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性悪性惡篇

荀子(荀況の書) 荀子 · 荀況 · 紀元前3世紀 · 段落 5 · 漢字 3,243字 · 朗読 13.0分

荀子(荀況の書) 性惡篇 孟子が性善を説いたところに、荀子は性悪を置いた。人の性は生まれながらに利を好み、妬み憎むので、そのままにしておけば争い奪って乱れる — だから師と法によってあるべき姿にし、礼と義で導いてはじめて治まるというのである。善は生まれつきのものではなく、積み重ねてできるものだと言った。 第一篇「勧学」が「青い染料は藍から出るが、藍より青い」で開き、「天論」は天を人の事から切り離して「天を大きなものとして慕うより、物として養い裁ち用いよ」と言う。「礼論」は礼がどこから来たのかを欲と物の争いから解き、「楽論」は音楽を否とした墨子に打ち返す。「正名」は名が天の定めたものではなく人びとが結んだ約束であることを明らかにし、「成相」の一篇は労働歌の調子に治まりと乱れを載せた歌である。 「君は舟であり衆人は水である、水は舟を浮かべもし、水は舟を覆しもする」が「王制」にある。李斯と韓非がその門下から出た。

人之性惡,其善者僞也。今人之性,生而有好利焉,順是,故争奪生而辭讓亡焉;生而有疾惡焉,順是,故殘賊生而忠信亡焉;生而有耳目之欲,有好聲色焉,順是,故淫亂生而禮義文理亡焉。然則從人之性,順人之情,必出於争奪,合於犯分亂理而歸於曓。故必將有師法之化,禮義之道,然後出於辭讓,合於文理,而歸於治。用此觀之,然則人之性惡明矣,其善者僞也。故枸木必將待檃栝、烝、矯然後直,鈍金必將待礱、厲然後利。今人之性惡,必將待師法然後正,得禮義然後治。今人無師法則偏險而不正,無禮義則悖亂而不治。古者聖王以人性惡,以爲偏險而不正,悖亂而不治,是以爲之起禮義,制法度,以矯飾人之情性而正之,以擾化人之情性而導之也。始皆出於治,合於道者也。今人之,化師法,積文學,道禮義者爲君子;縱性情,安恣睢,而違禮義者爲小人。用此觀之,人之性惡明矣,其善者,僞也。孟子曰:「今之學者,其性善。」曰:是不然。是不及知人之性,而不察乎人之性、僞之分者也。凡性者,天之就也,不可學,不可事;禮義者,聖人之所生也,人之所學而能,所事而成者也。不可學、不可事而在人者謂之性,可學而能、可事而成之在人者謂之僞。是性、僞之分也。今人之性,目可以見,耳可以聽。夫可以見之明不離目,可以聽之聰不離耳,目明而耳聰,不可學明矣。孟子曰:「今人之性善,將皆失喪其性故也。」曰:若是,則過矣。今人之性,生而離其朴,離其資,必失而喪之。用此觀之,然則人之性惡明矣。所謂性善者,不離其朴而美之,不離其資而利之也。使夫資朴之於美,心意之於善,若夫可以見之明不離目,可以聽之聰不離耳,故曰目明而耳聰也。今人之性,飢而欲飽,寒而欲煖,勞而欲休,此人之情性也。今人見長而不敢先食者,將有所讓也;勞而不敢求息者,將有所代也。夫子之讓乎父,弟之讓乎兄,子之代乎父,弟之代乎兄,此二行者,皆反於性而悖於情也。然而孝子之道,禮義之文理也。故順情性則不辭讓矣,辭讓則悖於情性矣。用此觀之,人之性惡明矣,其善者僞也。

人の性は悪い。その善いところは偽である。

いま人の性は、生まれつき利を好むところがあり、これに従うから争い奪うことが生じて辞譲がなくなる。生まれつき妬み憎むところがあり、これに従うから害し盗むことが生じて忠と信がなくなる。生まれつき耳と目の欲があって声と色を好むところがあり、これに従うから溢れ乱れることが生じて礼と義と文と理がなくなる。

それなら人の性に従い人の情に順えば、必ず争い奪うところから出て、分を犯し理を乱すことに合い、荒さに帰する。だから必ず師と法の化と礼と義の導きがあってから初めて辞譲から出て、文と理に合い、治に帰する。

これで見れば、人の性が悪いことは明らかで、その善いところは偽である。

だから曲がった木は必ず矯め木と蒸しと矯正を待ってからまっすぐになり、鈍い金は必ず砥石と鑢を待ってから鋭くなる。いま人の性が悪いのだから、必ず師と法を待ってから正しく、礼と義を得てから治まる。いま人に師と法がなければ偏り険しくて正しくなく、礼と義がなければそむき乱れて治まらない。

古に聖王は、人の性が悪く、偏り険しくて正しくなく、そむき乱れて治まらないと考えた。だからこれのために礼と義を起こし法度を定め、人の情と性を矯め飾って正し、馴らし化して導いた。はじめてみな治から出て道に合うようになったのである。

いま人のうち、師と法に化され、文と学を積み、礼と義に従う者は君子となり、性と情を放ち、勝手に振る舞うことを安らかとし、礼と義に背く者は小人となる。これで見れば、人の性が悪いことは明らかで、その善いところは偽である。

孟子は「いま学ぶ者は、その性が善い」と言った。言う、これはそうではない。これは人の性を知るに及ばず、人の性と偽の分かれ目を察していないのである。

およそ性とは天が成したもので、学ぶこともできず事とすることもできない。礼と義とは聖人が生んだもので、人が学んで能となり、事として成すものである。学ぶこともできず事とすることもできずに人にあるものを性といい、学んで能となり事として成せるように人にあるものを偽という。これが性と偽の分かれ目である。

いま人の性は、目が見ることができ耳が聴くことができる。およそ見ることができる明るさが目を離れず、聴くことができる聡さが耳を離れないのだから、目が明らかで耳が聡いことは学べないことが明らかである。

孟子は「いま人の性は善いのに、やがてみなその性を失ってしまうからだ」と言った。言う、このようであれば行き過ぎである。いま人の性は、生まれつきその荒木を離れその素地を離れて、必ず失ってしまう。これで見れば、人の性が悪いことは明らかである。

いわゆる性が善いということは、その荒木を離れずに美しくし、その素地を離れずに利するということである。あの素地と荒木が美しさに対し、心と意が善さに対することが、ちょうど見ることができる明るさが目を離れず、聴くことができる聡さが耳を離れないようであるなら、だから目が明らかで耳が聡いというのである。

いま人の性は、飢えれば満腹を望み、寒ければ暖かさを望み、疲れれば休みを望む。これが人の情と性である。いま人が年長を見て敢えて先に食べないのは、譲るところがあるからであり、疲れても敢えて休みを求めないのは、代わろうとするところがあるからである。

およそ子が父に譲り、弟が兄に譲り、子が父に代わり、弟が兄に代わるこの二つの行いは、どちらも性にそむき情に食い違う。それでも孝子の道であり、礼と義の文と理である。だから情と性に従えば辞譲せず、辞譲すれば情と性に食い違う。これで見れば、人の性が悪いことは明らかで、その善いところは偽である。

問者曰:「人之性惡,則禮義惡生?」應之曰:凡禮義者,是生於聖人之僞,非故生於人之性也。故陶人埏埴而爲器,然則器生於陶人之僞,非故生於人之性也。故工人斲木而成器,然則器生於工人之僞,非故生於人之性也。聖人積思慮,習僞故,以生禮義而起法度,然則禮義法度者,是生於聖人之僞,非故生於人之性也。若夫目好色,耳好聽,口好味,心好利,骨體膚理好愉佚,是皆生於人之情性者也,感而自然,不待事而後生之者也。夫感而不能然,必且待事而後然者,謂之生於僞。是性、僞之所生,其不同之徵也。故聖人化性而起僞,僞起而生禮義,禮義生而制法度。然則禮義法度者,是聖人之所生也。故聖人之所以同於衆,其不異於衆者,性也;所以異而過衆者,僞也。夫好利而欲得者,此人之情性也。假之有弟兄資財而分者,且順情性,好利而欲得,若是,則兄弟相拂奪矣;且化禮義之文理,若是則讓乎國人矣。故順情性則弟兄争矣,化禮義則讓乎國人矣。凡人之欲爲善者,爲性惡也。夫薄願厚,惡願美,狹願廣,貧願富,賤願貴,苟無之中者,必求於外;故富而不願財,貴而不願埶,苟有之中者,必不及於外。用此觀之,人之欲爲善者,爲性惡也。今人之性,固無禮義,故彊學而求有之也;性不知禮義,故思慮而求知之也。然則性而已,則人無禮義,不知禮義。人無禮義則亂,不知禮義則悖。然則性而已,則悖亂在己。用此觀之,人之性惡明矣,其善者僞也。

問う者が言った。「人の性が悪いなら、礼と義はどこから生じたのか」

応えて言う。およそ礼と義とは聖人の偽から生じたものであって、もとより人の性から生じたものではない。

だから陶工が土を練って器を作るのだから、器は陶工の偽から生じたものであって、もとより人の性から生じたものではない。工匠が木を削って器を成すのだから、器は工匠の偽から生じたものであって、もとより人の性から生じたものではない。

聖人が思いと慮りを積み、偽の事を習って礼と義を生み法度を起こしたのだから、礼と義と法度は聖人の偽から生じたものであって、もとより人の性から生じたものではない。

およそ目が色を好み、耳が聴くことを好み、口が味を好み、心が利を好み、骨と体と肌が喜びと安らぎを好むことは、みな人の情と性から生ずるものである。感じれば自ずとそうであって、事とするのを待ってから生ずるものではない。およそ感じてもそうなれず、必ず事とするのを待ってからそうなるものを、偽から生ずるという。これが性と偽が生ずるところが同じでないしるしである。

だから聖人は性を化して偽を起こし、偽が起こって礼と義を生み、礼と義が生じて法度を定めた。それなら礼と義と法度は聖人が生んだものである。だから聖人が多くの人と同じで異ならないところは性であり、異なって多くの人を越えるところは偽である。

およそ利を好んで得ようとすることは人の情と性である。かりに弟と兄に財があって分けるとしよう。情と性に従って利を好んで得ようとすれば、兄と弟が互いに払い奪うだろう。礼と義の文と理に化されれば、国の人にまで譲るだろう。だから情と性に従えば弟と兄が争い、礼と義に化されれば国の人に譲る。

およそ人が善をなそうとするのは、性が悪いからである。およそ薄い者は厚いことを願い、醜い者は美しいことを願い、狭い者は広いことを願い、貧しい者は富むことを願い、賤しい者は貴いことを願う。まことに自分の中にないものを必ず外に求める。だから富めば財を願わず、貴ければ勢いを願わない。まことに自分の中にあるものは必ず外に及ばない。これで見れば、人が善をなそうとするのは性が悪いからである。

いま人の性にはもとより礼と義がないから、無理に学んで持つことを求め、性が礼と義を知らないから、思い慮って知ることを求める。それなら性だけなら、人に礼と義がなく礼と義を知らない。人に礼と義がなければ乱れ、礼と義を知らなければそむく。それなら性だけなら、そむきと乱れが自分にある。これで見れば、人の性が悪いことは明らかで、その善いところは偽である。

孟子曰:「人之性善。」曰:是不然。凡古今天下之所謂善者,正理平治也;所謂惡者,偏險悖亂也。是善惡之分也已。今誠以人之性固正理平治邪?則有惡用聖王,惡用禮義哉!雖有聖王禮義,將曷加於正理平治也哉!今不然,人之性惡。故古者聖人以人之性惡,以爲偏險而不正,悖亂而不治,故爲之立君上之埶以臨之,明禮義以化之,起法正以治之,重刑罰以禁之,使天下皆出於治,合於善也。是聖王之治,而禮義之化也。今當試去君上之埶,無禮義之化,去法正之治,無刑罰之禁,倚而觀天下民人之相與也,若是,則夫彊者害弱而奪之,衆者曓寡而譁之,天下悖亂而相亡不待頃矣。用此觀之,然則人之性惡明矣,其善者僞也。故善言古者必有節於今,善言天者必有徵於人。凡論者,貴其有辨合,有符驗,故坐而言之,起而可設,張而可施行。今孟子曰「人之性善」,無辨合符驗,坐而言之,起而不可設,張而不可施行,豈不過甚矣哉!故性善則去聖王,息禮義矣;性惡則與聖王,貴禮義矣。故檃栝之生,爲枸木也;繩墨之起,爲不直也;立君上,明禮義,爲性惡也。用此觀之,然則人之性惡明矣,其善者僞也。直木不待檃栝而直者,其性直也;枸木必將待檃栝、烝、矯然後直者,以其性不直也。今人之性惡,必將待聖王之治,禮義之化,然後皆出於治,合於善也。用此觀之,人之性惡明矣,其善者僞也。

孟子は「人の性は善い」と言った。言う、これはそうではない。

およそ古と今の天下がいわゆる善いとするものは、正しい理と平らかな治であり、いわゆる悪いとするものは、偏り険しくそむき乱れることである。これが善と悪の分かれ目であるだけである。

いままことに人の性がもとより正しい理と平らかな治であるなら、聖王を何に用い、礼と義を何に用いようか。たとえ聖王と礼と義があっても、正しい理と平らかな治に何を加えようか。

いまそうではない。人の性は悪い。だから古に聖人は、人の性が悪く、偏り険しくて正しくなく、そむき乱れて治まらないと考えた。だからこれのために君上の勢いを立てて臨ませ、礼と義を明らかにして化し、法と正しさを起こして治め、刑罰を重くして禁じ、天下をみな治から出て善に合うようにした。これが聖王の治であり、礼と義の化である。

いま試しに君上の勢いを取り去り礼と義の化をなくし、法と正しさの治を取り去り刑罰の禁をなくして、寄りかかって天下の民人が互いにどう過ごすかを見るとしよう。このようであれば、およそ強い者が弱い者を害して奪い、多い者が少ない者に荒く振る舞って騒ぎ、天下がそむき乱れて互いに滅びるのを片時も待たないだろう。これで見れば、人の性が悪いことは明らかで、その善いところは偽である。

だから古をよく語る者は必ずいまに当てはまるところがあり、天をよく語る者は必ず人にしるしがある。およそ論ずる者は、弁えが合い符のしるしがあることを貴ぶ。だから座って語れば、立って据えることができ、張って行うことができる。

いま孟子は「人の性は善い」と言うが、弁えが合うこともなく符のしるしもなく、座って語れば立って据えられず張って行えない。どうして行き過ぎが甚だしくないことがあろうか。

だから性が善いなら聖王を取り去り礼と義を息ませることになり、性が悪いなら聖王とともにし礼と義を貴ぶことになる。だから矯め木が生じたのは曲がった木のためであり、墨縄が起こったのはまっすぐでないためであり、君上を立て礼と義を明らかにしたのは性が悪いためである。これで見れば、人の性が悪いことは明らかで、その善いところは偽である。

まっすぐな木が矯め木を待たずにまっすぐなのは、その性がまっすぐだからであり、曲がった木が必ず矯め木と蒸しと矯正を待ってからまっすぐになるのは、その性がまっすぐでないからである。いま人の性が悪いのだから、必ず聖王の治と礼と義の化を待ってから、みな治から出て善に合う。これで見れば、人の性が悪いことは明らかで、その善いところは偽である。

問者曰:「禮義積僞者,是人之性,故聖人能生之也。」應之曰:是不然。夫陶人埏埴而生瓦,然則瓦埴豈陶人之性也哉?工人斲木而生器,然則器木豈工人之性也哉?夫聖人之於禮義也,辟則陶埏而生之也,然則禮義積僞者,豈人之本性也哉?凡人之性者,堯、舜之與桀、跖,其性一也;君子之與小人,其性一也。今將以禮義積僞爲人之性邪?然則有曷貴堯、禹,曷貴君子矣哉?凡貴堯、禹、君子者,能化性,能起僞,僞起而生禮義。然則聖人之於禮義積僞也,亦猶陶埏而爲之也。用此觀之,然則禮義積僞者,豈人之性也哉!所賤於桀、跖、小人者,從其性,順其情,安恣睢,以出乎貪利争奪。故人之性惡明矣,其善者僞也。天非私曾、騫、孝己而外衆人也,然而曾、騫、孝己獨厚於孝之實而全於孝之名者,何也?以綦於禮義故也。天非私齊、魯之民而外秦人也,然而於父子之義,夫婦之別,不如齊、魯之孝具敬父者,何也?以秦人從情性,安恣睢,慢於禮義故也。豈其性異矣哉?

問う者が言った。「礼と義と積まれた偽が人の性だから、聖人がよくこれを生めたのだ」

応えて言う。これはそうではない。およそ陶工が土を練って瓦を生むのだから、瓦と土がどうして陶工の性であろうか。工匠が木を削って器を生むのだから、器と木がどうして工匠の性であろうか。

およそ聖人が礼と義に対することは、たとえれば土を練って生むようなものである。それなら礼と義と積まれた偽がどうして人の本来の性であろうか。

およそ人の性は、堯と舜が桀と跖とその性が一つであり、君子が小人とその性が一つである。いま礼と義と積まれた偽を人の性とするのか。それならどうして堯と禹を貴び、どうして君子を貴ぼうか。

およそ堯と禹と君子を貴ぶのは、よく性を化しよく偽を起こして、偽が起こって礼と義を生んだからである。それなら聖人が礼と義と積まれた偽に対することは、やはり土を練って作るようなものである。これで見れば、礼と義と積まれた偽がどうして人の性であろうか。

桀と跖と小人を賤しむ理由は、その性に従いその情に順い、勝手に振る舞うことを安らかとして、利を貪り争い奪うところから出るからである。だから人の性が悪いことは明らかで、その善いところは偽である。

天が曾参と閔子騫と孝己を私して多くの人を外にしたのではない。それでも曾参と閔子騫と孝己だけが孝の実に厚く孝の名を全くしたのはなぜか。礼と義に極まっていたからである。

天が斉と魯の民を私して秦の人を外にしたのではない。それでも父と子の義、夫と妻の区別において、斉と魯のように孝が備わり父を敬うのに及ばないのはなぜか。秦の人が情と性に従い、勝手に振る舞うことを安らかとして、礼と義に怠ったからである。どうしてその性が異なろうか。

「塗之人可以爲禹」,曷謂也?曰:凡禹之所以爲禹者,以其爲仁義法正也。然則仁義法正有可知可能之理,然而塗之人也,皆有可以知仁義法正之質,皆有可以能仁義法正之具,然則其可以爲禹明矣。今以仁義法正爲固無可知可能之理邪?然則唯禹不知仁義法正,不能仁義法正也。將使塗之人固無可以知仁義法正之質,而固無可以能仁義法正之具邪?然則塗之人也,且內不可以知父子之義,外不可以知君臣之正。不然。今塗之人者,皆內可以知父子之義,外可以知君臣之正,然則其可以知之質,可以能之具,其在塗之人明矣。今使塗之人者以其可以知之質,可以能之具,本夫仁義法正之可知可能之理,可能之具,然則其可以爲禹明矣。今使塗之人伏術爲學,專心一志,思索孰察,加日縣久,積善而不息,則通於神明,參於天地矣。故聖人者,人之所積而致矣。曰:「聖可積而致,然而皆不可積,何也?」曰:可以而不可使也。故小人可以爲君子而不肯爲君子,君子可以爲小人而不肯爲小人。小人、君子者,未嘗不可以相爲也,然而不相爲者,可以而不可使也。故塗之人可以爲禹則然,塗之人能爲禹則未必然也。雖不能爲禹,無害可以爲禹。足可以徧行天下,然而未嘗有徧行天下者也。夫工匠、農、賈,未嘗不可以相爲事也,然而未嘗能相爲事也。用此觀之,然則可以爲,未必能也;雖不能,無害可以爲。然則能不能之與可不可,其不同遠矣,其不可以相爲明矣。堯問於舜曰:「人情何如?」舜對曰:「人情甚不美,又何問焉?妻子具而孝衰於親,嗜欲得而信衰於友,爵禄盈而忠衰於君。人之情乎!人之情乎!甚不美,又何問焉!」唯賢者爲不然。有聖人之知者,有士君子之知者,有小人之知者,有役夫之知者:多言則文而類,終日議其所以,言之千舉萬變,其統類一也,是聖人之知也。少言則徑而省,論而法,若佚之以繩,是士君子之知也。其言也謟,其行也悖,其舉事多悔,是小人之知也。齊給、便敏而無類,雜能、旁魄而無用,析速、粹孰而不急,不恤是非,不論曲直,以期勝人爲意,是役夫之知也。有上勇者,有中勇者,有下勇者:天下有中,敢直其身;先王有道,敢行其意;上不循於亂世之君,下不俗於亂世之民;仁之所在無貧窮,仁之所亡無富貴;天下知之,則欲與天下同苦樂之;天下不知之,則傀然獨立天地之間而不畏:是上勇也。禮恭而意儉,大齊信焉而輕貨財,賢者敢推而尚之,不肖者敢援而廢之:是中勇也。輕身而重貨,恬禍而廣解,苟免,不恤是非、然不然之情,以期勝人爲意:是下勇也。繁弱、鉅黍,古之良弓也,然而不得排㯳則不能自正。桓公之蔥,大公之闕,文王之禄,莊君之曶,闔閭之干將、莫邪、鉅闕、辟閭,此皆古之良劒也,然而不加砥厲則不能利,不得人力則不能斷。驊騮、騹、驥、纖離、緑耳,此皆古之良馬也,然而必前有銜轡之制,後有鞭策之威,加之以造父之馭,然後一日而致千里也。夫人雖有性質美而心辯知,必將求賢師而事之,擇良友而友之。得賢師而事之,則所聞者堯、舜、禹、湯之道也;得良友而友之,則所見者忠、信、敬、讓之行也。身日進於仁義而不自知也者,靡使然也。今與不善人處,則所聞者欺誣詐僞也,所見者汙漫、淫邪、貪利之行也,身且加於刑戮而不自知者,靡使然也。傳曰:「不知其子視其友,不知其君視其左右。」靡而已矣,靡而已矣。

「路上の人も禹となれる」とは何を言うのか。

言う、およそ禹が禹となった理由は、仁と義と法と正しさを行ったからである。それなら仁と義と法と正しさには知りうる能でありうる理があり、路上の人もみな仁と義と法と正しさを知りうる素地があり、みな仁と義と法と正しさに能でありうる備えがある。それなら彼が禹となれることは明らかである。

いま仁と義と法と正しさに、もとより知りうる能でありうる理がないとするのか。それなら禹でさえ仁と義と法と正しさを知らず、能でなかったことになる。

路上の人にもとより仁と義と法と正しさを知りうる素地がなく、もとより能でありうる備えがないとするのか。それなら路上の人は、内で父と子の義を知ることができず、外で君と臣の正しさを知ることができないことになる。そうではない。いま路上の人もみな内で父と子の義を知ることができ、外で君と臣の正しさを知ることができる。それなら知りうる素地と能でありうる備えが路上の人にあることは明らかである。

いま路上の人がその知りうる素地と能でありうる備えで、あの仁と義と法と正しさの知りうる能でありうる理を根本とすれば、彼が禹となれることは明らかである。

いま路上の人に術を伏して学ばせ、心を専らにし志を一つにして思索し熟して察させ、日を加え久しく掛けて善を積んでやめさせなければ、神明に通じ天地と並んで三つになる。だから聖人とは人が積んで至ったものである。

言う、「聖は積んで至れるのに、みな積めないのはなぜか」

言う、できはするが、させることはできない。だから小人は君子となれるが君子となることを好まず、君子は小人となれるが小人となることを好まない。小人と君子は、かつて互いになれないことはないが、互いにならないのは、できはするがさせることはできないからである。

だから路上の人が禹となれることはそうであるが、路上の人が必ず禹となるわけではない。たとえ禹となれなくても、禹となれることに害はない。足は天下をあまねく歩けるが、かつて天下をあまねく歩いた者はいない。およそ工匠と農夫と商人が、かつて互いに仕事を替えられないことはないが、かつてよく互いに仕事を替えたことはない。これで見れば、できるということが必ず能であるということではなく、たとえ能でなくても、できることに害はない。それなら能と不能が、可と不可とその同じでないことが遠いのだから、互いに替えられないことは明らかである。

堯が舜に問うた。「人の情はどうだろうか」

舜が答えた。「人の情は甚だ美しくありません。また何をお尋ねになるのですか。妻子ができれば親への孝が衰え、好み望むものを得れば友への信が衰え、爵と禄が満ちれば君への忠が衰えます。人の情よ、人の情よ。甚だ美しくありません。また何をお尋ねになるのですか」

ただ賢い者だけがそうではない。

聖人の知があり、士君子の知があり、小人の知があり、使われる男の知がある。

言葉が多くても文があって類があり、一日中その理由を議して、言が千たび挙がり万たび変わってもその綱と類が一つである。これが聖人の知である。

言葉が少なくてもまっすぐで簡略であり、論じても法にかない、墨縄で整えたようである。これが士君子の知である。

その言はへつらい、その行いはそむき、事を起こすのに悔いが多い。これが小人の知である。

素早く身軽でも類がなく、才が雑じって広くても役に立たず、割くのが速く熟していても急を要さず、是非を顧みず曲直を論ぜず、人に勝つことだけを意とする。これが使われる男の知である。

上の勇があり、中の勇があり、下の勇がある。

天下に中があれば敢えてその身をまっすぐにし、先王に道があれば敢えてその意を行い、上では乱れた世の君に従わず、下では乱れた世の民に倣わない。仁のあるところに貧しさと行きづまりはなく、仁のないところに富と貴さはない。天下が知ってくれれば天下とともにその苦楽を同じくしようとし、天下が知らなければ毅然と天地の間に独り立って畏れない。これが上の勇である。

礼が恭しく意が倹しく、大いに信を斉えて財貨を軽んじ、賢い者は敢えて推して尊び、愚かな者は敢えて引いて退ける。これが中の勇である。

身を軽んじて財を重んじ、災いを平然とし広く言い逃れ、かりそめに免れ、是非と然否の情を顧みず、人に勝つことだけを意とする。これが下の勇である。

繁弱と鉅黍は古の善い弓であるが、矯め木を得なければ自ら正しくなれない。桓公の蔥、太公の闕、文王の禄、荘君の曶、闔閭の干将・莫邪・鉅闕・辟閭は、みな古の善い剣であるが、砥石にかけなければ鋭くならず、人の力を得なければ断てない。驊騮と騹と驥と纖離と緑耳は、みな古の善い馬であるが、必ず前に銜と手綱の裁きがあり、後に鞭の威があり、それに造父の御を加えてから、一日で千里に至る。

およそ人はたとえ性と素地が美しく心が明らかに知っていても、必ず賢い師を求めて仕え、善い友を選んで友としなければならない。賢い師を得て仕えれば、聞くものが堯・舜・禹・湯の道であり、善い友を得て友とすれば、見るものが忠と信と敬と譲の行いである。身が日々仁と義に進みながら自ら知らないのは、染まりがそうさせたのである。

いま善くない人と居れば、聞くものが欺きと偽りであり、見るものが汚れ緩み溢れ邪に利を貪る行いであって、身がやがて刑罰に至りながら自ら知らないのは、染まりがそうさせたのである。

伝えに「その子が分からなければその友を見よ、その君が分からなければその左右を見よ」とある。染まりだけである、染まりだけである。