太宗春秋公
1姉の夢を錦の裳で買う
大宗春秋公第二十九大宗大王名春秋姓金氏.龍樹〔一作龍春.〕角干追封文興大王之子也,妣真平大王之女天明夫人.妃文明皇后文姬即庾信公之季姝也.初文姬之姊寳姬夢登西岳捨溺㳽滿亰城.旦與妹說夢文姬聞之謂曰,“我買此夢.”姊曰“與何物乎”,曰“鬻錦裙可乎”,姊曰諾.妹開襟受之,姊曰“疇昔之夢傳付於汝.”姝以錦裙酬之.
太宗春秋公。
第二十九代太宗大王は名が春秋、姓が金氏である。
竜樹〔竜春ともいう。〕角干を追って封じた文興大王の子であり、母は真平大王の娘の天明夫人である。
王妃は文明皇后の文姫で、すなわち庾信公の末の妹である。
はじめ文姫の姉の宝姫が夢に西岳に登って小便をすると、都に満ちあふれた。
朝に妹に夢の話をすると、文姫は聞いて言った。「わたしがこの夢を買います。」
姉が「何をくれるのか」と言うと、「錦の裳を差し上げればよろしいでしょうか」と言い、姉は「よい」と言った。
妹が襟を開いて受け取ると、姉は言った。「昨夜の夢をお前に伝えて渡す。」
妹は錦の裳で代を払った。
夾注 1
一作龍春.
竜春ともいう。
2庭にしばを積んで火をつける
後旬日庾信與春秋公正月午忌日〔見上射琴匣事,乃崔致逺之說.〕蹴鞠于庾信宅前〔羅人謂蹴鞠爲弄珠之戱.〕.故踏春秋之裙裂其襟紐,請曰“入吾家縫之”,公從之.庾信命阿海奉針,海曰“豈以細事軽近貴公子子”因辭〔古本云因病不進.〕.乃命阿之.公知庾信之意遂幸之,自後數數來徃.庾信知其有娠乃嘖之曰,“爾不告父母而有娠何也”,乃宣言於國中欲焚其妹.一日俟善徳王遊幸南山積薪於庭中焚火烟起.王望之問“何烟”,左右奏曰“殆庾信之焚姝也.”王問其故,曰“爲其妹無夫有娠.”王曰“是誰所爲”,時公昵侍在前顔色大變.王曰“是汝所爲也速徃救之.”公受命馳馬傳宣沮之,自後現行婚禮.
十日後、庾信は春秋公とともに正月の午の日の忌み日に〔上の「琴の匣を射る」の事に見えるが、すなわち崔致遠の説である。〕庾信の家の前で毬を蹴った。〔新羅の人は蹴鞠を珠をあやつる遊びといった。〕
わざと春秋の裾を踏んで襟の紐を裂き、頼んだ。「わたしの家に入って縫わせてください。」
公は従った。
庾信が阿海に針を取れと言うと、阿海は「どうして些細な事で軽々しく貴公子に近づけましょうか」と言って辞した。〔古い本には病で出なかったという。〕
そこで阿之に命じた。
公は庾信の心を知って、ついに近づき、これより後はしばしば行き来した。
庾信は妹が身ごもったことを知って叱った。「お前は父母に告げずに身ごもったのだから、どうしたことだ。」
そうして国の中に言葉を広め、その妹を焼こうとした。
ある日、善徳王が南山に出かけるのを待って、庭にしばを積み、火をつけて煙を立てた。
王は遠くに見て「あの煙は何か」と問うと、左右の者が申し上げた。「おそらく庾信が自分の妹を焼いているのかと思われます。」
王がその理由を問うと、「その妹が夫なしに身ごもったからです」と言った。
王が「これは誰のしたことか」と言うと、そのとき公が近く侍って前にいて、顔色が大きく変わった。
王は言った。「これはお前のしたことだ。すぐに行って救え。」
公は命を受けて馬を走らせ、王の言葉を伝えてやめさせ、これより後は表立って婚礼を行った。
夾注 3
見上射琴匣事, 乃崔致逺之說.
上の「琴の匣を射る」の事に見えるが、すなわち崔致遠の説である。
羅人謂蹴鞠爲弄珠之戱.
新羅の人は蹴鞠を珠をあやつる遊びといった。
古本云因病不進.
古い本には病で出なかったという。
3夢を買った代がここに現れる
真徳王薨,以永徽五年甲寅即位.御國八年龍朔元年辛酉崩壽五十九歳,葬於哀公寺東有碑.王與庾信神謀戮力一統三韓有大㓛於社稷.故廟號太宗.太子法敏·角干仁問·角干文王·角干老且·角干智鏡·角干愷元䓁皆文姬之所岀也,當時買夢之徴現於此矣.庻子曰皆知文級干·車得令公·馬得阿干并女五人.王膳一日飯米三斗雄雉九首,自庚申年滅百濟後除晝饍但朝暮而已.然計一日米六斗酒六斗雉十首.城中市價布一疋租三十碩或五十碩,民謂之聖代.在東宫時欲征髙䴡因請兵入唐.唐帝賞其風彩謂爲神聖之人,固留侍衛力請乃還.
真徳王が世を去ると、永徽五年甲寅に位に就いた。
国を治めて八年、竜朔元年辛酉に世を去ったが、年は五十九であった。哀公寺の東に葬り、碑がある。
王は庾信とともに神妙に謀り力を尽くして三韓を一つに合わせ、社稷に大きな功があった。だから廟号を太宗とした。
太子の法敏と、角干の仁問・文王・老且・智鏡・愷元らがみな文姫の生んだ子であるから、あのとき夢を買った兆しがここに現れた。
庶子には皆知文級干、車得令公、馬得阿干があり、あわせて娘が五人である。
王の膳は一日に米三斗と雄の雉九羽であったが、庚申の年に百済を滅ぼしてからは昼の膳をやめ、ただ朝と夕だけであった。
それでも数えれば一日に米六斗、酒六斗、雉十羽であった。
都の中の市の値は布一疋に粟三十石、あるいは五十石であったので、民はこれを聖なる世と言った。
東宮であったとき、高句麗を討とうとして兵を請うために唐に入った。
唐の帝はその風采をほめて神々しく聖なる人だと言い、強く留めて侍衛させようとしたが、力を尽くして請うて帰ってきた。
4成忠が獄から上げた書
時百濟末王義慈乃虎王之元子也.雄猛有膽氣事親以孝友于兄弟時號海東曽子.以貞觀十五年辛丑即位耽媱酒色政荒國危.佐平〔百済爵名.〕成忠極諌,不聴囚於獄中.瘦困濵死書曰,“忠臣死不忘君.願一言而死臣甞觀時變必有兵革之事.凡用兵審擇其地䖏,上流而迎敵可以保全.若異國兵來陸路不使過炭峴,〔一云沈峴,百済要害之地.〕水軍不使入伎伐浦,〔即長嵓又孫梁,一作只火浦又白江.〕㨿其険隘以禦之然後可也.”王不省.
そのころ百済の最後の王の義慈は、すなわち武王の長子である。
雄々しく猛々しく胆力があり、親に孝で仕え兄弟と睦んだので、そのころ海東の曽子と呼ばれた。
貞観十五年辛丑に位に就いたが、酒と女色に溺れて政が荒れ、国が危うくなった。
佐平〔百済の位の名である。〕の成忠が力を尽くして諫めたが、聞き入れず獄に閉じ込めた。
痩せて疲れ、死にかかると書を上げた。
「忠臣は死んでも君を忘れません。願わくは一言を残して死にます。
臣はかつて時の移りを見ましたが、必ず戦いの事が起こるでしょう。
およそ兵を用いるときはその場所を見きわめて選ばなければなりません。上流で敵を迎えれば、全きを保てます。
もし他国の兵が来たら、陸の道では炭峴を〔沈峴ともいい、百済の要害の地である。〕通らせず、水軍は伎伐浦に〔すなわち長巌であり孫梁ともいい、只火浦または白江と記すこともある。〕入らせないでください。
その険しく狭い所に拠って防いでから、はじめてうまくいくでしょう。」
王は顧みなかった。
夾注 3
百済爵名.
百済の位の名である。
一云沈峴, 百済要害之地.
沈峴ともいい、百済の要害の地である。
即長嵓又孫梁, 一作只火浦又白江.
すなわち長巌であり孫梁ともいい、只火浦または白江と記すこともある。
5百済が滅びる、百済が滅びる
現慶四年己未百濟烏㑹寺〔亦云烏合寺〕有大赤馬晝夜六時遶寺行道,二月衆狐入義慈宫中,一白狐坐佐平書案上.四月太子宫雌雞與小雀交婚,五月泗泚〔扶餘江名〕岸大魚岀死長三丈,人食之者皆死.九月宫中槐樹鳴如人哭,夜鬼哭宫南路上.五年庚申春二月王都井水血色,西海邊小魚岀死百姓食之不盡,泗泚水血色.四月蝦蟆數萬集於樹上,王都市人無故驚走如有捕捉,驚什死者百餘,亡失財物者無數.六月王興寺僧皆見如舡揖隨大水入寺門,有大犬如野鹿自西至泗泚岸向王宫吠之俄不知所之.城中群犬集扵路上或吠或哭移時而散.有一鬼入宫中大呼曰“百濟亡百濟亡”,即入地.王恠之使人掘地深三尺許有一龜.其背有文“百濟圎月輪新羅如新月”,問之,巫者云“圎月輪者滿也滿則虧,如新月者未滿也未滿則漸盈.”王怒殺之,或曰“圎月輪盛也如新月者微也意者國家盛而新羅寢微乎”,王喜.
顕慶四年己未に、百済の烏会寺に〔烏合寺ともいう。〕大きな赤い馬がいて、昼も夜も六度、寺をめぐって行道した。
二月に狐の群れが義慈王の宮の中に入り、白い狐が一匹、佐平の机の上に座った。
四月に太子宮の雌鶏が小さな雀とつるんだ。
五月に泗泚〔扶余の川の名である。〕の岸に大きな魚が出て死んだが、長さは三丈あり、食べた人はみな死んだ。
九月に宮の中の槐の木が人が泣くように鳴り、夜に鬼が宮の南の路の上で泣いた。
五年庚申の春二月に、都の井戸の水が血の色になった。西の海辺に小さな魚が出て死に、民が食べても食べ尽くせず、泗泚の水が血の色になった。
四月に蟇が数万匹、木の上に集まった。
都の市の人たちが理由もなく驚いて走り出し、まるで捕らえに来る者がいるかのようであったので、驚いて倒れて死んだ者が百余人、財物を失った者は数えきれなかった。
六月に王興寺の僧たちがみな、船の帆柱のようなものが大水に従って寺の門に入ってくるのを見た。
野の鹿のような大きな犬が西から泗泚の岸に至って王宮に向かって吠え、やがて行った先がわからなくなった。
城の中の犬たちが路の上に集まって、吠えたり泣いたりして、しばらくして散った。
鬼が一匹宮の中に入って大声で叫んだ。「百済が滅びる、百済が滅びる。」そうしてすぐに地に入った。
王は怪しんで人に命じて地を三尺ほど掘らせると、亀が一匹いた。
その背に文があって「百済は円い月の輪であり、新羅は新月のようだ」とあった。
尋ねると巫者が言った。「円い月の輪とは満ちたもので、満ちれば欠けます。新月のようなものはまだ満ちていないもので、満ちていなければ次第に満ちてゆきます。」
王は怒って殺した。
ある者が言った。「円い月の輪とは盛んなもので、新月のようなものは微かなものです。思いますに、国は盛んで新羅は次第に微かになるという意味でしょう。」
王は喜んだ。
夾注 2
亦云烏合寺
烏合寺ともいう。
扶餘江名
扶余の川の名である。
6唐の軍が来る
太宗聞百濟國中多恠變,五年庚申遣使仁問請兵.唐髙宗詔左虎衛大将軍荊國公蘇定方爲神丘道行䇿揔管,率左衛将軍劉伯英字仁逺·左虎衛将軍馮士貴·左驍衛将軍龎孝公等統十三万兵來征〔郷記云軍十二万二千七百十一人舡一千九百隻,而唐史不詳言之.〕.以新羅王春秋爲嵎夷道行軍揔管,将其國兵與之合勢.定方引兵自城山濟海至國西徳勿島,羅王遣将軍金庾信領精兵五万以赴之.
太宗は百済の国の中に怪しい変事が多いと聞き、五年庚申に仁問を使者として遣わして兵を請うた。
唐の高宗は、左武衛大将軍の荊国公の蘇定方を神丘道行策総管とし、左衛将軍の劉伯英、左武衛将軍の馮士貴、左驍衛将軍の龐孝公らを率いて、十三万の兵を統べて討ちに来させた。
〔わが国の記には兵が十二万二千七百十一人、船が千九百隻とあるが、唐の史書は詳しく言わない。〕
新羅王の春秋を嵎夷道行軍総管とし、その国の兵を率いてともに勢いを合わせさせた。
蘇定方が兵を率いて城山から海を渡り、国の西の徳勿島に至ると、新羅王は将軍の金庾信を遣わして精兵五万を率いて赴かせた。
夾注 1
郷記云軍十二万二千七百十一人舡一千九百隻, 而唐史不詳言之.
わが国の記には兵が十二万二千七百十一人、船が千九百隻とあるが、唐の史書は詳しく言わない。
7獄に捕らわれた者の言葉は用いられない
義慈王聞之㑹群臣問戦守之計.佐平義直進曰“唐兵逺渉溟海不習水,羅人恃大國之援有輕敵之心.若見唐人失利必疑懼而不敢銳進.故知先與唐人决戦可也.”逹率常永等曰“不然.唐兵逺來意欲速戰其鋒不可當也.羅人屢見敗於我軍今望我兵勢不得不恐.今日之計冝塞唐人之路以待師老,先使偏師擊羅折其銳氣然後伺其便而合戰,則可淂全軍而保國矣.”王猶預不知所從.時佐平興首得罪流竄于古馬旀知之縣,遣人問之曰“事急矣如何.”首曰“大槩如佐平成忠之說.”大臣䓁不信曰“興首在縲絏之中㤪君而不愛國矣.其言不可用也.莫若使唐兵入白江〔即伎伐浦〕㳂流而不得方舟,羅軍升炭峴由徑而不得並馬,當此之時縱兵擊之,如在籠之雞罹網之魚也.”王曰“然.”又聞唐羅兵已過白江炭峴.
義慈王は聞いて臣下たちを集め、戦うか守るかの計を問うた。
佐平の義直が進み出て言った。「唐の兵は遠く海を渡って来て水に慣れておらず、新羅の人は大国の助けを頼みに敵を軽んじる心があります。もし唐の人が不利になるのを見れば、必ず疑い恐れてあえて鋭く進めないでしょう。だから、まず唐の人と決戦するのがよいとわかります。」
達率の常永らが言った。「そうではありません。唐の兵は遠く来て早く戦おうとしているので、その鋭さには当たれません。
新羅の人はわが軍に何度も負けたので、いまわが兵の勢いを見れば恐れないでいられません。
今日の計は、唐の人の道を塞いで軍が疲れるのを待ち、まず一部の兵で新羅を攻めてその鋭い気を折ってから、都合を見てともに戦うことです。そうすれば軍を全うして国を守れます。」
王はためらって、どちらに従うべきかわからなかった。
そのころ佐平の興首が罪を得て古馬旀知県に流されていた。人を遣わして問うた。「事は急だが、どうすればよいか。」
興首は言った。「おおむね佐平の成忠の説と同じです。」
大臣たちは信じないで言った。「興首は縄目のうちにあって君を恨み、国を愛しておりません。その言葉は用いられません。
唐の兵を白江に〔すなわち伎伐浦である。〕入らせ、流れに沿って船を並べられないようにし、新羅の軍を炭峴に登らせ、狭い道で馬を並べられないようにするのに越したことはありません。
このときに当たって兵を放って攻めれば、かごの中の鶏、網にかかった魚のようでしょう。」
王は「そうだ」と言った。
ところがまた、唐と新羅の兵がすでに白江と炭峴を過ぎたという知らせを聞いた。
夾注 1
即伎伐浦
すなわち伎伐浦である。
8偕伯、四度勝って死ぬ
遣将軍偕伯帥死士五千出黄山與羅兵戦.四合皆勝之,然兵寡力盡竟敗而偕伯死之.進軍合兵薄津口瀕江屯兵.忽有鳥迴翔於定方營上.使人卜之曰“必傷元帥.”定方懼欲引兵而止,庾信謂定方曰“豈可以飛鳥之恠違天時也.應天順人伐至不仁何不祥之有.”乃拔神釰擬其鳥割裂而墜於座前.於是定方出左涯垂山而陣,與之戰百濟軍大敗.王師乗潮軸轤含尾皷譟而進.定方将歩·騎直趨都城一舎止.城中悉軍拒之又敗死者万餘.
将軍の偕伯を遣わし、死を覚悟した兵五千を率いて黄山に出て新羅の兵と戦わせた。
四度ぶつかってみな勝ったが、兵が少なく力が尽きて、ついに負けて偕伯は死んだ。
軍を進めて合わせ、津の入り口に迫って川辺に兵を留めた。
ふいに鳥がいて、蘇定方の陣営の上を旋回した。
人に命じて占わせると、「必ず元帥を傷つけるでしょう」と言った。
蘇定方は恐れて兵を引いてやめようとしたので、庾信は蘇定方に言った。
「どうして飛ぶ鳥の怪しさで天の時に背けようか。天に応え人に従って、きわめて仁でない者を討つのに、どんな不吉があろうか。」
そこで神剣を抜いてその鳥に向けると、裂けて席の前に落ちた。
そこで蘇定方は左の崖に出て山を背にして陣を張り、ともに戦って百済の軍は大敗した。
王の軍は満ち潮に乗り、船が尾を連ねて鼓を打ちながら進んだ。
蘇定方は歩兵と騎兵を率いてまっすぐ都城に向かい、三十里ほどの所で止まった。
城の中では兵をすべて出して防いだが、また負けて、死者は一万余りであった。
9成忠の言葉を用いなかったことが悔やまれる
唐人乗勝薄城,王知不免嘆曰,“悔不用成忠之言以至於此.”遂與太子隆〔或作孝,誤也.〕走北鄙.定方圍其城,王次子泰自立爲王率衆固守,太子之子文思謂王泰曰,“王與太子岀而叔擅爲王,若唐兵解去我䓁安得全”,率左右縋而岀.民皆從之泰不能止.定方令士起堞立唐旗幟,泰窘迫乃開門請命.於是王及太子隆·王子泰·大臣貞福與諸城皆降.定方以王義慈及太子隆·王子泰·王子演及大臣将士八十八人,百姓一万二千八百七人送京師.其國本有五部三十七郡二百城七十六万户,至是析置熊津·馬韓·東明·金漣·徳安等五都督府,擢渠長爲都督刺史以理之.命郎将劉仁願守都城,又左衛郎将王文度爲熊津都督撫其餘衆.定方以所俘見上責而宥之.王病死贈金紫光禄大夫衛尉卿,許舊臣赴臨.詔葬孫皓陳叔寳墓側並爲竪碑.
唐の人が勝った勢いに乗って城に迫ると、王は免れられないと知って嘆いた。
「成忠の言葉を用いなかったためにこのようになったことが悔やまれる。」
ついに太子の隆と〔孝と記した所もあるが誤りである。〕ともに北の辺りへ逃げた。
蘇定方がその城を囲むと、王の次子の泰が自ら王となり、衆を率いて固く守った。
太子の子の文思が王の泰に言った。「王と太子が出て行ったのに叔父が勝手に王となったのですから、もし唐の兵が引き去れば、わたしたちはどうして全うできましょうか。」
左右の者を率いて縄をたらして出ると、民はみな従い、泰は止められなかった。
蘇定方が兵に命じて城壁の狭間に登らせ唐の旗を立てさせると、泰は窮して迫られ、そこで門を開いて命を請うた。
こうして王と太子の隆、王子の泰、大臣の貞福が諸城とともにみな降った。
蘇定方は王の義慈と太子の隆、王子の泰、王子の演、および大臣と将士八十八人、民一万二千八百七人を都へ送った。
その国にはもともと五つの部と三十七の郡と二百の城と七十六万戸があったが、このときに至って熊津・馬韓・東明・金漣・徳安などの五つの都督府に分けて置き、頭立つ者を抜いて都督と刺史として治めさせた。
郎将の劉仁願に命じて都城を守らせ、また左衛郎将の王文度を熊津都督として残った衆を撫でさせた。
蘇定方が捕らえた者たちを帝にお見せすると、叱って許した。
王が病で死ぬと、金紫光禄大夫衛尉卿を贈り、旧臣たちが行って弔うことを許した。
詔を下して孫皓と陳叔宝の墓の側に葬り、あわせて碑を立てさせた。
夾注 1
或作孝, 誤也.
孝と記した所もあるが誤りである。
10白い馬を殺し血をすすって盟う
新羅別記云,“文虎王即位五年乙丑秋八月庚子王親統大兵幸熊津城㑹假王扶餘隆作壇刑白馬而盟.先祀天神及山川之霊然後歃血爲文而盟曰,“徃者百濟先王迷於逆順不敢隣好不睦親姻,結托句䴡交通倭國共爲殘暴,侵削新羅破邑屠城略無寧歳.… 故立前百濟王司農正卿扶餘隆爲熊津都督守其祭祀保其桑梓,依倚新羅長爲與國各除宿憾結好和親.… 若有乖背二三其徳興兵動衆侵犯邊,陲神明鑒之百殃是降子孫不育社稷無宗禋祀磨滅罔有遺餘.故作金書䥫契藏之宗庙子孫万代無或敢犯,神之聽之是享是福.”歃訖埋㢢帛於壇之壬地藏盟文於大庙.盟文乃帶方都督劉仁䡄作〔按上唐史之文,定方以義慈王及太子隆等送亰師,今云㑹扶餘王隆則知唐帝宥隆而遣之立爲熊津都督也.故盟文明言以此爲験.〕.”
『新羅別記』に次のように言う。
「文武王の即位五年乙丑の秋八月庚子の日に、王が自ら大軍を率いて熊津城に出かけ、仮の王の扶余隆に会い、壇を築いて白い馬を殺して盟った。
まず天の神と山川の霊に祭ってから、血をすすって文を作って盟った。
「過ぎた日、百済の先の王は逆らうことと従うことに迷い、隣と親しくせず、縁を結んだ親族と睦まず、高句麗と結託し倭国と通じて、ともに残酷に暴れ、新羅を侵し削り、邑を破り城を屠って、安らかな年がほとんどなかった。
そこで前の百済王の司農正卿の扶余隆を立てて熊津都督とし、その祭りを守りその故郷を保たせ、新羅に頼って長くともにある国となり、それぞれ古い恨みを除いて好を結び和親させる。
もし背き違えて心を二つ三つにし、兵を起こし衆を動かして辺りを侵すなら、神明がこれを見て、あらゆる災いを降すであろう。
子孫は育たず、社稷に宗なく、祭りは磨り減って残るものがなくなるであろう。
そこで金で書き鉄に刻んだ契りを作って宗廟に納める。子孫万代、決して犯してはならない。神はこれを聞かれ、これを享け、福を下されよ。」
血をすすり終えると、幣と帛を壇の北の地に埋め、盟いの文を大廟に納めた。
盟いの文はすなわち帯方都督の劉仁軌が作った。」
〔上の唐の史書の文を考えるに、蘇定方が義慈王と太子の隆らを都へ送ったとあるのに、いま扶余隆に会ったというから、唐の帝が隆を許して遣わし、熊津都督に立てたことがわかる。だから盟いの文に明らかに言っているので、これをもって証とする。〕
夾注 1
按上唐史之文, 定方以義慈王及太子隆等送亰師, 今云㑹扶餘王隆則知唐帝宥隆而遣之立爲熊津都督也. 故盟文明言以此爲験.
上の唐の史書の文を考えるに、蘇定方が義慈王と太子の隆らを都へ送ったとあるのに、いま扶余隆に会ったというから、唐の帝が隆を許して遣わし、熊津都督に立てたことがわかる。だから盟いの文に明らかに言っているので、これをもって証とする。
11鸞と犢を描いて送る
又古記云“緫章元年戊辰〔若緫章戊辰則李勣之事而下文蘇定方誤矣.若定方則年号當龍朔二年壬戌來圍平壌之時也.〕國人之所請唐兵屯于平壤郊而通書曰,“急輸軍資.”王㑹群臣問曰“入於敵國至唐兵屯所其勢危矣.所請王師粮匱而不輸其料亦不冝也如何.”庾信奏曰“臣䓁能輸其軍資,請大王無慮.”於是庾信仁問䓁率數万人入句麗境輸料二万斛乃還,王大喜.又欲興師會唐兵,庾信先遣然起·兵川䓁二人問其㑹期,唐帥蘇定方紙畫鸞犢二物迴之.國人未解其意使問於元曉法師,解之曰“速還其兵.謂畫犢畫鸞二切也.”於是庾信迴軍欲渡浿江令曰,“後渡者斬之.”軍士爭先半渡,句麗兵來掠殺其未渡者.翌日信返追句䴡兵捕殺數万級.”
また『古記』に次のように言う。
「総章元年戊辰に〔もし総章戊辰ならば李勣の事であり、下の文の蘇定方は誤りである。もし定方なら、年号は竜朔二年壬戌、平壌を囲みに来た時であるべきだ。〕国の人が請うた唐の兵が平壌の郊に陣を張り、書を送ってきた。「急いで軍の糧を送れ。」
王は臣下を集めて問うた。「敵国に入って唐の兵が陣を張った所に至るのは、その勢いが危うい。しかし請いに来た王の軍が糧が尽きているのに、その食べ物を送らないのもまた当たっていない。どうしようか。」
庾信が申し上げた。「臣らがその軍の糧を送れますので、大王はご心配なさいませんよう。」
そこで庾信と仁問らが数万人を率いて高句麗の境に入り、糧二万斛を送って帰ると、王はたいへん喜んだ。
また兵を起こして唐の兵と会おうとして、庾信はまず然起と兵川の二人を遣わして会う日を問わせた。
唐の帥の蘇定方は紙に鸞と犢の二つを描いて返してきた。
国の人はその意味がわからず、元暁法師に問わせると、解いて言った。
「急いで兵を返せという意味である。犢を描き鸞を描いたのは、どちらも「切る」という意味である。」
そこで庾信は軍を返して浿江を渡ろうとして命じた。「後から渡る者は斬る。」
兵たちは先を争って半ばほど渡ったが、高句麗の兵が来て、まだ渡っていない者たちを殺した。
翌日、庾信は引き返して高句麗の兵を追い、数万の首を取った。」
夾注 1
若緫章戊辰則李勣之事而下文蘇定方誤矣. 若定方則年号當龍朔二年壬戌來圍平壌之時也.
もし総章戊辰ならば李勣の事であり、下の文の蘇定方は誤りである。もし定方なら、年号は竜朔二年壬戌、平壌を囲みに来た時であるべきだ。
12墮死岩は誤って伝わった言葉である
百濟古記云“扶餘城北角有大岩,下臨江水.相傳云義慈王與諸後宫知其未免,相謂曰‘寧自盡不死於他人手’,相率至此投江而死,故俗云墮死岩斯.”乃俚諺之訛也.但宫人之墮死,義慈卒於唐唐史有明文.又新羅古傳云“定方旣討䴡濟二國又謀伐新羅而留連.於是庾信知其謀饗唐兵鴆之皆死坑之.”今尚州界有唐橋,是其坑地〔按唐史不言其所以死,但書云卒何耶為復諱之耶.郷諺之無據耶.若壬戌年高䴡之役羅人殺定方之師,則後緫章戊辰何有請兵㓕高䴡之事.以此知郷傳無據.但戊辰㓕䴡之後有不臣之事擅有其地而已,非至殺蘇·李二公也.〕.
『百済古記』に次のように言う。
「扶余城の北の角に大きな岩があり、下は川の水に臨んでいる。
言い伝えによれば、義慈王と後宮の人々が免れられないと知って、互いに「むしろ自ら死のう。他人の手で死にはしない」と言い合い、連れ立ってここに至って川に身を投げて死んだので、世間では墮死岩という。」
これはすなわち世間の言葉が誤って伝わったものである。
ただ宮女たちが落ちて死んだだけであり、義慈王は唐で死んだので、唐の史書に明らかな文がある。
また『新羅古伝』に「蘇定方がすでに高句麗と百済の二国を討ってから、また新羅を討とうと謀って留まっていた。そこで庾信がその謀を知り、唐の兵をもてなして毒を入れ、みな殺して穴に埋めた」という。
いま尚州の境に唐橋があり、これがその埋めた所である。
〔唐の史書を考えるに、彼が死んだ理由を言わず、ただ「死んだ」とだけ記しているのはどうしたことか。重ねて憚ったのか、わが世間の言葉に根拠がないのか。
もし壬戌の年の高句麗の役で新羅の人が定方の軍を殺したのなら、のちの総章戊辰にどうして兵を請うて高句麗を滅ぼした事があろうか。これによってわが言い伝えに根拠がないとわかる。〕
夾注 1
按唐史不言其所以死, 但書云卒何耶為復諱之耶. 郷諺之無據耶. 若壬戌年高䴡之役羅人殺定方之師, 則後緫章戊辰何有請兵㓕高䴡之事. 以此知郷傳無據. 但戊辰㓕䴡之後有不臣之事擅有其地而已, 非至殺蘇·李二公也.
唐の史書を考えるに、彼が死んだ理由を言わず、ただ「死んだ」とだけ記しているのはどうしたことか。重ねて憚ったのか、わが世間の言葉に根拠がないのか。もし壬戌の年の高句麗の役で新羅の人が定方の軍を殺したのなら、のちの総章戊辰にどうして兵を請うて高句麗を滅ぼした事があろうか。これによってわが言い伝えに根拠がないとわかる。ただ戊辰に高句麗を滅ぼしたのち、臣として従わずその地を勝手に占めた事があっただけで、蘇定方と李勣の二人を殺すまでに至ったのではない。
13星浮山で神術を行う
王師定百濟既還之後,羅王命諸将追捕百濟殘賤屯次于漢山城,髙䴡·靺鞨二國兵來圍之相擊.未解自五月十一日至六月二十二日我兵危甚.王聞之議群臣曰“計将何岀”猶豫未决.庾信馳奏曰“事急矣,人力不可及唯神術可救.”乃於星浮山設壇修神術,忽有光耀如大瓮從壇上而岀乃星飛南北去.漢山城中士卒㤪救兵不至相視哭泣而已.賊欲改急,忽有光耀從南天際來成霹靂擊碎砲石三十餘所賊軍弓箭矛戟籌碎.皆仆地良久乃蘇奔潰而歸.我軍乃還.
王の軍が百済を平定して帰った後、新羅王は諸将に命じて百済の残った者たちを追って捕らえさせ、漢山城に陣を張った。
高句麗と靺鞨の二国の兵が来て囲み、互いに攻めた。
五月十一日から六月二十二日まで解けず、わが兵はたいへん危うかった。
王は聞いて臣下たちと議し「これからどんな計を出そうか」と言ったが、ためらって決められなかった。
庾信が駆けつけて申し上げた。「事は急です。人の力では及ばず、ただ神妙な術だけが救えます。」
そこで星浮山に壇を設けて神術を修めると、ふいに大きな甕のような光が壇の上から出て、星のように飛んで南北へ去った。
漢山城の中の兵たちは救いの兵が来ないのを恨み、互いに見合って泣くだけであった。
敵がいっそう攻め立てようとしたとき、ふいに光が南の空の果てから来て雷となり、石を飛ばす機械三十余りを撃ち砕き、敵軍の弓と矢と矛はみな砕けた。
みな地に倒れ、しばらくして目を覚まし、散り乱れて帰った。
わが軍もそこで帰った。
14太宗という号を改めない
太宗初即位有献猪一頭二身八足者.議者曰“是必并呑六合瑞也.”是王代始服中國衣冠牙笏,乃法師慈藏請唐帝而來傳也.神文王時唐高宗遣使新羅曰“朕之聖考得賢臣魏徴·李淳風等恊心同徳一統天下故爲太宗皇帝,汝新羅海外小國有太宗之号以僣天子之名,義在不忠速改其号.”新羅王上表曰“新羅雖小國得聖臣金庾信一統三國故封爲太宗.”帝見表乃思儲貳時有天唱空云“三十三天之一人降於新羅爲庾信”紀在於書,出撿視之驚懼不已.更遣使許無改太宗之号.
太宗がはじめて位に就いたとき、頭が一つで体が二つ、足が八つある豚を献じた者があった。
議する者が言った。「これは必ず天下を併せ呑む瑞しです。」
この王の代にはじめて中国の衣冠と象牙の笏を用いた。すなわち法師の慈蔵が唐の帝に請うて持ち帰り伝えたものである。
神文王の時に唐の高宗が新羅に使者を遣わして言った。
「朕の聖なる父は賢臣の魏徴や李淳風らを得て、心を合わせ徳を同じくして天下を一つにしたので、太宗皇帝となられた。
お前たち新羅は海の外の小さな国なのに太宗という号があって天子の名を勝手に用いている。義において忠でない。急いでその号を改めよ。」
新羅王は表を上げた。
「新羅は小さな国ではありますが、聖なる臣の金庾信を得て三国を一つにしたので、太宗と封じたのです。」
帝は表を見て、自分が太子であったときに天が空に叫んで「三十三天の一人が新羅に降りて庾信となった」と言った事を思い出した。
書きとめた書があったので、取り出して調べ、驚き恐れることをやめなかった。
また使者を遣わして、太宗という号を改めなくてよいと許した。