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品藻世説新語 品藻第九

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 88 · 漢字 3,908字 · 朗読 15.6分

世説新語(世に語られた新しい話) 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1上を犯すのは難しく下を取り締まるのは易しい

汝南陳仲舉,潁川李元禮二人,共論其功德,不能定先後。蔡伯喈評之曰:「陳仲舉彊於犯上,李元禮嚴於攝下。犯上難,攝下易。」仲舉遂在三君之下,元禮居八俊之上。

汝南の陳仲挙と潁川の李元礼の二人について、その功と徳を論じ合ったが、前後を定められなかった。

蔡伯喈がこれを評して言った。「陳仲挙は上を犯すのに強く、李元礼は下を取り締まるのに厳しい。上を犯すのは難しく、下を取り締まるのは易しい」

仲挙はついに三君の下に置かれ、元礼は八俊の上に置かれた。

夾注 4

續漢書曰:「蔡伯喈,陳留圉人。通達有俊才,博學善屬文,伎藝術數,無不精綜。仕至左中郎將,為王允所誅。」

『続漢書』に言う。「蔡伯喈は陳留圉の人である。通達して俊才があり、博学で文を作るのが巧みで、技芸や術数に精通し総べないものがなかった。官は左中郎将に至り、王允に誅された」

張璠漢紀曰:「時人為之語曰:『不畏彊禦陳仲舉,天下模楷李元禮。』」

張璠の『漢紀』に言う。「当時の人はこれについて『強き者を畏れぬ陳仲挙、天下の模範たる李元礼』と言った」

謝沈漢書曰:「三君者,一時之所貴也。竇武、劉淑、陳蕃,少有高操,海內尊而稱之,故得因以為目。」

謝沈の『漢書』に言う。「三君とは、一時に貴ばれた人たちである。竇武・劉淑・陳蕃は若くして高い操があり、天下が尊んで称えたので、それによって題目とされた」

薛瑩漢書曰:「李膺、王暢、荀緄、朱寓、魏朗、劉佑、杜楷、趙典為八俊。」英雄記曰:「先是張儉等相與作衣冠糾彈,彈中人相調,言:『我彈中誠有八俊、八乂,猶古之八元、八凱也。』」謝沈書曰:「俊者,卓出之名也。」姚信士緯曰:「陳仲舉體氣高烈,有王臣之節。李元禮忠壯正直,有社稷之能。海內論之未決,蔡伯喈抑一言以變之,疑論乃定也。」

薛瑩の『漢書』に言う。「李膺・王暢・荀緄・朱寓・魏朗・劉佑・杜楷・趙典が八俊となった」。『英雄記』に言う。「これより先、張倹らが互いに衣冠を整えて糾弾したが、弾劾された者たちが互いにからかって『我らの弾劾の中にはまことに八俊・八乂があり、昔の八元・八愷のようなものだ』と言った」。謝沈の書に言う。「俊とは、抜きん出たものの名である」。姚信の『士緯』に言う。「陳仲挙は体も気も高く烈しく、王臣の節がある。李元礼は忠実で壮んで正しく直く、社稷の才能がある。天下が論じて決しかねていたところ、蔡伯喈が一言をもってこれを変えたので、疑わしい議論はそこで定まった」

2駑牛が一日に百里行けば運ぶものはどうして一人だけであろうか

龐士元至吳,吳人並友之。見陸績、顧劭、全琮而為之目曰:「陸子所謂駑馬有逸足之用,顧子所謂駑牛可以負重致遠。」或問:「如所目,陸為勝邪?」曰:「駑馬雖精速,能致一人耳。駑牛一日行百里,所致豈一人哉?」吳人無以難。「全子好聲名,似汝南樊子昭。」

龐士元が呉に来ると、呉の人はそろって彼と友となった。

陸績・顧劭・全琮を見て、彼らを評して言った。「陸君はいわゆる駑馬に逸足の用があるというものだ。顧君はいわゆる駑牛が重きを負って遠くに至れるというものだ」

ある人が問うた。「その評のとおりなら、陸君が勝るのか」

言った。「駑馬はたしかに精しく速いが、一人を運べるだけだ。駑牛が一日に百里行けば、運ぶものはどうして一人だけであろうか」

呉の人は難ずる言葉がなかった。

「全君は名声を好む。汝南の樊子昭に似ている」

夾注 4

蜀志曰:「周瑜領南郡,士元為功曹。瑜卒,士元送喪至吳,吳人多聞其名,及當還西,並會閶門與士元言。」

『蜀志』に言う。「周瑜が南郡を領していたとき、士元は功曹であった。周瑜が死ぬと、士元は喪を送って呉まで行った。呉の人は多くその名を聞いていたので、西に帰ることになると、そろって閶門に集まって士元と語った」

文士傳曰:「績字公紀,幼有俊朗才數,博學多通。龐士元年長於績,共為交友。仕至鬱林太守。自知亡日,年三十二而卒。」

『文士伝』に言う。「陸績は字は公紀、幼くして俊く明るい才と算があり、博学で多くに通じた。龐士元は陸績より年上であったが、ともに友として交わった。官は鬱林太守に至った。自ら死ぬ日を知り、三十二歳で死んだ」

環濟吳紀曰:「琮字子黃,吳郡錢塘人。有德行義概,為大司馬。」

環済の『呉紀』に言う。「全琮は字は子黄、呉郡銭塘の人である。徳行と義の気概があり、大司馬となった」

蔣濟萬機論曰:「許子將褒貶不平,以拔樊子昭而抑許文休。劉曄難曰:『子昭拔自賈豎,年至七十,退能守靜,進不苟競。』濟答曰:『子昭誠自幼至長,容貌完潔。然觀其插齒牙,樹頰頦,吐脣吻,自非文休之敵。』」

蔣済の『万機論』に言う。「許子将は褒め貶すのが公平でなく、樊子昭を抜いて許文休を抑えた。劉曄が難じて『子昭は商人の身から抜き出され、七十になるまで、退いては静けさを守り、進んではいたずらに争わなかった』と言うと、蔣済は答えて『子昭はたしかに幼いときから大きくなるまで、容貌が整って清らかであった。しかしその歯を並べ、頬と頤を張り、唇を突き出すさまを見れば、もとより文休の敵ではない』と言った」

3王者と覇者の残した策を論ずるには一日の長があるようだ

顧劭嘗與龐士元宿語,問曰:「聞子名知人,吾與足下孰愈?」曰:「陶冶世俗,與時浮沈,吾不如子;論王霸之餘策,覽倚仗之要害,吾似有一日之長。」劭亦安其言。

顧劭がかつて龐士元と泊まり合わせて語り、問うた。「君は人を見抜くことで名高いと聞くが、私と君とではどちらが勝っているか」

言った。「世俗を陶冶し、時とともに浮き沈みすることでは、私は君に及ばない。王者と覇者の残した策を論じ、頼みとするものの要害を見るところでは、私に一日の長があるようだ」

顧劭もまたその言葉をもっともだとした。

夾注 2

吳志曰:「劭好樂人倫,自州郡庶幾及四方人事,往來相見,或諷議而去,或結友而別,風聲流聞,遠近稱之。」

『呉志』に言う。「顧劭は人の品定めを好み、州郡の多くの人から四方の人事に至るまで、往き来して会い、あるいはそれとなく議論して去り、あるいは友を結んで別れたので、評判が広まり、遠近の人が彼を称えた」

吳錄曰:「劭安其言,更親之。」

『呉録』に言う。「顧劭はその言葉をもっともだとして、いっそう彼と親しくなった」

4蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得た

諸葛瑾弟亮及從弟誕,並有盛名,各在一國。于時以為「蜀得其龍,吳得其虎,魏得其狗」。誕在魏與夏侯玄齊名;瑾在吳,吳朝服其弘量。

諸葛瑾の弟の諸葛亮と従弟の諸葛誕は、ともに盛んな名声があり、それぞれ別の国にいた。

当時、「蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得た」と言われた。

諸葛誕は魏で夏侯玄と名を並べ、諸葛瑾は呉にいて、呉の朝廷はその広い度量に服した。

夾注 2

吳書曰:「瑾字子瑜,其先葛氏,琅邪諸縣人。後徙陽都,陽都先有姓葛者,時人謂『諸葛』,因為氏。瑾少以至孝稱。累遷豫州牧,六十八卒。」魏志曰:「誕字公休,為吏部郎,人有所屬託,輒顯其言而亟用之。後有當不,則公議其得失,以為褒貶。自是群寮莫不慎其所舉。累遷楊州刺史、鎮東將軍、司空。謀逆,伏誅。」

『呉書』に言う。「諸葛瑾は字は子瑜、その先祖は葛氏で、琅邪の諸県の人である。のちに陽都に移ったが、陽都にはすでに葛姓の者がいたので、当時の人が『諸葛』と呼び、それが氏となった。瑾は若くして至孝で称えられた。累進して豫州牧に至り、六十八で死んだ」。『魏志』に言う。「諸葛誕は字は公休、吏部郎となったが、人が頼み事をしてくると、そのたびにその言葉を公にしてすぐにその者を用いた。のちに当たり外れがあれば、公の場でその得失を論じ、褒め貶すこととした。これから群僚は推挙するところを慎まない者がなかった。累進して揚州刺史・鎮東将軍・司空に至った。逆を謀って誅に伏した」

吳書曰:「瑾避亂渡江,大皇帝取為長史,遣使蜀,但與弟亮公會相見,反無私面。而又有容貌思度。時人服其弘量。」

『呉書』に言う。「諸葛瑾は乱を避けて江を渡り、大皇帝が引き立てて長史とした。使いとして蜀に遣わされたときも、弟の諸葛亮とは公の席で会っただけで、かえって私的に顔を合わせなかった。その上、容貌と思慮の度量があったので、当時の人はその広い度量に服した」

5功を立て事を成すところでは父を越えている

司馬文王問武陔:「陳玄伯何如其父司空?」陔曰:「通雅博暢,能以天下聲教為己任者,不如也。明練簡至,立功立事,過之。」

司馬文王が武陔に問うた。「陳玄伯は父の司空と比べてどうか」

武陔は言った。「通じて雅やかで広く伸びやかで、天下の声教を自分の任とするところでは及びません。明らかに練れていて簡にして至り、功を立て事を成すところでは、父を越えています」

夾注 1

魏志曰:「陔與泰善,故文王問之。」

『魏志』に言う。「武陔は陳泰と仲がよかったので、文王が彼に問うたのである」

6五人の荀氏を五人の陳氏に、八人の裴氏を八人の王氏に当てた

正始中,人士比論,以五荀方五陳:荀淑方陳寔,荀靖方陳諶,荀爽方陳紀,荀彧方陳群,荀顗方陳泰。又以八裴方八王:裴徽方王祥,裴楷方王夷甫,裴康方王綏,裴綽方王澄,裴瓚方王敦,裴遐方王導,裴頠方王戎,裴邈方王玄。

正始年間、人士が比べ論じて、五人の荀氏を五人の陳氏に当てた。

荀淑を陳寔に、荀靖を陳諶に、荀爽を陳紀に、荀彧を陳群に、荀顗を陳泰に当てた。

また八人の裴氏を八人の王氏に当てた。

裴徽を王祥に、裴楷を王夷甫に、裴康を王綏に、裴綽を王澄に、裴瓚を王敦に、裴遐を王導に、裴頠を王戎に、裴邈を王玄に当てた。

夾注 6

逸士傳曰:「靖字叔慈,潁川人。有俊才,以孝著名。兄弟八人,號『八龍』。隱身修學,動止合禮。弟爽,亦有才學,顯名當世。或問汝南許章:『爽與靖孰賢?』章曰:『二人皆玉也。慈明外朗,叔慈內潤。』太尉辟,不就。年五十終,時人惜之,號玄行先生。」

『逸士伝』に言う。「荀靖は字は叔慈、潁川の人である。俊才があり、孝で名を著した。兄弟八人は『八龍』と呼ばれた。身を隠して学を修め、立ち居振る舞いが礼にかなっていた。弟の荀爽もまた才と学があり、当世に名を顕した。ある人が汝南の許章に『荀爽と荀靖ではどちらが賢いか』と問うと、許章は『二人とも玉である。慈明は外に明るく、叔慈は内に潤いがある』と言った。太尉が招いたが、就かなかった。五十で世を去り、当時の人は彼を惜しんで、玄行先生と呼んだ」

典略曰:「彧字文若,潁川人。為漢侍中,守尚書令。彧為人英偉,折節待士,坐不累席。其在臺閣間,不以私欲撓意。年五十薨,謚曰敬侯。以其德高,追贈太尉。」

『典略』に言う。「荀彧は字は文若、潁川の人である。漢の侍中となり、尚書令を守した。彧は人となりが英偉で、身を折って士をもてなし、座るときは席を重ねなかった。台閣にあっても、私欲で意を曲げなかった。五十で亡くなり、謚は敬侯である。その徳が高いことから、太尉を追贈された」

晉諸公贊曰:「顗字景倩,彧之子。蹈禮立德,思義溫雅,加深識國體,累遷光祿大夫。晉受禪,封臨淮公。典朝儀,刊正國式,為一代之制。轉太尉,為台輔,德望清重,留心禮教。卒,謚康公。」

『晋諸公賛』に言う。「荀顗は字は景倩、荀彧の子である。礼を踏んで徳を立て、義を思って温雅であり、その上に国家の体を深く知っていたので、累進して光禄大夫に至った。晋が禅を受けると臨淮公に封ぜられた。朝廷の儀を司り、国の法式を刊り正して一代の制度とした。太尉に移って台輔となり、徳と望みは清く重く、礼教に心を留めた。死して謚は康公である」

晉百官名曰:「康字仲豫,徽之子。」晉諸公贊曰:「康有弘量,歷太子左率。」

『晋百官名』に言う。「裴康は字は仲豫、裴徽の子である」。『晋諸公賛』に言う。「裴康は広い度量があり、太子左率を歴任した」

王朝目錄曰:「綽字仲舒,楷弟也,名亞於楷。歷中書黃門侍郎。」

『王朝目録』に言う。「裴綽は字は仲舒、裴楷の弟で、名は裴楷に次いだ。中書黄門侍郎を歴任した」

晉諸公贊曰:「瓚字國寶,楷之子。才氣爽俊,終中書郎。」

『晋諸公賛』に言う。「裴瓚は字は国宝、裴楷の子である。才気は爽やかで俊く、中書郎で終わった」

7私の二人の子の優劣はつまり裴君と楽君の優劣だ

冀州刺史楊淮二子喬與髦,俱總角為成器。淮與裴頠、樂廣友善,遣見之。頠性弘方,愛喬之有高韻,謂淮曰:「喬當及卿,髦小減也。」廣性清淳,愛髦之有神檢,謂淮曰:「喬自及卿,然髦尤精出。」淮笑曰:「我二兒之優劣,乃裴、樂之優劣。」論者評之:以為喬雖高韻,而檢不匝;樂言為得。然並為後出之雋。

冀州刺史の楊淮の二人の子、楊喬と楊髦は、ともに童髪のころからでき上がった器であった。

楊淮は裴頠と楽広と親しかったので、二人を遣わして会わせた。

裴頠は性が広く方正で、楊喬に高い韻のあるのを愛し、楊淮に言った。「喬は君に及ぶだろうが、髦は少し劣る」

楽広は性が清らかで純朴で、楊髦に神の慎みのあるのを愛し、楊淮に言った。「喬はもちろん君に及ぶだろうが、髦はいっそう精しく抜きん出ている」

楊淮は笑って言った。「私の二人の子の優劣は、つまり裴君と楽君の優劣だ」

論ずる者はこれを評して、楊喬には高い韻はあるが慎みが行き渡っていないから、楽広の言のほうが当たっているとした。しかし二人ともに後から出た俊才であった。

夾注 1

荀綽冀州記曰:「喬字國彥,爽朗有遠意。髦字士彥,清平有貴識。並為後出之俊。為裴頠、樂廣所重。」晉諸公贊曰:「喬似淮而疏,皆為二千石。髦為石勒所害。」

荀綽の『冀州記』に言う。「楊喬は字は国彦、爽やかに明るく遠い意があった。楊髦は字は士彦、清らかで平らかで貴い識見があった。ともに後から出た俊才であった。裴頠と楽広に重んじられた」。『晋諸公賛』に言う。「楊喬は楊淮に似ているが粗く、どちらも二千石となった。楊髦は石勒に害された」

8周弘武は短所を使うのが巧みで杜方叔は長所を使うのが拙い

劉令言始入洛,見諸名士而嘆曰:「王夷甫太解明,樂彥輔我所敬,張茂先我所不解,周弘武巧於用短,杜方叔拙於用長。」

劉令言が初めて洛陽に入り、名士たちを見て嘆じて言った。「王夷甫はあまりに解き明かしすぎる。楽彦輔は私の敬うところ、張茂先は私の分からぬところだ。周弘武は短所を使うのが巧みで、杜方叔は長所を使うのが拙い」

夾注 3

劉氏譜曰:「納字令言,彭城叢亭人。祖瑾,樂安長。父甝,魏洛陽令。納歷司隸校尉。」

『劉氏譜』に言う。「劉納は字は令言、彭城叢亭の人である。祖父の劉瑾は楽安の長、父の劉甝は魏の洛陽令である。納は司隷校尉を歴任した」

王隱晉書曰:「周恢字弘武,汝南人。祖斐,永寧少府。父隆,州從事。恢仕至秦相,秩中二千石。」

王隠の『晋書』に言う。「周恢は字は弘武、汝南の人である。祖父の周斐は永寧少府、父の周隆は州従事である。恢は官が秦の相に至り、秩は中二千石であった」

晉諸公贊曰:「杜育字方叔,襄城鄧陵人,杜襲孫也。育幼便岐嶷,號神童。及長,美風姿,有才藻,時人號曰『杜聖』。累遷國子祭酒。洛陽將沒,為賊所殺。」

『晋諸公賛』に言う。「杜育は字は方叔、襄城鄧陵の人で、杜襲の孫である。育は幼いころから抜きん出ていて、神童と呼ばれた。長じてからは風姿が美しく才藻があり、当時の人は『杜聖』と呼んだ。累進して国子祭酒に至った。洛陽が落ちようとするとき、賊に殺された」

9閭丘沖は満奮や郝隆より勝っている

王夷甫云:「閭丘沖,優於滿奮、郝隆。此三人並是高才,沖最先達。」

王夷甫が言った。「閭丘沖は満奮や郝隆より勝っている。この三人はそろって高い才だが、沖がいちばん先に通達した」

夾注 3

荀綽兗州記曰:「沖字賓卿,高平人,家世二千石。沖清平有鑒識,博學有文義。累遷太傅長史,雖不能立功蓋世,然聞義不惑,當世蒞事,務於平允,操持文案,必引經誥,飾以文采,未嘗有滯。性尤通達,不矜不假。好音樂,侍婢在側,不釋弦管。出入乘四望車,居之甚夷,不能虧損恭素之行,淡然肆其心志。論者不以為侈,不以為僭,至於白首,而清名令望,不渝於始。為光祿勳,京邑未潰,乘車出,為賊所害,時人皆痛惜之。」

荀綽の『兗州記』に言う。「閭丘沖は字は賓卿、高平の人で、家は代々二千石であった。沖は清らかで平らかで、見分ける識見があり、博学で文と義があった。累進して太傅長史に至ったが、功を立てて世を覆うことはできなかったものの、義を聞いて惑わず、当世に事に臨んでは公平と信をつとめ、文書を扱うときは必ず経典を引き、文采で飾って、滞ることがなかった。性はいっそう通達して、誇らず借らなかった。音楽を好み、侍女が傍にいて、弦や管を手放さなかった。四方を見渡せる車に乗って出入りし、それをたいそう平気にしていたが、恭しく素朴な行いを損なうことはなく、淡々と心と志を思うままにした。論ずる者は奢りとも思わず、僭りとも思わず、白髪になるまで、清い名と良い評判が初めと変わらなかった。光禄勲となり、都がまだ崩れないうちに車で出たところ、賊に害され、当時の人は皆痛ましく惜しんだ」

晉諸公贊曰:「隆字弘始,高平人。為人通亮清識。為吏部郎、楊州刺史。齊王冏起義,隆應檄稽留,為參軍王邃所殺。」

『晋諸公賛』に言う。「郝隆は字は弘始、高平の人である。人となりは通じて明るく、清らかな識見があった。吏部郎、揚州刺史となった。斉王冏が義兵を起こすと、郝隆は檄に応じるのが遅れ、参軍の王邃に殺された」

兗州記曰:「于時高平人士偶盛,滿奮、郝隆達在沖前,名位已顯,而劉寶、王夷甫猶以沖之虛貴,足先二人。」

『兗州記』に言う。「このとき高平の人士はたまたま盛んで、満奮と郝隆は閭丘沖より先に通達して名も位も既に顕れていたが、劉宝と王夷甫は、やはり閭丘沖の虚やかな貴さが二人に先立つに足ると考えた」

10当時の標榜では楽広の並びとされた

王夷甫以王東海比樂令,故王中郎作碑云:「當時標榜,為樂廣之儷。」

王夷甫が王東海を楽令に比べたので、王中郎が碑文を作って「当時の標榜では、楽広の並びとされた」と言った。

夾注 1

江左名士傳曰:「承言理辯物,但明其旨要,不為辭費,有識伏其約而能通。太尉王夷甫一世龍門,見而雅重之,以比南陽樂廣。」

『江左名士伝』に言う。「王承が理を説き物を弁ずるときは、ただその旨の要を明らかにするだけで言葉を費やさなかったので、識者はその簡約にして通じうることに服した。太尉の王夷甫は一世の龍門であったが、会って雅やかに彼を重んじ、南陽の楽広に比べた」

11庾中郎と王平子は雁のように並んで行く

庾中郎與王平子鴈行。

庾中郎と王平子は雁のように並んで行く。

夾注 1

晉陽秋曰:「初,王澄有通朗稱,而輕薄無行。兄夷甫有盛名,時人許以人倫鑒識。常為天下士目曰:『阿平第一,子嵩第二,處仲第三。』敳以澄、敦莫己若也。及澄喪,敦敗,敳世譽如初。」

『晋陽秋』に言う。「初め、王澄は通じて明るいという評があったが、軽薄で行いがなかった。兄の夷甫は盛んな名声があり、当時の人は彼に人倫を見分ける識見を認めていた。いつも天下の士を評して『阿平が第一、子嵩が第二、処仲が第三』と言った。庾敳は王澄と王敦が自分に及ばないと思っていた。王澄が死に、王敦が敗れるに至って、庾敳の世の誉れは初めのままであった」

12私が進んだのか伯仁が退いたのか分からない

王大將軍在西朝時,見周侯輒扇障面不得住。後度江左,不能復爾。王嘆曰:「不知我進,伯仁退?」

王大将軍が西の朝廷にいたとき、周侯を見るとそのたびに扇で顔を隠して、じっとしていられなかった。

のちに江左に渡ってからは、もうそうではなくなった。

王敦は嘆じて言った。「私が進んだのか、伯仁が退いたのか、分からない」

夾注 2

敦性彊梁,自少及長,季倫斬妓,會無異色,若斯傲狠,豈憚於周顗乎?其言不然也。

王敦は性が強く荒く、若いときから大きくなるまで、石季倫が妓女を斬ったときでさえ顔色を変えなかった。これほど傲り猛々しいのに、どうして周顗に気後れしようか。その言葉は本当ではない。

沈約晉書曰:「周顗,王敦素憚之,見輒面熱,雖復臘月,亦扇面不休,其憚如此。」

沈約の『晋書』に言う。「周顗を王敦はもともと恐れていて、見るとそのたびに顔が熱くなり、たとえ臘月であっても顔を扇ぎ続けた。その恐れようはこのようであった」

13その両方を兼ねた者は君ではないか

會稽虞𩦎,元皇時與桓宣武同俠,其人有才理勝望。王丞相嘗謂𩦎曰:「孔愉有公才而無公望,丁潭有公望而無公才,兼之者其在卿乎?」𩦎未達而喪。

会稽の虞𩦎は元皇帝のとき桓宣武と同じ仲間であったが、その人には才と理、そして勝れた評判があった。

王丞相がかつて虞𩦎に言った。「孔愉は公の才はあるが公の望みがなく、丁潭は公の望みはあるが公の才がない。その両方を兼ねた者は、君ではないか」

虞𩦎は世に通達する前に死んだ。

夾注 3

虞光祿傳曰:「𩦎字思行,會稽餘姚人。虞翻曾孫,右光祿潭兄子也。雖機榦不及潭,而至行過之。歷吏部郎、吳興守,徵為金紫光祿大夫,卒。」

「虞光禄伝」に言う。「虞𩦎は字は思行、会稽餘姚の人である。虞翻の曾孫で、右光禄の虞潭の兄の子である。機転と才幹は虞潭に及ばなかったが、至れる行いは彼を越えていた。吏部郎、呉興太守を歴任し、召されて金紫光禄大夫となり、死んだ」

愉已見。會稽後賢記曰:「潭字世康,山陰人,吳司徒固曾孫也。沈婉有雅望,少與孔愉齊名。仕至光祿大夫。」晉陽秋曰:「孔敬康、丁世康、張偉康俱著名,時謂『會稽三康』。偉康名茂,嘗夢得大象,以問萬雅。雅曰:『君當為大郡,而不善也。象,大獸也。取其音狩,故為大郡,然象以齒喪身。』後為吳郡,果為沈充所殺。」

孔愉はすでに見える。『会稽後賢記』に言う。「丁潭は字は世康、山陰の人で、呉の司徒の丁固の曾孫である。沈んで婉やかで雅やかな望みがあり、若くして孔愉と名を並べた。官は光禄大夫に至った」。『晋陽秋』に言う。「孔敬康・丁世康・張偉康がともに名を著し、当時『会稽の三康』と言われた。偉康は名は茂で、かつて大きな象を得る夢を見て万雅に問うた。万雅は『君はきっと大郡を預かるだろうが、よくはない。象は大きな獣で、その音が狩に通じるから大郡となるのだが、しかし象は牙のために身を失う』と言った。のちに呉郡を預かり、案のごとく沈充に殺された」

虞光祿傳曰:「𩦎未登台鼎,時論稱屈。」

「虞光禄伝」に言う。「虞𩦎が台鼎に登らなかったので、当時の議論は不遇だとした」

14郗鑒が私に並べれば功夫があるようだ

明帝問周伯仁:「卿自謂何如郗鑒?」周曰:「鑒方臣,如有功夫。」復問郗。郗曰:「周顗比臣,有國士門風。」

明帝が周伯仁に問うた。「卿は自分で郗鑒と比べてどうだと思うか」

周伯仁は言った。「郗鑒が私に並べれば、功夫があるようです」

さらに郗鑒に問うと、郗鑒は言った。「周顗が私に比べれば、国士の家風があります」

夾注 1

鄧粲晉紀曰:「伯仁清正嶷然,以德望稱之。」

鄧粲の『晋紀』に言う。「伯仁は清く正しく、ひときわ高く、徳と望みで称えられた」

15ああ、それは自然に公論があるものだ

王大將軍下,庾公問:「卿有四友,何者是?」答曰:「君家中郎,我家太尉、阿平、胡毋彥國。阿平故當最劣。」庾曰:「似未肯劣。」庾又問:「何者居其右?」王曰:「自有人。」又問:「何者是?」王曰:「噫!其自有公論。」左右躡公,公乃止。

王大将軍が下って来ると、庾公が問うた。「卿に四人の友があるというが、誰か」

答えた。「君の家の中郎、私の家の太尉、阿平、胡毋彦国だ。阿平はやはりいちばん劣るだろう」

庾公は言った。「劣るとは認めたがらないようだが」

庾公はまた問うた。「誰がその右にいるのか」

王敦は言った。「ちゃんとした人がいる」

また問うた。「誰か」

王敦は言った。「ああ、それは自然に公論があるものだ」

側近が庾公の足を踏んだので、庾公はそこでやめた。

夾注 2

八王故事曰:「胡毋輔之少有雅俗鑒識,與王澄、庾敳、王敦、王夷甫為四友。」今故答也。

『八王故事』に言う。「胡毋輔之は若くして雅と俗を見分ける識見があり、王澄・庾敳・王敦・王夷甫と四友となった」。今はわざとこう答えたのである。

敦自謂右者在己也。

王敦は、右にいる者は自分だと思ったのである。

16長輿は険しく切り立っている

人問丞相:「周侯何如和嶠?」答曰:「長輿嵯櫱。」

ある人が丞相に問うた。「周侯は和嶠と比べてどうですか」

答えた。「長輿は険しく切り立っている」

夾注 1

虞預晉書曰:「嶠厚自封植,嶷然不群。」

虞預の『晋書』に言う。「和嶠は自ら厚く培い植えて、ひときわ高く群れなかった」

17一つの丘一つの谷に遊ぶことでは自分で彼を越えていると思う

明帝問謝鯤:「君自謂何如庾亮?」答曰:「端委廟堂,使百僚準則,臣不如亮。一丘一壑,自謂過之。」

明帝が謝鯤に問うた。「君は自分で庾亮と比べてどうだと思うか」

答えた。「礼服を正して廟堂に立ち、百官の規範となることでは、臣は亮に及びません。一つの丘、一つの谷に遊ぶことでは、自分で彼を越えていると思います」

夾注 1

晉陽秋曰:「鯤隨王敦下,入朝,見太子於東宮,語及夕,太子從容問鯤曰:『論者以君方庾亮,自謂孰愈?』對曰:『宗廟之美,百官之富,臣不如亮。縱意丘壑,自謂過之。』」鄧粲晉紀曰:「鯤與王澄之徒,慕竹林諸人,散首披髮,裸袒箕踞,謂之八達。故鄰家之女,折其兩齒。世為謠曰:『任達不已,幼輿折齒。』鯤有勝情遠概,為朝廷之望,故時以庾亮方焉。」

『晋陽秋』に言う。「謝鯤は王敦に従って下り、朝廷に入って東宮で太子に会った。話が夕方に及ぶと、太子はくつろいで謝鯤に『論ずる者は君を庾亮に比べるが、自分ではどちらが勝っていると思うか』と問うた。答えて『宗廟の美しさ、百官の豊かさでは、臣は亮に及びません。意を丘や谷に任せることでは、自分で彼を越えていると思います』と言った」。鄧粲の『晋紀』に言う。「謝鯤は王澄の徒とともに竹林の人々を慕って、髪を乱し振り乱し、裸で足を投げ出して座り、これを八達と呼んだ。それで隣の家の娘が彼の歯を二本折った。世に歌が作られて『放埒をやめないので、幼輿は歯を折った』と言われた。謝鯤には勝れた情と遠い気概があり、朝廷の望みとなっていたので、当時庾亮に比べられたのである」

18当時の議論は王頴を鄧伯道に、王敞を温忠武に比べた

王丞相二弟不過江,曰頴,曰敞。時論以頴比鄧伯道,敞比溫忠武。議郎、祭酒者也。

王丞相の二人の弟は江を渡れなかった。王頴と王敞である。

当時の議論は、王頴を鄧伯道に、王敞を温忠武に比べた。議郎と祭酒であった。

夾注 1

王氏譜曰:「潁字茂英,位至議郎,年二十卒。敞字茂平,丞相祭酒,不就。襲爵堂邑公,年二十有二而卒。」

『王氏譜』に言う。「王頴は字は茂英、位は議郎に至り、二十歳で死んだ。王敞は字は茂平、丞相祭酒であったが就かなかった。堂邑公の爵を継ぎ、二十二歳で死んだ」

19陛下は私を引き合いに出して比べる必要はない

明帝問周侯:「論者以卿比郗鑒,云何?」周曰:「陛下不須牽顗比。」

明帝が周侯に問うた。「論ずる者は卿を郗鑒に比べるが、どうか」

周侯は言った。「陛下は私を引き合いに出して比べる必要はありません」

夾注 1

按顗死彌年,明帝乃即位。世說此言妄矣。

考えてみると、周顗が死んで一年あまりして、明帝が位に即いた。『世説』のこの言葉はいいかげんである。

20ただ皆がそろって太尉を推す、この人はとりわけ秀でている

王丞相云:「頃下論以我比安期、千里。亦推此二人。唯共推太尉,此君特秀。」

王丞相が言った。「近ごろ下の者の論は私を安期や千里に比べる。やはりこの二人を推すのだ。ただ皆がそろって太尉を推す。この人はとりわけ秀でている」

夾注 1

晉諸公贊曰:「夷甫性矜峻,少為同志所推。」

『晋諸公賛』に言う。「夷甫は性が誇り高く厳しく、若くして志を同じくする者たちに推された」

21王敦は使君に比べれば田舎者と貴人ほどの違いだ

宋褘曾為王大將軍妾,後屬謝鎮西。鎮西問褘:「我何如王?」答曰:「王比使君,田舍、貴人耳!」鎮西妖冶故也。

宋褘はかつて王大将軍の妾であったが、のちに謝鎮西に属した。

鎮西が宋褘に問うた。「私は王敦と比べてどうか」

答えた。「王敦は使君に比べれば、田舎者と貴人ほどの違いです」

鎮西が艶やかであったからである。

夾注 1

未詳宋褘。

宋褘は詳しく分からない。

22世の外では庾亮が私に及ばず、朝廷では私が庾亮に及ばない

明帝問周伯仁:「卿自謂何如庾元規?」對曰:「蕭條方外,亮不如臣;從容廊廟,臣不如亮。」

明帝が周伯仁に問うた。「卿は自分で庾元規と比べてどうだと思うか」

答えた。「ひっそりと世の外に出ることでは、亮は臣に及びません。ゆったりと朝廷に立つことでは、臣は亮に及びません」

夾注 1

按諸書皆以謝鯤比亮,不聞周顗。

考えてみると、諸書はみな謝鯤を庾亮に比べており、周顗のことは聞かない。

23まことに独り簡にして貴いところは父や祖父に劣らない

王丞相辟王藍田為掾,庾公問丞相:「藍田何似?」王曰:「真獨簡貴,不減父祖;然曠澹處,故當不如爾。」

王丞相が王藍田を招いて属官としたので、庾公が丞相に問うた。「藍田はどうですか」

王丞相は言った。「まことに独り簡にして貴いところは、父や祖父に劣らない。しかし広く淡々としたところでは、やはり及ばないだけだ」

夾注 1

王述狷隘故也。

王述が狭く狷介であったからである。

24郗公の身には三つの矛盾がある

卞望之云:「郗公體中有三反:方於事上,好下佞己,一反。治身清貞,大脩計校,二反。自好讀書,憎人學問,三反。」

卞望之が言った。「郗公の身には三つの矛盾がある。上に事えるのに方正でありながら、下の者が自分に諂うのを好む。これが一つ目の矛盾だ。身の処し方は清く貞しいのに、勘定や損得を大いに修める。これが二つ目の矛盾だ。自分では書を読むのを好むのに、人が学び問うのを憎む。これが三つ目の矛盾だ」

夾注 1

按太尉劉寔論王肅:方於事上,好下佞己,性嗜榮貴,不求苟合,治身不穢,尤惜財物。王、郗志性,儻亦同乎?

考えてみると、太尉の劉寔は王肅を論じて「上に事えるのに方正でありながら、下の者が自分に諂うのを好み、性は栄貴を好みながら、いたずらに迎合を求めず、身の処し方を汚さないのに、財物をとりわけ惜しんだ」と言った。王氏と郗氏の志と性は、もしかしたら同じだったのだろうか。

25温太真は江を渡って来た人の中で第二流の高い者だ

世論溫太真,是過江第二流之高者。時名輩共說人物,第一將盡之間,溫常失色。

世の議論は、温太真は江を渡って来た人の中で第二流の高い者だとした。

当時の名士たちがそろって人物を評するとき、第一流が尽きようとするあたりで、温嶠はいつも顔色を失った。

夾注 1

溫氏譜序曰:「晉大夫卻至封於溫,子孫因氏,居太原祁縣,為郡著姓。」

「温氏譜序」に言う。「晋の大夫の卻至が温に封ぜられ、子孫がそれによって氏とし、太原祁県に住んで、郡の著名な姓となった」

26まさにそれだけのことだ

王丞相云:「見謝仁祖恆令人得上。與何次道語,唯舉手指地曰:『正自爾馨!』」

王丞相が言った。「謝仁祖に会うと、いつも人を高いところに登らせてくれる。何次道と語るときは、ただ手を挙げて地を指して『まさにそれだけのことだ』と言うばかりだ」

夾注 1

前篇及諸書皆云王公重何充,謂必代己相。而此章以手指地,意如輕詆。或清言析理,何不逮謝故邪?

前の篇や諸書はみな、王公が何充を重んじて、必ず自分に代わって宰相になるだろうと言ったと伝えている。ところがここでは手で地を指したというので、意味は軽く謗ったようである。もしかすると清談や理を分けることで、何充が謝尚に及ばなかったからであろうか。

27布衣の身から宰相の位に跳び上がったことが恨めしいだけだ

何次道為宰相,人有譏其信任不得其人。阮思曠慨然曰:「次道自不至此。但布衣超居宰相之位,可恨!唯此一條而已。」

何次道が宰相となったとき、ある人がその信任した相手が人を得ていないと譏った。

阮思曠は感じ入って言った。「次道はもとよりそこまで至らない。ただ布衣の身から宰相の位に跳び上がったことが恨めしい。ただこの一点だけだ」

夾注 2

晉陽秋曰:「充所暱庸雜,以此損名。」

『晋陽秋』に言う。「何充が親しくした者たちは平凡で雑多であり、これによって名を損じた」

語林曰:「阮光祿聞何次道為宰相,歎曰:『我當何處生活?』」此則阮未許何為鼎輔,二說便相符也。

『語林』に言う。「阮光禄は何次道が宰相になったと聞いて嘆じ『私はどこで生きていけばよいのか』と言った」。これは阮裕が何充を鼎輔の位にふさわしいと認めなかったのであり、二つの説は互いに符合する。

28逸少がどうして万安に劣ることがあろうか

王右軍少時,丞相云:「逸少何緣復減萬安邪?」

王右軍が若かったとき、丞相が言った。「逸少がどうして万安に劣ることがあろうか」

夾注 1

劉綏已見。

劉綏はすでに見える。

29もし方回に及ばないならやはりただの下僕にすぎない

郗司空家有傖奴,知及文章,事事有意。王右軍向劉尹稱之。劉問「何如方回?」王曰:「此正小人有意向耳!何得便比方回?」劉曰:「若不如方回,故是常奴耳!」

郗司空の家に北方者の下僕がいて、知識が文章にまで及び、事ごとに考えがあった。

王右軍が劉尹に彼のことを称えると、劉尹が問うた。「方回と比べてどうですか」

王右軍は言った。「これはまさに小人に志向があるというだけのことだ。どうしてすぐに方回に比べられよう」

劉尹は言った。「もし方回に及ばないなら、やはりただの下僕にすぎません」

夾注 1

郗愔別傳曰:「愔字方回,高平金鄉人,太宰鑒長子也。淵靖純素,無執無競,簡私暱,罕交遊。歷會稽內史、侍中、司徒。」

『郗愔別伝』に言う。「郗愔は字は方回、高平金郷の人で、太宰の郗鑒の長子である。奥深く静かで純朴素直、執るところもなく競うところもなく、私的な親しみを簡にして、交わり遊ぶことがまれであった。会稽内史・侍中・司徒を歴任した」

30諸人の美しさを兼ね備えている

時人道阮思曠:「骨氣不及右軍,簡秀不如真長,韶潤不如仲祖,思致不如淵源,而兼有諸人之美。」

当時の人は阮思曠を評した。「骨と気は右軍に及ばず、簡にして秀でたところは真長に及ばず、美しく潤ったところは仲祖に及ばず、思いの到るところは淵源に及ばない。しかし諸人の美しさを兼ね備えている」

夾注 1

中興書曰:「裕以人不須廣學,正應以禮讓為先,故終日頹然,無所修綜,而物自宗之。」

『中興書』に言う。「阮裕は、人は広く学ぶ必要はなく、まさに礼と譲を先とすべきだと考えていたので、一日中くずれるようにしていて、修め総べるところがなかったが、人々は自然に彼を宗とした」

31何平叔は巧みさが理をわずらわせ嵇叔夜は俊秀さがその道を損なった

簡文云:「何平叔巧累於理,嵇叔夜雋傷其道。」

簡文帝が言った。「何平叔は巧みさが理をわずらわせ、嵇叔夜は俊秀さがその道を損なった」

夾注 1

理本真率,巧則乖其致;道唯虛澹,俊則違其宗。所以二子不免也。

理はもともと真っすぐで率直なものだから、巧みにすればその到るところに背く。道はただ虚しく淡いものだから、俊でありすぎればその宗に違う。だからこの二人は免れなかったのである。

32子が父の業を継ぎ弟が家の祀りを承けることに何の不都合があろうか

時人共論晉武帝出齊王之與立惠帝,其失孰多?多謂立惠帝為重。桓溫曰:「不然,使子繼父業,弟承家祀,有何不可?」

当時の人がそろって、晋の武帝が斉王を国に出したことと恵帝を立てたこととでは、どちらの過ちが大きいかを論じた。多くは恵帝を立てたほうが重いとした。

桓温は言った。「そうではない。子が父の業を継ぎ、弟が家の祀りを承けることに、何の不都合があろうか」

夾注 2

晉陽秋曰:「齊王攸,字大猷,文帝第二子。孝敬忠肅,清和平允,親賢下士,仁惠好施。能屬文,善尺牘。初,荀勖、馮紞為武帝親幸,攸惡勖之佞,勖懼攸或嗣立,必誅己,且攸甚得眾心,朝賢景附。會帝有疾,攸及皇太子入問訊,朝士皆屬目於攸,而不在太子。至是勖從容曰:『陛下萬年後,太子不得立也。』帝曰:『何故?』勖曰:『百寮內外,皆歸心於齊王,太子安得立乎?陛下試詔齊王歸國,必舉朝謂之不可。若然,則臣言徵矣。』侍中馮紞又曰:『陛下必欲建諸侯,成五等,宜從親始,親莫若齊王。』帝從之。於是下詔,使攸之國。攸聞勖、紞間己,憂忿不知所為。入辭,出,歐血薨。帝哭之慟。馮紞侍曰:『齊王名過其實,而天下歸之。今自薨殞,陛下何哀之甚?』帝乃止。劉毅聞之,故終身稱疾焉。」

『晋陽秋』に言う。「斉王の司馬攸は字は大猷、文帝の第二子である。孝で敬み、忠で粛やか、清く和やかで平らかで信があり、賢者を親しみ士に身を低くし、仁で恵み深く施しを好んだ。文を作ることができ、手紙が巧みであった。初め、荀勖と馮紞が武帝に親しく寵愛されていたが、司馬攸は荀勖の諂いを憎んだ。荀勖は、司馬攸がもし跡を継げば必ず自分を誅するだろうと恐れ、その上司馬攸はたいそう衆の心を得て、朝廷の賢者が影のように付き従っていた。たまたま帝が病になり、司馬攸と皇太子が入って見舞うと、朝廷の士はみな司馬攸に目を向け、太子には向けなかった。そこで荀勖はくつろいだふうに『陛下の万年の後には、太子は立てないでしょう』と言った。帝が『なぜか』と言うと、荀勖は『百官も内外も、みな斉王に心を寄せています。太子がどうして立てましょう。陛下が試しに斉王に国へ帰れと詔なされば、必ず朝廷中がそれはならぬと申すでしょう。そうなれば、臣の言葉は証されたことになります』と言った。侍中の馮紞もまた『陛下がどうしても諸侯を建てて五等を成そうとお思いなら、近い者から始めるべきです。近い者で斉王に及ぶ者はありません』と言った。帝はこれに従った。そこで詔を下して司馬攸を国へ行かせた。司馬攸は荀勖と馮紞が自分を離間したと聞いて、憂え憤り、どうしてよいか分からなかった。参内して別れを告げ、退出して、血を吐いて亡くなった。帝は彼を哭して悼んだ。馮紞が侍していて『斉王は名が実を越えていたのに、天下が彼に帰しました。今その身が自ら亡んだのですから、陛下はなぜそれほど哀しまれるのですか』と言うと、帝はそこで泣くのをやめた。劉毅はこれを聞いて、わざと一生病と称した」

武帝兆禍亂,覆神州,在斯而已。輿隸且知其若此,況宣武之弘俊乎?此言非也。

武帝が禍と乱の兆しを作り、神州を覆したのは、ここにあるだけである。車を引く下僕でさえそれがこういうことだと分かるのに、まして宣武の広く俊でたことを思えばどうであろうか。この言葉は誤りである。

33やはり識によって暗いところを通す

人問殷淵源:「當世王公以卿比裴叔道,云何?」殷曰:「故當以識通暗處。」

ある人が殷淵源に問うた。「当世の王公が卿を裴叔道に比べますが、どうですか」

殷淵源は言った。「やはり識によって暗いところを通すのです」

夾注 1

遐與浩並能清言。

裴遐と殷浩はともに清談ができた。

34やはり勝っているだけだ

撫軍問殷浩:「卿定何如裴逸民?」良久答曰:「故當勝耳。」

撫軍が殷浩に問うた。「卿はほんとうのところ裴逸民と比べてどうか」

長いあいだたって答えた。「やはり勝っているだけだ」

35私は私と長く付き合ってきた、やはり私でいよう

桓公少與殷侯齊名,常有競心。桓問殷:「卿何如我?」殷云:「我與我周旋久,寧作我。」

桓公は若いころ殷侯と名を並べていて、いつも競う心があった。

桓公が殷浩に問うた。「卿は私と比べてどうか」

殷浩は言った。「私は私と長く付き合ってきた。やはり私でいよう」

36この心だけは人に譲るところがないと思う

撫軍問孫興公:「劉真長何如?」曰:「清蔚簡令。」「王仲祖何如?」曰:「溫潤恬和。」「桓溫何如?」曰:「高爽邁出。」「謝仁祖何如?」曰:「清易令達。」「阮思曠何如?」曰:「弘潤通長。」「袁羊何如?」曰:「洮洮清便。」「殷洪遠何如?」曰:「遠有致思。」「卿自謂何如?」曰:「下官才能所經,悉不如諸賢;至於斟酌時宜,籠罩當世,亦多所不及。然以不才,時復託懷玄勝,遠詠老、莊,蕭條高寄,不與時務經懷,自謂此心無所與讓也。」

撫軍が孫興公に問うた。「劉真長はどうか」

言った。「清らかに茂り、簡にしてよろしい」

「王仲祖はどうか」

言った。「温かく潤い、安らかで和やかです」

「桓温はどうか」

言った。「高く爽やかで、抜きん出ています」

「謝仁祖はどうか」

言った。「清らかで平易で、よくて通達しています」

「阮思曠はどうか」

言った。「広く潤い、通じて長けています」

「袁羊はどうか」

言った。「とうとうと清らかで滑らかです」

「殷洪遠はどうか」

言った。「遠くまで到る思いがあります」

「卿は自分でどうだと思うか」

言った。「下官の才能の経てきたところは、どれも諸賢に及びません。時宜を斟酌し、当世を覆い包むことに至っても、及ばないところが多くあります。しかし才のないままに、時おり玄妙で勝れたものに心を託し、遠く老子や荘子を詠み、ひっそりと高く身を寄せて、時務に心を関わらせません。自分ではこの心だけは人に譲るところがないと思っております」

夾注 1

徐廣晉紀曰:「凡稱風流者,皆舉王、劉為宗焉。」

徐広の『晋紀』に言う。「およそ風流を称える者は、みな王濛と劉惔を宗として挙げる」

37第一流はまさに我らの仲間だ

桓大司馬下都,問真長曰:「聞會稽王語奇進,爾邪?」劉曰:「極進,然故是第二流中人耳!」桓曰:「第一流復是誰?」劉曰:「正是我輩耳!」

桓大司馬が都に下って来て、真長に問うた。「会稽王の談論が目を見張るほど進んだと聞くが、そうか」

劉尹は言った。「きわめて進んだ。しかしやはり第二流の中の人にすぎない」

桓公は言った。「第一流はいったい誰か」

劉尹は言った。「まさに我らの仲間だ」

夾注 1

桓溫別傳曰:「興寧九年,以溫克復舊京,肅靜華夏,進都督中外諸軍事、侍中、大司馬,加黃鉞,使入參朝政。」

「桓温別伝」に言う。「興寧九年、桓温が旧都を取り戻し、中原を粛然と静めたことによって、都督中外諸軍事・侍中・大司馬に進め、黄鉞を加え、入朝して朝政に参与させた」

38私が捨てて行くと彼はそのたびに拾った、だからやはり私の下に出る

殷侯既廢,桓公語諸人曰:「少時與淵源共騎竹馬,我棄去,己輒取之,故當出我下。」

殷侯が廃された後、桓公が人々に言った。「若いころ淵源と一緒に竹馬に乗ったが、私が捨てて行くと、彼はそのたびにそれを拾った。だからやはり私の下に出るのだ」

夾注 1

續晉陽秋曰:「簡文輔政,引殷浩為揚州,欲以抗桓。桓素輕浩,未之憚也。」

『続晋陽秋』に言う。「簡文帝が政を輔けるとき、殷浩を引いて揚州とし、桓温に対抗させようとした。桓温はもともと殷浩を軽く見て、恐れなかった」

39人に勝つことはできないがまあ皆の心をやり取りするくらいはできる

人問撫軍:「殷浩談竟何如?」答曰:「不能勝人,差可獻酬群心。」

ある人が撫軍に問うた。「殷浩の談論は結局どうなのですか」

答えた。「人に勝つことはできないが、まあ皆の心をやり取りするくらいはできる」

40清らかでよいところは弟に及ばないがそのままで自然に勝っている

簡文云:「謝安南清令不如其弟,學義不及孔巖,居然自勝。」

簡文帝が言った。「謝安南は清らかでよいところでは弟に及ばず、学と義では孔巖に及ばないが、そのままで自然に勝っている」

夾注 3

安南,謝奉也。已見。謝氏譜曰:「奉弟聘,字弘遠。歷侍中、廷尉卿。」

安南は謝奉である。すでに見える。『謝氏譜』に言う。「謝奉の弟の謝聘は字は弘遠。侍中・廷尉卿を歴任した」

中興書曰:「巖字彭祖,會稽山陰人。父儉,黃門侍郎。巖有才學,歷丹陽尹、尚書、西陽侯,在朝多所匡正。為吳興太守,大得民和。後卒於家。」

『中興書』に言う。「孔巖は字は彭祖、会稽山陰の人である。父の孔倹は黄門侍郎である。巖は才と学があり、丹陽尹・尚書・西陽侯を歴任し、朝廷で正したところが多かった。呉興太守となり、民の和を大いに得た。のちに家で死んだ」

言奉任天真也。

謝奉が天真に任せていたことを言ったのである。

41私ならむしろ管仲になろう

未廢海西公時,王元琳問桓元子:「箕子、比干,迹異心同,不審明公孰是孰非?」曰:「仁稱不異,寧為管仲。」

まだ海西公を廃していなかったとき、王元琳が桓元子に問うた。「箕子と比干は、跡は異なるが心は同じです。明公はどちらが是でどちらが非とお考えか、うかがっておりません」

言った。「仁という称では違いがないが、私ならむしろ管仲になろう」

夾注 1

論語曰:「微子去之,箕子為之奴,比干諫而死。子曰:『殷有三仁焉。』」「子路曰:『桓公殺公子糾,召忽死之,管仲不死,曰未仁乎?』子曰:『桓公九合諸侯,一匡天下,不以兵車,管仲之力。如其仁!如其仁!』」

『論語』に言う。「微子は去り、箕子は奴となり、比干は諫めて死んだ。孔子は『殷に三人の仁者があった』と言われた」。また「子路が『桓公が公子糾を殺したとき、召忽は死んだのに管仲は死ななかった。仁ではないと言うべきでしょうか』と言うと、孔子は『桓公が九たび諸侯を会合させ、天下を一度正したのに兵車を用いなかったのは、管仲の力である。その仁に及ぶものがあろうか、その仁に及ぶものがあろうか』と言われた」

42弘治は肌が清らかで衛虎は輝いて精神がよい

劉丹陽、王長史在瓦官寺集,桓護軍亦在坐,共商略西朝及江左人物。或問:「杜弘治何如衛虎?」桓答曰:「弘治膚清,衛虎奕奕神令。」王、劉善其言。

劉丹陽と王長史が瓦官寺で集まり、桓護軍も座にいて、ともに西の朝廷と江左の人物を品定めして語った。

ある人が問うた。「杜弘治は衛虎と比べてどうですか」

桓護軍は答えた。「弘治は肌が清らかで、衛虎は輝いて精神がよい」

王氏と劉氏はその言葉をよしとした。

夾注 2

桓伊已見。

桓伊はすでに見える。

虎,衛玠小字。玠別傳曰:「永和中,劉真長、謝仁祖共商略中朝人。或問:『杜弘治可方衛洗馬不?』謝曰:『安得比!其閒可容數人。』」江左名士傳曰:「劉真長曰:『吾請評之,弘治膚清,叔寶神清。』論者謂為知言。」

虎は衛玠の幼名である。『玠別伝』に言う。「永和年間、劉真長と謝仁祖がともに中朝の人を品定めして語った。ある人が『杜弘治は衛洗馬に並べられるか』と問うと、謝氏は『どうして比べられよう。その間には数人を容れられるほどだ』と言った」。『江左名士伝』に言う。「劉真長が『私に評させてもらおう。弘治は肌が清らかで、叔宝は精神が清らかだ』と言うと、論ずる者は分かった言葉だとした」

43阿奴は丞相に比べればただ美しく長いところがある

劉尹撫王長史背曰:「阿奴比丞相,但有都長。」

劉尹が王長史の背をなでて言った。「阿奴は丞相に比べれば、ただ美しく長いところがある」

夾注 1

阿奴,濛小字也。都,美也。司馬相如傳曰:「閑雅甚都。」語林曰:「劉真長與丞相不相得,每曰:『阿奴比丞相,條達清長。』」

阿奴は王濛の幼名である。都とは美しいことである。「司馬相如伝」に言う。「閑雅であってたいそう美しかった」。『語林』に言う。「劉真長は丞相と気が合わず、いつも『阿奴は丞相に比べれば、枝のように伸びて清く長い』と言った」

44阿奴は今日は向子期に劣らない

劉尹、王長史同坐,長史酒酣起舞。劉尹曰:「阿奴今日不復減向子期。」

劉尹と王長史が同席していたとき、長史は酒がまわって立ち上がって舞った。

劉尹は言った。「阿奴は今日は向子期に劣らないな」

夾注 1

類秀之任率也。

向秀の率直に任せるさまに似ているということである。

45安石はそのままでその居どころを踏み越えられないからやはり勝っている

桓公問孔西陽:「安石何如仲文?」孔思未對,反問公曰:「何如?」答曰:「安石居然不可陵踐其處,故乃勝也。」

桓公が孔西陽に問うた。「安石は仲文と比べてどうか」

孔氏は考えてまだ答えず、逆に公に問うた。「どうでしょうか」

答えた。「安石はそのままでその居どころを踏み越えることができない。だからやはり勝っているのだ」

夾注 1

西陽即孔巖也。

西陽とは孔巖である。

46識ある者はやはり人の思いと違わない

謝公與時賢共賞說,遏、胡兒並在坐。公問李弘度曰:「卿家平陽,何如樂令?」於是李潸然流涕曰:「趙王篡逆,樂令親授璽綬。亡伯雅正,恥處亂朝,遂至仰藥。恐難以相比!此自顯於事實,非私親之言。」謝公語胡兒曰:「有識者果不異人意。」

謝公が当時の賢者たちとともに人を評して語っていて、謝遏と胡児もそろって座にいた。

謝公が李弘度に問うた。「卿の家の平陽は、楽令と比べてどうか」

そこで李弘度ははらはらと涙を流して言った。「趙王が位を奪って逆らったとき、楽令は自ら璽と綬を手渡しました。亡き伯父は雅正で、乱れた朝廷にいることを恥じ、ついに薬を仰ぐに至りました。比べるのは難しいかと存じます。これはおのずと事実に表れていることで、身内を庇う言葉ではありません」

謝公は胡児に言った。「識ある者は、やはり人の思いと違わないものだ」

夾注 3

晉諸公贊曰:「李重字茂曾,江夏鍾武人。少以清尚見稱。歷吏部郎、平陽太守。」

『晋諸公賛』に言う。「李重は字は茂曾、江夏鍾武の人である。若くして清らかで高いことで称えられた。吏部郎・平陽太守を歴任した」

晉陽秋曰:「趙王倫篡位,樂廣與滿奮、崔隨進璽綬。」

『晋陽秋』に言う。「趙王倫が位を奪うと、楽広は満奮・崔随とともに璽と綬を進めた」

晉諸公贊曰:「趙王為相國,取重為左司馬,重以倫將篡,辭疾不就。敦喻之,重不復自治,至於篤甚。扶曳受拜,數日卒。時人惜之。贈散騎常侍。」

『晋諸公賛』に言う。「趙王が相国となって李重を引いて左司馬にしようとしたが、李重は倫が位を奪おうとしているので、病と称して辞し就かなかった。厚く諭されると、李重はもう自分の身を治めようとせず、きわめて重くなるに至った。扶けられて任命を受け、数日で死んだ。当時の人は彼を惜しんだ。散騎常侍を贈られた」

47宛陵も貴くないわけではない

王脩齡問王長史:「我家臨川,何如卿家宛陵?」長史未答,脩齡曰:「臨川譽貴。」長史曰:「宛陵未為不貴。」

王脩齢が王長史に問うた。「わが家の臨川は、卿の家の宛陵と比べてどうか」

長史がまだ答えないうちに、脩齢は言った。「臨川は誉れが貴い」

長史は言った。「宛陵も貴くないわけではない」

夾注 1

中興書曰:「羲之自會稽王友,改授臨川太守。王述從驃騎功曹,出為宛陵令。述之為宛陵,多脩為家之具,初有勞苦之聲。丞相王導使人謂之曰:『名父之子,屈臨小縣,甚不宜爾。』述答曰:『足自當止。』時人未之達也。後屢臨州郡,無所造作,世始歎服之。」

『中興書』に言う。「王羲之は会稽王の友から臨川太守に改め授けられた。王述は驃騎功曹から宛陵令として出た。王述が宛陵となって、家の暮らしの道具を多く整えたので、初めは骨折りだという評があった。丞相の王導が人をやって『名のある父の子が小さな県に身を屈めているのは、たいそうよろしくない』と言わせると、王述は『足りれば自然にやめます』と答えた。当時の人はその意味が分からなかった。のちに幾度も州や郡に臨んで、何も作り設けなかったので、世の人はようやく嘆じて服した」

48音と言葉は私に及ばないが進み出ればたちまち的を射抜くから私より勝る

劉尹至王長史許清言,時苟子年十三,倚床邊聽。既去,問父曰:「劉尹語何如尊?」長史曰:「韶音令辭,不如我;往輒破的,勝我。」

劉尹が王長史のもとに来て清談をしたとき、苟子は十三歳で、床の端にもたれて聞いていた。

劉尹が帰った後、父に問うた。「劉尹の談論は父上と比べてどうですか」

長史は言った。「美しい音と良い言葉では私に及ばない。だが進み出ればたちまち的を射抜くから、私より勝っている」

夾注 1

劉惔別傳曰:「惔有俊才,其談詠虛勝,理會所歸,王濛略同,而敘致過之,其詞當也。」

『劉惔別伝』に言う。「劉惔には俊才があり、その談論と詠唱の虚しく勝れたところ、理の帰するところは王濛とほぼ同じであったが、述べ到るところは彼を越えていた。その評は当たっている」

49率直に任せる性のままに智と勇を区別しようとした

謝萬壽春敗後,簡文問郗超:「萬自可敗,那得乃爾失士卒情?」超曰:「伊以率任之性,欲區別智勇。」

謝万が寿春で敗れた後、簡文帝が郗超に問うた。「万はもとより敗れもしようが、どうしてあれほど士卒の心を失ったのか」

郗超は言った。「あの人は率直に任せる性のままに、智と勇を区別しようとしたのです」

夾注 1

中興書曰:「萬之為豫州,氐、羌暴掠司、豫,鮮卑屯結并、冀,萬既受方任,自率眾人潁,以援洛陽。萬矜豪傲物,失士眾之心。北中郎郗曇以疾還彭城,萬以為賊盛致退,便向還南,遂自潰亂,狼狽單歸。太宗責之,廢為庶人。」

『中興書』に言う。「謝万が豫州であったとき、氐族と羌族が司州・豫州を荒らし掠め、鮮卑が并州・冀州に屯して集まった。謝万はすでに地方の任を受けていたので、自ら衆を率いて潁水に入り、洛陽を援けようとした。謝万は誇り高く傲って物を見下したので、士卒と衆の心を失った。北中郎の郗曇が病で彭城に帰ると、謝万は賊が盛んで退いたのだと思い、すぐ南へ引き返したところ、ついに自ら崩れ乱れ、あわてて一人で帰った。太宗は彼を責め、廃して庶人とした」

50私に由があってから悪い言葉が耳に届かなくなった

劉尹謂謝仁祖曰:「自吾有四友,門人加親。」謂許玄度曰:「自吾有由,惡言不及於耳。」二人皆受而不恨。

劉尹が謝仁祖に言った。「私に四友があってから、門人がいっそう親しくなった」

許玄度に言った。「私に由があってから、悪い言葉が耳に届かなくなった」

二人はどちらも受け入れて恨まなかった。

夾注 1

尚書大傳曰:「孔子曰:『文王有四友,自吾得回也,門人加親,是非胥附邪?自吾得賜也,遠方之士至,是非奔走邪?自吾得師也,前有輝,後有光,是非先後邪?自吾得由也,惡言不入於耳,是非禦侮邪?』」

『尚書大伝』に言う。「孔子は『文王に四友があった。私に顔回があってから、門人がいっそう親しくなった。これは互いに寄り添うことではないか。私に子貢があってから、遠方の士が来た。これは駆けつけることではないか。私に子張があってから、前に輝きがあり後に光がある。これは前後になることではないか。私に子路があってから、悪い言葉が耳に入らなくなった。これは侮りを防ぐことではないか』と言われた」

51思いの緯と経が深く通じているので羊叔子に比べる

世目殷中軍:「思緯淹通,比羊叔子。」

世の人は殷中軍を評した。「思いの緯と経が深く通じているので、羊叔子に比べる」

夾注 1

羊祜德高一世,才經夷險。淵源蒸燭之曜,豈喻日月之明也。

羊祜は徳が一世に高く、才は平らかな時も険しい時も治めた。淵源の蝋燭の輝きが、どうして日月の明るさに比べられよう。

52卿は人の言葉を伝えるのが好きだからもう卿には言えない

有人問謝安石、王坦之優劣於桓公。桓公停欲言,中悔曰:「卿喜傳人語,不能復語卿。」

ある人が謝安石と王坦之の優劣を桓公に問うた。

桓公は言おうとして止まり、途中で思い直して言った。「卿は人の言葉を伝えるのが好きだから、もう卿には言えない」

53卿の才はやはり苟子に勝てないが名の集まるところは多い

王中郎嘗問劉長沙曰:「我何如苟子?」劉答曰:「卿才乃當不勝苟子,然會名處多。」王笑曰:「痴!」

王中郎がかつて劉長沙に問うた。「私は苟子と比べてどうか」

劉氏は答えた。「卿の才はやはり苟子に勝てないでしょう。しかし名の集まるところは多い」

王中郎は笑って言った。「馬鹿な」

夾注 1

大司馬官屬名曰:「劉奭字文時,彭城人。」劉氏譜曰:「奭祖昶,彭城內史。父濟,臨海令。奭歷車騎咨議、長沙相、散騎常侍。」

「大司馬官属名」に言う。「劉奭は字は文時、彭城の人である」。『劉氏譜』に言う。「劉奭の祖父の劉昶は彭城内史、父の劉済は臨海令である。奭は車騎咨議・長沙相・散騎常侍を歴任した」

54一吟一詠では許掾が北面することになろう

支道林問孫興公:「君何如許掾?」孫曰:「高情遠致,弟子蚤已服膺;一吟一詠,許將北面。」

支道林が孫興公に問うた。「君は許掾と比べてどうか」

孫興公は言った。「高い情と遠い到りでは、弟子は早くからすでに胸に抱いて服しています。一吟一詠では、許掾は北面することになりましょう」

55安石はやはり雄を張るだろうが阿万は目を裂いて争うだろう

王右軍問許玄度:「卿自言何如安石?」許未答,王因曰:「安石故相為雄,阿萬當裂眼爭邪?」

王右軍が許玄度に問うた。「卿は自分で安石と比べてどうだと言うか」

許玄度がまだ答えないうちに、王右軍はそこで言った。「安石はやはり互いに雄を張るだろうが、阿万は目を裂いて争うだろうね」

夾注 1

中興書曰:「萬器量不及安石,雖居藩任,安在私門之時,名稱居萬上也。」

『中興書』に言う。「謝万は器量が安石に及ばなかった。藩の任にあったとはいえ、安石が私宅にいたときでさえ、名声は万の上にあった」

56江虨はそれで自分の田や宅を積み上げた

劉尹云:「人言江虨田舍,江乃自田宅屯。」

劉尹が言った。「人は江虨を田舎者だと言うが、江虨はそれで自分の田や宅を積み上げたのだ」

夾注 1

謂能多出有也。

持っているものを多く出せるということを言ったのである。

57金谷の中では蘇紹が最も勝れていた

謝公云:「金谷中蘇紹最勝。」紹是石崇姊夫,蘇則孫,愉子也。

謝公が言った。「金谷の中では蘇紹が最も勝れていた」

蘇紹は石崇の姉の夫で、蘇則の孫、蘇愉の子である。

夾注 1

石崇《金谷詩敘》曰:「余以元康六年,從太僕卿出為使,持節監青、徐諸軍事、征虜將軍。有別廬在河南縣界金谷澗中,或高或下,有清泉茂林,眾果竹柏、藥草之屬,莫不畢備。又有水碓、魚池、土窟,其為娛目歡心之物備矣。時征西大將軍祭酒王詡當還長安,余與眾賢共送往澗中,晝夜遊宴,屢遷其坐。或登高臨下,或列坐水濱。時琴瑟笙筑,合載車中,道路並作。及住,令與鼓吹遞奏。遂各賦詩,以敘中懷。或不能者,罰酒三斗。感性命之不永,懼凋落之無期。故具列時人官號、姓名、年紀,又寫詩箸後。後之好事者,其覽之哉!凡三十人,吳王師、議郎、關中侯、始平武功蘇紹字世嗣,年五十,為首。」魏書曰:「蘇則字文師,扶風武功人。剛直疾惡,常慕汲黯之為人。仕至侍中、河東相。」晉百官名曰:「愉字休豫,則次子。」山濤啟事曰:「愉忠義有智意,位至光祿大夫。」

石崇の「金谷詩叙」に言う。「私は元康六年、太僕卿から出て使いとなり、節を持して青州・徐州の諸軍事を監する征虜将軍となった。河南県の境、金谷の澗の中に別荘があり、高いところも低いところもあって、清らかな泉と茂った林、さまざまな果樹、竹や柏、薬草の類が備わらないものはなかった。また水車の臼、魚の池、土の窟があり、目を楽しませ心を喜ばせる物が備わっていた。そのとき征西大将軍祭酒の王詡が長安に帰ることになり、私は諸賢とともに澗の中まで送り、昼夜遊び宴して、しばしばその席を移した。あるときは高きに登って下を臨み、あるときは水辺に並んで座った。そのとき琴・瑟・笙・筑を車の中に載せ合わせ、道々いっしょに奏させた。とどまってからは、鼓や吹きものと交互に奏させた。そうしてそれぞれ詩を賦して胸の内を述べた。できない者は酒三斗の罰とした。性命の永くないことを感じ、凋み落ちるのに期のないことを懼れた。だから当時の人の官号・姓名・年齢を列ね、また詩を後に書き写した。後の世の好事の人よ、これを見てほしい。すべて三十人、呉王の師、議郎、関中侯、始平武功の蘇紹、字は世嗣、年五十が筆頭である」。『魏書』に言う。「蘇則は字は文師、扶風武功の人である。剛直で悪を憎み、いつも汲黯の人となりを慕った。官は侍中・河東相に至った」。『晋百官名』に言う。「蘇愉は字は休豫、蘇則の次子である」。『山濤啓事』に言う。「蘇愉は忠義で智と思いがあり、位は光禄大夫に至った」

58ひそやかで道に似てはいないが突き抜けて高いのでまあ道に擬えられる

劉尹目庾中郎:「雖言不愔愔似道,突兀差可以擬道。」

劉尹が庾中郎を評した。「言葉がひそやかで道に似ているわけではないが、突き抜けて高いので、まあ道に擬えられる」

夾注 1

名士傳曰:「敳頹然淵放,莫有動其聽者。」

『名士伝』に言う。「庾敳はくずれるようでいて深く放たれ、その耳を動かす者はなかった」

59謝公は無奕より清らかで林道より潤いがある

孫承公云:「謝公清於無奕,潤於林道。」

孫承公が言った。「謝公は無奕より清らかで、林道より潤いがある」

夾注 2

中興書曰:「孫統字承公,太原人。善屬文,時人謂其有祖楚風。仕至餘姚令。」

『中興書』に言う。「孫統は字は承公、太原の人である。文を作るのが巧みで、当時の人は祖父の孫楚の風があると言った。官は餘姚令に至った」

陳逵別傳曰:「逵字林道,潁川許昌人。祖淮,太尉。父畛,光祿大夫。逵少有榦,以清敏立名。襲封廣陵公、黃門郎、西中郎將,領梁、淮南二郡太守。」

『陳逵別伝』に言う。「陳逵は字は林道、潁川許昌の人である。祖父の陳淮は太尉、父の陳畛は光禄大夫である。逵は若くして才幹があり、清く敏いことで名を立てた。広陵公の封を継ぎ、黄門郎・西中郎将となり、梁郡と淮南の二郡の太守を兼ねた」

60やはり安石にすがり万石を引き上げる

或問林公:「司州何如二謝?」林公曰:「故當攀安提萬。」

ある人が林公に問うた。「司州は二人の謝氏と比べてどうですか」

林公は言った。「やはり安石にすがり、万石を引き上げるところだ」

夾注 1

王胡之別傳曰:「胡之好談諧,善屬文辭,為當世所重。」

『王胡之別伝』に言う。「王胡之は談論と戯れを好み、文辞を作るのが巧みで、当世に重んじられた」

61ある人は孫綽の才藻を愛して許詢には取るところがないとした

孫興公、許玄度皆一時名流。或重許高情,則鄙孫穢行;或愛孫才藻,而無取於許。

孫興公と許玄度はどちらも一時の名流であった。

ある人は許詢の高い情を重んじて孫綽の汚れた行いを卑しみ、ある人は孫綽の才藻を愛して許詢には取るところがないとした。

夾注 1

宋明帝文章志曰:「綽博涉經史,長於屬文,與許詢俱與負俗之談。詢卒不降志,而綽嬰綸世務焉。」續晉陽秋曰:「綽雖有文才,而誕縱多穢行,時人鄙之。」

宋の明帝の『文章志』に言う。「孫綽は経と史に広く渉り、文を作るのに長け、許詢とともに世俗に背いたという評があった。許詢はついに志を下げなかったが、孫綽は世務に絡め取られた」。『続晋陽秋』に言う。「孫綽には文才があったが、大げさで放縦で汚れた行いが多く、当時の人は彼を卑しんだ」

62至ったとは言えない、まさに朋というだけだ

郗嘉賓道謝公:「造厀雖不深徹,而纏綿綸至。」又曰:「右軍詣嘉賓。」嘉賓聞之云:「不得稱詣,政得謂之朋耳!」謝公以嘉賓言為得。

郗嘉賓が謝公を評した。「膝を突き合わせるところまでは深く徹していないが、まとわり絡んで至り尽くしている」

また「右軍が嘉賓のところに至った」と言った。

嘉賓はこれを聞いて言った。「至ったとは言えない。まさに朋というだけのことだ」

謝公は嘉賓の言葉が当たっているとした。

夾注 1

凡徹詣者,蓋深覈之名也。謝不徹,王亦不詣。謝、王於理,相與為朋儔也。

およそ徹して至るというのは、たいてい深く究めることの名である。謝安は徹しておらず、王羲之もまた至っていない。謝安と王羲之は、理において互いに朋輩となったのである。

63これより下は私はみな百倍だ

庾道季云:「思理倫和,吾愧康伯;志力彊正,吾愧文度。自此以還,吾皆百之。」

庾道季が言った。「思いと理が筋立って和やかなところでは、私は康伯に恥じる。志と力が強く正しいところでは、私は文度に恥じる。これより下は、私はみな百倍だ」

夾注 1

庾龢已見。

庾龢はすでに見える。

64おまえの兄を見習うな、おまえの兄はもとよりあの人に及ばない

王僧恩輕林公,藍田曰:「勿學汝兄,汝兄自不如伊。」

王僧恩が林公を軽んじたので、藍田が言った。「おまえの兄を見習うな。おまえの兄はもとよりあの人に及ばない」

夾注 1

僧恩,王禕之小字也。王氏世家曰:「禕之字文劭,述次子。少知名,尚尋陽公主。仕至中書郎,未三十而卒。坦之悼念,與桓溫稱之,贈散騎常侍。」

僧恩は王禕之の幼名である。『王氏世家』に言う。「王禕之は字は文劭、王述の次子である。若くして名を知られ、尋陽公主を娶った。官は中書郎に至り、三十にならずに死んだ。王坦之が悼み惜しみ、桓温に彼のことを称えたので、散騎常侍を贈られた」

65知らない者はその才を裏切らず、知っている者はその身の振る舞いに取るところがない

簡文問孫興公:「袁羊何似?」答曰:「不知者不負其才;知之者無取其體。」

簡文帝が孫興公に問うた。「袁羊はどうか」

答えた。「知らない者はその才を裏切りません。知っている者はその身の振る舞いに取るところがありません」

夾注 1

言其有才而無德也。

彼に才はあるが徳がないことを言ったのである。

66韓康伯には骨や幹はないがそれでも肌で立っている

蔡叔子云:「韓康伯雖無骨榦,然亦膚立。」

蔡叔子が言った。「韓康伯には骨や幹はないが、それでも肌で立っている」

67嵇公が懸命に足を運んでやっと行き着けるくらいだ

郗嘉賓問謝太傅曰:「林公談何如嵇公?」謝云:「嵇公勤著腳,裁可得去耳。」又問:「殷何如支?」謝曰:「正爾有超拔,支乃過殷。然亹亹論辯,恐口欲制支。」

郗嘉賓が謝太傅に問うた。「林公の談論は嵇公と比べてどうですか」

謝公は言った。「嵇公が懸命に足を運んで、やっと行き着けるくらいだ」

また問うた。「殷浩は支遁と比べてどうですか」

謝公は言った。「まさにそのように抜きん出たところがあるから、支遁は殷浩を越えている。しかしこつこつと論じ弁ずれば、おそらく口では支遁を抑えるだろう」

夾注 1

支遁傳曰:「遁神悟機發,風期所得,自然超邁也。」

『支遁伝』に言う。「支遁は精神が悟って機が開け、風格と気合いの得たところは、自然に抜きん出ていた」

68廉頗と藺相如は千年前の死人だがりんりんといつも生気があるようだ

庾道季云:「廉頗、藺相如雖千載上死人,懍懍恆如有生氣。曹蜍、李志雖見在,厭厭如九泉下人。人皆如此,便可結繩而治,但恐狐狸猯狢噉盡。」

庾道季が言った。「廉頗と藺相如は千年前の死人だが、りんりんとしていていつも生気があるようだ。曹蜍と李志は今生きているが、しなびて九泉の下の人のようだ。人がみなこうであれば、縄を結んで治めることもできようが、ただ狐や狸や猯や狢に食い尽くされるのが心配だ」

夾注 4

史記曰:「廉頗者,趙良將也。以勇氣聞諸侯。藺相如者,趙人也。趙惠文王時,得楚和氏璧,秦昭王請以十五城易之。趙遣相如送璧,秦受之,無還城意。相如請璧示其瑕,因持璧卻立倚柱,怒髮上衝冠曰:『王欲急臣,臣頭今與璧俱碎。』秦王謝之。後秦王使趙王鼓瑟,相如請秦王擊筑。趙以相如功大,拜上卿,位在廉頗上。」

『史記』に言う。「廉頗という者は趙の良将である。勇気によって諸侯に知られた。藺相如という者は趙の人である。趙の恵文王のとき、楚の和氏の璧を得たので、秦の昭王が十五の城と換えることを請うた。趙は相如を遣わして璧を送ったが、秦はこれを受け取って城を返す意がなかった。相如は璧の瑕を示そうと請い、そのまま璧を手にして退いて柱に寄り、怒った髪が冠を突き上げて『王が臣を急き立てられるなら、臣の頭は今この璧とともに砕けましょう』と言ったので、秦王は謝った。のちに秦王が趙王に瑟を弾かせると、相如は秦王に筑を打つよう請うた。趙は相如の功が大きいとして上卿に任じ、位は廉頗の上となった」

蜍,曹茂之小字也。曹氏譜曰:「茂之字永世,彭城人也。祖韶,鎮東將軍司馬。父曼,少府卿。茂之仕至尚書郎。」

蜍は曹茂之の幼名である。『曹氏譜』に言う。「曹茂之は字は永世、彭城の人である。祖父の曹韶は鎮東将軍司馬、父の曹曼は少府卿である。茂之は官が尚書郎に至った」

晉百官名曰:「志字溫祖,江夏鍾武人。」李氏譜曰:「志祖重,散騎常侍。父慕,純陽令。志仕至員外常侍、南康相。」

『晋百官名』に言う。「李志は字は温祖、江夏鍾武の人である」。『李氏譜』に言う。「李志の祖父の李重は散騎常侍、父の李慕は純陽令である。志は官が員外常侍・南康相に至った」

言人皆如曹、李質魯淳慤,則天下無姦民,可結繩致治。然才智無聞,功跡俱滅,身盡於狐狸,無擅世之名也。

人がみな曹氏や李氏のように質が鈍く純朴で誠実であれば、天下に奸しい民はなく、縄を結んで治めるに至れるという意味である。しかし才と智は聞こえず、功と跡はともに消えて、身は狐や狸に尽きるのだから、世にひとり占めするような名はないということである。

69衛君長はもとより理と義の人だ

衛君長是蕭祖周婦兄,謝公問孫僧奴:「君家道衛君長云何?」孫曰:「云是世業人。」謝曰:「殊不爾,衛自是理義人。」于時以比殷洪遠。

衛君長は蕭祖周の妻の兄である。

謝公が孫僧奴に問うた。「君の家では衛君長をどう言っているか」

孫氏は言った。「代々の業を守る人だと言っています」

謝公は言った。「まったくそうではない。衛君はもとより理と義の人だ」

当時は殷洪遠に比べられた。

夾注 1

僧奴,孫騰小字也。晉百官名曰:「騰字伯海,太原人。」中興書曰:「騰,紞子也。博學。歷中庶子、廷尉。」

僧奴は孫騰の幼名である。『晋百官名』に言う。「孫騰は字は伯海、太原の人である」。『中興書』に言う。「孫騰は孫紞の子である。博学であった。中庶子・廷尉を歴任した」

70庾公はもとより林公を埋めてしまうに足る

王子敬問謝公:「林公何如庾公?」謝殊不受,答曰:「先輩初無論,庾公自足沒林公。」

王子敬が謝公に問うた。「林公は庾公と比べてどうですか」

謝公はまったく受け入れず、答えた。「先輩たちは初めから論じたことがない。庾公はもとより林公を埋めてしまうに足る」

夾注 1

殷羡言行曰:「時有人稱庾太尉理者。羡曰:『此公好舉宗本槌人。』」

『殷羨言行』に言う。「当時、庾太尉の理を称える者があった。殷羨は『この公は宗の根本を持ち出して人を打つのが好きだ』と言った」

71先輩たちは初めから七賢をよしあしと評したことがない

謝遏諸人共道竹林優劣,謝公云:「先輩初不臧貶七賢。」

謝遏ら数人がともに竹林の優劣を語ったので、謝公は言った。「先輩たちは初めから七賢をよしあしと評したことがない」

夾注 1

魏氏春秋曰:「山濤通簡有德,秀、咸、戎、伶朗達有俊才。於時之談,以阮為首,王戎次之,山、向之徒,皆其倫也。」若如盛言,則非無臧貶,此言謬也。

『魏氏春秋』に言う。「山濤は通じて簡で徳があり、向秀・阮咸・王戎・劉伶は明るく通達して俊才があった。当時の談では、阮籍を首とし、王戎がこれに次ぎ、山濤や向秀の徒はみなその同列だとした」。もし孫盛の言のとおりなら、よしあしの評がなかったわけではないので、この言葉は誤りである。

72あの人は苦心に苦心して成し上げた人だ

有人以王中郎比車騎,車騎聞之曰:「伊窟窟成就。」

ある人が王中郎を車騎に比べたので、車騎はこれを聞いて言った。「あの人は苦心に苦心して成し上げた人だ」

夾注 1

續晉陽秋曰:「坦之雅貴有識量,風格峻整。」

『続晋陽秋』に言う。「王坦之は雅やかで貴く、識見と度量があり、風格は峻しく整っていた」

73劉尹もまた不思議なほど自分を知っていたが長史より勝るとは言わなかった

謝太傅謂王孝伯:「劉尹亦奇自知,然不言勝長史。」

謝太傅が王孝伯に言った。「劉尹もまた不思議なほど自分を知っていたが、それでも長史より勝るとは言わなかった」

74善い人は言葉が少なくせっかちな人は言葉が多い

王黃門兄弟三人俱詣謝公,子猷、子重多說俗事,子敬寒溫而已。既出,坐客問謝公:「向三賢孰愈?」謝公曰:「小者最勝!」客曰:「何以知之?」謝公曰:「『吉人之辭寡,躁人之辭多。』,推此知之。」

王黄門の兄弟三人がそろって謝公を訪ねたが、子猷と子重は俗事を多く話し、子敬は挨拶だけであった。

退出した後、座の客が謝公に問うた。「さきほどの三人の賢者では、どなたが勝れていますか」

謝公は言った。「下の者がいちばん勝れている」

客は言った。「どうしてお分かりですか」

謝公は言った。「『善い人は言葉が少なく、せっかちな人は言葉が多い』という。これから推して分かるのだ」

夾注 1

王氏譜曰:「操之字子重,羲之第六子。歷秘書監、侍中、尚書、豫章太守。」

『王氏譜』に言う。「王操之は字は子重、王羲之の第六子である。秘書監・侍中・尚書・豫章太守を歴任した」

75世間の人にどうして分かろう

謝公問王子敬:「君書何如君家尊?」答曰:「固當不同。」公曰:「外人論殊不爾。」王曰:「外人那得知?」

謝公が王子敬に問うた。「君の書は君のお父上と比べてどうか」

答えた。「もとより同じではありません」

謝公は言った。「世間の議論はまったくそうではないが」

王子敬は言った。「世間の人にどうして分かりましょう」

夾注 1

宋明帝文章志曰:「獻之善隸書,變右軍法為今體。字畫秀媚,妙絕時倫,與父俱得名。其章草疏弱,殊不及父。或訊獻之云:『羲之書勝不?』『莫能判。』有問羲之云:『世論卿書不逮獻之?』答曰:『殊不爾也。』它日見獻之,問:『尊君書何如?』獻之不答。又問:『論者云,君固當不如?』獻之笑而答曰:『人那得知之也。』」

宋の明帝の『文章志』に言う。「王献之は隷書が巧みで、右軍の法を変えて今の体とした。字画は秀でて美しく、当時の人々の中で妙に抜きん出ていて、父とともに名を得た。その章草は粗く弱く、まったく父に及ばない。ある人が献之に『羲之の書が勝っているか』と問うと、『判じられません』と言った。ある人が羲之に『世の議論では卿の書は献之に及ばないと言います』と問うと、答えて『まったくそうではない』と言った。別の日に献之に会って『お父上の書はどうか』と問うと、献之は答えなかった。また『論ずる者は、君はもとより及ばないだろうと言うが』と問うと、献之は笑って『人にどうしてそれが分かろう』と答えた」

76私の意はまさにそのとおりだ

王孝伯問謝太傅:「林公何如長史?」太傅曰:「長史韶興。」問:「何如劉尹?」謝曰:「噫!劉尹秀。」王曰:「若如公言,並不如此二人邪?」謝云:「身意正爾也。」

王孝伯が謝太傅に問うた。「林公は長史と比べてどうですか」

太傅は言った。「長史は美しい興がある」

問うた。「劉尹と比べてどうですか」

謝公は言った。「ああ、劉尹は秀でている」

王孝伯は言った。「公のお言葉のとおりなら、林公はそろってこの二人に及ばないのですか」

謝公は言った。「私の意はまさにそのとおりだ」

77阿敬は近ごろ王氏と劉氏の目じるしを掴み取っている

人有問太傅:「子敬可是先輩誰比?」謝曰:「阿敬近撮王、劉之標。」

ある人が太傅に問うた。「子敬は先輩の中で誰に比べられますか」

謝公は言った。「阿敬は近ごろ王氏と劉氏の目じるしを掴み取っている」

夾注 1

續晉陽秋曰:「獻之文義並非所長,而能撮其勝會,故擅名一時,為風流之冠也。」

『続晋陽秋』に言う。「王献之は文と義はどちらも得意とするところではなかったが、その勝れた要所を掴み取ることができたので、一時に名をひとり占めし、風流の冠となった」

78劉尹が及べなかったのではなくただ及ばなかっただけだ

謝公語孝伯:「君祖比劉尹,故為得逮。」孝伯云:「劉尹非不能逮,直不逮。」

謝公が孝伯に言った。「君の祖父は劉尹に比べれば、やはり及んだというべきだろう」

孝伯は言った。「劉尹が及べなかったのではなく、ただ及ばなかっただけです」

夾注 1

言濛質,而惔文也。

王濛は質であり、劉惔は文であることを言ったのである。

79鞭打つことで人になるのはもともと難しい

袁彥伯為吏部郎,子敬與郗嘉賓書曰:「彥伯已入,殊足頓興往之氣。故知捶撻自難為人,冀小卻,當復差耳。」

袁彦伯が吏部郎となったので、子敬が郗嘉賓に手紙を書いて言った。「彦伯がもう入ったので、進み出ようという気をくじくに十分だ。だから鞭打つことで人になるのはもともと難しいと分かる。少し退けば、きっとまたましになるだろう」

80長卿が世を侮ったのには及ばない

王子猷、子敬兄弟共賞高士傳人及贊。子敬賞井丹高潔,子猷云:「未若長卿慢世。」

王子猷と子敬の兄弟がともに『高士伝』の人物とその賛を褒め合った。

子敬は井丹の高潔を褒めたが、子猷は言った。「長卿が世を侮ったのには及ばない」

夾注 1

嵇康高士傳曰:「丹字大春,扶風郿人。博學高論,京師為之語曰:『五經紛綸井大春,未嘗書刺謁一人。』北宮五王更請,莫能致。新陽侯陰就使人要之,不得已而行。侯設麥飯、蔥菜,以觀其意,丹推卻曰:『以君侯能供美膳,故來相過,何謂如此!』乃出盛饌。侯起,左右進輦,丹笑曰:『聞桀、紂駕人車,此所謂人車者邪?』侯即去輦。越騎梁松,貴震朝廷,請交丹,丹不肯見。後丹得時疾,松自將醫視之。病愈久之,松失大男磊,丹一往弔之,時賓客滿廷,丹裘褐不完,入門,坐者皆悚,望其顏色。丹四向長揖,前與松語,客主禮畢後,長揖徑坐,莫得與語。不肯為吏,徑出,後遂隱遁。其贊曰:『井丹高潔,不慕榮貴。抗節五王,不交非類。顯譏輦車,左右失氣。披褐長揖,義陵群萃。』」「司馬相如者,蜀郡成都人,字長卿。初為郎,事景帝。梁孝王來朝,從遊說士鄒陽等,相如說之,因病免遊梁。後過臨卬,富人卓王孫女文君新寡,好音,相如以琴心挑之,文君奔之,俱歸成都。後居貧,至臨卬買酒舍,文君當壚,相如著犢鼻巾軍,滌器市中。為人口吃,善屬文。仕宦不慕高爵,常託疾不與公卿大事。終於家。其贊曰:『長卿慢世,越禮自放。犢鼻居市,不恥其狀。託疾避官,蔑此卿相。乃賦大人,超然莫尚。』」

嵇康の『高士伝』に言う。「井丹は字は大春、扶風郿の人である。博学で高く論じたので、都ではこれについて『五経が入り乱れている井大春は、いまだ名札を書いて一人も訪ねたことがない』と言われた。北宮の五王が交互に招いたが、来させることができなかった。新陽侯の陰就が人をやって迎えると、やむなく行った。侯が麦飯と葱や菜を出してその心を見ようとしたので、井丹は押しのけて『君侯が美しい膳を供えられると思って、わざわざ訪ねて来たのに、どうしてこのようなことをなさるのか』と言った。そこで盛んな馳走を出した。侯が立ち上がると、側近が人の引く車を進めたので、井丹は笑って『桀や紂が人の車に乗ったと聞いているが、これがいわゆる人の車というものか』と言った。侯はすぐに車を下げた。越騎の梁松は貴さが朝廷を震わせていたが、井丹と交わることを請うたのに、井丹は会おうとしなかった。のちに井丹が流行り病にかかると、梁松は自ら医者を連れて見舞った。病が癒えて久しくして、梁松が長男の梁磊を失ったので、井丹は一度行って弔った。そのとき客が庭に満ちていたが、井丹は皮衣も粗い衣も満足なものではなかった。門に入ると、座っていた者はみな恐れてその顔色をうかがった。井丹は四方に長く揖し、進み出て梁松と語り、客と主の礼が終わった後は、長く揖してそのまま座り、誰も彼と語ることができなかった。吏となることを承知せず、そのまま出て、のちについに隠れ遁れた。その賛に言う。『井丹は高潔、栄貴を慕わず。節を五王に抗し、非類と交わらず。輦車を顕かに譏れば、左右は気を失う。褐を披て長く揖し、義は群れを凌ぐ』」。また「司馬相如という者は蜀郡成都の人、字は長卿である。初め郎となって景帝に仕えた。梁の孝王が朝見に来るとき、遊説の士の鄒陽らを従えてきたので、相如は彼らを喜び、病を口実に官を免じて梁に遊んだ。のちに臨卬を通ったとき、富人の卓王孫の娘の文君が寡婦になったばかりで、音楽を好んでいたので、相如は琴の心で彼女を誘い、文君は彼のもとへ走って、ともに成都に帰った。のちに貧しく暮らし、臨卬に行って酒屋を買い、文君は酒場に立ち、相如は犢鼻の短衣を着て市中で器を洗った。人となりは口ごもったが、文を作るのが巧みであった。官に仕えても高い爵を慕わず、いつも病に託して公卿の大事に与らなかった。家で終わった。その賛に言う。『長卿は世を侮り、礼を越えて自ら放つ。犢鼻で市に居り、その姿を恥じず。病に託して官を避け、この卿相を蔑む。そこで「大人賦」を賦し、超然として尚ぶものなし』」

81門と庭がひっそり静かなところでは殷仲堪は韓康伯に及ばない

有人問袁侍中曰:「殷仲堪何如韓康伯?」答曰:「理義所得,優劣乃復未辨;然門庭蕭寂,居然有名士風流,殷不及韓。」故殷作誄云:「荊門晝掩,閑庭晏然。」

ある人が袁侍中に問うた。「殷仲堪は韓康伯と比べてどうですか」

答えた。「理と義で得たところは、優劣はやはり判じがたい。しかし門と庭がひっそり静かで、そのままで名士の風流があるところでは、殷は韓に及ばない」

だから殷仲堪は誄を作って「柴の門は昼も閉ざされ、閑かな庭は静かである」と言った。

夾注 1

袁氏譜曰:「恪之字元祖,陳郡陽夏人。祖王孫,司徒從事中郎。父綸,臨汝令。恪之仕黃門侍郎,義熙初為侍中。」

『袁氏譜』に言う。「袁恪之は字は元祖、陳郡陽夏の人である。祖父の袁王孫は司徒従事中郎、父の袁綸は臨汝令である。恪之は黄門侍郎を務め、義熙の初めに侍中となった」

82嘉賓はやはり自然に上だ

王子敬問謝公:「嘉賓何如道季?」答曰:「道季誠復鈔撮清悟,嘉賓故自上。」

王子敬が謝公に問うた。「嘉賓は道季と比べてどうですか」

答えた。「道季はたしかに清らかな悟りを抜き書いて掴んではいるが、嘉賓はやはり自然に上だ」

夾注 1

謂超拔也。

抜きん出ていることを言ったのである。

83人にはやはり年がなくてはならない

王珣疾,臨困,問王武岡曰:「世論以我家領軍比誰?」武岡曰:「世以比王北中郎。」東亭轉臥向壁,嘆曰:「人固不可以無年!」

王珣が病んで死に臨み、王武岡に問うた。「世の議論はわが家の領軍を誰に比べているか」

武岡は言った。「世は王北中郎に比べています」

東亭は寝返って壁を向き、嘆じて言った。「人にはやはり年がなくてはならないのだ」

夾注 2

中興書曰:「謐字雅遠,丞相導孫,車騎劭子。有才器,襲爵武岡侯,位至司徒。」

『中興書』に言う。「王謐は字は雅遠、丞相の王導の孫で、車騎の王劭の子である。才と器があり、武岡侯の爵を継ぎ、位は司徒に至った」

領軍王洽,珣之父也。年二十六卒。珣意以其父名德過坦之而無年,故致此論。

領軍の王洽は王珣の父である。二十六歳で死んだ。王珣の意は、その父の名と徳が王坦之を越えていたのに年がなかったので、この議論になったのである。

84長史は虚やかで劉尹は秀でていて謝公は融け通っている

王孝伯道謝公:「濃至。」又曰:「長史虛,劉尹秀,謝公融。」

王孝伯が謝公を評した。「濃くて至っている」

また言った。「長史は虚やかで、劉尹は秀でていて、謝公は融け通っている」

夾注 1

謂條暢也。

枝のように伸びて爽やかであることを言ったのである。

85右軍が林公より勝るが林公も司州の前ではやはり貴く徹していた

王孝伯問謝公:「林公何如右軍?」謝曰:「右軍勝林公,林公在司州前亦貴徹。」

王孝伯が謝公に問うた。「林公は右軍と比べてどうですか」

謝公は言った。「右軍が林公より勝っている。だが林公も司州の前では、やはり貴く徹していた」

夾注 1

不言若羲之,而言勝胡之。

王羲之のようだとは言わず、王胡之より勝ると言ったのである。

86亡き叔父は一時の標であり公は千年の英です

桓玄為太傅,大會,朝臣畢集。坐裁竟,問王楨之曰:「我何如卿第七叔?」于時賓客為之咽氣。王徐徐答曰:「亡叔是一時之標,公是千載之英。」一坐懽然。

桓玄が太傅となって大いに人を集めたので、朝臣がすべて集まった。

座りきったばかりのところで、王楨之に問うた。「私は卿の第七の叔父と比べてどうか」

このとき客たちはそのために息を詰めた。

王楨之はゆっくりと答えた。「亡き叔父は一時の標であり、公は千年の英です」

一座は喜んだ。

夾注 1

王氏譜曰:「楨之字公榦,琅邪人,徽之子。歷侍中、大司馬長史。」第七叔,獻之也。

『王氏譜』に言う。「王楨之は字は公榦、琅邪の人で、王徽之の子である。侍中・大司馬長史を歴任した」。第七の叔父とは王献之である。

87さんざしと梨と橘と柚はそれぞれにその美しさがある

桓玄問劉太常曰:「我何如謝太傅?」劉答曰:「公高,太傅深。」又曰:「何如賢舅子敬?」答曰:「樝、梨、橘、柚,各有其美。」

桓玄が劉太常に問うた。「私は謝太傅と比べてどうか」

劉氏は答えた。「公は高く、太傅は深いのです」

また言った。「賢い母方の叔父の子敬と比べてどうか」

答えた。「さんざしと梨と橘と柚は、それぞれにその美しさがあります」

夾注 2

劉瑾集敘曰:「瑾字仲璋,南陽人。祖遐,父暢。暢娶王羲之女,生瑾。瑾有才力,歷尚書、太常卿。」

『劉瑾集叙』に言う。「劉瑾は字は仲璋、南陽の人である。祖父は劉遐、父は劉暢である。劉暢が王羲之の娘を娶って劉瑾を生んだ。瑾は才と力があり、尚書・太常卿を歴任した」

莊子曰:「樝、梨、橘、柚,其味相反,皆可於口也。」

『荘子』に言う。「さんざしと梨と橘と柚は、その味は互いに反するが、どれも口に合う」

88わが家の中軍がどうしてこれに及ぼうか

舊以桓謙比殷仲文。桓玄時,仲文入,桓於庭中望見之,謂同坐曰:「我家中軍,那得及此也!」

古くから桓謙を殷仲文に比べていた。

桓玄のとき、仲文が入って来ると、桓玄は庭の中から彼を見て、同席の者に言った。「わが家の中軍が、どうしてこれに及ぼうか」

夾注 1

中興書曰:「謙字敬祖,沖第三子。尚書僕射、中軍將軍。」晉安帝紀曰:「仲文有器貌才思。」

『中興書』に言う。「桓謙は字は敬祖、桓沖の第三子である。尚書僕射・中軍将軍であった」。『晋安帝紀』に言う。「殷仲文は器と容貌、才と思いがあった」