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迦葉仏が座られた石迦葉佛宴坐石

三国遺事(三国時代の遺聞集) 三國遺事 · 一然(イリョン) · 1281年(高麗・忠烈王7年) · 段落 3 · 漢字 583字 · 朗読 2.3分

三国遺事(三国時代の遺聞集) 塔像 第4 高麗の僧・一然が編んだ三国時代の説話集。正史が捨てた話を集めている。檀君神話を載せる最も古い書物である。

1一然がその石を自ら見て記す

玉龍集及慈藏傳,與諸家傳紀皆云.“新羅月城東龍宫南有迦葉佛宴坐石,其地即前佛時伽藍之墟也,今皇龍寺之地即七伽藍之一也.”按國史,真興王即位十四開國三年癸酉二月築新宫於月城東,有皇龍現其地,王疑之攺爲皇龍寺.宴坐石在佛殿後靣.甞一謁焉,石之髙可五六尺,來圍僅三肘幢立而平頂.真興創寺已來再經災火石有拆裂處,寺僧貼䥫爲護.

『玉龍集』と「慈蔵伝」、そして諸家の伝記にみなこう言う —

「新羅の月城の東、龍宮の南に迦葉仏(かしょうぶつ)が座られた石があり、その地はすなわち先の仏の時の伽藍の跡である。今の皇龍寺の地がすなわち七つの伽藍の一つである」と。

『国史』を調べると、真興王即位十四年、開国三年癸酉の二月に月城の東に新しい宮を築いたところ、黄色い龍がその地に現れたので、王はこれを疑って改めて皇龍寺とした。

座られた石は仏殿の後ろの面にある。

かつて一度行って拝したことがある。石の高さは五、六尺ばかり、周りはわずかに三肘(ちゅう)ほどで、幢のように立って頂が平らであった。真興王が寺を建てて以来、二度火災を経て石に割れた所があるので、寺の僧が鉄を貼って守っていた。

2讃じて言い、そして後に書き足す

乃有讃曰.惠日沉輝不記年,唯餘宴坐石依然.桑田㡬度成滄海,可惜巍然尚未遷.旣而西山大兵已後殿塔煨燼,而此石亦夷没而僅與地平矣.

そこで讃じて言う。

智慧の日が輝きを沈めてから何年か数えられないが ただ座られた石だけが残って昔のままである 桑の畑が幾度も青い海になったけれども 惜しいことに、高くそびえたまま、まだ移されていない

ところが西山の大きな兵乱があって後、殿閣と塔は灰となり、この石もまた埋もれて、かろうじて地と平らになってしまった。

夾注 1

「西山の大きな兵乱」が何を指すのかは、原文だけでは分からない。 ― 訳者

3この石の年で開闢の年代を論じる

按阿含經,迦葉佛是賢刧第三尊也,人壽二萬歳時出現於世.㨿此以増减法計之每成劫初皆壽無量歳.漸减至壽八萬歳時爲住劫之初.自此又百年减一歳至壽十歳時爲一减,又增至人壽八萬歳時爲一增.如是二十减二十增爲一住劫.此一住劫中有千佛岀世,今夲師釋迦是第四尊也.四尊皆現於第九减中.自釋尊百歳壽時至迦葉佛二萬歳時已得二百萬餘歳.…自釋尊下至于今至元十八年辛巳歳已得二千二百三十矣,自抅留孫佛歴迦葉佛時至于今則直㡬萬歳也.有夲朝名士吳世文作歴代歌,從大金貞祐七年己夘逆數至四萬九千六百餘歳爲盤古開闢戊寅.又延禧宫録事金希寕所撰大一歴法,自開闢上元甲子,至元豊甲子一百九十三萬七千六百四十一歳.又纂古圗云,開闢至獲麟二百七十六萬歳.按諸經且以迦葉佛時至于今爲此石之壽,尚距於劫初開闢時爲兒子矣.三家之說尚不及玆兒石之年,其於開闢之說踈之逺矣.

『阿含経』を調べると、迦葉仏は賢劫の第三の尊で、人の寿命が二万歳であった時に世に現れた。

これに拠って増減の法で数えてみる。劫が成る初めには寿命がみな量りない。次第に減って八万歳になる時が住劫の初めである。これより後は百年に一歳ずつ減って十歳になる時が一減であり、再び増えて八万歳になる時が一増である。このように二十回減り二十回増えるのが一住劫である。

この一住劫の中に千仏が世に出るが、いま我が師の釈迦はその第四である。四尊はみな第九の減の中に現れた。

釈尊の寿命百歳の時から迦葉仏の二万歳の時までが、すでに二百万年余りである。もし賢劫の初めの第一の仏、拘留孫仏の時に至れば、また幾万年であろうか。拘留孫仏の時から上って劫初の量りない寿命の時までは、また幾らであろうか。

釈尊から下って今の至元十八年辛巳の年までが、すでに二千二百三十年である。拘留孫仏から迦葉仏の時を経て今までは、すなわち幾万年であろうか。

本朝の名高い士の呉世文が作った「歴代歌」には、大金の貞祐七年己卯から遡って数えて四万九千六百年余りが、盤古が天地を開いた戊寅の年であるとする。

また延禧宮の録事の金希寧が撰した「大一暦法」には、天地が開けた上元甲子から元豊の甲子までが百九十三万七千六百四十一年とする。

また「纂古図」には、天地が開けた時から麟を獲た時までが二百七十六万年とする。

諸経を調べて、迦葉仏の時から今までをこの石の年としても、劫が初めて開けた時に比べれば、やはり幼い子どもである。

三家の説はなお、この幼い石の年にも及ばないのだから、その天地開闢についての説は粗く、遠く隔たっている。