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讒険世説新語 讒險第三十二

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 4 · 漢字 316字 · 朗読 1.3分

世説新語(世に語られた新しい話) 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1王平子は外見はたいそう開け放って明るいが、内は実は硬く狭い

王平子形甚散朗,內實勁俠。

王平子は外見はたいそう開け放って明るかったが、内は実は硬く狭かった。

夾注 1

鄧粲《晉紀》云:「劉琨嘗謂澄曰:『卿形雖散朗,而內勁狹,以此處世,難得其死!』澄默然無以答。後果為王敦所害。劉琨聞之曰:『自取死耳!』」

鄧粲の『晋紀』に言う。「劉琨がかつて王澄に言った。『あなたは外見は開け放って明るいが、内は硬く狭い。それで世に処すれば、まともな死を得るのは難しいでしょう』と。王澄は黙って答えるところがなかった。のちに果たして王敦に害されると、劉琨はこれを聞いて『自ら死を招いたにすぎぬ』と言った」

2天下で肝要なものはまさに『戦国策』があるだけだ

袁悅有口才,能短長說,亦有精理。始作謝玄參軍,頗被禮遇。後丁艱,服除還都,唯齎戰國策而已。語人曰:「少年時讀論語、老子,又看莊、易,此皆是病痛事,當何所益邪?天下要物,正有戰國策。」既下,說司馬孝文王,大見親待,幾亂機軸。俄而見誅。

袁悦は弁が立ち、短長の説を操ることができ、筋の通った理もあった。

はじめ謝玄の参軍となり、かなり礼を厚くして待たれた。

のちに喪に遭い、服を脱いで都に帰ったが、携えてきたのは『戦国策』だけであった。

人に言った。「若いころ『論語』や『老子』を読み、また『荘子』や『易』を見たが、これらはみな病んで痛むような事柄で、いったい何の役に立とうか。天下で肝要なものは、まさに『戦国策』があるだけだ」

やがて都へ下ってから司馬孝文王を説き、大いに親しく待たれて、もう少しで政の要の軸を乱すところであった。

しかしすぐに誅された。

夾注 1

《袁氏譜》曰:「悅字元禮,陳郡陽夏人。父朗,給事中。仕至驃騎咨議。太元中,悅有寵於會稽王,每勸專覽朝權,王頗納其言。王恭聞其說,言於孝武。乃託以它罪,殺悅於市中。既而朋黨同異之聲,播於朝野矣。」

『袁氏譜』に言う。「袁悦は字は元礼、陳郡陽夏の人である。父の袁朗は給事中である。官は驃騎咨議に至った。太元年間、袁悦は会稽王に寵愛され、いつも朝廷の権を一手に握るよう勧めたので、王はかなりその言を受け入れた。王恭はその話を聞いて孝武帝に申し上げた。そこで別の罪にかこつけて、袁悦を市中で殺した。やがて朋党の是非をめぐる声が、朝廷にも民間にも広まった」

3帝はその言葉をもっともと思い、心のうちで忠義だと受け取って、ついに王珣に会わなかった

孝武甚親敬王國寶、王雅。雅薦王珣於帝,帝欲見之。嘗夜與國寶、雅相對,帝微有酒色,令喚珣。垂至,已聞卒傳聲,國寶自知才出珣下,恐傾奪其寵,因曰:「王珣當今名流,陛下不宜有酒色見之,自可別詔也。」帝然其言,心以為忠,遂不見珣。

孝武帝はたいそう王国宝と王雅を親しみ敬っていた。

王雅が王珣を帝に推薦すると、帝は彼に会いたいと思った。

あるとき夜に国宝と王雅と向かい合っていたが、帝は少し酒の色が出ていながら、王珣を呼ばせた。

もう着こうとして、すでに兵卒が取り次ぐ声が聞こえてきたとき、国宝は自分の才が王珣に劣ることを知っていて、その寵を奪われるのを恐れ、そこで言った。「王珣は当代の名流です。陛下が酒の色のあるままで会われるのはよろしくありません。別に改めて詔をお出しになればよろしいでしょう」

帝はその言葉をもっともと思い、心のうちで忠義だと受け取って、ついに王珣に会わなかった。

夾注 1

《雅別傳》曰:「雅字茂建,東海沂人,少知名。」《晉安帝紀》曰:「雅之為侍中,孝武甚信而重之。王珣、王恭特以地望見禮,至於親幸,莫及雅者。上每置酒燕集,或召雅未至,上不先舉觴。時議謂珣、恭宜傅東宮,而雅以寵幸,超授太傅、尚書左僕射。」

『雅別伝』に言う。「王雅は字は茂建、東海の沂の人で、若くして名を知られた」『晋安帝紀』に言う。「王雅が侍中となると、孝武帝はたいそう信じて重んじた。王珣と王恭はとりわけ家柄と人望によって礼遇されたが、親しく寵愛される点では、王雅に及ぶ者はいなかった。帝が酒宴を設けて人を集めるたび、王雅を召してまだ来ていないときは、帝は先に杯を挙げなかった。当時の議論では王珣と王恭が東宮を輔けるべきだとされたが、王雅は寵愛によって飛び越えて太傅・尚書左僕射を授けられた」

4讒言はこれでやむ

王緒數讒殷荊州於王國寶,殷甚患之,求術於王東亭。曰:「卿但數詣王緒,往輒屏人,因論它事,如此,則二王之好離矣。」殷從之。國寶見王緒問曰:「比與仲堪屏人何所道?」緒云:「故是常往來,無它所論。」國寶謂緒於己有隱,果情好日疎,讒言以息。

王緒がたびたび殷荊州を王国宝に讒言したので、殷氏はひどくこれを気に病み、王東亭に手だてを求めた。

東亭は言った。「あなたはただ、たびたび王緒を訪ねて、行くたびに人を払わせ、そのうえで別の話をなさい。そうすれば二人の王氏の仲は離れるでしょう」

殷氏はこれに従った。

国宝は王緒に会って尋ねた。「このところ仲堪と人を払って何を話していたのか」

王緒は言った。「いつもの行き来にすぎません。別に論じたことはありません」

国宝は王緒が自分に隠し事をしていると思い、果たして情も交わりも日々疎くなって、讒言はこれでやんだ。

夾注 1

按國寶得寵於會稽王,由緒獲進,同惡相求,有如市賈,終至誅夷,曾不攜貳。豈有仲堪微閒,而成離隙。

按ずるに、王国宝が会稽王に寵を得たのは王緒によって進み出たからであり、同じ悪が互いを求め合うさまは市の商人のようで、ついに誅されるまで、一度も二心を抱くことはなかった。どうして殷仲堪が少し隙を入れたからといって、離れる隙を生じたりしよう。