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豪爽世説新語 豪爽第十三

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 13 · 漢字 783字 · 朗読 3.1分

世説新語(世に語られた新しい話) 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1袖を振って立ち上がり撥を揚げて打つと、傍らに人がいないかのようであった

王大將軍年少時,舊有田舍名,語音亦楚。武帝喚時賢,共言伎藝之事,人人皆多有所知;唯王都無所關,意色殊惡。自言知打鼓吹。帝即令取鼓與之,於坐振袖而起,揚槌奮擊,音節諧捷,神氣豪上,傍若無人。舉坐嘆其雄爽。

王大将軍は若いころ、以前から田舎者という評があり、言葉の音も楚のなまりであった。

武帝が当時の賢人たちを呼んで、ともに技芸のことを語らせると、人々は皆それぞれよく知るところが多かったが、ただ王敦だけはまったく関わるところがなく、気持ちも顔つきもひどく悪かった。

自分は鼓を打ち笛を吹くことを知っていると言ったので、帝はすぐに鼓を取って与えさせた。

席で袖を振って立ち上がり、撥を揚げて奮って打つと、音と節は調和して速く、気迫は豪然と高く上がって、傍らに人がいないかのようであった。

一座はその雄々しく爽やかなさまに感嘆した。

夾注 1

或曰:敦嘗坐武昌釣臺,聞行船打鼓,嗟稱其能。俄而一槌小異,敦以扇柄撞几曰:「可恨!」應侍側曰:「不然,此是回颿槌。」使視之,云「船人入夾口」。應知鼓又善於敦也。

ある人は言う。王敦はかつて武昌の釣台に座り、行く船で鼓を打つ音を聞いて感嘆し、その巧みさを称えた。やがて一打ちが少し違ったので、王敦は扇の柄で几を叩いて「残念なことだ」と言った。王応が傍に仕えていて、「そうではありません。これは帆を回すときの打ち方です」と言った。人を遣わして見させると、「船人が狭い入り口に入りました」と言った。王応が鼓を知ることは、また王敦よりも優れていた。

2このようなことは、はなはだ易しいだけだ

王處仲世許高尚之目,嘗荒恣於色,體為之弊。左右諫之,處仲曰:「吾乃不覺爾。如此者,甚易耳!」乃開內後閤,驅諸婢妾數十人出路,任其所之。時人嘆焉。

王処仲は世に高尚だという評を許されていたが、かつて女色に荒れ放埒で、体がそのために損なわれた。

傍の者が諫めると、処仲は言った。「私はそれに気づかなかった。このようなことは、はなはだ易しいだけだ。」

そこで内の奥の部屋を開き、婢や妾数十人を路に追い出して、その行くところに任せた。当時の人はこれに感嘆した。

夾注 1

鄧粲《晉紀》曰:「敦性簡脫,口不言財,其存尚如此。」

鄧粲の『晋紀』に言う、「王敦は性が簡素で淡々としており、口に財のことを言わなかった。その心に保っていた高さはこのようであった。」

3高く明るく、おおらかで率直、学は左氏に通じている

王大將軍自目:「高朗疎率,學通左氏。」

王大将軍は自ら評して言った。「高く明るく、おおらかで率直、学は左氏に通じている。」

夾注 1

《晉陽秋》曰:「敦少稱高率通朗,有鑒裁。」

『晋陽秋』に言う、「王敦は若くして高く率直で、通じ明るいと称えられ、人を見分け用いる力があった。」

4如意で唾壺を叩き、壺の口はすべて欠けてしまった

王處仲每酒後,輒詠「老驥伏櫪,志在千里;烈士暮年,壯心不已」,以如意打唾壺,壺口盡缺。

王処仲は酒のあとになるたびに「老驥は櫪に伏すも、志は千里に在り。烈士は暮年にも、壮心已まず」と詠み、如意で唾壺を叩いたので、壺の口はすべて欠けてしまった。

夾注 1

魏武帝《樂府詩》。

魏の武帝の「楽府詩」である。

5一夜のうちに池を造り、暁になるとすぐに出来上がった

晉明帝欲起池臺,元帝不許。帝時為太子,好養武士。一夕中作池,比曉便成。今太子西池是也。

晋の明帝が池と台を造ろうとしたが、元帝は許さなかった。

帝は当時太子で、武士を養うことを好んだ。一夜のうちに池を造り、暁になるとすぐに出来上がった。今の太子の西池がこれである。

夾注 1

《丹陽記》曰:「西池,孫登所創,吳史所稱西苑也。明帝修復之耳。」

『丹陽記』に言う、「西池は孫登が造ったもので、呉の史書にいう西苑である。明帝がこれを修復しただけである。」

6私は三千の兵を率い、槊で足を突いて上らせてやる

王大將軍始欲下都處分樹置,先遣參軍告朝廷,諷旨時賢。祖車騎尚未鎮壽春,瞋目厲聲語使人曰:「卿語阿黑:何敢不遜!催攝面去,須臾不爾,我將三千兵,槊腳令上!」王聞之而止。

王大将軍が初めて都に下って事を処分し人を据えようとしたとき、まず参軍を遣わして朝廷に告げ、当時の賢人たちにその意をほのめかさせた。

祖車騎はまだ寿春を鎮めてはいなかったが、目を怒らせ声を厲しくして使いの者に言った。「お前は阿黒に言え。どうしてそれほど無礼でいられるのか。急いで顔を引っ込めて去れ。すぐにそうしなければ、私は三千の兵を率い、槊で足を突いて上らせてやる。」

王敦はこれを聞いてやめた。

夾注 1

敦小字也。

王敦の幼名である。

7私のこの行いは、この射のようであろう

庾稚恭既常有中原之志,文康時權重,未在己。及季堅作相,忌兵畏禍,與稚恭歷同異者久之,乃果行。傾荊、漢之力,窮舟車之勢,師次于襄陽。大會參佐,陳其旌甲,親授弧矢曰:「我之此行,若此射矣!」遂三起三疊,徒眾屬目,其氣十倍。

庾稚恭はもとから常に中原を取る志があったが、文康が当時権勢が重く、それは自分の手にはなかった。

季堅が宰相となるに至って、兵を忌み禍を恐れ、稚恭と賛否を争うことが長く続いたのち、ようやく果たして実行した。

荊州と漢水の力を傾け、舟と車の勢いを尽くして、軍は襄陽に宿営した。

参佐を大いに集めてその旗と甲を並べ、自ら弓矢を執って言った。「私のこの行いは、この射のようであろう。」

そして三度起って三度重ねて当てたので、兵たちは目を注ぎ、その気は十倍になった。

夾注 1

《漢晉春秋》曰:「翼風儀美劭,才能豐贍,少有經緯大略。及繼兄亮居方州之任,有匡維內外,埽蕩群凶之志。是時,杜乂、殷浩諸人盛名冠世,翼未之貴也。常曰:『此輩宜束之高閣,俟天下清定,然後議其所任耳!』其意氣如此。唯與桓溫友善,相期以寧濟宇宙之事。初,翼輒發所部奴及車馬萬數,率大軍入沔,將謀伐狄,遂次于襄陽。」《翼別傳》曰:「翼為荊州,雅有正志。每以門地威重,兄弟寵授,不陳力竭誠,何以報國。雖蜀阻險塞,胡負凶力,然皆無道酷虐,易可乘滅。當此時,不能掃除二寇,以復王業,非丈夫也。於是徵役三州,悉其帑實,成眾五萬,兼率荒附,治戎大舉,直指魏、趙,軍次襄陽,耀威漢北也。」

『漢晋春秋』に言う、「庾翼は風采が美しく立派で、才能が豊かに備わり、若くして天下を経営する大きな構想があった。兄の庾亮を継いで地方の州の任に当たるようになると、内外を正して守り、群れなす凶徒を掃き払う志があった。このとき杜乂や殷浩らの人々は盛名が世に冠たるものであったが、庾翼はこれを貴いとはしなかった。常に言った、『この連中は束ねて高い棚に置いておき、天下が清まり定まるのを待ってから、その任ずるところを議すればよいだけだ。』その意気はこのようであった。ただ桓温とだけ親しく交わり、ともに宇宙を安んじ救うことを期した。はじめ庾翼はただちに自分の部下の奴僕や車馬を万をもって出し、大軍を率いて沔水に入り、狄を伐つことを図って、ついに襄陽に宿営した。」『翼別伝』に言う、「庾翼は荊州に在って、まことに正しい志があった。常に、門地は威厳が重く、兄弟は寵愛を受けて官を授かったのだから、力を尽くし誠を尽くさなければ何によって国に報いようかと考えていた。蜀は険しい要害に守られ、胡は凶暴な力を頼みにしているが、どちらも道がなく酷く虐げているので、容易につけ込んで滅ぼせると考えた。この時に二つの寇を掃き除いて王業を取り戻せなければ、丈夫ではないとした。そこで三州から賦役を徴し、その府庫の蓄えを尽くして五万の兵を成し、あわせて辺境に付き従う者を率い、軍を整えて大いに挙げ、まっすぐ魏と趙を指したので、軍は襄陽に宿営し、威を漢水の北に輝かせた。」

8あなたがたが王大将軍を見なかったのが残念だ

桓宣武平蜀,集參僚置酒於李勢殿,巴、蜀縉紳,莫不來萃。桓既素有雄情爽氣,加爾日音調英發,敘古今成敗由人,存亡繫才。其狀磊落,一坐嘆賞。既散,諸人追味餘言。于時尋陽周馥曰:「恨卿輩不見王大將軍。」

桓宣武が蜀を平定し、参僚を集めて李勢の殿で酒宴を開くと、巴と蜀の官人たちは来て集まらない者がなかった。

桓温はもとから雄々しい情と爽やかな気があったうえ、その日は音調がひときわ冴えて、古今の成敗が人によること、存亡が才にかかっていることを述べた。その姿は磊落で、一座は感嘆して褒めた。

散会すると、人々は残った言葉を追って味わった。

このとき尋陽の周馥が言った。「あなたがたが王大将軍を見なかったのが残念だ。」

夾注 1

《中興書》曰:「馥,周撫孫也,字湛隱。有將略,曾作敦掾。」

『中興書』に言う、「周馥は周撫の孫で、字は湛隠である。将としての計略があり、かつて王敦の掾を務めた。」

9誰がこのような谷川のように削ぎ立った身の処し方をできようか

桓公讀《高士傳》,至於陵仲子,便擲去曰:「誰能作此溪刻自處!」

桓公が『高士伝』を読んで、於陵の陳仲子のところに至ると、すぐに投げ捨てて言った。「誰がこのような谷川のように削ぎ立った身の処し方をできようか。」

夾注 1

皇甫謐《高士傳》曰:「陳仲子字子終,齊人。兄戴相齊,食群萬鍾。仲子以兄祿為不義,乃適楚,居於陵。曾乏糧三日,匍匐而食井李之實,三咽而後能視。身自織屨,令妻擗纑,以易衣食。嘗歸省母,有饋其兄生鵝者。仲子嚬顣曰:『惡用此鶂鶂為哉?』後母殺鵝,仲子不知而食之。兄自外入曰:『鶂鶂肉邪?』仲子出門,哇而吐之。楚王聞其名,聘以為相,乃夫婦逃去,為人灌園。」

皇甫謐の『高士伝』に言う、「陳仲子は字は子終、斉の人である。兄の陳戴が斉の宰相となり、禄は万鍾であった。仲子は兄の禄を不義だと考え、そこで楚に行き、於陵に住んだ。かつて糧が尽きて三日、這って井のそばの李の実を食べ、三度飲み込んでからようやく物が見えた。自ら靴を織り、妻に麻をほぐさせて、衣と食に換えた。かつて母を見舞いに帰ったとき、その兄に生きた鵝を贈った者があった。仲子は顔をしかめて『このガーガー鳴くものを何に使うのか』と言った。のちに母が鵝を殺したが、仲子は知らずにこれを食べた。兄が外から入って『ガーガー鳴くものの肉だ』と言うと、仲子は門を出てうっと吐いた。楚王がその名を聞いて、招いて宰相にしようとすると、そこで夫婦は逃げ去り、人のために畑に水を引いた。」

10河北の地では、ついにその名で瘧を断つようになった

桓石虔,司空豁之長庶也;小字鎮惡,年十七八,未被舉,而童隸已呼為鎮惡郎。嘗住宣武齋頭,從征枋頭;車騎沖沒陳,左右莫能先救。宣武謂曰:「汝叔落賊,汝知不?」石虔聞,氣甚奮;命朱辟為副,策馬於數萬眾中,莫有抗者。徑致沖還。三軍嘆服。河朔遂以其名斷瘧。

桓石虔は司空桓豁の年長の庶子である。幼名は鎮悪で、十七、八のとき、まだ推挙もされていないのに、召使いたちはすでに鎮悪郎と呼んでいた。

かつて宣武の書斎のあたりに住み、枋頭の戦いに従った。

車騎の桓沖が陣中に落ち込んだが、傍の者は先に立って救うことができなかった。

宣武が言った。「お前の叔父が賊に落ちたが、お前は知っているか。」

石虔はそれを聞いて気が大いに奮い、朱辟に命じて副とし、数万の軍のただ中に馬を駆けさせたが、抗する者はなかった。まっすぐに桓沖を連れて帰った。三軍は感嘆して服した。

河北の地では、ついにその名で瘧を断つようになった。

夾注 2

《豁別傳》曰:「豁字朗子,溫之弟。累遷荊州刺史,贈司空。」

『桓豁別伝』に言う、「桓豁は字は朗子、桓温の弟である。官を重ねて荊州刺史に至り、司空を贈られた。」

《中興書》曰:「石虔有才榦,有史學,累有戰功。仕至豫州刺史,贈後軍將軍。」

『中興書』に言う、「桓石虔は才幹があり、史学の素養があって、たびたび戦功があった。官は豫州刺史に至り、後軍将軍を贈られた。」

11孫伯符の志と業は遂げられなかった

陳林道在西岸,都下諸人共要至牛渚會。陳理既佳,人欲共言折。陳以如意拄頰,望雞籠山嘆曰:「孫伯符志業不遂!」於是竟坐不得談。

陳林道が西岸にいたとき、都の人々がともに牛渚に来て会を開くよう請うた。

陳林道の理が優れていたので、人々は一緒に論じて折り伏せようとした。

陳林道は如意で頬を支え、鶏籠山を眺めて嘆じた。「孫伯符の志と業は遂げられなかった。」

そこで結局、一座は談じることができなかった。

夾注 2

《晉陽秋》曰:「逵為西中郎將,領淮南太守,戍歷陽。」

『晋陽秋』に言う、「陳逵は西中郎将となり、淮南太守を領して歴陽を守った。」

《吳錄》曰:「長沙桓王諱策,字伯符,吳郡富春人。少有雄姿風氣,年十九而襲業,眾號孫郎。平定江東,為許貢客射破其面,引鏡自照,謂左右曰:『面如此!豈可復立功乎?』乃謂張昭曰:『中國方亂,夫以吳、越之眾,三江之固,足以觀成敗。公等善相吾弟。』呼大皇帝授以印綬曰:『舉江東之眾,決機於兩陳之閒,卿不如我;任賢使能,各盡其心,我不如卿。慎勿北渡!』語畢而薨,年二十有六。」

『呉録』に言う、「長沙桓王は諱は策、字は伯符、呉郡富春の人である。若くして雄々しい姿と風格があり、十九歳で業を継ぐと、人々は孫郎と呼んだ。江東を平定したが、許貢の客に顔を射られて破られ、鏡を引き寄せて自ら映し見て、傍の者に『顔がこのようでは、どうしてまた功を立てられようか』と言った。そこで張昭に『中国はまさに乱れている。呉と越の衆と三江の堅固さをもってすれば、成敗を見るに十分である。あなたがたはよく私の弟を助けてほしい』と言い、大皇帝を呼んで印綬を授け、『江東の衆を挙げて両陣の間で機を決するのは、お前は私に及ばない。賢者に任じ能ある者を使ってそれぞれその心を尽くさせるのは、私はお前に及ばない。慎んで北へ渡るな』と言った。言い終わって亡くなり、年は二十六であった。」

12あのとき、一座に人がいないように感じた

王司州在謝公坐,詠「入不言兮出不辭,乘回風兮載雲旗」。語人云:「當爾時,覺一坐無人。」

王司州が謝公の席にあって、「入るに言わず出づるに辞せず、回風に乗り雲旗を載す」と詠んだ。

人に言った。「あのとき、一座に人がいないように感じた。」

夾注 1

離騷九歌少司命之辭。

「離騒」「九歌」少司命の辞である。

13簫管に遺音あり、梁王は安くにか在る

桓玄西下,入石頭。外白:「司馬梁王奔叛。」玄時事形已濟,在平乘上笳鼓並作,直高詠云:「簫管有遺音,梁王安在哉?」

桓玄が西から下って石頭に入った。

外から申し上げた。「司馬の梁王が逃げて背きました。」

桓玄はそのとき事の形勢がすでに成っていたので、平乗の船の上で笳と鼓が共に鳴るなか、ただ高らかに詠じた。「簫管に遺音あり、梁王は安くにか在る。」

夾注 2

《續晉陽秋》曰:「梁王珍之字景度。」《中興書》曰:「初,桓玄篡位,國人有孔璞者,奉珍之奔尋陽。義旗既興,歸朝廷,仕至太常卿,以罪誅。」

『続晋陽秋』に言う、「梁王の珍之は字は景度である。」『中興書』に言う、「はじめ桓玄が位を奪うと、国人に孔璞という者があり、珍之を奉じて尋陽に逃げた。義の旗がすでに挙がると朝廷に帰り、官は太常卿に至ったが、罪によって誅された。」

阮籍詠懷詩也。

阮籍の「詠懐詩」である。