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縛喝国縛喝國

大唐西域記(大唐の西域をめぐる記) 大唐西域記 · 玄奘 著 · 辯機 編 · 646年(唐・貞観20年) · 段落 7 · 漢字 784字 · 朗読 3.1分

大唐西域記(大唐の西域をめぐる記) 第1巻 玄奘が十七年のあいだ西域とインドの百三十八か国を踏んで帰り、唐の太宗に奉った記録。西遊記のもとになった書だが、ここにあるのは妖怪ではなく、国ごとの広さと気候と言葉と信仰である。法顕より二百年後、慧超より八十年前の道である。

縛喝國。東西八百餘里。南北四百餘里。北臨縛芻河。國大都城周二十餘里。人皆謂之小王舍城也。其城雖固居人甚少。土地所產物類尤多。水陸諸花難以備舉。伽藍百有餘所。僧徒三千餘人。並皆習學小乘法教。城外西南有納縛僧伽藍。此國先王之所建也。大雪山北作論諸師。唯此伽藍美業不替。其佛像則瑩以名珍。堂宇乃飾之奇寶。故諸國君長利之以攻劫。此伽藍素有毘沙門天像。靈鑒可恃冥加守衛。近突厥葉護可汗子肆葉護可汗。傾其部落率其戎旅。奄襲伽藍欲圖珍寶。去此不遠屯軍野次。其夜夢見毘沙門天曰。汝有何力敢壞伽藍。因以長戟貫徹胸背。可汗驚悟便苦心痛。遂告羣屬所夢咎徵。馳請衆僧方申懺謝。未及返命已從殞歿。

縛喝国は東西八百余里、南北四百余里である。北は縛芻河に臨む。国の大都城は周り二十余里で、人はみなこれを小さな王舎城という。その城は固いけれども、居る人はきわめて少ない。土地が産する物の類はことに多く、水と陸の諸々の花は備え挙げがたい。伽藍は百余ヶ所、僧徒は三千余人で、みな小乗の法と教えを習い学ぶ。城の外の西南に納縛伽藍があり、この国の先の王が建てたものである。大雪山の北で論を作った諸々の師があったが、ただこの伽藍だけは美しい業が替わらなかった。その仏像は名ある珍宝で瑩き、堂と宇は奇しい宝で飾っている。それゆえ諸国の君と長がこれを利として攻め劫そうとした。この伽藍にはもとより毘沙門天の像があり、霊しい鑒が恃むに足るので、冥かに加わって守り衛る。近ごろ突厥の葉護可汗の子の肆葉護可汗が、その部落を傾け、その戎と旅を率いて、伽藍を奄い襲い、珍宝を図ろうとした。ここから遠くない野に軍を屯め次った。その夜、夢に毘沙門天が現れて「汝に何の力があって敢えて伽藍を壊そうとするのか」と言い、長い戟で胸から背まで貫き徹した。可汗は驚いて悟り、たちまち心が苦しく痛んだ。ついに群れの属に夢に見た咎の徴を告げ、馳せて衆僧を請い、まさに懺い謝そうとしたが、返の命が及ばないうちに、もう殞り歿してしまった。

夾注 1

唐言新

唐の言葉では新である。

2仏の水瓶と歯と箒

伽藍內南佛堂中有佛澡罐。量可斗餘。雜色炫燿金石難名。又有佛牙。其長寸餘。廣八九分。色黃白質光淨。又有佛掃箒。迦奢草作也。長餘二尺。圍可七寸。其把以雜寶飾之。凡此三物。每至六齋法俗咸會陳設供養。至誠所感或放光明。

伽藍の内の南の仏堂の中に仏の澡罐がある。量は一斗余りほどである。雜々の色が炫え燿いて、金か石か名づけがたい。また仏の牙がある。その長さは一寸余り、広さは八、九分で、色は黄と白、質は光り浄い。また仏の掃箒がある。迦奢草で作ったものである。長さは二尺余り、囲りは七寸ほどで、その把は雜々の宝で飾っている。およそこの三つの物は、六斎の日になるごとに法も俗もみな会して、陳べ設けて供養する。至った誠が感ずるところでは、ときおり光明を放つ。

3舎利を納めた塔

伽藍北有窣堵波。高二百餘尺。金剛泥塗衆寶廁飾。中有舍利時燭靈光。

伽藍の北に窣堵波があり、高さは二百余尺である。金剛の泥を塗り、衆くの宝を廁えて飾っている。中に舎利があって、ときおり霊しい光を燭す。

4四つの果を証した人たち

伽藍西南有一精廬。建立已來多歷年所。遠方輻湊高才類聚。證四果者難以詳舉。故諸羅漢將入涅槃。示現神通衆所知識。乃有建立諸窣堵波。基跡相隣數百餘矣。雖證聖果終無神變。蓋亦千計不樹封記。今僧徒百餘人。夙夜匪懈凡聖難測。

伽藍の西南に一つの精廬がある。建て立てられてから多くの年を歴ている。遠い方から輻のように湊まり、高い才が類い聚まった。四つの果を証した者は、つまびらかに挙げがたい。それゆえ諸々の羅漢が涅槃に入ろうとするとき、神通を示し現して衆の知り識るところとなったので、そこで諸々の窣堵波を建て立てたが、基の跡が相い隣って数百余りである。聖の果を証しながら、ついに神しい変を現さなかった者は、おおよそ千を計えるが、樹て封じて記すことをしなかった。いま僧徒は百余人で、夙も夜も懈らないので、凡か聖か測りがたい。

5提謂城と波利城 — 最初に建てた塔

大城西北五十餘里至提謂城。城北四十餘里有波利城。城中各有一窣堵波。高餘三丈。昔者如來初證佛果。起菩提樹方詣鹿園。時二長者遇被威光。隨其行路之資遂獻麨蜜。世尊爲說人天之福。最初得聞五戒十善也。既聞法誨請所供養。如來遂授其髮爪焉。二長者將還本國請禮敬之儀式。如來以僧伽胝方疊布下。次欝多羅僧。次僧却崎又覆鉢。竪錫杖。如是次第爲窣堵波。二人承命各還其城。擬儀聖旨式修崇建。斯則釋迦法中。最初窣堵波也。

大城の西北へ五十余里行くと提謂城に至る。城の北へ四十余里に波利城がある。城の中にそれぞれ一つの窣堵波があり、高さは三丈余りである。昔、如来が初めて仏の果を証し、菩提樹から起って、まさに鹿園へ詣ろうとしたとき、二人の長者がその威しい光に遇い、その路を行く資とするものを随えて、ついに麨と蜜を献じた。世尊は彼らのために人と天の福を説かれたので、最初に五戒と十善を聞き得た者である。法の誨えを聞いてから供養すべきものを請うと、如来はついにその髪と爪を授けられた。二人の長者が本国へ還ろうとして、礼し敬うべき儀式を請うた。如来は僧伽胝を方に疊んで下に布き、次に欝多羅僧を、次に僧却崎を置き、また鉢を覆せ、錫杖を竪てられた。このような次第で窣堵波とせよ、と。二人は命を承けてそれぞれその城に還り、聖の旨に擬い儀って、式のとおりに修め崇め建てた。これがすなわち釈迦の法の中で最初の窣堵波である。

夾注 2

舊曰僧祇梨訛也

旧くは僧祇梨といったが、誤りである。

舊曰僧祇支訛也

旧くは僧祇支といったが、誤りである。

6迦葉波仏の時の塔

城西七十餘里有窣堵波。高餘二丈。昔迦葉波佛時之所建也。

城の西へ七十余里に窣堵波があり、高さは二丈余りである。昔、迦葉波仏の時に建てたものである。

從大城西南入雪山阿至銳秣陀國。

大城から西南へ雪山の阿に入ると銳秣陀国に至る。