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前後に持ち来たって安置した舎利前後所將舍利

三国遺事(三国時代の遺聞集) 三國遺事 · 一然(イリョン) · 1281年(高麗・忠烈王7年) · 段落 13 · 漢字 2,315字 · 朗読 9.3分

三国遺事(三国時代の遺聞集) 塔像 第4 高麗の僧・一然が編んだ三国時代の説話集。正史が捨てた話を集めている。檀君神話を載せる最も古い書物である。

1通度寺の戒壇の石の蓋を開けた人々

前後所将舎利國史云真興王大清三年己巳,梁使沈湖送舎利若干粒.善徳王代貞觀十七年癸夘,慈藏法師所將佛頭骨·佛牙·佛舎利百粒·佛所著緋羅金㸃袈裟一領,其舎利分爲三,一分在皇龍塔,一分在太和塔,一分并袈裟在通度寺戒壇,其餘未詳所在.壇有二級,上級之中安石蓋如覆鑊.諺云,昔在夲朝相次有二廉使禮壇舉石鑊而敬之,前感脩蟒在凾中,後見巨蟾蹲石腹,自此不敢舉之.近有上将軍金公利生·庾侍郎碩以髙廟朝受㫖指揮江東,仗節到寺擬欲舉石瞻禮,寺僧以徃事難之.二公令軍士固舉之,内有小石凾,凾襲之中貯以瑠璃筒,筒中舎利只四粒.傳示瞻敬,筒有小傷裂處.於是庾公適蓄一水精凾子遂奉施兼藏焉,識之以記,移御江都四年乙未歳也.古記稱百枚分藏三䖏,今唯四爾.旣隠現隨人,多小不足恠也.

前後に持ち来たって安置した舎利。

『国史』に、真興王の大清三年己巳に、梁の使いの沈湖が舎利を幾粒か送ってきたとある。

善徳王の代の貞観十七年癸卯に慈蔵法師が持ってきたものは、仏の頭の骨、仏の歯、仏の舎利百粒、仏が着ていた赤い羅に金の点を置いた袈裟一領であった。

その舎利を三つに分けて、一分は皇龍寺の塔に、一分は太和寺の塔に、一分は袈裟とともに通度寺の戒壇に置いた。その残りはある所が詳らかでない。

戒壇は二層で、上の層の中に、釜を伏せたような石の蓋を置いた。

世間に伝えるところではこうである。昔、本朝で相次いで二人の廉使が戒壇に礼をし、石の蓋を持ち上げて敬ったが、前の者は函の中に長い蟒(うわばみ)がいるのを見、後の者は大きな蟾(ひきがえる)が石の腹にうずくまっているのを見た。これより後は、あえて持ち上げなかった。

近ごろ上将軍の金利生と侍郎の庾碩が、高宗の朝に旨を受けて江東を指揮することになり、節(しるし)を持って寺に至り、石を持ち上げて仰ぎ拝もうとした。寺の僧は昔のことを挙げて難色を示したが、二人は軍士に命じて強引に持ち上げさせた。

中に小さな石の函があり、函の重なりの中に瑠璃の筒が納められていたが、筒の中の舎利はわずかに四粒であった。

回して見せて仰ぎ敬った。筒には少し傷んで裂けた所があった。そこで庾公がちょうど持っていた水晶の函一つを献じて一緒に納めさせ、文に記しておいた。江都に移って四年目の乙未の年のことである。

古い記録には百粒を三か所に分けて置いたとあるが、今はわずかに四粒だけである。すでに人によって隠れたり現れたりするのだから、多いか少ないかは怪しむに足らない。

2皇龍寺の塔が焼けた日に石にできた斑

又諺云其皇龍寺塔災之日石鑊之東面始有大斑,至今猶然.即大遼應暦三年癸丑歳也,本朝光廟五載也,塔之第三災也.曺溪無衣子留詩云,“聞道皇龍災塔日,連燒一面示無間”,是也.自至元甲子已來大朝使佐本國皇華爭来瞻禮,四方雲水輻湊來叅,或舉不舉.真身四枚外變身舎利碎如砂礫現於𥖪外,而異香郁烈旀日不歇者比比有之,此末季一方之竒事也.

また世間に伝えるところでは、皇龍寺の塔が焼けた日に、石の蓋の東の面に初めて大きな斑ができて、今までそのままだという。

すなわち大遼の応暦三年癸丑であり、本朝の光宗五年で、塔が三度目に焼けた時である。

曹渓の無衣子が残した詩に「皇龍寺の塔が焼けた日に消息を聞けば、相次いで一面を焼いて間のないことを示した」とあるのがこれである。

至元の甲子以来、大国の使いと我が国の使いが争って来て仰ぎ礼拝し、四方の行者が押し寄せて参礼した。石の蓋を持ち上げる者もあり、持ち上げない者もあった。

真身の舎利四粒のほかにも、変身の舎利が砂の粒のように砕けて函の外に現れ、異なる香りが濃くて幾日経ってもやまないことがしばしばあった。これは末世の一地方の奇しいことである。

3使いたちが持ってきたもの

唐大中五年辛未入朝使元弘所将佛牙,〔今未詳所在,新羅文聖王代.〕後唐同光元年癸未,本朝大祖即位六年入朝使尹質所将五百羅漢像,今在北崇山神光寺.大宋宣和元年己夘〔睿廟十五年〕入貢使鄭克永·李之羙等所将佛牙今内殿置奉者是也.

唐の大中五年辛未に、朝貢の使いの元弘が持ってきた仏の歯が〔今ある所が詳らかでない。新羅の文聖王の代である。〕ある。

後唐の同光元年癸未、本朝の太祖即位六年に、朝貢の使いの尹質が持ってきた五百羅漢像は、今、北崇山の神光寺にある。

大宋の宣和元年己卯〔睿宗十五年である。〕に、朝貢の使いの鄭克永と李之美らが持ってきた仏の歯が、今、内殿に置いて奉じているものである。

夾注 2

今未詳所在, 新羅文聖王代.

今ある所が詳らかでない。新羅の文聖王の代である。

睿廟十五年

睿宗十五年である。

4天の供養が遅れた理由

相傳云,昔義湘法師入唐到終南山至相寺智儼尊者處,隣有宣律師常受天供每齋時天厨送食.一日律師請湘公齋,湘至坐定旣久,天供過時不至.湘乃空鉢而歸,天使乃至.律師問“今日何故遟”,天使曰,“滿洞有神兵遮擁不能淂入.”於是律師知湘公有神衛,乃服其道勝仍留其供具,翌日又邀儼湘二師齋具陳其由.湘公從容謂宣曰,“師旣被天帝所敬,甞聞帝釋宫有佛四十齒之一牙,爲我䓁軰請下人間爲福如何.”律師後與天使傳其意於上帝,帝限七日送與.湘公致敬訖邀安大内.

互いに伝えるところではこうである。

昔、義湘法師が唐に入り、終南山の至相寺の智儼尊者のいる所に至った。隣に宣律師がいて、常に天の供養を受け、斎の時ごとに天の厨房から食が送られてきた。

ある日、律師が義湘公を請うて斎を行った。義湘が至って座を定めて久しくなったが、天の供養が時を過ぎても至らなかった。

義湘はそこで空の鉢のまま帰ると、そのとき天の使いが至った。

律師が問うた。「今日はどうして遅れたのか。」

天の使いが言った。「洞に神兵が満ちて遮りふさいでいて、入ることができませんでした。」

そこで律師は義湘公に神の護衛があることを知り、その道の勝れていることに感服した。そしてその供養の器をそのまま留めておき、翌日また智儼と義湘の二師を招いて斎を行い、その理由を取りそろえて述べた。

義湘公は静かに宣律師に言った。「師はすでに天帝に敬われておられます。かつて聞くに、帝釈宮に仏の四十の歯のうちの一本があるといいます。私たちのために人間の世に下してくださるよう請い、福を作らせてはいかがでしょうか。」

律師が後に天の使いとともにその意を上帝に伝えると、上帝は七日を限りとして送ってくれた。

義湘公は敬いを尽くした後、迎えて宮中に安置した。

5「金人が国を敗る」という讖言

後至大宋徽宗朝崇奉尢道,時國人傳啚䜟曰,“金人敗國.”黄巾之徒諷日官奏曰,“金人者佛教之謂也,将不利於國家.”議将破滅釋氏坑諸沙門,焚燒経典,而别造小舡載佛牙泛於大海,任隨縁流泊.

後に大宋の徽宗の朝に至って、道教をいっそう高く崇め奉じた。

そのころ国の人々のあいだに図讖(としん)が伝わって「金人が国を敗る」と言った。

黄巾の徒が日官をそそのかして申し上げさせた。「金人とは仏教を指す言葉ですから、やがて国家に利しないでしょう。」

議して、まさに仏の教えを滅ぼし、沙門たちを坑に埋め、経典を焼くことにした。そして別に小さな船を造って仏の歯を載せ、大海に浮かべ、縁に随って流れ着くに任せた。

6賄賂で歯をすり替える

于時適有本朝使者至宋聞其事,以天花茸五十領紵布三百疋行賂於押舡内史宻授佛牙,但流空舡.使臣等旣淂佛牙來奏.扵是睿宗大喜,奉安于十貟殿左掖小殿常鑰匙殿門施香燈于外,每親幸日開殿瞻敬.

このとき、ちょうど本朝の使者が宋に至ってそのことを聞いた。

天花茸五十領と紵布三百疋で、船を押える内史に賄賂を贈り、ひそかに仏の歯を授けられて、ただ空の船だけを流して送った。

使臣たちが歯を得て来て申し上げると、睿宗は大いに喜び、十員殿の左の脇の小さな殿に奉じて安置した。

常に殿の門に鍵をかけ、外に香と灯を設け、みずから行幸する日ごとに殿を開いて仰ぎ敬った。

7江華に移る時に失う

至壬辰歳移御次,内官忩遽中忘不收撿.至丙申四月御願堂神孝寺釋蕰光請致敬佛牙聞于上,勑令内臣遍検宫中無淂也.時栢䑓侍御史崔冲命薛伸急徴于諸謁者房,皆未知所措.内臣金承老奏曰,“壬辰年移御時紫門日記推看.”從之,記云,“入内侍大府卿李白全受佛牙凾云.”召李詰之,對曰“請歸家更尋私記.”到家検看,得左番謁者金瑞龍佛牙凾准受記來呈.召問瑞龍無辭以對.又以金承老所奏云,壬辰至今丙申五年間御佛堂及景霊殿上守等囚禁問當,依違未决.

壬辰の年に王が御座を移す時、内官が忙しく急な中で忘れて、収め取り揃えなかった。

丙申の四月に至って、御願堂の神孝寺の僧の蘊光が仏の歯に敬いを捧げることを請うて王に申し上げた。命が下って内臣に宮中をあまねく調べさせたが、見つからなかった。

そのとき柏台侍御史の崔冲が薛伸に命じて、急いで諸々の謁者房を探させたが、みなどうすべきか分からなかった。

内臣の金承老が申し上げた。「壬辰の年に御座を移された時の紫門日記をお調べください。」

そのとおりにすると、日記に「入内侍大府卿の李白全が仏の歯の函を受けた」とあった。

李白全を召して問い詰めると、「家に帰ってもう一度私の記録を探させてください」と言った。家に至って調べ、左番謁者の金瑞龍が仏の歯の函を受けたという記録を得て来て差し出した。

瑞龍を召して問うと、答える言葉がなかった。

また金承老が申し上げたところによって、壬辰から今の丙申までの五年のあいだの御仏堂と景霊殿の守りの者たちを捕らえて問い当てたが、あれこれ言ってはっきりしなかった。

夾注 1

「崔冲命」を一人の名として読むこともある。 ― 訳者

8王の四つの疑い

隔三日夜中,瑞龍家園墻裏有投擲物聲,以火検看乃佛牙凾也.凾本内一重沉香合,次重純金合,次外重白銀凾,次外重瑠璃凾,次外重螺鈿凾各幅子如之,今伹瑠璃凾爾.喜得之入逹于内.有司議金瑞龍及两殿上守皆誅,晉陽府奏云“因佛事不合多傷人.”皆免之.更勑十貟殿中庭特造佛牙殿安之令将士守之,擇吉日請神孝寺上房蕰光領徒三十人入内設齋敬之,其日入直氶宣崔弘上将軍崔公衍·李令長·内侍茶房等侍立于殿庭依次頂戴敬之,佛牙區穴間舎利不知数,晉陽府以白銀合貯而安之.時主上謂臣下曰,“朕自亾佛牙已來自生四疑.一疑天宫七日限滿而上天矣,二疑國亂如此牙旣神物且移有縁無事之邦矣,三疑貪財小人盗取凾幅弃之溝壑矣,四疑盗取珎利而無計自露匿藏家中矣,今第四疑當之矣,”乃放聲大哭,滿庭皆洒涕獻壽,至有煉頂燒臂者不可勝計.得此實録於當時内殿焚修前祗林寺大禪師覺猷,言親所眼見使予録之.

三日を過ぎた夜中に、瑞龍の家の園の垣の内で何かを投げる音がした。火を点けて調べると、まさに仏の歯の函であった。

函はもともと内に一重が沈香の合、その次の重が純金の合、その外の重が白銀の函、その外の重が瑠璃の函、その外の重が螺鈿の函で、包みもそれぞれそのようであった。今はただ瑠璃の函だけであった。

喜んで得て、内に入れて申し上げた。

司る官が金瑞龍と二つの殿の守りの者をみな誅そうと議すると、晋陽府が「仏の事によって多くの人を傷つけるのは適当でありません」と申し上げたので、みな罰を免れた。

改めて命を下して、十員殿の庭の中に特に仏牙殿を造って安置し、将と兵に守らせた。

吉い日を選んで、神孝寺の上房の蘊光に徒三十人を率いて宮中に入らせ、斎を設けて敬わせた。

その日、宿直していた承宣の崔弘、上将軍の崔公衍、李令長、内侍茶房らが殿の庭に侍り立ち、順に頭に戴いて敬った。

仏の歯のくぼんだ隙間に舎利が数えきれないほどあったので、晋陽府が白銀の合に納めて安置した。

そのとき主上が臣下たちに言った。

「朕は仏の歯を失ってから、四つの疑いが自ずから生じた。

一つめは、天宮の七日の限りが満ちて天に上ったのかという疑い、 二つめは、国がこのように乱れているので、歯はすでに神なる物であるから、縁があって事のない邦に移ったのかという疑い、 三つめは、財を貪る小人が函と包みを盗んで溝に捨てたのかという疑い、 四つめは、盗んで利を得ようとしたが自ら現す術がなく、家の中に隠し置いたのかという疑いであった。

いま四つめの疑いが当たったのだ。」

そうして声を放って大いに泣いたので、庭に満ちた者はみな涙をこぼして万寿を祈った。頂を焼き腕を焼く者まであって、数えきれなかった。

この事実の記録は、その時、内殿で香火を奉じていた前の祗林寺の大禅師の覚猷から得た。自分の目で見たところを語って、私に記させた。

9開京に帰る時に身をもって守り抜いた人

又至庚午出都之亂顛沛之甚過於壬辰,十貟殿監主禪師心鑑亡身佩持,獲免於賊難.逹於大内,大賞其功移授名刹今住氷山寺,是亦親聞於彼.

また庚午の年の都を出る乱に至っては、倒れ伏す有様が壬辰よりも甚だしかった。

十員殿の監主の禅師の心鑑が、自分の身を顧みずに帯びて持ち、賊の難を免れた。

宮中に至ると、その功を大いに賞して名高い寺に移し授け、今は氷山寺に住んでいる。これもまた彼から直に聞いたことである。

10経典が渡って来た跡

真興王代天嘉六年乙酉,陳使劉思與釋明觀載送佛経論一千七百餘卷.貞観十七年慈藏法師載三藏四百餘凾來,安于通度寺.興徳王代大和元年丁未,入學僧髙䴡釋丘徳賷佛經若干凾來,王與諸寺僧徒出迎于興輪寺前路.大中五年入朝使元弘賷佛経若干軸來,羅末普耀禪師再至吳越載大藏経來,即海龍王寺開山祖也.

真興王の代の天嘉六年乙酉に、陳の使いの劉思が僧の明観とともに、仏の経と論を千七百巻余り載せて送った。

貞観十七年に慈蔵法師が三蔵四百函余りを載せて来て、通度寺に安置した。

興徳王の代の大和元年丁未に、留学していた高句麗出身の僧の丘徳が仏の経を幾函か担いで来たので、王は諸寺の僧たちとともに興輪寺の前の道に出て迎えた。

大中五年に、朝貢の使いの元弘が仏の経を幾軸か担いで来た。

新羅の末に普耀禅師が呉越に二度行って大蔵経を載せて来た。すなわち海龍王寺を開いた祖である。

夾注 1

底本は「高麗」と記すが、興徳王の代(八二七年ごろ)のことであるから高句麗を指す。 ― 訳者

11風がやんでから船が進む

大宋元祐甲戌,有人真讃云.偉㦲初祖,巍乎真容,再至吳越大藏成㓛.賜衘普耀鳳詔四封.若問其徳白月清風.又大定中漢南管記彭祖逖留詩云.水雲蘭若住空王,况是神龍穏一塲.畢竟名藍誰淂似.初傳像教自南方.有跋云.“昔普耀禪師始求大藏於南越,洎旋返次海風忽起扁舟出没於波間.師即言曰,“意者神龍欲留経耶.”遂呪願乃誠兼奉龍歸焉,於是風靜波息.旣淂還國遍賞山川求可以安邀處,至此山忽見瑞雲起於山上,乃與髙第弘慶経營蓮社,然則像教之東漸實始乎此.漢南管記彭祖逖題.”寺有龍王堂,頗多霊異乃當時隨經而来止者也,至今猶存.

大宋の元祐甲戌に、ある人が肖像に付けた讃にこう述べる。

偉いことだ初祖よ、高いことだその真の姿よ。 呉越に二度至り、大蔵経で功を成した。 普耀の名を賜り、王の詔が四度封じられた。 その徳を問うなら、白い月と清らかな風と答えよう。

また大定年間に、漢南管記の彭祖逖が残した詩にこう述べる。

水と雲の蘭若に仏が住まわれ、 まして神龍が一つの場に安らかである。 結局、名高い寺のうち何がこれに及ぶだろうか、 仏教を初めて伝えたのが南の方からであった。

跋があってこう述べる。

「昔、普耀禅師が初めて南越で大蔵経を求め、帰る途中、海の風が突然起こって、小舟が波の間に沈んだり浮かんだりした。

禅師はすぐに言った。『思うに神龍が経を留めようとするのか。』

ついに呪を唱えて誠をもって祈り、あわせて龍を奉じてともに帰ることにすると、そこで風が静まり波がやんだ。

国に帰った後、山川をあまねく見て安置できる所を求め、この山に至って、突然瑞祥の雲が山の上に起こるのを見た。そこで優れた弟子の弘慶とともに蓮社を経営した。そうであるならば、仏教が東へ広まったのは実にここから始まったのである。漢南管記の彭祖逖が記す。」

寺に龍王堂があって神なる不思議がかなり多いが、すなわちその時に経に従って来て留まった者である。今もそのままある。

12大蔵経が続いて入ってくる — 讃

又天成三年戊子,黙和尚入唐亦載大藏經來,本朝睿廟時慧照國師奉詔西學,市遼本大藏三部而来,一本今在定惠寺.〔海印寺有一本,許叅政宅有一本.〕大安二年本朝宣宗代,祐世僧統義天入宋多將天台教観而来,此外方冊所不載髙僧信士徃来所賷,不可詳記.大教東漸洋洋乎慶矣哉.讃曰.華月夷風尚隔烟,鹿園鶴樹二千年.流傳海外真堪賀.東震西乹共一天.

また天成三年戊子に、黙和尚が唐に入り、やはり大蔵経を載せて来た。

本朝の睿宗の時、慧照国師が詔を奉じて西に学び、遼本の大蔵経三部を買って来たが、一部は今、定恵寺にある。〔海印寺に一本があり、許参政の宅に一本がある。〕

大安二年、本朝の宣宗の代に、祐世僧統の義天が宋に入り、天台の教観を多く持って来た。

このほか、書物に載っていないもので、高僧や信者が行き来して担って来たものは、詳しく記すことができない。

大いなる教えが東へ広まったことは、洋々として慶ばしいことだ。

讃じて言う。

中華の月と辺りの風が、なお煙に隔てられているが 鹿野園と鶴の林から二千年が流れた。 海の外へ流れ伝わったことは、まことに賀するに堪える 東の震と西の乾が、ともに一つの天の下にある。

夾注 1

海印寺有一本, 許叅政宅有一本.

海印寺に一本があり、許参政の宅に一本がある。

13無極が書き足す — 私が見た歯には舎利がなかった

按此録義湘傳云,“永徽初入唐謁智儼”,然㨿浮石本碑,湘武徳八年生丱歳出家,永徽元年庚戌與元曉同伴欲西入至髙䴡,有難而廻.至龍朔元年辛酉入唐就學於智儼.緫章元年儼遷化,咸享二年湘来還新羅,長安二年壬寅示滅,年七十八.則疑與儼公齋於宣律師處請天宫佛牙在辛酉至戊辰七八年間也.本朝髙庙入江都壬辰年疑天宮七日限滿者誤矣.忉利天一日夜當人間一百歳,且從湘公初入唐辛酉計至髙庙壬辰六百九十三歳也,至庚子年始滿七百年,而七日限已滿矣.至岀都至元七年庚午則七百三十年,若如天言而七日後還天宫,則禪師心鑑出都時佩持出献者恐非真佛牙也.於是年春岀都前,於大内集諸宗名徳乞佛牙舎利精勤雖切,而不得一枚則七日限滿上天者㡬矣.二十一年甲申修補國清寺金塔,國主與莊穆王后幸妙覺寺,集衆慶讃訖,右佛牙與洛山水精念珠如意珠君臣與大衆皆瞻奉頂戴後并納金塔内.予亦預斯㑹而親見所謂佛牙者,長三寸許而無舎利焉.無極記.

この記録を調べると、「義湘伝」に「永徽の初めに唐に入って智儼に会った」とある。

しかし浮石寺の本碑によれば、義湘は武徳八年に生まれ、童髪のうちに出家し、永徽元年庚戌に元暁と連れ立って西へ入ろうとして高句麗に至り、難に遭って帰った。龍朔元年辛酉に至って唐に入り、智儼について学んだ。総章元年に智儼が世を去り、咸亨二年に義湘が新羅に帰り、長安二年壬寅に世を去ったので、年は七十八であった。

とすれば、智儼とともに宣律師のいる所で斎を行い、天宮の仏の歯を請うたのは、辛酉から戊辰までの七、八年のあいだのことではないかと思われる。

本朝の高宗が江都に入った壬辰の年を、天宮の七日の限りが満ちた時と疑ったのは誤りである。

忉利天の一日一夜は人間の百年に当たる。また義湘公が初めて唐に入った辛酉から数えて高宗の壬辰までが六百九十三年であるから、庚子の年に至ってようやく七百年が満ちて、七日の限りがすでに満ちたことになる。

都を出た至元七年庚午までなら七百三十年である。もし天の言葉のとおり七日の後に天宮へ帰ったのであれば、禅師の心鑑が都を出る時に帯びて持ち出して献じたものは、おそらく真の仏の歯ではないであろう。

この年の春、都を出る前に、宮中で諸宗の名高い徳のある者を集めて仏の歯の舎利を乞い、誠を尽くして切に勤めたが、一粒も得られなかったのだから、七日の限りが満ちて天に上ったというのに近い。

至元二十一年甲申に国清寺の金の塔を修め直し、国主が荘穆王后とともに妙覚寺に行幸し、衆を集めて慶び讃えた。終えた後、右の仏の歯と洛山の水晶の念珠と如意珠を、君と臣と大衆がみな仰ぎ奉じて頭に戴き、その後あわせて金の塔の中に納めた。

私もまたこの会に加わって、いわゆる仏の歯というものを直に見たが、長さは三寸ばかりで舎利はなかった。

無極が記す。