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規箴世説新語 規箴第十

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 27 · 漢字 2,060字 · 朗読 8.2分

世説新語(世に語られた新しい話) 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1帝がどうしておまえの乳を飲ませた時の恩を覚えておられようか

漢武帝乳母嘗於外犯事,帝欲申憲;乳母求救東方朔。朔曰:「此非脣舌所爭。爾必望濟者,將去時,但當屢顧帝,慎勿言;此或可萬一冀耳。」乳母既至,朔亦侍側,因謂曰:「汝痴耳!帝豈復憶汝乳哺時恩邪?」帝雖才雄心忍,亦深有情戀;乃淒然愍之,即敕免罪。

漢の武帝の乳母がかつて宮の外で罪を犯し、帝が法を行おうとしたので、乳母は東方朔に救いを求めた。

東方朔は言った。「これは唇や舌で争うことではない。あなたがどうしても救われたいなら、去るときにただ帝を幾度も振り返り、くれぐれも物を言わないことだ。そうすれば万に一つの望みがあるかもしれない」

乳母が参上すると、東方朔も傍に侍っていて、そこで言った。「おまえは愚かだ。帝がどうしておまえの乳を飲ませた時の恩を今も覚えておられようか」

帝は才が雄々しく心は非情であったが、やはり深く情と慕わしさがあり、そこで悲しんで乳母を憐れみ、すぐに罪を免ずるよう命じた。

夾注 2

漢書曰:「朔字曼倩,平原厭次人。」朔別傳曰:「朔,南陽步廣里人。」列仙傳云:「朔是楚人。武帝時上書說便宜,拜郎中。宣帝初,棄官而去,共謂歲星也。」

『漢書』に言う。「東方朔は字は曼倩、平原厭次の人である」。『朔別伝』に言う。「東方朔は南陽歩広里の人である」。『列仙伝』に言う。「東方朔は楚の人である。武帝のとき上書して便宜を説き、郎中に任ぜられた。宣帝の初めに官を捨てて去り、皆は歳星だと言った」

史記滑稽傳曰:「漢武帝少時,東武侯母嘗養帝,後號大乳母。其子孫從奴,橫暴長安中,當道奪人衣物。有司請徙乳母於邊,奏可。乳母入辭。帝所幸倡郭舍人發言陳辭,雖不合大道,然令人主和說。乳母乃先見,為下泣。舍人曰:『即入辭,勿去,數還顧。』乳母如其言。舍人疾言罵之曰:『咄!老女子,何不疾行,陛下已壯矣,寧尚須乳母活邪?尚何還顧邪?』於是人主憐之。詔止毋徙,罰請者。」

『史記・滑稽伝』に言う。「漢の武帝が幼いころ、東武侯の母がかつて帝を養ったので、のちに大乳母と呼ばれた。その子孫や従者が長安の中で横暴にふるまい、道をふさいで人の衣類や品物を奪った。担当の役人が乳母を辺境に移すよう請い、奏したとおりにせよとなった。乳母が入って別れを告げた。帝が気に入っていた芸人の郭舎人は、口をきいて言葉を並べると、大道にはかなわないものの、主君を和ませ喜ばせることができた。乳母はそこでまず郭舎人に会い、その前で泣いた。舎人は『入って別れを告げるとき、すぐには去らず、幾度も振り返りなさい』と言い、乳母はそのとおりにした。舎人は早口で罵った。『こら、老いた女め、なぜ早く行かぬ。陛下はもうご成人なさった。まだ乳母を頼って生きていかれようか。なにを振り返っているのだ』。そこで主君は乳母を憐れみ、詔して移すのをやめさせ、請うた役人を罰した」

2のちの世が今を見るのも今が昔を見るのと同じではないかと恐れる

京房與漢元帝共論,因問帝:「幽、厲之君何以亡?所任何人?」答曰:「其任人不忠。」房曰:「知不忠而任之,何邪?」曰:「亡國之君,各賢其臣,豈知不忠而任之?」房稽首曰:「將恐今之視古,亦猶後之視今也。」

京房が漢の元帝とともに論じていて、そのついでに帝に問うた。「幽王・厲王はどうして滅びたのですか。任用したのはどんな人物ですか」

答えた。「その任用した人が忠でなかったのだ」

京房は言った。「忠でないと知りながら任用したのなら、どういうことでしょうか」

言った。「国を滅ぼす君主はそれぞれ自分の臣を賢いと思うものだ。どうして忠でないと知りながら任用しようか」

京房は頭を地につけて言った。「のちの世が今を見るのも、今が昔を見るのと同じではないかと恐れます」

夾注 1

漢書曰:「京房字君明,東郡頓丘人。尤好鍾律,知音聲,以孝廉為郎。是時中書令石顯專權,及友人五鹿充宗為尚書令,與房同經,論議相是非,而此二人用事。房嘗宴見,問上曰:『幽、厲之君何以亡?所任何人?』上曰:『君亦不明,而臣巧佞。』房曰:『知其巧佞而任之邪?將以為賢邪?』上曰:『賢之。』房曰:『然則今何以知其不賢?』上曰:『以其時亂而君危知之。』房曰:『是任賢而理,任不肖而亂,自然之道也。幽、厲何不覺悟而蚤納賢?何為卒任不肖以至亡?』於是上曰:『亂亡之君,各賢其臣。令皆覺悟,安得亂亡之君?』房曰:『齊桓、二世何不以幽、厲疑之,而任豎刁、趙高,政治日亂邪?』上曰:『唯有道者能以往知來耳。』房曰:『自陛下即位,盜賊不禁,刑人滿市』云云,問上曰:『今治也?亂也?』上曰:『然愈於彼。』房曰:『前二君皆然。臣恐後之視今,猶今之視前也。』上曰:『今為亂者誰?』房曰:『上所親與圖事帷幄中者。』房指謂石顯及充宗。顯等乃建言,宜試房以郡守,遂以房為東郡。顯發其私事,坐棄市。」

『漢書』に言う。「京房は字は君明、東郡頓丘の人である。とりわけ鐘律を好み音声に通じ、孝廉によって郎となった。このとき中書令の石顕が権を専らにし、友人の五鹿充宗が尚書令となっていたが、京房と経を同じくし、議論で互いに是非を争った。しかもこの二人が政を執っていた。京房がかつて宴席で拝謁し、帝に『幽王・厲王はどうして滅びたのですか。任用したのはどんな人物ですか』と問うと、帝は『君主も明らかでなく、臣も巧みに諂った』と言った。京房が『その巧みな諂いを知って任用したのですか、それとも賢いと思ったのですか』と問うと、帝は『賢いと思ったのだ』と言った。京房が『それでは今、何によってその者が賢くなかったと分かるのですか』と問うと、帝は『その時代が乱れ君主が危うかったことで分かる』と言った。京房は『これは賢者を任ずれば治まり、不肖の者を任ずれば乱れるという、自然の道です。幽王・厲王はなぜ悟って早く賢者を迎えなかったのですか。なぜついに不肖の者を任じて滅亡に至ったのですか』と言った。そこで帝は『乱れ滅びる君主はそれぞれ自分の臣を賢いと思う。皆が悟るのなら、どうして乱れ滅びる君主があろうか』と言った。京房が『斉の桓公と秦の二世はなぜ幽王・厲王に照らして疑わず、豎刁や趙高を任じて、政治が日ごとに乱れたのですか』と言うと、帝は『ただ道ある者だけが過ぎたことによって来ることを知るのだ』と言った。京房は『陛下が位に即かれてから、盗賊は禁じられず、刑を受けた者が市に満ちております』などと言い、帝に『今は治まっていますか、乱れていますか』と問うた。帝が『しかしあれよりはましだ』と言うと、京房は『前の二人の君主も皆そう言いました。臣は、のちの世が今を見るのが、今が前を見るのと同じではないかと恐れます』と言った。帝が『今、乱しているのは誰か』と言うと、京房は『陛下が親しくされ、帷幄の中でともに事を図っている者です』と言った。京房は石顕と五鹿充宗を指して言ったのである。石顕らはそこで、京房を郡守として試すのがよいと建言し、ついに京房を東郡の太守とした。石顕はその私事を暴き、京房は市に棄てられる刑に処された」

3錦を着て米の飯を食べて、おまえは安らかなのか

陳元方遭父喪,哭泣哀慟,軀體骨立。其母愍之,竊以錦被蒙上。郭林宗弔而見之,謂曰:「卿海內之雋才,四方是則,如何當喪,錦被蒙上?孔子曰:『衣夫錦也,食夫稻也,於汝安乎?』吾不取也!」奮衣而去。自後賓客絕百所日。

陳元方が父の喪にあい、泣き叫んで哀しみ悼み、体は骨ばかりになった。

その母が憐れんで、こっそり錦の布団を掛けてやった。

郭林宗が弔いに来てこれを見て言った。「君は天下の優れた才であり、四方が模範とするところなのに、どうして喪にあって錦の布団を掛けているのか。孔子は『錦を着て米の飯を食べて、おまえは安らかなのか』と言われた。私は認めない」

衣を払って去った。その後、客は百日ほど絶えた。

夾注 2

論語曰:「宰我問:『三年之喪,期已久矣。』子曰:『食夫稻,衣夫錦,於汝安乎?夫君子居喪,食旨不甘,聞樂不樂,居處不安,故不為也!今汝安,則為之。』」

『論語』に言う。「宰我が『三年の喪は期限があまりに長い』と言った。孔子は『米の飯を食べ錦を着て、おまえは安らかなのか。君子が喪にあるときは、うまい物を食べても甘くなく、音楽を聞いても楽しくなく、居どころも安らかでないから、しないのだ。今おまえが安らかなら、そうすればよい』と言った」

所,一作許。

「所」は、ある本では「許」になっている。

4小さな物ではあるが気高くまっすぐなことが人に勝るので朕は好む

孫休好射雉,至其時則晨去夕反。群臣莫不止諫:「此為小物,何足甚躭?」休曰:「雖為小物,耿介過人,朕所以好之。」

孫休は雉を射るのを好み、その季節になると朝に出て夕方に帰った。

臣下たちは止めて諫めない者がなかった。「これは小さな物ですのに、どうしてそこまで耽られるのですか」

孫休は言った。「小さな物ではあるが、気高くまっすぐなことが人に勝っている。朕がこれを好むのはそのためだ」

夾注 1

環濟吳紀曰:「休字子烈,吳大帝第六子。初封琅邪王,夢乘龍上天,顧不見尾。孫琳廢少主,迎休立之。銳意典籍,欲畢覽百家之事。頗好射雉,至春,晨出莫反,唯此時舍書。崩,謚景皇帝。」條列吳事曰:「休在位烝烝無有遺事,唯射雉可譏。」

環済の『呉紀』に言う。「孫休は字は子烈、呉の大帝の第六子である。初め琅邪王に封ぜられたが、龍に乗って天に上り、振り返ると尾が見えないという夢を見た。孫琳が少主を廃し、孫休を迎えて立てた。典籍に意を鋭くし、百家の事をことごとく読もうとした。かなり雉を射るのを好み、春になると朝に出て暮れに帰り、このときだけ書を置いた。崩じて、謚は景皇帝である」。「条列呉事」に言う。「孫休は在位中、盛んに事を行って遺し残した事はなく、ただ雉を射ることだけが譏るべきであった」

5今、政は荒れ民は疲れているのに、臣がどうして盛んだと申せよう

孫皓問丞相陸凱曰:「卿一宗在朝有幾人?」陸答曰:「二相、五侯、將軍十餘人。」皓曰:「盛哉!」陸曰:「君賢臣忠,國之盛也;父慈子孝,家之盛也。今政荒民弊,覆亡是懼,臣何敢言盛?」

孫皓が丞相の陸凱に問うた。「卿の一族で朝廷にいる者は何人いるか」

陸凱は答えた。「二人の宰相、五人の侯、将軍が十数人です」

孫皓は言った。「盛んなことだ」

陸凱は言った。「君主が賢く臣が忠であるのが国の盛んなことであり、父が慈しみ子が孝であるのが家の盛んなことです。今、政は荒れ民は疲れ、覆り滅びることが恐れられております。臣がどうして盛んだと申せましょう」

夾注 1

吳錄曰:「凱字敬風,吳人,丞相遜族子。忠鯁有大節,篤志好學。初為建忠校尉,雖有軍事,手不釋卷。累遷左丞相。時後主暴虐,凱正直彊諫,以其宗族彊盛,不敢加誅也。」

『呉録』に言う。「陸凱は字は敬風、呉の人で、丞相の陸遜の一族の甥である。忠実で骨があり大節があり、志を篤くして学を好んだ。初め建忠校尉となり、軍事があっても手から巻を離さなかった。累進して左丞相となった。当時、後主は暴虐であったが、陸凱は正直に強く諫めた。その一族が強く盛んであったので、あえて誅せられなかった」

6これは老書生の決まり文句だ

何晏、鄧颺令管輅作卦,云:「不知位至三公不?」卦成,輅稱引古義,深以戒之。颺曰:「此老生之常談。」晏曰:「知幾其神乎!古人以為難。交疎吐誠,今人以為難。今君一面盡二難之道,可謂『明德惟馨』。詩不云乎:『中心藏之,何日忘之!』」

何晏と鄧颺が管輅に卦を立てさせて言った。「位が三公に至るかどうか分からないのだが」

卦が成ると、管輅は古い義を引いて深く彼らを戒めた。

鄧颺は言った。「これは老書生の決まり文句だ」

何晏は言った。「『機微を知るのは神妙だ』といい、古人も難しいとした。交わりが浅いのに誠を吐くことも、今の人は難しいとする。今、君は一度顔を合わせただけで二つの難き道を尽くした。『明徳こそ香る』というべきだ。『詩』に言わないか。『心の中にこれを蔵す、いつの日に忘れようか』と」

夾注 2

輅別傳曰:「輅字公明,平原人也。明周易,聲發徐州。冀州刺史裴徽舉秀才,謂曰:『何、鄧二尚書有經國才略,於物理無不精也。何尚書神明清徹,殆破秋豪,君當慎之。自言不解易中九事,必當相問。比至洛,宜善精其理。』輅曰:『若九事皆至義,不足勞思。若陰陽者,精之久矣。』輅至洛陽,果為何尚書問,九事皆明。何曰:『君論陰陽,此世無雙也。』時鄧尚書在曰:『此君善易,而語初不論易中辭義,何邪?』輅答曰:『夫善易者,不論易也。』何尚書含笑贊之曰:『可謂要言不煩也。』因謂輅曰:『聞君非徒善論易,至於分蓍思爻,亦為神妙,試為作一卦,知位當至三公不?又頃夢青蠅數十來鼻頭上,驅之不去,有何意故?』輅曰:『鴟鴞,天下賤鳥也。及其在林食桑椹,則懷我好音。況輅心過草木,注情葵藿,敢不盡忠?唯察之爾。昔元、凱之相重華,宣慈惠和,仁義之至也。周公之翼成王,坐以待旦,敬慎之至也。故能流光六合,萬國咸寧,然後據鼎足而登金鉉,調陰陽而濟兆民,此履道之休應,非卜筮之所明也。今君侯位重山岳,勢若雷霆,望雲赴景,萬里馳風。而懷德者少,畏威者眾,殆非小心翼翼,多福之士。又鼻者,艮也,此天中之山,高而不危,所以長守貴也。今青蠅臭惡之物,而集之焉。位峻者顛,輕豪者亡,必至之分也。夫變化雖相生,極則有害。虛滿雖相受,溢則有竭。聖人見陰陽之性,明存亡之理,損益以為衰,抑進以為退。是故山在地中曰謙,雷在天上曰大壯。謙則裒多益寡,大壯則非禮不履。伏願君侯上尋文王六爻之旨,下思尼父彖象之義,則三公可決,青蠅可驅。』鄧曰:『此老生之常談。』輅曰:『夫老生者,見不生。常談者,見不談也。』」

『管輅別伝』に言う。「管輅は字は公明、平原の人である。『周易』に明るく、名声が徐州に響いた。冀州刺史の裴徽が秀才に推挙して、こう言った。『何・鄧の二尚書は国を治める才略があり、物の理に精通していないものがない。何尚書は精神が清く澄み、秋の毛をも割るほどだから、君は慎むがよい。自分では「易」の中の九つの事が解けないと言っているので、必ず君に問うだろう。洛陽に着くまでに、その理をよく精しくしておきなさい』。管輅は言った。『もしその九つの事がどれも至極の義ならば、思いを労するに足りません。陰陽のことならば、精しくして久しいものです』。管輅が洛陽に着くと、案のごとく何尚書が問い、九つの事すべてに明らかであった。何晏は『君が陰陽を論ずるのは、この世に並ぶ者がない』と言った。そのとき鄧尚書がいて『この方は「易」を善くするというが、話に初めから「易」の辞や義を論じないのはどうしたことか』と言った。管輅は答えて『そもそも「易」を善くする者は「易」を論じません』と言った。何尚書は笑みを含んで讃え『要を得た言葉は煩わしくない、というべきだ』と言い、そこで管輅に『君はただ「易」を善く論ずるだけでなく、蓍を分け爻を思うことに至っても神妙だと聞いた。試しに一つ卦を立てて、位が三公に至るかどうか知らせてくれないか。また近ごろ青蠅が数十、鼻の上に来て、追っても去らない。何の意味があるのか』と言った。管輅は言った。『鴟鴞は天下の賤しい鳥です。それでも林にあって桑の実を食べれば、我らに良い声を聞かせてくれます。まして私は心が草木にまさり、情を葵や藿に注ぐ者です。どうして忠を尽くさないでいられましょう。ただご察しくださるだけです。昔、八元・八愷が重華を輔けたのは、宣べ慈しみ恵み和して、仁義の至りでした。周公が成王を翼けて、座して夜明けを待ったのは、敬み慎むことの至りでした。だからこそ光を六合に流し、万国がことごとく安らいだ後に、鼎の足を占めて金の鉉に登り、陰陽を調えて兆民を済うことができたのです。これは道を履んだ美しい応えであって、卜筮によって明らかにできることではありません。今、君侯の位は山岳より重く、勢いは雷霆のようで、雲を望んで影に駆けつけ、万里を風のように走ります。しかし徳を懐く者は少なく、威を畏れる者は多い。おそらく小心翼翼として福多き士ではありません。また鼻は艮であり、これは天の中の山ですから、高くても危うくなく、だからこそ長く貴さを守るものです。今、青蠅は臭く悪しき物なのに、それがそこに集まっています。位の険しい者は顛れ、軽々しく豪奢な者は亡びる。必ず至る定めです。そもそも変化は互いに生じ合うものですが、極まれば害があります。虚と満は互いに受け合うものですが、溢れれば竭きます。聖人は陰陽の性を見、存亡の理を明らかにして、損し益すことを衰えとし、抑え進むことを退くこととします。それゆえ山が地の中にあるのを謙といい、雷が天の上にあるのを大壮といいます。謙は多いところから減らして少ないところに益すことであり、大壮は礼でなければ履まないことです。伏してお願いします。君侯が上は文王の六爻の旨を尋ね、下は尼父の彖象の義を思われるなら、三公も決せられ、青蠅も追い払えましょう』。鄧颺が『これは老書生の決まり文句だ』と言うと、管輅は『そもそも老書生とは、生じないことを見る者であり、決まり文句とは、談じないことを見る者です』と言った」

名士傳曰:「是時曹爽輔政,識者慮有危機。晏有重名,與魏姻戚,內雖懷憂,而無復退也。著五言詩以言志曰:『鴻鵠比翼遊,群飛戲太清。常畏大網羅,憂禍一旦并。豈若集五湖,從流唼浮萍。承寧曠中懷,何為怵惕驚。』蓋因輅言,懼而賦詩。」

『名士伝』に言う。「このとき曹爽が政を輔けていたが、識者は危うい機があることを憂えた。何晏は重い名声があり、魏と姻戚であったから、内心では憂えていても、もはや退くことがなかった。五言詩を作って志を述べた。『鴻と鵠は翼を並べて遊び、群れ飛んで太清に戯れる。常に大きな網を畏れ、災禍が一朝にして及ぶのを憂える。いっそ五湖に集まり、流れに従って浮き草をついばむに及ぼうか。安らかにして胸の内を広く保てば、何を怯え驚くことがあろう』。おそらく管輅の言葉によって、恐れて詩を賦したのである」

7この席が惜しい

晉武帝既不悟太子之愚,必有傳後意。諸名臣亦多獻直言。帝嘗在陵雲臺上坐,衛瓘在側,欲申其懷,因如醉跪帝前,以手撫床曰:「此坐可惜。」帝雖悟,因笑曰:「公醉邪?」

晋の武帝は太子の愚かさに気づかず、必ず後を伝えようという意があった。名臣たちもまた直言を多く献じた。

帝がかつて陵雲台の上に座っていたとき、衛瓘が傍にいて、その胸の内を述べようとし、酔ったふりをして帝の前にひざまずき、手で床をなでて言った。「この席が惜しゅうございます」

帝は悟ったものの、そこで笑って言った。「公は酔ったのか」

夾注 1

晉陽秋曰:「初,惠帝之為太子,咸謂不能親政事。衛瓘每欲陳啟廢之而未敢也。後因會醉,遂跪床前曰:『臣欲有所啟。』帝曰:『公所欲言者,何邪?』瓘欲言而復止者三,因以手撫床曰:『此坐可惜。』帝意乃悟,因謬曰:『公真大醉也。』帝後悉召東宮官屬大會,令左右齎尚書處事以示太子,令處決。太子不知所對。賈妃以問外人,代太子對,多引古詞義。給使張弘曰:『太子不學,陛下所知,宜以見事斷,不宜引書也。』妃從之。弘具草奏,令太子書呈,帝大說,以示瓘。於是賈充語妃曰:『衛瓘老奴,幾敗汝家。』妃由是怨瓘,後遂誅之。」

『晋陽秋』に言う。「初め、恵帝が太子であったとき、皆が政事を自ら執ることはできないと言った。衛瓘はいつも申し上げて廃そうとしたが、あえてできなかった。のちに宴会で酔ったのに乗じて、ついに床の前にひざまずき『臣に申し上げたいことがございます』と言った。帝が『公が言おうとするのは何か』と言うと、衛瓘は言おうとしてまたやめることを三度し、そこで手で床をなでて『この席が惜しゅうございます』と言った。帝の心はそこで悟ったが、わざと『公は本当にひどく酔っている』と言った。帝はのちに東宮の官属をすべて召して大いに会し、側近に尚書の処理した案件を持たせて太子に示し、処決させた。太子は答えるところを知らなかった。賈妃が外の人に問うて太子に代わって答えさせたので、古い言葉や義を多く引いた。給使の張弘が『太子が学んでおられないのは陛下もご存じのことですから、目の前の事柄で判断なさるべきで、書を引かれるのはよろしくありません』と言うと、賈妃はこれに従った。張弘が草案を整えて奏し、太子に書き写して差し出させたので、帝は大いに喜び、これを衛瓘に示した。そこで賈充が賈妃に『衛瓘の老いぼれめ、もう少しでおまえの家を滅ぼすところだった』と言った。賈妃はこれによって衛瓘を怨み、のちについに彼を誅した」

8私だけでなく李陽もそなたを駄目だと言っている

王夷甫婦,郭泰寧女,才拙而性剛,聚斂無厭,干豫人事;夷甫患之,而不能禁。時其鄉人幽州刺史李陽,京都大俠,猶漢之樓護,郭氏憚之;夷甫驟諫之,乃曰:「非但我言卿不可,李陽亦謂卿不可!」郭氏小為之損。

王夷甫の妻は郭泰寧の娘で、才は拙く性は剛く、飽くことなく取り立てて集め、人の事に口を出した。夷甫はこれを悩んだが、止められなかった。

当時、その同郷の人で幽州刺史の李陽は都の大侠で、漢の樓護のような者であったから、郭氏は彼を恐れていた。

夷甫はしきりに諫めて、こう言った。「私だけがそなたを駄目だと言うのではない。李陽もまたそなたを駄目だと言っている」

郭氏は少しばかりそれを控えた。

夾注 3

晉諸公贊曰:「郭豫字太寧,太原人。仕至相國參軍,知名。早卒。」

『晋諸公賛』に言う。「郭豫は字は太寧、太原の人である。官は相国参軍に至り、名を知られた。早く死んだ」

晉百官名曰:「陽字景祖,高尚人。武帝時為幽州刺史。」語林曰:「陽性遊俠,盛暑,一日詣數百家別,賓客與別,常填門,遂死於几下,故懼之。」

『晋百官名』に言う。「李陽は字は景祖、高尚の人である。武帝のとき幽州刺史となった」。『語林』に言う。「李陽は性が遊侠で、真夏に一日で数百家を訪ねて別れを告げたので、別れを惜しむ客が常に門をふさいだ。ついに几の下で死んだ。だから彼を恐れたのである」

漢書遊俠傳曰:「護字君卿,齊人。學經傳,甚得名譽。母死,送葬車三千兩。仕至天水太守。」

『漢書・遊侠伝』に言う。「樓護は字は君卿、斉の人である。経伝を学び、たいそう名声と誉れを得た。母が死ぬと、葬送の車が三千台であった。官は天水太守に至った」

9あの物を持って片づけよ

王夷甫雅尚玄遠,常嫉其婦貪濁,口未嘗言「錢」字。婦欲試之,令婢以錢遶床,不得行。夷甫晨起,見錢閡行,謂婢曰:「舉卻阿堵物。」

王夷甫は雅やかに玄遠なものを尊び、常にその妻の貪り濁ったのを憎んで、口に「銭」という字を言ったことがなかった。

妻が試そうとして、女中に銭で床を囲ませ、歩けないようにした。

夷甫は朝起きて、銭が通るのを妨げているのを見て、女中に言った。「あの物を持って片づけよ」

夾注 1

晉陽秋曰:「夷甫善施舍,父時有假貸者,皆與焚券,未嘗謀貨利之事。」王隱晉書曰:「夷甫求富貴得富貴,資財山積,用不能消,安須問錢乎?而世以不問為高,不亦惑乎!」

『晋陽秋』に言う。「夷甫は施し与えることを好み、父の代に貸し付けたものがあれば、どれも証文とともに焼いてやり、財や利の事を図ったことがなかった」。王隠の『晋書』に言う。「夷甫は富貴を求めて富貴を得、財産が山と積もって使い切れなかったのだから、どうして銭を問う必要があったろうか。それなのに世間は問わなかったことを高いとする。これもまた惑いではないか」

10昔お姑さまは弟御のことを嫁に託された

王平子年十四、五,見王夷甫妻郭氏貪欲,令婢路上儋糞。平子諫之,並言不可。郭大怒,謂平子曰:「昔夫人臨終,以小郎囑新婦,不以新婦囑小郎!」急捉衣裾,將與杖。平子饒力,爭得脫,踰窗而走。

王平子が十四、五のころ、王夷甫の妻の郭氏が欲深く、女中に道で糞を担がせているのを見た。

平子は諫めて、いけないと言った。

郭氏は大いに怒って平子に言った。「昔、お姑さまが亡くなるとき、弟御のことを嫁に託されたのであって、嫁のことを弟御に託されたのではありません」

急いで衣の裾を捕まえ、杖で打とうとしたが、平子は力が強く、争って抜け出し、窓を越えて逃げた。

夾注 1

永嘉流人名曰:「澄父乂,第三,娶樂安任氏女,生澄。」

『永嘉流人名』に言う。「王澄の父の王乂は三男で、楽安の任氏の娘を娶って澄を生んだ」

11一度存分に飲んでそれからついに断った

元帝過江猶好酒,王茂弘與帝有舊,常流涕諫。帝許之,命酌酒,一酣,從是遂斷。

元帝は江を渡ってからもなお酒を好み、王茂弘は帝と古い付き合いであったから、いつも涙を流して諫めた。

帝はこれを聞き入れ、酒を注ぐよう命じて一度存分に飲み、それから先はついに断った。

夾注 1

鄧粲晉紀曰:「上身服儉約,以先時務。性素好酒,將渡江,王導深以諫,帝乃令左右進觴,飲而覆之,自是遂不復飲。克己復禮,官修其方,而中興之業隆焉。」

鄧粲の『晋紀』に言う。「上は自ら倹約を身につけ、時の務めを先とした。性はもともと酒を好んだが、江を渡ろうとするとき王導が深く諫めたので、帝はそこで側近に杯を進めさせ、飲んでから杯を伏せ、それからついに二度と飲まなかった。己に克って礼に復り、官がその方途を修めたので、中興の業が隆んになった」

12民の望みに拠って衆の思いに従われよ

謝鯤為豫章太守,從大將軍下至石頭。敦謂鯤曰:「余不得復為盛德之事矣。」鯤曰:「何為其然?但使自今已後,日亡日去耳!」敦又稱疾不朝,鯤諭敦曰:「近者,明公之舉,雖欲大存社稷,然四海之內,實懷未達。若能朝天子,使群臣釋然,萬物之心,於是乃服。仗民望以從眾懷,盡沖退以奉主上,如斯,則勳侔一匡,名垂千載。」時人以為名言。

謝鯤が豫章太守となり、大将軍に従って石頭まで下った。

王敦が謝鯤に言った。「私はもう盛んな徳の事をなしえないだろう」

謝鯤は言った。「どうしてそうでしょうか。ただ今から後は、日ごとに除き日ごとに捨てていかれるだけです」

王敦がまた病と称して朝廷に出なかったので、謝鯤は王敦を諭した。「このたびの明公の挙は、大いに社稷を保とうとされたものではありますが、四海の内は実のところ納得しかねる思いを抱いております。もし天子に朝見して群臣の心を解いてやれるなら、万物の心はそこで服するでしょう。民の望みに拠って衆の思いに従い、へりくだり退くことを尽くして主上に奉じられるなら、そのようにすれば功は一匡に並び、名は千年に伝わります」

当時の人はこれを名言とした。

夾注 2

鯤別傳曰:「鯤之諷切雅正,皆此類也。」

『鯤別伝』に言う。「謝鯤がそれとなく諫め、雅やかに正したのは、どれもこうした類であった」

晉陽秋曰:「鯤為豫章太守,王敦將肆逆,以鯤有時望,逼與俱行。既克京邑,將旋武昌,鯤曰:『不就朝覲,鯤懼天下私議也。』敦曰:『君能保無變乎?』對曰:『鯤近日入覲,主上側席,遲得見公,宮省穆然,必無不虞之慮。公若入朝、鯤請侍從。』敦曰:『正復殺君等數百,何損於時?』遂不朝而去。」

『晋陽秋』に言う。「謝鯤は豫章太守であったが、王敦が逆らいを恣にしようとして、謝鯤に当時の望みがあることから、迫って一緒に行かせた。都を攻め取り、武昌に帰ろうとしたとき、謝鯤は『朝見なさらなければ、私は天下の陰の議論が恐ろしく思われます』と言った。王敦が『君は変事がないと保証できるか』と言うと、答えて『私が近ごろ参内しますと、主上は席をずらして公にお会いするのを待ちかねておられ、宮中は和やかですから、必ず思わぬ心配はありません。公がもし朝見されるなら、私がお供させていただきます』と言った。王敦は『たとえ君たちを数百人殺したとして、時勢に何の損があろうか』と言い、ついに朝見せずに去った」

13張廷尉はそれを聞いてすぐ門を壊し自ら方山まで賀公を迎えに行った

元皇帝時,廷尉張闓在小市居,私作都門,早閉晚開。群小患之,詣州府訴,不得理,遂至檛登聞鼓,猶不被判。聞賀司空出,至破岡,連名詣賀訴。賀曰:「身被徵作禮官,不關此事。」群小叩頭曰:「若府君復不見治,便無所訴。」賀未語,令且去,見張廷尉當為及之。張聞,即毀門,自至方山迎賀。賀出見辭之曰:「此不必見關,但與君門情,相為惜之。」張愧謝曰:「小人有如此,始不即知,蚤已毀壞。」

元皇帝のとき、廷尉の張闓が小市に住んでいて、勝手に都門を作り、早く閉めて遅く開けた。

小民たちはこれを苦にして、州や府に出て訴えたが取り上げられず、ついに登聞鼓を打つに至ったが、それでも裁きを受けられなかった。

賀司空が出て破岡まで来たと聞き、名を連ねて賀公のもとに行って訴えた。

賀公は言った。「私は礼官として召されてきた身で、この事には関わりがない」

小民たちは頭を地につけて言った。「もし府君までも取り上げてくださらなければ、訴えるところがありません」

賀公は何も言わず、まずは帰らせて、張廷尉に会ったらこの事に話を及ぼそうと言った。

張闓はそれを聞いて、すぐに門を壊し、自ら方山まで行って賀公を迎えた。

賀公は出て会い、辞退して言った。「これは必ずしも関わるべき事ではなかったが、ただ君と家同士の情があるので、互いのために惜しんだのだ」

張闓は恥じて謝った。「小民たちにこうした事があったのに、初めはすぐに知りませんでした。もうすでに壊してしまいました」

夾注 2

葛洪富民塘頌曰:「闓字敬緒,丹陽人,張昭孫也。」中興書曰:「闓,晉陵內史,甚有威德。轉至廷尉卿。」

葛洪の「富民塘頌」に言う。「張闓は字は敬緒、丹陽の人で、張昭の孫である」。『中興書』に言う。「張闓は晋陵内史で、たいそう威と徳があった。移って廷尉卿に至った」

賀循別傳曰:「循字彥先,會稽山陰人。本姓慶,高祖純,避漢帝諱,改為賀氏。父邵,吳中書令,以忠正見害。循少嬰家禍,流放荒裔,吳平乃還。秉節高舉,元帝為安東,王循為吳國內史。」

『賀循別伝』に言う。「賀循は字は彦先、会稽山陰の人である。もとの姓は慶氏であったが、高祖の慶純が漢の帝の忌み名を避けて賀氏に改めた。父の賀邵は呉の中書令で、忠正であったために害された。賀循は若くして家の禍にあい、荒れた辺地に流されたが、呉が平定されてから帰った。節を守って高く身を立て、元帝が安東であったとき、賀循を呉国内史とした」

14郗太尉はついに大いに怒り襟を凍らせて出て行った

郗太尉晚節好談,既雅非所經,而甚矜之。後朝覲,以王丞相末年多可恨,每見,必欲苦相規誡。王公知其意,每引作它言。臨還鎮,故命駕詣丞相。丞相翹鬚厲色,上坐便言:「方當乖別,必欲言其所見。」意滿口重,辭殊不流。王公攝其次曰:「後面未期,亦欲盡所懷,願公勿復談。」郗遂大瞋,冰衿而出,不得一言。

郗太尉は晩年に談論を好んだが、もともと雅やかに経てきた道ではないのに、たいそうこれを誇った。

のちに朝見したとき、王丞相の晩年に恨むべきことが多いとして、会うたびに必ず苦々しく諫め戒めようとした。

王公はその意を知って、会うたびに別の話を引き出した。

鎮に帰るころ、わざわざ車を出させて丞相を訪ねた。

丞相が髭を立てて顔色を険しくすると、上座に着くなり言った。「まさに別れることになったのだから、ぜひ見るところを申したい」

意は満ちているが口は重く、言葉はまるで流れなかった。

王公はその続きを取り上げて言った。「この後はいつ会えるとも知れないから、私も思うところを尽くしたい。どうか公はもう談論なさらないでほしい」

郗公はついに大いに怒り、襟を凍らせて出て、一言も言えなかった。

夾注 1

中興書曰:「鑒少好學博覽,雖不及章句,而多所通綜。」

『中興書』に言う。「郗鑒は若くして学を好み広く読み、章句の解釈には及ばなかったが、通じて総べたところが多かった」

15どうして聞き伝えを拾い集めて細々と見張る政をなさるのか

王丞相為揚州,遣八部從事之職。顧和時為下傳還,同時俱見。諸從事各奏二千石官長得失,至和獨無言。王問顧曰:「卿何所聞?」答曰:「明公作輔,寧使網漏吞舟,何緣采聽風聞,以為察察之政?」丞相咨嗟稱佳,諸從事自視缺然也。

王丞相が揚州であったとき、八部の従事をそれぞれの任地に遣わした。

顧和はそのとき下伝として帰り、同じときにそろって拝謁した。

従事たちはそれぞれ二千石の長官の得失を申し上げたが、顧和に至るとただ一人何も言わなかった。

王公が顧和に問うた。「卿は何を聞いてきたか」

答えた。「明公が輔けをなさるのですから、むしろ網が漏れて舟を呑む魚を逃がすほうがよいでしょう。どうして聞き伝えを拾い集めて、細々と見張る政をなさるのですか」

丞相は感嘆して見事だと称え、従事たちは自分が足りないように思われた。

16もし乱のきっかけとなるのなら私の家から始めてほしい

蘇峻東征沈充,請吏部郎陸邁與俱。將至吳,密勑左右,令入閶門放火以示威。陸知其意,謂峻曰:「吳治平未久,必將有亂。若為亂階,請從我家始。」峻遂止。

蘇峻が東に沈充を討つとき、吏部郎の陸邁に一緒に行くよう請うた。

呉に着こうとするとき、ひそかに側近に命じて、閶門に入って火を放ち威を示させようとした。

陸邁はその意を知って蘇峻に言った。「呉は治まって平らかになってから久しくありません。必ず乱が起こるでしょう。もし乱のきっかけとなるのなら、どうか私の家から始めてください」

蘇峻はついにやめた。

夾注 2

晉陽秋曰:「充字士居,吳興人。少好兵,諂事王敦。敦克京邑,以充為車騎將軍,領吳國內史。明帝伐王敦,充率眾就王含,謂其妻曰:『男兒不建豹尾,不復歸矣!』敦死,充將吳儒斬首於京都。」

『晋陽秋』に言う。「沈充は字は士居、呉興の人である。若くして兵を好み、王敦に諂って仕えた。王敦が都を攻め取ると、沈充を車騎将軍とし、呉国内史を兼ねさせた。明帝が王敦を討つとき、沈充は衆を率いて王含のもとに赴き、その妻に『男子が豹の尾を立てられなければ、二度と帰らない』と言った。王敦が死ぬと、沈充の将の呉儒が首を斬って都に送った」

陸碑曰:「邁字功高,吳郡人。器識清敏,風檢澄峻。累遷振威太守、尚書吏部郎。」

「陸碑」に言う。「陸邁は字は功高、呉郡の人である。器と識見は清く敏く、風貌と身の慎みは澄んで険しかった。累進して振威太守、尚書吏部郎に至った」

17今は人材が乏しくあなたを柱や礎として用いるのだから人の棟や梁を傾けるな

陸玩拜司空,有人詣之,索美酒,得,便自起,瀉箸梁柱間地,祝曰:「當今乏才,以爾為柱石之用,莫傾人棟梁。」玩笑曰:「戢卿良箴。」

陸玩が司空に任ぜられると、ある人が訪ねて来て、よい酒を求めた。

手に入ると、すぐ自ら立って、梁と柱の間の地に注ぎ、祈って言った。「今は人材が乏しく、あなたを柱や礎として用いるのだ。人の棟や梁を傾けないでくれ」

陸玩は笑って言った。「卿のよい戒めを胸に納めておこう」

夾注 1

玩別傳曰:「是時王導、郗鑒、庾亮相繼薨殂,朝野憂懼,以玩德望,乃拜司空。玩辭讓不獲,乃歎息謂朋友曰:『以我為三公,是天下無人矣。』時人以為知言。」

『玩別伝』に言う。「このとき王導・郗鑒・庾亮が相次いで亡くなったので、朝廷も在野も憂え恐れ、陸玩の徳と望みによって司空に任じた。陸玩は辞退したが許されず、そこで嘆いて友人に『私を三公にするとは、これは天下に人がいないということだ』と言った。当時の人はこれを分かった言葉だとした」

18どうか明公は斉の桓公や晋の文公の事をなされよ

小庾在荊州,公朝大會,問諸僚佐曰:「我欲為漢高、魏武何如?」一坐莫答,長史江虨曰:「願明公為桓、文之事,不願作漢高、魏武也。」

小庾公が荊州にいたとき、公の朝議で大いに人を集め、僚属や補佐たちに問うた。「私が漢の高祖や魏の武帝のようになろうとしたら、どうだろうか」

一座は誰も答えなかったが、長史の江虨が言った。「どうか明公は斉の桓公や晋の文公の事をなさってください。漢の高祖や魏の武帝になろうとはなさらないでください」

夾注 1

翼別見。宋明帝文章志曰:「庾翼名輩,豈應狂狷如此哉?時若有斯言,亦傳聞者之謬矣。」

庾翼は別に見える。宋の明帝の『文章志』に言う。「庾翼のような名士の輩が、どうしてこれほど狂い偏っていようか。当時もしこういう言葉があったのなら、それも伝え聞いた者の誤りである」

19どうして公より勝った人がよくない事を行うことがあろう

羅君章為桓宣武從事,謝鎮西作江夏,往檢校之。羅既至,初不問郡事;徑就謝數日,飲酒而還。桓公問有何事?君章云:「不審公謂謝尚何似人?」桓公曰:「仁祖是勝我許人。」君章云:「豈有勝公人而行非者,故一無所問。」桓公奇其意而不責也。

羅君章が桓宣武の従事であったとき、謝鎮西が江夏を治めていたので、行って調べ検めることになった。

羅君章は着いてから、初めから郡の事を問わず、まっすぐ謝鎮西のもとに行って数日酒を飲んで帰った。

桓公が何か事があったかと問うと、君章は言った。「公は謝尚をどのような人とお思いなのか、うかがっておりません」

桓公は言った。「仁祖は私より勝った人だ」

君章は言った。「どうして公より勝った人が、よくない事を行うことがありましょう。ですから何一つ問わなかったのです」

桓公はその意を奇として、責めなかった。

夾注 2

含別傳曰:「刺史庾亮初命含為部從事,桓溫臨州,轉參軍。」

『羅含別伝』に言う。「刺史の庾亮が初め羅含を部従事に命じ、桓温が州に臨むと参軍に移した」

中興書曰:「尚為建武將軍、江夏相。」

『中興書』に言う。「謝尚は建武将軍、江夏相となった」

20終わりを慎む情愛がないのは民の取らぬところだ

王右軍與王敬仁、許玄度並善。二人亡後,右軍為論議更克。孔巖誡之曰:「明府昔與王、許周旋有情,及逝沒之後,無慎終之好,民所不取。」右軍甚愧。

王右軍は王敬仁と許玄度とそろって仲がよかった。

二人が死んだ後、右軍は論評をいっそう厳しくした。

孔巖が戒めて言った。「明府は昔、王・許と交わって情がありましたのに、二人が世を去った後に終わりを慎む情愛がないのは、民の取らぬところです」

右軍はたいそう恥じた。

21今どきどうしてこんな物を煩わす必要があろうか

謝中郎在壽春敗,臨奔走,猶求玉帖鐙。太傅在軍,前後初無損益之言。爾日猶云:「當今豈須煩此?」

謝中郎が寿春で敗れ、逃げ出そうとするときにも、なお玉で飾った鐙を求めた。

太傅は軍中にいて、前後して一度も是非を言う言葉がなかったが、その日はさすがに言った。「今どきどうしてこんな物を煩わす必要があろうか」

夾注 1

按萬未死之前,安猶未仕。高臥東山,又何肯輕入軍旅邪?世說此言,迂謬已甚。

考えてみると、謝万が死ぬ前には謝安はまだ官に就いていなかった。東山に高く臥していたのに、どうして軽々しく軍旅に入ろうか。『世説』のこの言葉は、回り遠く誤っていることがはなはだしい。

22どうして僧弥と張り合えよう

王大語東亭:「卿乃復論成不惡,那得與僧彌戲!」

王大が東亭に言った。「卿はなるほど論ずることが悪くはないが、どうして僧弥と張り合えよう」

夾注 1

續晉陽秋曰:「珉有俊才,與兄珣並有名,聲出珣右。故時人為之語曰:『法護非不佳,僧彌難為兄。』」

『続晋陽秋』に言う。「王珉は俊才があり、兄の王珣とともに名があったが、評判は王珣の上に出た。だから当時の人はこれについて『法護が佳くないわけではないが、僧弥の兄になるのは難しい』と言った」

23私の病は自然に治るだろう、ただおまえの心配が気がかりなだけだ

殷覬病困,看人政見半面。殷荊州興晉陽之甲,往與覬別,涕零,屬以消息所患。覬答曰:「我病自當差,正憂汝患耳!」

殷覬は病が重く、人を見てもちょうど顔の半分しか見えなかった。

殷荊州が晋陽の甲を起こすとき、行って殷覬に別れを告げ、涙を流して、病んでいるところをよく養うよう頼んだ。

殷覬は答えた。「私の病は自然に治るだろう。ただおまえの心配が気がかりなだけだ」

夾注 2

春秋公羊傳曰:「晉趙鞅取晉陽之甲,以逐荀寅、士吉射,寅、吉射者,君側之惡人。」

『春秋公羊伝』に言う。「晋の趙鞅が晋陽の甲を取って荀寅と士吉射を追った。荀寅と士吉射は、君の側の悪人である」

晉安帝紀曰:「殷仲堪舉兵,覬弗與同,且以己居小任,唯當守局而已;晉陽之事,非所宜豫也。仲堪每邀之,覬輒曰:『吾進不敢同,退不敢異。』遂以憂卒。」

『晋安帝紀』に言う。「殷仲堪が兵を挙げると、殷覬は同調せず、また自分は小さな任にあるのだから、ただ自分の職分を守るべきで、晋陽の事は与るべきところではないとした。殷仲堪が誘うたびに、殷覬はそのたびに『私は進んであえて同じくもせず、退いてあえて異にもしない』と言った。ついに憂えて死んだ」

24願うのは朝日の輝きが時とともに明るくなることだけだ

遠公在廬山中,雖老,講論不輟。弟子中或有墮者,遠公曰:「桑榆之光,理無遠照;但願朝陽之暉,與時並明耳。」執經登坐,諷誦朗暢,詞色甚苦。高足之徒,皆肅然增敬。

遠公は廬山の中にいて、老いてもなお講論をやめなかった。

弟子の中に怠ける者があると、遠公は言った。「桑や楡にかかる日の光は、理として遠くまで照らすことはない。ただ願うのは、朝日の輝きが時とともに明るくなることだけだ」

経を手に取って席に上がり、唱え読む声は朗らかに通り、言葉も顔つきもたいそう切実であったから、高弟の徒はみな粛然として敬いを増した。

夾注 1

豫章舊志曰:「廬俗字君孝,本姓匡,夏禹苗裔,東野王之子。秦末,百越君長與吳芮助漢定天下,野王亡軍中。漢八年,封俗鄢陽男,食邑茲部,印曰廬君。俗兄弟七人,皆好道術,遂寓于洞庭之山,故世謂廬山。孝武元封五年,南巡狩,浮江,親睹神靈,乃封俗為大明公,四時秩祭焉。」遠法師廬山記曰:「山在江州尋陽郡,左挾彭澤,右傍通川,有匡俗先生,出自殷、周之際,遁世隱時,潛居其下。或云:匡俗受道於仙人,而共遊其嶺,遂託室崖岫,即巖成館,故時人謂為神仙之廬而命焉。」法師遊山記曰:「自託此山二十三載,再踐石門,四遊南嶺,東望香鑪峰,北眺九江。傳聞有石井方湖,中有赤鱗踊出,野人不能敘,直歎其奇而已矣。」

『豫章旧志』に言う。「廬俗は字は君孝、もとの姓は匡氏で、夏の禹王の子孫であり、東野王の子である。秦の末、百越の君長が呉芮とともに漢を助けて天下を定めたとき、東野王は軍中で死んだ。漢の八年、廬俗を鄢陽の男に封じ、茲部を食邑として与えたので、印には廬君とあった。廬俗の兄弟七人はみな道術を好み、ついに洞庭の山に寄り住んだので、世に廬山という。孝武帝の元封五年、南に巡狩して江に舟を浮かべ、自ら神霊を目にしたので、そこで廬俗を大明公に封じ、四季ごとに順に祭った」。遠法師の「廬山記」に言う。「山は江州尋陽郡にあり、左に彭澤を挟み、右に通川を傍らにする。匡俗先生という人があり、殷と周の際に世に出て、世を遁れ時に隠れて、その下に潜み住んだ。ある人は、匡俗は仙人から道を受け、ともにその嶺に遊んで、ついに崖の洞に室を託し、岩に就いて館としたので、当時の人が神仙の廬といって名づけたのだという」。法師の「遊山記」に言う。「この山に身を寄せて二十三年、二度石門を踏み、四度南の嶺に遊び、東に香炉峰を望み、北に九江を見下ろした。伝え聞くところでは石の井と方形の湖があって、その中から赤い鱗が躍り出るというが、野の人は述べることができず、ただその奇しさを嘆ずるばかりである」

25公が狩りをされると士人を縛るのをお好みだから

桓南郡好獵,每田狩,車騎甚盛。五六十里中,旌旗蔽隰。騁良馬,馳擊若飛,雙甄所指,不避陵壑。或行陳不整,麏兔騰逸,參佐無不被繫束。桓道恭,玄之族也,時為賊曹參軍,頗敢直言。常自帶絳綿繩箸腰中,玄問「此何為?」答曰:「公獵,好縛人士,會當被縛,手不能堪芒也。」玄自此小差。

桓南郡は狩りを好み、狩りをするたびに車騎がたいそう盛んであった。五六十里の間、旗が低湿地を覆った。

よい馬を走らせ、飛ぶように駆けて撃ち、両翼が指すところなら丘も谷も避けなかった。

ときに隊列が整わず、のろ鹿や兎が跳ねて逃げると、参佐は縛り上げられない者がなかった。

桓道恭は桓玄の一族で、そのとき賊曹参軍であり、かなりあえて直言した。いつも自分から赤い綿の縄を腰に帯びていたので、桓玄が「これは何のためか」と問うた。

答えた。「公が狩りをされると士人を縛るのをお好みですから、いざ縛られるときに、手が縄のざらつきに堪えられないだろうと思いまして」

桓玄はこれから少しましになった。

夾注 1

桓氏譜曰:「道恭字祖猷,彝同堂弟也。父赤之,太學博士。道恭歷淮南太守、偽楚江夏相。義熙初,伏誅。」

『桓氏譜』に言う。「桓道恭は字は祖猷、桓彝の従弟である。父の桓赤之は太学博士である。道恭は淮南太守、偽楚の江夏相を歴任した。義熙の初めに誅に伏した」

26獄吏が貴いものだとは考えてみたことがないのか

王緒、王國寶相為脣齒,並上下權要。王大不平其如此,乃謂緒曰:「汝為此歘歘,曾不慮獄吏之為貴乎?」

王緒と王国宝は互いに唇と歯のようになって、そろって上下の権勢と要職を握った。

王大はそのさまを快く思わず、そこで王緒に言った。「おまえはこんなに急き立ててばかりいるが、獄吏が貴いものだとは考えてみたことがないのか」

夾注 2

王氏譜曰:「緒字仲業,太原人。祖延。父乂,撫軍。」晉安帝紀曰:「緒為會稽王從事中郎,以佞邪親幸。王珣、王恭惡國寶與緒亂政,與殷仲堪克期同舉,內匡朝廷。及恭表至,乃斬緒以說諸侯。國寶,平北將軍坦之第三子。太傅謝安,國寶婦父也,惡而抑之不用。安薨,相王輔政,遷中書令,有妾數百。從弟緒有寵於王,深為其說,國寶權動內外,王珣、王恭、殷仲堪為孝武所待,不為相王所眄。恭抗表討之,車胤又爭之。會稽王既不能拒諸侯兵,遂委罪國寶,付廷尉賜死。」

『王氏譜』に言う。「王緒は字は仲業、太原の人である。祖父は王延、父の王乂は撫軍である」。『晋安帝紀』に言う。「王緒は会稽王の従事中郎となり、諂いと邪によって親しく寵愛された。王珣と王恭は、王国宝と王緒が政を乱すのを憎み、殷仲堪と日を定めてともに兵を挙げ、内から朝廷を正そうとした。王恭の上表が届くと、そこで王緒を斬って諸侯に申し開きをした。王国宝は平北将軍の王坦之の第三子である。太傅の謝安は王国宝の妻の父であったが、憎んで抑えて用いなかった。謝安が亡くなり、相王が政を輔けるようになると、中書令に移り、妾が数百人いた。従弟の王緒が王に寵されて深く彼のために説いたので、王国宝の権勢は内外を動かした。王珣・王恭・殷仲堪は孝武帝に重んじられたが、相王には顧みられなかった。王恭が上表して彼を討ち、車胤もまた争った。会稽王はもはや諸侯の兵を拒めなかったので、ついに罪を王国宝に負わせ、廷尉に付して死を賜わった」

史記曰:「有上書告漢丞相欲反,文帝下之廷尉。勃既出歎曰:『吾嘗將百萬之軍,安知獄吏之為貴也?』」

『史記』に言う。「漢の丞相が反逆しようとしていると告げる上書があり、文帝は彼を廷尉に下した。周勃はやがて出て嘆いて『私はかつて百万の軍を率いたが、獄吏が貴いものだとどうして知っていたろうか』と言った」

27召伯の仁は甘棠にまで及んだ

桓玄欲以謝太傅宅為營,謝混曰:「召伯之仁,猶惠及甘棠;文靖之德,更不保五畝之宅。」玄慙而止。

桓玄が謝太傅の邸宅を軍営にしようとしたので、謝混は言った。「召伯の仁は、恵みが甘棠にまで及んだというのに、文靖の徳は、かえって五畝の邸宅さえ守れないのですか」

桓玄は恥じてやめた。

夾注 1

韓詩外傳曰:「昔周道之隆,召伯在朝,有司請召民。召伯曰:『以一身勞百姓,非吾先君文王之志也。』乃暴處於棠下,而聽訟焉。詩人見召伯休息之棠,美而歌之曰:『蔽芾甘棠,勿翦勿伐,召伯所苃。』」

『韓詩外伝』に言う。「昔、周の道が隆んであったとき、召伯が朝廷にいたが、担当の役人が民を召し集めることを請うた。召伯は『一身のために百姓を労するのは、わが先君文王の志ではない』と言い、そこで棠の木の下に日ざらしで座って訴えを聴いた。詩人は召伯が休んだ棠の木を見て、よしとして歌った。『こんもりと茂る甘棠、剪るな伐るな、召伯の宿られた所だ』」