棲逸世説新語 棲逸第十八
1振り返って見ると、それはさきほどのあの人が嘯いたのであった
阮步兵嘯,聞數百步。蘇門山中,忽有真人,樵伐者咸共傳說。阮籍往觀,見其人擁厀巖側。籍登嶺就之,箕踞相對。籍商略終古,上陳黃、農玄寂之道,下考三代盛德之美,以問之,仡然不應。復敘有為之教,棲神導氣之術以觀之,彼猶如前,凝矚不轉。籍因對之長嘯。良久,乃笑曰:「可更作。」籍復嘯。意盡,退,還半嶺許,聞上𪡧然有聲,如數部鼓吹,林谷傳響。顧看,迺向人嘯也。
阮歩兵の嘯は、数百歩まで聞こえた。
蘇門山の中に、ふと真人があり、木を切る者たちが皆そろって言い伝えた。
阮籍が行って見ると、その人は岩のそばで膝を抱えていた。
阮籍は嶺に登って彼のもとに行き、両足を投げ出して向かい合って座った。
阮籍は太古からのことを論じ、上は黄帝と神農の玄妙で静かな道を述べ、下は三代の盛んな徳の美しさを考えて、これを尋ねたが、しゃんと構えたまま応えなかった。
さらに有為の教えや、神を棲ませ気を導く術を述べて彼を見たが、彼はやはり前と同じで、じっと見つめたまま目を転じなかった。
阮籍はそこで彼に向かって長く嘯いた。
しばらくして、彼はやっと笑って言った。「もう一度やってよい。」
阮籍はまた嘯いた。思いが尽きて退き、嶺の半ばほどまで帰ってきたとき、上でとどろくように声があって、数部の鼓と笛のようで、林と谷が響きを伝えた。
振り返って見ると、それはさきほどのあの人が嘯いたのであった。
夾注 1
《魏氏春秋》曰:「阮籍常率意獨駕,不由徑路,車跡所窮,輒慟哭而反。嘗遊蘇門山,有隱者莫知姓名,有竹實數斛,杵臼而已。籍聞而從之,談太古無為之道,論五帝三王之義,蘇門先生脩然曾不眄之。籍乃嘐然長嘯,韻響寥亮。蘇門先生乃逌爾而笑。籍既降,先生喟然高嘯,有如鳳音。籍素知音,乃假蘇門先生之論,以寄所懷。其歌曰:『日沒不周西,月出丹淵中。陽精晦不見,陰光代為雄。亭亭在須臾,厭厭將復隆。富貴俛仰閒,貧賤何必終。』」《竹林七賢論》曰:「籍歸,遂著大人先生論,所言皆胸懷閒本趣,大意謂先生與己不異也。觀其長嘯相和,亦近乎目擊道存矣。」
『魏氏春秋』に言う、「阮籍はいつも思いのままに独りで車を駆り、決まった道をたどらず、車の跡が尽きたところで、そのたびに激しく哭いて帰ってきた。かつて蘇門山に遊んだが、隠者があって姓も名もわからず、竹の実が数斛と杵と臼があるだけであった。阮籍は聞いて彼のもとに行き、太古の無為の道を談じ、五帝三王の義を論じたが、蘇門先生はすっとして、ついに横目にも見なかった。阮籍はそこで声を張って長く嘯いたが、その韻の響きは遥かに澄んでいた。蘇門先生はそこで満足げに笑った。阮籍がすでに下りると、先生は嘆くように高く嘯いて、鳳の声のようなものがあった。阮籍はもとから音を知っていたので、そこで蘇門先生の論に仮託して思うところを寄せた。その歌に言う、『日は不周の西に没し、月は丹淵の中から出る。陽の精は暗んで見えず、陰の光が代わって雄となる。亭亭たるは須臾の間にあり、厭厭たるものがまた隆んになろうとする。富貴は俯き仰ぐ間のこと、貧賤がどうして必ず終わりまで続こうか。』」『竹林七賢論』に言う、「阮籍は帰って、そこで「大人先生論」を著したが、述べたところはみな胸に抱いた本来の趣で、大意は先生が自分と異ならないというのであった。その長く嘯いて互いに和したさまを見れば、やはり目に触れて道がそこにあるというのに近い。」
2君は才は高いが身を守る道が足りない
嵇康遊於汲郡山中,遇道士孫登,遂與之遊。康臨去,登曰:「君才則高矣,保身之道不足。」
嵇康は汲郡の山の中に遊んで、道士の孫登に出会い、そのまま彼とともに過ごした。
嵇康が去るとき、孫登は言った。「君は才は高いが、身を守る道が足りない。」
夾注 1
《康集·序》曰:「孫登者,不知何許人。無家,於汲郡北山土窟住。夏則編草為裳,冬則被髮自覆。好讀易,鼓一絃琴,見者皆親樂之。」《魏氏春秋》曰:「登性無喜怒,或沒諸水,出而觀之,登復大笑。時時出入人間,所經家設衣食者,一無所辭,去皆舍去。」《文士傳》曰:「嘉平中,汲縣民共入山中,見一人,所居懸巖百仞,叢林鬱茂,而神明甚察。自云『孫姓,登名,字公和』。康聞,乃從遊三年。問其所圖,終不荅。然神謀所存良妙,康每薾然歎息。將別,謂曰:『先生竟無言乎?』登乃曰:『子識火乎?生而有光,而不用其光,果然在於用光。人生有才,而不用其才,果然在於用才。故用光在乎得薪,所以保其曜;用才在乎識物,所以全其年。今子才多識寡,難乎免於今之世矣!子無多求!』康不能用。及遭呂安事,在獄為詩自責云:『昔慚下惠,今愧孫登!』」王隱《晉書》曰:「孫登即阮籍所見者也。嵇康執弟子禮而師焉。魏、晉去就,易生嫌疑,貴賤並沒,故登或默也。」
『康集・序』に言う、「孫登という者は、どこの人かわからない。家がなく、汲郡の北山の土の穴に住んでいた。夏には草を編んで裳とし、冬には髪を解いて自ら覆った。『易』を読むのを好み、一弦の琴を弾いたので、見る者は皆彼を親しみ楽しんだ。」『魏氏春秋』に言う、「孫登は性に喜びも怒りもなく、ある者が彼を水に沈めて、出てから見ると、孫登はまた大いに笑った。ときどき人の世に出入りし、通った家で衣や食を用意すれば、一つも辞退するところがなく、去るときはみな置いて行った。」『文士伝』に言う、「嘉平の年間に、汲県の民が連れ立って山の中に入り、一人の人を見たが、住む所は百仞の懸崖にかかり、叢林が茂っていて、心の明らかさがひどく鋭かった。自ら『姓は孫、名は登、字は公和』と言った。嵇康は聞いて、そこで従って三年を過ごした。その図るところを尋ねたが、ついに答えなかった。しかし神妙な謀りとして持つところはまことに妙であったので、嵇康はいつも力なく嘆息した。別れようとするとき、『先生はついに何も言われないのですか』と言うと、孫登はそこで言った、『君は火を知っているか。生まれつき光があるが、その光を用いなければ、その成り行きは光を用いることに帰する。人は生まれつき才があるが、その才を用いなければ、その成り行きは才を用いることに帰する。だから光を用いるのは薪を得ることにあって、それがその輝きを保つゆえであり、才を用いるのは物を見分けることにあって、それがその年を全うするゆえである。いま君は才が多く見識が少ないから、今の世で免れるのは難しいだろう。君は多くを求めるな。』嵇康はこれを用いることができなかった。呂安の事に遭うに至って、獄で詩を作り自ら責めて言った、『昔は下恵に恥じ、今は孫登に愧じる。』」王隠の『晋書』に言う、「孫登は阮籍が会った者である。嵇康は弟子の礼をとって師とした。魏と晋の去就は疑いを生みやすく、貴い者も賤しい者もともに亡んだので、孫登はおおむね黙っていたのである。」
3嵇康が山公に手紙を送って交わりを絶つと告げる
山公將去選曹,欲舉嵇康;康與書告絕。
山公が人を選ぶ役所を去ろうとして、嵇康を推挙しようとしたが、嵇康は手紙を送って交わりを絶つと告げた。
夾注 1
《康別傳》曰:「山巨源為吏部郎,遷散騎常侍,舉康,康辭之,並與山絕。豈不識山之不以一官遇己情邪?亦欲標不屈之節,以杜舉者之口耳!乃荅濤書,自說不堪流俗,而非薄湯武。大將軍聞而惡之。」
『康別伝』に言う、「山巨源が吏部郎となり、散騎常侍に移るとき嵇康を推挙したが、嵇康はこれを辞退し、あわせて山氏と縁を切った。どうして山氏が官一つで自分を扱うような情ではないことを知らなかったであろうか。やはり屈しない節を示して、推挙する者の口をふさごうとしただけである。そこで山濤に答えた手紙で、自ら流れゆく俗に堪えられないと言い、湯王と武王を非として軽んじた。大将軍が聞いて彼を憎んだ。」
4茂弘はまたしても官一つを人に貸し与えるのか
李廞是茂曾第五子,清貞有遠操,而少羸病,不肯婚宦。居在臨海,住兄侍中墓下。既有高名,王丞相欲招禮之,故辟為府掾。廞得牋命,笑曰:「茂弘乃復以一爵假人!」
李廞は李茂曾の五番目の子で、清らかで貞しく遠い節操があったが、若くして痩せ病み、婚姻も仕官も望まなかった。
臨海に住み、兄の侍中の墓の下に留まっていた。
すでに高い名があったので、王丞相が招いて礼を尽くそうと思い、わざわざ召して府の掾とした。
李廞は書き付けの命を受けて、笑って言った。「茂弘はまたしても官一つを人に貸し与えるのか。」
夾注 1
《文字志》曰:「廞字宗子,江夏鍾武人。祖康,秦州刺史。父重,平陽太守。世有名望。廞好學,善草隸,與兄式齊名。躄疾不能行坐,常仰臥,彈琴、讀誦不輟。河閒王辟太尉掾,以疾不赴。後避難,隨兄南渡,司徒王導復辟之。廞曰:『茂弘乃復以一爵加人!』永和中卒。廞嘗為二府辟,故號李公府也。式字景則,廞長兄也。思理儒隱,有平素之譽。渡江,累遷臨海太守、侍中。年五十四而卒。」
『文字志』に言う、「李廞は字は宗子、江夏鍾武の人である。祖父の李康は秦州刺史、父の李重は平陽太守で、代々名望があった。李廞は学を好み、草書と隷書が巧みで、兄の李式と名を並べた。足の立たない病で歩くことも座ることもできず、いつも仰向けに臥して、琴を弾き読み唱えることをやめなかった。河間王が太尉掾に召したが、病を理由に赴かなかった。のちに難を避けて兄に従って南へ渡ると、司徒の王導がまた彼を召した。李廞は『茂弘はまたしても官一つを人に足してやるのか』と言った。永和の年間に亡くなった。李廞はかつて二つの府に召されたので、李公府と呼ばれた。李式は字は景則、李廞の長兄である。思いの理は儒にひそみ、平素からの誉れがあった。江を渡って官を重ね、臨海太守と侍中に至った。年五十四で亡くなった。」
5私という五番目の名がどうして必ず驃騎に劣ろうか
何驃騎弟以高情避世,而驃騎勸之令仕。答曰:「予第五之名,何必減驃騎?」
何驃騎の弟は高い思いから世を避けたが、驃騎は彼に勧めて仕えさせようとした。
答えた。「私という五番目の名が、どうして必ず驃騎に劣ろうか。」
夾注 1
《中興書》曰:「何準字幼道,廬江灊人。驃騎將軍充第五弟也。雅好高尚,徵聘一無所就。充位居宰相,權傾人主,而準散帶衡門,不及世事。于時名德皆稱之。年四十七卒。有女,為穆帝皇后。贈光祿大夫。子恢,讓不受。」
『中興書』に言う、「何準は字は幼道、廬江灊の人である。驃騎将軍何充の五番目の弟である。高く尚ぶことを心から好み、召されても一つも応じるところがなかった。何充は位が宰相にあって権勢は君主を傾けるほどであったが、何準は帯をくつろげて横木の門に暮らし、世の事に関わらなかった。当時、名と徳のある者は皆彼を称えた。年四十七で亡くなった。娘があって、穆帝の皇后となった。光禄大夫を贈られたが、子の何恢が辞退して受けなかった。」
6この人はこのところ寵も辱も驚きとしない
阮光祿在東山,蕭然無事,常內足於懷。有人以問王右軍,右軍曰:「此君近不驚寵辱,雖古之沈冥,何以過此?」
阮光禄は東山にあって、ひっそりとして事がなく、いつも内に抱くもので満ち足りていた。
ある人がこれを王右軍に尋ねると、右軍は言った。「この人はこのところ寵も辱も驚きとしない。古の沈冥といわれる人でも、何でこれを越えようか。」
夾注 3
《阮裕別傳》曰:「裕居會稽剡山,志存肥遁。」
『阮裕別伝』に言う、「阮裕は会稽の剡山に住み、志は豊かに隠れることにあった。」
老子曰:「寵辱若驚,得之若驚,失之若驚。」
『老子』に言う、「寵と辱は驚くようなもので、得ても驚くようであり、失っても驚くようである。」
楊子曰:「蜀、莊沈冥。」李軌注曰:「沈冥,猶玄寂,泯然无跡之貌。」
『楊子』に言う、「蜀と荘は沈冥である。」李軌の注に言う、「沈冥とは玄寂と同じで、果てしなく跡のないさまである。」
7民は道術があると言って生きているうちに廟を立てた
孔車騎少有嘉遁意,年四十餘,始應安東命。未仕宦時,常獨寢,歌吹自箴誨,自稱孔郎,遊散名山。百姓謂有道術,為生立廟。今猶有孔郎廟。
孔車騎は若くして立派に隠れる志があり、年四十余りで、はじめて安東の命に応じた。
まだ仕官していなかったとき、いつも独りで寝て、歌い吹いて自らを戒め教え、自ら孔郎と称して、名のある山に遊び歩いた。
民は道術があると言って、生きているうちに廟を立てた。今もなお孔郎廟がある。
夾注 1
《孔愉別傳》曰:「永嘉大亂,愉入臨海山中,不求聞達,中宗命為參軍。」
『孔愉別伝』に言う、「永嘉の大乱に、孔愉は臨海の山の中に入り、知られ名が上がることを求めなかったが、中宗が命じて参軍とした。」
8陽岐に住んだ年月の間、衣と食のあるなしをいつも村の人とともにした
南陽劉驎之,高率善史傳,隱於陽岐。于時符堅臨江,荊州刺史桓沖將盡訏謨之益,徵為長史,遣人船往迎,贈貺甚厚。驎之聞命,便升舟;悉不受所餉,緣道以乞窮乏,比至上明亦盡。一見沖,因陳無用,翛然而退。居陽岐積年,衣食有無常與村人共;值己匱乏,村人亦如之;甚厚,為鄉閭所安。
南陽の劉驎之は、高く率直で史書と伝記に通じていたが、陽岐に隠れていた。
そのころ苻堅が江に臨んだので、荊州刺史の桓沖は大きな謀りの助けを尽くそうとして、召して長史とし、人と船を遣わして迎えさせ、贈り物がひどく厚かった。
劉驎之は命を聞くとすぐに船に乗ったが、贈られた物はすべて受け取らず、道に沿って窮しく乏しい者に与えたので、上明に着くころには、それも尽きていた。
一度桓沖に会うと、そのまま役に立たないと申し上げて、さっぱりと退いた。
陽岐に住んだ年月の間、衣と食のあるなしをいつも村の人とともにし、自分が乏しいときに当たれば、村の人もまた彼と同じようにした。ひどく厚かったので、郷里が安んずるところとなった。
夾注 1
鄧粲《晉紀》曰:「驎之字子驥,南陽安眾人。少尚質素,虛退寡欲。好遊山澤閒,志存遁逸。桓沖嘗至其家,驎之方條桑,謂沖:『使君既枉駕光臨,宜先詣家君。』沖遂詣其父。父命驎之,然後乃還,拂短褐與沖言。父使驎之自持濁酒葅菜供賓,沖敕人代之。父辭曰:『若使官人,則非野人之意也。』沖為慨然,至昏乃退。因請為長史,固辭。居陽岐,去道斥近,人士往來,必投其家。驎之身自供給,贈致無所受。去家百里,有孤嫗疾,將死,謂人曰:『唯有劉長史當埋我耳!』驎之身往候之疾終,為治棺殯。其仁愛皆如此。以壽卒。」
鄧粲の『晋紀』に言う、「劉驎之は字は子驥、南陽安衆の人である。若くして質素を尚び、虚しく退いて欲が少なかった。山や沢の間に遊ぶことを好み、志は遁れ隠れることにあった。桓沖がかつてその家に至ると、劉驎之はちょうど桑の枝を払っていて、桓沖に『使君はすでに車を枉げて光り臨まれたのですから、まず家の父にお会いになるべきです』と言った。桓沖はそこでその父に会った。父が劉驎之を呼んでから、彼はやっと戻り、短い葛の衣を払って桓沖と語った。父は劉驎之に自ら濁り酒と漬け菜を持たせて客をもてなさせたので、桓沖は人に命じて代わらせようとした。父は辞して『役人を使わせるなら、それは野の人の心ではありません』と言った。桓沖はこのために胸を打たれ、日が暮れてから退いた。そこで長史になるよう請うたが、固く辞退した。陽岐に住んだが、道からひどく近かったので、人士が往き来するとき、必ずその家に立ち寄った。劉驎之は自らこれをもてなし、贈られた物は受けるところがなかった。家から百里のところに、独りの老婆が病んで死にそうになり、人に『ただ劉長史だけが私を埋めてくれるだろう』と言った。劉驎之は自ら行ってその病を見舞い、亡くなると棺を整えて殯をしてやった。その仁と愛は、みなこのようであった。寿命を全うして亡くなった。」
9その後、周氏が翟氏を訪ねたが、翟氏は彼と言葉を交わさなかった
南陽翟道淵與汝南周子南少相友,共隱于尋陽。庾太尉說周以當世之務,周遂仕;翟秉志彌固。其後周詣翟,翟不與語。
南陽の翟道淵は汝南の周子南と若いころから友であり、ともに尋陽に隠れた。
庾太尉が周氏に当世の務めを説いたので、周氏はついに仕えたが、翟氏は志を守ることがいよいよ固くなった。
その後、周氏が翟氏を訪ねたが、翟氏は彼と言葉を交わさなかった。
夾注 1
《晉陽秋》曰:「翟湯字道淵,南陽人,漢方進之後也。篤行任素,義讓廉潔,饋贈一無所受。值亂多寇,聞湯名德,皆不敢犯。」《尋陽記》曰:「初,庾亮臨江州,聞翟湯之風,束帶躡屐而詣焉。亮禮甚恭。湯曰:『使君直敬其枯木朽株耳。』亮稱其能言,表薦之。徵國子博士,不赴。主簿張玄曰:『此君臥龍,不可動也。』終于家。」
『晋陽秋』に言う、「翟湯は字は道淵、南陽の人で、漢の翟方進の後裔である。行いを篤くし素朴に任せ、義で譲り清廉潔白で、贈られた物は一つも受けるところがなかった。乱れて盗賊の多い時に当たったが、翟湯の名と徳を聞いて、皆敢えて侵さなかった。」『尋陽記』に言う、「はじめ庾亮が江州に臨んだとき、翟湯の風を聞いて、帯を締め木履を履いて彼を訪ねた。庾亮の礼はひどく恭しかった。翟湯は『使君はただその枯れ木や朽ちた切り株を敬っておられるだけです』と言った。庾亮はその言葉の巧みさを称えて、表を出して彼を推挙した。国子博士に召されたが赴かなかった。主簿の張玄が『この人は臥せる竜で、動かすことはできません』と言った。家で亡くなった。」
10少孤がこれほどなら万年は死んでもよい
孟萬年及弟少孤,居武昌陽新縣。萬年遊宦,有盛名當世;少孤未嘗出,京邑人士思欲見之,乃遣信報少孤,云兄病篤。狼狽至都。時賢見之者,莫不嗟重,因相謂曰:「少孤如此,萬年可死!」
孟万年とその弟の少孤は、武昌の陽新県に住んでいた。
万年は官に遊んで当世に盛んな名があったが、少孤は一度も世に出なかった。
都の人士は彼に会いたいと思い、そこで使いを遣わして少孤に、兄の病が重いと知らせた。
慌てふためいて都に着くと、当時の賢人で彼に会った者は、感嘆して重んじない者がなかった。
そこで互いに言い合った。「少孤がこれほどなら、万年は死んでもよい。」
夾注 1
袁宏《孟處士銘》曰:「處士名陋,字少孤,武昌陽新人,吳司空孟宗後也。少而希古,布衣蔬食,棲遲蓬蓽之下,絕人閒之事,親族慕其孝。大將軍命會稽王辟之,稱疾不至,相府歷年虛位,而澹然無悶,卒不降志,時人奇之。」
袁宏の「孟処士銘」に言う、「処士は名は孟陋、字は少孤、武昌陽新の人で、呉の司空孟宗の後裔である。若くして古を慕い、布の衣と野菜の食で、蓬や蓽の下に身を落ち着けて遊び、人の世の事を断ったので、親族はその孝を慕った。大将軍が会稽王に命じて彼を召させたが、病と称して至らず、宰相の府は何年も席を空けておいたのに、淡々として屈託がなく、ついに志を下げなかったので、当時の人は彼を非凡だと思った。」
11名声がこうして起こったので、のちに堪えられなくなりついに出てしまった
康僧淵在豫章,去郭數十里立精舍,旁連嶺,帶長川,芳林列於軒庭,清流激於堂宇。乃閒居研講,希心理味。庾公諸人,多往看之,觀其運用吐納,風流轉佳;加處之怡然,亦有以自得;聲名乃興。後不堪,遂出。
康僧淵は豫章にあって、城郭から数十里離れたところに精舎を立てた。
傍らには嶺が連なり、長い川が巡って、芳しい林が軒と庭に並び、清らかな流れが堂や家に打ち寄せていた。
そこで静かに住んで研究し講じ、心を理の味わいに寄せることを願った。
庾公をはじめ人々が多く行って彼を見たが、その言葉の使いよう、吐き出し受け入れるさまを見ると、風流がいよいよ良く、そのうえそこに居ることが心地よげで、やはり自ら得るところがあった。
名声がこうして起こったので、のちに堪えられなくなり、ついに出てしまった。
夾注 1
僧淵已見。
康僧淵はすでに見える。
12下官はその憂いに堪えられず、家の弟はその楽しみを改めません
戴安道既厲操東山,而其兄欲建「式遏」之功。謝太傅曰:「卿兄弟志業,何其太殊?」戴曰:「下官『不堪其憂』,家弟『不改其樂』。」
戴安道はすでに東山で節操を磨いていたが、その兄は「式遏」の功を立てようとしていた。
謝太傅が言った。「あなたの兄弟は志と業が、どうしてそんなにも違うのか。」
戴氏は言った。「下官は『その憂いに堪えられず』、家の弟は『その楽しみを改めません』。」
夾注 2
《續晉陽秋》曰:「逵不樂當世,以琴書自娛,隱會稽剡山,國子博士徵,不就。」
『続晋陽秋』に言う、「戴逵は当世を楽しまず、琴と書で自ら楽しみ、会稽の剡山に隠れたが、国子博士に召されても就かなかった。」
《戴氏譜》曰:「逯字安丘,譙國人。祖碩,父綏,有名位。逯以武勇顯,有功,封廣陵侯,仕至大司農。」
『戴氏譜』に言う、「戴逯は字は安丘、譙国の人である。祖父の戴碩と父の戴綏には名と位があった。戴逯は武勇で名を現し、功があって広陵侯に封ぜられ、官は大司農に至った。」
13筐や篚の包み物はもとより天下の宝よりは軽いだけのことです
許玄度隱在永興南幽穴中,每致四方諸侯之遺。或謂許曰:「嘗聞箕山人,似不爾耳!」許曰:「筐篚苞苴,故當輕於天下之寶耳!」
許玄度は永興の南の奥深い洞穴の中に隠れていたが、いつも四方の諸侯の贈り物を受け入れていた。
ある人が許氏に言った。「かつて箕山の人はこうではなかったと聞いています。」
許氏は言った。「筐や篚の包み物は、もとより天下の宝よりは軽いだけのことです。」
夾注 1
鄭玄《禮記注》云:「苞苴,裹肉也。或以葦,或以茅。」此言許由尚致堯帝之讓,筐篚之遺,豈非輕邪?
鄭玄の『礼記』の注に言う、「苞苴は肉を包んだものである。葦でするものもあり、茅でするものもある。」これは、許由でさえ堯帝が位を譲ろうとするのを招いたのだから、筐や篚の贈り物が、どうして軽くないことがあろうかということである。
14范宣はすぐに車の後ろから小走りに降りた
范宣未嘗入公門。韓康伯與同載,遂誘俱入郡。范便於車後趨下。
范宣は一度も役所の門に入ったことがなかった。
韓康伯が同じ車に乗せ、そのまま誘って一緒に郡に入ろうとすると、范宣はすぐに車の後ろから小走りに降りた。
夾注 1
《續晉陽秋》曰:「宣少尚隱遁,家于豫章,以清潔自立。」
『続晋陽秋』に言う、「范宣は若くして隠れ遁れることを尚び、豫章に家して、清らかで潔いことで自ら立った。」
15このごろ剡に着いたが、まるで役所の宿舎のようだ
郗超每聞欲高尚隱退者,輒為辦百萬資,并為造立居宇。在剡為戴公起宅,甚精整。戴始往舊居,與所親書曰:「近至剡,如官舍。」郗為傅約亦辦百萬資,傅隱事差互,故不果遺。
郗超は、高く尚んで隠れ退こうとする者があると聞くたびに、そのたびに彼のために百万の資を整え、あわせて住む家を建ててやった。
剡で戴公のために家を起こしたが、ひどく精巧で整っていた。
戴公ははじめて旧居に行くと、親しい者に手紙を送って言った。「このごろ剡に着いたが、まるで役所の宿舎のようだ。」
郗超は傅約のためにも百万の資を整えたが、傅約の隠れることが行き違ったので、ついに贈ることにならなかった。
夾注 1
約,瓊小字。
約は傅瓊の幼名である。
16許氏はただ優れた思いがあるだけでなく、ほんとうに優れた所へ渡る道具を備えている
許掾好遊山水,而體便登陟。時人云:「許非徒有勝情,實有濟勝之具。」
許掾は山水に遊ぶことを好み、体は登り歩くのに適していた。
当時の人は言った。「許氏はただ優れた思いがあるだけでなく、ほんとうに優れた所へ渡る道具を備えている。」
17心を縛りうるところがまったく尽きている
郗尚書與謝居士善。常稱:「謝慶緒識見雖不絕人,可以累心處都盡。」
郗尚書は謝居士と仲が良かった。
いつも称えた。「謝慶緒は識見は人に抜きん出ているとまではいかないが、心を縛りうるところがまったく尽きている。」
夾注 1
尚書,郗恢也。別見。檀道鸞《續晉陽秋》曰:「謝敷字慶緒,會稽人,崇信釋氏。初入太平山中十餘年,以長齋供養為業,招引同事,化納不倦。以母老還南山若邪中。內史郗愔表薦之,徵博士,不就。初,月犯少微星,一名處士星。古云:『以處士當之。』時戴逵居剡,既美才藝而交遊貴盛,先敷著名,時人憂之。俄而敷死,會稽人士以嘲吳人云:『吳中高士,便是求死不得。』」
尚書は郗恢である。別に見える。檀道鸞の『続晋陽秋』に言う、「謝敷は字は慶緒、会稽の人で、釈氏の教えを篤く信じた。はじめ太平山の中に入って十年余り、長い斎戒と供養を業とし、同じ事をする者を招き引いて、教え入れることに倦まなかった。母が老いたので、南山の若邪の中に帰った。内史の郗愔が表を出して彼を推挙し、博士に召されたが就かなかった。はじめ月が少微星を犯したが、少微星の一名は処士星である。古い言葉に『処士をもってこれに当てる』とある。このとき戴逵が剡に住んで、才芸が美しいうえに交遊も貴く盛んで、謝敷より先に名が現れていたので、当時の人は彼のことを心配した。やがて謝敷が死ぬと、会稽の人士は呉の人を嘲って『呉の中の高士は、死を求めても得られないのだ』と言った。」