賢媛世説新語 賢媛第十九
1兵を人に付ければ、成ってもその利を少し受け、成らなくても禍の帰る先がある
陳嬰者,東陽人;少脩德行,箸稱鄉黨。秦末大亂,東陽人欲奉嬰為主,母曰:「不可。自我為汝家婦,少見貧賤;一旦富貴,不祥!不如以兵屬人:事成,少受其利;不成,禍有所歸。」
陳嬰という者は東陽の人である。若くして徳と行いを修めたので、郷里に称えられて名が現れた。
秦の末に大いに乱れると、東陽の人は陳嬰を担いで主にしようとしたが、母は言った。「いけない。私がお前の家の嫁となってからは、貧しく賤しいのばかりを見てきた。一朝にして富み貴くなるのは、めでたいことではない。兵を人に付けるに越したことはない。事が成れば少しその利を受け、成らなければ禍の帰る先がある。」
夾注 1
史記曰:「嬰故東陽令史,居縣素信,為長者。東陽人欲立長,乃請嬰。嬰母見之。乃以兵屬項梁,梁以嬰為上柱國。」
『史記』に言う、「陳嬰はもと東陽の令史で、県に住んで平素から信があり、長者であった。東陽の人が長を立てようとして、そこで陳嬰に請うたが、陳嬰の母がこれを見た。そこで兵を項梁に付け、項梁は陳嬰を上柱国とした。」
2名も字もすでに送ってしまっていたので、そこでついに行った
漢元帝宮人既多,乃令畫工圖之,欲有呼者,輒披圖召之。其中常者,皆行貨賂。王明君姿容甚麗,志不苟求,工遂毀為其狀。後匈奴來和,求美女於漢帝,帝以明君充行。既召見,而惜之;但名字已去,不欲中改,於是遂行。
漢の元帝は宮女がすでに多かったので、そこで画工にこれを描かせ、呼びたい者があると、そのたびに絵を広げて召した。
その中で並の者は、みな賄賂を使った。
王明君は姿も容貌もひどく麗しかったが、志として取り入って求めなかったので、画工はついにその姿を損なえて描いた。
のちに匈奴が来て和を結び、漢の帝に美しい女を求めたので、帝は明君を当てて行かせた。
召して会ってからこれを惜しんだが、ただ名も字もすでに送ってしまっていたので、途中で改めたくなかったから、そこでついに行った。
夾注 1
漢書匈奴傳曰:「竟寧元年,呼韓邪單于求朝,自言願婿漢氏以自親,元帝以後宮良家子王嬙字明君賜之。單于懽喜,上書願保塞。」文穎曰:「昭君本蜀郡秭歸人也。」琴操曰:「王昭君者,齊國王穰女也。年十七,儀形絕麗,以節聞國中。長者求之者,王皆不許,乃獻漢元帝。帝造次不能別房帷,昭君恚怒之。會單于遣使,帝令宮人裝出,使者請一女。帝乃謂宮中曰:『欲至單于者起。』昭君喟然越席而起。帝視之,大驚悔。是時使者並見,不得止,乃賜單于。單于大說,獻諸珍物。昭君有子曰世違。單于死,世違繼立。凡為胡者,父死妻母。昭君問世違曰:『汝為漢也?為胡也?』世違曰:『欲為胡耳。』昭君乃吞藥自殺。」石季倫曰:「昭以觸文帝諱,故改為明。」
『漢書・匈奴伝』に言う、「竟寧元年に、呼韓邪単于が朝することを求め、自ら漢氏の婿となって自ら親しみたいと願うと言ったので、元帝は後宮の良家の子、王嬙、字は明君を彼に賜った。単于は喜んで、書を上げて辺塞を守りたいと願った。」文穎は言う、「昭君はもと蜀郡秭帰の人である。」『琴操』に言う、「王昭君という者は、斉国の王穰の娘である。年十七で、身ごなしも姿もきわめて麗しく、節操で国中に聞こえていた。長者で彼女を求める者があっても、王穰はみな許さず、そこで漢の元帝に献じた。帝はあわただしくて房と帷を選び分けることができず、昭君はこれを怒り恨んだ。ちょうど単于が使いを遣わしたので、帝は宮女を装わせて出させ、使者は一人の女を請うた。帝はそこで宮の中に『単于のところへ行きたい者は立て』と言った。昭君は嘆いて席を越えて立った。帝はこれを見て、大いに驚き悔やんだ。このとき使者もともに見ていたので、やめることができず、そこで単于に賜った。単于は大いに喜んで、さまざまな珍しい物を献じた。昭君に子があって世違といった。単于が死ぬと、世違が継いで立った。およそ胡である者は、父が死ぬと母を妻とする。昭君が世違に『お前は漢になるのか、胡になるのか』と尋ねると、世違は『胡になりたいだけです』と言った。昭君はそこで薬を飲んで自ら死んだ。」石季倫は言う、「昭が文帝の諱に触れるので、明と改めた。」
3もし鬼神に知るところがあれば、邪で諂う訴えは受けないでしょう
漢成帝幸趙飛燕,飛燕讒班婕妤祝詛,於是考問。辭曰:「妾聞死生有命,富貴在天。脩善尚不蒙福,為邪欲以何望?若鬼神有知,不受邪佞之訴;若其無知,訴之何益?故不為也。」
漢の成帝が趙飛燕を寵愛したので、飛燕は班婕妤が呪いをかけたと讒言し、そこで取り調べて問うた。
答えて言った。「妾が聞きますところでは、死生には命があり、富貴は天にあるといいます。善を修めてさえまだ福を被らないのに、邪なことをして何を望めるでしょうか。もし鬼神に知るところがあれば、邪で諂う訴えは受けないでしょうし、もし知るところがなければ、訴えて何の益がありましょう。ですから、しなかったのです。」
夾注 1
漢書外戚傳曰:「成帝趙皇后,本長安宮人。初生,父母不舉,三日不死,乃收養之。及壯,屬河陽主家學歌舞,號曰飛燕。帝微行過主,見而說之,召入宮,大得幸,立為后。班婕妤者,雁門人。成帝初,選入宮,大得幸,為婕妤。帝遊後庭,嘗欲與同輦,婕妤辭之。趙飛燕譖許皇后及婕妤,婕妤對有辭致,上憐之,賜黃金百斤。飛燕嬌妒,婕妤恐見危,中求供養太后於長信宮。帝崩,婕妤充奉園陵。薨,葬園中。」
『漢書・外戚伝』に言う、「成帝の趙皇后は、もと長安の宮女である。生まれたばかりのとき父母が育てなかったが、三日経っても死ななかったので、そこで引き取って育てた。成長すると河陽主の家に属して歌と舞を学び、飛燕と呼ばれた。帝がお忍びで出歩いて主の家を通り、見て気に入り、宮に召し入れると、大いに寵愛されて立てられて后となった。班婕妤という者は雁門の人である。成帝のはじめに選ばれて宮に入り、大いに寵愛されて婕妤となった。帝が後庭に遊んで、あるとき車に同乗させようとしたが、婕妤はこれを辞した。趙飛燕が許皇后と婕妤を讒言したが、婕妤の答えには言葉の筋があったので、上はこれを憐れんで黄金百斤を賜った。飛燕が媚びて妬んだので、婕妤は危うくなるのを恐れ、途中から長信宮で太后に仕えることを求めた。帝が崩じると、婕妤は園陵に当てられて奉じた。亡くなると、園の中に葬られた。」
4犬も鼠もお前の残り物は食うまい。死ぬのはもとより当然だ
魏武帝崩,文帝悉取武帝宮人自侍。及帝病困,卞后出看疾。太后入戶,見直侍並是昔日所愛幸者。太后問:「何時來邪?」云:「正伏魄時過。」因不復前而嘆曰:「狗鼠不食汝餘,死故應爾!」至山陵,亦竟不臨。
魏の武帝が崩じると、文帝は武帝の宮女をすべて取って自分に仕えさせた。
帝が病んで苦しむまでになると、卞太后が出て病を見た。
太后が戸に入ると、すぐに当番で仕えている者たちが、みな昔寵愛されていた者であるのを見た。
太后は尋ねた。「いつ来たのか。」
言った。「まさに魂を呼び返していたときに参りました。」
そこでそれ以上進まず、嘆じた。「犬も鼠もお前の残り物は食うまい。死ぬのはもとより当然だ。」
山陵のときにも、やはりついに哭しに臨まなかった。
夾注 1
魏書曰:「武宣卞皇后,琅邪開陽人。以漢延熹三年生齊郡白亭,有黃氣滿室移日。父敬侯怪之,以問卜者王越。越曰:『此吉祥也。』年二十,太祖納於譙。性約儉,不尚華麗,有母儀德行。」
『魏書』に言う、「武宣卞皇后は琅邪開陽の人である。漢の延熹三年に斉郡の白亭で生まれたが、黄色い気が部屋に満ちて日を越えた。父の敬侯はこれを怪しんで、占う者の王越に尋ねると、王越は『これは吉の兆しである』と言った。年二十で、太祖が譙で迎え入れた。性は約やかで倹しく、華やかさを尚ばず、母としての範と徳のある行いがあった。」
5良いことさえしてはならないのに、ましてや悪いことなど
趙母嫁女,女臨去,敕之曰:「慎勿為好!」女曰:「不為好,可為惡邪?」母曰:「好尚不可為,其況惡乎?」
趙氏の母が娘を嫁がせるとき、娘が去ろうとするのを戒めて言った。「くれぐれも良いことをするな。」
娘は言った。「良いことをしないなら、悪いことをするのですか。」
母は言った。「良いことさえしてはならないのに、ましてや悪いことなどどうしてしようか。」
夾注 1
列女傳曰:「趙姬者,桐鄉令東郡虞韙妻,潁川趙氏女也。才敏多覽。韙既沒,文皇帝敬其文才,詔入宮省。上欲自征公孫淵,姬上疏以諫。作列女傳解,號趙母注。賦數十萬言。赤烏六年卒。」淮南子曰:「人有嫁其女而教之者,曰:『爾為善,善人疾之。』對曰:『然則當為不善乎?』曰:『善尚不可為,而況不善乎?』」景獻羊皇后曰:「此言雖鄙,可以命世人。」
『列女伝』に言う、「趙姫という者は、桐郷令の東郡虞韙の妻で、潁川趙氏の娘である。才が機敏で見聞が広かった。虞韙が亡くなると、文皇帝はその文才を敬って、詔して宮省に入れた。上が自ら公孫淵を征とうとしたとき、趙姫は疏を上げて諫めた。「列女伝解」を作って、「趙母注」と呼ばれる。賦は数十万言であった。赤烏六年に亡くなった。」『淮南子』に言う、「その娘を嫁がせて教える者があって、『お前は良いことをせよ。良い人は人に憎まれる』と言うと、答えて『それでは良くないことをすべきなのですか』と言った。『良いことさえしてはならないのに、ましてや良くないことなどどうしてしようか』と言った。」景献羊皇后は言う、「この言葉は卑しいけれども、世の人に示すに足りる。」
6そもそも百の行いは徳を第一とするのに、あなたは色を好んで徳を好まない
許允婦,是阮衛尉女,德如妹,奇醜;交禮竟,允無復入理,家人深以為憂。會允有客至,婦令婢視之,還答曰:「是桓郎。」桓郎者,桓範也。婦云:「無憂,桓必勸入。」桓果語許云:「阮家既嫁醜女與卿,故當有意,卿宜察之。」許便回入內。既見婦,即欲出。婦料其此出,無復入理,便捉裾停之。許因謂曰:「婦有四德,卿有其幾?」婦曰:「新婦所乏唯容爾。然士有百行,君有幾?」許云:「皆備。」婦曰:「夫百行以德為首,君好色不好德,何謂皆備?」允有慚色,遂相敬重。
許允の妻は阮衛尉の娘で、徳如の妹であったが、ひどく醜かった。
礼を取り交わし終えても、許允は再び中に入る気がなかったので、家の者は深くこれを心配した。
ちょうど許允に客が来たので、妻は婢にこれを見させると、戻って答えた。「桓郎さまです。」
桓郎とは桓範である。
妻は言った。「心配ない。桓氏はきっと入るよう勧めるだろう。」
桓氏は果たして許允に言った。「阮家はすでに醜い娘をあなたに嫁がせたのだから、もとより何か考えがあるはずだ。あなたはそれを見極めるべきだ。」
許允はそこで引き返して内に入った。
妻を見ると、すぐに出て行こうとしたので、妻はここで出て行けば再び入る気はないだろうと見て、すぐに裾を捉えて彼を留めた。
許允はそこで言った。「婦人には四つの徳があるが、あなたはそのいくつを持っているのか。」
妻は言った。「新しい妻に欠けているところは、ただ容貌だけです。しかし士には百の行いがありますが、あなたはいくつを持っておられますか。」
許允は言った。「みな備えている。」
妻は言った。「そもそも百の行いは徳を第一とするのに、あなたは色を好んで徳を好まないのですから、どうしてみな備えているといえるのですか。」
許允は恥じる色があって、ついに互いに敬い重んじるようになった。
夾注 3
魏略曰:「允字士宗,高陽人。少與清河崔贊,俱發名於冀州。仕至領軍將軍。」陳留志名曰:「阮共字伯彥,尉氏人。清真守道,動以禮讓。仕魏,至衛尉卿。少子侃,字德如,有俊才,而飭以名理。風儀雅潤,與嵇康為友。仕至河內太守。」
『魏略』に言う、「許允は字は士宗、高陽の人である。若くして清河の崔賛とともに冀州で名を上げた。官は領軍将軍に至った。」『陳留志名』に言う、「阮共は字は伯彦、尉氏の人である。清らかで真で道を守り、動くには礼と譲をもってした。魏に仕えて衛尉卿に至った。末子の阮侃は字は徳如で、優れた才があり、名と理で身を飾った。風格も身ごなしも品があって潤いがあり、嵇康と友であった。官は河内太守に至った。」
魏略曰:「範字允明,沛郡人。仕至大司農,為宣王所誅。」
『魏略』に言う、「桓範は字は允明、沛郡の人である。官は大司農に至り、宣王に誅された。」
周禮:「九嬪掌婦學之法,以教九御。婦德、婦言、婦容、婦功。」鄭注曰:「德謂貞順,言謂辭令,容謂婉娩,功謂絲枲。」
『周礼』に「九嬪は婦の学の法を掌り、九御を教える。婦徳・婦言・婦容・婦功である」とある。鄭玄の注に言う、「徳とは貞しく順うことをいい、言とは言葉遣いをいい、容とはしとやかさをいい、功とは糸と麻をいう。」
7明らかな君主は理で奪うことはできますが、情で求めるのは難しいのです
許允為吏部郎,多用其鄉里,魏明帝遣虎賁收之。其婦出誡允曰:「明主可以理奪,難以情求。」既至,帝覈問之。允對曰:「『舉爾所知』:臣之鄉人,臣所知也。陛下檢校為稱職與不;若不稱職,臣受其罪。」既檢校,皆官得其人,於是乃釋;允衣服敗壞,詔賜新衣。初,允被收,舉家號哭。阮新婦自若云:「勿憂,尋還。」作粟粥待。頃之,允至。
許允が吏部郎となって、その郷里の者を多く用いたので、魏の明帝は虎賁を遣わして彼を捕らえさせた。
その妻が出てきて許允を戒めて言った。「明らかな君主は理で奪うことはできますが、情で求めるのは難しいのです。」
着くと、帝はこれを取り調べて問うた。
許允は答えた。「『お前の知る者を挙げ用いよ』とあります。臣の郷里の人は、臣の知るところです。陛下は職に称っているかどうかをお調べください。もし称っていなければ、臣がその罪を受けます。」
調べてみると、みな官がその人を得ていたので、そこで釈放された。許允の衣服が破れ崩れていたので、詔して新しい衣を賜った。
はじめ許允が捕らえられると、家中が声を上げて哭いた。ただ阮氏の妻だけは平然として言った。「心配するな。すぐ帰ってくる。」
粟の粥を作って待っていると、しばらくして許允が着いた。
夾注 1
魏氏春秋曰:「初,允為吏部,選遷郡守。明帝疑其所用非次,將加其罪。允妻阮氏跣出,謂曰:『明主可以理奪,不可以情求。』允頷之而入。帝怒詰之,允對曰:『某郡太守雖限滿,文書先至,年限在後,日限在前。』帝前取事視之,乃釋然。遣出,望其衣敗,曰:『清吏也。』」
『魏氏春秋』に言う、「はじめ許允が吏部となって、郡守を選んで移した。明帝はその用いたところが順序でないのではないかと疑い、その罪を加えようとした。許允の妻の阮氏が裸足で出てきて、『明らかな君主は理で奪うことはできますが、情で求めることはできません』と言うと、許允はうなずいて入った。帝は怒ってこれを詰問したが、許允は『某郡の太守は期限が満ちていたとはいえ、文書が先に着いており、年の限りは後ですが、日の限りは前にあります』と答えた。帝は前の案件を取って見て、そこで釈然とした。送り出すとき、その衣が破れているのを眺めて『清らかな官だ』と言った。」
8早くからこうなると知っていた
許允為晉景王所誅,門生走入告其婦。婦正在機中,神色不變,曰:「蚤知爾耳!」門人欲藏其兒,婦曰:「無豫諸兒事。」後徙居墓所,景王遣鍾會看之,若才流及父,當收。兒以咨母。母曰:「汝等雖佳,才具不多,率胸懷與語,便無所憂。不須極哀,會止便止。又可少問朝事。」兒從之。會反以狀對,卒免。
許允が晋の景王に誅されると、門生が走り込んでその妻に告げた。
妻はちょうど機の中にいたが、心のさまも顔色も変えずに言った。「早くからこうなると知っていた。」
門人がその子たちを隠そうとすると、妻は言った。「子どもたちの事には関わらない。」
のちに墓のある所に移って住むと、景王は鍾会を遣わしてこれを見させ、才の流れが父に及ぶなら捕らえよと言った。
子たちが母に相談すると、母は言った。「お前たちは良いけれども、才の備えは多くない。胸に抱くままに率直に語れば、何も心配はない。ひどく哀しむ必要もなく、鍾会が止めたらこちらも止め、それに朝廷の事を少し尋ねてもよい。」
子たちはこれに従った。鍾会は帰ってありのままに答え、ついに免れた。
夾注 2
魏志曰:「初,領軍與夏侯玄、李豐親善,有詐作尺一詔書,以玄為大將軍,允為太尉,共錄尚書事。無何,有人天未明乘馬以詔版付允,門吏曰:『有詔。』因便驅走。允投書燒之,不以關呈景王。」魏略曰:「明年,李豐被收,允欲往見大將軍。已出門,允回遑不定,中道還取蔥。大將軍聞而怪之曰:『我自收李豐,士大夫何為悤悤乎?』會鎮北將軍劉靜卒,以允代靜。大將軍與允書曰:『鎮北雖少事,而都典一方。念足下震華鼓,建朱節,歷本州,此所謂著繡晝行也。』會有司奏允前擅以廚錢穀,乞諸俳及其官屬。減死徙邊,道死。」魏氏春秋曰:「允之為鎮北,喜謂其妻曰:『吾知免矣!』妻曰:『禍見於此,何免之有?』」晉諸公贊曰:「允有正情,與文帝不平,遂幽殺之。」婦人集載阮氏與允書,陳允禍患所起,辭甚酸愴,文多不錄。
『魏志』に言う、「はじめ領軍は夏侯玄と李豊と親しく仲が良かったが、一尺ほどの詔書を偽り作って、夏侯玄を大将軍とし、許允を太尉として、ともに尚書の事を録させるというものがあった。間もなく、ある人が夜の明ける前に馬に乗って詔の板を許允に渡し、門吏が『詔があります』と言うと、そのまま馬を駆って逃げ去った。許允は書を投げてこれを焼き、景王に取り次いで報せなかった。」『魏略』に言う、「翌年、李豊が捕らえられると、許允は大将軍に会いに行こうとした。すでに門を出たのに、許允は迷って定まらず、道の途中から戻って葱を取ってきた。大将軍は聞いてこれを怪しみ、『私が自分で李豊を捕らえたのに、士大夫はどうしてうろたえるのか』と言った。ちょうど鎮北将軍の劉静が亡くなったので、許允を劉静の代わりとした。大将軍は許允に手紙を送って、『鎮北は事は少ないが、一方をすべて統べる。思えば足下は花やかな鼓を鳴らし、朱の節を立てて、本の州を通るのだから、これがいわゆる刺繍の衣を着て昼に歩くというものだ』と言った。たまたま担当の役人が、許允が先にみだりに厨の銭と穀を、俳優たちやその官属に乞い与えたことを申し上げた。死を減じられて辺境に移されたが、道で死んだ。」『魏氏春秋』に言う、「許允が鎮北となると、喜んでその妻に『私は免れたとわかった』と言ったが、妻は『禍はここに見えているのに、どんな免れがありましょう』と言った。」『晋諸公賛』に言う、「許允には正しい心があって、文帝と折り合わなかったので、ついに幽閉して殺した。」『婦人集』に阮氏が許允に送った手紙を載せているが、許允の禍と憂いが起こったところを述べて、言葉がひどく酸く痛ましいけれども、文が多いので記さない。
世語曰:「允二子:奇,字子太。猛,字子豹。並有治理。」晉諸公贊曰:「奇,泰始中為太常丞,世祖嘗祠廟,奇應行事,朝廷以奇受害之門,不令接近,出為長史。世祖下詔,述允宿望,又稱奇才,擢為尚書祠部郎。猛禮學儒博,加有才識,為幽州刺史。」
『世語』に言う、「許允に二人の子があり、許奇は字は子太、許猛は字は子豹で、どちらも治める理があった。」『晋諸公賛』に言う、「許奇は泰始の年間に太常丞となった。世祖がかつて廟に祭ったとき、許奇が事を行うはずであったが、朝廷は許奇が害を受けた家の者だとして、近づけさせず、出して長史とした。世祖は詔を下して許允の旧い名望を述べ、また許奇の才を称えて、抜いて尚書祠部郎とした。許猛は礼の学が儒らしく博く、そのうえ才と識があって、幽州刺史となった。」
9大丈夫が彦雲にぼんやりとも似ていないのに、婦人に英傑と跡を並べさせようというのですか
王公淵娶諸葛誕女。入室,言語始交,王謂婦曰:「新婦神色卑下,殊不似公休!」婦曰:「大丈夫不能仿佛彥雲,而令婦人比蹤英傑!」
王公淵が諸葛誕の娘を娶った。
部屋に入って言葉を交わし始めたとき、王氏が妻に言った。「新しい妻は心のさまも顔色も低く、まるで公休には似ていない。」
妻は言った。「大丈夫が彦雲にぼんやりとも似ていないのに、婦人に英傑と跡を並べさせようというのですか。」
夾注 1
魏氏春秋曰:「王廣字公淵,王淩子也。有風量才學,名重當世。與傅嘏等論才性同異,行於世。」魏志曰:「廣有志尚學行,淩誅,并死。」臣謂王廣名士,豈以妻父為戲,此言非也。
『魏氏春秋』に言う、「王広は字は公淵、王淩の子である。風格と度量と才と学があって、名が当世に重かった。傅嘏らと才と性の同異を論じたものが世に行われた。」『魏志』に言う、「王広には志と尚ぶところと学と行いがあったが、王淩が誅されると、ともに死んだ。」臣が思うに、王広は名士であるから、どうして妻の父をからかうであろうか。この話は誤りである。
10孝があり忠があるのに何を私に背いたというのか
王經少貧苦,仕至二千石,母語之曰:「汝本寒家子,仕至二千石,此可以止乎!」經不能用。為尚書,助魏,不忠於晉,被收。涕泣辭母曰:「不從母敕,以至今日!」母都無慽容,語之曰:「為子則孝,為臣則忠。有孝有忠,何負吾邪?」
王経は若いころ貧しく苦しかったが、官は二千石に至った。
母は彼に言った。「お前はもと寒い家の子で、官が二千石に至ったのだから、これくらいでやめてよいだろう。」
王経はこれを用いることができなかった。
尚書となって魏を助け、晋に忠実でなかったので捕らえられた。
涙を流して母に別れを告げた。「母上の戒めに従わず、今日に至りました。」
母はまったく悲しむ顔色もなく、彼に言った。「子としては孝であり、臣としては忠であった。孝があり忠があるのに、何を私に背いたというのか。」
夾注 1
世語曰:「經字彥偉,清河人。高貴鄉公之難,王沈、王業馳告文王,經以正直不出。因沈、業申意,後誅經及其母。」晉諸公贊曰:「沈、業將出,呼經,不從,曰:『吾子行矣!』」漢晉春秋曰:「初,曹髦將自討司馬昭,經諫曰:『昔魯昭不忍季氏,敗走失國,為天下笑。今權在其門久矣,朝廷四方,皆為之致死,不顧逆順之理,非一日也。且宿衛空闕,寸刃無有,陛下何所資用?而一旦如此,無乃欲除疾而更深之邪?』髦不聽。後殺經,并及其母。將死,垂泣謝母。母顏色不變,笑而謂曰:『人誰不死,往所以止汝者,恐不得其所也。以此并命,何恨之有?』」干寶晉紀曰:「經正直,不忠於我,故誅之。」按傅暢、干寶所記,則是經實忠貞於魏,而世語既謂其正直,復云因沈、業申意,何其相反乎?故二家之言深得之。
『世語』に言う、「王経は字は彦偉、清河の人である。高貴郷公の難のとき、王沈と王業は馳せて文王に告げたが、王経は正直で出なかった。王沈と王業を通して意を伝えたので、のちに王経とその母を誅した。」『晋諸公賛』に言う、「王沈と王業が出ようとして王経を呼んだが、従わず『君たちは行け』と言った。」『漢晋春秋』に言う、「はじめ曹髦が自ら司馬昭を討とうとしたとき、王経は諫めて『昔、魯の昭公は季氏を忍ぶことができず、敗れ走って国を失い、天下の笑いものとなりました。いま権がその門にあって久しく、朝廷も四方もみな彼のために死を捧げ、逆と順の理を顧みないのは、一日のことではありません。それに宮中の守りは空しく欠けて、一寸の刃もありません。陛下は何を資本としてお用いになるのですか。それを一朝にしてこうなさるのは、病を除こうとしてかえって深くするものではありませんか』と言った。曹髦は聞かなかった。のちに王経を殺し、あわせてその母にまで及んだ。死のうとするとき、涙を垂れて母に謝ると、母は顔色を変えず、笑って『人は誰が死なないであろうか。以前お前を止めた理由は、その所を得られないことを恐れたからだ。これで命を並べるのに、何の恨みがあろう』と言った。」干宝の『晋紀』に言う、「王経は正直で、我々に忠実でなかったので、これを誅した。」考えてみると、傅暢と干宝が記したところによれば、王経はまことに魏に忠で貞しかったのである。それなのに『世語』はすでに彼が正直だと言いながら、また王沈と王業を通して意を伝えたとも言う。何とまあ相反することであろうか。だから二家の言葉が深くこれを得ている。
11あの連中もいつも私の度量を勝っていると言うのだ
山公與嵇、阮一面,契若金蘭。山妻韓氏,覺公與二人異於常交,問公。公曰:「我當年可以為友者,唯此二生耳!」妻曰:「負羈之妻亦親觀狐、趙,意欲窺之,可乎?」他日,二人來,妻勸公止之宿,具酒肉。夜穿墉以視之,達旦忘反。公入曰:「二人何如?」妻曰:「君才致殊不如,正當以識度相友耳。」公曰:「伊輩亦常以我度為勝。」
山公は嵇康と阮籍と一度会って、心の交わりが金や蘭のようであった。
山公の妻の韓氏は、公がこの二人と並の交わりとは違うことに気づいて、公に尋ねた。
山公は言った。「私がこの年になって友とできるのは、ただこの二人だけだ。」
妻は言った。「負羈の妻も、自ら狐偃と趙衰を見たといいます。私もこれを覗き見たいのですが、よろしいでしょうか。」
別の日に二人が来ると、妻は公に彼らを泊めるよう勧め、酒と肉を用意した。
夜、壁に穴をあけてこれを見たが、暁になるまで戻るのを忘れていた。
山公が入ってきて言った。「二人はどうだった。」
妻は言った。「あなたは才の至りがまるで及びません。ちょうど識見と度量で互いに友とすべきでしょう。」
山公は言った。「あの連中も、いつも私の度量を勝っていると言うのだ。」
夾注 1
晉陽秋曰:「濤雅素恢達,度量弘遠,心存事外,而與時俛仰。嘗與阮籍、嵇康諸人箸忘言之契。至于群子,屯蹇於世,濤獨保浩然之度。」王隱晉書曰:「韓氏有才識,濤未仕時,戲之曰:『忍寒,我當作三公,不知卿堪為夫人不耳?』」
『晋陽秋』に言う、「山濤は品よく素朴で広く通達し、度量が大きく遠く、心は事の外にありながら、時とともに俯き仰いだ。かつて阮籍や嵇康ら諸々の人と、言葉を忘れる交わりを結んだ。その人々に至っては世で行き詰まって苦しんだが、山濤だけはひとり浩然たる度量を保った。」王隠の『晋書』に言う、「韓氏に才と識があったので、山濤がまだ仕えていなかったとき、からかって『寒さを我慢せよ。私はきっと三公になるが、あなたが夫人を務めるに堪えるかはわからないな』と言った。」
12その姿と骨柄を見ると必ず長生きしないから婚姻はできない
王渾妻鍾氏生女令淑,武子為妹求簡美對而未得。有兵家子,有雋才,欲以妹妻之,乃白母曰:「誠是才者,其地可遺,然要令我見。」武子乃令兵兒與群小雜處,使母帷中察之。既而,母謂武子曰:「如此衣形者,是汝所擬者,非邪?」武子曰:「是也。」母曰:「此才足以拔萃,然地寒,不有長年,不得申其才用。觀其形骨,必不壽,不可與婚。」武子從之。兵兒數年果亡。
王渾の妻の鍾氏が生んだ娘は、立派でしとやかであった。
武子は妹のために簡素で美しい相手を探したが、見つからなかった。
ある兵家の子で、優れた才を持つ者があったので、妹を彼に嫁がせようとして、そこで母に申し上げた。「まことに才のある者なら、その家柄は捨て置いてよいでしょう。ただ、私に見せていただきたいのです。」
武子はそこで兵家の子を取るに足りない者たちに混じらせ、母に帳の中からこれを見定めさせた。
やがて母は武子に言った。「このような衣と姿の者が、お前の考えている者ではないか。」
武子は言った。「そうです。」
母は言った。「この才は群を抜くに足りる。しかし家柄が寒くて、長い年がなければ、その才を伸ばして用いることができない。その姿と骨柄を見ると、必ず長生きしないから、婚姻はできない。」
武子はこれに従った。兵家の子は数年して果たして亡くなった。
夾注 2
虞預晉書曰:「渾字玄沖,太原晉陽人,魏司徒昶子。仕至司徒。」
虞預の『晋書』に言う、「王渾は字は玄沖、太原晋陽の人で、魏の司徒王昶の子である。官は司徒に至った。」
王氏譜曰:「鍾夫人名琰之,太傅繇之孫。」
『王氏譜』に言う、「鍾夫人は名は琰之、太傅鍾繇の孫である。」
13あなたに何を言えと言ったのか
賈充前婦,是李豐女。豐被誅,離婚徙邊。後遇赦得還,充先已取郭配女。武帝特聽置左右夫人。李氏別住外,不肯還充舍。郭氏語充:「欲就省李。」充曰:「彼剛介有才氣,卿往不如不去。」郭氏於是盛威儀,多將侍婢。既至,入戶,李氏起迎,郭不覺腳自屈,因跪再拜。既反,語充,充曰:「語卿道何物?」
賈充の前の妻は李豊の娘である。
李豊が誅されると、婚姻を離れて辺境に移された。
のちに赦に遭って帰ることができたが、賈充は先にすでに郭配の娘を娶っていた。
武帝はとりわけ左と右の夫人を置くことを許した。
李氏は別に外に住んで、賈充の家に帰ろうとしなかった。
郭氏は賈充に言った。「李氏を訪ねて見舞いたいのです。」
賈充は言った。「あの人は剛く硬くて才と気があるから、あなたが行くのは行かないほうがましだ。」
郭氏はそこで威厳ある身ごなしを盛んにして、仕える婢を多く連れて行った。
着いて戸に入ると、李氏が立って迎えたので、郭氏は気づかないうちに脚がおのずと曲がり、そのまま膝をついて二度拝んだ。
帰ってから賈充に話すと、賈充は言った。「あなたに何を言えと言ったのか。」
夾注 5
婦人集曰:「充妻李氏,名婉字淑文。豐誅,徙樂浪。」
『婦人集』に言う、「賈充の妻の李氏は、名は婉、字は淑文である。李豊が誅されると、楽浪に移された。」
賈氏譜曰:「郭氏名玉璜,即廣宣君也。」
『賈氏譜』に言う、「郭氏は名は玉璜で、すなわち広宣君である。」
晉諸公贊曰:「世祖踐阼,李氏赦還,而齊獻王妃欲令充遣郭氏,更納其母。充不許,為李氏築宅,而不往來。充母柳氏將亡,充問所欲言者。柳曰:『我教汝迎李新婦尚不肯,安問他事!』」
『晋諸公賛』に言う、「世祖が位に就くと、李氏は赦されて帰った。斉の献王の妃が賈充に郭氏を出させて、改めて自分の母を迎え入れさせようとしたが、賈充は許さず、李氏のために家を建ててやったものの、行き来はしなかった。賈充の母の柳氏が亡くなろうとするとき、賈充が言いたいことを尋ねると、柳氏は『私がお前に李氏の嫁を迎えよと教えてもなお聞かなかったのに、どうして他の事を尋ねるのか』と言った。」
充別傳曰:「李氏有淑性令才也。」
『充別伝』に言う、「李氏には淑やかな性と立派な才があった。」
按晉諸公贊曰:「世祖以李豐得罪晉室,又郭氏是太子妃母,無離絕之理,乃下詔勅斷,不得往還。」而王隱晉書亦云:「充既與李絕婚,更取城陽太守郭配女,名槐。李禁錮解,詔充置左右夫人。充母柳亦勅充迎李。槐怒,攘臂責充曰:『刊定律令,為佐命之功,我有其分。李那得與我並?』充乃架屋永年里中以安李。槐晚乃知。充出,輒使人尋充。詔許充置左右夫人。充答詔以謙讓不敢當盛禮。」晉贊既云世祖下詔不遣李還,而王隱晉書及充別傳並言詔聽置立左右夫人。充憚郭氏,不敢迎李。三家之說並不同,未詳孰是。然李氏不還,別有餘故,而世說云「自不肯還」,謬矣。且郭槐彊狠,豈能就李而為之拜乎?皆為虛也。
考えてみると、『晋諸公賛』に言う、「世祖は、李豊が晋の家に罪を得たこと、また郭氏が太子妃の母であることから、離れ絶つ理はないとして、そこで詔を下して断ち切らせ、行き来できないようにした。」ところが王隠の『晋書』はまた言う、「賈充はすでに李氏と婚姻を絶って、改めて城陽太守郭配の娘を娶り、名は郭槐である。李氏の禁錮が解けると、詔して賈充に左と右の夫人を置かせた。賈充の母の柳氏も賈充に李氏を迎えよと命じた。郭槐は怒り、腕をまくって賈充を責めて『律令を刊定して、佐命の功を成すのには、私にもその分がある。李氏がどうして私と並べようか』と言った。賈充はそこで永年里の中に家を構えて李氏を落ち着かせたが、郭槐は遅くなってこれを知った。賈充が出かけると、そのたびに人をやって賈充を探させた。詔して賈充に左と右の夫人を置くことを許したが、賈充は詔に答えて、謙って辞し、盛んな礼を受けるに敢えないと言った。」『晋賛』はすでに世祖が詔を下して李氏を帰らせなかったと言い、王隠の『晋書』と『充別伝』はともに、詔して左と右の夫人を立てることを許したと言う。賈充が郭氏を憚って敢えて李氏を迎えなかったともいう。三家の説はどれも同じでなく、どれが正しいのかは詳らかでない。しかし李氏が帰らなかったのには別に余の理由があるのに、『世説』が「自ら帰ろうとしなかった」と言うのは誤りである。それに郭槐は強く狠かったのだから、どうして李氏のところへ行って彼女のために拝むことができたであろうか。みな虚である。
14賈后が廃されると李氏をそこで合わせ葬って葬りはついに定まった
賈充妻李氏作女訓,行於世。李氏女,齊獻王妃,郭氏女,惠帝后。充卒,李、郭女各欲令其母合葬,經年不決。賈后廢,李氏乃祔,葬遂定。
賈充の妻の李氏は「女訓」を作って、世に行われた。
李氏の娘は斉の献王の妃で、郭氏の娘は恵帝の皇后である。
賈充が亡くなると、李氏と郭氏の娘がそれぞれ自分の母を合葬させようとして、年を越しても決まらなかった。
賈后が廃されると、李氏をそこで合わせ葬って、葬りはついに定まった。
夾注 1
晉諸公贊曰:「李氏有才德,世稱『李夫人訓』者。生女合,亦才明,即齊王妃。」婦人集曰:「李氏至樂浪,遺二女典式八篇。」王隱晉書曰:「賈后字南風,為趙王所誅。」
『晋諸公賛』に言う、「李氏には才と徳があって、世に『李夫人訓』と称えられるものである。生んだ娘の賈合もまた才があって明らかで、すなわち斉王の妃である。」『婦人集』に言う、「李氏は楽浪に至って、二人の娘に「典式」八篇を遺した。」王隠の『晋書』に言う、「賈后は字は南風で、趙王に誅された。」
15それでこれを知ったのだ
王汝南少無婚,自求郝普女。司空以其癡,會無婚處,任其意,便許之。既婚,果有令姿淑德。生東海,遂為王氏母儀。或問汝南何以知之?曰:「嘗見井上取水,舉動容止不失常,未嘗忤觀。以此知之。」
王汝南は若いころ婚姻がなかったが、自ら郝普の娘を求めた。
司空は彼が愚かで、ちょうど嫁ぐ先もなかったので、その意に任せてすぐにこれを許した。
婚姻を済ませると、果たして立派な姿と淑やかな徳があった。
東海を生んで、ついに王氏の母としての範となった。
ある人が汝南に、どうしてそれがわかったのかと尋ねると、言った。「かつて井のそばで水を汲んでいるのを見たが、立ち居も身ごなしも常を失わず、一度も見て気に障ることがなかった。それでこれを知ったのだ。」
夾注 3
郝氏譜曰:「普字道匡,太原襄城人。仕至洛陽太守。」
『郝氏譜』に言う、「郝普は字は道匡、太原襄城の人である。官は洛陽太守に至った。」
魏氏志曰:「王昶字文舒,仕至司空。」
『魏氏志』に言う、「王昶は字は文舒で、官は司空に至った。」
汝南別傳曰:「襄城郝仲將,門至孤陋,非其所偶也。君嘗見其女,便求聘焉。果高朗英邁,母儀冠族。其通識餘裕,皆此類。」
『汝南別伝』に言う、「襄城の郝仲将は、門地がひとり孤り狭くて、その相手となるべきではなかった。君はかつてその娘を見て、すぐに聘ることを求めた。果たして高く明るく抜きん出て、母としての範は一族に冠たるものであった。その通じた識見と余裕のあるさまは、みなこういう類である。」
16鍾氏は貴さで郝氏を侮らず、郝氏も賤しさで鍾氏に下らなかった
王司徒婦,鍾氏女,太傅曾孫,亦有俊才女德。鍾、郝為娣姒,雅相親重。鍾不以貴陵郝,郝亦不以賤下鍾。東海家內,則郝夫人之法。京陵家內,範鍾夫人之禮。
王司徒の妻は鍾氏の娘で、太傅の曾孫であり、やはり優れた才と女の徳があった。
鍾氏と郝氏は兄弟の嫁同士となって、心から互いに親しみ重んじた。
鍾氏は貴さで郝氏を侮らず、郝氏も賤しさで鍾氏に下らなかった。
東海の家の中は郝夫人の法であり、京陵の家の中は鍾夫人の礼を範とした。
夾注 2
王氏譜曰:「夫人,黃門侍郎鍾琰女。」
『王氏譜』に言う、「夫人は黄門侍郎鍾琰の娘である。」
婦人集曰:「夫人有文才,其詩賦頌誄行於世。」
『婦人集』に言う、「夫人には文の才があって、その詩・賦・頌・誄が世に行われた。」
17この娘はひどく高く明らかで李重はいつも彼女に相談した
李平陽,秦州子,中夏名士。于時以比王夷甫。孫秀初欲立威權,咸云:「樂令民望不可殺,減李重者又不足殺。」遂逼重自裁。初,重在家,有人走從門入,出髻中疏示重。重看之色動,入內示其女,女直叫「絕」。了其意,出則自裁。此女甚高明,重每咨焉。
李平陽は秦州刺史の子で、中夏の名士である。
当時は王夷甫に並べられた。
孫秀がはじめて威と権を立てようとしたとき、みな言った。「楽令は民の望みだから殺せない。李重より下の者は、また殺すに足りない。」
そこで李重を迫って自ら命を絶たせた。
はじめ李重が家にいたとき、ある人が門から走り込んできて、髻の中から書き付けを出して李重に示した。
李重はこれを見て顔色が動き、内に入ってその娘に示すと、娘はすぐに「終わりです」と叫んだ。
その意を悟り、出てすぐに自ら命を絶った。
この娘はひどく高く明らかで、李重はいつも彼女に相談した。
夾注 3
李重已見。永嘉流人名曰:「康字玄冑,江夏人,魏秦州刺史。」
李重はすでに見える。『永嘉流人名』に言う、「李康は字は玄冑、江夏の人で、魏の秦州刺史である。」
晉諸公贊曰:「孫秀字俊忠,琅邪人。初,趙王倫封琅邪,秀給為近職小吏。倫數使秀作書疏,文才稱倫意。倫封趙,秀徙戶為趙人,用為侍郎,信任之。」晉陽秋曰:「倫篡位,秀為中書令,事皆決於秀。為齊王所誅。」
『晋諸公賛』に言う、「孫秀は字は俊忠、琅邪の人である。はじめ趙王司馬倫が琅邪に封ぜられたとき、孫秀は近い役の小吏として付けられていた。司馬倫がたびたび孫秀に文書を作らせると、その文才が司馬倫の意に適った。司馬倫が趙に封ぜられると、孫秀は戸籍を移して趙の人となり、侍郎に用いられて信任された。」『晋陽秋』に言う、「司馬倫が位を奪うと、孫秀は中書令となって、事はすべて孫秀のところで決まった。斉王に誅された。」
按諸書皆云:「重知趙王倫作亂,有疾不治,遂以致卒。」而此書乃言自裁,甚乖謬。且倫、秀兇虐,動加誅夷,欲立威權,自當顯戮,何為逼令自裁?
考えてみると、諸書はみな「李重は趙王司馬倫が乱を起こすことを知って、病があっても治さず、ついに死に至った」と言う。ところがこの書は自ら命を絶ったと言うのだから、ひどく食い違って誤っている。それに司馬倫と孫秀は凶暴で虐げ、動けば斬り殺したのだから、威と権を立てようとしたなら、当然おもてだって殺したはずで、どうして迫って自ら命を絶たせたりしようか。
18家の門は尽きて衰えたのに、どうして娘一人を惜しみましょう
周浚作安東時,行獵,值暴雨,過汝南李氏。李氏富足,而男子不在。有女名絡秀,聞外有貴人,與一婢於內宰豬羊,作數十人飲食,事事精辦,不聞有人聲。密覘之,獨見一女子,狀貌非常,浚因求為妾。父兄不許。絡秀曰:「門戶殄瘁,何惜一女?若連姻貴族,將來或大益。」父兄從之。遂生伯仁兄弟。絡秀語伯仁等:「我所以屈節為汝家作妾,門戶計耳!汝若不與吾家作親親者,吾亦不惜餘年。」伯仁等悉從命。由此李氏在世,得方幅齒遇。
周浚が安東であったとき、狩りに出かけて激しい雨に遭い、汝南の李氏の家に立ち寄った。
李氏は富み足りていたが、男子が家にいなかった。
娘があって名は絡秀といったが、外に貴い人がいると聞いて、婢一人とともに内で豚と羊を屠り、数十人分の飲み物と食べ物を作った。どれも精巧に整えたのに、人の声が聞こえなかった。
そっとこれを覗くと、ただ一人の女だけが見え、その姿も容貌も並でなかった。周浚はそこで妾にすることを求めたが、父と兄は許さなかった。
絡秀は言った。「家の門は尽きて衰えたのに、どうして娘一人を惜しみましょう。もし貴い家と縁を結べば、将来あるいは大きな助けになるでしょう。」
父と兄はこれに従った。そして伯仁の兄弟を生んだ。
絡秀は伯仁らに言った。「私が節を屈めてお前の家の妾となったのは、家の門のための計りごとだけである。お前たちがもし私の家と親しく付き合わないなら、私もまた残りの年を惜しむまい。」
伯仁らはみな命に従った。これによって李氏は世にあって、きちんとした扱いを受けるようになった。
夾注 2
八王故事曰:「浚字開林,汝南安城人。少有才名。太康初,平吳,自御史中丞出為揚州刺史。元康初,加安東將軍。」
『八王故事』に言う、「周浚は字は開林、汝南安城の人である。若くして才と名があった。太康のはじめに呉を平定し、御史中丞から出て揚州刺史となった。元康のはじめに安東将軍を加えられた。」
按周氏譜:「浚取同郡李伯宗女。」此云為妾,妄耳。
考えてみると、『周氏譜』に「周浚は同じ郡の李伯宗の娘を娶った」とある。ここで妾になったと言うのは、でたらめなだけである。
19髪を売って数斛の米を手に入れ、柱を削って薪とした
陶公少有大志,家酷貧,與母湛氏同居。同郡范逵素知名,舉孝廉,投侃宿。于時冰雪積日,侃室如懸磬,而逵馬僕甚多。侃母湛氏語侃曰:「汝但出外留客,吾自為計。」湛頭髮委地,下為二髲,賣得數斛米,斫諸屋柱,悉割半為薪,剉諸薦以為馬草。日夕,遂設精食,從者皆無所乏。逵既嘆其才辯,又深愧其厚意。明旦去,侃追送不已,且百里許。逵曰:「路已遠,君宜還。」侃猶不返,逵曰:「卿可去矣!至洛陽,當相為美談。」侃迺返。逵及洛,遂稱之於羊晫、顧榮諸人,大獲美譽。
陶公は若くして大きな志があったが、家はひどく貧しく、母の湛氏とともに住んでいた。
同じ郡の范逵はもとから名が知られていて、孝廉に挙げられていたが、陶侃のところに泊まりに寄った。
このとき氷と雪が幾日も積もっていて、陶侃の部屋は吊るした磬のように空っぽなのに、范逵の馬と従者はひどく多かった。
陶侃の母の湛氏は陶侃に言った。「お前はただ外に出て客を留めておきなさい。私が自分で何とかする。」
湛氏は髪が地に垂れるほどであったが、それを切って二つの添え髪を作り、売って数斛の米を手に入れ、家の柱を削ってみな半分を切って薪とし、幾枚もの敷物を刻んで馬の飼い葉とした。
日暮れには、ついに精巧な食事を用意したので、従者もみな乏しいところがなかった。
范逵はその才と弁を嘆じたうえ、その厚い心に深く恥じ入った。
翌朝去るとき、陶侃は追って送るのをやめず、百里ほどにもなった。
范逵は言った。「道はもう遠い。君は帰るのがよい。」
陶侃がそれでも帰らないので、范逵は言った。「あなたは帰ってよい。洛陽に着いたら、きっとあなたのために良い話をしよう。」
陶侃はそこで帰った。
范逵が洛陽に着くと、そこで羊晫や顧栄ら人々に彼を称えたので、大いに良い誉れを得た。
夾注 3
逵未詳。
范逵は詳らかでない。
一作髢。
髲は、一本では髢となっている。
晉陽秋曰:「侃父丹,娶新淦湛氏女,生侃。湛虔恭有智算,以陶氏貧賤,紡績以資給侃,使交結勝己。侃少為尋陽吏,鄱陽孝廉范逵嘗過侃宿,時大雪,侃家無草,湛徹所臥薦剉給。陰截髮,賣以供調。逵聞之歎息。逵去,侃追送之。逵曰:『豈欲仕乎?』侃曰:『有仕郡意。』逵曰:『當相談致。』過廬江,向太守張夔稱之。召補吏,舉孝廉,除郎中。時豫章顧榮或責羊晫曰:『君奈何與小人同輿?』晫曰:『此寒俊也。』」王隱晉書曰:「侃母既截髮供客,聞者歎曰:『非此母不生此子』乃進之於張夔。羊晫亦簡之。後晫為十郡中正,舉侃為鄱陽小中正,始得上品也。」
『晋陽秋』に言う、「陶侃の父の陶丹は、新淦の湛氏の娘を娶って陶侃を生んだ。湛氏は慎み深く恭しく、知恵と計りがあって、陶氏が貧しく賤しいので、糸を紡いで陶侃に与え、自分より優れた者と交わり結ばせた。陶侃は若くして尋陽の吏となったが、鄱陽の孝廉の范逵がかつて陶侃のところに泊まりに寄った。このとき大雪で、陶侃の家に飼い葉がなかったので、湛氏は自分の寝ていた敷物を取り払って刻んで与え、こっそり髪を切って売って、もてなしに充てた。范逵はこれを聞いて嘆息した。范逵が去ると、陶侃は追って送った。范逵が『仕えたいのか』と言うと、陶侃は『郡に仕える心はあります』と言った。范逵は『きっと話を通してやろう』と言った。廬江を通り、太守の張夔に彼を称えた。召して吏に充て、孝廉に挙げて郎中に任じられた。このとき豫章の顧栄がある時羊晫を責めて『君はどうして小人と車を同じくするのか』と言うと、羊晫は『これは寒門の俊才だ』と言った。」王隠の『晋書』に言う、「陶侃の母が髪を切って客をもてなしたと聞いた者は『この母でなければこの子は生まれない』と嘆じて、そこで彼を張夔のもとに進めた。羊晫もまた彼を選び取った。のちに羊晫が十郡の中正となると、陶侃を鄱陽の小中正に挙げたので、はじめて上の品を得た。」
20官の物を私に贈るとは、助けにならないばかりかかえって私の憂いを増すのだ
陶公少時,作魚梁吏,嘗以坩鮓餉母。母封鮓付使,反書責侃曰:「汝為吏,以官物見餉,非唯不益,乃增吾憂也。」
陶公は若いとき魚梁の吏となって、あるとき壺に入れた魚の塩辛を母に贈った。
母は塩辛を封じて使いに渡し、手紙を返して陶侃を責めた。「お前は吏となって、官の物を私に贈るとは、助けにならないばかりか、かえって私の憂いを増すのだ。」
夾注 1
侃別傳曰:「母湛氏,賢明有法訓。侃在武昌,與佐吏從容飲燕,常有飲限。或勸猶可少進,侃悽然良久曰:『昔年少,曾有酒失,二親見約,故不敢踰限。』及侃丁母憂,在墓下,忽有二客來弔,不哭而退,儀服鮮異,知非常人。遣隨視之,但見雙鶴沖天而去。」幽明錄曰:「陶公在尋陽西南一塞取魚,自謂其池曰鶴門。」按吳司徒孟宗為雷池監,以魚差餉母,母不受。非侃也。疑後人因孟假為此說。
『侃別伝』に言う、「母の湛氏は賢く明らかで、法と教えがあった。陶侃が武昌にあって、佐吏たちとくつろいで飲み宴するとき、いつも飲む限りを決めていた。ある者がまだ少し進めてもよいと勧めると、陶侃は物悲しくしばらくして『昔若かったころ、酒で過ちを犯したことがあって、両親と約束を結んだから、敢えて限りを越えないのだ』と言った。陶侃が母の喪に当たって墓の下にいたとき、ふと二人の客が弔いに来て、哭かずに退いたが、身ごなしも衣も鮮やかで並でなく、普通の人ではないとわかった。人を遣わして追って見させると、ただ二羽の鶴が天に昇って行くのが見えただけであった。」『幽明録』に言う、「陶公は尋陽の西南の一つの塞で魚を取り、自らその池を鶴門と呼んだ。」考えてみると、呉の司徒孟宗が雷池の監となって、魚を選んで母に贈ったが、母は受けなかった。陶侃ではない。おそらく後の人が孟宗のことに事寄せてこの話を作ったのであろう。
21国が破れ家が亡んで、ここに至る心はありませんでした
桓宣武平蜀,以李勢妹為妾,甚有寵,常著齋後。主始不知,既聞,與數十婢拔白刃襲之。正值李梳頭,髮委藉地,膚色玉曜,不為動容。徐曰:「國破家亡,無心至此。今日若能見殺,乃是本懷。」主慚而退。
桓宣武が蜀を平定し、李勢の妹を妾として、ひどく寵愛し、いつも書斎の後ろに置いていた。
奥方ははじめ知らなかったが、やがて聞いて、数十人の婢とともに白い刃を抜いて彼女を襲いに行った。
ちょうど李氏が髪を梳いているところで、髪は垂れて地に敷かれ、肌の色は玉のように輝いていたが、顔色を動かさず、ゆっくりと言った。「国が破れ家が亡んで、ここに至る心はありませんでした。今日もし殺されることができるなら、それこそもとから抱いていた願いです。」
奥方は恥じて退いた。
夾注 2
續晉陽秋曰:「溫尚明帝女南康長公主。」
『続晋陽秋』に言う、「桓温は明帝の娘の南康長公主を娶った。」
妒記曰:「溫平蜀,以李勢女為妾,郡主兇妒,不即知之。後知,乃拔刃往李所,因欲斫之。見李在窗梳頭,姿貌端麗,徐徐結髮,斂手向主,神色閑正,辭甚悽惋。主於是擲刀前抱之曰:『阿子,我見汝亦憐,何況老奴。』遂善之。」
『妒記』に言う、「桓温が蜀を平定し、李勢の娘を妾としたが、郡主は凶く妬み深く、すぐには知らなかった。のちに知って、そこで刃を抜いて李氏のところへ行き、そのまま彼女を斬ろうとした。李氏が窓辺で髪を梳いているのを見ると、姿も容貌も端正で麗しかった。ゆるゆると髪を結び、手を収めて奥方に向かうその心のさまも顔色も静かで正しく、言葉はひどく物悲しく痛ましかった。奥方はそこで刀を投げて前に進み彼女を抱いて『この子よ、私が見てもまた愛しいのだから、まして老いた奴ならなおさらだ』と言い、ついに彼女を良いものとした。」
22これは私の伯父の門なのに、私を前に入れないとは
庾玉臺,希之弟也。希誅,將戮玉臺。玉臺子婦,宣武弟桓豁女也。徒跣求進,閽禁不內。女厲聲曰:「是何小人?我伯父門,不聽我前!」因突入,號泣請曰:「庾玉臺常因人腳短三寸,當復能作賊不?」宣武笑曰:「壻故自急。」遂原玉臺一門。
庾玉台は庾希の弟である。
庾希が誅されると、玉台も殺されようとしていた。
玉台の子の嫁は、宣武の弟の桓豁の娘である。
裸足で進むことを求めたが、門番が止めて入れなかった。
娘は声を厲しくして言った。「これは何という小者か。これは私の伯父の門なのに、私を前に入れないとは。」
そこで突き入って、声を上げて泣きながら請うた。「庾玉台はいつも人より脚が三寸短いのですから、また盗みなど働けましょうか。」
宣武は笑って言った。「婿のほうは、もとより気が急くものだな。」
そしてついに玉台の一家を許した。
夾注 3
希已見。玉臺,庾友小字。庾氏譜曰:「友字惠彥,司空冰第三子。歷中書郎、東陽太守。」
庾希はすでに見える。玉台は庾友の幼名である。『庾氏譜』に言う、「庾友は字は恵彦、司空庾冰の三番目の子である。中書郎と東陽太守を歴任した。」
庾氏譜曰:「友字弘之,長子宣,娶宣武弟桓豁之女,字女幼。」
『庾氏譜』に言う、「庾友は字は弘之、長子の庾宣が宣武の弟の桓豁の娘を娶ったが、その字は女幼である。」
中興書曰:「桓溫殺庾希弟倩,希聞難而逃,希弟友當伏誅。子婦桓氏女,請溫,得宥。」
『中興書』に言う、「桓温が庾希の弟の庾倩を殺すと、庾希は難を聞いて逃げ、庾希の弟の庾友は誅されるはずであった。子の嫁の桓氏の娘が桓温に請うて、許しを得ることができた。」
23盛んな徳を傷つけるのが心配です
謝公夫人幃諸婢,使在前作伎,使太傅暫見,便下幃。太傅索更開,夫人云:「恐傷盛德。」
謝公の夫人は婢たちを帳で隠し、前で芸をさせたが、太傅には少しだけ見せて、すぐに帳を下ろした。
太傅がもう一度開けるよう求めると、夫人は言った。「盛んな徳を傷つけるのが心配です。」
夾注 1
劉夫人已見。
劉夫人はすでに見える。
24衣が新しいのを経なければ何によって古くなるのでしょうか
桓車騎不好箸新衣。浴後,婦故送新衣與;車騎大怒,催使持去。婦更持還,傳語云:「衣不經新,何由而故?」桓公大笑,箸之。
桓車騎は新しい衣を着るのを好まなかった。
湯浴みのあと、妻がわざと新しい衣を届けると、車騎は大いに怒って、急いで持って行かせた。
妻はもう一度持って戻ってきて、言葉を伝えた。「衣が新しいのを経なければ、何によって古くなるのでしょうか。」
桓公は大いに笑って、これを着た。
夾注 1
桓氏譜曰:「沖娶琅耶王恬女,字女宗。」
『桓氏譜』に言う、「桓沖は琅耶の王恬の娘を娶ったが、その字は女宗である。」
25籠を傾け棚をひっくり返すのに、お前たちが来るとただ平らなだけだ
王右軍郗夫人謂二弟司空、中郎曰:「王家見二謝,傾筐倒庋;見汝輩來,平平爾。汝可無煩復往。」
王右軍の妻の郗夫人が、二人の弟の司空と中郎に言った。「王家の者は二人の謝氏に会うと、籠を傾け棚をひっくり返すほどもてなすのに、お前たちが来るのを見ると、ただ平らなだけだ。お前たちは面倒をかけてまた行かなくてよい。」
夾注 2
司空愔已見。郗曇別傳曰:「曇字重熙,鑒少子。性韻方質,和正沈簡。累遷丹陽尹、北中郎將、徐、兗二州刺史。」
司空の郗愔はすでに見える。『郗曇別伝』に言う、「郗曇は字は重熙、郗鑒の末子である。性の響きは方正で質朴、和やかで正しく、沈んで簡素であった。官を重ねて丹陽尹、北中郎将、徐州と兗州の二州の刺史に至った。」
二謝:安、萬。
二人の謝氏とは謝安と謝万である。
26思いもよらず、天と地の間に王郎などがいようとは
王凝之謝夫人既往王氏,大薄凝之。既還謝家,意大不說。太傅慰釋之曰:「王郎,逸少之子,人材亦不惡,汝何以恨迺爾?」荅曰:「一門叔父,則有阿大、中郎。群從兄弟,則有封、胡、遏、末。不意天壤之中,乃有王郎!」
王凝之の妻の謝夫人は、王氏に嫁いでから、凝之をひどく軽んじた。
謝家に帰ってきてから、気持ちがまったく晴れなかった。
太傅は彼女を慰めてなだめて言った。「王郎は逸少の子で、人としての材もまた悪くないのに、お前はどうして恨むことがそれほどなのか。」
答えた。「一門の叔父には阿大と中郎がおり、多くの従兄弟には封・胡・遏・末がおります。思いもよらず、天と地の間に王郎などがいようとは。」
夾注 1
封胡,謝韶小字。遏末,謝淵小字。韶字穆度,萬子,車騎司馬。淵字叔度,奕第二子,義興太守。時人稱其尤彥秀者。或曰封、胡、遏、末。封謂朗,遏謂玄,末謂韶,朗玄淵,一作胡謂淵,遏謂玄,末謂韶也。
封胡は謝韶の幼名、遏末は謝淵の幼名である。謝韶は字は穆度、謝万の子で、車騎司馬である。謝淵は字は叔度、謝奕の二番目の子で、義興太守である。当時の人がとりわけ優れて秀でた者を称えたのである。ある人は封・胡・遏・末といって、封は謝朗をいい、遏は謝玄をいい、末は謝韶をいうとする。謝朗・謝玄・謝淵であるが、一本には胡は謝淵をいい、遏は謝玄をいい、末は謝韶をいうとする。
27私がもしこれに寄りかかっていなかったら、お前は何によって古い物を見ることができたであろうか
韓康伯母,隱古几毀壞,卞鞠見几惡,欲易之。答曰:「我若不隱此,汝何以得見古物?」
韓康伯の母が寄りかかっていた古い几が壊れ崩れていたので、卞鞠は几が悪いのを見て、これを替えようとした。
答えた。「私がもしこれに寄りかかっていなかったら、お前は何によって古い物を見ることができたであろうか。」
夾注 1
鞠,卞範之。母之外孫也。
鞠は卞範之である。母の外孫である。
28これは塵のような俗事が心を通り過ぎるからなのか、天から与えられた分に限りがあるからなのか
王江州夫人語謝遏曰:「汝何以都不復進,為是塵務經心,天分有限。」
王江州の夫人が謝遏に言った。「お前はどうしてまったく進まなくなったのか。これは塵のような俗事が心を通り過ぎるからなのか、天から与えられた分に限りがあるからなのか。」
夾注 1
夫人,玄之妹。
夫人は謝玄の妹である。
29生きては郗郎と同じ室にいられなかったとしても、死んでどうして同じ穴に入らないことがあろうか
郗嘉賓喪,婦兄弟欲迎妹還,終不肯歸。曰:「生縱不得與郗郎同室,死寧不同穴!」
郗嘉賓が亡くなると、妻の兄弟が妹を迎えて帰らせようとしたが、ついに帰ろうとせず、言った。「生きては郗郎と同じ室にいられなかったとしても、死んでどうして同じ穴に入らないことがあろうか。」
夾注 2
郗氏譜曰:「超娶汝南周閔女,名馬頭。」
『郗氏譜』に言う、「郗超は汝南の周閔の娘を娶ったが、名は馬頭である。」
毛詩曰:「穀則異室,死則同穴。」鄭玄注曰:「穴謂壙中墟也。」
『毛詩』に言う、「生きているうちは室を異にしても、死んだら穴を同じくする。」鄭玄の注に言う、「穴とは壙の中の空いた所をいう。」
30王夫人は心のさまが伸びやかに明るく、もとより林の下の風格があります
謝遏絕重其姊,張玄常稱其妹,欲以敵之。有濟尼者,並遊張、謝二家。人問其優劣?答曰:「王夫人神情散朗,故有林下風氣。顧家婦清心玉映,自是閨房之秀。」
謝遏はその姉をきわめて重んじ、張玄はいつもその妹を称えて、これに匹敵させようとした。
済尼という者があって、張氏と謝氏の二つの家をともに行き来していた。
人々がその優劣を尋ねると、答えた。「王夫人は心のさまが伸びやかに明るく、もとより林の下の風格があります。顧家の嫁は心が清らかで玉のように映り、まさしく閨房の秀でた人です。」
31目と耳に至っては神妙な明らかさに関わるのだから、どうしてすぐ人と隔たることがありましょう
王尚書惠嘗看王右軍夫人,問:「眼耳未覺惡不?」答曰:「髮白齒落,屬乎形骸;至於眼耳,關於神明,那可便與人隔?」
尚書の王恵がかつて王右軍の夫人を見舞って尋ねた。「目と耳はまだ悪くなったとお感じになりませんか。」
答えた。「髪が白くなり歯が抜けるのは、体についてのことです。目と耳に至っては、神妙な明らかさに関わるのだから、どうしてすぐ人と隔たることがありましょう。」
夾注 2
宋書曰:「惠字令明,瑯邪人。歷吏部尚書,贈太常卿。」
『宋書』に言う、「王恵は字は令明、琅邪の人である。吏部尚書を歴任し、太常卿を贈られた。」
婦人集載謝表曰:「妾年九十,孤骸獨存,願蒙哀矜,賜其鞠養。」
『婦人集』に載せる謝する表に言う、「妾は年九十、孤りの骨だけが残っております。哀れみを被って、その養いを賜りたいと願います。」
32私が死なずにいて、この小僧が二代にわたって盗みを働くのを見ることになるとは
韓康伯母殷,隨孫繪之之衡陽,於闔廬洲中逢桓南郡。卞鞠是其外孫,時來問訊。謂鞠曰:「我不死,見此豎二世作賊!」在衡陽數年,繪之遇桓景真之難也,殷撫屍哭曰:「汝父昔罷豫章,徵書朝至夕發。汝去郡邑數年,為物不得動,遂及於難,夫復何言?」
韓康伯の母の殷氏が、孫の韓絵之に従って衡陽に行く途中、闔廬洲の中で桓南郡に出会った。
卞鞠はその外孫で、そのとき来て挨拶した。
卞鞠に言った。「私が死なずにいて、この小僧が二代にわたって盗みを働くのを見ることになるとは。」
衡陽にいた数年のあいだに、韓絵之が桓景真の難に遭ったので、殷氏は屍を撫でて哭して言った。「お前の父は昔豫章をやめるとき、召しの書が朝に着くと夕べに出発した。お前は郡の町を離れて数年、物に縛られて動けないままついに難に及んだのだから、いったいもう何を言おうか。」
夾注 2
韓氏譜曰:「繪之字季倫。父康伯,太常卿。繪之仕至衡陽太守。」
『韓氏譜』に言う、「韓絵之は字は季倫である。父の韓康伯は太常卿である。絵之は官が衡陽太守に至った。」
續晉陽秋曰:「桓亮字景真,大司馬溫之孫。父濟,給事中。叔父玄,篡逆見誅。亮聚眾於長沙,自號湘州刺史。殺太宰甄恭、衡陽前太守韓繪之等十餘人。為劉毅軍人郭珍斬之。」
『続晋陽秋』に言う、「桓亮は字は景真、大司馬桓温の孫である。父の桓済は給事中である。叔父の桓玄が位を奪って逆らい、誅された。桓亮は長沙で衆を集め、自ら湘州刺史と称した。太宰の甄恭と衡陽の前の太守韓絵之ら十人余りを殺した。劉毅の軍人の郭珍に斬られた。」