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術解世説新語 術解第二十

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 11 · 漢字 808字 · 朗読 3.2分

世説新語(世に語られた新しい話) 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1そこで阮咸の神のような見識に服した

荀勖善解音聲,時論謂之闇解。遂調律呂,正雅樂。每至正會,殿庭作樂,自調宮商,無不諧韻。阮咸妙賞,時謂神解。每公會作樂,而心謂之不調。既無一言直勖,意忌之,遂出阮為始平太守。後有一田父耕於野,得周時玉尺,便是天下正尺。荀試以校己所治鐘鼓、金石、絲竹,皆覺短一黍,於是伏阮神識。

荀勖は音をよく解し、当時の論者はこれを闇解と言った。

そこでついに律呂を調え、雅楽を正した。

正月の朝会のたびに殿庭で音楽を奏するが、自ら宮と商を調えると、調和しない響きはなかった。

阮咸は見立てが妙であったので、当時これを神解と言った。

公の集まりで音楽を奏するたびに、心のうちではこれを調っていないと思っていた。

ひと言も荀勖に直言したことはなかったが、荀勖は心でこれを忌み、ついに阮咸を出して始平の太守とした。

のちに一人の農夫が野を耕していて周代の玉尺を得たが、それがまさに天下の正しい尺であった。

荀勖が試みに自分の整えた鐘・鼓・金石・糸竹をこれで校べてみると、どれも黍一粒ほど短いことがわかり、そこで阮咸の神のような見識に服した。

夾注 1

《晉後略》曰:「鐘律之器,自周之未廢,而漢成、哀之間,諸儒修而治之。至後漢末,復隳矣。魏氏使協律知音者杜夔造之,不能考之典禮,徒依于時絲管之聲、時之尺寸而制之,甚乖失禮度。於是世祖命中書監荀勖依典制,定鐘律。既鑄律管,募求古器,得周時玉律數枚,比之不差。又諸郡舍倉庫,或有漢時故鐘,以律命之,皆不叩而應,聲響韻合,又若俱成。」《晉諸公贊》曰:「律成,散騎侍郎阮咸謂『勖所造聲高、高則悲。夫亡國之音哀以思,其民困。今聲不合雅,懼非德政中和之音,必是古今尺有長短所致。然今鐘磬是魏時杜夔所造,不與勖律相應,音聲舒雅,而久不知夔所造,時人為之,不足改易。』勖性自矜,乃因事左遷咸為始平太守,而病卒。後得地中古銅尺,校度勖今尺,短四分,方明咸果解音,然無能正者。」干寶《晉紀》曰:「荀勖始造正德大象之舞,以魏杜夔所制律呂,校大樂本音不和。後漢至魏,尺長於古四分有餘,而夔據之,是以失韻。乃依周禮,積粟以起度量,以度古器,符于本銘,遂以為式,用之郊廟。」

『晋後略』に言う。「鐘と律の器は周の末から廃れ、漢の成帝・哀帝の間に諸儒が修めて整えた。後漢の末に至って再び崩れた。魏は律を協え音を知る杜夔にこれを造らせたが、典礼を考えることができず、ただ当時の糸や管の音、当時の尺寸に依って造ったので、礼の度をはなはだ損ない失った。そこで世祖は中書監の荀勖に命じ、典制に依って鐘と律を定めさせた。律管を鋳たうえで古い器を広く求め、周代の玉律数枚を得て比べてみると違わなかった。また諸郡の家や倉庫にまれに漢代の古い鐘があり、律でこれを呼ぶと、どれも叩かないのに応じ、音と響きが合って、ともに作られたかのようであった」。『晋諸公賛』に言う。「律が成ると、散騎侍郎の阮咸が言った。『荀勖の造ったものは音が高く、高ければ悲しい。およそ亡国の音は哀しく思い沈み、その民は苦しむ。今の音は雅に合わないので、徳のある政の中正で和やかな音ではなく、必ず古今の尺に長短の差があってそうなったのではないかと恐れる。しかし今の鐘と磬は魏の杜夔が造ったもので、荀勖の律と相応ぜず、音はのびやかで雅である。それなのに長く杜夔が造ったことを知らず、当時の人が造ったものだと言うので、改め変えるには足らない』。荀勖は自らを誇る性質だったので、事に因せて阮咸を始平の太守に左遷し、阮咸は病で亡くなった。のちに地中から古い銅尺を得て荀勖の今の尺を校べると四分短く、そこで阮咸が果たして音を解していたことが明らかになったが、正せる者はいなかった」。干宝の『晋紀』に言う。「荀勖が初めて正徳・大象の舞を造ったとき、魏の杜夔が制した律呂で大楽の本来の音を校べると調和しなかった。後漢から魏に至って尺が古より四分あまり長く、杜夔はこれに依ったので、そのため響きを失った。そこで『周礼』に依り、粟を積んで度量を起こし、これで古い器を測ると元の銘に符合したので、ついにこれを式として郊廟に用いた」

2これは働き疲れた薪で炊いたものです

荀勖嘗在晉武帝坐上食筍進飯,謂在坐人曰:「此是勞薪炊也。」坐者未之信,密遣問之,實用故車腳。

荀勖がかつて晋の武帝の席で筍を食べ、飯を供されたとき、同席の人に言った。「これは働き疲れた薪で炊いたものです」

同席の者たちはこれを信じず、ひそかに人を遣わして尋ねさせると、まことに古い車の脚を使っていた。

3それでもなお腕を折った三公が出るでしょう

人有相羊祜父墓,後應出受命君。祜惡其言,遂掘斷墓後,以壞其勢。相者立視之曰:「猶應出折臂三公。」俄而祜墜馬折臂,位果至公。

ある人が羊祜の父の墓を見て、のちに必ず天命を受ける君主が出るだろうと言った。

羊祜はその言葉を憎み、ついに墓の後ろを掘り切ってその勢いを壊した。

墓を見た者が立ってこれを見て言った。「それでもなお腕を折った三公が出るでしょう」

やがて羊祜は馬から落ちて腕を折り、位は果たして公に至った。

夾注 1

《幽明錄》曰:「羊祜工騎乘。有一兒五六歲,端明可喜。掘墓之後,兒即亡。羊時為襄陽都督,因盤馬落地,遂折臂。于時士林咸歎其忠誠。」

『幽明録』に言う。「羊祜は馬に乗ることに長けていた。五、六歳の子が一人いて、端正で明るく、喜ばしいほどであったが、墓を掘ったのちにその子はすぐに亡くなった。羊祜はそのとき襄陽の都督であったが、馬を乗り回していて地に落ち、ついに腕を折った。このとき士人たちは皆その忠誠を嘆じた」

4これはきっと泥除けを惜しんでいるのだ

王武子善解馬性。嘗乘一馬,著連乾障泥。前有水,終日不肯渡。王云:「此必是惜障泥。」使人解去,便徑渡。

王武子は馬の性をよく解した。

かつて一頭の馬に乗ったが、継ぎ合わせた泥除けを着けていた。

前に水があったが、一日中渡ろうとしなかった。

王武子は言った。「これはきっと泥除けを惜しんでいるのだ」

人に命じて外させると、すぐにまっすぐ渡った。

夾注 1

《語林》曰:「武子性愛馬,亦甚別之。故杜預道『王武子有馬癖,和長輿有錢癖。』武帝問杜預:『卿有何癖?』對曰:『臣有左傳癖。』」

『語林』に言う。「武子は性として馬を愛し、またよくこれを見分けた。それで杜預は『王武子には馬の癖があり、和長輿には銭の癖がある』と言った。武帝が杜預に『卿には何の癖があるか』と問うと、答えて『臣には左伝の癖があります』と言った」

5嗣祖よこれが福でないとどうしてわかろうか

陳述為大將軍掾,甚見愛重。及亡,郭璞往哭之,甚哀,乃呼曰:「嗣祖,焉知非福!」俄而大將軍作亂,如其所言。

陳述は大将軍の属官となり、はなはだ愛され重んじられた。

亡くなると、郭璞が行って彼を哭し、はなはだ哀しんで、こう呼びかけた。「嗣祖よ、これが福でないとどうしてわかろうか」

やがて大将軍が乱を起こし、その言ったとおりになった。

夾注 1

《陳氏譜》曰:「述字嗣祖,潁川許昌人。有美名。」

『陳氏譜』に言う。「述は字は嗣祖、潁川許昌の人である。美しい名があった」

6天子が生まれるのではなく天子のお尋ねを招くことができるだけです

晉明帝解占塚宅,聞郭璞為人葬,帝微服往看。因問主人:「何以葬龍角?此法當滅族!」主人曰:「郭云:『此葬龍耳,不出三年,當致天子。』」帝問:「為是出天子邪?」答曰:「非出天子,能致天子問耳。」

晋の明帝は墓や家の地を占うことを解しており、郭璞が人のために葬儀をしていると聞いて、帝はみすぼらしい服で出かけて見た。

そこで家の主人に尋ねた。「どうして竜の角に葬るのか。この法では一族が滅びるはずだ」

主人は言った。「郭璞は『これは竜の耳に葬るのです。三年のうちに必ず天子を招くでしょう』と言いました」

帝は尋ねた。「それは天子が生まれるということか」

答えた。「天子が生まれるのではなく、天子のお尋ねを招くことができるだけです」

夾注 1

青鳥子相冢書曰:「葬龍之角,暴富貴,後當滅門。」

『青烏子相冢書』に言う。「竜の角に葬れば、にわかに富み貴くなるが、のちには必ず家が滅びる」

7やがて陸になるだろう

郭景純過江,居于暨陽,墓去水不盈百步,時人以為近水。景純曰:「將當為陸。」今沙漲,去墓數十里皆為桑田。其詩曰:「北阜烈烈,巨海混混;壘壘三墳,唯母與昆。」

郭景純は江を渡って暨陽に住んだが、墓が水から百歩に満たないところにあったので、当時の人は水に近すぎると思った。

景純は言った。「やがて陸になるだろう」

今は砂が増し、墓から数十里の間がすべて桑畑になった。

その詩に言う。「北の丘は烈しく、大海はうねりうねる。重なり積もる三つの墳は、ただ母と兄のみ」

夾注 1

《璞別傳》曰:「璞少好經術,明解卜筮。永嘉中,海內將亂,璞投策歎曰:『黔黎將同異類矣!』便結親暱十餘家,南渡江,居於暨陽。」

『璞別伝』に言う。「璞は若いころから経術を好み、卜筮を明らかに解した。永嘉のころ、海内が乱れようとしていたとき、璞は筮竹を投げて嘆き、『黔首の民はやがて異類と同じになるだろう』と言った。そこで親しい者十余家をまとめて南へ江を渡り、暨陽に住んだ」

8君はまた罪を樹木に押しつけるのか

王丞相令郭璞試作一卦,卦成,郭意色甚惡,云:「公有震厄!」王問:「有可消伏理不?」郭曰:「命駕西出數里,得一柏樹,截斷如公長,置床上常寢處,災可消矣。」王從其語。數日中,果震柏粉碎,子弟皆稱慶。大將軍云:「君乃復委罪於樹木。」

王丞相が郭璞に試みに一つの卦を立てさせた。

卦が成ると、郭璞は気持ちも顔色もはなはだ悪く、こう言った。「公には雷の災いがあります」

王丞相は尋ねた。「消し伏せる道理はあるか」

郭璞は言った。「車を命じて西へ数里出れば、一本の柏の木が見つかります。公の身の丈ほどに切り取って、いつもお休みになる寝床の上に置けば、災いは消えるでしょう」

王丞相はその言葉に従った。数日のうちに、果たして柏が雷に打たれて粉々になり、子弟たちは皆めでたいことだと言った。

大将軍は言った。「君はまた罪を樹木に押しつけるのか」

夾注 1

王隱《晉書》曰:「璞消災轉禍,扶厄擇勝,時人咸言京、管不及。」

王隠の『晋書』に言う。「璞は災いを消し禍を転じ、厄を支えてよりよいほうを選んだので、当時の人は皆、京房や管輅も及ばないと言った」

9よいものを青州従事と言い悪いものを平原督郵と言った

桓公有主簿善別酒,有酒輒令先嘗。好者謂「青州從事」,惡者謂「平原督郵」。青州有齊郡,平原有鬲縣。「從事」言「到臍」,「督郵」言在「鬲上住」。

桓公のもとに酒をよく見分ける主簿がいて、酒があるとすぐに先に味見させた。

よいものは「青州従事」と言い、悪いものは「平原督郵」と言った。

青州には斉郡があり、平原には鬲県がある。「従事」は臍に至るという意味であり、「督郵」は膈の上に止まるという意味である。

夾注 1

斉(齊)と臍、鬲と膈が同じ音であることにかけた言葉である。 ― 訳者

10君侯のお苦しみはまさに精進が過ぎたために起きたものにすぎません

郗愔信道,甚精勤。常患腹內惡,諸醫不可療,聞于法開有名,往迎之。既來,便脈云:「君侯所患,正是精進太過所致耳。」合一劑湯與之。一服,即大下,去數段許紙如拳大;剖看,乃先所服符也。

郗愔は道を信じ、はなはだ精しく勤めた。

いつも腹の中の病に苦しみ、どの医者も治せなかったが、于法開に名があると聞いて、出かけて彼を迎えてきた。

来ると、すぐに脈を取って言った。「君侯のお苦しみは、まさに精進が過ぎたために起きたものにすぎません」

一剤の湯薬を調えて与えた。

一服飲むとすぐに大きく下り、拳ほどの大きさの紙片がいくつも出た。割って見ると、以前に飲んだ護符であった。

夾注 1

《晉書》曰:「法開善醫術,嘗行,莫投主人,妻產,而兒積日不墮。法開曰:『此易治耳。』殺一肥羊,食十餘臠而針之。須臾兒下,羊膋裹兒出。其精妙如此。」

『晋書』に言う。「法開は医術に長けていた。かつて旅をしていて日が暮れ、ある家に宿を取ったが、その妻が子を産もうとして子が何日も下りなかった。法開は『これはたやすく治るだけだ』と言い、肥えた羊一頭を殺して十切れあまりの肉を食べさせ、鍼を打った。しばらくして子が下りてきたが、羊の脂が子を包んで出てきた。その精妙さはこのようであった」

11そこで医方の書をすべて焼いた

殷中軍妙解經脉,中年都廢。有常所給使,忽叩頭流血。浩問其故?云:「有死事,終不可說。」詰問良久,乃云:「小人母年垂百歲,抱疾來久,若蒙官一脈,便有活理。訖就屠戮無恨。」浩感其至性,遂令舁來,為診脉處方。始服一劑湯,便愈。於是悉焚經方。

殷中軍は経脈を妙に解していたが、中年になってすっかりやめた。

いつも使い走りをしていた者がいて、不意に頭を床に打ちつけて血を流した。

殷浩がその理由を問うと、言った。「死ぬべき事があって、とうてい申し上げられません」

長いあいだ問い詰めると、ようやく言った。「わたくしの母は年が百に近く、病を抱えて久しいのですが、もし旦那さまに一度脈を見ていただければ、生きる道があります。それが済めば殺されても恨みはありません」

殷浩はその至誠に心を動かされ、ついに担いで来させ、脈を診て処方を書いた。

はじめの一剤の湯薬を飲むとすぐに治った。そこで医方の書をすべて焼いた。