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任誕世説新語 任誕第二十三

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 54 · 漢字 3,449字 · 朗読 13.8分

世説新語(世に語られた新しい話) 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1世に竹林の七賢と言われた

陳留阮籍,譙國嵇康,河內山濤,三人年皆相比,康年少亞之。預此契者:沛國劉伶,陳留阮咸,河內向秀,琅邪王戎。七人常集于竹林之下,肆意酣暢,故世謂「竹林七賢」。

陳留の阮籍、譙国の嵇康、河内の山濤は、三人とも年がほぼ同じで、嵇康が少し下であった。

この交わりに加わったのは、沛国の劉伶、陳留の阮咸、河内の向秀、琅邪の王戎である。

七人はいつも竹林の下に集まり、思いのままに飲んで心ゆくまで楽しんだので、世に「竹林の七賢」と言われた。

夾注 1

晉陽秋曰:「于時風譽扇于海內,至于今詠之。」

『晋陽秋』に言う。「このとき風評が海内に扇がれ、今に至るまでこれを詠じている」

2阮籍は飲み食いをやめず顔色も気色も平然としていた

阮籍遭母喪,在晉文王坐,進酒肉。司隸何曾亦在坐,曰:「明公方以孝治天下,而阮籍以重喪,顯於公坐,飲酒食肉,宜流之海外,以正風教。」文王曰:「嗣宗毀頓如此,君不能共憂之,何謂?且有疾而飲酒食肉,固喪禮也!」籍飲噉不輟,神色自若。

阮籍が母の喪にあって、晋の文王の席で酒と肉を供された。

司隷の何曾も席にいて言った。「明公はまさに孝によって天下を治めておられるのに、阮籍は重い喪にありながら、公の席で公然と酒を飲み肉を食べています。海の外に流して風俗と教化を正すべきです」

文王は言った。「嗣宗は身をこれほど損ない衰えさせているのに、君はともにこれを心配することができないのか。何を言うのだ。それに、病があって酒を飲み肉を食べるのは、もとより喪の礼である」

阮籍は飲み食いをやめず、顔色も気色も平然としていた。

夾注 2

晉諸公贊曰:「何曾字穎考,陳郡陽夏人。父夔,魏太僕。曾以高雅稱,加性仁孝,累遷司隸校尉。用心甚正,朝廷師之。仕晉至太宰。」

『晋諸公賛』に言う。「何曾は字は穎考、陳郡陽夏の人である。父の夔は魏の太僕である。曾は高雅さで称えられ、そのうえ性は仁孝で、累進して司隷校尉に至った。心の用い方がはなはだ正しく、朝廷はこれを師とした。晋に仕えて太宰に至った」

干寶晉紀曰:「何曾嘗謂阮籍曰:『卿恣情任性,敗俗之人也。今忠賢執政,綜核名實,若卿之徒,何可長也!』復言之於太祖,籍飲噉不輟。故魏、晉之閒,有被髮夷傲之事,背死忘生之人,反謂行禮者,籍為之也。」魏氏春秋曰:「籍性至孝,居喪雖不率常禮,而毀幾滅性。然為文俗之士何曾等深所讎疾。大將軍司馬昭愛其通偉,而不加害也。」

干宝の『晋紀』に言う。「何曾がかつて阮籍に言った。『卿は情を恣にし性に任せ、俗を敗る人である。今、忠賢が政を執り、名と実を綜べ核べている。卿のような徒が、どうして長らえようか』。重ねてこれを太祖に言ったが、籍は飲み食いをやめなかった。だから魏・晋の間に、髪を振り乱して夷狄のように傲る事や、死を背き生を忘れる人がいて、かえって礼を行う者だと言われたのは、籍がこれを作ったのである」。『魏氏春秋』に言う。「籍は性がきわめて孝で、喪に居ては常の礼に従わなかったが、身を損なってほとんど命を絶つほどであった。しかし文俗の士である何曾らに深く仇のように憎まれた。大将軍の司馬昭はその通達で偉いところを愛して、害を加えなかった」

3婦人の言葉は謹んで聴いてはなりません

劉伶病酒,渴甚,從婦求酒。婦捐酒毀器,涕泣諫曰:「君飲太過,非攝生之道,必宜斷之!」伶曰:「甚善。我不能自禁,唯當祝鬼神,自誓斷之耳!便可具酒肉。」婦曰:「敬聞命。」供酒肉於神前,請伶祝誓。伶跪而祝曰:「天生劉伶,以酒為名,一飲一斛,五斗解酲。婦人之言,慎不可聽。」便引酒進肉,隗然已醉矣。

劉伶が酒の病で喉がひどく渇き、妻に酒を求めた。

妻は酒を捨て器を壊し、涙を流して諫めた。「あなたの飲み方はあまりに過ぎて、生を養う道ではありません。必ずこれを断つべきです」

劉伶は言った。「たいへんよい。私は自分で禁じられないから、ただ鬼神に祈って自ら誓って断つしかない。すぐ酒と肉を用意してくれ」

妻は言った。「謹んで命を承ります」

酒と肉を神前に供え、劉伶に祈って誓うよう請うた。

劉伶は跪いて祈った。「天が劉伶を生み、酒をもって名とした。一度飲めば一斛、五斗で二日酔いを解く。婦人の言葉は、謹んで聴いてはならぬ」

そのまま酒を引き寄せ肉を取り、崩れるようにもう酔ってしまった。

夾注 2

毛公注曰:「酒病曰酲。」

毛公の注に言う。「酒の病を酲という」

見竹林七賢論。

『竹林七賢論』に見える。

4だから一日中ともに飲んで酔った

劉公榮與人飲酒,雜穢非類,人或譏之。答曰:「勝公榮者,不可不與飲;不如公榮者,亦不可不與飲;是公榮輩者,又不可不與飲。」故終日共飲而醉。

劉公栄が人と酒を飲むのに、入り混じって汚く同類でない者ばかりだったので、ある人がこれをそしった。

答えて言った。「公栄より勝る者とは、飲まずにいられない。公栄に及ばない者とも、やはり飲まずにいられない。公栄と同じ程度の者とも、また飲まずにいられない」

だから一日中ともに飲んで酔った。

夾注 1

劉氏譜曰:「昶字公榮,沛國人。」晉陽秋曰:「昶為人通達,仕至兗州刺史。」

『劉氏譜』に言う。「昶は字は公栄、沛国の人である」。『晋陽秋』に言う。「昶は人柄が通達しており、官は兗州刺史に至った」

5厨房に酒が数百斛貯えてあり阮籍はそこで歩兵校尉になることを求めた

步兵校尉缺,廚中有貯酒數百斛,阮籍乃求為步兵校尉。

歩兵校尉の職が空いたが、厨房に貯えた酒が数百斛あったので、阮籍はそこで歩兵校尉になることを求めた。

夾注 1

文士傳曰:「籍放誕有傲世情,不樂仕宦。晉文帝親愛籍,恒與談戲,任其所欲,不迫以職事。籍常從容曰:『平生曾遊東平,樂其土風,願得為東平太守。』文帝說,從其意。籍便騎驢徑到郡,皆壞府舍諸壁障,使內外相望,然後教令清寧。十餘日,便復騎驢去。後聞步兵廚中有酒三百石,忻然求為校尉。於是入府舍,與劉伶酣飲。」竹林七賢論又云:「籍與伶共飲步兵廚中,並醉而死。」此好事者為之言。籍景元中卒,而劉伶太始中猶在。

『文士伝』に言う。「籍は放縦で世を傲る心があり、仕官を楽しまなかった。晋の文帝は籍を親しみ愛し、いつもともに語り戯れ、その望むところに任せて、職務で追い立てなかった。籍はいつも静かに言った。『かつて東平に遊んでその土地の風を楽しみました。東平の太守になりたいと思います』。文帝は喜んでその意に従った。籍はすぐに驢馬に乗ってまっすぐ郡に着き、府の建物の壁や仕切りをすべて壊して内と外が見通せるようにし、そのうえで教えと令が清らかに安らかになった。十日あまりで、すぐにまた驢馬に乗って去った。のちに歩兵の厨房に酒が三百石あると聞いて、喜んで校尉になることを求めた。そこで府の建物に入り、劉伶とともに心ゆくまで飲んだ」。『竹林七賢論』にはまた言う。「籍は伶とともに歩兵の厨房で飲み、二人とも酔って死んだ」。これは事を好む者の作った言葉である。籍は景元のころに亡くなり、劉伶は太始のころにまだ生きていた。

6諸君はどうして私の褌の中に入ってくるのか

劉伶恆縱酒放達,或脫衣裸形在屋中,人見譏之。伶曰:「我以天地為棟宇,屋室為㡓衣,諸君何為入我㡓中?」

劉伶はいつも酒を恣にして放縦で、ときには衣を脱いで裸で部屋の中にいたので、人が見てこれをそしった。

劉伶は言った。「私は天地を棟と軒とし、部屋を褌としているのに、諸君はどうして私の褌の中に入ってくるのか」

夾注 1

鄧粲晉紀曰:「客有詣伶,值其裸袒,伶笑曰:『吾以天地為宅舍,以屋宇為㡓衣,諸君自不當入我㡓中,又何惡乎?』其自任若是。」

鄧粲の『晋紀』に言う。「客が伶を訪ねて、彼が裸でいるのに出会うと、伶は笑って言った。『私は天地を住まいとし、軒を褌としているのだから、諸君はもとより私の褌の中に入るべきではないのに、また何を嫌うのか』。その自らに任せるさまはこのようであった」

7礼がどうして我らのような者のために設けられたものか

阮籍嫂嘗還家,籍見與別。或譏之。籍曰:「禮豈為我輩設也?」

阮籍の兄嫁がかつて実家に帰るとき、籍は会って別れを告げた。

ある人がこれをそしると、籍は言った。「礼がどうして我らのような者のために設けられたものか」

夾注 1

曲禮:「嫂叔不通問。」故譏之。

「曲礼」に「兄嫁と夫の弟は安否を通じない」とあるので、これをそしったのである。

8夫は初めはかなりこれを疑ったがついに他の意はなかった

阮公鄰家婦有美色,當壚酤酒。阮與王安豐常從婦飲酒,阮醉,便眠其婦側。夫始殊疑之,伺察,終無他意。

阮公の隣家の妻は美しい色があり、酒場に座って酒を売っていた。

阮籍は王安豊といつもその妻のもとで酒を飲んだが、籍は酔うとそのまま妻の傍らで眠った。

夫は初めはかなりこれを疑って様子をうかがい観察したが、ついに他の意はなかった。

夾注 1

王隱晉書曰:「籍鄰家處子有才色,未嫁而卒。籍與無親,生不相識,往哭,盡哀而去。其達而無檢,皆此類也。」

王隠の『晋書』に言う。「籍の隣家の処女に才と色があったが、嫁がないうちに亡くなった。籍は親しくもなく、生きているうちに互いに知り合いでもなかったが、行って哭し、哀しみを尽くして去った。その通達して検束のないさまは、みなこういう類である」

9阮籍は母を葬るとき肥えた豚を蒸し酒を二斗飲んだ

阮籍當葬母,蒸一肥豚,飲酒二斗,然後臨訣,直言「窮矣」!都得一號,因吐血,廢頓良久。

阮籍が母を葬ろうとするとき、肥えた豚一頭を蒸し、酒を二斗飲んだうえで最後の別れに臨み、ただ「尽きた」と言った。

ようやく一声泣き声を上げただけで、そのまま血を吐き、長いあいだ打ちのめされていた。

夾注 1

鄧粲晉紀曰:「籍母將死,與人圍棋如故,對者求止,籍不肯,留與決賭。既而飲酒三斗,舉聲一號,嘔血數升,廢頓久之。」

鄧粲の『晋紀』に言う。「籍の母が死にかけているとき、人と碁を打つことを以前のままにしていた。相手がやめようと求めたが、籍は承知せず、引き留めて勝負を決した。そのあと酒を三斗飲み、声を上げて一度叫び、血を数升吐いて、長いあいだ打ちのめされていた」

10まだ俗を免れられないのでとりあえず同じようにしているだけだ

阮仲容、步兵居道南,諸阮居道北。北阮皆富,南阮貧。七月七日,北阮盛曬衣,皆紗羅錦綺。仲容以竿挂大布犢鼻㡓於中庭。人或怪之,答曰:「未能免俗,聊復爾耳!」

阮仲容と歩兵は道の南に住み、ほかの阮氏たちは道の北に住んでいた。

北の阮氏はみな豊かで、南の阮氏は貧しかった。

七月七日、北の阮氏が盛んに衣を日に干したが、どれも紗や羅や錦や綺であった。

仲容は竿で粗い布の褌を中庭に掛けた。

ある人がこれを怪しむと、答えた。「まだ俗を免れられないので、とりあえず同じようにしているだけだ」

夾注 2

咸也。

咸である。

竹林七賢論曰:「諸阮前世皆儒學,善居室,唯咸一家尚道棄事,好酒而貧。舊俗:七月七日,法當曬衣,諸阮庭中,爛然錦綺。咸時總角,乃豎長竿,掛犢鼻㡓也。」

『竹林七賢論』に言う。「阮氏たちは前の世代はみな儒学を修め、家の暮らしを上手に営んだが、ただ咸の一家だけは道を尚んで事を棄て、酒を好んで貧しかった。古い風習では、七月七日には決まりとして衣を日に干すので、阮氏たちの庭の中は錦や綺で輝くばかりであった。咸はそのとき総角の子どもであったが、そこで長い竿を立て、褌を掛けたのである」

11阮籍は世俗の外の人だから礼の制度を尊ばず我らは世俗の中の人だから儀礼の則に自ら身を置きます

阮步兵喪母,裴令公往弔之。阮方醉,散髮坐床,箕踞不哭。裴至,下席於地,哭弔喭畢,便去。或問裴:「凡弔,主人哭,客乃為禮。阮既不哭,君何為哭?」裴曰:「阮方外之人,故不崇禮制;我輩俗中人,故以儀軌自居。」時人嘆為兩得其中。

阮歩兵が母の喪にあい、裴令公が行ってこれを弔った。

籍はちょうど酔っていて、髪を振り乱して床に座り、足を投げ出して哭かなかった。

裴楷は着くと席を地に下ろし、哭して弔いの言葉を述べ終えると、すぐに去った。

ある人が裴楷に問うた。「およそ弔いでは、主人が哭して、それから客が礼を行うものです。阮籍がすでに哭かなかったのに、あなたはどうして哭いたのですか」

裴楷は言った。「阮籍は世俗の外の人だから礼の制度を尊ばない。我らは世俗の中の人だから儀礼の則に自ら身を置くのだ」

当時の人は、二人ともその中を得たと感嘆した。

夾注 3

籍也。

籍である。

楷也。

楷である。

名士傳曰:「阮籍喪親,不率常禮,裴楷往弔之,遇籍方醉,散髮箕踞,旁若無人。楷哭泣盡哀而退,了無異色,其安同異如此。」戴逵論之曰:「若裴公之制弔,欲冥外以護內,有達意也,有弘防也。」

『名士伝』に言う。「阮籍が親の喪にあって常の礼に従わなかったとき、裴楷が行ってこれを弔ったが、籍がちょうど酔って髪を振り乱し足を投げ出し、傍らに人がいないかのようであるのに出会った。裴楷は哭き泣いて哀しみを尽くして退いたが、少しも変わった顔色はなく、その同と異に安んじるさまはこのようであった」。戴逵がこれを論じて言う。「裴公が弔いを行ったようなさまは、外を暗くして内を護ろうとしたもので、意の通達したところがあり、広く防ぐところがある」

12そのとき豚の群れが来て飲むとそのまま上をすくい取って一緒に飲んだ

諸阮皆能飲酒,仲容至宗人閒共集,不復用常桮斟酌,以大甕盛酒,圍坐,相向大酌。時有群豬來飲,直接去上,便共飲之。

阮氏たちはみな酒を飲むことができた。

仲容が一族の間に来てともに集まると、もう常の杯で酌むことをせず、大きな甕に酒を盛って囲んで座り、向かい合って大きく酌んだ。

そのとき豚の群れが来て飲んだが、そのまま上をすくい取っただけで、すぐに一緒に飲んだ。

13仲容がもうそれに加わっているので卿は重ねてそうしてはならない

阮渾長成,風氣韻度似父,亦欲作達。步兵曰:「仲容已預之,卿不得復爾。」

阮渾が成長すると、風格も気韻も度量も父に似て、やはり放達なふるまいをしようとした。

歩兵は言った。「仲容がもうそれに加わっている。卿は重ねてそうしてはならない」

夾注 1

竹林七賢論曰:「籍之抑渾,蓋以渾未識己之所以為達也。後咸兄子簡,亦以曠達自居。父喪,行遇大雪,寒凍,遂詣浚儀令,令為它賓設黍臛,簡食之,以致清議,廢頓幾三十年。是時竹林諸賢之風雖高,而禮教尚峻,迨元康中,遂至放蕩越禮。樂廣譏之曰:『名教中自有樂地,何至於此?』樂令之言有旨哉!謂彼非玄心,徒利其縱恣而已。」

『竹林七賢論』に言う。「籍が渾を抑えたのは、思うに渾が自分の達たる所以をまだ知らなかったからである。のちに咸の兄の子の簡も、曠達をもって自ら身を置いた。父の喪のとき、道を行って大雪に遭い、寒さに凍えて、ついに浚儀の令を訪ねたが、令が他の客のために黍の羹を設けていたのを簡が食べてしまい、それで清議を招き、打ちのめされたことがほぼ三十年であった。このとき竹林の諸賢の風は高かったが、礼教はなお峻しかった。元康のころに至って、ついに放蕩して礼を越えるに至った。楽広はこれをそしって言った。『名教の中にもおのずから楽しい地があるのに、どうしてここまで至るのか』。楽令の言葉には趣があるな。彼らは玄遠な心があるのではなく、ただその恣にすることを得としただけだと言ったのである」

14互いに向かい合って客と主人となり少しも変わった顔色はなかった

裴成公婦,王戎女。王戎晨往裴許,不通徑前。裴從床南下,女從北下,相對作賓主,了無異色。

裴成公の妻は王戎の娘である。

王戎が朝早く裴のところに行き、取り次ぎを通さずまっすぐ進み入った。

裴は床の南側から下り、娘は北側から下りて、互いに向かい合って客と主人となり、少しも変わった顔色はなかった。

夾注 1

裴氏家傳曰:「頠取戎長女。」

『裴氏家伝』に言う。「頠は戎の長女を娶った」

15人の種は失ってはならない

阮仲容先幸姑家鮮卑婢。及居母喪,姑當遠移,初云當留婢,既發,定將去。仲容借客驢箸重服自追之,累騎而返。曰:「人種不可失!」即遙集之母也。

阮仲容は以前から叔母の家の鮮卑の婢を愛していた。

母の喪に服しているとき、叔母が遠くへ移ることになり、初めは婢を残していくと言っていたのに、出発するときには本当に連れて行ってしまった。

仲容は客の驢馬を借り、重い喪服のままで自らこれを追いかけ、二人乗りで帰ってきた。

そして言った。「人の種は失ってはならない」

これが遥集の母である。

夾注 1

竹林七賢論曰:「咸既追婢,於是世議紛然。自魏末沈淪閭巷,逮晉咸寧中,始登王途。」阮孚別傳曰:「咸與姑書曰:『胡婢遂生胡兒。』姑答書曰:『魯靈光殿賦曰:「胡人遙集於上楹」,可字曰遙集也。』故孚字遙集。」

『竹林七賢論』に言う。「咸が婢を追いかけてから、世の議論は紛々とした。魏の末から町なかに沈んでいたが、晋の咸寧のころに至って、はじめて官の道に登った」。『阮孚別伝』に言う。「咸が叔母に手紙を送って『胡の婢がついに胡の児を生みました』と言うと、叔母は返事に『「魯霊光殿賦」に「胡人遥かに上の楹に集まる」とあるので、字を遥集としてよいだろう』と言った。それで孚の字は遥集である」

16元裒は北夏門のようでがらがらと自分から壊れようとしており一本の木で支えられるものではない

任愷既失權勢,不復自檢括。或謂和嶠曰:「卿何以坐視元裒敗而不救?」和曰:「元裒如北夏門,拉攞自欲壞,非一木所能支。」

任愷はすでに権勢を失い、もう自分を律することをしなくなった。

ある人が和嶠に言った。「卿はどうして元裒が崩れるのを座って見ていて救わないのか」

和嶠は言った。「元裒は北夏門のようなもので、がらがらと自分から壊れようとしている。一本の木で支えられるものではない」

夾注 1

晉諸公贊曰:「愷字元裒,樂安博昌人。有雅識國幹,萬機大小多綜之。與賈充不平,充乃啟愷掌吏部,又使有司奏愷用御食器,坐免官,世祖情遂薄焉。」

『晋諸公賛』に言う。「愷は字は元裒、楽安博昌の人である。雅かな識見と国を治める才幹があり、万機の大小を多く綜べ治めた。賈充と仲が悪かったが、賈充はそこで愷が吏部を掌っていると申し上げ、また有司に愷が御食の器を用いたと奏させたので、これに引っかかって官を免ぜられ、世祖の情はついに薄くなった」

17去れ去れもう返礼になるようなものはない

劉道真少時,常漁草澤,善歌嘯,聞者莫不留連。有一老嫗,識其非常人,甚樂其歌嘯,乃殺豚進之。道真食豚盡,了不謝。嫗見不飽,又進一豚,食半餘半,迺還之。後為吏部郎,嫗兒為小令史,道真超用之。不知所由,問母;母告之。於是齎牛酒詣道真,道真曰:「去!去!無可復用相報。」

劉道真は若いとき、いつも草深い沢で魚を獲っていたが、歌い口笛を吹くのが上手で、聞く者は立ち止まって離れられない者ばかりであった。

一人の老婆がいて、彼が並の人でないことを知り、その歌と口笛をたいへん喜んで、そこで豚を殺して彼に供した。

道真は豚を食べ尽くし、少しも礼を言わなかった。

老婆は満腹でないのを見てもう一頭の豚を供すると、半分を食べて半分を残し、それを返した。

のちに吏部郎となったとき、老婆の子が下級の令史であったが、道真は彼を飛び越えて用いた。

その理由がわからず母に問うと、母はこれを教えた。

そこで牛と酒を持って道真を訪ねると、道真は言った。「去れ、去れ。もう返礼になるようなものはない」

夾注 1

劉寶已見。

劉宝はすでに見える。

18阮宣子は百銭を杖の先に掛けて酒屋に着くとそのまま一人で心ゆくまで飲んだ

阮宣子常步行,以百錢挂杖頭,至酒店,便獨酣暢。雖當世貴盛,不肯詣也。

阮宣子はいつも歩いて行き、百銭を杖の先に掛けて、酒屋に着くとそのまま一人で心ゆくまで飲んだ。

当代の貴く栄えた人であっても、訪ねようとはしなかった。

夾注 1

名士傳曰:「脩性簡任。」

『名士伝』に言う。「脩は性が簡素で、おのずからに任せた」

19手を挙げて葛彊に問う并州の若者と比べてどうだと

山季倫為荊州,時出酣暢。人為之歌曰:「山公時一醉,徑造高陽池。日莫倒載歸,茗艼無所知。復能乘駿馬,倒箸白接籬。舉手問葛彊,何如并州兒?」高陽池在襄陽。彊是其愛將,并州人也。

山季倫が荊州となり、ときおり出かけて心ゆくまで飲んだ。

人々は彼についてこう歌った。「山公はときに一度酔えば、まっすぐ高陽池に行き着く。日が暮れれば逆さまに載せられて帰り、ぐでんぐでんで何も知らない。それでもなお駿馬に乗れて、白い頭巾を逆さまにかぶり、手を挙げて葛彊に問う、并州の若者と比べてどうだと」

高陽池は襄陽にある。彊は彼の愛した将で、并州の人である。

夾注 1

襄陽記曰:「漢侍中習郁於峴山南,依范蠡養魚法作魚池,池邊有高隄,種竹及長楸,芙蓉蔆芡覆水,是遊燕名處也。山簡每臨此池,未嘗不大醉而還,曰:『此是我高陽池也!』襄陽小兒歌之。」

『襄陽記』に言う。「漢の侍中の習郁が峴山の南に、范蠡の魚を養う法に依って魚の池を作った。池の辺に高い堤があって竹と長い楸を植え、芙蓉や菱や芡が水を覆い、これは遊び宴する名高いところである。山簡はこの池に臨むたびに、大いに酔わずに帰ったことがなく、『これが我が高陽池だ』と言った。襄陽の子どもがこれを歌った」

20私に身の後の名があるようにするのは今この一杯の酒には及ばない

張季鷹縱任不拘,時人號為江東步兵。或謂之曰:「卿乃可縱適一時,獨不為身後名邪?」答曰:「使我有身後名,不如即時一桮酒!」

張季鷹は放縦で拘らなかったので、当時の人は江東の歩兵と呼んだ。

ある人が彼に言った。「卿は一時を思いのままに過ごすことはできるが、ひとり身の後の名のためには何もしないのか」

答えて言った。「私に身の後の名があるようにするのは、今この一杯の酒には及ばない」

夾注 1

文士傳曰:「翰任性自適,無求當世,時人貴其曠達。」

『文士伝』に言う。「翰は性に任せておのずから適い、当代に求めるところがなかったので、当時の人はその曠達さを貴んだ」

21それで一生を終えるのに十分だ

畢茂世云:「一手持蟹螯,一手持酒桮,拍浮酒池中,便足了一生。」

畢茂世は言った。「片手に蟹の鋏を持ち、片手に酒杯を持って、酒の池の中に浮かんでいられれば、それで一生を終えるのに十分だ」

夾注 1

晉中興書曰:「畢卓字茂世,新蔡人。少傲達為胡毋輔之所知。太興末,為吏部郎,嘗飲酒廢職。比舍郎釀酒熟,卓因醉,夜至其{雝缶}間取飲之。主者謂是盜,執而縛之,知為吏部也,釋之。卓遂引主人燕{雝缶}側,取醉而去。溫嶠素知愛卓,請為平南長史,卒。」

『晋中興書』に言う。「畢卓は字は茂世、新蔡の人である。若くして傲達で、胡毋輔之に知られた。太興の末に吏部郎となったが、かつて酒を飲んで職を放り出した。隣家の郎が酒を醸して熟したとき、卓は酔ったついでに夜その甕のところへ行って取って飲んだ。番の者は盗人だと思って捕えて縛ったが、吏部郎だと知って放した。卓はそのまま主人を引いて甕の傍らで宴し、酔いを得て去った。温嶠はもとから卓を知って愛していたので、平南長史になることを請うたが、亡くなった」

22張季鷹は道中その船に乗せてもらいそのまま賀とともに出発した

賀司空入洛赴命,為太孫舍人。經吳閶門,在船中彈琴。張季鷹本不相識,先在金閶亭,聞絃甚清,下船就賀,因共語。便大相知說。問賀:「卿欲何之?」賀曰:「入洛赴命,正爾進路。」張曰:「吾亦有事北京。」因路寄載,便與賀同發。初不告家,家追問迺知。

賀司空が洛陽に入って命に赴き、太孫舎人となった。

呉の閶門を通るとき、船の中で琴を弾いた。

張季鷹はもともと知り合いではなかったが、先に金閶亭にいて、弦の音がはなはだ清らかなのを聞き、船を下りて賀のところに行き、それでともに語ると、たちまち大いに互いを知って喜んだ。

賀に問うた。「卿はどこへ行こうとしているのか」

賀は言った。「洛陽に入って命に赴こうと、まさにこうして道に出たのだ」

張は言った。「私にも北の都に用がある」

そこで道中その船に乗せてもらい、そのまま賀とともに出発した。

初めは家に告げなかったので、家の者が追って尋ねてはじめて知った。

23昨夜また南塘に一度出かけたのだ

祖車騎過江時,公私儉薄,無好服玩。王、庾諸公共就祖,忽見裘袍重疊,珍飾盈列,諸公怪問之。祖曰:「昨夜復南塘一出。」祖于時恆自使健兒鼓行劫鈔,在事之人,亦容而不問。

祖車騎が江を渡ったころ、公私ともに倹しく薄く、よい衣服や愛玩の品がなかった。

王氏や庾氏ら諸公がともに祖のところに行ったところ、ふと皮衣や袍が幾重にも積まれ、珍しい飾りが並んで満ちているのを見て、諸公は怪しんでこれを問うた。

祖氏は言った。「昨夜また南塘に一度出かけたのだ」

祖氏はこのころいつも自ら壮健な男たちに命じ、太鼓を打ち鳴らして進み、脅し奪い掠めさせていたが、事に当たる人もまた見逃して問わなかった。

夾注 1

晉陽秋曰:「逖性通濟,不拘小節。又賓從多是桀黠勇士,逖待之皆如子弟。永嘉中,流民以萬數,揚土大饑,賓客攻剽,逖輒擁護全衛,談者以此少之,故久不得調。」

『晋陽秋』に言う。「逖は性が通達で、小さな節に拘らなかった。また賓客や従う者は多くが荒く賢しく勇ましい士であったが、逖はこれを待つのにみな子弟のようにした。永嘉のころ、流民が万を数え、揚の地が大いに飢えて、賓客が襲って掠めたが、逖はそのたびに庇い守って完全に衛ったので、論ずる者はこれで彼を低く見、だから長く官の調えを得られなかった」

24今年は田から糯粟七百斛を得たが麴の仕事を済ませていない

鴻臚卿孔群好飲酒。王丞相語云:「卿何為恆飲酒?不見酒家覆瓿布,日月糜爛?」群曰:「不爾,不見糟肉,乃更堪久。」群嘗書與親舊:「今年田得七百斛秫米,不了麴蘖事。」

鴻臚卿の孔群は酒を飲むのが好きであった。

王丞相が言った。「卿はどうしていつも酒を飲むのか。酒屋の甕を覆う布が日々に腐れ崩れるのを見ないのか」

孔群は言った。「そうではありません。酒の糟に漬けた肉が、かえっていっそう長く持つのを見られませんか」

孔群はかつて親しい者や古い知り合いに手紙を送って言った。「今年は田から糯粟七百斛を得たが、麴の仕事を済ませていない」

夾注 1

群已見上。

群はすでに上に見える。

25私は万里の長江のようなものでどうして千里に一つの曲がりがないでいられよう

有人譏周僕射:「與親友言戲,穢雜無檢節。」周曰:「吾若萬里長江,何能不千里一曲。」

ある人が周僕射をそしった。「親しい友と語り戯れるとき、汚く入り混じって検束も節度もない」

周氏は言った。「私は万里の長江のようなものだ。どうして千里に一つの曲がりがないでいられよう」

夾注 1

鄧粲晉紀曰:「王導與周顗及朝士詣尚書紀瞻觀伎。瞻有愛妾,能為新聲。顗於眾中欲通其妾,露其醜穢,顏無怍色。有司奏免顗官,詔特原之。」

鄧粲の『晋紀』に言う。「王導が周顗および朝廷の士とともに尚書の紀瞻を訪ねて伎を観た。瞻には愛する妾がいて、新しい曲を作ることができた。顗は人々の中でその妾と通じようとして、その醜く汚いところを露わにしたが、顔に恥じる色はなかった。有司が顗の官を免ずるよう奏したが、詔してとくにこれを許した」

26卿が私を請け戻してくれないか

溫太真位未高時,屢與揚州、淮中估客樗蒱,與輒不競。嘗一過,大輸物,戲屈,無因得反。與庾亮善,於舫中大喚亮曰:「卿可贖我!」庾即送直,然後得還。經此數四。

温太真が位のまだ高くないころ、しばしば揚州や淮水のあたりの商人と樗蒱をしたが、やればそのたびに勝てなかった。

あるとき一度は大きく品物を失い、賭けに負けて、帰る手立てがなくなった。

庾亮と仲がよかったので、舟の中から大声で庾亮を呼んで言った。「卿が私を請け戻してくれないか」

庾亮はすぐに金を送り、そうしてはじめて帰ることができた。こういうことを三、四度経た。

夾注 1

中興書曰:「嶠有俊朗之目,而不拘細行。」

『中興書』に言う。「嶠には俊朗という評目があったが、細かなふるまいには拘らなかった」

27太真は一日中下品な言葉がない

溫公喜慢語,卞令禮法自居。至庾公許,大相剖擊。溫發口鄙穢,庾公徐曰:「太真終日無鄙言。」

温公は不作法な言葉を好み、卞令は礼法をもって自ら身を置いた。

庾公のところに至って、二人は大いに互いを切り裂き打ち合った。

温公が口から下品で汚い言葉を出すと、庾公はゆっくり言った。「太真は一日中、下品な言葉がない」

夾注 2

卞壼別傳曰:「壼正色立朝,百寮嚴憚,貴遊子弟,莫不祗肅。」

『卞壼別伝』に言う。「壼が顔色を正して朝廷に立つと、百官は厳しく憚り、貴く遊ぶ子弟も敬い慎まない者はなかった」

重其達也。

その達なるところを重んじたのである。

28当時の人は三日僕射と言った

周伯仁風德雅重,深達危亂。過江積年,恆大飲酒。嘗經三日不醒,時人謂之「三日僕射」。

周伯仁は風格も徳も雅かで重く、危うさと乱れを深く見通していた。

江を渡ってから何年も、いつも大いに酒を飲んだ。

かつて三日たっても醒めなかったので、当時の人はこれを「三日僕射」と言った。

夾注 1

晉陽秋曰:「初,顗以雅望,獲海內盛名,後屢以酒失。庾亮曰:『周侯末年,可謂鳳德之衰也。』」語林曰:「伯仁正有姊喪,三日醉,姑喪,二日醉,大損資望。每醉,諸公常共屯守。」

『晋陽秋』に言う。「初め、顗は雅かな望みによって海内の盛んな名を得たが、のちにしばしば酒で失った。庾亮は『周侯の末年は、鳳の徳の衰えと言うべきだ』と言った」。『語林』に言う。「伯仁はちょうど姉の喪に三日酔い、叔母の喪に二日酔って、資望を大きく損なった。酔うたびに諸公はいつもともに詰めて守っていた」

29衛君長が温公のところへ行ってもやはりそうであった

衛君長為溫公長史,溫公甚善之。每率爾提酒脯就衛,箕踞相對彌日。衛往溫許,亦爾。

衛君長が温公の長史となり、温公はたいへん彼と親しかった。

いつも不意に酒と干し肉を持って衛のところへ行き、足を投げ出して向かい合うことを日の暮れるまでした。衛君長が温公のところへ行っても、やはりそうであった。

夾注 1

衛永已見。

衛永はすでに見える。

30どこで庾呉郡を探すのかこの中がそれだ

蘇峻亂,諸庾逃散。庾冰時為吳郡,單身奔亡,民吏皆去。唯郡卒獨以小船載冰出錢塘口,蘧篨覆之。時峻賞募覓冰,屬所在搜檢甚急。卒捨船市渚,因飲酒醉還,舞棹向船曰:「何處覓庾吳郡?此中便是。」冰大惶怖,然不敢動。監司見船小裝狹,謂卒狂醉,都不復疑。自送過淛江,寄山陰魏家,得免。後事平,冰欲報卒,適其所願。卒曰:「出自廝下,不願名器。少苦執鞭,恆患不得快飲酒。使其酒足餘年畢矣,無所復須。」冰為起大舍,市奴婢,使門內有百斛酒,終其身。時謂此卒非唯有智,且亦達生。

蘇峻の乱で、庾氏たちは逃げ散った。

庾冰はそのとき呉郡の太守であったが、単身で逃げ、民も吏もみな去った。

ただ郡の兵卒だけが一人で小舟に庾冰を載せて銭塘の口へ出て、菅の筵でこれを覆った。

このとき蘇峻は賞を懸けて庾冰を探し、あるところごとに探し調べることをはなはだ急にしていた。

兵卒は舟を岸辺の市に置き、そこで酒を飲んで酔って帰り、櫂を振り回して舟に向かって言った。「どこで庾呉郡を探すのか。この中がそれだ」

庾冰は大いに恐れたが、あえて動かなかった。

監察の役人は舟が小さく積みが狭いのを見て、兵卒が狂ったように酔っていると思い、まったく疑わなかった。

自ら浙江を渡らせて送り、山陰の魏氏の家に託したので、免れることができた。

のちに事が平らいで、庾冰は兵卒に報いようとして、その願うところに適えようとした。

兵卒は言った。「卑しい下から出た者ですから、名も位も望みません。若いころ鞭を執るのに苦しみ、いつも思うままに酒を飲めないことを憂えておりました。その酒で残りの年を足らせて終えられれば、もう望むところはありません」

庾冰は彼のために大きな家を建て、奴婢を買ってやり、門の内に百斛の酒があるようにして、その生涯を終えさせた。

当時、この兵卒はただ知恵があるだけでなく、生を見通してもいたと言われた。

夾注 1

中興書曰:「冰為吳郡,蘇峻作逆,遣軍伐冰,冰棄郡奔會稽。」

『中興書』に言う。「冰が呉郡の太守であったとき、蘇峻が逆を起こし、軍を遣わして冰を討ったので、冰は郡を棄てて会稽に逃げた」

31沈むものは自ら沈み浮かぶものは自ら浮かべ

殷洪喬作豫章郡,臨去,都下人因附百許函書。既至石頭,悉擲水中,因祝曰:「沈者自沈,浮者自浮,殷洪喬不能作致書郵。」

殷洪喬が豫章郡の太守となり、去ろうとするとき、都の人がついでに百通あまりの手紙を託した。

石頭に着くと、すべて水の中に投げ込み、そのうえで祈って言った。「沈むものは自ら沈み、浮かぶものは自ら浮かべ。殷洪喬は手紙を届ける飛脚の役はできない」

夾注 1

殷氏譜曰:「羡字洪喬,陳郡人。父識,鎮東司馬。羡仕至豫章太守。」

『殷氏譜』に言う。「羡は字は洪喬、陳郡の人である。父の識は鎮東司馬である。羡は官が豫章の太守に至った」

32人に安豊を思わせる

王長史、謝仁祖同為王公掾。長史云:「謝掾能作異舞。」謝便起舞,神意甚暇。王公熟視,謂客曰:「使人思安豐。」

王長史と謝仁祖がともに王公の属官となった。

長史が言った。「謝属官は変わった舞を舞うことができます」

謝仁祖はすぐに立って舞ったが、気持ちも心もはなはだゆったりしていた。

王公はじっと見て、客に言った。「人に安豊を思わせるな」

夾注 3

王濛別傳曰:「丞相王導辟名士時賢,協贊中興。旌命所加,必延俊乂,辟濛為掾。」

『王濛別伝』に言う。「丞相の王導は名士や当時の賢者を召して、中興を助け支えた。旗と命を加えるところには必ずすぐれた者を招き入れ、濛を召して属官とした」

晉陽秋曰:「尚性通任,善音樂。」語林曰:「謝鎮西酒後,於槃案閒,為洛市肆工鴝鵒舞,甚佳。」

『晋陽秋』に言う。「尚は性が通達で任せるままであり、音楽が得意であった」。『語林』に言う。「謝鎮西が酒のあと、盤や案の間で、洛陽の市の店の職人の鴝鵒の舞を舞ったが、はなはだ見事であった」

戎性通任,尚類之。

戎は性が通達で任せるままであったが、尚はそれに似ていた。

33心ゆくまでの宴の半ばに座ってはじめて喪服を脱いでいないことに気づいた

王、劉共在杭南,酣宴於桓子野家。謝鎮西往尚書墓還,葬後三日反哭。諸人欲要之,初遣一信,猶未許,然已停車。重要,便回駕。諸人門外迎之,把臂便下,裁得脫幘箸帽。酣宴半坐,乃覺未脫衰。

王氏と劉氏がともに杭南にいて、桓子野の家で心ゆくまで宴をした。

謝鎮西は尚書の墓に行って帰るところで、葬りのあと三日目に戻って哭するのであった。

人々は彼を招こうとして、初めに一度使いを送ったが、まだ承知しなかったものの、すでに車を止めていた。

重ねて招くと、そこで車の向きを回した。

人々は門の外で彼を迎え、腕を取ってすぐに降りさせたので、ようやく頭巾を脱いで帽子をかぶることができた。

心ゆくまでの宴の半ばに座って、はじめて喪服を脱いでいないことに気づいた。

夾注 2

伊已見。

伊はすでに見える。

尚書,謝裒,尚叔也。已見。宋明帝文章志曰:「尚性輕率,不拘細行。兄葬後,往墓還,王濛、劉惔共遊新亭,濛欲招尚,先以問惔曰:『計仁祖正當不為異同耳。』惔曰:『仁祖韻中自應來。』乃遣要之。尚初辭,然已無歸意。及再請,即回軒焉。其率如此。」

尚書とは謝裒で、尚の叔父である。すでに見える。宋の明帝の『文章志』に言う。「尚は性が軽やかで率直で、細かなふるまいに拘らなかった。兄を葬ったのち、墓に行って帰るところで、王濛と劉惔がともに新亭に遊んでいて、濛が尚を招こうとして、まず惔に問うて『思うに仁祖はまさに同じ違うなどは言わないだろうな』と言うと、惔は『仁祖はその韻のうちからおのずから来るはずだ』と言った。そこで使いを出して彼を招いた。尚は初め辞したが、もう帰る気はなかった。再び請われるに及んで、すぐに車を回した。その率直さはこのようであった」

34お前はとうとう袁彦道がわかったか

桓宣武少家貧,戲大輸,債主敦求甚切,思自振之方,莫知所出。陳郡袁躭,俊邁多能。宣武欲求救於躭,躭時居艱,恐致疑,試以告焉。應聲便許,略無嫌吝。遂變服懷布帽隨溫去,與債主戲。躭素有蓺名,債主就局曰:「汝故當不辦作袁彥道邪?」遂共戲。十萬一擲,直上百萬數。投馬絕叫,傍若無人,探布帽擲對人曰:「汝竟識袁彥道不?」

桓宣武は若いころ家が貧しく、賭けで大きく負けて、債主が催促することがはなはだ切であったので、自ら立ち直る方策を考えたが、出てくるところがわからなかった。

陳郡の袁耽は、すぐれて抜きん出ており、能くすることが多かった。

宣武は袁耽に救いを求めようとしたが、袁耽はそのとき喪に服していたので、疑いを招くことを恐れ、試みにこれを告げた。

声に応じてすぐに承知し、少しも嫌がり惜しむところがなかった。

そこで服を替え、布の帽子を懐に入れて温に従って行き、債主と賭けをした。

袁耽はもとから技の名があったので、債主は盤に向かって言った。「お前はまさか袁彦道を仕立てて出すことはできまいな」

そこでともに賭けをした。十万を一度に投げ、まっすぐ百万の数に上った。

駒を投げて大声で叫び、傍らに人がいないかのようにしていたが、やがて布の帽子を探り出して向かいの人に投げつけて言った。「お前はとうとう袁彦道がわかったか」

夾注 2

袁氏家傳曰:「耽字彥道,陳郡陽夏人,魏中郎令渙曾孫也。魁梧爽朗,高風振邁,少倜儻不羈,有異才,士人多歸之。仕至司徒從事中郎。」

『袁氏家伝』に言う。「耽は字は彦道、陳郡陽夏の人で、魏の中郎令の渙の曾孫である。大きく堂々として爽やかに明るく、高い風格が抜きん出ており、若くして拘るところなく異才があったので、士人は多く彼に帰した。官は司徒従事中郎に至った」

郭子曰:「桓公樗蒱,失數百斛米,求救於袁耽。耽在艱中,便云:『大快。我必作采,卿但大喚。』即脫其衰,共出門去。覺頭上有布帽,擲去,箸小帽。既戲,袁形勢呼袒,擲必盧雉,二人齊叫,敵家頃刻失數百萬也。」

『郭子』に言う。「桓公が樗蒱で数百斛の米を失い、袁耽に救いを求めた。耽は喪に服していたが、すぐに『大いに痛快だ。私が必ずよい采を出すから、卿はただ大声で叫べ』と言い、すぐにその喪服を脱いでともに門を出た。頭の上に布の帽子があるのに気づいて投げ捨て、小さな帽子をかぶった。やがて賭けをすると、耽は形勢を見て肌を脱げと叫び、投げれば必ず盧や雉が出たので、二人そろって叫び、相手の家は瞬く間に数百万を失った」

35酒はまさに人を一人ひとりおのずから遠ざけさせる

王光祿云:「酒,正使人人自遠。」

王光禄は言った。「酒は、まさに人を一人ひとりおのずから遠ざけさせる」

夾注 1

光祿,王蘊也。續晉陽秋曰:「蘊素嗜酒,末年尤甚。及在會稽,略少醒日。」

光禄とは王蘊である。『続晋陽秋』に言う。「蘊はもとから酒を嗜み、末年にはいっそうはなはだしかった。会稽にいたときは、醒めている日がはなはだ少なかった」

36孫承公は狂った士でときには帰る道の半ばまで来て引き返す

劉尹云:「孫承公狂士,每至一處,賞翫累日,或回至半路卻返。」

劉尹は言った。「孫承公は狂った士で、一つの所に着くたびに幾日も愛で楽しみ、ときには帰る途中の半ばまで来て引き返す」

夾注 1

中興書曰:「承公少誕任不羈,家於會稽,性好山水。及求鄞縣,遺心細務,縱意遊肆,名阜盛川,靡不歷覽。」

『中興書』に言う。「承公は若くして放縦で任せるままに拘らず、会稽に家があり、性として山水を好んだ。鄞県を求めるに及んで、心を細かな務めから離し、意を思いのままにして遊び歩き、名高い丘や豊かな川を、見て回らないものはなかった」

37もう一人いて卿に配せられないのが残念だ

袁彥道有二妹:一適殷淵源,一適謝仁祖。語桓宣武云:「恨不更有一人配卿。」

袁彦道には二人の妹があり、一人は殷淵源に嫁ぎ、一人は謝仁祖に嫁いだ。

桓宣武に言った。「もう一人いて卿に配せられないのが残念だ」

夾注 1

袁氏譜曰:「耽大妹名女皇,適殷浩。小妹名女正,適謝尚。」

『袁氏譜』に言う。「耽の上の妹は名が女皇で、殷浩に嫁いだ。下の妹は名が女正で、謝尚に嫁いだ」

38さきほどこの魚を得てあなたの船の上には膾を作る道具があるだろうと見たからそれで来ただけだ

桓車騎在荊州,張玄為侍中,使至江陵,路經陽岐村,俄見一人,持半小籠生魚,徑來造船云:「有魚,欲寄作膾。」張乃維舟而納之。問其姓字,稱是劉遺民。張素聞其名,大相忻待。劉既知張銜命,問:「謝安、王文度並佳不?」張甚欲話言,劉了無停意。既進膾,便去,云:「向得此魚,觀君船上當有膾具,是故來耳。」於是便去。張乃追至劉家,為設酒,殊不清旨。張高其人,不得已而飲之。方共對飲,劉便先起,云:「今正伐荻,不宜久廢。」張亦無以留之。

桓車騎が荊州にいたとき、張玄が侍中となって、使いとして江陵に着いた。

道が陽岐村を通るとき、ふと一人の男が半ばほど入った小さな籠に生きた魚を持ってまっすぐ船に来て言うのを見た。「魚があるので、膾に作ってもらいたい」

張玄はそこで船を繋いで彼を入れた。

その姓と字を問うと、劉遺民だと名乗った。

張玄はもとからその名を聞いていたので、大いに互いに喜んでもてなした。

劉氏は張玄が命を帯びていることを知って問うた。「謝安と王文度はともにお元気か」

張玄はしきりに話をしたかったが、劉氏は少しも留まる気がなかった。

やがて膾が出されると、すぐに去りながら言った。「さきほどこの魚を得て、あなたの船の上には膾を作る道具があるだろうと見たから、それで来ただけだ」

そしてすぐに去った。

張玄はそこで追って劉氏の家に着いたが、酒を出してくれたものの、まるで清くも旨くもなかった。

張玄はその人を高く見ていたので、やむなくこれを飲んだ。

ちょうどともに向かい合って飲んでいると、劉氏はすぐに先に立ち上がって言った。「今がまさに荻を刈るときだから、長く休むのはよくない」

張玄にもまた彼を留めるすべがなかった。

夾注 2

村臨江,去荊州二百里。

村は江に臨み、荊州から二百里離れている。

中興書曰:「劉驎之,一字遺民。」已見。

『中興書』に言う。「劉驎之は、一つの字は遺民である」。すでに見える。

39さきほど大力の者がこれを背負って走り去った

王子猷詣郗雍州,雍州在內,見有毾㲪,云:「阿乞那得此物?」令左右送還家。郗出覓之,王曰:「向有大力者負之而趨。」郗無忤色。

王子猷が郗雍州を訪ねた。

雍州は奥にいたが、王氏は毛の敷物があるのを見て言った。「阿乞はどうしてこんな物を手に入れたのか」

左右の者に命じて家へ送らせた。

郗氏が出てきてこれを探すと、王氏は言った。「さきほど大力の者がこれを背負って走り去った」

郗氏には逆らう顔色がなかった。

夾注 3

中興書曰:「郗恢字道胤,高平人。父曇,北中郎將。恢長八尺,美頿𩓿,風神魁梧。烈宗器之,以為蕃伯之望。自太子左率,擢為雍州刺史。」

『中興書』に言う。「郗恢は字は道胤、高平の人である。父の曇は北中郎将である。恢は身の丈八尺、頬鬚と顎鬚が美しく、風貌も気も大きく堂々としていた。烈宗はこれを器として、藩の長たる望みがあるとした。太子左率から抜かれて雍州刺史となった」

阿乞、恢小字。

阿乞は恢の幼い名である。

莊子曰:「夫藏舟於壑,藏山於澤,謂之固矣。然有大力者負之而走,昧者不知也。」

『荘子』に言う。「舟を谷に蔵し、山を沢に蔵せば、固いというべきである。しかし大力の者がいてこれを背負って走れば、暗い者は知らない」

40安石は怪我はないか

謝安始出西戲,失車牛,便杖策步歸。道逢劉尹,語曰:「安石將無傷?」謝乃同載而歸。

謝安が初めて西に出て遊んだとき、車と牛を失い、そのまま杖をついて歩いて帰った。

道で劉尹に出会うと、こう言った。「安石は怪我はないか」

謝安はそこで同じ車に乗って帰った。

41実は二百五十重ねの黒い膳であった

襄陽羅友有大韻,少時多謂之癡。嘗伺人祠,欲乞食,往太蚤,門未開。主人迎神出見,問以非時,何得在此?答曰:「聞卿祠,欲乞一頓食耳。」遂隱門側。至曉,得食便退,了無怍容。為人有記功,從桓宣武平蜀,按行蜀城闕觀宇,內外道陌廣狹,植種果竹多少,皆默記之。後宣武漂洲與簡文集,友亦預焉。共道蜀中事,亦有所遺忘,友皆名列,曾無錯漏。宣武驗以蜀城闕簿,皆如其言。坐者嘆服。謝公云:「羅友詎減魏陽元!」後為廣州刺史,當之鎮,刺史桓豁語令莫來宿。答曰:「民已有前期。主人貧,或有酒饌之費,見與甚有舊,請別日奉命。」征西密遣人察之。至日,乃往荊州門下書佐家,處之怡然,不異勝達。在益州語兒云:「我有五百人食器。」家中大驚。其由來清,而忽有此物,定是二百五十沓烏樏。

襄陽の羅友は大きな韻があったが、若いころは多くの人が彼を愚かだと言った。

かつて人の祭祀をうかがって飯を乞おうとして行ったが、あまりに早くて門がまだ開いていなかった。

主人が神を迎えに出てきて彼を見、時でもないのにどうしてここにいるのかと問うた。

答えて言った。「卿が祭祀をするというのを聞いて、一食の飯を乞おうとしただけだ」

そのまま門の脇に隠れた。明け方になって飯を得るとすぐに退いたが、少しも恥じる顔色がなかった。

人柄として記憶の才があり、桓宣武に従って蜀を平定したとき、蜀の城や門、楼や建物、内と外の道や街の広さ狭さ、植えられた果樹や竹の多少を見て回って、すべて黙って記憶した。

のちに宣武が漂洲で簡文帝と集まったとき、羅友もまた加わった。

ともに蜀の中の事を語ったが、やはり漏らし忘れたところがあったので、羅友がすべて名を並べて、少しも誤りも漏れもなかった。

宣武が蜀の城や門の帳簿で確かめてみると、すべてその言葉のとおりで、座にいた者は感嘆して服した。

謝公は言った。「羅友がどうして魏陽元に劣ろうか」

のちに広州刺史となり、鎮に赴くことになったとき、刺史の桓豁が言って、夕方に来て泊まれと言った。

答えて言った。「民にはすでに先の約束があります。主人は貧しくて、あるいは酒や膳の費用がかかるでしょうが、私とはたいへん古い付き合いですので、別の日にご命令を承りたいと存じます」

征西はひそかに人を遣わしてこれを探らせた。

その日になると、荊州の門下の書佐の家に行き、そこに和やかに過ごして、すぐれて通達した人と違うところがなかった。

益州にいたとき、子に言った。「私には五百人分の食器がある」

家の中は大いに驚いた。彼はもとから清廉であったのに、ふいにこんな物があるというので、実は二百五十重ねの黒い膳であった。

夾注 1

晉陽秋曰:「友字它仁,襄陽人。少好學,不持節檢。性嗜酒,當其所遇,不擇士庶。又好伺人祠,往乞餘食,雖復營署壚肆,不以為羞。桓溫常責之云:『君太不逮!須食,何不就身求?乃至於此!』友傲然不屑,答曰:『就公乞食,今乃可得,明日已復無。』溫大笑之。始仕荊州,後在溫府。以家貧乞祿,溫雖以才學遇之,而謂其誕肆,非治民才,許而不用。後同府人有得郡者,溫為席起別,友至尤晚。問之,友答曰:『民性飲道嗜味,昨奉教旨,乃是首旦出門,於中路逢一鬼,大見揶揄,云:「我只見汝送人作郡,何以不見人送汝作郡?」民始怖終慚,回還以解,不覺成淹緩之罪。』溫雖笑其滑稽,而心頗愧焉。後以為襄陽太守,累遷廣、益二州刺史。在藩舉其宏綱,不存小察,甚為吏民所安說。薨於益州。」

『晋陽秋』に言う。「友は字は它仁、襄陽の人である。若くして学を好んだが、節や検束を持たなかった。性として酒を嗜み、出会うところに応じて、士人も庶人も選ばなかった。また人の祭祀をうかがって行って残りの飯を乞うのを好み、たとえ陣営や酒場であっても恥としなかった。桓温はいつも彼を責めて言った。『君はあまりにも及ばないな。飯が必要なら、どうして私のところに来て求めず、こんなことにまで至るのか』。友は傲然として取り合わず、答えて言った。『公のところへ行って飯を乞えば、今は得られもしますが、明日はもうありません』。温は大いにこれを笑った。初め荊州に仕え、のちに温の府にいた。家が貧しいので禄を乞うたが、温は才と学で彼を遇したものの、彼が放縦で勝手だから民を治める才ではないとして、許しながら用いなかった。のちに同じ府の人で郡を得た者があり、温が席を設けて別れを惜しんだが、友はとりわけ遅く着いた。これを問うと、友は答えて言った。『民は性として飲む道と味を嗜みますが、昨日ご教示の趣を承り、それで早朝に門を出ました。道の途中で一人の鬼に出会い、大いにからかわれまして、「私はお前が人を送って郡に行かせるのばかり見るが、どうして人がお前を送って郡に行かせるのは見ないのか」と言われました。民は初めは怖く、終いには恥ずかしくて、引き返してこれを解いてから来たので、遅れた罪を成したことに気づきませんでした』。温はその滑稽さを笑いながらも、心ではかなり恥じた。のちに襄陽の太守とし、累進して広州・益州二州の刺史に至った。藩にあってはその大きな綱を挙げ、小さな詮索にこだわらなかったので、はなはだ吏にも民にも安らかで喜ばれた。益州で薨じた」

42子野はひとたび向かえば深い情があると言うべきだ

桓子野每聞清歌,輒喚:「奈何!」謝公聞之曰:「子野可謂一往有深情。」

桓子野は清らかな歌を聞くたびに、すぐに叫んだ。「どうしようもない」

謝公はこれを聞いて言った。「子野はひとたび向かえば深い情があると言うべきだ」

43張は家の下に屍を並べ袁は道の上で葬列を行く

張湛好於齋前種松柏。時袁山松出遊,每好令左右作挽歌。時人謂「張屋下陳屍,袁道上行殯」。

張湛は書斎の前に松や柏を植えるのを好んだ。

そのころ袁山松は出かけて遊ぶとき、いつも左右の者に挽歌を作らせるのを好んだ。

当時の人は「張は家の下に屍を並べ、袁は道の上で葬列を行く」と言った。

夾注 3

晉東宮官名曰:「湛字處度,高平人。」張氏譜曰:「湛祖嶷,正員郎。父曠,鎮軍司馬。湛仕至中書郎。」

『晋東宮官名』に言う。「湛は字は処度、高平の人である」。『張氏譜』に言う。「湛の祖父の嶷は正員郎、父の曠は鎮軍司馬である。湛は官が中書郎に至った」

山松別見。續晉陽秋曰:「袁山松善音樂,北人舊歌有行路難曲,辭頗疏質,山松好之,乃為文其章句,婉其節制,每因酒酣,從而歌之。聽者莫不流涕。初,羊曇善唱樂,桓尹能挽歌,及山松以行路難繼之,時人謂之三絕。」今云挽歌,未詳。

山松については別に見える。『続晋陽秋』に言う。「袁山松は音楽が得意であった。北の人の古い歌に「行路難」の曲があって、歌詞はかなり粗く素朴であったが、山松はこれを好み、そこでその章句に文を加え、その節の作りを婉やかにして、酒が熟すたびにそれに合わせて歌うと、聴く者は涙を流さない者はなかった。初め、羊曇は楽を唱うのが得意で、桓尹は挽歌が得意であったが、山松が「行路難」でこれに続くに及んで、当時の人はこれを三絶と言った」。今ここで挽歌と言うのは、はっきりしない。

裴啟語林曰:「張湛好於齋前種松,養鴝鵒。袁山松出遊,好令左右作挽歌。時人云云。」

裴啓の『語林』に言う。「張湛は書斎の前に松を植えるのを好み、鴝鵒を飼った。袁山松は出かけて遊び、左右の者に挽歌を作らせるのを好んだ。当時の人は云々と言った」

44白い羊の肉が旨いと聞きましたが一生に一度も食べたことがありませんでした

羅友作荊州從事,桓宣武為王車騎集別。友進坐良久,辭出,宣武曰:「卿向欲咨事,何以便去?」答曰:「友聞白羊肉美,一生未曾得喫,故冒求前耳。無事可咨。今已飽,不復須駐。」了無慚色。

羅友が荊州の従事となったとき、桓宣武が王車騎のために送別の会を開いた。

羅友は入って座ってしばらくしてから、暇を告げて出ていったので、宣武は言った。「卿はさきほど事を伺いたいと言っていたのに、どうしてすぐ帰るのか」

答えて言った。「羅友は白い羊の肉が旨いと聞いて、一生に一度も食べたことがなかったので、無理を押して前に出ることを願っただけです。伺うような事はありません。今はもう腹いっぱいですから、これ以上留まる必要はありません」

少しも恥じる顔色がなかった。

夾注 1

車騎,王洽,別見。

車騎とは王洽で、別に見える。

45卿は田横の門人でもないのにどうしてこんなにいきなりそこまで至るのか

張驎酒後挽歌甚悽苦,桓車騎曰:「卿非田橫門人,何乃頓爾至致?」

張驎が酒のあと挽歌を歌うのがはなはだ悲しく苦しげであったので、桓車騎は言った。「卿は田横の門人でもないのに、どうしてこんなにいきなりそこまで至るのか」

夾注 1

驎,張湛小字也。譙子法訓云:「有喪而歌者。或曰:『彼為樂喪也,有不可乎?』譙子曰:『書云:「四海遏密八音。」何樂喪之有?』曰:『今喪有挽歌者,何以哉?』譙子曰:『周聞之:蓋高帝召齊田橫至于戶鄉亭,自刎奉首,從者挽至於宮,不敢哭而不勝哀,故為歌以寄哀音。彼則一時之為也。鄰有喪,舂不相引,挽人銜枚,孰樂喪者邪?』」按莊子曰:「紼謳所生,必於斥苦。」司馬彪注曰:「紼,引柩索也。斥,疏緩也。苦,用力也。引紼所以有謳歌者,為人有用力不齊,故促急之也。」春秋左氏傳曰:「魯哀公會吳伐齊,其將公孫夏命歌虞殯。」杜預曰:「虞殯,送葬歌,示必死也。」史記絳侯世家曰:「周勃以吹簫樂喪。」然則挽歌之來久矣,非始起於田橫也。然譙氏引禮之文,頗有明據,非固陋者所能詳聞。疑以傳疑,以俟通博。

驎は張湛の幼い名である。『譙子法訓』に言う。「喪があるのに歌う者がいる。ある人が『彼は喪を楽しんでいるのだ。それでいけないことがあるか』と言うと、譙子は『『書』に「四海は八音を遏め密かにする」とある。何の喪を楽しむことがあろうか』と言った。『今、喪に挽歌を歌う者がいるのは、何によるのか』と言うと、譙子は『周でこれを聞いた。思うに高帝が斉の田横を召して戸郷亭に至ると、自ら首を刎ねて頭を奉じたので、従う者が引いて宮に至り、あえて哭することはできないが哀しみに勝てず、だから歌を作って哀しい音に寄せたのである。あれは一時のことである。隣に喪があれば、米をつきながら声を引かず、柩を引く人も枚を銜む。誰が喪を楽しむ者であろうか』と言った」。思うに『荘子』に言う。「紼の謳が生まれるところは、必ず斥と苦にある」。司馬彪の注に言う。「紼とは柩を引く綱である。斥とは疎く緩いことであり、苦とは力を用いることである。紼を引くときに謳歌がある理由は、人の力の用い方が揃わないので、これを促し急かすためである」。『春秋左氏伝』に言う。「魯の哀公が呉と会して斉を伐つとき、その将の公孫夏が「虞殯」を歌えと命じた」。杜預が言う。「「虞殯」は葬りを送る歌で、必ず死ぬことを示したのである」。『史記・絳侯世家』に言う。「周勃は簫を吹いて喪を楽しんだ」。そうであれば挽歌の来たことは久しく、田横から始まったのではない。しかし譙氏が引いた礼の文にはかなり明らかな拠りどころがあって、固く狭い者が詳しく聞けるところではない。疑わしいものは疑わしいままにして、通じて博い人を待つ。

46どうして一日でもこの君がなくていられようか

王子猷嘗暫寄人空宅住,便令種竹。或問:「暫住何煩爾?」王嘯詠良久,直指竹曰:「何可一日無此君?」

王子猷がかつてしばらく人の空き家に身を寄せて住んだとき、すぐに竹を植えさせた。

ある人が問うた。「しばらく住むだけなのに、どうしてそんな手間をかけるのか」

王氏は口笛を吹き詠むことをしばらくしてから、まっすぐ竹を指して言った。「どうして一日でもこの君がなくていられようか」

夾注 1

中興書曰:「徽之卓犖不羈,欲為傲達,放肆聲色頗過度。時人欽其才,穢其行也。」

『中興書』に言う。「徽之は抜きん出て拘らず、傲達であろうとして、声と色に放縦なことがかなり度を過ぎていた。当時の人はその才を敬いながら、その行いを汚いとした」

47私はもともと興に乗って行き興が尽きて帰ったのだからどうして必ず戴安道に会わねばならないのか

王子猷居山陰,夜大雪,眠覺,開室,命酌酒。四望皎然,因起仿偟,詠左思招隱詩。忽憶戴安道。時戴在剡,即便夜乘小船就之。經宿方至,造門不前而返。人問其故,王曰:「吾本乘興而行,興盡而返,何必見戴?」

王子猷が山陰に住んでいたとき、夜に大雪が降った。

眠りから覚めて部屋を開け、酒を注げと命じた。

四方を見渡すと白く明るかったので、そこで起きて歩きまわり、左思の「招隠詩」を詠んだ。

ふと戴安道が思い出された。このとき戴安道は剡にいたが、すぐにその夜小舟に乗って彼のもとへ向かった。

一晩かけてようやく着いたが、門まで来て中に入らずに帰った。

人々がその理由を問うと、王氏は言った。「私はもともと興に乗って行き、興が尽きて帰ったのだ。どうして必ず戴安道に会わねばならないのか」

夾注 1

中興書曰:「徽之任性放達,棄官東歸,居山陰也。」左詩曰:「杖策招隱士,荒塗橫古今。巖穴無結構,丘中有鳴琴。白雪停陰岡,丹葩曜陽林。」

『中興書』に言う。「徽之は性に任せて放達であったので、官を棄てて東に帰り、山陰に住んだ」。左思の詩に言う。「杖をついて隠士を招けば、荒れた道が古今に横たわる。巌の穴に構え組んだものはないが、丘の中に鳴る琴がある。白い雪が陰の岡に留まり、赤い花が陽の林に輝く」

48酒はまさにおのずから人をすぐれた境地へ導く

王衛軍云:「酒正自引人箸勝地。」

王衛軍は言った。「酒はまさにおのずから人をすぐれた境地へ導く」

夾注 1

王薈已見。

王薈はすでに見える。

49客も主人も一言も交わさなかった

王子猷出都,尚在渚下。舊聞桓子野善吹笛,而不相識。遇桓於岸上過,王在船中,客有識之者云:「是桓子野。」王便令人與相聞云:「聞君善吹笛,試為我一奏。」桓時已貴顯,素聞王名,即便回下車,踞胡床,為作三調。弄畢,便上車去。客主不交一言。

王子猷が都に出て、まだ川の渚のあたりにいた。

以前から桓子野が笛を吹くのが上手だと聞いていたが、互いに知り合いではなかった。

ちょうど桓氏が岸の上を通り過ぎるところで、王氏は船の中にいたが、客の中に彼を知る者がいて言った。「あれは桓子野です」

王氏はすぐに人を遣わして言葉を伝えさせた。「あなたが笛を吹くのが上手だと聞きました。ためしに私のために一曲吹いてください」

桓氏はそのころすでに貴く世に知られており、もとから王氏の名を聞いていたので、すぐに引き返して車を降り、胡床に腰をかけて三つの調べを吹いてやった。

吹き終えると、すぐに車に乗って去った。客も主人も一言も交わさなかった。

夾注 1

續晉陽秋曰:「左將軍桓伊善音樂,孝武飲燕,謝安侍坐,帝命伊吹笛。伊神色無忤,既吹一弄,乃放笛云:『臣於箏乃不如笛,然自足以韻合歌管。臣有一奴,善吹笛,且相便串,請進之。』帝賞其放率,聽召奴。奴既至,吹笛,伊撫箏而歌怨詩,因以為諫也。」

『続晋陽秋』に言う。「左将軍の桓伊は音楽が得意であった。孝武帝が飲んで宴をしていたとき、謝安が侍って座っていたが、帝は伊に笛を吹くよう命じた。伊は顔色に逆らうところなく、すでに一曲吹いてから、笛を置いて言った。『臣は箏では笛に及びませんが、それでもおのずから響きが歌や管に合うには足ります。臣に一人の奴がいて、笛を吹くのが上手で、しかも互いに慣れておりますので、これを進めさせてください』。帝はその率直さを賞して、奴を召すことを聞き入れた。奴が来て笛を吹くと、伊は箏を弾いて怨みの詩を歌い、それをもって諫めとした」

50わが家の忌み名を犯したのだがそれが卿の事に何の関わりがあろう

桓南郡被召作太子洗馬,船泊荻渚。王大服散後已小醉,往看桓。桓為設酒,不能冷飲,頻語左右:「令溫酒來!」桓乃流涕嗚咽,王便欲去。桓以手巾掩淚,因謂王曰:「犯我家諱,何預卿事?」王嘆曰:「靈寶故自達。」

桓南郡が召されて太子洗馬となり、船を荻の渚に泊めた。

王大は散を服んだあとすでに少し酔っていたが、桓氏を見に行った。

桓氏は酒を出してくれたが、冷たいままでは飲めなかったので、しきりに左右の者に言った。「酒を温めて持ってこさせてくれ」

桓氏はそれで涙を流してむせび泣いたので、王氏はすぐに帰ろうとした。

桓氏は手巾で涙を覆い、そのうえで王氏に言った。「わが家の忌み名を犯したのだが、それが卿の事に何の関わりがあろう」

王氏は嘆いて言った。「霊宝はさすがにおのずから通達している」

夾注 3

玄別傳曰:「玄初拜太子洗馬,時朝廷以溫有不臣之跡,故抑玄為素官。」

『玄別伝』に言う。「玄は初め太子洗馬に拝せられたが、そのとき朝廷は温に臣らしからぬ跡があるとして、玄を抑えて素官としたのである」

晉安帝紀曰:「玄哀樂過人,每歡戚之發,未嘗不至嗚咽。」

『晋安帝紀』に言う。「玄は哀しみも楽しみも人より過ぎており、喜びや悲しみが起きるたびに、むせび泣きに至らないことはなかった」

靈寶,玄小字也。異苑曰:「玄生而有光照室,善占者云:『此兒生有奇耀,宜目為天人。』宣武嫌其三文,復言為『神靈寶』,猶復用三。既難重前,卻減『神』一字,名曰『靈寶』。」語林曰:「玄不立忌日,止立忌時,其達而不拘,皆此類。」

霊宝は玄の幼い名である。『異苑』に言う。「玄が生まれると光があって部屋を照らしたので、占いの上手な者が『この子は生まれながら奇しい輝きがありますから、天人と名づけるのがよいでしょう』と言った。宣武はその字が三つであることを嫌って、改めて「神霊宝」と言ったが、やはりまた三つを使っていた。すでに前のものを重ねるのは難しいので、「神」の一字を減らして「霊宝」と名づけた」。『語林』に言う。「玄は忌み日を立てず、ただ忌み刻だけを立てた。その通達して拘らないさまは、みなこういう類である」

51阮籍は胸の中に石の塊があったので酒でこれを流し込む必要があったのだ

王孝伯問王大:「阮籍何如司馬相如?」王大曰:「阮籍胸中壘塊,故須酒澆之。」

王孝伯が王大に問うた。「阮籍は司馬相如と比べてどうか」

王大は言った。「阮籍は胸の中に石の塊があったので、酒でこれを流し込む必要があったのだ」

夾注 1

言阮皆同相如,而飲酒異耳。

阮籍はすべて相如と同じだが、酒を飲むところが違うだけだという意味である。

52三日酒を飲まないと体と心がもう互いに親しくないように感じる

王佛大嘆言:「三日不飲酒,覺形神不復相親。」

王仏大が嘆いて言った。「三日酒を飲まないと、体と心がもう互いに親しくないように感じる」

夾注 1

晉安帝紀曰:「忱少慕達,好酒,在荊州轉甚,一飲或至連日不醒,遂以此死。」宋明帝文章志曰:「忱嗜酒,醉輒經日,自號上頓。世喭以大飲為『上頓』,起自忱也。」

『晋安帝紀』に言う。「忱は若くして達を慕い、酒を好んだが、荊州にいていっそうはなはだしくなり、一度飲むとときには幾日も続けて醒めず、ついにこれが原因で死んだ」。宋の明帝の『文章志』に言う。「忱は酒を嗜み、酔えばすぐに日を越したので、自ら上頓と号した。世間で大いに飲むことを「上頓」と言うのは、忱から始まったのである」

53ただいつも何事もない暇を得て痛いほど酒を飲み離騒をよく読みこなせばそれで名士と称してよい

王孝伯言:「名士不必須奇才。但使常得無事,痛飲酒,熟讀離騷,便可稱名士。」

王孝伯が言った。「名士は必ずしも奇才を要しない。ただいつも何事もない暇を得て、痛いほど酒を飲み、「離騒」をよく読みこなせば、それで名士と称してよい」

54琅邪の王伯輿はついには情のために死ぬことになるだろう

王長史登茅山,大慟哭曰:「琅邪王伯輿,終當為情死。」

王長史が茅山に登り、大いに嘆き哭して言った。「琅邪の王伯輿は、ついには情のために死ぬことになるだろう」

夾注 1

王氏譜曰:「廞字伯輿,琅邪人。父薈,衛將軍。廞歷司徒長史。」周祗隆安記曰:「初,王恭將唱義,使喻三吳,廞居喪,拔以為吳國內史。國寶既死,恭罷兵,令廞反喪服。廞大怒,即日據吳都以叛。恭使司馬劉牢之討廞,廞敗,不知所在。」

『王氏譜』に言う。「廞は字は伯輿、琅邪の人である。父の薈は衛将軍である。廞は司徒長史を歴任した」。周祗の『隆安記』に言う。「初め、王恭が義を唱えようとして三呉に告げさせたが、廞は喪に服していたので、抜いて呉国内史とした。国宝が死んで、恭が兵を罷めると、廞に喪服に戻るよう命じた。廞は大いに怒って、その日に呉の都を占めて叛いた。恭は司馬の劉牢之に廞を討たせ、廞は敗れたが、どこにいるかわからない」