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二人の恵が塵に交じる二惠同塵

三国遺事(三国時代の遺聞集) 三國遺事 · 一然(イリョン) · 1281年(高麗・忠烈王7年) · 段落 4 · 漢字 1,016字 · 朗読 4.1分

三国遺事(三国時代の遺聞集) 義解 第5 高麗の僧・一然が編んだ三国時代の説話集。正史が捨てた話を集めている。檀君神話を載せる最も古い書物である。

1自分の股を割いて盤に載せる

二惠同塵釋惠宿沉光於好世郎徒郎,旣讓名黄卷,師亦隠居赤善村.〔今安康縣有赤谷村.〕二十餘年時國仙瞿旵公甞徃其郊縱獵,一日宿出於道左攬轡而請曰,“庸僧亦願随従可乎.”公許之.於是縦横馳突祼袒相先公旣恱.及休勞坐數炮烹相餉,宿亦與啖囓略無忤色.旣而進於前曰,“今有羙鮮於此益薦之何”,公曰善.宿屏人割其股寘盤以薦衣血淋漓.公愕然曰,“何至此耶”,宿曰,“始吾謂公仁人也能恕己通物也.故從之爾.今察公所好,唯殺戮之躭篤害彼自飬而已.豈仁人君子之所爲.非吾徒也.”遂拂衣而行.公大慚視其所食盤中鮮胾不滅.公甚異之歸奏於朝,真平王聞之遣使徴迎,宿示卧婦床而寢.中使陋焉返行七八里逢師於途.問其所従来曰,“城中檀越家赴七日齋席罷而來矣.”中使以其語逹於上,又遣人撿檀越家其事亦實.

二人の恵が塵に交じる。

僧侶恵宿は好世郎の徒に光を沈めた。郎がすでに名を黄巻から退けると、法師もまた赤善村に隠れ住んだ。〔今の安康県に赤谷村がある。〕

二十年あまり経った時、国仙瞿旵公がかつてその野に行って思うままに狩りをした。

ある日、恵宿が道の左に出て手綱を取って請うた。「つまらぬ僧も付き従いたいのですが、よろしいでしょうか。」

公は許した。そこで縦横に駆け突き、肌脱ぎになって先を争ったので、公は喜んだ。

休もうと座って肉を炙り煮て互いに勧め合う時、恵宿も共に噛んで食べ、少しも嫌う色がなかった。

やがて前に進んで言った。「今ここにもっと良い肉がありますから、さらにお勧めしてはいかがでしょう。」

公はよいと言った。

恵宿は人を退けて自分の股を割き、盤に置いて勧めたので、衣に血が滴り落ちた。

公は驚いて言った。「どうしてこんなことになったのか。」

恵宿が言った。「初め、私は公を仁ある人、自分の心を推して人に及ぼせる人だと思いました。だから従ったのです。

今、公の好むところを見れば、ただ殺すことを楽しんで他を害して自分を養うばかりです。どうして仁人君子のすることでしょうか。我らの徒ではありません。」

そして衣を払って去った。

公は大いに恥じて、食べていた盤を見ると、肉は減らずそのまま残っていた。

公はこれをはなはだ奇しとして、帰って朝廷に奏した。

真平王がこれを聞いて使者を遣わして召し迎えさせたが、恵宿は女の床に臥して寝ている姿を見せた。使者は汚らわしく思って帰る途中、七、八里ほどの所で道に法師と出会った。

どこから来たのか問うと、「城中の檀越の家の七日の斎に行き、席が果てて帰るところです」と言った。

使者はその言葉を王に申し上げ、また人を遣わして檀越の家を調べさせると、その事も実であった。

夾注 1

今安康縣有赤谷村.

今の安康県に赤谷村がある。

2墓を開くと履が片方だけだった

未㡬宿忽死,村人轝葬於耳峴〔一作硎峴.〕東.其村人有自峴西來者逢宿於途中問,“其何徃”,曰,“久居此地欲逰他方爾.”相揖而别,行半許里躡雲而逝.其人至峴東見葬者未散,具說其由開塚視之,唯芒鞋一隻而已.今安康縣之北有寺名恵宿,乃其所居云,亦有浮啚焉.

久しからずして恵宿がふと死んだので、村の人々は輿で耳峴〔硎峴ともいう。〕の東に葬った。

その村の人のうち、峴の西から来る者が道で恵宿に出会い、どこへ行くのかと問うた。

「この地に久しく住んだので、他の方に遊びたいだけです。」

互いに揖して別れ、半里ほど行くと雲を踏んで去った。

その人が峴の東に至ると、葬っていた者たちはまだ散っていなかった。訳をつぶさに話して墓を開いて見ると、ただ藁履が片方だけであった。

今、安康県の北に恵宿という名の寺があり、すなわち彼が住んだ所だというが、浮図もある。

夾注 1

一作硎峴.

硎峴ともいう。

3箕を背負って市中で踊る

釋恵空天真公之家傭嫗之子,小名憂助〔盖方言也.〕.公嘗患瘡濱於死而候慰填街.憂助年七歳謂其母曰,“家有何事賔客之多也.”母曰,“家公發惡疾将死矣.爾何不知.”助曰,“吾能右之.”母異其言告於公.公使喚来至坐床下無一語,湏㬰瘡潰.公謂偶爾不甚異之.旣壯爲公飬鷹甚愜公意.初公之弟有得官赴外者,請公之選鷹歸治所.一夕公忽憶其鷹,明晨擬遣助取之.助已先知之俄頃取鷹昧爽献之.公大驚悟方知昔日救瘡之事皆匹測也.謂曰,“僕不知至聖之托吾家狂言非禮汚辱之,厥罪何雪.而後乃今願爲導師導我也.”遂下拜.霊異旣著遂出家爲僧,易名恵空.常住一小寺每猖狂大醉負簣歌舞於街巷,号負蕢和尚.所居寺因名夫蓋寺,乃簣之郷言也.每入寺之井中數月不出,因以師名名其井.每出有碧衣神童先湧故寺僧以此爲候,旣出衣裳不濕.

僧侶恵空は天真公の家で雇われていた老婆の子で、幼い名は憂助である。〔おおむね方言である。〕

公がかつて瘡を患って死に近づくと、見舞う者が街を埋めた。

憂助は年七つで、その母に言った。「家に何事があって客がこんなに多いのですか。」

母が言った。「ご主人が悪い病を発して、もうお亡くなりになろうとしている。お前はどうして知らないのか。」

憂助が言った。「私が治せます。」

母はその言葉を奇しとして公に告げた。公が呼ばせると、来て床の下に座り、一言も言わなかったが、しばらくして瘡が潰れた。

公はたまたまのことと思い、さほど奇しとしなかった。

成長して公のために鷹を養ったが、公の意にはなはだかなった。

初め、公の弟のうちに官を得て地方に赴く者があり、公が選んだ鷹を請うて任地に連れて行った。

ある夕べ、公はふとその鷹を思い出し、翌朝に憂助を遣わして取って来させようとした。

憂助はすでに先に知っていて、しばらくのうちに鷹を取って来て、明け方に献じた。

公は大いに驚いて悟り、初めて先の日に瘡を治した事がみな測りがたい事であったと知った。

公が言った。「私は至聖が我が家に身を託していたのを知らず、狂った言葉と礼に外れた振る舞いで汚し辱めた。その罪をどうして雪げよう。これからは導師となって私を導いてほしい。」

そして下って拝した。

霊異がすでに現れると、ついに出家して僧となり、名を恵空と改めた。

常に小さな寺一つに住み、いつも狂ったように大いに酔い、箕を背負って街で歌い舞ったので、負簣和尚と呼ばれた。

住む寺はそれによって夫蓋寺といい、すなわち箕の郷の言葉である。

いつも寺の井戸の中に入って数か月出て来なかったので、法師の名をその井戸の名とした。

出るたびに碧い衣の神童が先に湧き出たので、寺の僧はこれを兆しとした。出ても衣裳は濡れていなかった。

夾注 1

盖方言也.

おおむね方言である。

4縄を巡らせた所だけが火を免れる

脫年移止恒沙寺.〔今迎日縣吾魚寺.諺云,“恒沙人出世故名恒沙洞.”〕時元曉撰諸経䟽,每就師質疑或相調戯.一日二公㳂溪掇魚蝦而啖之,放便於石上,公指之戯曰,“汝屎吾魚.”故因名吾魚寺.或人以此爲曉師之語濫也.郷俗訛呼其溪曰芼矣川.瞿旵公甞逰山見公死僵於山路中,其屍膖脹爛生虫蛆悲嘆久之.及迴轡入城見公大醉歌舞於市中.又一日将草索綯入霊庙寺,圍結於金堂與左右経樓及南門廊廡告剛司.“此索湏三日後取之.”剛司異焉而従之,果三日善徳王駕幸入寺,志鬼心火出燒其塔唯結索䖏獲免.又神卽祖師明朗新創金剛寺設落成㑹龍象畢集唯師不赴.朗即焚香䖍禱小選公至.時方大雨衣袴不濕足不沾泥.謂明朗曰,“辱召懃懃故兹来矣.”霊迹頗多.及終浮空告寂,舎利莫知其數.甞見肇論曰,“是吾昔所撰也,”乃知僧肇之後有也.讃曰.草原縦獵床頭卧.酒肆狂歌井底眠.隻履浮空何䖏去.一雙珎重火中蓮.

晩年には恒沙寺に移って住んだ。〔今の迎日県の吾魚寺である。俗に「恒河の砂ほど多くの人が世に出たので恒沙洞と名づけた」という。〕

その時、元暁が諸経の疏を撰しながら、常に法師のもとに行って疑いを質し、時には互いに戯れた。

ある日、二人は渓に沿って魚や蝦を拾って食べ、石の上で用を足した。

恵空がそれを指して戯れて言った。「お前の屎は我が魚だ。」

そのため、これによって吾魚寺と名づけた。

ある人はこれを元暁法師の言葉とするが、誤りである。

郷の習いでその渓を訛って芼矣川という。

瞿旵公がかつて山に遊んで、恵空が山路の中に死んで倒れているのを見た。その屍は膨れ張って爛れ、虫が生じていたので、長く悲しみ嘆いた。

手綱を返して城に入ると、恵空が大いに酔って市中で歌い舞っているのを見た。

またある日、草で綯った縄を持って霊廟寺に入り、金堂と左右の経楼、南門の廊に巡らせて結び、寺の務めを担う剛司に言った。「この縄は必ず三日の後に取れ。」

その剛司は奇しと思いながらも、そのとおりにした。

はたして三日して善徳王が寺に行幸したが、志鬼の心の火が出てその塔を焼いたが、ただ縄を結んだ所だけが災いを免れた。

また神印宗の祖師明朗が金剛寺を新たに建てて落成会を設けると、名高い者がみな集まったが、ただ法師だけが来なかった。

明朗がすぐに香を焚いて篤く祈ると、しばらくして恵空が至った。

その時ちょうど大雨が降っていたが、衣と袴は濡れず、足に泥が付かなかった。

明朗に言った。「お召しがあまりに懇ろだったので、こうして来ました。」

霊なる跡はかなり多かった。

終わる時には空に浮かんで世を去ると告げ、舎利はその数を知れなかった。

かつて『肇論』を見て「これは私が昔に撰したものだ」と言ったので、すなわち僧肇の後の身であると知られる。

讃えて言う。

草原で思うままに狩り、床の頭に臥し 酒屋で狂うように歌い、井の底で眠った。 片方の履は空に浮かんでどこへ去ったのか 一双の珍重なる、火の中の蓮よ。

夾注 2

今迎日縣吾魚寺. 諺云, “恒沙人出世故名恒沙洞.”

今の迎日県の吾魚寺である。俗に「恒河の砂ほど多くの人が世に出たので恒沙洞と名づけた」という。

底本は「神卽」だが「神印」の誤りと見る。 ― 訳者