後百済と甄萱後百濟·甄萱
1もともと姓は李氏であった
後百濟甄萱三國史本傳云,“甄萱尚州加恩縣人也,咸通八年丁亥生.本姓李,後以甄為氏.父阿慈个以農自活,光啓中㨿沙弗城〔今尚州〕自稱将軍.有四子皆知名扵世.萱號傑出多智略.”李碑家記云,“真興大王妃思刀謚曰白𪀚夫人.第三子仇輪公之子,波珎干善品之子角干酌珎妻王咬巴里,生角干元善,是為阿慈个也.慈之弟一妻上院夫人,第二妻南院夫人,生五子一女.其長子是尚父萱,二子将軍能哀,三子将軍龍盖,四子寳盖,五子将軍小盖,一女大主刀金.”
後百済と甄萱。
『三国史』の本伝にはこうある。
「甄萱は尚州加恩県の人で、咸通八年丁亥の年に生まれた。もともと姓は李氏であったが、後に甄を姓とした。
父の阿慈个は農事で暮らしていたが、光啓年間に沙弗城に〔今の尚州である。〕拠って、みずから将軍と称した。
息子が四人いて、みな世に名が知られた。甄萱はすぐれていると称され、知略が多かった。」
「李碑家記」には、真興大王の妃の思刀は諡を白𪀚夫人といい、その第三子の仇輪公の子であり、波珍干の善品の子である角干の酌珍の妻の王咬巴里が角干の元善を生んだ。これが阿慈个であるという。
阿慈个の第一の妻は上院夫人、第二の妻は南院夫人で、息子五人と娘一人を生んだ。
その長男が尚父の甄萱、次は将軍の能哀、三番目は将軍の龍蓋、四番目は宝蓋、五番目は将軍の小蓋、娘一人は大主刀金である。
夾注 1
今尚州
今の尚州である。
2糸を通した針がみみずの腰に刺さる
又古記云.“昔一富人居光州北村.有一女子姿容端正.謂父曰,‘每有一紫衣男到寢交㛰.’父謂曰,‘汝以長絲貫針刺其衣.’從之.至明尋絲扵北墻下,針刺扵大蚯蚓之腰.後因姙生一男,年十五自稱甄萱.至景福元年壬子,稱王立都扵完山郡.理四十三年以清泰元年甲午,萱之三子簒逆,萱投太祖.子金剛即位,天福元年丙申與髙麗兵會戰扵一善郡,百濟敗績國亡云.”初萱生孺褓時,父耕于野.母餉之以兒置于林下,虎來乳之,郷黨聞者異焉.及壮體皃雄竒,志倜儻不凡.
また『古記』にこう言う。
「昔、ある富んだ人が光州の北村に住んでいた。娘が一人いて、姿かたちが端正であった。
父に言った。「いつも紫の衣を着た男が寝床に来て交わります。」
父は言った。「お前は長い糸に針を通して、その衣に刺しなさい。」
その通りにした。
夜が明けて糸をたどると、北の墻の下で針が大きなみみずの腰に刺さっていた。
後にこれによって身ごもり、男の子を生んだ。年十五でみずから甄萱と称した。
景福元年壬子の年に至って王と称し、完山郡に都を立てた。
四十三年治めたが、清泰元年甲午の年に甄萱の三人の子が反逆し、甄萱は太祖に身を投じた。
子の金剛が即位したが、天福元年丙申の年に高麗の兵と一善郡で戦い、百済は敗れて国は亡んだという。」
初め、甄萱が襁褓にあったとき、父は野で田を耕していた。
母が食事を運ぶため子を林の下に置いておくと、虎が来て乳を飲ませた。村で聞いた者はこれを不思議に思った。
成長すると体と顔かたちが雄々しく奇なるもので、志は闊達で並ではなかった。
3古い憤りを雪ごう
從軍入王京,赴西南海防戍,枕戈待敵其氣恒為士卒先,以勞為裨将.唐昭宗景福元年,是新羅真聖王在位六年.嬖竪在側竊弄國權綱紀紊弛,加之以飢饉百姓流移群盗蜂起.扵是萱竊有叛心,嘯聚徒侣行撃京西南州縣,所至響應旬月之間衆至五千.遂襲武珎州自王,猶不敢公然稱王,自署為新羅西南都統行全州刺史兼御史中承上柱國漢南國開國公.龍化元年己酉也.一云景福元年壬子.是時北原賊良吉雄強,弓裔自投為麾下.萱聞之遥授良吉職為裨將.萱西廵至皃山州,州民迎勞.喜得人心謂左右曰.“百濟開國六百餘年,唐髙宗以新羅之請遣將軍蘇定方以舡兵十三万越海,新羅金庾信卷土歴黄山,與唐兵合攻百濟滅之.予今敢不立都以雪宿憤乎.”遂自稱後百濟王,設官分職,是唐光化三年,新羅孝恭王四年也.
軍に従って王京に入り、西南海の防戍に赴いたが、戈を枕にして敵を待ち、その気概はいつも士卒の先に立ったので、功によって裨将となった。
唐の昭宗の景福元年は、すなわち新羅の真聖王の在位六年である。
寵愛された者たちがかたわらで国の権を密かに弄び、綱紀が乱れ緩み、そこに飢饉が加わって民が流れ移り、群盗が蜂のように起こった。
そこで甄萱は密かに叛く心を抱き、仲間を呼び集めて都の西南の州県を撃った。
至る所で響きのように応じて、十日から一月の間に衆が五千に至った。
ついに武珍州を襲ってみずから王となったが、なお公然と王と称することはできず、みずから「新羅西南都統行全州刺史兼御史中承上柱国漢南国開国公」と署した。
龍化元年己酉の年である。景福元年壬子の年ともいう。
このとき北原の賊の良吉が雄々しく強く、弓裔がみずから身を投じてその麾下となった。
甄萱はそれを聞いて、遠くから良吉に職を授けて裨将とした。
甄萱が西に巡って完山州に至ると、州の民が迎えて労った。
人心を得たことを喜んで、左右の者に言った。
「百済が国を開いて六百余年、唐の高宗が新羅の求めによって将軍の蘇定方を遣わし、船で十三万の軍を率いて海を越えさせ、新羅の金庾信が土地を巻き取って黄山を経、唐の軍と合わせて百済を攻めて滅ぼした。
わたしが今、どうして都を立てて古い憤りを雪がずにいられようか。」
ついにみずから後百済王と称し、官を設けて職を分けた。唐の光化三年、新羅の孝恭王四年である。
夾注 1
底本は「皃山州」だが、「完山州」の誤りと見る。 ― 訳者
4表では和し、裏では競う
貞明四年戊寅,䥫原京衆心忽變,推戴我太祖即位.萱聞之遣使稱賀,遂獻孔雀扇地理山竹箭等.萱與我太祖陽和隂尅獻驄馬扵太祖,三年冬十月萱率三千騎至曹物城.太祖亦以精兵來與之角.萱兵銳未决勝負.太祖欲權和以老其師,移書乞和以堂弟王信為質,萱亦以外甥真虎交質.十二月攻取居西等二十餘城,遣使入後唐稱藩.四年真虎暴卒,疑故殺即囚王信,使人請還前年所送驄馬,太祖笑還之.
貞明四年戊寅の年、鉄原京の人々の心が突然変わり、わが太祖を推し立てて即位させた。
甄萱はそれを聞いて使者を遣わして祝いを述べ、そのうえで孔雀の扇や地理山の竹の矢などを献じた。
甄萱はわが太祖と表では和し、裏では競いながら、驄馬を太祖に献じた。
三年の冬十月、甄萱が三千騎を率いて曹物城に至った。
太祖もまた精兵をもって来て競った。甄萱の兵は鋭く、勝負が決まらなかった。
太祖はしばらく和して、その軍を疲れさせようと、書を送って和を乞い、従弟の王信を人質とすると、甄萱もまた甥の真虎を送って互いに人質とした。
十二月、居西など二十余の城を攻め取り、後唐に使者を遣わして藩と称した。
四年、真虎が急に死んだので、わざと殺したのではないかと疑い、すぐに王信を囚え、人を遣わして前の年に送った驄馬を返してくれと求めた。
太祖は笑って返した。
5鮑石亭を襲う
天成二年丁亥九月,萱攻取近品城燒之,新羅王求救於太祖.太祖将出帥,萱襲取髙鬱府,進軍族始林卒入新羅王都.新羅王與夫人出遊鮑石亭時,由是甚敗.萱強引夫人乱之,以王之族弟金傅嗣位.然後虜王弟孝廉.宰相英景,又取國珎寳兵仗子女百工之巧者自隨以歸.太祖以精騎五千要萱於公山下大戰.太祖之將金樂·崇謙死之諸軍敗北,太祖僅以身免.而不與相抵使盈其貫.萱乗勝轉掠大木城·京山府·康州,攻缶谷城.又義成府之守洪述拒戰而死.太祖聞之曰,“吾失右手矣.”
天成二年丁亥の年の九月、甄萱が近品城を攻め取って焼いた。新羅の王は太祖に救いを求めた。
太祖が軍を出そうとしていると、甄萱が高鬱府を襲い取り、軍を始林へ進めて、突然新羅の王都に入った。
新羅の王が夫人とともに鮑石亭に出て遊んでいたときだったので、これによってひどく崩れた。
甄萱は無理に夫人を引いて辱め、王の一族の弟の金傅に位を継がせた。
その後に王の弟の孝廉と宰相の英景を捕らえ、また国の宝と兵仗、子女、さまざまな技に巧みな職人を連れて帰った。
太祖は精鋭の騎兵五千で公山の下に甄萱を迎えて大いに戦った。
太祖の将の金楽と申崇謙が死に、諸軍は敗れて逃げ、太祖はかろうじて身一つで逃れた。
そうしながらも向き合わず、その罪が満ちるのを待った。
甄萱は勝った勢いに乗って、大木城・京山府・康州を移りながら略奪し、缶谷城を攻めた。
また義成府の守の洪述が立ち向かって戦い、死んだ。
太祖は聞いて言った。「わたしは右手を失った。」
6太祖が送った返書
二年正月太祖荅曰.“… 僕仰承天假俯迫人推,過叨将帥之權獲赴經綸之㑹.… 及至癸酉年維時陽月,忽焉生事至乃交兵.足下始軽敵以直前若螳蜋之拒轍,終知難而勇退如蚊子之負山.拱手陳辝指天作誓,‘今日之後永世歡和,苟或渝盟神其殛矣.’僕亦尚止戈之㱏期不殺之仁,遂解重圍以休疲卒,不辝質子,但欲安民.此即我有大徳於南人也.豈期歃血未乾,凶威復作蜂蠆之毒侵害於生民,狼虎之狂為梗於畿甸,金城窘忽黄屋震驚.… 足下見毫釐之小利,忘天地之厚恩,斬戮君主焚燒宮闕,葅醢卿佐虔劉士民.姬姜則取以同車,珎寳則奪之相載,元惡浮於桀·紂,不仁甚於獍梟.… 若不過而能攺,其如悔不可追.”〔書乃崔致逺作也.〕
二年正月、太祖が答えてこう言う。
「わたしは仰いで天の貸し与えを承け、伏して人々の推すところに迫られ、おそれながら将帥の権を任され、国を治める会に赴きました。
癸酉の年の十月に至って、突然事が起こり、ついに兵を交えることになりました。
足下は初め敵を軽んじてまっすぐ進むこと、螳螂が車輪に立ち向かうかのようでしたが、ついに難しいと知って勇んで退くこと、蚊が山を背負うかのようでした。
手を組んで言葉を並べ、天を指して誓い、「今日より後は永く睦まじくし、もし誓いを破れば神が罰するであろう」と言いました。
わたしもまた戈を止める武を尊び、殺さない仁を期して、ついに重なる囲みを解いて疲れた兵を休ませ、人質を辞さなかったのは、ただ民を安んじたいがためでした。
これがすなわち、わたしが南の人に施した大きな徳です。
どうして血を飲んだ誓いが乾かないうちに凶の威が再び起こり、蜂や蠍の毒が民を害し、狼や虎の狂いが都の周りを塞ぐと分かりましょうか。
足下は毛筋ほどの小さな利を見て、天地の厚い恩を忘れ、君主を斬り殺し、宮闕を焼き、宰相を塩漬けにし、民を殺しました。
悪は桀王や紂王を越え、不仁は梟よりもひどいものです。
もし過ちを改められなければ、悔いても追いつけないでしょう。」
〔この書はすなわち崔致遠が作ったものである。〕
夾注 1
書乃崔致逺作也.
この書はすなわち崔致遠が作ったものである。
7形勢が覆る
長興三年甄萱臣龔直勇而有智略來降太祖,萱捉龔直二子一女烙断股筯.秋九月萱遣一吉以舡兵入髙麗禮城江留三日,取塩·白·真三州船一百艘焚之而去.清泰元年甲午,萱聞太祖屯運州,遂簡甲士蓐食而至末及營壘,将軍黔弼以勁騎撃之斬獲三千餘級,熊津以北三十餘城聞風自降,萱麾下術士宗訓·醫者之謙·勇将尚逢·雀弼等降於太祖.
長興三年、甄萱の臣の龔直は勇ましく知略があったが、太祖に降ってきた。
甄萱は龔直の二人の息子と娘一人を捕らえて、火で焼き、股の筋を断った。
秋の九月、甄萱は一吉を遣わして船で高麗の礼成江に入らせ、三日留まって、塩州・白州・真州の三州の船百艘を奪って焼いて去った。
清泰元年甲午の年、甄萱は太祖が運州に陣を張っていると聞き、そこで甲を着た兵を選んで、座ったまま食事をして至ったが、まだ営塁に及ばないうちであった。
将軍の庾黔弼が強い騎兵で撃って、三千余級を斬り獲た。
熊津以北の三十余城が噂を聞いてみずから降り、甄萱の麾下の術士の宗訓、医者の之謙、勇ましい将の尚逢・雀弼らが太祖に降った。
8子らが父を寺に閉じ込める
丙申正月萱謂子曰.“老夫新羅之季立後百濟名,有年于今矣.兵倍於北軍尚爾不利,殆天假手為高麗.盖歸順於北王保首領矣.”其子神劒·龍劒·良劒等三人皆不應.萱多妻妾有子十餘人,第四子金剛身長而多智,萱特愛之意欲傳位,其兄神劒·良劒·龍劒知之憂㦖.時良劍為康州都督,龍劒為正州都督,獨神劒在側.伊飱能奐使人徃康·㱏二州與良劒等謀.至清泰二年乙未春三月,與英順等勸神劍幽萱於金山佛宇,遣人殺金剛.神劍自稱大王赦境内.初萱寢未起遥聞宫庭呼㖤聲,問是何聲歟,告父曰.“五年老暗於軍國政要,長子神劒攝父王位,而諸將歡賀聲也.”俄移父於金山佛宇,以巴逹等壮士三十人守之,童謠曰.可憐完山兒,失父涕連洒.
丙申の年の正月、甄萱は子たちに言った。
「この老いた身が新羅の末に後百済という名を立てて、今や年を重ねた。
兵は北の軍の倍であるのに、それでも利がない。おそらく天が高麗に手を貸しているのだろう。
おおかた北の王に帰順して首領を保つのがよいだろう。」
その子の神剣・龍剣・良剣の三人はみな応じなかった。
甄萱は妻と妾が多く、子が十余人いたが、第四子の金剛は背が高く知恵が多かったので、甄萱は特に愛して位を伝えようと思った。
その兄の神剣・良剣・龍剣はそれを知って憂え悶えた。
そのとき良剣は康州の都督、龍剣は正州の都督で、ただ神剣だけがかたわらにいた。
伊飡の能奐が人を康州と正州の二州に遣わして、良剣らと謀った。
清泰二年乙未の年の春三月に至って、英順らとともに神剣に勧め、甄萱を金山の仏宇に幽閉し、人を遣わして金剛を殺した。
神剣はみずから大王と称し、境内に赦を行った。
初め、甄萱が寝ていてまだ起きないうちに、遠くから宮の庭で叫ぶ声を聞き、これは何の声かと尋ねた。
かたわらにいた者が申し上げた。「お父上が年老いて軍と国の要の政に暗いので、長子の神剣が父の王位を代わって執ることになり、諸将が喜んで祝う声です。」
やがて父を金山の仏宇に移し、巴達ら壮士三十人に守らせた。
子どもたちの歌にこう言う。
哀れな完山の子よ 父を失って涙をしきりに流している。
夾注 1
底本は「五年老」だが、「王年老」の誤りと見る。 ― 訳者
9守る兵を酔わせて逃げる
萱與後宫年少男女二人·侍婢古比女·内人能又男等囚繫.至四月釀酒而飮醉守卒三十人.而與小元甫香又·吳琰·忠質等以海路迎之.旣至以萱為十年之長,尊號為尚父,安置于南宫,賜楊州食邑·田㽵·奴婢四十口馬九匹,以其國先來降者信康為衙前.
甄萱は後宮の年若い男女二人、侍婢の古比女、内人の能又男らとともに囚われていた。
四月に至って酒を醸して、守っていた兵三十人を酔わせた。
そのうえで小元甫の香又・吳琰・忠質らとともに、海路で迎えた。
着くと、甄萱を十歳の長と見て尚父と尊び称し、南宮に住まわせた。
楊州を食邑として与え、田や荘、奴婢四十人と馬九匹を下賜し、その国から先に来て降った信康を衙前とした。
10貞女は二人の夫を持たない
甄萱婿将軍英䂓密語其妻曰.“大王勤勞四十餘年㓛業垂成,一旦以家人之禍失地從於髙麗.夫貞女不可二夫,忠臣不事二主.若捨己君以事逆子耶,何顔以見天下之義士乎.况聞髙麗王公仁厚懃儉以得民心,殆天啓也.必為三韓之主,盍致書以安慰我王,兼慇懃於王公以圖後來之福乎.”妻曰“子之言是吾意也.”於是天福元年丙申二月,遣人致意於太祖曰.“君舉義旗請為内應以迎王師.”太祖喜厚賜其使者遣之,謝英䂓曰,“若蒙恩一合無道路之梗,即先致謁於将軍然後升堂拜夫人兄事而姊尊之,必終有以厚報之.天地鬼神皆聞此語.”
甄萱の婿である将軍の英規が、その妻にひそかに言った。
「大王が四十余年苦労されて功業が成ろうとしていたのに、一朝にして家の者の禍によって地を失い、高麗に従われた。
そもそも貞女は二人の夫を持たず、忠臣は二人の主に仕えないという。
もし自分の君を捨てて逆らった子に仕えるなら、どの顔で天下の義士に会えようか。
まして聞くところでは、高麗の王公は仁厚で勤勉倹約で民心を得たという。おそらく天が開いたのだ。必ず三韓の主になるだろう。
どうして書を送ってわが王を慰め、あわせて王公に誠を尽くして、後の日の福を図らずにいられようか。」
妻は言った。「あなたの言葉が、まさにわたしの思いです。」
そこで天福元年丙申の年の二月、人を遣わして太祖に意を伝えた。
「君が義の旗を挙げられれば、内で応じて王の軍を迎えることをお願いします。」
太祖は喜んでその使者に厚く与えて帰し、英規に礼を言った。
「もし恩を受けて一つに合わさり、道に塞がりがなくなれば、まず将軍に拝謁し、その後に堂に上がって夫人に拝して、兄として仕え姉として尊び、必ず最後まで厚く報いよう。天地の鬼神がみなこの言葉を聞いた。」
11白い雲が剣や戟のように起こる
六月萱告太祖,“老臣所以投身於殿下者,願仗殿下威稜以誅逆子耳,伏望大人借以神兵殱其賊乱,臣雖死無憾.”太祖曰“非不欲討之,待其時也.”先遣太子及㱏将軍述希領歩騎十万趣天安府,秋九月太祖率三軍至天安,合兵進次一善,神劒以兵逆之.甲午隔一利川相對,王師背艮向坤而陳.太祖與萱觀兵,忽白雲狀如劒戟起我師向彼行焉.乃皷行而進,百濟将軍孝奉·徳述·哀述·明吉等望兵勢大而整,弃甲降於陣前.太祖勞慰之問将帥所在,孝奉等曰,“元帥神劒在中軍.”太祖命将軍公萱等三軍齊進挾撃,百濟軍潰北.至黃山炭峴,神劒與二弟将軍冨逹·能奐等四十餘人生降.
六月、甄萱が太祖に申し上げた。
「老いた臣が殿下に身を投じたのは、殿下の威に頼って逆らった子を誅したいだけです。伏してお願いします、大人が神なる兵を貸してその賊乱を滅ぼしてくださるなら、臣は死んでも恨みはありません。」
太祖は言った。「討ちたくないのではない。その時を待っているのだ。」
先に太子と将軍の述希を遣わして、歩兵と騎兵十万で天安府へ向かわせた。
秋の九月、太祖は三軍を率いて天安に至り、兵を合わせて一善に進んで留まると、神剣が兵をもって迎え撃った。
甲午の日、一利川を隔てて向かい合うと、王の軍は東北を背にして西南に向かって陣を張った。
太祖が甄萱とともに兵を見ていると、突然白い雲が剣や戟の形をしてわが軍から起こり、あちらに向かって行った。
そこで鼓を打って進むと、百済の将軍の孝奉・徳述・哀述・明吉らが、軍の勢いが大きく整っているのを望み見て、甲を脱いで陣の前に降った。
太祖は労い、将帥のいる所を尋ねると、孝奉らは言った。「元帥の神剣は中軍にいます。」
太祖は将軍の公萱らに命じて、三軍が並び進んで挟み撃ちさせると、百済の軍は崩れて逃げた。
黄山の炭峴に至って、神剣は二人の弟と将軍の富達・能奐ら四十余人とともに生け捕られて降った。
12疽が出て死ぬ
太祖受降,餘皆勞之許令與妻子上京.問能奐曰,“始與良劒等密謀囚大王立其子者汝之謀也,爲臣之義當如是乎.”能奐俛首不能言.遂命誅之.以神劒僣位為人所脅,非其本心.又且歸命乞罪,特原其死.甄萱憂懣發疽數日卒扵黄山佛舎,九月八日也,壽七十.大祖軍令嚴明士卒不犯秋毫,州縣安堵老㓜皆呼万歳.謂英䂓曰,“前王失國後其臣子無一人慰之者,獨卿夫妻千里嗣音以致誠意,兼歸羙於寡人其義不可忘.”許職左承賜田一千項,許借驛馬三十五匹以迎家人,賜其二子以官.甄萱起唐景福元年,至晉天福元年共四十五年丙申㓕.
太祖は降伏を受け入れ、残りはみな労って、妻子とともに都に上ることを許した。
能奐に問うた。「初め、良剣らとひそかに謀って大王を囚え、その子を立てたのはお前の謀だ。臣としての義は、まさにこのようであるべきか。」
能奐は首をうなだれて物を言えなかった。ついに命じて斬った。
神剣については、位を僭したのは人に脅されたもので本心ではないとし、また命を預けて罪を乞ったので、特にその死を許した。
甄萱は憂いと悶えから疽が出て、数日で黄山の仏舎で亡くなった。九月八日のことで、年は七十であった。
太祖の軍令は厳しく明らかで、士卒は毛筋ほども侵さなかったので、州と県は安らかで、老いも幼きもみな万歳を呼んだ。
英規に言った。「前の王が国を失った後、その臣や子の中に一人も慰めた者がなかったのに、ただ卿の夫婦だけが千里に音を継いで誠意を尽くし、あわせて美を寡人に帰した。その義は忘れられない。」
左承の職を授け、田千頃を下賜し、駅馬三十五匹を借りることを許して家の者を迎えさせ、その二人の子に官を授けた。
甄萱は唐の景福元年に起こり、晋の天福元年に至るまで、あわせて四十五年、丙申の年に滅びた。
13史論が言う
史論曰.“新羅數窮,道喪天無所助,民無所歸.於是羣盗投隙而作若猬毛然.其劇者弓裔·甄萱二人而已.弓裔本新羅王子而反以家國為讎,至斬先祖之畫像,其為不仁甚矣.甄萱起自新羅之民,食新羅之禄,包藏禍心幸國之危,侵軼都邑虔劉君臣若禽獸,實天下之元惡.故弓裔見弃於其臣,甄萱産禍於其子,皆自取之也,又誰咎也.雖項羽·李密之雄才不能敵漢唐之興,而况裔·萱之㐫人豈可與我太祖相抗歟.”
史論にこう言う。
「新羅の運数が尽き、道が失われて、天は助けるところがなく、民は帰るところがなかった。
そこで群盗が隙に乗じて起こり、蝟の毛のようであった。
そのひどい者は弓裔と甄萱の二人だけである。
弓裔はもともと新羅の王子であったのに、かえって家と国を仇として、先祖の画像を斬るに至った。その不仁はひどいものである。
甄萱は新羅の民から起こり、新羅の禄を食みながら、禍の心を包み隠して国の危うさを幸いとした。都邑を侵し、君臣を獣のように殺したのは、まことに天下第一の悪である。
だから弓裔はその臣に捨てられ、甄萱はその子から禍が生じた。みな自分で招いたことで、誰を咎められようか。
項羽や李密のような雄才でも漢や唐の興隆に敵しえなかったのだから、まして弓裔や甄萱のような凶な人が、どうしてわが太祖と抗しえようか。」