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南扶餘・前百済・北扶餘南扶餘·前百濟·北扶餘

三国遺事(三国時代の遺聞集) 三國遺事 · 一然(イリョン) · 1281年(高麗・忠烈王7年) · 段落 5 · 漢字 1,110字 · 朗読 4.4分

三国遺事(三国時代の遺聞集) 紀異 第2 高麗の僧・一然が編んだ三国時代の説話集。正史が捨てた話を集めている。檀君神話を載せる最も古い書物である。

1扶餘郡は古い百済の都である

南扶餘·前百濟·北扶餘已見上扶餘郡者前百濟王都也.或稱所夫里郡.按三國史記,“百濟聖王二十六年戊午春,移都扵泗泚,國號南扶餘.”注曰“其地名所夫里,泗泚今之古省津也,所夫里者扶餘之别號也.”已上注.又按量田帳籍曰,“所夫里郡田丁柱貼”,今言扶餘郡者復上古之名也.百濟王姓扶氏故稱之.或稱餘州者,郡西資福寺髙座之上有繡帳焉,其繡文曰,“統和十五年丁酉五月日餘州㓛徳大寺繡帳”又昔者河南置林州刺史,其時圖籍之内有餘州二字,林州今佳林郡也.餘州今之扶餘郡也.百濟地理志曰,後漢書曰“三韓凢七十八國,百濟是其一國焉.”北史云,“百濟東極新羅,西南限大海,北際漢江,其郡曰居扶城,又云固麻城,其外更有五方城.”通典云,“百濟南接新羅,北距髙麗,西限大海.”舊唐書云“百濟扶夫之别種.東北新羅,西渡海越州.南渡海至倭北髙麗.其王所居有東西兩城.”新唐書云,“百濟西界越州南倭皆踰海,北髙麗.”

南扶餘と前百済と北扶餘。

北扶餘はすでに上に見える。

扶餘郡は前の百済の都である。あるいは所夫里郡という。

『三国史記』を調べると「百済の聖王二十六年戊午の年の春、都を泗沘に移し、国号を南扶餘とした」とある。

注に「その地の名は所夫里で、泗沘は今の古省津であり、所夫里は扶餘の別名である」とある。

また量田帳籍を調べると「所夫里郡の田の記録」とあるので、今、扶餘郡というのは古い名を取り戻したものである。

百済の王の姓が扶氏であったので、そう呼ぶのである。

あるいは餘州というのは、郡の西の資福寺の高座の上に刺繍の帳があり、その刺繍の文に「統和十五年丁酉の年五月の日、餘州の功徳大寺の繍帳」とあるからである。

また昔、河南に林州の刺史を置いたが、そのときの図籍の中に「餘州」の二字があった。林州は今の佳林郡で、餘州は今の扶餘郡である。

百済の地理志にいう。『後漢書』に「三韓はおよそ七十八国で、百済はその一国である」とある。

『北史』に「百済は東は新羅に尽き、西南は大海に限られ、北は漢江に接する。その郡を居扶城といい、また固麻城といい、そのほかにさらに五方の城がある」とある。

『通典』に「百済は南は新羅に接し、北は高句麗に隔てられ、西は大海に限られる」とある。

『旧唐書』に「百済は扶餘の別種である。東北は新羅で、西は海を渡れば越州である。南は海を渡れば倭に至り、北は高句麗である。その王の住む所に東西二つの城がある」とある。

『新唐書』に「百済は西の境が越州、南は倭で、いずれも海を越えねばならず、北は高句麗である」とある。

夾注 1

底本は「扶夫」だが、「扶餘」の誤りと見る。 ― 訳者

2兄は恥じて死に、弟が国を成す

史本記云.“百濟始祖温祚,其父雛牟王,或云朱蒙.自北扶餘逃難至卒本扶餘.州之王無子只有三女,見朱蒙知非常人以第二女妻之.未㡬扶餘州王薨,朱蒙嗣位.生二子,長曰沸流,次曰温祚.恐後太子所不容,遂與烏干·馬黎等臣南行,百姓從之者多.遂至漢山,登負兒岳望可居之地.沸流欲居扵海濵,十臣諌曰‘惟此河南之地,北帶漢水東㨿髙岳,南望沃澤,西阻大海,其天險地利難得之勢.作都扵斯不亦冝乎.’沸流不聽分其民歸弥雛忽居之.温祚都河南慰禮城,以十臣為輔翼國號十濟.是漢成帝鴻佳三年也.沸流以弥雛忽土濕水醎不得安居.歸見慰禮,都邑鼎定人民安泰,遂慙悔而死,其臣民皆歸扵慰礼城.後以來時百姓樂恱,攺號百濟.其世系與髙句麗同出扶餘,故以解為氏.後至聖王移都扵泗泚,今扶餘郡.”〔弥雛忽仁州,慰礼今稷山.〕

『史記』の本紀にこう言う。

「百済の始祖温祚は、その父が雛牟王で、あるいは朱蒙という。

北扶餘から難を逃れて卒本扶餘に至った。その州の王に子がなく、ただ娘が三人いたが、朱蒙を見て並の人ではないと知り、二番目の娘を妻とさせた。

いくらもたたないうちに扶餘州の王が亡くなり、朱蒙が位を継いだ。

息子二人を生み、長男を沸流、次を温祚という。

後に太子に受け入れられないことを恐れ、ついに烏干・馬黎らの臣とともに南へ行ったが、従う民が多かった。

ついに漢山に至り、負兒岳に登って住むに足る地を望み見た。

沸流が海辺に住もうとすると、十人の臣が諫めた。

「ただこの河南の地は、北に漢水を帯び、東に高い山に拠り、南に肥えた沢を望み、西は大海に遮られています。その天の険しさと地の利は得がたい形勢です。ここに都を作るのがよろしいのではありませんか。」

沸流は聞かず、その民を分けて弥雛忽に帰って住んだ。

温祚は河南の慰礼城に都し、十人の臣を補佐として国号を十済とした。漢の成帝の鴻嘉三年である。

沸流は弥雛忽の土が湿って水が塩辛く、安らかに住めなかった。

帰って慰礼を見ると、都邑が定まって民が安らかであったので、ついに恥じ悔いて死んだ。

その臣と民はみな慰礼城に帰った。

後に、来るとき民が喜んで従ったということで、名を百済と改めた。

その世系が高句麗とともに扶餘から出たので、解を姓とした。

後に聖王に至って、都を泗沘、今の扶餘郡に移した。」〔弥雛忽は仁州で、慰礼は今の稷山である。〕

夾注 1

弥雛忽仁州, 慰礼今稷山.

弥雛忽は仁州で、慰礼は今の稷山である。

3都を移した年数

按古典記云.“東明王第三子温祚以前漢鴻佳三年癸酉,自卒夲扶餘至慰礼城,立都稱王.十四年丙辰移都漢山〔今廣州〕歴三百八十九年,至十三世近肖古王咸安元年,取髙句麗南平壤移都北漢城〔今楊州〕歴一百五年.至二十二世文周王即位元徴三年乙卯,移都熊川〔今公州〕歴六十三年,至二十六世聖王移都所夫里,國號南扶餘,至三十一世義慈王歴一百二十年.至唐顯慶五年,是義慈王在位二十年,新羅金庾信與蘇定方討平之.百濟國舊有五部,分統三十七郡二百濟城七十六万户.唐以地分置熊津·馬韓·東明·金漣·徳安等五都督府,仍其酋長為都督府刺史.未㡬新羅盡并其地,置熊·全·武三州及諸郡縣.

『古典記』を調べると、こう言う。

「東明王の第三子の温祚が、前漢の鴻嘉三年癸酉の年に、卒本扶餘から慰礼城に至って都を立て、王と称した。

十四年丙辰の年に都を漢山に〔今の広州である。〕移し、三百八十九年を経た。

第十三代の近肖古王の咸安元年に至って高句麗の南平壌を取り、都を北漢城に〔今の楊州である。〕移し、百五年を経た。

第二十二代の文周王が即位した元徽三年乙卯の年に至って、都を熊川に〔今の公州である。〕移し、六十三年を経た。

第二十六代の聖王に至って都を所夫里に移し、国号を南扶餘とし、第三十一代の義慈王に至るまで百二十年を経た。」

唐の顕慶五年に至って、この年は義慈王の在位二十年であるが、新羅の金庾信が蘇定方とともに討って平定した。

百済の国には古くから五部があり、三十七郡と二百の城、七十六万戸を分けて治めていた。

唐はその地を分けて熊津・馬韓・東明・金漣・徳安などの五つの都督府を置き、その酋長を都督府の刺史とした。

いくらもたたないうちに新羅がその地をすべて併せ、熊州・全州・武州の三州と諸々の郡県を置いた。

夾注 3

今廣州

今の広州である。

今楊州

今の楊州である。

今公州

今の公州である。

4名の上に印の跡がついた者が宰相となる

又虎嵓寺有政事嵓.國家将議宰相,則書當選者名或三四凾封置嵓上,湏臾取看,名上有印跡者為相故名之.又泗泚河过有一嵓,蘇定方甞坐此上釣魚龍而出.故嵓上龍跪之跡因名龍嵓.又郡中有三山曰,日山·吳山·浮山.國家全盛之時,各有神人居其上,飛相徃來朝夕不絶.

また虎巌寺に政事巌がある。

国が宰相を議そうとするとき、選ばれる者の名を三、四人書いて函に封じて巌の上に置き、しばらくして取って見ると、名の上に印の跡がある者が宰相となったので、そう名づけた。

また泗沘の川のほとりに一つの巌があり、蘇定方がかつてこの上に座って魚龍を釣り上げた。

それゆえ巌の上に龍が跪いた跡があり、これによって龍巌と名づけた。

また郡の中に三つの山があり、日山・吳山・浮山という。

国が盛んであったときには、それぞれ神人がその上に住み、飛んで互いに行き来することが朝夕に絶えなかった。

5ひとりでに温まった石

又泗泚崖又有一石坐十餘人.百濟王欲幸王興寺禮佛,先扵此石望拜佛,其石自煖因名㷝石.又泗泚河兩崖如畫屛,百濟王每逰宴歌舞,故至今稱爲大王浦.又始祖温祚乃東明第三子,体洪大性孝友善騎射.又多婁王寬厚有威望.又沙沸王〔一作沙伊王〕仇首崩嗣位,而㓜少不能政,即廢而立古爾王.或云至樂初二年己未乃崩,古爾方立.

また泗沘の崖に、十人あまりが座れる石がある。

百済の王が王興寺に行って仏を礼そうとするとき、まずこの石から仏を望んで拝んだが、その石がひとりでに温かくなったので、ひとりでに温まる石として㷝石と名づけた。

また泗沘の川の両方の崖が絵の屏風のようで、百済の王がいつも遊んで宴を張り、歌い舞ったので、今まで大王浦と呼ぶ。

また始祖の温祚は東明の第三子で、体が大きく、性は孝と友にあつく、馬と弓が巧みであった。

また多婁王は寛やかで厚く、威厳と名望があった。

また沙沸王は〔沙伊王ともいう。〕仇首王が亡くなると位を継いだが、幼くて政ができなかったので、すぐに廃されて古爾王が立てられた。

あるいは楽初二年己未の年に至って亡くなり、古爾王はそのとき初めて立ったともいう。

夾注 1

一作沙伊王

沙伊王ともいう。