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巧芸世説新語 巧蓺第二十一

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 14 · 漢字 671字 · 朗読 2.7分

世説新語(世に語られた新しい話) 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1客は葛の頭巾の角で頭を低く下げて石を払い妙は帝より上であった

彈棊始自魏宮內,用妝奩戲。文帝於此戲特妙,用手巾角拂之,無不中。有客自云能,帝使為之。客箸葛巾角,低頭拂棊,妙踰於帝。

弾棋は魏の宮中から始まり、化粧箱を使って遊んだ。

文帝はこの遊びがとりわけ妙で、手巾の角でこれを払うと当たらないものはなかった。

ある客が自分にもできると言ったので、帝は彼にやらせた。

客は葛の頭巾をかぶり、頭を低く下げて石を払うと、その妙は帝よりも上であった。

夾注 2

傅玄《彈棋賦敘》曰:「漢成帝好蹴踘,劉向以謂勞人體,竭人力,非至尊所宜御。乃因其體作彈棋。今觀其道,蹴踘道也。」按玄此言,則彈棋之戲,其來久矣。且《梁冀傳》云:「冀善彈棋,格五。」而此云起魏世,謬矣。

傅玄の「弾棋賦叙」に言う。「漢の成帝は蹴鞠を好んだが、劉向は、人の体を労し人の力を尽くさせるもので、至尊が用いるべきものではないと言った。そこでその形に依って弾棋を作った。今その道を見れば、蹴鞠の道である」。思うに傅玄のこの言葉から見れば、弾棋の遊びはその来たることが久しい。また『梁冀伝』に言う。「冀は弾棋と格五が得意であった」。それなのにここで魏の世に起こったと言うのは誤りである。

《典論》常自敘曰:「戲弄之事,少所喜,唯彈棋略盡其妙。少時嘗為之賦。昔京師少工有二焉:合鄉侯東方世安、張公子,常恨不得與之對也。」《博物志》曰:「帝善彈棋,能用手巾角。時有一書生,又能低頭以所冠葛巾角撇棋也。」

『典論』の常に自ら述べたところに言う。「遊び戯れの事に好むところは少ないが、ただ弾棋だけはその妙をほぼ尽くした。若いころ、かつてこれのために賦を作った。昔、都に若い名手が二人いた。合郷侯の東方世安と張公子である。いつも彼らと向かい合えないことを恨んでいた」。『博物志』に言う。「帝は弾棋が得意で、手巾の角を使うことができた。そのころ一人の書生がいて、やはり頭を低く下げて、かぶった葛の頭巾の角で石を弾くことができた」

2論じる者は軽重の力が偏ったためだと言った

陵雲臺樓觀精巧,先稱平眾木輕重,然後造構,乃無錙銖相負揭。臺雖高峻,常隨風搖動,而終無傾倒之理。魏明帝登臺,懼其勢危,別以大材扶持之,樓即穨壞。論者謂輕重力偏故也。

陵雲台の楼と観は精緻で巧みであった。まず多くの材木の軽重を平らに量り、そのうえで組み立てたので、わずかの重さも互いに負い合い持ち上げ合うことがなかった。

台は高く険しく、いつも風に従って揺れ動いたが、ついに傾いて倒れる道理はなかった。

魏の明帝が台に登り、その姿が危ういのを恐れて、別に大きな材木でこれを支えさせると、楼はすぐに崩れた。

論じる者は、軽重の力が偏ったためだと言った。

夾注 1

《洛陽宮殿簿》曰:「陵雲臺上壁方十三丈,高九尺。樓方四丈,高五丈。棟去地十三丈五尺七寸五分也。」

『洛陽宮殿簿』に言う。「陵雲台の上の壁は方十三丈、高さ九尺である。楼は方四丈、高さ五丈である。棟は地から十三丈五尺七寸五分である」

3二度と書を学ぶな

韋仲將能書。魏明帝起殿,欲安榜,使仲將登梯題之。既下,頭鬢皓然,因敕兒孫:「勿復學書。」

韋仲将は書が巧みであった。

魏の明帝が殿を建て、扁額を掛けようとして、仲将に梯子を登ってこれを書かせた。

降りてくると、髪も鬢も白くなっていたので、それで子や孫に戒めた。「二度と書を学ぶな」

夾注 1

《文章敘錄》曰:「韋誕字仲將,京兆杜陵人,太僕端子。有文學,善屬辭。以光祿大夫卒。」衛恆四體書勢曰:「誕善楷書,魏宮觀多誕所題。明帝立陵霄觀,誤先釘榜,乃籠盛誕,轆轤長絙引上,使就題之。去地二十五丈,誕甚危懼。乃戒子孫,絕此楷法,箸之家令。」

『文章叙録』に言う。「韋誕は字は仲将、京兆杜陵の人で、太僕の韋端の子である。文学があり、辞を作るのが巧みであった。光禄大夫で亡くなった」。衛恒の「四体書勢」に言う。「誕は楷書が巧みで、魏の宮殿や楼観には誕が書いたものが多い。明帝が陵霄観を立てたとき、誤って先に扁額を打ちつけてしまったので、そこで籠に誕を入れ、轆轤で長い綱を引いて上げ、近づいて書かせた。地から二十五丈あり、誕はひどく危ぶみ恐れた。そこで子や孫を戒めてこの楷書の法を絶たせ、それを家の令に書き記した」

4二人の鍾氏が門に入るとたちまち深く心を打たれて悲しみ邸はついに空いて捨てられた

鍾會是荀濟北從舅,二人情好不協。荀有寶劍,可直百萬,常在母鍾夫人許。會善書,學荀手跡,作書與母取劍,仍竊去不還。荀勖知是鍾而無由得也,思所以報之。後鍾兄弟以千萬起一宅,始成,甚精麗,未得移住。荀極善畫,乃潛往畫鍾門堂,作太傅形象,衣冠狀貌如平生。二鍾入門,便大感慟,宅遂空廢。

鍾会は荀済北の母方の従叔父で、二人の情誼は合わなかった。

荀氏には宝剣があり、値は百万に当たるほどで、いつも母の鍾夫人のところに置かれていた。

鍾会は書が巧みで、荀氏の筆跡を学び、手紙を作って母に送って剣を取り出させ、そのまま盗んで返さなかった。

荀勖は鍾会だと知ったが取り戻す手立てがなく、これに報いる方法を考えた。

のちに鍾氏の兄弟が千万をかけて一つの邸を建て、出来上がったばかりではなはだ精緻で美しかったが、まだ移り住んではいなかった。

荀勖は絵がきわめて巧みだったので、そこでひそかに行って鍾氏の門の堂に絵を描き、太傅の姿を作ったが、衣冠も容貌も生きていたときのままであった。

二人の鍾氏が門に入ると、たちまち深く心を打たれて悲しみ、邸はついに空いて捨てられた。

夾注 3

《孔氏志怪》曰:「勖以寶劍付妻。」

『孔氏志怪』に言う。「勖は宝剣を妻に預けた」

《世語》曰:「會善學人書,伐蜀之役,於劍閣要鄧艾章表,皆約其言。令詞旨倨傲,多自矜伐。艾由此被收也。」

『世語』に言う。「会は人の書を学ぶのが巧みで、蜀を伐つ役のとき、剣閣で鄧艾の文書や上表を奪い取り、どれもその言葉を削った。言葉の趣を傲慢にし、自らを誇ることを多くしたので、艾はこれによって捕えられた」

《孔氏志怪》曰:「于時咸謂勖之報會,過於所失數十倍。彼此書畫,巧妙之極。」

『孔氏志怪』に言う。「このとき皆、勖が会に報いたのは失ったものより数十倍を越えたと言った。こちらの書とあちらの絵は、巧妙の極みであった」

5羊氏の一族はのちに書を知る者が多かったが射や碁その他の技は及ばなかった

羊長和博學工書,能騎射,善圍棊。諸羊後多知書,而射、弈餘蓺莫逮。

羊長和は博学で書が巧みであり、騎射に能く、囲碁が得意であった。

羊氏の一族はのちに書を知る者が多かったが、射や碁、その他の技は彼に及ばなかった。

夾注 1

《文字志》曰:「忱性能草書,亦善行隸,有稱於一時。」

『文字志』に言う。「忱は性として草書に能く、また行書と隷書も巧みで、一時に称えられた」

6范宣は見終わって感嘆しはなはだ益があると思ってはじめて絵を重んじた

戴安道就范宣學,視范所為:范讀書亦讀書,范抄書亦抄書。唯獨好畫,范以為無用,不宜勞思於此。戴乃畫南都賦圖;范看畢咨嗟,甚以為有益,始重畫。

戴安道は范宣のもとに行って学び、范宣のすることを見ていた。范宣が書を読めば自分も書を読み、范宣が書を写せば自分も書を写した。

ただ一つ絵を描くことを好んだが、范宣はそれを無用とし、これに思いを労するのはふさわしくないと言った。

戴安道がそこで「南都賦」の図を描くと、范宣は見終わって感嘆し、はなはだ益があると思って、はじめて絵を重んじた。

夾注 1

《中興書》曰:「逵不遠千里,往豫章詣范宣,宣見逵,異之,以兄女妻焉。」

『中興書』に言う。「逵は千里を遠いとせず、豫章に行って范宣を訪ねたが、范宣は逵を見てこれを並でないと思い、兄の娘を妻として与えた」

7顧長康の絵は人が生まれてこのかたなかったものだ

謝太傅云:「顧長康畫,有蒼生來所無。」

謝太傅は言った。「顧長康の絵は、人が生まれてこのかたなかったものだ」

夾注 1

《續晉陽秋》曰:「愷之尤好丹青,妙絕於時。曾以一廚畫寄桓玄,皆其絕者,深所珍惜,悉糊題其前。桓乃發廚後取之,好加理。後愷之見封題如初,而畫並不存,直云:『妙畫通靈,變化而去,如人之登仙矣。』」

『続晋陽秋』に言う。「愷之はとりわけ丹青を好み、妙は当時に絶していた。かつて一つの櫃の絵を桓玄に預けたが、どれもその傑作で、深く大切にしていたので、すべてその前を糊で封じて書きつけておいた。桓玄はそこで櫃の後ろを開けてこれを取り出し、気に入って手入れを加えた。のちに愷之は封と書きつけが初めのままなのに絵が一緒に残っていないのを見て、すぐに言った。『妙なる絵は神霊に通じ、変化して去っていく。人が仙に登るようなものだ』」

8ただ務光だけが卿のこの言葉を免れるだろう

戴安道中年畫行像甚精妙。庾道季看之,語戴云:「神明太俗,由卿世情未盡。」戴云:「唯務光當免卿此語耳。」

戴安道は中年に行像を描いたものがはなはだ精妙であった。

庾道季がこれを見て戴に言った。「神明が俗に過ぎる。卿の世俗の情がまだ尽きていないからだ」

戴は言った。「ただ務光だけが卿のこの言葉を免れるだろう」

夾注 1

《列仙傳》曰:「務光,夏時人也。耳長七寸,好鼓琴,服菖蒲韭根。湯將伐桀,謀於光,光曰:『非吾事也。』湯曰:『伊尹何如?』務光曰:『彊力忍詬,不知其它。』湯克天下,讓於光,光曰:『吾聞無道之世,不踐其土。況讓我乎?』負石自沈於盧水。」

『列仙伝』に言う。「務光は夏の時代の人である。耳の長さは七寸、琴を弾くのを好み、菖蒲と韮の根を食べた。湯王が桀を伐とうとして務光に謀ると、務光は『私の事ではない』と言った。湯王が『伊尹はどうか』と言うと、務光は『力強く謗りを忍ぶが、その他は知らない』と言った。湯王が天下を取り、務光に譲ろうとすると、務光は『私が聞くに、道のない世ではその土を踏まないという。まして私に譲るとは』と言い、石を負って自ら盧水に沈んだ」

9まさにこれがその見識の備えなのだ

顧長康畫裴叔則,頰上益三毛。人問其故?顧曰:「裴楷儁朗有識具,正此是其識具。」看畫者尋之,定覺益三毛如有神明,殊勝未安時。

顧長康は裴叔則を描いて、頬の上に毛を三本足した。

人がその理由を問うと、顧は言った。「裴楷はすぐれて明朗で見識の備えがある。まさにこれがその見識の備えなのだ」

絵を見る者がこれを探してみると、まことに毛を三本足したことで神明があるかのようで、まだ付けなかったときよりずっと勝っていると気づいた。

夾注 1

愷之歷畫古賢,皆為之贊也。

愷之は古の賢者を次々に描き、どれにもそのための賛を作った。

10囲碁を坐隠といい手談という

王中郎以圍棊是坐隱,支公以圍棊為手談。

王中郎は囲碁を坐隠といい、支公は囲碁を手談とした。

夾注 1

《博物志》曰:「堯作圍棋,以教丹朱。」語林曰:「王以圍棋為手談,故其在哀制中,祥後客來,方幅會戲。」

『博物志』に言う。「堯が囲碁を作り、丹朱に教えた」。『語林』に言う。「王は囲碁を手談としたので、彼が喪に服している間、小祥のあと客が来ると、きちんと向かい合って碁を打った」

11ただ瞳を明るく点じ飛白の筆でその上を払えば軽い雲が日を覆っているようになります

顧長康好寫起人形。欲圖殷荊州,殷曰:「我形惡,不煩耳。」顧曰:「明府正為眼爾。但明點童子,飛白拂其上,使如輕雲之蔽日。」

顧長康は人の姿を写し描くのを好んだ。

殷荊州を描こうとすると、殷は言った。「私の姿は醜い。煩わしいことをなさるな」

顧は言った。「明府はまさに目のことを言っておられるだけです。ただ瞳を明るく点じ、飛白の筆でその上を払えば、軽い雲が日を覆っているようになります」

夾注 3

《續晉陽秋》曰:「愷之圖寫特妙。」

『続晋陽秋』に言う。「愷之は写し描くことがとりわけ妙であった」

仲堪耳少目故也。

仲堪が片目を欠いていたからである。

日,一作月。

「日」は、ある本では「月」となっている。

12この人は丘や谷の中に置くのがふさわしい

顧長康畫謝幼輿在巖石裏。人問其所以?顧曰:「謝云:『一丘一壑,自謂過之。』此子宜置丘壑中。」

顧長康は謝幼輿を巌や石の中に描いた。

人がその理由を問うと、顧は言った。「謝は『一つの丘と一つの谷では、自分のほうが彼に勝ると思う』と言った。この人は丘や谷の中に置くのがふさわしい」

13神を伝え姿を写すのはまさにこの中にある

顧長康畫人,或數年不點目精。人問其故?顧曰:「四體妍蚩,本無關於妙處;傳神寫照,正在阿堵中。」

顧長康が人を描くとき、ときには数年のあいだ瞳を点じなかった。

人がその理由を問うと、顧は言った。「四肢の美しさ醜さは、もとより妙なるところとは関わりがない。神を伝え姿を写すのは、まさにこの中にある」

14手で五弦を奏するのはやさしいが目で帰る雁を見送るのは難しい

顧長康道畫:「手揮五絃易,目送歸鴻難。」

顧長康が絵について言った。「手で五弦を奏するのはやさしいが、目で帰る雁を見送るのは難しい」