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容止世説新語 容止第十四

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 39 · 漢字 1,586字 · 朗読 6.3分

世説新語(世に語られた新しい話) 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1床の頭で刀を執って立っていた人、あれこそ英雄だ

魏武將見匈奴使,自以形陋,不足雄遠國,使崔季珪代,帝自捉刀立床頭。既畢,令間諜問曰:「魏王何如?」匈奴使答曰:「魏王雅望非常,然床頭捉刀人,此乃英雄也。」魏武聞之,追殺此使。

魏の武帝が匈奴の使いに会おうとしたとき、自分の姿が貧相で遠い国に雄々しく見せるには足りないと考え、崔季珪に代わらせ、帝自身は刀を執って床の頭に立った。

終わってから、間諜に尋ねさせた。「魏王はいかがでしたか。」

匈奴の使いは答えた。「魏王は品のある風格が並でなかった。しかし床の頭で刀を執って立っていた人、あれこそ英雄だ。」

魏の武帝はこれを聞いて、この使いを追って殺した。

夾注 2

《魏氏春秋》曰:「武王姿貌短小,而神明英發。」

『魏氏春秋』に言う、「武王は姿も容貌も短く小さかったが、心の明るさは花のように発していた。」

《魏志》曰:「崔琰字季珪,清河東武城人。聲姿高暢,眉目疏朗,鬚長四尺,甚有威重。」

『魏志』に言う、「崔琰は字は季珪、清河東武城の人である。声も姿も高く伸びやかで、眉と目はさっぱりと明るく、鬚は四尺で、ひどく威厳と重みがあった。」

2朱の衣で拭いたが顔色はいよいよ白く明らかになった

何平叔美姿儀,面至白,魏明帝疑其傅粉;正夏月,與熱湯餅。既噉,大汗出,以朱衣自拭,色轉皎然。

何平叔は姿も身ごなしも美しく、顔がきわめて白かったので、魏の明帝は粉を塗っているのではないかと疑った。

ちょうど夏の時分だったので、熱い湯餅を与えた。食べ終わると大汗が出たので、朱の衣で自ら拭いたが、顔色はいよいよ白く明らかになった。

夾注 1

《魏略》曰:「晏性自喜,動靜粉帛不去手,行步顧影。」按:此言,則晏之妖麗,本資外飾。且晏養自宮中,與帝相長,豈復疑其形姿,待騐而明也。

『魏略』に言う、「何晏は性として自らを喜び、動くときも静かなときも粉と絹が手を離れず、歩くたびに影を振り返った。」考えてみると、この言葉によれば、何晏の妖しい美しさは、もともと外の飾りを資本にしていたのである。それに何晏は宮中で育てられ、帝とともに大きくなったのだから、どうしてその形や姿を疑って、試しを待って明らかにする必要があったであろうか。

3蒹葭が玉の木に寄りかかっているようだ

魏明帝使后弟毛曾與夏侯玄共坐,時人謂「蒹葭倚玉樹」。

魏の明帝が皇后の弟の毛曾を夏侯玄と並んで座らせたので、当時の人は「蒹葭が玉の木に寄りかかっているようだ」と言った。

夾注 1

《魏志》曰:「玄為黃門侍郎,與毛曾並坐。玄甚恥之,曾說形於色。明帝恨之,左遷玄為羽林監。」

『魏志』に言う、「夏侯玄が黄門侍郎となって、毛曾と並んで座った。夏侯玄はひどくこれを恥じたが、毛曾は喜びが顔色に現れた。明帝はこれを恨んで、夏侯玄を羽林監に落とした。」

4夏侯太初は日や月が懐に入ったように明るい

時人目「夏侯太初朗朗如日月之入懷,李安國頹唐如玉山之將崩」。

当時の人は評して言った。「夏侯太初は、日や月が懐に入ったように明るく、李安国は、玉の山が崩れようとするように傾いている。」

夾注 1

《魏略》曰:「李豐字安國,衛尉李義子也。識別人物,海內注意。明帝得吳降人,問江東聞中國名士為誰?以安國對之。是時豐為黃門郎,改名宣。上問安國所在?左右公卿即具以豐對。上曰:『豐名乃被於吳、越邪?』仕至中書令,為晉王所誅。」

『魏略』に言う、「李豊は字は安国、衛尉李義の子である。人物を見分けたので、海内が心を寄せた。明帝が呉から降った人を得て、江東では中国の名士として誰を聞いているかと尋ねると、安国と答えた。このとき李豊は黄門郎で、名を李宣と改めていた。帝が安国のいる所を尋ねると、傍の公卿たちはすぐに李豊のことだと詳しく答えた。帝は『李豊の名は呉や越にまで及んでいたのか』と言った。官は中書令に至り、晋王に誅された。」

5岩のようにそびえて孤り立つ松のようである

嵇康身長七尺八寸,風姿特秀。見者嘆曰:「蕭蕭肅肅,爽朗清舉。」或云:「肅肅如松下風,高而徐引。」山公曰:「嵇叔夜之為人也,巖巖若孤松之獨立;其醉也,傀俄若玉山之將崩。」

嵇康は身の丈が七尺八寸で、風格も姿もとりわけ秀でていた。

見た者は嘆じた。「しんと静かで引き締まり、爽やかに明るく清らかに立ち上がっている。」

ある人は言った。「引き締まったさまは松の下を吹く風のようで、高くありながらゆるやかに引いていく。」

山公は言った。「嵇叔夜の人となりは、岩のようにそびえて、孤り立つ松のようであり、その酔ったときは、傾いて玉の山が崩れようとするようだ。」

夾注 1

《康別傳》曰:「康長七尺八寸,偉容色,土木形骸,不加飾厲,而龍章鳳姿,天質自然。正爾在群形之中,便自知非常之器。」

『康別伝』に言う、「嵇康は身の丈が七尺八寸で、容貌も顔色も立派だった。土や木のような体に飾りや磨きを加えなくても、竜の文と鳳の姿が、天から与えられた質のままに自ずとそうであった。ちょうどそのまま多くの姿の中にあっても、すぐに並でない器だとわかった。」

6目がぎらぎらと光って岩の下の雷のようだ

裴令公目王安豐:「眼爛爛如巖下電。」

裴令公は王安豊を評して言った。「目がぎらぎらと光って、岩の下の雷のようだ。」

夾注 1

王戎形狀短小,而目甚清炤,視日不眩。

王戎は姿が短く小さかったが、目がひどく清らかに照って、日を見ても眩まなかった。

7左太沖がこれをまねて老婆たちに唾を吐かれる

潘岳妙有姿容,好神情。少時挾彈出洛陽道,婦人遇者,莫不連手共縈之。左太沖絕醜,亦復效岳遊遨,於是群嫗齊共亂唾之,委頓而返。

潘岳は姿も容貌も妙に美しく、心の表れも良かった。

若いころ弾弓を抱えて洛陽の道に出ると、出会った婦人は手をつないで一緒に彼を取り巻かない者がなかった。

左太沖はきわめて醜かったが、それでもまた潘岳をまねて遊び歩いた。すると老婆たちがそろって一緒にやたらと唾を吐いたので、へたへたと疲れて帰ってきた。

夾注 3

《岳別傳》曰:「岳姿容甚美,風儀閒暢。」

『岳別伝』に言う、「潘岳は姿も容貌もひどく美しく、風格も身ごなしもゆったりと伸びやかだった。」

《續文章志》曰:「思貌醜悴,不持儀飾。」

『続文章志』に言う、「左思は容貌が醜くやつれていて、身ごなしや飾りを構えなかった。」

《語林》曰:「安仁至美,每行,老嫗以果擲之,滿車。張孟陽至醜,每行,小兒以瓦石投之,亦滿車。」二說不同。

『語林』に言う、「安仁はきわめて美しく、歩くたびに老婆たちが果物を投げて、車がいっぱいになった。張孟陽はきわめて醜く、歩くたびに子どもたちが瓦や石を投げて、これも車がいっぱいになった。」二つの説は同じでない。

8白い玉の柄の麈尾が手とまったく見分けがつかなかった

王夷甫容貌整麗,妙於談玄;恆捉白玉柄麈尾,與手都無分別。

王夷甫は容貌が整って麗しく、玄妙なことを談じるのに妙であった。いつも白い玉の柄の麈尾を執っていたが、手とまったく見分けがつかなかった。

9潘安仁と夏侯湛を連璧と言った

潘安仁、夏侯湛並有美容,喜同行,時人謂之「連璧」。

潘安仁と夏侯湛はともに美しい容貌があり、連れ立って歩くのを好んだので、当時の人はこれを「連璧」と言った。

夾注 1

《八王故事》曰:「岳與湛著契,故好同遊。」

『八王故事』に言う、「潘岳と夏侯湛は心を合わせていたので、ともに遊ぶのを好んだ。」

10両の瞳はきらきらと岩の下の雷のようだ

裴令公有儁容姿,一旦有疾至困,惠帝使王夷甫往看,裴方向壁臥,聞王使至,強回視之。王出語人曰:「雙眸閃閃,若巖下電,精神挺動,體中故小惡。」

裴令公は優れた容貌と姿があったが、ある朝病んで苦しむまでになった。

恵帝が王夷甫を遣わして見舞わせたとき、裴楷はちょうど壁の方を向いて臥していたが、王夷甫の使いが来たと聞いて、無理に向き直ってこれを見た。

王夷甫は出てから人に言った。「両の瞳はきらきらと、岩の下の雷のようで、心の張りは抜きん出て動いている。体の中が、ちょっと悪いだけだ。」

夾注 1

《名士傳》曰:「楷病困,詔遣黃門郎王夷甫省之,楷回眸屬夷甫云:『竟未相識。』夷甫還,亦歎其神俊。」

『名士伝』に言う、「裴楷が病んで苦しんだので、詔して黄門郎の王夷甫を遣わして見舞わせた。裴楷は瞳を回して夷甫に向け、『ついにお会いしたことがありませんでしたな』と言った。夷甫は帰って、やはりその心の抜きん出たさまを嘆じた。」

11君はその父を見ていないだけだ

有人語王戎曰:「嵇延祖卓卓如野鶴之在雞群。」答曰:「君未見其父耳!」

ある人が王戎に言った。「嵇延祖は際立っていて、野の鶴が鶏の群れにいるようです。」

答えた。「君はその父を見ていないだけだ。」

夾注 1

康已見上。

嵇康はすでに上に見える。

12裴叔則を見ると玉の山の上を歩いているようで光が映って人を照らす

裴令公有儁容儀,脫冠冕,麤服亂頭皆好。時人以為「玉人」。見者曰:「見裴叔則如玉山上行,光映照人。」

裴令公は優れた容貌と身ごなしがあって、冠や冕を脱いでも、粗い衣で髪を乱していても、みな良かった。当時の人は「玉の人」とした。

見た者は言った。「裴叔則を見ると、玉の山の上を歩いているようで、光が映って人を照らす。」

13土や木のような体

劉伶身長六尺,貌甚醜顇,而悠悠忽忽,土木形骸。

劉伶は身の丈が六尺で、容貌がひどく醜くやつれていたが、ゆるゆるとぼんやりとして、土や木のような体であった。

夾注 1

梁祚《魏國統》曰:「劉伶,字伯倫,形貌醜陋,身長六尺;然肆意放蕩,悠焉獨暢。自得一時,常以宇宙為狹。」

梁祚の『魏国統』に言う、「劉伶は字は伯倫、姿も容貌も醜く貧相で、身の丈は六尺であった。しかし意のままに放蕩で、はるかに独り伸びやかであった。一時に自ら足りて、いつも宇宙を狭いと思っていた。」

14珠や玉が傍にあると自分の姿の汚さを感じる

驃騎王武子,是衛玠之舅,雋爽有風姿;見玠,輒嘆曰:「珠玉在側,覺我形穢!」

驃騎の王武子は衛玠の母の兄弟で、優れて爽やかな風格と姿があった。

衛玠に会うと、そのたびに嘆じた。「珠や玉が傍にあると、自分の姿の汚さを感じる。」

夾注 1

《玠別傳》曰:「驃騎王濟,玠之舅也。嘗與同遊,語人曰:『昨日吾與外生共坐,若明珠之在側,朗然來照人。』」

『玠別伝』に言う、「驃騎の王済は衛玠の母の兄弟である。かつてともに遊んで、人に『昨日、私は甥とともに座ったが、明るい珠が傍にあって、きらきらと来て人を照らすようであった』と言った。」

15今日の行きがけは目に触れるものがみな美しい珠や玉であった

有人詣王太尉,遇安豐、大將軍、丞相在坐;往別屋,見季胤、平子。還,語人曰:「今日之行,觸目見琳琅珠玉。」

ある人が王太尉を訪ねたが、ちょうど安豊と大将軍と丞相が席にいた。

別の部屋に行くと、季胤と平子に会った。

帰って人に言った。「今日の行きがけは、目に触れるものがみな美しい珠や玉であった。」

夾注 1

石崇《金谷詩敘》曰:「王詡字季胤,琅邪人。」《王氏譜》曰:「詡,夷甫弟也,仕至脩武令。」

石崇の「金谷詩叙」に言う、「王詡は字は季胤、琅邪の人である。」『王氏譜』に言う、「王詡は夷甫の弟で、官は脩武令に至った。」

16薄絹さえ身に堪えられないようだ

王丞相見衛洗馬曰:「居然有羸形,雖復終日調暢,若不堪羅綺。」

王丞相が衛洗馬を見て言った。「そのままに痩せた姿があって、一日中調子よく伸びやかにしていても、薄絹さえ身に堪えられないようだ。」

夾注 1

《玠別傳》曰:「玠素抱羸疾。」《西京賦》曰:「始徐進而羸形,似不勝乎羅綺。」

『玠別伝』に言う、「衛玠はもとから痩せる病を抱えていた。」「西京賦」に言う、「はじめゆるやかに進むとその痩せた姿は、薄絹にさえ堪えられないようである。」

17多くの人の中にいると珠や玉が瓦や石の間にあるようだ

王大將軍稱太尉:「處眾人中,似珠玉在瓦石間。」

王大将軍が太尉を称えた。「多くの人の中にいると、珠や玉が瓦や石の間にあるようだ。」

18身の丈は七尺に満たず腰帯は十囲もあった

庾子嵩長不滿七尺,腰帶十圍,頹然自放。

庾子嵩は身の丈が七尺に満たず、腰帯は十囲もあったが、崩れたように自らを放っていた。

19見て殺した衛玠

衛玠從豫章至下都,人久聞其名,觀者如堵牆。玠先有羸疾,體不堪勞,遂成病而死。時人謂「看殺衛玠」。

衛玠が豫章から都に着くと、人々は久しくその名を聞いていたので、見る者が垣根のようであった。

衛玠にはもとから痩せる病があり、体が疲れに堪えられなかったので、ついに病となって死んだ。

当時の人は「見て殺した衛玠」と言った。

夾注 1

《玠別傳》曰:「玠在群伍之中,寔有異人之望。齠齔時,乘白羊車於洛陽市上,咸曰:『誰家璧人?』於是家門州黨號為『璧人』。」按《永嘉流人名》曰:「玠以永嘉六年五月六日至豫章,其年六月二十日卒。」此則玠之南度豫章四十五日,豈暇至下都而亡乎?且諸書皆云玠亡在豫章,而不云在下都也。

『玠別伝』に言う、「衛玠は群れの中にいても、まことに人と異なる風格があった。歯の抜け替わるころ、白い羊の車に乗って洛陽の市に出ると、皆が『どこの家の玉の人か』と言った。そこで家中も州も郷も『玉の人』と呼んだ。」考えてみると、『永嘉流人名』に「衛玠は永嘉六年五月六日に豫章に着き、その年の六月二十日に亡くなった」とある。これならば、衛玠が南へ豫章に渡ってから四十五日であり、どこに都まで行って亡くなる余裕があったであろうか。しかも諸書はみな衛玠が亡くなったのは豫章だと言い、都だとは言わない。

20高く険しくさっぱりしていて笑いを誘う人だ

周伯仁道桓茂倫:「嶔崎歷落可笑人。」或云謝幼輿言。

周伯仁が桓茂倫を評した。「高く険しくさっぱりしていて、笑いを誘う人だ。」

ある人は謝幼輿の言葉だという。

21保って用いればいろいろな物を作れるだろう

周侯說王長史父:形貌既偉,雅懷有概,保而用之,可作諸許物也。

周侯が王長史の父を評した。姿も容貌も立派で、品のある胸中に気概がある。保って用いれば、いろいろな物を作れるだろうと。

夾注 1

《王氏譜》曰:「訥字文開,太原人。祖默,尚書。父祜,散騎常侍。訥始過江,仕至新淦令。」

『王氏譜』に言う、「王訥は字は文開、太原の人である。祖父の王黙は尚書、父の王祜は散騎常侍である。王訥がはじめて江を渡り、官は新淦令に至った。」

22この人には旗竿の下に立つ姿がある

祖士少見衛君長云:「此人有旄仗下形。」

祖士少が衛君長を見て言った。「この人には旗竿の下に立つ姿がある。」

23あの渓狗は私がよく知っている。あなたはただ会えばよい

石頭事故,朝廷傾覆。溫忠武與庾文康投陶公求救,陶公云:「肅祖顧命不見及,且蘇峻作亂,釁由諸庾,誅其兄弟,不足以謝天下。」于時庾在溫船後聞之,憂怖無計。別日,溫勸庾見陶,庾猶豫未能往,溫曰:「溪狗我所悉,卿但見之,必無憂也!」庾風姿神貌,陶一見便改觀。談宴竟日,愛重頓至。

石頭の事変で、朝廷は傾き覆った。

温忠武が庾文康とともに陶公のもとに身を寄せて救いを求めると、陶公は言った。「粛祖の遺された命は私には及ばなかった。それに蘇峻が乱を起こしたのは、隙が庾氏の人々から生じたのだから、その兄弟を誅しても、天下に謝るには足りない。」

このとき庾亮は温嶠の船の後ろでこれを聞いて、憂え恐れて手立てがなかった。

別の日、温嶠が庾亮に陶公に会うよう勧めたが、庾亮はためらって行くことができなかった。

温嶠は言った。「あの渓狗は私がよく知っている。あなたはただ会えばよい。必ず心配はない。」

庾亮の風格も姿も心のさまも、陶公は一度見るとすぐに見方を変えた。談じ宴することが一日中続き、愛し重んじることが一気に極まった。

夾注 2

《晉陽秋》曰:「蘇峻自姑孰至于石頭,逼遷天子。峻以倉屋為宮,使人守衛。」《靈鬼志謠徵》曰:「明帝末有謠歌:『側側力,放馬出山側。大馬死,小馬餓。』後峻遷帝於石頭,御膳不具。」

『晋陽秋』に言う、「蘇峻は姑孰から石頭に至り、天子を迫って移した。蘇峻は倉の建物を宮として、人に守らせた。」『霊鬼志謡徴』に言う、「明帝の末に謡歌があって『そくそくりき、馬を山の側に出す。大きな馬が死んで、小さな馬が飢える』と言った。のちに蘇峻が帝を石頭に移すと、帝の食膳が整わなかった。」

徐廣《晉紀》曰:「肅祖遺詔,庾亮、王導輔幼主而進大臣官,陶侃、祖約不在其例。侃、約疑亮寢遺詔也。」《中興書》曰:「初,庾亮欲徵蘇峻,卞壼不許。溫嶠及三吳欲起兵衛帝室,亮不聽,下制曰:『妄起兵者誅!』故峻得作亂京邑也。」

徐広の『晋紀』に言う、「粛祖の遺詔では、庾亮と王導が幼い君主を輔け、大臣の官を進めることになっていたが、陶侃と祖約はその例に入っていなかった。陶侃と祖約は、庾亮が遺詔を伏せたのではないかと疑った。」『中興書』に言う、「はじめ庾亮が蘇峻を召そうとしたとき、卞壼は許さなかった。温嶠と三呉は兵を起こして帝室を守ろうとしたが、庾亮は聞かず、制を下して『みだりに兵を起こす者は誅する』と言った。だから蘇峻は都で乱を起こすことができたのである。」

24ただ丘と谷だけがひとり残っていました

庾太尉在武昌,秋夜氣佳景清,使吏殷浩、王胡之之徒登南樓理詠。音調始遒,聞函道中有屐聲甚厲,定是庾公。俄而率左右十許人步來,諸賢欲起避之。公徐云:「諸君少住,老子於此處興復不淺!」因便據胡床,與諸人詠謔,竟坐甚得任樂。後王逸少下,與丞相言及此事。丞相曰:「元規爾時風範,不得不小穨。」右軍答曰:「唯丘壑獨存。」

庾太尉が武昌にいたとき、秋の夜、気は良く景色は清らかであった。

属吏の殷浩や王胡之の輩に、南の楼に登って詠を整えさせた。

音の調子がようやく張ってきたころ、箱梯子の道に木履の音がひどく厲しいのが聞こえ、まさしく庾公であった。

やがて傍の者十人ほどを連れて歩いて来たので、賢人たちは立って彼を避けようとした。

公はゆっくりと言った。「諸君、少し留まってくれ。この老いぼれも、ここでの興はまた浅くはないのだ。」

そこでそのまま胡床に腰かけ、人々とともに詠み戯れたので、ついに一座はひどく楽しみに任せることができた。

のちに王逸少が下って、丞相とこの事に話が及んだ。

丞相は言った。「元規はそのとき、風格と範が少し崩れずにはいられなかったろう。」

右軍は答えた。「ただ丘と谷だけが、ひとり残っていました。」

夾注 1

孫綽《庾亮碑文》曰:「公雅好所託,常在塵垢之外。雖柔心應世,蠖屈其跡,而方寸湛然,固以玄對山水。」

孫綽の「庾亮碑文」に言う、「公は心から寄せるところを好み、いつも塵や垢の外にあった。柔らかな心で世に応じ、尺取虫のようにその跡を屈めてはいたが、胸の中は澄んでいて、もとより玄なるもので山水に向かい合っていた。」

25お前は才が姿に釣り合わないのが残念だ

王敬豫有美形,問訊王公。王公撫其肩曰:「阿奴恨才不稱!」又云:「敬豫事事似王公。」

王敬豫は美しい姿があり、王公に御機嫌を伺った。

王公はその肩を撫でて言った。「お前は才が姿に釣り合わないのが残念だ。」

また言った。「敬豫は何事も王公に似ている。」

夾注 1

《語林》曰:「謝公云:『小時在殿廷會見丞相,便覺清風來拂人。』」

『語林』に言う、「謝公は『小さいころ殿の庭の集まりで丞相にお会いすると、すぐに清らかな風が来て人を撫でるのを感じた』と言った。」

26顔は凝った脂のようで目は漆を点じたようだ。これは神仙の中の人だ

王右軍見杜弘治,嘆曰:「面如凝脂,眼如點漆,此神仙中人!」時人有稱王長史形者,蔡公曰:「恨諸人不見杜弘治耳!」

王右軍が杜弘治を見て嘆じた。「顔は凝った脂のようで、目は漆を点じたようだ。これは神仙の中の人だ。」

当時の人で王長史の姿を称える者があったが、蔡公は言った。「皆が杜弘治を見なかったのが残念だ。」

夾注 1

《江左名士傳》曰:「永和中,劉真長、謝仁祖共商略中朝人士。或曰:『杜弘治清標令上,為後來之美,又面如凝脂,眼如點漆,粗可得方諸衛玠。』」

『江左名士伝』に言う、「永和の年間に、劉真長と謝仁祖がともに中朝の人士を論じ合った。ある人が『杜弘治は清らかな風采が優れていて、後に来る者の美であり、しかも顔は凝った脂のようで目は漆を点じたようだから、おおまかには衛玠に並べられる』と言った。」

27鬢は裏返した猬の皮のようで眉は紫の石の稜のようだ

劉尹道桓公:鬢如反猬皮,眉如紫石稜,自是孫仲謀、司馬宣王一流人。

劉尹が桓公を評した。鬢は裏返した猬の皮のようで、眉は紫の石の稜のようだから、まさしく孫仲謀や司馬宣王と同じ流れの人だと。

夾注 1

宋明帝《文章志》曰:「溫為溫嶠所賞,故名溫。」《吳志》曰:「孫權字仲謀,策弟也。漢使者劉琬語人曰:『吾觀孫氏兄弟,雖並有才秀明達,皆祿胙不終。唯中弟孝廉,形貌魁偉,骨體不恆,有大貴之表。』」《晉陽秋》曰:「宣王天姿傑邁,有英雄之略。」

宋の明帝の『文章志』に言う、「桓温は温嶠に賞められたので、温と名づけられた。」『呉志』に言う、「孫権は字は仲謀、孫策の弟である。漢の使者の劉琬が人に『私が孫氏の兄弟を見るに、どちらも才が秀で明らかに通じてはいるが、みな禄と福が終わりまで続かないだろう。ただ真ん中の弟の孝廉だけは、姿も容貌も堂々と立派で、骨柄が並でなく、大いに貴くなる表れがある』と言った。」『晋陽秋』に言う、「宣王は天から与えられた姿が傑出していて、英雄の計略があった。」

28あの小せがれにはもとより自ずと鳳の毛があるな

王敬倫風姿似父,作侍中,加授桓公,公服從大門入。桓公望之,曰:「大奴固自有鳳毛。」

王敬倫は風格と姿が父に似ていた。

侍中となって桓公に官を加え授けることになったとき、公服で大門から入ってきた。

桓公はこれを眺めて言った。「あの小せがれには、もとより自ずと鳳の毛があるな。」

夾注 1

大奴,王劭也。已見。《中興書》曰:「劭美姿容,持儀操也。」

大奴は王劭である。すでに見える。『中興書』に言う、「王劭は姿も容貌も美しく、身ごなしと節操を保っていた。」

29衿を整えて一度やって来るのだが何とまあ意気高く美しい立ち居か

林公道王長史:「斂衿作一來,何其軒軒韶舉!」

林公が王長史を評した。「衿を整えて一度やって来るのだが、何とまあ意気高く美しい立ち居か。」

夾注 1

《語林》曰:「王仲祖有好儀形,每覽鏡自照,曰:『王文開那生如馨兒!』時人謂之達也。」

『語林』に言う、「王仲祖は良い身ごなしと容貌があって、鏡を見るたびに自ら映して『王文開がどうしてこんな子を生んだのか』と言ったので、当時の人は彼を通達しているとした。」

30漂う雲のようにひるがえり驚いた竜のようにうねる

時人目王右軍:「飄如遊雲,矯若驚龍。」

当時の人は王右軍を評した。「漂う雲のようにひるがえり、驚いた竜のようにうねる。」

31それは必ず林公だ

王長史嘗病,親疎不通。林公來,守門人遽啟之曰:「一異人在門,不敢不啟。」王笑曰:「此必林公。」

王長史はかつて病んで、親しい者も疎い者も通さなかった。

林公が来ると、門を守る者が急いで申し上げた。「一人の変わった人が門にいて、申し上げないわけにはいきません。」

王長史は笑って言った。「それは必ず林公だ。」

夾注 1

按《語林》曰:「諸人嘗要阮光祿共詣林公。阮曰:『欲聞其言,惡見其面。』」此則林公之形,信當醜異。

考えてみると、『語林』に言う、「人々がかつて阮光禄に、ともに林公を訪ねようと誘った。阮裕は『その言葉は聞きたいが、その顔は見るのが嫌だ』と言った。」これならば、林公の容貌は、まことに醜く変わっていたのであろう。

32北の窓の下で足を伸ばして琵琶を弾くともとより天の際の真人を思わせる

或以方謝仁祖不乃重者。桓大司馬曰:「諸君莫輕道,仁祖企腳北窗下彈琵琶,故自有天際真人想。」

ある人が謝仁祖を人と並べて、それほど重んじなかった。

桓大司馬は言った。「諸君、軽々しく言うな。仁祖が北の窓の下で足を伸ばして琵琶を弾くと、もとより自ずと天の際の真人を思わせるものがあるのだ。」

夾注 1

《晉陽秋》曰:「尚善音樂。」裴子云:「丞相嘗曰:『堅石挈腳枕琵琶,有天際想。』」堅石,尚小名。

『晋陽秋』に言う、「謝尚は音楽に巧みであった。」『裴子』に言う、「丞相はかつて『堅石が足を持ち上げて琵琶を枕にすると、天の際を思わせるものがある』と言った。」堅石は謝尚の幼名である。

33これはもう世の中の人のようではない

王長史為中書郎,往敬和許。爾時積雪,長史從門外下車,步入尚書,著公服。敬和遙望,嘆曰:「此不復似世中人!」

王長史が中書郎となって、敬和のもとへ行った。

そのとき雪が積もっていたが、長史は門の外で車を降り、歩いて尚書に入ってきて、公服を着ていた。

敬和は遠くから眺めて嘆じた。「これはもう世の中の人のようではない。」

夾注 1

敬和,王洽已見。

敬和は王洽で、すでに見える。

34相王が輔けをなされれば自然と神君のように澄んでおられます

簡文作相王時,與謝公共詣桓宣武。王珣先在內,桓語王:「卿嘗欲見相王,可住帳裏。」二客既去,桓謂王曰:「定何如?」王曰:「相王作輔,自然湛若神君,公亦萬夫之望。不然,僕射何得自沒?」

簡文帝が相王であったとき、謝公とともに桓宣武を訪ねた。

王珣が先に内にいたので、桓温は王珣に言った。「あなたはかつて相王に会いたいと言っていた。帳の中にいればよい。」

二人の客が去ってから、桓温は王珣に言った。「いったいどうだった。」

王珣は言った。「相王が輔けをなされれば、自然と神君のように澄んでおられます。公もまた万人の望みであります。そうでなければ、僕射はどうして自ら身を沈めていられたでしょうか。」

夾注 2

《續晉陽秋》曰:「帝美風姿,舉止端詳。」

『続晋陽秋』に言う、「帝は風格と姿が美しく、立ち居振る舞いが端正で細やかであった。」

僕射,謝安。

僕射は謝安である。

35ただ会稽王が来ると意気高く朝の霞が立ち上がるようであった

海西時,諸公每朝,朝堂猶暗;唯會稽王來,軒軒如朝霞舉。

海西公のとき、諸公が朝するたびに朝堂はまだ暗かったが、ただ会稽王が来ると、意気高く朝の霞が立ち上がるようであった。

36ただ恭しく座って鼻をつまみ横目を使っているだけで自ずと山や沢の間に寝起きするような身ごなしがある

謝車騎道謝公:「遊肆復無乃高唱,但恭坐捻鼻顧睞,便自有寢處山澤閒儀。」

謝車騎が謝公を評した。「遊び戯れるときでさえ声高に歌うこともなく、ただ恭しく座って鼻をつまみ横目を使っているだけで、そのまま自ずと山や沢の間に寝起きするような身ごなしがある。」

37林公の両の眼を見ると黒々として明るく黒い

謝公云:「見林公雙眼,黯黯明黑。」孫興公見林公:「稜稜露其爽。」

謝公は言った。「林公の両の眼を見ると、黒々として明るく黒い。」

孫興公が林公を見て言った。「稜々として、その爽やかさを現している。」

38客たちはその心のさまと姿を眺めて一度に退いて隠れた

庾長仁與諸弟入吳,欲住亭中宿。諸弟先上,見群小滿屋,都無相避意。長仁曰:「我試觀之。」乃策杖將一小兒,始入門,諸客望其神姿,一時退匿。

庾長仁が弟たちと呉に入って、亭の中に泊まろうとした。

弟たちが先に上がると、取るに足りない者たちが部屋に満ちて、まったく避ける気がないのを見た。

長仁は言った。「私が試しに見てみよう。」

そこで杖をついて一人の童を連れ、門に入ったばかりのところで、客たちはその心のさまと姿を眺めて、一度に退いて隠れた。

夾注 1

長仁已見,一說是庾亮。

長仁はすでに見える。一説には庾亮だという。

39洗い上げたように春の月の柳のようだ

有人嘆王恭形茂者,云:「濯濯如春月柳。」

ある人が王恭の姿の豊かさを嘆じて言った。「洗い上げたように、春の月の柳のようだ。」