とした」。宋の明帝の『文章志』に言う、「翼がその子に任を代わらせるよう表すと、朝廷はこれを畏れ、議する者は桓温に授けようとした。当時、簡文が輔政しており、それを可とした。劉惔は言った、『温が行けば必ず西楚を平定できますが、二度と抑えられなくなるのではないかと恐れます。願わくは大王みずから上流を鎮められますように。惔は従軍司馬となることをお願いします』。簡文は許さなかった。温は後に果たして惔の計算したとおりであった」。

20彼の博打を見るに、必ず取れるのでなければやりません

桓公將伐蜀,在事諸賢咸以李勢在蜀既久,承藉累葉,且形據上流,三峽未易可克。唯劉尹云:「伊必能克蜀。觀其蒲博,不必得,則不爲。」

桓公が蜀を討とうとしたとき、事に当たった賢者たちはみな、李勢が蜀にいてすでに久しく、数代を受け継いでおり、しかも地勢として上流を占めているので、三峡はたやすく攻め落とせないとした。

ただ劉尹だけが言った。「彼は必ず蜀を落とせます。彼の博打を見るに、必ず取れるのでなければやりません。」

夾注 1

《華陽國志》曰:「李勢字子仁,洛陽臨渭人。本巴西宕渠賨人也。其先李特,因晉亂據蜀,特子雄,稱號成都。勢祖驤,特弟也。驤生壽,壽篡位自立,勢即壽子也。晉安西將軍伐蜀,勢歸降,遷之揚州。自起至亡,六世三十七年。」《温別傳》曰:「初,朝廷以蜀處險遠,而温衆寡少,縣軍深入,甚以憂懼。而温直指成都,李勢面縛。」《語林》曰:「劉尹見桓公毎嬉戲必取勝,謂曰:『卿乃爾好利,何不焦頭?』及伐蜀,故有此言。」

『華陽国志』に言う、「李勢は字は子仁、洛陽臨渭の人である。もとは巴西宕渠の賨人である。その先祖の李特は晋の乱に乗じて蜀を占め、特の子の雄は成都で号を称した。勢の祖父の驤は特の弟である。驤が寿を生み、寿が位を奪って自ら立ち、勢は寿の子である。晋の安西将軍が蜀を討つと、勢は帰順し、揚州へ移された。起こりから亡ぶまで六世三十七年である」。『温別伝』に言う、「初め、朝廷は蜀が険しく遠い地にあり、温の軍勢が少なく、孤立した軍で深く入ることを、たいそう憂え恐れた。ところが温は真っすぐ成都を指し、李勢は面縛して降った」。『語林』に言う、「劉尹は桓公が遊ぶたびに必ず勝ちを取ろうとするのを見て、言った、『君はそれほど利を好むのか。どうして頭を焦がさないのだ』。蜀を討つに至って、まさにこの言葉があった」。

21すでに人と楽しみを共にしたのだから、人と憂いを共にせずにはいられない

謝公在東山畜妓,簡文曰:「安石必出。既與人同樂,亦不得不與人同憂。」

謝公が東山で妓女を抱えていたので、簡文は言った。「安石は必ず出てくる。すでに人と楽しみを共にしたのだから、人と憂いを共にせずにはいられない。」

夾注 1

宋明帝《文章志》曰:「安縱心事外,踈略常節,毎畜女妓,攜持遊肆也。」

宋の明帝の『文章志』に言う、「安は心を事の外に放ち、常の節度を疎かにし、女妓を抱えるたびに連れ歩いて気ままに遊んだ」。

22履や下駄を履くようなわずかな事でさえ、それぞれふさわしい者を得ていた

郗超與謝玄不善。苻堅將問晉鼎,既已狼噬梁岐,又虎視淮陰矣。於時朝議遣玄北討,人間頗有異同之論。唯超曰:「是必濟事。吾昔嘗與共在桓宣武府,見使才皆盡,雖履屐之間,亦得其任。以此推之,容必能立勳。」元功既舉,時人咸嘆超之先覺,又重其不以愛憎匿善。

郗超は謝玄と仲が良くなかった。

苻堅が晋の鼎を問おうとし、すでに梁と岐を狼のように食い取り、さらに淮陰を虎のように睨んでいた。

そのころ朝廷の議は玄を遣わして北を討たせようとし、人々の間にはかなり異論があった。

ただ超だけが言った。「これは必ず事を成し遂げる。私は昔、彼とともに桓宣武の府にいたが、才の使い方を見るに、どれも使い切っていた。履や下駄を履くようなわずかな事でさえ、それぞれふさわしい者を得ていた。これから推すに、おそらく必ず勲を立てられるだろう。」

大きな功が挙がると、当時の人はみな超の先見を感嘆し、また愛憎によって人の善を隠さなかったことを重んじた。

夾注 2

車頻《秦書》曰:「苻堅字永固,武都氐人也。本姓蒲,祖父洪,詐稱讖文,改曰『符』。言已當王,應符命也。堅初生,有赤光流其室,及誕,背赤色隱起,若篆文。幼有美度,石虎司隸徐正名知人,堅六歳時,嘗戲於路,正見而異焉,問曰:『符郎!此官街,小兒行戲,不畏縛邪?』堅曰:『吏縛有罪,不縛小兒。』正謂左右曰:『此兒有王霸相。』石氏亂,伯父健及父雄西入關,健夢天神使者朱衣冠,拜肩頭爲龍驤將軍。肩頭,堅小字也。健即拜爲龍驤,以應神命。後健僭帝號。死,子生立,凶暴,群臣殺之而立堅。堅立十五年,遣長樂公丕攻沒襄陽。十九年,大興師伐晉,衆號百萬,水陸倶進,次於項城。自項城至長安,連旗千里,首尾不絶。乃遣告晉曰:『已爲晉君於長安城中建廣夏之室,今故大舉渡江相迎,克日入宅也。』」

車頻の『秦書』に言う、「苻堅は字は永固、武都の氐の人である。もとの姓は蒲で、祖父の洪が讖文を偽って称し、『符』に改めた。自分が王となるべきで、符命に応じるのだと言ったのである。堅が生まれたとき、赤い光がその室に流れ、生まれると背に赤い色が浮き出て篆文のようであった。幼くして美しい度量があった。石虎の司隷の徐正は人を見抜くことで名があり、堅が六歳のころ、路上で遊んでいた。正はそれを見て異とし、尋ねた、『符郎よ、ここは官の街だ。小児が遊び歩いて、縛られるのが怖くないのか』。堅は『吏は罪ある者を縛るのであって、小児を縛りはしない』と答えた。正は左右に言った、『この子には王覇の相がある』。石氏が乱れると、伯父の健と父の雄は西へ関中に入り、健は天神の使者が朱衣朱冠で肩頭を拝して竜驤将軍とする夢を見た。肩頭は堅の幼名である。健はただちに竜驤将軍に任じ、神の命に応えた。後に健は僭して帝号を称した。死ぬと子の生が立ったが、凶暴だったので群臣が彼を殺して堅を立てた。堅が立って十五年、長楽公の丕を遣わして襄陽を攻め落とした。十九年、大いに兵を起こして晋を討ち、軍勢は百万と号し、水陸ともに進んで項城に留まった。項城から長安まで旗が連なって千里、首尾が絶えなかった。そして晋に告げて言った、『すでに晋の君のために長安城中に広く大きな邸を建てた。いま大挙して江を渡って迎えに行き、日を決めて邸に入っていただく』」。

《中興書》曰:「於時氐賊彊盛,朝議求文武良將可鎭靖北方者。衞大將軍安曰:『唯兄子玄可任此事。』中書郎郗超聞而歎曰:『安違衆舉親,明也。玄必不負其舉。』」

『中興書』に言う、「そのころ氐の賊が強く盛んで、朝議は北方を鎮め静められる文武の良将を求めた。衛大将軍の安は『ただ兄の子の玄だけがこの事を任せられます』と言った。中書郎の郗超はそれを聞いて感嘆した、『安が衆に逆らって親族を挙げたのは、明である。玄は必ずその推挙を裏切らないだろう』」。

23この人は名を好む。必ずよく戦うだろう

韓康伯與謝玄亦無深好。玄北征後,巷議疑其不振。康伯曰:「此人好名,必能戰。」玄聞之甚忿,常於衆中厲色曰:「丈夫提千兵,入死地,以事君親,故發,不得復云爲名!」

韓康伯も謝玄とは深く親しくはなかった。

玄が北征した後、巷の議は彼が振るわないのではないかと疑った。

康伯は言った。「この人は名を好む。必ずよく戦うだろう。」

玄はそれを聞いてひどく憤り、いつも人々の中で厳しい顔つきをして言った。「男子が千の兵を率いて死地に入り、君と親に仕えようとして立つのだ。それを名のためだなどと二度と言わせはしない。」

夾注 1

《續晉陽秋》曰:「玄識局貞正,有經國之才略。」

『続晋陽秋』に言う、「玄は識見と器局が貞正で、国を経める才略があった」。

24褚期生がもし良くなかったなら、私は二度と士を見定めるまい

褚期生少時,謝公甚知之,恆云:「褚期生若不佳者,僕不復相士。」

褚期生が若いころ、謝公は彼をたいそう高く買い、いつも言った。「褚期生がもし良くなかったなら、私は二度と士を見定めるまい。」

夾注 1

期生,褚爽小字也。《續晉陽秋》曰:「爽字茂弘,河南人。太傅裒之孫,祕書監韶之子。太傅謝安見其少時,歎曰:『若期生不佳,我不復論士。』及長,果俊邁有風氣。好《老》《莊》之言,當世榮譽,弗之屑也。唯與殷仲堪善。累遷中書郎、義興太守。女爲恭帝皇后。」

期生は褚爽の幼名である。『続晋陽秋』に言う、「爽は字は茂弘、河南の人である。太傅の裒の孫、秘書監の韶の子である。太傅の謝安は彼の若いころを見て感嘆した、『もし期生が良くなかったなら、私は二度と士を論じまい』。成長すると、果たして俊でき優れ、風格と気韻があった。『老子』『荘子』の言を好み、当世の栄誉を意に介さなかった。ただ殷仲堪とだけ親しかった。官を重ねて中書郎・義興太守に至った。娘は恭帝の皇后となった」。

25下の子は才も名もまさっているが、あなたの家を保つのは結局は兄の方だろう

郗超與傅瑗周旋,瑗見其二子並總髮。超觀之良久,謂瑗曰:「小者才名皆勝,然保卿家,終當在兄。」即傅亮兄弟也。

郗超は傅瑗と行き来していたが、瑗はその二人の子がそろって総髪であるのを見せた。

超はしばらく見てから瑗に言った。「下の子は才も名もまさっているが、あなたの家を保つのは、結局は兄の方だろう。」

これが傅亮の兄弟である。

夾注 1

《傅氏譜》曰:「瑗字叔玉,北地靈州人。歴護軍長史、安城太守。」《宋書》曰:「迪字長猷,瑗長子也。位至五兵尚書。贈太常。」丘淵之《文章録》曰:「亮字季友,迪弟也。歴尚書令,仕光祿大夫。元嘉三年,以罪伏誅。」

『傅氏譜』に言う、「瑗は字は叔玉、北地霊州の人である。護軍長史・安城太守を歴任した」。『宋書』に言う、「迪は字は長猷、瑗の長子である。位は五兵尚書に至り、太常を贈られた」。丘淵之の『文章録』に言う、「亮は字は季友、迪の弟である。尚書令を歴任し、光禄大夫として仕えた。元嘉三年、罪により誅に伏した」。

26おそらく阿大はお前の友ではあるまい

王恭隨父在會稽,王大自都來拜墓。恭暫往墓下看之,二人素善,遂十餘日方還。父問恭:「何故多日?」對曰:「與阿大語,蟬連不得歸。」因語之曰:「恐阿大非爾之友。」終乖愛好,果如其言。

王恭は父に従って会稽にいたが、王大が都から来て墓に参った。

恭はしばらく墓のある所へ行って彼に会ったが、二人はもともと親しかったので、結局十余日たってようやく帰った。

父は恭に尋ねた。「どうして何日もかかったのか。」

答えた。「阿大と話していて、話が続いて帰れませんでした。」

そこで父は彼に言った。「おそらく阿大はお前の友ではあるまい。」

ついに親しみは崩れ、果たしてその言葉のとおりになった。

夾注 2

恭父蘊、王忱,並已見。

恭の父の蘊と王忱は、いずれもすでに見えている。

忱與恭爲王緒所閒,終成怨隙。別見。

忱と恭は王緒に離間され、ついに怨みと隙を生じた。別に見える。

27この子はいずれ高い名を成すだろう

車胤父作南平郡功曹,太守王胡之避司馬無忌之難,置郡於酆陰。是時胤十餘歳,胡之毎出,嘗於籬中見而異焉。謂胤父曰:「此兒當致髙名。」後遊集,恆命之。胤長,又爲桓宣武所知。淸通於多士之世,官至選曹尚書。

車胤の父が南平郡の功曹になったが、太守の王胡之は司馬無忌の難を避けて、郡の庁を酆陰に置いた。

このとき胤は十余歳で、胡之は外へ出るたびに、垣根の中に彼を見かけて異としていた。

胤の父に言った。「この子はいずれ高い名を成すだろう。」

後に遊びや集まりのたびに、いつも彼を呼んだ。

胤が成長すると、さらに桓宣武にも認められた。士の多い世にあって清らかに通じ、官は選曹尚書に至った。

夾注 1

《續晉陽秋》曰:「胤字武子,南平人。父育,爲郡主簿。太守王胡之有知人識,裁見,謂其父曰:『此兒當成卿門戸,宜資令學問。』胤就業恭勤,博覽不倦。家貧不常得油,夏月則練囊盛數十螢火以繼日焉。及長,風姿美劭,機悟敏率。桓温在荊州取爲從事,一歳至治中。胤既博學多聞,又善於激賞,當時毎有盛坐,胤必同之,皆云:『無車公不樂。』太傅謝公遊集之日,開筵以待之。累遷丹陽尹、護軍將軍、吏部尚書。」

『続晋陽秋』に言う、「胤は字は武子、南平の人である。父の育は郡の主簿であった。太守の王胡之は人を見抜く識見があり、ひと目見て父に言った、『この子はきっとあなたの家を立てるだろう。助けて学問をさせるとよい』。胤は学業に励んで恭しく勤勉で、広く読んで倦むことがなかった。家が貧しくていつも油を手に入れられなかったので、夏の月には練絹の袋に蛍を数十匹入れて、昼の明かりの代わりにした。成長すると風姿は美しく立派で、察しが早く率直であった。桓温が荊州で彼を取って従事とし、一年で治中に至った。胤は博学で聞くところも多く、その上ほめて励ますのが上手だったので、当時は盛大な席があるたびに胤が必ず同席し、みな『車公がいなければ楽しくない』と言った。太傅の謝公は遊びや集まりの日には席を設けて彼を待った。官を重ねて丹陽尹・護軍将軍・吏部尚書に至った」。

28仲堪のこの挙は、まさに国の亡びる兆しだ

王忱死,西鎭未定,朝貴人人有望。時殷仲堪在門下,雖居機要,資名輕小,人情未以方嶽相許。晉孝武欲拔親近腹心,遂以殷爲荊州。事定,詔未出。王珣問殷曰:「陝西何故未有處分?」殷曰:「已有人。」王歴問公卿,咸云「非」。王自計才地必應在己,復問:「非我邪?」殷曰:「亦似非。」其夜詔出用殷。王語所親曰:「豈有黃門郎而受如此任?仲堪此舉迺是國之亡徴。」

王忱が死んで西の鎮がまだ定まらず、朝廷の貴顕は誰もがそれを望んでいた。

そのころ殷仲堪は門下にあって、要職にいたとはいえ、履歴も名も軽く小さく、人々の気持ちはまだ彼に一方の大鎮を許していなかった。

晋の孝武帝は親しく腹心の者を抜擢しようとし、そこで殷を荊州とした。事は決まったが、詔はまだ出ていなかった。

王珣は殷に尋ねた。「陝西はどうしてまだ処分がないのか。」

殷は言った。「もう人は決まっている。」

王が公卿を順に挙げて尋ねると、どれも「違う」と言った。

王は自分の才と家柄からすれば必ず自分のはずだと考え、重ねて尋ねた。「私ではないのか。」

殷は言った。「それも違うようだ。」

その夜、詔が出て殷が用いられた。

王は親しい者に言った。「黄門郎の身でこのような任を受けることがあるものか。仲堪のこの挙は、まさに国の亡びる兆しだ。」

夾注 1

《晉安帝紀》曰:「孝武深爲晏駕後計,擢仲堪代王忱爲荊州。仲堪雖有美譽,議者未以方嶽相許也。既受腹心之任,居上流之重,議者謂其殆矣。終爲桓玄所敗。」

『晋安帝紀』に言う、「孝武は深く自分の死後のことを計り、仲堪を抜いて王忱に代えて荊州とした。仲堪には美しい評判があったが、議する者はまだ一方の大鎮を許していなかった。腹心の任を受け、上流の重きに居ると、議する者は危ういと言った。ついに桓玄に敗られた」。