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正名正名篇

荀子(荀況の書) 荀子 · 荀況 · 紀元前3世紀 · 段落 20 · 漢字 3,067字 · 朗読 12.3分

荀子(荀況の書) 正名篇 孟子が性善を説いたところに、荀子は性悪を置いた。人の性は生まれながらに利を好み、妬み憎むので、そのままにしておけば争い奪って乱れる — だから師と法によってあるべき姿にし、礼と義で導いてはじめて治まるというのである。善は生まれつきのものではなく、積み重ねてできるものだと言った。 第一篇「勧学」が「青い染料は藍から出るが、藍より青い」で開き、「天論」は天を人の事から切り離して「天を大きなものとして慕うより、物として養い裁ち用いよ」と言う。「礼論」は礼がどこから来たのかを欲と物の争いから解き、「楽論」は音楽を否とした墨子に打ち返す。「正名」は名が天の定めたものではなく人びとが結んだ約束であることを明らかにし、「成相」の一篇は労働歌の調子に治まりと乱れを載せた歌である。 「君は舟であり衆人は水である、水は舟を浮かべもし、水は舟を覆しもする」が「王制」にある。李斯と韓非がその門下から出た。

後王之成名:刑名從商,爵名從周,文名從禮,散名之加於萬物者,則從諸夏之成俗曲期,遠方異俗之鄉,則因之而為通。

後の王が名を定めた仕方はこうである。刑の名は商に従い、爵の名は周に従い、文の名は礼に従う。万物に付ける散らばった名は、諸々の夏の国の成った習わしと取り決めに従い、遠方で習わしの異なる里は、それによって通じさせる。

散名之在人者:生之所以然者謂之性;性之和所生,精合感應,不事而自然謂之性。性之好、惡、喜、怒、哀、樂謂之情。情然而心為之擇謂之慮。心慮而能為之動謂之偽;慮積焉,能習焉,而後成謂之偽。正利而為謂之事。正義而為謂之行。所以知之在人者謂之知;知有所合謂之智。所以能之在人者謂之能;能有所合謂之能。性傷謂之病。節遇謂之命:是散名之在人者也,是後王之成名也。

人にある散らばった名はこうである。

生まれつきそうであるものを性という。性の和が生むところで、精が合わさって感じ応じ、事とせずとも自ずとそうであるものを性という。

性の好み・憎み・喜び・怒り・哀しみ・楽しみを情という。情がそうであるのに心がこれを選ぶことを慮という。心が慮り、能がこれのために動くことを偽という。慮が積まれ能が習われてから成るものを偽という。

利を正してなすことを事といい、義を正してなすことを行という。

知る素地が人にあることを知といい、知が合うところがあることを智という。能である素地が人にあることを能といい、能が合うところがあることを能という。

性が損なわれることを病といい、巡り合わせに出会うことを命という。

これが人にある散らばった名であり、後の王が名を定めたものである。

故王者之制名,名定而實辨,道行而志通,則慎率民而一焉。故析辭擅作名,以亂正名,使民疑惑,人多辨訟,則謂之大姦。其罪猶為符節度量之罪也。故其民莫敢託為奇辭以亂正名,故其民愨;愨則易使,易使則公。其民莫敢託為奇辭以亂正名,故壹於道法,而謹於循令矣。如是則其跡長矣。跡長功成,治之極也。是謹於守名約之功也。今聖王沒,名守慢,奇辭起,名實亂,是非之形不明,則雖守法之吏,誦數之儒,亦皆亂也。若有王者起,必將有循於舊名,有作於新名。然則所為有名,與所緣以同異,與制名之樞要,不可不察也。

だから王たる者が名を裁くと、名が定まって実が弁えられ、道が行われて志が通じるから、慎んで民を率いて一つにする。

だから辞を割き勝手に名を作って正しい名を乱し、民を疑い惑わせて人が弁じ争うことが多くなれば、これを大いなる邪という。その罪は符節と度量を偽った罪と同じである。

だからその民が敢えて奇妙な辞を作って正しい名を乱さないから、その民が律儀である。律儀なら使いやすく、使いやすければ功が成る。その民が敢えて奇妙な辞を作って正しい名を乱さないから、道と法に一となり、令に従うことに慎む。このようであればその跡が長い。跡が長く功が成ることが治の極みである。これが名の取り決めを守ることに慎んだ功である。

いま聖王が没して名を守ることが怠り、奇妙な辞が起こって名と実が乱れ、是非の形が明らかでない。だからたとえ法を守る吏や数を誦する儒者でも、みな乱れている。

もし王たる者が起これば、必ず旧い名に従うものもあり、新しい名を作るものもあるだろう。それなら名を置く理由と、同異をよる根拠と、名を裁く枢要とを察しないわけにはいかない。

異形離心交喻,異物名實玄紐,貴賤不明,同異不別;如是,則志必有不喻之患,而事必有困廢之禍。故知者為之分別制名以指實,上以明貴賤,下以辨同異。貴賤明,同異別,如是則志無不喻之患,事無困廢之禍,此所為有名也。

形が異なり心が離れて互いに告げ合い、異なる物の名と実が奥深く絡まり、貴賤が明らかでなく同異が分かれない。このようであれば、志に必ず告げ通じない患いがあり、事に必ず行きづまり廃れる災いがある。

だから知ある者がこれのために分け隔てて名を裁いて実を指し、上では貴賤を明らかにし、下では同異を弁える。貴賤が明らかで同異が分かれれば、志に告げ通じない患いがなく、事に行きづまり廃れる災いがない。これが名を置く理由である。

然則何緣而以同異?曰:緣天官。凡同類同情者,其天官之意物也同。故比方之疑似而通,是所以共其約名以相期也。形體、色理以目異;聲音清濁、調竽、奇聲以耳異;甘、苦、鹹、淡、辛、酸、奇味以口異;香、臭、芬、鬱、腥、臊、漏庮、奇臭以鼻異;疾、癢、凔、熱、滑、鈹、輕、重以形體異;說、故、喜、怒、哀、樂、愛、惡、欲以心異。心有徵知。徵知,則緣耳而知聲可也,緣目而知形可也。然而徵知必將待天官之當簿其類,然後可也。五官簿之而不知,心徵知而無說,則人莫不然謂之不知。此所緣而以同異也。

それでは何によって同異とするのか。言う、天が与えた官によってである。

およそ同じ類で同じ情のものは、その天が与えた官が物を意味するところが同じである。だから比べて似たものによって通じる。これがその取り決めた名を共にして互いに期する理由である。

形と体と色と理は目で弁え、声の清濁と調べと奇妙な声は耳で弁え、甘い・苦い・塩辛い・淡い・辛い・酸い・奇妙な味は口で弁え、香りと臭いと芳しさと濃さと生臭さと獣臭さと腐臭と奇妙な臭いは鼻で弁え、痛み・かゆみ・冷え・熱さ・滑らかさ・ざらつき・軽さ・重さは体で弁え、喜び・理由・怒り・哀しみ・楽しみ・愛・憎み・欲は心で弁える。

心には徴して知ることがある。徴して知ることがあれば、耳によって声を知ることになり、目によって形を知ることになる。しかし徴して知ることは、必ず天が与えた官がその類を記して当たるのを待ってから初めてできる。五つの官が記したのに知らず、心が徴して知っても説くことがなければ、人がこれを知らないと言わない者がない。これが同異をよる根拠である。

然後隨而命之,同則同之,異則異之。單足以喻則單,單不足以喻則兼;單與兼無所相避則共;雖共不為害矣。知異實者之異名也,故使異實者莫不異名也,不可亂也,猶使同實者莫不同名也。

そのうえで従って名づけ、同じなら同じにし、異なれば異にする。単で告げ通じるに足れば単にし、単で告げ通じるに足らなければ兼ねる。単と兼が互いに避けるところがなければ共にする。たとえ共にしても害にならない。

実が異なるものは名が異なることを知るから、実が異なるものに名が異ならないものがないようにして、乱せないようにする。実が同じものに名が同じでないものがないようにするのも同様である。

故萬物雖眾,有時而欲無舉之,故謂之物;物也者,大共名也。推而共之,共則有共,至於無共然後止。有時而欲偏舉之,故謂之鳥獸。鳥獸也者,大別名也。推而別之,別則有別,至於無別然後至。

だから万物はたとえ多くても、ときにはすべてを挙げまいとするから、物という。物とは大きく共にする名である。推して共にし、共にすれば更に共にするものがあって、共にするものがなくなるところに至ってから止まる。

ときには偏って挙げようとするから、鳥獣という。鳥獣とは大きく分ける名である。推して分け、分ければ更に分けるものがあって、分けるものがなくなるところに至ってから止まる。

名無固宜,約之以命,約定俗成謂之宜,異於約則謂之不宜。名無固實,約之以命實,約定俗成,謂之實名。名有固善,徑易而不拂,謂之善名。

名にもとより適切さがあるのではなく、取り決めて名づける。取り決めが定まり習わしが成ったものを適切といい、取り決めと異なるものを適切でないという。

名にもとより実があるのではなく、取り決めて実を名づける。取り決めが定まり習わしが成ったものを実の名という。

名にもとより善さがある。まっすぐで易しくそむかなければ、善い名という。

物有同狀而異所者,有異狀而同所者,可別也。狀同而為異所者,雖可合,謂之二實。狀變而實無別而為異者,謂之化。有化而無別,謂之一實。此事之所以稽實定數也。此制名之樞要也。後王之成名,不可不察也。

物には形が同じで場所が異なるものがあり、形が異なって場所が同じものがあって、分けることができる。形が同じで場所が異なるものは、たとえ合わせられても二つの実という。形が変わっても実が分かれずに異なったものを化という。化があって分かれがなければ一つの実という。これが事において実を調べ数を定める理由である。これが名を裁く枢要であり、後の王が名を定めたものを察しないわけにはいかない。

「見侮不辱」,「聖人不愛己」,「殺盜非殺人也」,此惑於用名以亂名者也。驗之所為有名,而觀其孰行,則能禁之矣。「山淵平」,「情欲寡」,「芻豢不加甘,大鐘不加樂」,此惑於用實,以亂名者也。驗之所緣以同異,而觀其孰調,則能禁之矣。「非而謁楹」,「有牛馬非馬也,」此惑於用名以亂實者也。驗之名約,以其所受,悖其所辭,則能禁之矣。

「侮られても恥辱ではない」「聖人は自分を愛さない」「盗人を殺すのは人を殺すことではない」——これは名を用いて名を乱すことに惑ったものである。名を置く理由に照らし合わせてどちらが通るかを見れば、禁じることができる。

「山と淵が平らだ」「情は望みが少ない」「肉がより甘くなく、大きな鐘がより楽しくない」——これは実を用いて名を乱すことに惑ったものである。同異をよる根拠に照らし合わせてどちらが調うかを見れば、禁じることができる。

「柱を指すのは誤りだ」「牛と馬があるのは馬ではない」——これは名を用いて実を乱すことに惑ったものである。名の取り決めに照らし合わせ、その受け入れるところでその退けるところにそむかせれば、禁じることができる。

凡邪說辟言之離正道而擅作者,無不類於三惑者矣。故明君知其分而不與辨也。夫民易一以道,而不可與共故。故明君臨之以埶,道之以道,申之以命,章之以論,禁之以刑。故民之化道也如神,辨說惡用矣哉!今聖王沒,天下亂,姦言起,君子無埶以臨之,無刑以禁之,故辨說也。實不喻,然後命,命不喻,然後期,期不喻,然後說,說不喻,然後辨。故期命辨說也者,用之大文也,而王業之始也。名聞而實喻,名之用也。累而成文,名之麗也。用麗俱得,謂之知名。名也者,所以期累實也。辭也者,兼異實之名以論一意也。辨說也者,不異實名以喻動靜之道也。期命也者,辨說之用也。辨說也者,心之象道也。心也者,道之工宰也。道也者,治之經理也。心合於道,說合於心,辭合於說。正名而期,質請而喻,辨異而不過,推類而不悖。聽則合文,辨則盡故。以正道而辨姦,猶引繩以持曲直。是故邪說不能亂,百家無所竄。有兼聽之明,而無矜奮之容;有兼覆之厚,而無伐德之色。說行則天下正,說不行則白道而冥窮。是聖人之辨說也。詩曰:「顒顒卬卬,如圭如璋,令聞令望,豈弟君子,四方為綱。」此之謂也。

およそ邪な説と偏った言が正しい道を離れて勝手に作られたものは、この三つの惑いに類さないものがない。だから明らかな君はその分かれ目を知って、ともに弁じない。

およそ民は道で一つにしやすいが、ともにその理由を共にすることはできない。だから明らかな君は勢いで臨み、道で導き、命で布き、論で明らかにし、刑で禁じる。だから民が道に化することが神のようである。弁じ説くことを何に用いようか。

いま聖王が没して天下が乱れ、邪な言が起こるのに、君子には臨む勢いがなく禁じる刑がない。だから弁じ説くのである。

実が告げ通じなくなってから名づけ、名が告げ通じなくなってから期し、期が告げ通じなくなってから説き、説が告げ通じなくなってから弁じる。だから期し名づけ弁じ説くことは、用の大きな文であり、王業の始めである。

名を聞いて実が告げ通じることが名の用であり、積み重なって文を成すことが名の麗しさである。用と麗しさをともに得れば、名を知るという。

名とは実を積み重ねて期するものであり、辞とは実の異なる名を兼ねて一つの意を論ずるものであり、弁じ説くこととは実と名を異にせずに動と静の道を告げ通じさせるものであり、期し名づけることとは弁じ説くことの用である。

弁じ説くこととは心が道を象ったものであり、心とは道の工であり宰であり、道とは治の縦糸であり理である。心が道に合い、説が心に合い、辞が説に合う。

名を正して期し、素地を請うて告げ通じ、異なりを弁えて行き過ぎず、類を推してそむかない。聴けば文に合い、弁じれば理由を尽くす。正しい道で邪を弁えることは、墨縄を引いて曲直を押さえるようなものである。だから邪な説が乱すことができず、百家が隠れるところがない。

併せて聴く明らかさがありながら誇り奮い立つ顔色がなく、併せて覆う厚さがありながら徳を誇る顔色がない。説が行われれば天下が正しく、説が行われなければ道を明らかにして奥深く退く。これが聖人の弁じ説くことである。

『詩』に「仰ぎ仰いで、圭のよう璋のよう、善き聞こえ善き望み、喜ばしく和やかな君子が四方の綱である」とある。これを言うのである。

辭讓之節得矣,長少之理順矣;忌諱不稱,祅辭不出。以仁心說,以學心聽,以公心辨。不動乎眾人之非譽,不治觀者之耳目,不賂貴者之權埶,不利傳辟者之辭。故能處道而不貳,咄而不奪,利而不流,貴公正而賤鄙爭,是士君子之辨說也。詩曰:「長夜漫兮,永思騫兮,大古之不慢兮,禮義之不愆兮,何恤人之言兮!」此之謂也。

辞譲の節を得て長幼の理に順い、忌み憚るものを言わず妖しい辞を出さない。仁の心で説き、学ぶ心で聴き、公の心で弁じる。

多くの人のそしりと誉れに動かず、見る者の耳と目を飾らず、貴い者の権勢に賄賂を贈らず、渡り歩く者の辞を利としない。だからよく道にとどまって二心を持たず、叱られても奪われず、利があっても流されず、公で正しいことを貴び、下卑て争うことを賤しむ。これが士君子の弁じ説くことである。

『詩』に「長い夜は果てなく、長く過ちを思う。遠い古をおろそかにせず、礼と義に過たないのだから、人の言を何で憂えようか」とある。これを言うのである。

君子之言,涉然而精,俛然而類,差差然而齊。彼正其名,當其辭,以務白其志義者也。彼名辭也者,志義之使也,足以相通,則舍之矣。苟之,姦也。故名足以指實,辭足以見極,則舍之矣。外是者,謂之訒,是君子之所棄,而愚者拾以為己寶。故愚者之言,芴然而粗,嘖然而不類,誻誻然而沸,彼誘其名,眩其辭,而無深於其志義者也。故窮藉而無極,甚勞而無功,貪而無名。故知者之言也,慮之易知也,行之易安也,持之易立也,成則必得其所好,而不遇其所惡焉。而愚者反是。詩曰:「為鬼為蜮,則不可得。有靦面目,視人罔極。作此好歌,以極反側。」此之謂也。

君子の言は、深く入りながら精しく、身を低くしながら類があり、でこぼこしながら斉っている。あの者はその名を正しその辞を適切にして、その志と義を明らかにすることに努める者である。

あの名と辞とは志と義の使いであって、互いに通じるに足れば手放す。かりそめにするのは邪である。だから名が実を指すに足り、辞が極みを示すに足れば手放す。これより外のものを訥という。これは君子が捨てるものなのに、愚かな者が拾って自分の宝とする。

だから愚かな者の言は、ぼんやりして粗く、騒がしくて類がなく、べらべらと沸き立つ。あの者はその名に誘われその辞に眩んで、その志と義に深さがない。だから尽きるまで引いても極みがなく、甚だ労して功がなく、貪って名がない。

だから知ある者の言は、考えるのに知りやすく、行うのに安らぎやすく、保つのに立ちやすい。成せば必ずその好むところを得て、その憎むところに出会わない。愚かな者はこれと逆である。

『詩』に「鬼となり蜮となれば捕まえられないが、顔があって人に見られることには際限がない。この善い歌を作って、寝返りを尽くす」とある。これを言うのである。

凡語治而待去欲者,無以道欲而困於有欲者也。凡語治而待寡欲者,無以節欲而困於多欲者也。有欲無欲,異類也,生死也,非治亂也。欲之多寡,異類也,情之數也,非治亂也。欲不待可得,而求者從所可。欲不待可得,所受乎天也;求者從所可,所受乎心也。所受乎天之一欲,制於所受乎心之多,固難類所受乎天也。人之所欲生甚矣,人之惡死甚矣;然而人有從生成死者,非不欲生而欲死也,不可以生而可以死也。故欲過之而動不及,心止之也。心之所可中理,則欲雖多,奚傷於治?欲不及而動過之,心使之也。心之所可失理,則欲雖寡,奚止於亂?故治亂在於心之所可,亡於情之所欲。不求之其所在,而求之其所亡,雖曰我得之,失之矣。

およそ治を語りながら欲を取り去ることを待つ者は、欲を導く手立てがなくて欲があることに行きづまった者である。およそ治を語りながら欲を少なくすることを待つ者は、欲に節をつける手立てがなくて欲が多いことに行きづまった者である。

欲があることと欲がないことは類が異なり、生と死であって、治と乱ではない。欲の多少は類が異なり、情の数であって、治と乱ではない。

欲は得られることを待たず、求める者は是とするところに従う。欲が得られることを待たないのは天から受けたものであり、求める者が是とするところに従うのは心から受けたものである。天から受けた一つの欲が、心から受けた多くに裁かれるのだから、もとより天から受けたものに比べがたい。

人が生きたいと望むことは甚だしく、人が死を憎むことは甚だしい。それでも人が生を追って死を遂げる者があるのは、生きたいと望まず死にたいと望むからではなく、生きられず死ぬことができるからである。

だから欲が行き過ぎても動きが及ばないのは、心がこれを止めたのである。心が是とするところが理に適えば、欲がたとえ多くても治に何を損なおうか。欲が及ばないのに動きが行き過ぎたのは、心がそうさせたのである。心が是とするところが理を失えば、欲がたとえ少なくても乱れからどうして止まろうか。

だから治と乱は心が是とするところにあり、情が欲するところにはない。そのあるところに求めずそのないところに求めながら、たとえ自分が得たと言っても、失ったのである。

性者、天之就也;情者、性之質也;欲者、情之應也。以所欲為可得而求之,情之所必不免也。以為可而道之,知所必出也。故雖為守門,欲不可去,性之具也。雖為天子,欲不可盡。欲雖不可盡,可以近盡也。欲雖不可去,求可節也。所欲雖不可盡,求者猶近盡;欲雖不可去,所求不得,慮者欲節求也。道者、進則近盡,退則節求,天下莫之若也。

性とは天が成したものであり、情とは性の素地であり、欲とは情の応えである。欲するところを得られると思って求めるのは情が必ず免れないところであり、是と思って導くのは知が必ず出すところである。

だからたとえ門番となっても欲を取り去れないのは性の備えであり、たとえ天子となっても欲を尽くせない。欲はたとえ尽くせなくても、ほぼ尽くさせることができ、欲はたとえ取り去れなくても、求めに節をつけることができる。

欲するところはたとえ尽くせなくても求める者はなおほぼ尽くし、欲はたとえ取り去れなくても求めるところを得なければ考える者は求めに節をつけようとする。道とは、進めばほぼ尽くし、退けば求めに節をつけるものであって、天下にこれに及ぶものはない。

凡人莫不從其所可,而去其所不可。知道之莫之若也,而不從道者,無之有也。假之有人而欲南,無多;而惡北,無寡,豈為夫南之不可盡也,離南行而北走也哉!今人所欲,無多;所惡,無寡,豈為夫所欲之不可盡也,離得欲之道,而取所惡也哉!故可道而從之,奚以損之而亂?不可道而離之,奚以益之而治?故知者論道而已矣,小家珍說之所願者皆衰矣。

およそ人はその是とするところに従い、その是としないところを捨てない者がない。道にこれに及ぶものがないと知りながら道に従わない者はいない。

かりに、ある人が南に行きたいと望んでいくら多くても嫌わず、北に行くのを憎んでいくら少なくても嫌うとしよう。どうしてあの南を行き尽くせないからといって、南に行くことを離れて北に走ろうか。

いま人が欲するところはいくら多くても嫌わず、憎むところはいくら少なくても嫌うのに、どうしてあの欲するところを尽くせないからといって、欲を得る道を離れて憎むところを取ろうか。

だから道を是として従えば、何で減らして乱れようか。道を是とせずに離れれば、何で加えて治まろうか。だから知ある者は道を論ずるだけであって、小さな家の珍しい説が願うものはみな衰える。

凡人之取也,所欲未嘗粹而來也;其去也,所惡未嘗粹而往也。故人無動而不可以不與權俱。衡不正,則重縣於仰,而人以為輕;輕縣於俛,而人以為重;此人所以惑於輕重也。權不正,則禍託於欲,而人以為福;福託於惡,而人以為禍;此亦人所以惑於禍福也。道者,古今之正權也;離道而內自擇,則不知禍福之所託。易者,以一易一,人曰:無得亦無喪也,以一易兩,人曰:無喪而有得也。以兩易一,人曰:無得而有喪也。計者取所多,謀者從所可。以兩易一,人莫之為,明其數也。從道而出,猶以一易兩也,奚喪!離道而內自擇,是猶以兩易一也,奚得!其累百年之欲,易一時之嫌,然且為之,不明其數也。

およそ人が取るとき、欲するものだけが純粋に来たことはなく、捨てるとき、憎むものだけが純粋に去ったことはない。だから人は動くとき秤とともにしないわけにはいかない。

秤竿が正しくなければ、重いものが上に掛かって人が軽いと思い、軽いものが下に掛かって人が重いと思う。これが人が軽重に惑う理由である。秤にかけることが正しくなければ、災いが欲に託されて人が福と思い、福が憎みに託されて人が災いと思う。これもまた人が災いと福に惑う理由である。

道とは古と今の正しい秤である。道を離れて内で自ら選べば、災いと福が託されたところを知らない。

交換する者が一つで一つを換えれば、人は得もなく失いもないと言い、一つで二つを換えれば、人は失いなく得があると言い、二つで一つを換えれば、人は得なく失いがあると言う。計る者は多いほうを取り、謀る者は是とするところに従う。二つで一つを換えることを誰もしないのは、その数が明らかだからである。

道に従って出ることは一つで二つを換えるようなものであって、何を失おうか。道を離れて内で自ら選ぶことは二つで一つを換えるようなものであって、何を得ようか。百年に積もる欲を一時の満足と換えながら、それでもそれをするのは、その数が明らかでないのである。

有嘗試深觀其隱而難者:志輕理而不重物者,無之有也;外重物而不內憂者,無之有也;行離理而不外危者,無之有也;外危而不內恐者,無之有也。心憂恐,則口銜芻豢而不知其味,耳聽鐘鼓而不知其聲,目視黼黻而不知其狀,輕煖平簟而體不知其安。故嚮萬物之美而不能嗛也。假而得間而嗛之,則不能離也。故嚮萬物之美而盛憂,兼萬物之美而盛害,如此者,其求物也,養生也?粥壽也?故欲養其欲而縱其情,欲養其性而危其形,欲養其樂而攻其心,欲養其名而亂其行,如此者,雖封侯稱君,其與夫盜無以異;乘軒戴絻,其與無足無以異。夫是之謂以己為物役矣。

試しにその隠れて難しいところを深く観てみよう。志が理を軽んじながら物を重んじない者はおらず、外で物を重んじながら内で憂えない者はおらず、行いが理を離れながら外で危うくない者はおらず、外で危うくありながら内で恐れない者はいない。

心が憂え恐れれば、口に肉を含んでもその味を知らず、耳で鐘と鼓を聴いてもその声を知らず、目で刺繍の文様を見てもその姿を知らず、軽く暖かい衣と平らな席にも体がその安らぎを知らない。だから万物の美しさを享けながらよく満足できない。かりに隙を得て満足しても、よく離れられない。

だから万物の美しさを享けながら憂いが盛んで、万物の美しさを兼ねながら害が盛んである。こういう者が物を求めるのは、生を養うことか、命を売ることか。

だからその欲を養おうとしてその情を放ち、その性を養おうとしてその形を危うくし、その楽しみを養おうとしてその心を攻め、その名を養おうとしてその行いを乱す。こういう者は、たとえ侯に封じられ君と称されても、あの盗人と異なるところがなく、軒の車に乗り冕をかぶっても、足のない者と異なるところがない。これをおよそ自分を物の使役とするという。

心平愉,則色不及傭而可以養目,聲不及傭而可以養耳,蔬食菜羹而可以養口,麤布之衣,麤紃之履,而可以養體。局室、蘆簾、稿蓐、敝机筵,而可以養形。故雖無萬物之美而可以養樂,無埶列之位而可以養名。如是而加天下焉,其為天下多,其私樂少矣。夫是之謂重己役物。

心が平らかで喜ばしければ、色が人並みに及ばなくても目を養うことができ、声が人並みに及ばなくても耳を養うことができ、菜飯と菜の羹でも口を養うことができ、粗い布の衣と粗い緒の履物でも体を養うことができ、狭い部屋と葦の簾と藁の敷物と破れた机と筵でも形を養うことができる。

だからたとえ万物の美しさがなくても楽しみを養うことができ、勢いと列の位がなくても名を養うことができる。このようであって天下を加えれば、その天下のためにするところが多く、自分の私の楽しみは少ないだろう。これをおよそ自分を重んじて物を使役するという。

無稽之言,不見之行,不聞之謀,君子慎之。

調べどころのない言、見られなかった行い、聞かれなかった謀を、君子は慎む。