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金傅大王

三国遺事(三国時代の遺聞集) 三國遺事 · 一然(イリョン) · 1281年(高麗・忠烈王7年) · 段落 7 · 漢字 1,669字 · 朗読 6.7分

三国遺事(三国時代の遺聞集) 紀異 第2 高麗の僧・一然が編んだ三国時代の説話集。正史が捨てた話を集めている。檀君神話を載せる最も古い書物である。

1鮑石亭で兵が来たことも知らなかった

金傅大王第五十六金傅大王謚敬順.天成二年丁亥九月,百濟甄萱侵羅至髙鬱府,景哀王請救扵我太祖.命将以勁兵一万往救之,救兵未至,萱以冬十一月掩入王京.王與妃嬪·宗戚逰鮑石亭宴娛,不覺兵至倉卒不知所爲.王與妃奔入後宫,宗戚及公卿大夫士女四散奔走爲賊所虜,無貴賤匍匐乞爲奴婢.萱縱兵摽掠公私財物,入處王宫.乃命左右索王,王與妃妾数人匿在後宮.拘致軍中,逼令王自進而強滛王妑,縱其下亂其嬪妾.乃立王之族弟傅爲王,王爲萱所舉即位.前王尸殯扵西堂與羣下慟哭.我太祖遣使弔祭.

金傅大王。

第五十六代金傅大王は諡が敬順である。

天成二年丁亥の年の九月、百済の甄萱が新羅を侵して高鬱府に至ったので、景哀王はわが太祖に救いを求めた。

太祖は将に命じて強い兵一万で行って救わせたが、救援の兵が至る前に、甄萱は冬の十一月に王京に襲い入った。

王は王妃や後宮、宗戚とともに鮑石亭に遊んで宴を張り楽しんでいて、兵が至ったことも知らず、にわかのことでどうすべきか分からなかった。

王と王妃は後宮へ逃げ込み、宗戚や公卿大夫、男女は四方に散って逃げたが、賊に捕らえられた。貴賤の別なく地を這って奴婢になることを乞うた。

甄萱は兵を放って公私の財物を略奪し、王宮に入って居座った。

そこで左右の者に命じて王を探させると、王は王妃と妾数人とともに後宮に隠れていた。

軍中に引き立てさせ、王を責めてみずから命を絶たせ、王妃を辱め、下の者を放って後宮の女たちを乱させた。

そして王の一族の弟の傅を立てて王としたので、この王は甄萱によって立てられて即位したのである。

前の王の遺体を西堂に安置して、臣下たちとともに声をあげて泣いた。

わが太祖は使者を遣わして弔い、祭った。

2甄氏が来たときは狼と虎に出会ったようだった

明年戊子春三月,太祖率五十餘騎巡到京畿,王與百官郊迎入宮相對曲盡情禮,置宴臨海殿.酒酣,王言曰.“吾以不天侵致禍亂,甄萱恣行不義喪我國家,何痛如之.”因泫然涕泣左右莫不鳴咽,太祖亦流涕.因留数旬乃迴駕,麾下肅靜不犯秋毫.都人士女相慶曰,“昔甄氏之來也如逢犲虎,今王公之至如見父母.”八月太祖遣使遺王錦衫鞍馬,并賜羣僚将士有差.

翌年の戊子の年、春の三月に、太祖が五十余騎を率いて都の境に巡り至った。

王は百官とともに野に出て迎え、宮に入れて向かい合い、情と礼を尽くし、臨海殿に宴を設けた。

酒が進んだとき、王は言った。「わたしは天の助けを得られず、禍乱を招くことになった。甄萱が不義を思うままに行い、わが国を失わせた。これほど痛ましいことがあろうか。」

そうして涙をとめどなく流したので、左右の者で咽ばない者はなく、太祖もまた涙を流した。

そのまま数旬留まってから車を返したが、率いていた兵は静かで、毛筋ほども侵さなかった。

都の男女は互いに喜び合って言った。

「昔、甄氏が来たときは狼と虎に出会ったようだったが、今、王公が来られると父母に会うようだ。」

八月、太祖は使者を遣わして王に錦の衣と鞍を置いた馬を贈り、あわせて諸々の臣下と将にも差を設けて下賜した。

3千年の社稷を軽々と人に与えることはできません

清泰二年乙未十月,以四方地盡爲他有,國弱勢孤不已自安.乃與羣下謀舉土降太祖.羣臣可否紛然不已.王太子曰,“國之存王必有天命,當與忠臣·義士収合心力盡而後已,豈可以一千年之社稷軽以與人.”王曰“孤危若此勢不能全.旣不能強又不能弱,至使無辜之民肝腦塗地,吾所不能忍也.”乃使侍郎金封休齎書請降扵太祖.太子哭泣辭王,徑徃皆骨山麻衣草食以終其身.季子祝髮隷華嚴為浮圖名梵空,後住法水海印寺云.

清泰二年乙未の年の十月、四方の地はすべて他人のものとなり、国は弱く勢いは孤立して、みずから安んじることができなかった。

そこで臣下たちとともに、土地を挙げて太祖に降ることを謀った。臣下たちの是非を争う言葉が乱れて尽きなかった。

王太子は言った。

「国が存するか亡ぶかは、必ず天の命があります。忠臣・義士とともに民の心を集め、力を尽くした後にやめるべきで、どうして千年の社稷を軽々と人に与えられましょうか。」

王は言った。

「孤立と危うさがこのようで、勢いは全うできない。すでに強くもなれず、また弱くもなれず、罪のない民が肝と脳を地に塗るに至らせることは、わたしには耐えられないことだ。」

そこで侍郎の金封休に書を持たせて、太祖に降ることを請わせた。

太子は泣いて王に別れを告げ、まっすぐ皆骨山に向かい、麻の衣を着て草を食べて、その身を終えた。

末の子は髪を剃って華厳に属して僧となり、名を梵空といい、後に法水寺と海印寺に住んだという。

夾注 1

底本は「存王」だが、「存亡」の誤りと見る。 ― 訳者

4香しい車が三十里に連なる

太祖受書,送太相王䥫迎之.王率百僚歸我太祖.香車寳馬連亘三十餘里道路塡咽,觀者如堵.太祖出郊迎勞賜宮東一區〔今正承院〕,以長女樂浪公主妻之.以王謝自國居他國故,以鸞喻之攺號神鸞公主,謚孝穆.封爲正承,位在太子之上,給禄一千石.侍從·貟·將皆録用之,攺新羅爲慶州以爲公之食邑.

太祖は書を受け取り、太相の王鉄を遣わして迎えさせた。

王は百官を率いて、わが太祖のもとに帰順した。

香しい車と宝の馬が三十余里にわたって連なって道を埋め、見る者が垣のように並んだ。

太祖は野に出て迎えて労い、宮の東の一区画を〔今の正承院である。〕与え、長女の楽浪公主を妻とさせた。

王が自分の国を離れて他の国に住むことになったので、公主を鸞に喩えてその封号を神鸞公主と改め、諡を孝穆とした。

正承に封じると、位は太子の上で、禄として千石を与えた。

付き従っていた官員や将をみな採り用い、新羅を改めて慶州といい、公の食邑とした。

夾注 1

今正承院

今の正承院である。

5婚姻で結ぶ

初王納土來降,太祖喜甚待之厚禮,使告曰.“今王以國與寡人其爲賜大矣.願結婚扵宗室以永甥舅之好.”王荅曰“我伯父億廉〔王之考孝宗角干追封神興大王之弟也.〕有女子,徳容雙羙.非是無以備内政.”太祖娶之,是爲神成王后金氏.〔本朝登仕郎金寬毅所撰王代宗録云.“神成王后李氏夲慶州大尉李正言爲俠州守時,太祖幸此州納爲妃,故或云俠州君.… ”此外二十五妃主中不載金氏之事,未詳.然而史臣之論亦以安宗爲新羅外孫,當以史傳爲是.〕太祖之孫景宗伷聘政承公之女爲妃,是為憲承皇后.仍封政承為尚父.太平興國三年戊寅崩,謚曰敬順.

初め、王が土地を献じて降ってくると、太祖はたいそう喜んで厚い礼をもって待遇し、人を遣わして伝えた。

「今、王が国をわたしに下さったのは、その賜りが大きいものです。願わくは王室と婚姻を結んで、婿と舅の良い間柄を永くしたいと思います。」

王は答えた。「わたしの伯父の億廉に〔王の父の孝宗角干を追封した神興大王の弟である。〕娘がいて、徳も顔かたちもともに美しい。この人でなければ内の政を整えることはできません。」

太祖が迎えたのが、これが神成王后金氏である。

〔本朝の金寛毅が撰んだ『王代宗録』には、神成王后を李氏とする。これ以外に二十五人の妃主の中に金氏の事は載っていないので、詳しくは分からない。しかし史臣の論にも安宗を新羅の外孫としているので、史伝を正しいとすべきである。〕

太祖の孫の景宗の伷が、正承公の娘を迎えて妃としたのが、これが憲承皇后である。

そのうえで正承を封じて尚父とした。

太平興国三年戊寅の年に世を去り、諡を敬順とした。

夾注 2

王之考孝宗角干追封神興大王之弟也.

王の父の孝宗角干を追封した神興大王の弟である。

本朝登仕郎金寬毅所撰王代宗録云. “神成王后李氏夲慶州大尉李正言爲俠州守時, 太祖幸此州納爲妃, 故或云俠州君.” 此外二十五妃主中不載金氏之事, 未詳. 然而史臣之論亦以安宗爲新羅外孫, 當以史傳爲是.

本朝の登仕郎金寛毅が撰んだ『王代宗録』に「神成王后李氏はもともと慶州の人で、大尉の李正言が俠州の守となったとき、太祖がこの州に行幸して迎えて妃としたので、俠州君ともいう」とある。これ以外に二十五人の妃主の中に金氏の事は載っていないので、詳しくは分からない。しかし史臣の論にも安宗を新羅の外孫としているので、史伝を正しいとすべきである。

6史論が言う

史論曰.“新羅朴氏·昔氏皆自卵生.金氏從天入金撌而降,或云乗金車,此尤詭恠不可信.然世俗相傳為實事.今但厚厥初,在上者其為己也儉,其爲人也寬.其設官也略,其行事也簡.以至誠事中國梯航朝聘之使相續不絶.常遣子弟造朝宿衛入學而誦習.于以襲聖賢之風化革鴻荒之俗,為禮義之邦.又憑王師之威霊平百濟·髙句麗,取其地郡縣可謂盛矣.然而奉浮屠之法不知其弊,至使閭里比其塔廟,齊民逃扵緇褐兵農侵小,而國家日衰,㡬何其不亂且三也㢤.

史論にこう言う。

「新羅の朴氏と昔氏はみな卵から生まれた。金氏は天から金の櫃に入って降ってきたといい、あるいは金の車に乗ったというが、これはさらに奇怪で信じられない。しかし世俗は互いに伝えて事実としている。

いま、ただその初めを篤く見れば、上の位にある者は自分には倹しく、人には寛かであった。官を設けることは簡略で、事を行うことは簡素であった。

至誠をもって中国に仕え、梯と船で朝聘する使いが相次いで絶えなかった。常に子弟を遣わして朝廷に出て宿衛させ、学校に入って学ばせた。

これによって聖賢の風化を受け継ぎ、荒々しい俗を改めて礼儀の国となった。

また王の軍の威霊に頼って百済と高句麗を平定し、その地を郡県としたのは、盛んであったと言えよう。

しかし仏の法を奉じてその弊を知らず、村ごとに塔と寺が並び、民が墨染めの衣に逃げて、兵と農がしだいに減った。国は日ごとに衰えたのだから、どうして乱れ亡びないことがあろうか。」

夾注 1

底本は「三」だが、「亡」の誤りと見る。 ― 訳者

7降伏はかえって美しい

扵是時景哀王加之以荒樂,與宫人左右出逰鮑石亭置酒燕衛,不知甄萱之至,與門外韓檎虎樓頭張麗華無以異矣.若敬順之歸命太祖雖非獲已亦可佳矣.向若力戰守死以抗王師,至扵力屈勢窮即必覆其宗族害及于無辜之民.而乃不待告命,封府庫籍群難以歸之,其有㓛扵朝廷有徳扵生民甚大.昔錢民以吳越入宋,蘇子瞻謂之忠臣,今新羅㓛徳過扵彼逺矣.我太祖妃嬪衆多,其子孫亦繁衍.而顯宗自新羅外孫即寳位,此後継統者皆其子孫,豈非隂徳也歟.新羅旣納土國除,阿干神會罷外署还,見都城離潰有黍離離嘆乃作歌,歌亡未詳.

「このとき景哀王はそれに荒んだ遊びを加え、宮人や左右の者とともに鮑石亭に出て遊び、酒宴を張って楽しみ、甄萱が至ったことも知らなかった。

門外の韓擒虎と、楼上の張麗華と違うところがない。

敬順王が太祖に命を預けたのは、やむを得ないことではあったが、それもまた美しいと言えよう。

もし力を尽くして戦い、死を覚悟して王の軍に抗し、力が屈して勢いが尽きるに至ったなら、必ずその一族は覆り、害は罪のない民にまで及んだであろう。

ところが命を待たずに倉庫を封じ、郡県を帳簿に記して献じたのだから、その朝廷に立てた功と民に施した徳はきわめて大きい。

昔、銭氏が呉越を持って宋に入ると、蘇子瞻は彼を忠臣といったが、いま新羅の功と徳はそれよりはるかに勝っている。

わが太祖は妃嬪が多く、その子孫もまた栄えた。ところが顕宗が新羅の外孫として宝位に就き、その後に統を継いだ者はみなその子孫である。どうして陰徳でないことがあろうか。」

新羅がすでに土地を献じて国が除かれると、阿干の神会は外の官署を辞して帰り、都城が崩れたのを見て、黍が茂るのを嘆く心があって歌を作った。歌は失われて詳しくは分からない。

夾注 1

底本は「群難」だが、「郡縣」の誤りと見る。 ― 訳者