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仇隙世説新語 仇隟第三十六

世説新語(世に語られた新しい話) 世說新語 · 劉義慶 編 · 劉孝標 注 · 南朝・宋(5世紀)· 梁の劉孝標の注 · 段落 8 · 漢字 725字 · 朗読 2.9分

世説新語(世に語られた新しい話) 「日は遠いです。人が日のそばから来たという話を聞いたことがありませんから、それで分かります」 — 幼い子が父の膝で言った答えである。翌日もう一度問われると「日は近いです。目を上げれば日は見えますが、長安は見えません」と答えた。後漢の末から東晋まで二百余年、人びとが交わした言葉と身ぶりだけを三十六の類に分けて集めた。徳行・言語・政事・文学から始まり、奢り・怒り・妬み・仇まで下るので、称えるべきものと責めるべきものを同じ重さに置いたことになる。竹林の七人が現れ、王羲之が婿に選ばれ、雪の降る夜に舟を漕いで友の家の前まで行き、興が尽きたと言って帰る。一片はおおむね三、四行、長くても一頁を越えない。劉孝標が百余種の書を引いて付けた注は、それらの書がほとんど失われた今、かえって本文より長く残った。

1まさに『白首にして同じ所に帰す』と言うべきだ

孫秀既恨石崇不與綠珠,又憾潘岳昔遇之不以禮。後秀為中書令,岳省內見之,因喚曰:「孫令,憶疇昔周旋不?」秀曰:「中心藏之,何日忘之?」岳於是始知必不免。後收石崇、歐陽堅石,同日收岳。石先送市,亦不相知。潘後至,石謂潘曰:「安仁,卿亦復爾邪?」潘曰:「可謂『白首同所歸』。」《潘金谷集》詩云:「投分寄石友,白首同所歸。」乃成其讖。

孫秀は、石崇が緑珠をくれなかったことを恨んでいたうえに、潘岳が昔、自分を礼をもって遇さなかったことも怨んでいた。

のちに孫秀が中書令となったとき、潘岳は役所の中で彼に会い、そこで声をかけて言った。「孫令、昔の付き合いを覚えておられるか」

孫秀は言った。「心の中に収めております。どの日に忘れましょうか」

潘岳はこれではじめて、必ず免れないと知った。

のちに石崇と欧陽堅石が捕らえられ、同じ日に潘岳も捕らえられた。

石崇が先に市へ送られたが、それも互いに知らなかった。

潘岳が後から着くと、石崇は潘岳に言った。「安仁、あなたもまたそうなったのか」

潘岳は言った。「まさに『白首にして同じ所に帰す』と言うべきですな」

潘岳の「金谷集」の詩に「分を投じて石の友に寄す、白首にして同じ所に帰す」とあったのが、その予言になってしまったのである。

夾注 4

干寶《晉紀》曰:「石崇有妓人綠珠,美而工笛,孫秀使人求之。崇別館北邙下,方登涼觀,臨清水,使者以告。崇出其婢妾數十人以示之曰:『任所以擇。』使者曰:『本受命者,指綠珠也,未識孰是?』崇勃然曰:『綠珠,吾所愛,不可得也!』使者曰:『君侯博古知今,察遠照邇,願加三思。』崇不然。使者已出又反,崇竟不許。」

干宝の『晋紀』に言う。「石崇に緑珠という妓があり、美しくて笛が巧みであったが、孫秀は人を遣ってこれを求めた。石崇は北邙の下の別館にあって、ちょうど涼み台に登り清い水に臨んでいたが、使いの者がその旨を告げた。石崇はその婢や妾を数十人出して見せ、『選ぶにまかせよう』と言った。使いの者は『もともと命を受けたのは緑珠を指してのことですが、どなたがそれかわかりません』と言った。石崇はにわかに色を変えて『緑珠は私の愛するものだ。渡すことはできぬ』と言った。使いの者は『君侯は古に博く今を知り、遠くを察し近くを照らされるお方です。どうか三たびお考えください』と言った。石崇は承知しなかった。使いの者は一度出てからまた戻ったが、石崇はついに許さなかった」

王隱《晉書》曰:「岳父文德,為琅邪太守,孫秀為小吏給使,岳數蹴蹋秀,而不以人遇之也。」

王隠の『晋書』に言う。「潘岳の父の潘文徳が琅邪太守であったとき、孫秀は下級の吏として使い走りをしていたが、潘岳はたびたび孫秀を足蹴にし、人として扱わなかった」

《晉陽秋》曰:「歐陽建字堅石,渤海人。有才藻,時人為之語曰:『渤海赫赫,歐陽堅石。』初,建為馮翊太守,趙王倫為征西將軍,孫秀為腹心,撓亂關中,建每匡正,由是有隙。」王隱《晉書》曰:「石崇、潘岳與賈謐相友善,及謐廢,懼終見危,與淮南王謀誅倫,事泄,收崇及親期以上皆斬之。初,岳母誡岳以止足之道,及收,與母別曰:『負阿母!』崇家河北,收者至。曰:『吾不過流徙交、廣耳!』及車載東市,始歎曰:『奴輩利吾家之財。』收崇人曰:『知財為害,何不蚤散?』崇不能答。」

『晋陽秋』に言う。「欧陽建は字は堅石、渤海の人である。才と文藻があり、当時の人は彼を評して『渤海赫赫たり、欧陽堅石』と言った。はじめ欧陽建が馮翊太守であったとき、趙王倫が征西将軍となり、孫秀がその腹心となって関中を掻き乱したが、欧陽建はいつもこれを正したので、それによって隙ができた」王隠の『晋書』に言う。「石崇と潘岳は賈謐と親しく交わっていたが、賈謐が廃されると、いずれ危うくなるのを恐れ、淮南王と倫を誅する計画を立てたが、事が漏れて、石崇および近い縁者以上の者を捕らえて皆斬った。はじめ潘岳の母は潘岳に、足るを知ってとどまる道を説いて戒めていたが、捕らえられるとき、母に別れて『母上に申しわけありません』と言った。石崇の家は河北にあったが、捕らえる者が来た。石崇は『私など交州や広州に流されるだけだろう』と言った。車に載せられて東市に至ってはじめて嘆き、『奴らはわが家の財を狙ったのだ』と言った。石崇を捕らえた者が『財が害になると知っていたなら、なぜ早く散じなかったのか』と言うと、石崇は答えられなかった」

《語林》曰:「潘、石同刑東市,石謂潘曰:『天下殺英雄,卿復何為?』潘曰:『俊士填溝壑,餘波來及人。』」

『語林』に言う。「潘氏と石氏が同じく東市で刑を受けるとき、石氏が潘氏に『天下が英雄を殺すというのに、あなたは何をしたというのか』と言った。潘氏は『俊士が溝や谷を埋め、その余波が私にまで及んだのです』と言った」

2若い者が、どうして軽々しく人の家に泊まりに行くのか

劉璵兄弟少時為王愷所憎,嘗召二人宿,欲默除之。令作阬,阬畢,垂加害矣。石崇素與璵、琨善,聞就愷宿,知當有變,便夜往詣愷,問二劉所在?愷卒迫不得諱,答云:「在後齋中眠。」石便徑入,自牽出,同車而去。語曰:「少年,何以輕就人宿?」

劉璵の兄弟は若いころ、王愷に憎まれていた。

あるとき二人を呼んで泊まらせ、黙って彼らを除こうとした。

穴を掘らせ、穴ができあがって、まさに害を加えようとしていた。

石崇はもとより劉璵と劉琨と親しかったが、二人が王愷の所に泊まっていると聞いて、変事があるにちがいないと察し、すぐに夜に王愷を訪ねて、二人の劉氏がどこにいるかを尋ねた。

王愷は急に迫られて隠しきれず、こう答えた。「奥の部屋で寝ております」

石崇はそのまままっすぐ入って、自分で引き出し、車を同じくして去った。

そして言った。「若い者が、どうして軽々しく人の家に泊まりに行くのか」

夾注 1

劉璨《晉紀》曰:「琨與兄璵俱知名,遊權貴之間,當世以為豪傑。」

劉璨の『晋紀』に言う。「劉琨は兄の劉璵とともに名を知られ、権勢ある貴顕の間に交わったので、当世はこれを豪傑と見なした」

3無忌は驚いて叫び、刃を抜いて出て行く

王大將軍執司馬愍王,夜遣世將載王於車而殺之,當時不盡知也。雖愍王家,亦未之皆悉,而無忌兄弟皆稺。王胡之與無忌,長甚相暱,胡之嘗共遊,無忌入告母,請為饌。母流涕曰:「王敦昔肆酷汝父,假手世將。吾所以積年不告汝者,王氏門彊,汝兄弟尚幼,不欲使此聲著,蓋以避禍耳!」無忌驚號,抽刃而出,胡之去已遠。

王大将軍が司馬愍王を捕らえ、夜に世将を遣って王を車に載せて殺したが、当時それをすべての人が知っていたわけではなかった。

愍王の家の者でさえ皆が詳しく知っていたわけではなく、無忌の兄弟は皆まだ幼かった。

王胡之は無忌と、育つあいだたいそう親しくしていた。

胡之があるとき一緒に遊んだとき、無忌は家に入って母に告げ、食事を用意してほしいと頼んだ。

母は涙を流して言った。「王敦は昔、お前の父にむごいことを思うままにし、世将の手を借りたのだ。私が長年お前に告げなかったのは、王氏の家柄が強く、お前たち兄弟がまだ幼かったので、この話が表に出ないようにしたかったからだ。つまりは禍を避けるためだったのだよ」

無忌は驚いて叫び、刃を抜いて出て行ったが、胡之はもう遠くへ去っていた。

夾注 3

《晉陽秋》曰:「司馬丞字元敬,譙王遜子也。為中宗相州刺史,路過武昌,王敦與燕會,酒酣,謂丞曰:『大王篤實佳士,非將御之才。』對曰:『焉知鈆刀不能一割乎?』敦將謀逆,召丞為軍司馬,丞歎曰:『吾其死矣!地荒民解,勢孤援絕。赴君難,忠也;死王事,義也。死忠與義,又何求焉?』乃馳檄諸郡,丞赴義。敦遣從母弟魏乂攻丞,王廙使賊迎之,薨於車。敦既滅,追贈驃騎,謚曰愍王。」

『晋陽秋』に言う。「司馬丞は字は元敬、譙王の司馬遜の子である。中宗の相州刺史となり、道すがら武昌を通ったとき、王敦が宴を設けて集まり、酒が進むと司馬丞に『大王は篤実な立派な士ではあるが、将として軍を御する才ではない』と言った。答えて『どうして鉛の刀が一度も切れないとわかりましょうか』と言った。王敦が反逆を謀ろうとして司馬丞を召して軍司馬にしようとすると、司馬丞は嘆いて『私は死ぬであろう。土地は荒れ民は離れ、勢は孤立して援けも絶えている。君の難に赴くのは忠であり、王事に死ぬのは義である。忠と義に死ぬのだから、ほかに何を求めよう』と言った。そこで諸郡に檄を馳せた。司馬丞が義に赴いたのである。王敦は母方の従弟の魏乂を遣って司馬丞を攻めさせ、王廙が賊を使って彼を迎えさせたので、車の中で没した。王敦が滅んだ後、驃騎を追贈し、諡を愍王とした」

《無忌別傳》曰:「無忌字公壽,丞子也。才器兼濟,有文武幹。襲封譙王,衛軍將軍。」

『無忌別伝』に言う。「無忌は字は公寿、司馬丞の子である。才も器量もともに世を済うに足り、文武の才幹があった。譙王の封を継ぎ、衛軍将軍となった」

《司馬氏譜》曰:「丞娶南陽趙氏女。」《王廙別傳》曰:「廙字世將。祖覽、父正。廙高朗豪率。王導、庾亮遊于石頭,會廙至,爾日迅風飛颿,廙倚船樓長嘯,神氣甚逸。導謂亮曰:『世將為復識事。』亮曰:『正足舒其逸耳。』性倨傲,不合己者面拒之,故為物所疾。加平南將軍,薨。」

『司馬氏譜』に言う。「司馬丞は南陽の趙氏の娘を娶った」『王廙別伝』に言う。「王廙は字は世将である。祖父は王覧、父は王正である。王廙は高く明朗で豪放さっぱりしていた。王導と庾亮が石頭に遊んでいたとき、ちょうど王廙が来た。その日は疾風に帆が飛び、王廙は船楼に寄りかかって長く嘯き、その気配はたいそう颯爽としていた。王導は庾亮に『世将もまた事がわかっているな』と言った。庾亮は『まさにその颯爽さを伸ばすのに足るというだけのことです』と言った。性質は傲慢で、自分に合わない者は面と向かって拒んだので、人々に憎まれた。平南将軍を加えられ、没した」

4脩載は逃げて水に身を投げ、小舟の上の者が受け止めて引き上げたので助かることができた

應鎮南作荊州,王脩載、譙王子無忌同至新亭與別,坐上賓甚多,不悟二人俱到。有一客道:「譙王丞致禍,非大將軍意,正是平南所為耳。」無忌因奪直兵參軍刀,便欲斫。脩載走投水,舸上人接取,得免。

応鎮南が荊州となったとき、王脩載と譙王の子の無忌がともに新亭まで来て別れを惜しんだ。

席には客がたいそう多く、二人がそろって来ていることに気づかなかった。

一人の客が言った。「譙王司馬丞が禍に遭ったのは大将軍の意ではなく、まさに平南のしたことにすぎません」

無忌はそれを聞いて直兵参軍の刀を奪い取り、すぐに斬ろうとした。

脩載は逃げて水に身を投げ、小舟の上の者が受け止めて引き上げたので、助かることができた。

夾注 2

王隱《晉書》曰:「應詹字思遠,汝南南頓人,璩曾孫也。為人弘長有淹度,飾之以文才。司徒何充歎曰:『所謂文質之士!』累遷江州刺史、鎮南將軍。」

王隠の『晋書』に言う。「応詹は字は思遠、汝南南頓の人で、応璩の曾孫である。人柄は大きく広やかで深い度量があり、それを文才で飾っていた。司徒の何充は感嘆して『いわゆる文質の士だ』と言った。官を重ねて江州刺史・鎮南将軍に至った」

《中興書》曰:「褚裒為江州,無忌於坐拔刀斫耆之,褒與桓景共免之。御史奏無忌欲專殺害,詔以贖論。」前章既言無忌母告之,而此章復云客敘其事,且王廙之害司馬丞,遐邇共悉,脩齡兄弟,豈容不知?孫盛之言,皆實錄也。

『中興書』に言う。「褚裒が江州となったとき、無忌が席で刀を抜いて耆之を斬ろうとしたが、褚裒は桓景とともに彼を助けて免れさせた。御史が無忌が勝手に殺害しようとしたと奏したので、詔によって贖罪として処理された」前の章ではすでに無忌の母が彼に告げたと言い、この章では客がその事を述べたと言っている。そのうえ王廙が司馬丞を害したことは、遠近の人が皆知っていることなのだから、脩齢の兄弟が知らなかったということがありえようか。孫盛の言のほうが、いずれも事実の記録である。

5王右軍はついに病と称して郡を去り、憤りと嘆きのうちに世を終える

王右軍素輕藍田,藍田晚節論譽轉重,右軍尤不平。藍田於會稽丁艱,停山陰治喪。右軍代為郡,屢言出弔,連日不果。後詣門自通,主人既哭,不前而去,以陵辱之。於是彼此嫌隟大構。後藍田臨揚州,右軍尚在郡,初得消息,遣一參軍詣朝廷,求分會稽為越州,使人受意失旨,大為時賢所笑。藍田密令從事數其郡諸不法,以先有隟,令自為其宜。右軍遂稱疾去郡,以憤慨致終。

王右軍はもとより藍田を軽んじていたが、藍田が晩年になって世評が次第に重くなると、右軍はいよいよ不快であった。

藍田は会稽で喪に遭い、山陰に留まって喪を営んだ。

右軍が代わって郡の長となると、たびたび弔問に出ると口にしたが、何日も続けて実行しなかった。

のちに門前まで行って自ら取り次がせ、主人が声を上げて哭いても、前へ進まずに去って、それで彼を侮辱した。

こうして双方の嫌悪と隙が大きく絡み合った。

のちに藍田が揚州に臨み、右軍はまだ郡にあったが、その知らせを受けたばかりのころ、一人の参軍を朝廷へ遣わし、会稽を分けて越州とすることを求めた。

使いの者は意を受けながらその趣旨を取り違えてしまい、大いに当時の賢者たちの笑いものとなった。

藍田はひそかに従事に命じて、その郡の違法の数々を数え上げさせ、以前から隙があったので、自分で適当に処するにまかせた。

右軍はついに病と称して郡を去り、憤りと嘆きのうちに世を終えた。

夾注 1

《中興書》曰:「羲之與述志尚不同,而兩不相能。述為會稽,艱居郡境,王羲之後為郡,申慰而已,初不重詣,述深以為恨。喪除,徵拜揚州,就徵,周行郡境,而不歷羲之。臨發,一別而去。羲之初語其友曰:『王懷祖免喪,正可當尚書,投老可得為僕射,更望會稽,便自邈然。』述既顯授,又檢校會稽郡,求其得失,主者疲於課對。羲之恥慨,遂稱疾去郡,墓前自誓不復仕。朝廷以其誓苦,不復徵也。」

『中興書』に言う。「王羲之は王述と志も尊ぶところも違い、二人は互いに相手を認めなかった。王述が会稽であったとき、喪中で郡の境内に住んでいたが、王羲之が後に郡の長となっても、言葉で慰めるだけで、はじめから重ねて訪ねることをしなかったので、王述は深くこれを恨んだ。喪が明けて召されて揚州に任じられると、召しに応じて郡の境内を巡り歩きながら、王羲之の所は通らなかった。出発に臨んで、一度別れを告げただけで去った。王羲之ははじめ、その友に『王懐祖が喪を終えれば、ちょうど尚書くらいにはなれるだろうし、年を取れば僕射にはなれるかもしれぬが、そのうえ会稽まで望むのは、まるで見込みのない話だ』と言っていた。王述はすでに顕職を授かったうえ、会稽郡を査察してその得失を洗い出したので、担当の者は問い合わせへの対応に疲れきった。王羲之は恥じ憤って、ついに病と称して郡を去り、墓前で二度と仕えぬと自ら誓った。朝廷はその誓いが切実だったので、二度と召さなかった」

6問うべきはただ、最後をよく全うできたかどうかだけです

王東亭與孝伯語,後漸異。孝伯謂東亭曰:「卿便不可復測!」答曰:「王陵廷爭,陳平從默,但問克終云何耳。」

王東亭が孝伯と語り合っていたが、後になって次第に意見が異なってきた。

孝伯は東亭に言った。「あなたはもう推し量ることができませんな」

答えた。「王陵は朝廷で争い、陳平は黙するほうを取ったが、問うべきはただ、最後をよく全うできたかどうかだけです」

夾注 1

《漢書》曰:「呂后欲王諸呂,問右相王陵,以為不可。問左丞相陳平,平曰:『可。』陵出讓平,平曰:『面折廷爭,臣不如君;全社稷,定劉氏,君不如臣。』」《晉安帝紀》曰:「初,王恭赴山陵,欲斬國寶。王珣固諫之,乃止。既而恭謂珣曰:『此日視君,一似胡廣。』珣曰:『王陵廷爭,陳平從默,但問克終如何也。』」

『漢書』に言う。「呂后が呂氏の者たちを王にしようとして、右相の王陵に問うと、よろしくないと言った。左丞相の陳平に問うと、陳平は『よろしいでしょう』と言った。王陵は退出して陳平をなじったが、陳平は『面と向かって折り、朝廷で争うことでは、臣はあなたに及びません。しかし社稷を全うし劉氏を定めることでは、あなたは臣に及びません』と言った」『晋安帝紀』に言う。「はじめ王恭が山陵に赴いたとき、国宝を斬ろうとした。王珣が強く諫めたので、それでやめた。やがて王恭は王珣に『この日のあなたを見ると、まるで胡広のようだ』と言った。王珣は『王陵は朝廷で争い、陳平は黙するほうを取ったが、問うべきはただ、最後をよく全うできたかどうかだけです』と言った」

7あなたはどうして急いで、私を殺そうとしたのか

王孝伯死,縣其首於大桁。司馬太傅命駕出至標所,孰視首,曰:「卿何故趣,欲殺我邪?」

王孝伯が死ぬと、その首は大桁に懸けられた。

司馬太傅は車を命じて出かけ、首を懸けた標の所まで行って、その首をじっと見て言った。「あなたはどうして急いで、私を殺そうとしたのか」

夾注 1

《續晉陽秋》曰:「王恭深懼禍難,抗表起兵。於是遣左將軍謝琰討恭,恭敗,走曲阿,為湖浦尉所擒。初,道子與恭善,欲載出都,面相折數。聞西軍之逼,乃令於兒塘斬之,梟首於東桁也。」

『続晋陽秋』に言う。「王恭は禍と難を深く恐れ、上表して兵を起こした。そこで左将軍の謝琰を遣って王恭を討たせたところ、王恭は敗れて曲阿へ逃げ、湖浦尉に捕らえられた。はじめ司馬道子は王恭と親しかったので、都へ連れ出して、顔を合わせて面罵し責めようとした。しかし西の軍が迫っていると聞いて、そこで児塘で彼を斬らせ、首を東桁に梟した」

8私はあの子を育てたのだから、こんなことをするのを見るのは忍びない

桓玄將篡,桓脩欲因玄在脩母許襲之。庾夫人云:「汝等近,過我餘年,我養之,不忍見行此事。」

桓玄が位を奪おうとしていたころ、桓脩は、桓玄が脩の母の所に来ているのに乗じて彼を襲おうとした。

庾夫人は言った。「お前たちは近い間柄なのだ。私の残る年が過ぎてからにしておくれ。私はあの子を育てたのだから、こんなことをするのを見るのは忍びない」

夾注 1

《桓氏譜》曰:「桓沖後娶潁川庾蔑女,字姚。」《晉安帝紀》曰:「脩少為玄所侮,言論常鄙之,脩深憾焉,密有圖玄之意。脩母曰:『靈寶視我如母,汝等何忍骨肉相圖!』脩乃止。」

『桓氏譜』に言う。「桓沖は後に潁川の庾蔑の娘を娶ったが、その字は姚である」『晋安帝紀』に言う。「桓脩は若いころ桓玄に侮られ、言葉のうえでいつも彼を卑しんでいたので、桓脩は深くこれを恨み、ひそかに桓玄を謀る心を持っていた。桓脩の母は『霊宝は私を母のように思っている。お前たちがどうして骨肉で互いを謀るのに忍びられよう』と言った。桓脩はそれでやめた」