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尤悔世説新語 尤悔第三十三

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 17 · 漢字 1,176字 · 朗読 4.7分

世説新語(世に語られた新しい話) 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1お前はもう私の任城を殺した、これ以上私の東阿を殺してはならぬ

魏文帝忌弟任城王驍壯。因在卞太后閤共圍棊,並噉棗,文帝以毒置諸棗蔕中。自選可食者而進,王弗悟,遂雜進之。既中毒,太后索水救之。帝預敕左右毀缾罐,太后徒跣趨井,無以汲。須臾,遂卒。復欲害東阿,太后曰:「汝已殺我任城,不得復殺我東阿。」

魏の文帝は、弟の任城王が剛勇で逞しいのを憚った。

卞太后の部屋でともに碁を囲み、そのついでに棗を食べることになったが、文帝は毒をいくつかの棗のへたの中に入れておいた。

自分は食べてよいものを選んで口に入れたが、王は気づかず、そのまま混ぜて食べてしまった。

やがて毒に当たると、太后は水を求めて彼を救おうとした。

帝はあらかじめ側の者に瓶や甕を壊させておいたので、太后は裸足で井戸へ走ったが、汲むものがなかった。

しばらくして、王はとうとう死んだ。

帝がさらに東阿を害そうとすると、太后は言った。「お前はもう私の任城を殺した。これ以上、私の東阿を殺してはならぬ」

夾注 2

魏略曰:「任城威王彰,字子文,太祖卞太后弟二子。性剛勇而黃須,北討代郡,獨與麾下百餘人突虜而走。太祖聞曰:『我黃須兒可用也!』」魏志春秋曰:「黃初三年,彰來朝。初,彰問璽綬,將有異志,故來朝不即得見,有此忿懼而暴薨。」

『魏略』に言う。「任城の威王曹彰は字は子文、太祖と卞太后の次の子である。性質は剛毅で勇ましく黄色い髭をしていたが、北へ代郡を討つとき、ただ一人、麾下の百人あまりとともに虜の陣を突いて駆けた。太祖は聞いて『わが黄髭の子は使えるぞ』と言った」『魏志春秋』に言う。「黄初三年、曹彰が朝見に来た。はじめ曹彰は璽と綬のことを問い、異なる心を抱こうとしていたので、朝見に来てもすぐには会ってもらえず、こうした憤りと恐れがあって急死した」

魏志方伎傳曰:「文帝問占夢周宣:『吾夢磨錢文,欲滅而愈更明,何謂?』宣悵然不對。帝固問之,宣曰:『陛下家事,雖欲爾,而太后不聽,是以欲滅更明耳。』帝欲治弟植之罪,逼於太后,但加貶爵。」

『魏志・方伎伝』に言う。「文帝が夢占いの周宣に尋ねた。『私は銭の文字を磨り消そうとするのに、かえっていよいよはっきりしてくる夢を見た。これは何の意味か』と。周宣は浮かぬ顔で答えなかったが、帝が強いて問うと、周宣は『陛下のご家内のことです。そうなさりたくても太后がお聞きになりませんので、消そうとしてもいよいよはっきりするのです』と言った。帝は弟の曹植の罪を裁こうとしたが、太后に迫られて、ただ爵位を下げるだけにした」

2王済はそのために拝礼をせず、顔氏の妾と呼ぶ

王渾後妻,琅邪顏氏女。王時為徐州刺史,交禮拜訖,王將答拜,觀者咸曰:「王侯州將,新婦州民,恐無由答拜。」王乃止。武子以其父不答拜,不成禮,恐非夫婦;不為之拜,謂為顏妾。顏氏恥之。以其門貴,終不敢離。

王渾の後の妻は、琅邪の顔氏の娘である。

王氏はそのとき徐州刺史であったが、礼を交わして拝礼が済み、王氏が答礼をしようとすると、見ていた者たちが皆言った。「王侯は州の将であり、新婦は州の民です。答礼なさる理由はございますまい」

王氏はそこでやめた。

武子は、父が答礼をせず礼が整わなかったのだから、夫婦ではあるまいと考えて、彼女のために拝礼をせず、顔氏の妾と呼んだ。

顔氏はこれを恥じたが、その家柄が貴かったので、ついに去ることもできなかった。

夾注 1

婚姻之禮,人道之大,豈由一不拜而遂為妾媵者乎?世說之言,於是乎紕繆。

婚姻の礼は人の道の大事である。どうして一度答礼をしなかったというだけで、そのまま妾になるものであろうか。『世説』の言は、この点で誤っている。

3華亭の鶴の鳴く声を聞きたいと思っても、もう二度と得られようか

陸平原河橋敗,為盧志所讒,被誅。臨刑嘆曰:「欲聞華亭鶴唳,可復得乎!」

陸平原は河橋で敗れ、盧志に讒言されて誅に遭った。

刑に臨んで嘆いた。「華亭の鶴の鳴く声を聞きたいと思っても、もう二度と得られようか」

夾注 2

王隱晉書曰:「成都王穎討長沙王乂,使陸為都督前鋒諸軍事。」機別傳曰:「成都王長史盧志,與機弟雲趣舍不同。又黃門孟玖求為邯鄲令於穎,穎教付雲,雲時為左司馬,曰:『刑餘之人,不可以君民!』玖聞此怨雲,與志讒構日至。及機於七里澗大敗,玖誣機謀反所致,穎乃使牽秀斬機。先是,夕夢黑幔繞車,手決不開,惡之。明旦,秀兵奄至,機解戎服,箸衣幍見秀,容貌自若,遂見害。時年四十三。軍士莫不流涕。是日天地霧合,大風折木,平地尺雪。」干寶晉紀曰:「初,陸抗誅步闡,百口皆盡,有識尤之。及機、雲見害,三族無遺。」

王隠の『晋書』に言う。「成都王穎が長沙王乂を討つとき、陸機に前鋒の諸軍事を都督させた」『機別伝』に言う。「成都王の長史の盧志は、陸機の弟の陸雲と去就の立場が違っていた。また黄門の孟玖が邯鄲令にしてもらいたいと穎に求め、穎は陸雲に任せよと指示したが、陸雲はそのとき左司馬で、『刑を受けた残りの者に、民の上に立たせることはできない』と言った。孟玖はこれを聞いて陸雲を怨み、盧志とともに讒言して事を構えることが日ごとに繰り返された。陸機が七里澗で大敗すると、孟玖は陸機が反逆を謀ったせいだと誣告し、穎はそこで牽秀を遣って陸機を斬らせた。これより前、夕べに黒い幕が車を取り巻き、手で押し開けても開かないという夢を見て、これを不吉に思っていた。翌朝、牽秀の兵が突然至ると、陸機は軍服を解き、衣と幍を着けて牽秀に会ったが、その容貌は平然としていて、ついに害された。そのとき四十三歳であった。軍士で涙を流さぬ者はなかった。この日、天地は霧に閉ざされ、大風が木を折り、平地に一尺の雪が降った」干宝の『晋紀』に言う。「はじめ陸抗が歩闡を誅したとき、一族百口がことごとく絶えたので、見識ある者はこれを咎めた。陸機と陸雲が害されるに及んで、三族に残る者がなくなった」

八王故事曰:「華亭,吳由拳縣郊外墅也,有清泉茂林。吳平後,陸機兄弟共游於此十餘年。」語林曰:「機為河北都督,聞警角之聲,謂孫丞曰:『聞此不如華亭鶴唳。』故臨刑而有此歎。」

『八王故事』に言う。「華亭は、呉の由拳県の郊外の別荘で、清らかな泉と茂った林があった。呉が平定された後、陸機の兄弟はともにここで十年あまり遊んだ」『語林』に言う。「陸機が河北都督となり、警戒の角笛の音を聞いて孫丞に『これを聞いても華亭の鶴の鳴く声には及ばない』と言った。だから刑に臨んでこの嘆きがあったのである」

4そのためについに成し立てるところがなかった

劉琨善能招延,而拙於撫御。一日雖有數千人歸投,其逃散而去亦復如此。所以卒無所建。

劉琨は人を招き迎えることは上手だったが、慰撫して統御することは拙かった。

一日に数千人が帰順して来ることがあっても、逃げ散って去る者もまた同じほどであった。

そのためについに成し立てるところがなかった。

夾注 1

鄧粲晉紀曰:「琨為并州牧,糾合齊盟,驅率戎旅,而內不撫其民,遂至喪軍失士,無成功也。」敬徹按:「琨以永嘉元年為并州,于時晉陽空城,寇盜四攻,而能收合士眾,抗行淵、勒,十年之中,敗而能振,不能撫御,其得如此乎?凶荒之日,千里無煙,豈一日有數千人歸之?若一日數千人去之,又安得一紀之間以對大難乎?」

鄧粲の『晋紀』に言う。「劉琨は并州牧となって盟を取りまとめ、軍旅を駆り率いたが、内ではその民を慰撫しなかったので、ついに軍を失い士を失って、功を成すことがなかった」敬徹が按ずるに、「劉琨は永嘉元年に并州となったが、そのとき晋陽は空の城で、寇賊が四方から攻めていたのに、士や兵を集め収めて劉淵や石勒に抗して行動し、十年のうちに敗れてもなお立ち直ることができた。慰撫し統御できぬ者に、こんなことができようか。凶作と荒廃の日には千里に炊煙もなかったのに、どうして一日に数千人が帰順したりしよう。もし一日に数千人が去っていたなら、どうして十二年のあいだ大難に立ち向かえたであろうか」

5あの羌人を二度と東へ行かせてはならぬ

王平子始下,丞相語大將軍:「不可復使羌人東行。」平子面似羌。

王平子が初めて都へ下ってきたとき、丞相は大将軍に言った。「あの羌人を、二度と東へ行かせてはならぬ」

平子は顔が羌人に似ていたのである。

夾注 1

按王澄自為王敦所害,丞相名德,豈應有斯言也。

按ずるに、王澄はそもそも王敦に害されたのであり、丞相は名も徳もある人である。どうしてこんな言葉があったはずがあろうか。

6私が周侯を殺したのではないが周侯は私のために死んだのだ、幽冥の中でこの人に負い目がある

王大將軍起事,丞相兄弟詣闕謝。周侯深憂諸王,始入,甚有憂色。丞相呼周侯曰:「百口委卿!」周直過不應。既入,苦相存救。既釋,周大說,飲酒。及出,諸王故在門。周曰:「今年殺諸賊奴,當取金印如斗大繫肘後。」大將軍至石頭,問丞相曰:「周侯可為三公不?」丞相不答。又問:「可為尚書令不?」又不應。因云:「如此,唯當殺之耳!」復默然。逮周侯被害,丞相後知周侯救己,嘆曰:「我不殺周侯,周侯由我而死。幽冥中負此人!」

王大将軍が事を起こすと、丞相の兄弟は宮門へ出て謝罪した。

周侯は王氏の人々のことを深く心配し、初めて門に入るとき、ひどく憂いの色を帯びていた。

丞相は周侯を呼んで言った。「一族百口をあなたに託す」

周氏はまっすぐ通り過ぎて返事をしなかった。

しかし中に入ってからは、懸命に彼らを残し救おうとした。処分が解かれると、周氏は大いに喜んで酒を飲んだ。

出てくると、王氏の人々はまだ門にいた。周氏は言った。「今年は賊の奴らを殺して、升ほどの大きさの金印を手に入れて肘の後ろに下げてやるぞ」

大将軍が石頭に至ってから、丞相に尋ねた。「周侯は三公になれるだろうか」

丞相は答えなかった。

また尋ねた。「尚書令にはなれるだろうか」

これにも応じなかった。

そこで大将軍は言った。「それなら、ただ殺すしかあるまい」

丞相はまた黙っていた。

周侯が害されるに至って、丞相は後になって周侯が自分を救おうとしていたことを知り、嘆いて言った。「私が周侯を殺したのではないが、周侯は私のために死んだのだ。幽冥の中でこの人に負い目がある」

夾注 1

虞預晉書曰:「敦克京邑,參軍呂漪說敦曰:『周顗、戴淵,皆有名望,足以惑眾。視近日之言,無慚懼之色,若不除之,役將未歇也。』敦即然之,遂害淵、顗。初,漪為臺郎,淵既上官,素有高氣,以漪小器待之,故售其說焉。」

虞預の『晋書』に言う。「王敦が都を陥れると、参軍の呂漪が王敦に説いて『周顗と戴淵はどちらも名声と人望があり、人々を惑わすに十分です。近ごろの言葉を見ても、恥じ恐れる色がありません。もしこれを除かなければ、面倒はまだ終わらないでしょう』と言った。王敦はすぐにこれをもっともと思い、ついに戴淵と周顗を害した。はじめ呂漪が台郎であったころ、戴淵はすでに上の官にあり、もとより気位が高く、呂漪を小さい器として扱ったので、それでこの説を売り込んだのである」

7もし公の言うとおりなら、わが帝位がどうして長く続こう

王導、溫嶠俱見明帝,帝問溫前世所以得天下之由。溫未答。頃,王曰:「溫嶠年少未諳,臣為陛下陳之。」王迺具敘宣王創業之始,誅夷名族,寵樹同己。及文王之末,高貴鄉公事。明帝聞之,覆面著床曰:「若如公言,祚安得長!」

王導と温嶠がともに明帝に見えたとき、帝は温氏に、前の世が天下を得た由来を尋ねた。

温氏はまだ答えなかった。

しばらくして王氏が言った。「温嶠は年若くて詳しく知りません。臣が陛下のために申し上げましょう」

王氏はそこで、宣王が業を創めた初めに名族を誅し滅ぼし、自分に同調する者を寵愛して植えつけたこと、そして文王の末年のことと高貴郷公の事件とを、くわしく述べた。

明帝はこれを聞くと、顔を覆って床に伏せて言った。「もし公の言うとおりなら、わが帝位がどうして長く続こう」

夾注 1

宣王創業,誅曹爽,任蔣濟之流者是也。高貴鄉公之事,已見上。

宣王が業を創めた初めに曹爽を誅し、蔣済のような者に任せたことがこれである。高貴郷公の事件は、すでに上に見えている。

8世の乱れに遭って、ついにこんなことになってしまった

王大將軍於眾坐中曰:「諸周由來未有作三公者。」有人答曰:「唯周侯邑五馬領頭而不克。」大將軍曰:「我與周洛下相遇,一面頓盡。值世紛紜,遂至於此!」因為流涕。

王大将軍が人々の座っている中で言った。「周氏の人々には、これまで三公になった者がいないな」

ある人が答えた。「ただ周侯だけが五馬の頭を率いる地位にありながら、成し遂げられませんでした」

大将軍は言った。「私は周氏と洛陽のあたりで出会い、一度顔を合わせただけで心を尽くし合った。世の乱れに遭って、ついにこんなことになってしまった」

そう言って涙を流した。

夾注 1

鄧粲晉紀曰:「王敦參軍,有於敦坐樗蒱,臨當成都,馬頭被殺,因謂曰:『周家奕世令望,而位不至三公,伯仁垂作而不果,有似下官此馬。』敦慨然流涕曰:『伯仁總角時,與於東宮,相遇一面,披衿便許之三司,何圖不幸,王法所裁,悽愴之深,言何能盡!』」

鄧粲の『晋紀』に言う。「王敦の参軍が、王敦の席で樗蒱をしていたが、成都の目になろうというところで馬の頭が取られてしまい、それでこう言った。『周家は代々よい人望がありながら、位は三公に至らず、伯仁はもう少しでなるところを果たせませんでした。下官のこの馬によく似ております』と。王敦は感慨して涙を流し、『伯仁が総角のころ、東宮で一度顔を合わせ、胸襟を開いてすぐに三司に推すと約したのだ。それが不幸にも王法に裁かれることになろうとは、どうして思ったろう。悲しみの深さは、言葉でどうして言い尽くせようか』と言った」

9温嶠が衣の裾を断ち切って行く

溫公初受劉司空使勸進,母崔氏固駐之,嶠絕裾而去。迄於崇貴,鄉品猶不過也。每爵皆發詔。

温公がはじめ劉司空の使いを受けて即位を勧めに行くことになったとき、母の崔氏は強く彼を引き止めたが、温嶠は衣の裾を断ち切って行った。

高く貴い地位に至るまで、郷里の人物評は彼を通さなかった。官爵のたびにいつも詔を下してもらうことになった。

夾注 2

溫氏譜曰:「嶠父襜,娶清河崔參女。」

『温氏譜』に言う。「温嶠の父の温襜は、清河の崔参の娘を娶った」

虞預晉書曰:「元帝即位,以溫嶠為散騎侍郎。嶠以母亡,逼賊,不得往臨葬,固辭。詔曰:『嶠以未葬,朝議又頗有異同,故不拜。其令入坐議,吾將折其衷。』」

虞預の『晋書』に言う。「元帝が即位すると、温嶠を散騎侍郎とした。温嶠は母が亡くなったのに賊に迫られて葬儀に臨むことができなかったという理由で、固く辞した。詔に言う。『温嶠はまだ葬りを終えていないと言い、朝議にもかなり異同があるので、任命されずにいる。入って座に加わり議させよ。私がその折り合いをつけよう』と」

10大丈夫たるものが、よもや庾元規に売られたか

庾公欲起周子南,子南執辭愈固。庾每詣周,庾從南門入,周從後門出。庾嘗一往奄至,周不及去,相對終日。庾從周索食,周出蔬食,庾亦彊飯,極歡;并語世故,約相推引,同佐世之任。既仕,至將軍二千石,而不稱意。中宵慨然曰:「大丈夫乃為庾元規所賣!」一嘆,遂發背而卒。

庾公は周子南を世に出そうとしたが、子南は辞退をいよいよ固く通した。

庾氏が周氏を訪ねるたび、庾氏が南の門から入れば、周氏は裏の門から出て行った。

庾氏があるとき不意に着いたので、周氏は逃げるいとまがなく、二人は向かい合って一日を過ごした。

庾氏が周氏に食事を求めると、周氏は菜の食事を出したが、庾氏もしいて飯を食べ、大いに歓んだ。

そのうえ世の成り行きを語り合い、互いに推し引き合って、ともに世を輔ける任に当たろうと約した。

やがて仕えて将軍二千石に至ったが、思いどおりにはならなかった。

夜中に感慨して言った。「大丈夫たるものが、よもや庾元規に売られたか」

一度そう嘆き、ついに背に瘡が出て没した。

夾注 1

尋陽記曰:「周邵字子南,與南陽翟湯隱於尋陽廬山。庾亮臨江州,聞翟、周之風,束帶躡履而詣焉。聞庾至,轉避之。亮後密往,值邵彈鳥於林,因前與語。還,便云:『此人可起。』即拔為鎮蠻護軍、西陽太守。」其集載與邵書曰:「西陽一郡,戶口差實,非履道真純,何以鎮其流遁?詢之朝野,僉曰足下。今具上表,請足下臨之,無讓。」

『尋陽記』に言う。「周邵は字は子南、南陽の翟湯とともに尋陽の廬山に隠れていた。庾亮が江州に臨み、翟氏と周氏の風格を聞いて、帯を締め履を履いて訪ねて行った。周邵は庾亮が来ると聞いて、引き返して彼を避けた。庾亮が後にひそかに行くと、たまたま周邵が林で鳥を射ていたので、そこで進み出て語り合った。帰ってすぐに『この人は世に出せる』と言い、ただちに抜擢して鎮蛮護軍・西陽太守とした」その文集に載る周邵への手紙に言う。「西陽の一郡は戸口がかなり充実しております。道を踏む心が真で純でなければ、何によってその流れ散るのを鎮められましょう。朝廷にも民間にも問うたところ、皆が足下と申します。いま詳しく上表しますので、どうか足下がここに臨んでください。辞退なさらぬように」

11そこで釈氏に恨みを結び、宿命の説をまるごと捨ててしまう

阮思曠奉大法,敬信甚至。大兒年未弱冠,忽被篤疾。兒既是偏所愛重,為之祈請三寶,晝夜不懈。謂至誠有感者,必當蒙祐。而兒遂不濟。於是結恨釋氏,宿命都除。

阮思曠は大法を奉じ、敬い信ずることがきわめて篤かった。

長男が年まだ二十にならないうちに、突然重い病にかかった。

その子はもともと格別に愛し重んじていた子だったので、彼のために三宝に祈り願って、昼も夜も怠らなかった。

至誠には感応があるのだから、必ず加護を受けられるはずだと思っていた。

ところが子はついに救われなかった。

そこで釈氏に恨みを結び、宿命の説をまるごと捨ててしまった。

夾注 2

阮氏譜曰:「牖字彥倫,裕長子也。仕至州主簿。」

『阮氏譜』に言う。「阮牖は字は彦倫、阮裕の長子である。官は州主簿に至った」

以阮公智識,必無此弊。脫此非謬,何其惑歟?夫文王期盡,聖子不能駐其年,釋種誅夷,神力無以延其命。故業有定限,報不可移。若請禱而望其靈,匪驗而忽其道,固陋之徒耳。豈可以言神明之智者哉?

阮公の知恵と見識であれば、必ずこのような弊はなかったであろう。もしこれが誤りでないとすれば、なんとまあ迷ったことか。そもそも文王の寿命が尽きたときには、聖なる子もその年を留めることができず、釈迦の一族が誅し滅ぼされたときには、神通力もその命を延ばすすべがなかった。だから業には定まった限りがあり、報いは移すことができない。もし祈り祷ってその霊験を期待し、効き目がないからとその道を軽んじるなら、固陋の徒にすぎない。どうして神明の知恵ある者と言えようか。

12宣武はきまり悪く恥じ入って、一言も言えなかった

桓宣武對簡文帝,不甚得語。廢海西後,宜自申敘,乃豫撰數百語,陳廢立之意。既見簡文,簡文便泣下數十行。宣武矜愧,不得一言。

桓宣武は簡文帝と向かい合うと、どうにも言葉が出なかった。

海西公を廃した後は、自ら述べて明かさねばならないので、あらかじめ数百語を書き起こし、廃立の意を申し上げるつもりでいた。

ところが簡文帝に会うと、簡文帝はすぐに涙を数十筋も流した。

宣武はきまり悪く恥じ入って、一言も言えなかった。

13どうせ芳しい名を後世に流せないのなら、せめて万年に臭名を残すだけのこともできないのか

桓公臥語曰:「作此寂寂,將為文、景所笑!」既而屈起坐曰:「既不能流芳後世,亦不足復遺臭萬載邪?」

桓公が横になって言った。「こんなに寂しく無為に過ごしていては、文帝や景帝に笑われてしまうぞ」

そう言ってから身を起こして座り直し、言った。「どうせ芳しい名を後世に流せないのなら、せめて万年に臭名を残すだけのこともできないのか」

夾注 1

續晉陽秋曰:「桓溫既以雄武專朝,任兼將相,其不臣之心,形于音跡。曾臥對親僚,撫枕而起曰:『為爾寂寂,為文、景所笑!』眾莫敢對。」

『続晋陽秋』に言う。「桓温はすでに雄々しい武勇で朝廷を独り占めし、任は将と相を兼ねていたので、その臣たらぬ心は言葉にも挙措にも現れていた。あるとき横になって親しい属官と向かい合っていたが、枕を撫でて起き上がり『こんなに寂しく無為にしていては、文帝や景帝に笑われてしまうぞ』と言った。人々は誰も答えようとしなかった」

14追い詰められた狭い境地では、その穏やかさと純粋さを保っていられないのだとよくわかる

謝太傅於東船行,小人引船,或遲或速,或停或待,又放船從橫,撞人觸岸。公初不呵譴。人謂公常無嗔喜。曾送兄征西葬還,日莫雨駛,小人皆醉,不可處分。公乃於車中,手取車柱撞馭人,聲色甚厲。夫以水性沈柔,入隘奔激。方之人情,固知迫隘之地,無得保其夷粹。

謝太傅が東で舟を進めていたとき、下の者たちが舟を引くのに、遅かったり速かったり、止まったり待ったりし、そのうえ舟を放り出して横向きにし、人にぶつかり岸に当てたりした。

公は初めのうちは叱りとがめなかった。

人々は、公にはいつも怒りも喜びもないのだと思った。

あるとき兄の征西を葬って見送り、帰る途中、日は暮れて雨は激しく、下の者たちは皆酔っていて、指図のしようもなかった。

公はそこで車の中から手で車の柱を取って御者を打ちつけ、声も顔つきもひどく険しかった。

そもそも水の性は沈み静かで柔らかいが、狭い所に入れば走り激する。

これを人の情に引き比べれば、追い詰められた狭い境地では、その穏やかさと純粋さを保っていられないのだと、よくわかる。

夾注 2

征西,謝奕。

征西は謝奕である。

孟子曰:「湍水,決之東則東,決之西則西。搏而躍之,可使過顙;激而行之,可使在山。豈水之性哉?人可使為不善,性亦猶是也。」

『孟子』に言う。「湍れる水は、東へ切り開けば東へ行き、西へ切り開けば西へ行く。打って跳ね上げれば額を越えさせることもでき、激しくして行かせれば山の上にあらせることもできる。それが水の性であろうか。人も善からぬことをさせることができるのであって、性もまたこれと同じである」

15その末に頼りながら、その本を知らないでいてよいものか

簡文見田稻不識,問是何草?左右答是稻。簡文還,三日不出,云:「寧有賴其末,而不識其本?」

簡文帝が田の稲を見てそれが何かわからず、これは何という草かと尋ねると、側の者は稲ですと答えた。

簡文帝は帰ってから三日のあいだ外に出ず、こう言った。「その末に頼りながら、その本を知らないでいてよいものか」

夾注 1

文公種菜,曾子牧羊,縱不識稻,何所多悔!此言必虛。

文公は菜を植え、曾子は羊を飼った。たとえ稲を知らなかったとしても、何をそう深く悔いることがあろう。この話はきっと虚である。

16論ずる者はこの死は揚州を譲って荊州へ行ったことよりも立派だと言う

桓車騎在上明畋獵。東信至,傳淮上大捷。語左右云:「群謝年少,大破賊。」因發病薨。談者以為此死,賢於讓揚之荊。

桓車騎が上明で狩りをしていた。

東からの知らせが届き、淮水のほとりでの大勝を伝えた。

側の者に言った。「謝氏の若者たちが、大いに賊を破ったのだな」

そしてそのまま病を発して没した。

論ずる者は、この死は揚州を譲って荊州へ行ったことよりも立派だと言った。

夾注 1

續晉陽秋曰:「桓沖本以將相異宜,才用不同,忖己德量,不及謝安,故解揚州以讓安。自謂少經軍鎮,及為荊州,聞符堅自出淮、肥,深以根本為慮,遣其隨身精兵三千人赴京師。時安已遣諸軍,且欲外示閒暇,因令沖軍還。沖大驚曰:『謝安乃有廟堂之量,不閑將略。吾量賊必破襄陽,而并力淮、肥。今大敵果至,方遊談示暇,遣諸不經事年少,而實寡弱,天下誰知?吾其左衽矣!』俄聞大勳克舉,慚慨而薨。」

『続晋陽秋』に言う。「桓沖はもともと将と相はふさわしさが異なり、才の用い方も違うとして、自分の徳と度量を測って謝安に及ばないと考えたので、揚州を解いて謝安に譲った。自分は若いころから軍の鎮めを経てきたと思っていたが、荊州となってから、符堅が自ら淮水・肥水へ出てくると聞いて、深く国の根本を憂え、自分の身辺の精兵三千人を都へ送った。そのとき謝安はすでに諸軍を遣わしており、そのうえ外には悠々としたさまを示そうとして、桓沖の軍を帰らせた。桓沖は大いに驚いて言った。『謝安には廟堂の度量はあるが、将としての計略には通じていない。私の見るところ、賊は必ず襄陽を破り、力を併せて淮水・肥水へ向かうであろう。いま大敵が本当に来たのに、まさに遊び談じて悠々たるさまを見せ、事を経ていない若者たちばかりを遣わしているが、実際には少なく弱い。天下の誰がこれを知ろう。われらは衽を左にすることになろう』と。やがて大功が成ったと聞いて、恥じ憤りながら没した」

17桓玄の気持ちも顔色もひどく悪くなった

桓公初報破殷荊州,曾講論語,至「富與貴,是人之所欲,不以其道得之,不處」。玄意色甚惡。

桓公がはじめ殷荊州を破ったことを知らせてきたとき、ちょうど『論語』を講じていて、「富と貴とは人の欲するところであるが、その道によって得たのでなければ、そこに居らない」の一節に至った。

桓玄の気持ちも顔色も、ひどく悪くなった。

夾注 2

周祗隆安記曰:「仲堪以人情注於玄,疑朝廷欲以玄代己,遣道人竺僧愆齎寶物遺相王寵幸、媒尼、左右,以罪狀玄,玄知其謀,而擊滅之。」

周祗の『隆安記』に言う。「殷仲堪は人の心が桓玄に集まっているので、朝廷が桓玄に自分の代わりをさせようとしているのではないかと疑った。道人の竺僧愆を遣って宝物を持たせ、相王の寵臣や仲立ちの尼や側近に贈り、桓玄を罪に落とそうとしたが、桓玄はその企みを知って、彼を撃って滅ぼした」

孔安國注曰:「不以其道得富貴,則仁者不處。」

孔安国の注に言う。「その道によって富貴を得たのでなければ、仁者はそこに居らない」