慈蔵が戒律を定める慈藏定律
1一日戒を持って死ぬとも
慈藏㝎律大徳慈藏金氏,夲辰韓真骨蘇判〔三級爵名〕茂林之子.其父歴官清要絶無後㣧,乃歸心三寳造于千部觀音希生一息.祝曰,“若生男子捨作法海津梁.”母忽夢星墜入懐因有娠.及誕與釋尊同日,名善宗郎.神志澄睿文思日贍而無染世趣.早䘮二親轉猒塵譁捐妻息捨田園爲亢寕寺.獨䖏幽險不避狼虎,修枯骨觀微或倦弊.乃作小室周障荊棘,棵坐其中動輒箴刺,頭懸在梁以祛昏瞑.適台輔有闕,門閥當議累徴不赴.王乃勑曰,“不就斬之.”藏聞之曰,“吾寕一日持戒而死,不願百年破戒而生.”事聞,上許令出家.乃深隠岩叢粮粒不恤,時有異禽含菒來供就手而喰.俄夢天人來授五戒方始出谷,郷邑士女爭来受戒.
慈蔵が戒律を定める。
大徳慈蔵は金氏で、もとは辰韓の真骨蘇判〔第三等の爵の名である。〕茂林の子である。
その父は清く重い官を歴任したが、跡を継ぐ子がまったくなかった。そこで三宝に心を帰し、千部観音を造って一人の子を生むことを願った。
祈って言った。「もし男子が生まれたら、捨てて法の海の津と梁になさせます。」
母はふと星が落ちて懐に入る夢を見て、やがて身ごもった。
生まれた日が釈尊と同じ日であったので、名を善宗郎とした。
精神と志は澄んで聡く、文才は日ごとに豊かであったが、世俗の趣に染まらなかった。
早くに二人の親を失い、いよいよ塵の世の騒がしさを厭い、妻子を捨て、田園を捨てて元寧寺とした。
独り奥深く険しい所に住んで狼や虎を避けず、枯骨観を修めたが、少しでも疲れて怠るのを恐れ、小さな室を作って周りに荊棘を巡らし、裸でその中に座った。動けばすぐ刺され、頭を梁に懸けて眠気を払った。
ちょうど宰相の席が空いて、門閥によって議がその身に及び、幾度も召されたが赴かなかった。
王はそこで勅して言った。「来なければ斬れ。」
慈蔵はこれを聞いて言った。「むしろ一日戒を持って死にたい。百年戒を破って生きることは願わない。」
事が聞こえると、王は出家を許した。
そこで岩の茂みに深く隠れ、穀の粒を顧みなかったが、その時、異しき鳥が果を含んで来て供え、手に受けて食べた。
やがて夢に天人が来て五戒を授けたので、初めて谷から出た。郷邑の男女が争って来て戒を受けた。
夾注 2
三級爵名
第三等の爵の名である。
底本は「亢寧」だが「元寧」の誤りと見る。 ― 訳者
2清涼山で偈を授かる
藏自嘆邉生西希大化.以仁平三年丙申歳〔即貞觀十年也.〕受勑,與門人僧實等十餘軰西入唐謁清涼山.山有曼殊大聖塑相,彼國相傳云,“帝釋天将工來彫也.”藏於像前禱祈冥感,夢像摩頂授梵偈.覺而未解.及旦有異僧来釋云,〔已出皇龍塔篇.〕又曰“雖學萬教未有過此.”又以袈裟舎利等付之而滅.〔藏公初匿之,故唐僧傳不載.〕藏知已蒙聖莂,乃下北臺抵太和池.入亰師,太宗勑使慰撫安置勝光别院寵賜頻厚.藏嫌其繁擁啓表入終南雲際寺之東崿架嵓爲室居三年.人神受戒霊應日錯辝煩不載.旣而再入亰,又蒙勑慰賜絹二百疋用資衣費.
慈蔵は辺境に生まれたことを自ら嘆き、西で大いなる教化を受けることを願った。
仁平三年丙申の年に〔すなわち貞観十年である。〕勅を受け、門人の僧実ら十数人と共に西へ唐に入り、清涼山に参った。
山に曼殊大聖の塑像があり、その国に伝えて「帝釈天が工を連れて来て彫ったものだ」という。
慈蔵が像の前で冥かな感応を祈ると、夢に像が頂を撫でて梵の偈を授けた。覚めてからは解けなかった。
朝になって異しき僧が来て釈いてくれた。〔すでに「皇龍寺九層塔」の篇に出た。〕
また言った。「万の教えを学んでも、これに過ぎるものはない。」
また袈裟や舎利などを授けて消えた。〔慈蔵が初めはこれを匿したので、唐の『僧伝』には載っていない。〕
慈蔵はすでに聖なる記を蒙ったと知り、北台を下って太和池に至った。
京師に入ると、太宗が勅して慰め撫し、勝光別院に置いて、寵して賜ることが頻りで厚かった。
慈蔵は煩わしく取り囲まれるのを嫌い、表を上げて終南山雲際寺の東の崖に入り、岩に架して室を作って三年住んだ。
人も神も戒を受け、霊応が日ごとに入り交じったが、煩わしいので載せない。
やがて再び京師に入ると、また慰める勅を蒙り、絹二百疋を賜って衣の費えに当てさせた。
夾注 3
即貞觀十年也.
すなわち貞観十年である。
已出皇龍塔篇.
すでに「皇龍寺九層塔」の篇に出た。
藏公初匿之, 故唐僧傳不載.
慈蔵が初めはこれを匿したので、唐の『僧伝』には載っていない。
3帰って七日七夜を講ずる
貞觀十七年癸夘夲國善徳王上表乞還,詔許引入宫賜絹一領雜綵五百端,東宫亦賜二百端又多禮貺.藏以夲朝経像未充,乞齎藏経一部洎諸幡幢·花蓋堪爲福利者皆載之.旣至洎舉國欣迎,命住芬皇寺〔唐傳作王芬.〕給侍稠渥.一夏請至宫中講大乗論,又於皇龍寺演菩薩戒夲七日七夜,天䧏甘澍雲霧暗靄覆所講堂,四衆咸服其異.
貞観十七年癸卯の年に、本国の善徳王が表を上げて帰らせてくれるよう請うた。
詔して許し、宮に召し入れて絹一領と雑綵五百端を賜り、東宮もまた二百端を賜って礼物を多く与えた。
慈蔵は本朝に経と像が足りないとして、大蔵経一部と、諸々の幡幢・花蓋で福となりうるものを持ち帰ることを請い、すべて載せた。
着くと国を挙げて喜んで迎え、芬皇寺に〔唐の伝には王芬と書いた。〕住まわせ、侍することを厚くした。
ある夏には宮中に請じて大乗論を講じさせ、また皇龍寺で菩薩戒本を七日七夜にわたって説いた。
天から甘い雨が降り、雲と霧が暗く講ずる堂を覆ったので、四衆はみなその異しさに服した。
夾注 1
唐傳作王芬.
唐の伝には王芬と書いた。
4大国統となって僧団を立てる
朝廷議曰,“佛教東漸雖百千齡其於住持修奉䡄儀闕如也.非夫綱理無以肅清.”啓勑藏爲大國統,凡僧尼一切䂓猷揔委僧統主之.〔按北齋天寶中國置十統…至藏更置大國統一人蓋非常職也…郷傳云藏入唐太宗迎至式乾殿請講華嚴,天䧏甘露開爲國師云者妄矣.唐傳與國史皆無文.〕
朝廷で議した。
「仏教が東に漸んで百千年になるとはいえ、住持し修め奉る軌儀が備わっていない。綱で理めずしては清めることができない。」
奏して勅により慈蔵を大国統とし、およそ僧と尼の一切の規範をすべて委ねて主らせた。
〔調べるに、北斉の天保年間に国で十統を置き、梁と陳の間に国統・州統・都維那などの名があった。新羅では真興王十一年に安蔵法師を大書省とし、翌年に高句麗の恵亮法師を国統とし、州統九と郡統十八を置いた。慈蔵に至って再び大国統一人を置いたのは、おおむね常の職ではない。
後に元聖大王元年に、また僧官を置いて政法典といった。
郷の伝に、慈蔵が唐に入ると太宗が式乾殿に迎えて『華厳経』を講ずることを請い、天から甘露が降って国師としたというが、これは妄りな言である。唐の伝と『国史』にはいずれもそのような文がない。〕
夾注 1
按北齋天寶中國置十統 … 至藏更置大國統一人蓋非常職也. 亦猶夫禮郎爲大角干, 金庾信大大角干. 後至元聖大王元年又置僧官名政法典 … 郷傳云藏入唐太宗迎至式乾殿請講華嚴, 天䧏甘露開爲國師云者妄矣. 唐傳與國史皆無文.
調べるに、北斉の天保年間に国で十統を置き、宣帝は法上法師を大統とし、残りを統統とした。また梁と陳の間に国統・州統・国都・州都・僧都・都維那などの名があって、みな昭玄曹に属した。唐の初めにはまた十大徳の盛んなことがあった。新羅の真興王十一年庚午の年に安蔵法師を大書省一人とし、また小書省二人を置いた。翌年の辛未の年に高句麗の恵亮法師を国統とし、寺主ともいい、宝良法師を大都維那一人とし、州統九人と郡統十八人などを置いた。慈蔵に至って再び大国統一人を置いたのは、おおむね常の職ではない。夫礼郎を大角干とし、金庾信を大大角干としたのと同じである。後に元聖大王元年に至ってまた僧官を置いて名を政法典とし、大舎一人と舎二人を官員とし、僧の中から才と行のある者を択び取ったが、事があればすぐに替え、定まった年数は置かなかった。だから今の紫の衣の徒もまた律宗の寺の別の派である。郷の伝に、慈蔵が唐に入ると太宗が迎えて式乾殿に至らせ、『華厳経』を講ずることを請うと、天から甘露が降って国師としたというが、これは妄りな言である。唐の伝と『国史』にはいずれもそのような文がない。
5十軒に八、九軒が戒を受ける
藏値斯嘉㑹勇激弘通.令僧尼五部各增奮學半月說戒,冬春揔試令知持犯置貟管維持之.又遣巡使歴撿外寺誡礪僧失嚴餙経像爲恒式.一代護法於斯盛矣.如夫子自衞返魯樂正雅頌各淂其冝.當此之際國中之人受戒奉佛十室八九,祝髮請度歳月增至.乃創通度寺築戒壇以度四来.〔戒壇事已出上.〕又改营生縁里第亢寕寺設落成㑹講雜花萬偈,感五十二女現身證聽.使門人植樹如其數以旌厥異,因号知識樹.
慈蔵はこのよい機会に遭って、力を尽くして広く通じさせた。
僧と尼の五部にそれぞれ学びをいっそう励ませ、半月ごとに戒を説き、冬と春にはすべて試みて持つことと犯すことを知らせ、員を置いてこれを維持させた。
また巡る使を遣わして地方の寺をあまねく検め、僧の過ちを戒め、経と像を厳かに飾ることを常の式とした。
一代の護法はこれによって盛んになった。あたかも孔子が衛から魯に返って楽を正し、雅と頌がそれぞれ宜しきを得たのと同じであった。
この時に至って、国中の人で戒を受け仏を奉じる者が十軒に八、九軒となり、髪を剃って度を請う者が年月を追って増えた。
そこで通度寺を建て、戒壇を築いて四方から来る者を度した。〔戒壇の事はすでに上に出た。〕
また生まれた里の家を改め営んだ元寧寺で落成会を設け、『華厳経』の万の偈を講ずると、五十二人の女が身を現して聴聞を証する感応があった。
門人にその数だけ樹を植えさせてその異しさを旌し、それによって知識樹と呼んだ。
夾注 2
戒壇事已出上.
戒壇の事はすでに上に出た。
底本は「亢寧」だが「元寧」の誤りと見る。 ― 訳者
6衣と年号を中国に合わせる
甞以邦國服章不同諸夏,舉議於朝簽允曰臧.乃以真德王三年己酉始服中朝衣冠.明年庚戌又奉正朔始行永徽号.自後每有朝覲列在上蕃,藏之㓛也.
かつて国の服章が中華の諸々と同じでないとして、朝廷に議を挙げたところ、署して可しと許された。
そこで真徳王三年己酉の年に、初めて中朝の衣冠を着た。
翌年の庚戌の年に、また正朔を奉じて初めて永徽の年号を用いた。
この後、朝覲のたびに上の蕃に列するようになったのは、慈蔵の功である。
7我ありとする者がどうして我を見られよう
暮年謝辝亰輦於江陵郡〔今冥州也〕創水多寺居焉.復夢異僧状北臺所見来告曰,“明日見汝於大松汀.”驚悸而起早行至松汀果感文殊来格,諮詢法要乃曰,“重期於太伯葛蟠地”,遂隠不現.〔松汀至今不生荊刺,亦不棲鷹鸇之類云.〕藏徃太伯山尋之見巨蟒蟠結樹下謂侍者曰,“此所謂葛蟠地.”乃創石南院〔今浄岩寺.〕以候聖䧏.粤有老居士方袍襤縷荷葛簣盛死狗児来謂侍者曰,“欲見慈藏来爾.”門者曰,“自奉山箒未見忤犯吾師諱者,汝何人斯爾狂言乎.”居士曰,“但告汝師.”遂入告藏不之覺曰,“殆狂者耶.”門人出詬逐之,居士曰,“歸歟歸歟.有我相者焉得見我.”乃倒簣拂之狗變爲師子寳座,陞坐放光而去.藏聞之方具威儀尋光而趍登南嶺,已杳然不及,遂殞身而卒.茶毗安骨於石穴中.
晩年には京の輦を辞して、江陵郡に〔今の冥州である。〕水多寺を建てて住んだ。
また夢に、北台で見た姿の異しき僧が来て告げた。「明日、大松汀でお前に会おう。」
驚いて覚め、早く道に出て松汀に至ると、はたして文殊が感じて来格した。法の要を問うと、こう言った。
「太伯山の葛蟠地で重ねて会おう。」
そして隠れて現れなかった。〔松汀には今まで荊や刺が生えず、鷹や鸇の類も棲まないという。〕
慈蔵が太伯山に行って尋ねると、大きな蟒が樹の下に蟠り結んでいるのを見て、侍者に言った。「これがいわゆる葛蟠地である。」
そこで石南院を〔今の浄岩寺である。〕建てて、聖なる方が降るのを待った。
ここに老いた居士がいて、襤褸の方袍をまとい、葛の簣に死んだ狗児を盛って担いで来て、侍者に言った。「慈蔵を見に来ただけだ。」
門の者が言った。「箒を奉じて以来、我が師の名を憚らず呼ぶ者を見たことがない。お前は何者でそのような狂った言を言うのか。」
居士が言った。「ただお前の師に告げよ。」
そこで入って告げると、慈蔵は気づかずに言った。「おそらく狂った者であろう。」
門人が出て詬って追うと、居士は言った。
「帰ろう、帰ろう。我ありとする相のある者が、どうして我を見られよう。」
そして簣を倒して払うと、狗児は師子の宝座に変わり、昇り座って光を放って去った。
慈蔵がこれを聞いて、ようやく威儀を具えて光を尋ねて趨り、南の嶺に登ったが、すでに杳かで及ばなかった。
ついに身を殞して卒した。茶毘して骨を石の穴の中に安んじた。
夾注 3
今冥州也
今の冥州である。
松汀至今不生荊刺, 亦不棲鷹鸇之類云.
松汀には今まで荊や刺が生えず、鷹や鸇の類も棲まないという。
今浄岩寺.
今の浄岩寺である。
8残された物々 — 讃
凢藏之締搆寺塔十有餘所,每一興造必有異祥.故蒲塞供填市不日而成.藏之道具·布襪并太和龍所献木鴨枕與釋尊由衣等合在通度寺.又巘陽縣〔今彦陽〕有鴨逰寺,枕鴨嘗於此現異故名之.又有釋圎勝者,先藏西學而同還桑梓助弘律部云.讃曰.曾向清涼夢破迴.七篇三聚一時開.欲令緇素衣慚愧,東國衣冠上國裁.
およそ慈蔵が結び建てた寺と塔は十数か所で、一つを興し造るたびに必ず異しき祥があった。
そのため信徒の供えが市を埋め、幾日もかからずに成った。
慈蔵の道具と布の襪、あわせて太和池の龍が献じた木の鴨の枕と、釈尊の由衣などが、ともに通度寺にある。
また巘陽県に〔今の彦陽である。〕鴨遊寺があるが、枕の鴨がかつてここで異しさを現したので、そう名づけた。
また僧侶円勝があって、慈蔵より先に西で学び、共に故郷に帰って律部を広めるのを助けたという。
讃えて言う。
かつて清涼に向かい夢を破って帰り 七篇と三聚の戒を一時に開いた。 緇も素も衣を慚じさせようとして 東国の衣冠を上国の裁ちで仕立てた。
夾注 1
今彦陽
今の彦陽である。