勉学 — 学びに励め勉學
1数年の勤学を惜しんで一生の恥を受けるのか
自古明王聖帝,猶須勤學,況凡庶乎!此事遍於經史,吾亦不能鄭重,聊舉近世切要,以啓寤汝耳。士大夫子弟,數歲已上,莫不被教,多者或至禮、傳,少者不失詩、論。及至冠婚,體性稍定;因此天機,倍須訓誘。有志尚者,遂能磨礪,以就素業;無履立者,自茲墮慢,便爲凡人。人生在世,會當有業:農民則計量耕稼,商賈則討論貨賄,工巧則致精器用,伎藝則沈思法術,武夫則慣習弓馬,文士則講議經書。多見士大夫恥涉農商,差務工伎,射則不能穿札,筆則纔記姓名,飽食醉酒,忽忽無事,以此銷日,以此終年。或因家世餘緒,得一階半級,便自爲足,全忘修學;及有吉凶大事,議論得失,蒙然張口,如坐雲霧;公私宴集,談古賦詩,塞默低頭,欠伸而已。有識旁觀,代其入地。何惜數年勤學,長受一生愧辱哉!
昔から明らかな王や聖なる帝でも、なお勤めて学ばなければならなかった。まして普通の人はどうであろうか。このことは経書にも史書にもあまねく載っているので、私が重ねて言うまでもない。ただ近い世の、切実で肝要なことを挙げて、お前たちを目覚めさせようと思う。士大夫の子弟は、数歳を越えれば教えを受けない者はなく、多い者は『礼記』や『春秋左氏伝』に及び、少ない者でも『詩経』と『論語』は欠かさない。元服と婚礼のころになると、体も性質もだんだん定まるので、この生まれつきの枠に沿って倍して教え導くべきである。志を抱いた者は、ついに磨き上げて本業を成し、立つ場のない者は、このときから怠けて、そのまま普通の人になる。人がこの世に生まれれば、生業がなければならない。農民は耕作を見計らい、商人は品物を見きわめ、職人は器具を精巧にし、技芸の者は法と術に没頭し、武人は弓と馬を習い、文士は経書を講ずる。よく見ると、士大夫は農と商を恥じ、工と技を気まずく思い、弓を射れば鎧の一枚も貫けず、筆を取れば自分の名を書くのがせいぜいで、腹いっぱい食べ酒に酔い、ぼんやりと用もなく、こうして日を過ごし、こうして年を終える。中には家に残った余徳で官の一階半階を得ると、それで自ら満ち足りて、学ぶことをすっかり忘れる者がある。吉凶の大事があって是非を論じるときには、ぽかんと口を開けて雲と霧の中に座っているようであり、公私の宴席で昔のことを語り詩を作るときには、口を閉ざしてうなだれ、あくびと伸びをするだけである。見識のある者が傍で見ていると、代わりに地の中へ入りたくなる。どうして数年の勤学を惜しんで、一生の恥と辱めを受けるのか。
2「車から落ちなければ著作郎」 — 乱の後に現れたもの
梁朝全盛之時,貴遊子弟,多無學術,至於諺云:「上車不落則著作,體中何如則秘書。」無不熏衣剃面,傅粉施朱,駕長檐車,跟高齒屐,坐棋子方褥,憑斑絲隱囊,列器玩於左右,從容出入,望若神仙。明經求第,則顧人答策;三九公燕,則假手賦詩。當爾之時,亦快士也。及離亂之後,朝市遷革,銓衡選舉,非復曩者之親;當路秉權,不見昔時之黨。求諸身而無所得,施之世而無所用。被褐而喪珠,失皮而露質,兀若枯木,泊若窮流,鹿獨戎馬之間,轉死溝壑之際。當爾之時,誠駑材也。有學藝者,觸地而安。自荒亂已來,諸見俘虜。雖百世小人,知讀論語、孝經者,尚爲人師;雖千載冠冕,不曉書記者,莫不耕田養馬。以此觀之,安可不自勉耶?若能常保數百卷書,千載終不爲小人也。
梁が盛りのころ、貴族の子弟は学のない者が多く、ことわざに「車に乗って落ちなければ著作郎、ご機嫌はいかがと挨拶できれば秘書郎」といわれた。衣に香を薫じ顔を整え、白粉をつけ紅をさし、長い庇の車に乗り、歯の高い下駄をはき、碁盤の目の四角い座布団に座り、斑の絹の肘枕にもたれ、左右に玩びの品を並べ、ゆったりと出入りするので、見れば神仙のようであった。明経で及第を求めるときは人を雇って答案を書かせ、三公九卿の公の宴では人の手を借りて詩を作った。そのころはそれでも痛快な士であった。乱離の後、朝廷も市も入れ替わり、人を選び量る者ももう昔の親戚ではなく、要路で権を握る者も昔の仲間ではなくなると、自分の身に求めても得るものがなく、世に施そうとしても用いるところがなかった。粗布をまとって珠を失い、皮を剝がれて中身をさらし、枯れ木のように立ち尽くし、尽きた流れのように衰えて、戦馬のあいだをさまよい、溝や谷で死んでいった。そのときこそまことに鈍な材であった。学と技のある者は、どこへ行っても安らかであった。乱れて以来、多くの捕虜を見てきたが、百代の小人でも『論語』『孝経』を読めれば、なお人の師となり、千年の冠をかぶった家柄でも文を知らなければ、田を耕し馬を飼わない者はなかった。これで見れば、どうして自ら励まずにいられようか。常に数百巻の書を保つことができれば、千年を経ても、ついに小人にはならない。
3財千万より身につけた小さな技
夫明六經之指,涉百家之書,縱不能增益德行,敦厲風俗,猶爲一藝,得以自資。父兄不可常依,鄉國不可常保,一旦流離,無人庇蔭,當自求諸身耳。諺曰:「積財千萬,不如薄伎在身。」伎之易習而可貴者,無過讀書也。世人不問愚智,皆欲識人之多,見事之廣,而不肯讀書,是猶求飽而懶營饌,欲暖而惰裁衣也。夫讀書之人,自羲、農巳來,宇宙之下,凡識幾人,凡見幾事,生民之成敗好惡,固不足論,天地所不能藏,鬼神所不能隱也。
六経の意味を明らかにし、百家の書を渉猟すれば、徳行を増し風俗を厚くすることはできなくても、なお一つの技となって自分を支えることができる。父や兄にいつまでも頼ることはできず、故郷や国をいつまでも保つことはできない。ある朝流れ離れて庇ってくれる人がいなくなれば、自分の身に求めるしかない。ことわざに「財を千万積むよりも、身につけた小さな技のほうがよい」という。技のうちで習いやすく貴ぶに足りるものは、書を読むことに勝るものがない。世の人は愚かでも賢くても、みな人を多く知り事を広く見たいと思いながら、書を読もうとしない。これは腹いっぱいになりたいと思いながら食事を作るのを怠け、暖かくなりたいと思いながら衣を裁つのを怠けるのと同じである。書を読む人は、羲と農の世以来、この宇宙の下で、どれだけの人を知り、どれだけの事を見たことだろう。民の成敗や好悪は言うまでもなく、天地も隠すことができず、鬼神も隠しきれないのである。
4「学ある者の貧しさを学なき者の富貴と比べるな」
有客難主人曰:「吾見強弩長戟,誅罪安民,以取公侯者有矣;文義習吏,匡時富國,以取卿相者有矣;學備古今,才兼文武,身無祿位,妻子饑寒者,不可勝數,安足貴學乎?」主人對曰:「夫命之窮達,猶金玉木石也;修以學藝,猶磨瑩雕刻也。金玉之磨瑩,自美其礦璞,木石之段塊,自丑其雕刻;安可言木石之雕刻,乃勝金玉之礦璞哉?不得以有學之貧賤,比於無學之富貴也。且負甲爲兵,咋筆爲吏,身死名滅者如牛毛,角立傑出者如芝草;握素披黃,吟道詠德,苦辛無益者如日蝕,逸樂名利者如秋荼,豈得同年而語矣。且又聞之:生而知之者上,學而知之者次。所以學者,欲其多知明達耳。必有天才,拔群出類,爲將則闇與孫武、吳起同術,執政則懸得管仲、子產之教,雖未讀書,吾亦謂之學矣。今子即不能然,不師古之蹤迹,猶蒙被而臥耳。
ある客が主人に詰め寄って言った。「強い弩と長い戟で罪ある者を討ち民を安らかにして公侯となった者はあります。文書と吏の務めに通じて時代を正し国を富ませて卿相となった者もあります。ところが学が古今に備わり才が文武を兼ねていても、身に俸禄も位もなく、妻子が飢えと寒さに苦しむ者は数え切れません。どうして学が貴ぶに足りるでしょうか。」主人は答えた。「運命の窮と達は、金玉と木石のようなものであり、学と技で修めるのは、磨き彫ることのようなものだ。金玉を磨けばその原石より自然に美しく、木石の塊は彫っても自然に醜い。どうして木石の彫りが金玉の原石に勝るといえようか。学のある者の貧賤を、学のない者の富貴と比べてはならない。また、鎧を背負って兵となり、筆をくわえて吏となって、身が死に名が消えた者は牛の毛のように多く、角のように抜きん出た者は芝草のようにまれである。白い書を手に取り黄の書を開いて道を吟じ徳を詠じながら、苦労ばかりで益のない者は日食のようにまれで、安らかに楽しんで名と利を得る者は秋の苦菜のように多い。どうして同じ場に並べて語れようか。また聞くところでは、生まれながらに知る者が上、学んで知る者がその次という。学ぶのは、多く知り明らかに通じたいと思うからにすぎない。もし天与の才があって群を抜き、将となれば知らぬうちに孫武や呉起と同じ術を用い、政を執れば自然に管仲や子産の教えを得るというのであれば、書を読んでいなくても、私はそれを学と呼ぼう。今あなたがそうもできずに、昔の人の跡を師としないのなら、布団をかぶって寝ているのと同じである。」
5将にも相にも牧民の官にも、漁師や屠る者にも師がある
人見鄰里親戚有佳快者,使子弟慕而學之,不知使學古人,何其蔽也哉?世人但見跨馬被甲,長槊強弓,便云我能爲將;不知明乎天道,辯乎地利,比量逆順,鑒達興亡之妙也。但知承上接下,積財聚穀,便云我能爲相;不知敬鬼事神,移風易俗,調節陰陽,薦舉賢聖之至也。但知私財不入,公事夙辦,便云我能治民;不知誠己刑物,執轡如組,反風滅火,化鴟爲鳳之術也。但知抱令守律,早刑晚舍,便云我能平獄;不知同轅觀罪,分劍追財,假言而奸露,不問而情得之察也。爰及農商工賈,廝役奴隸,釣魚屠肉,飯牛牧羊,皆有先達,可爲師表,博學求之,無不利於事也。
人は近所や親戚の中にうまくいった者を見ると、子弟に慕って学ばせるのに、昔の人を学ばせることを知らない。なんと目が塞がれていることか。世の人は、馬にまたがり鎧を着て長い槊と強い弓を見ると、すぐ「私は将になれる」と言うが、天の道に明るく、地の利を見分け、逆らうか従うかを比べ、興亡を見通す妙があることを知らない。上を奉じ下に接し、財を集め穀を積むことだけを知って、すぐ「私は相になれる」と言うが、鬼神を敬って神に仕え、風俗を変え、陰陽を整え、賢い人や聖人を推挙する至りがあることを知らない。私の財を入れず、公の務めを早く片づけることだけを知って、すぐ「私は民を治められる」と言うが、自分を誠にして人の手本となり、手綱を組紐のように執り、風を返して火を消し、鴟を鳳に変える術があることを知らない。法令を抱え律を守り、早く罰し遅く許すことだけを知って、すぐ「私は獄を公平にできる」と言うが、轅を見て罪を知り、剣を分けて財を追い、偽りの言葉から奸が露わになり、問わずに実情を得る、その見抜く力があることを知らない。農・商・工から、使い走りや奴隷、魚を釣り肉をさばき、牛を飼い羊を牧する者に至るまで、どれにも先に通じた人がいて師とするに足る。広く学んで求めれば、事に利あらぬことはない。
6書を読むわけは、心を開き目を明らかにして行いに役立てること
夫所以讀書學問,本欲開心明目,利於行耳。未知養親者,欲其觀古人之先意承顏,怡聲下氣,不憚劬勞,以致甘腝,惕然慚懼,起而行之也;未知事君者,欲其觀古人之守職無侵,見危授命,不忘誠諫,以利社稷,惻然自念,思欲效之也;素驕奢者,欲其觀古人之恭儉節用,卑以自牧,禮爲教本,敬者身基,瞿然自失,斂容抑志也;素鄙吝者,欲其觀古人之貴義輕財,少私寡欲,忌盈惡滿,賙窮恤匱,赧然悔恥,積而能散也;素暴悍者,欲其觀古人之小心黜己,齒弊舌存,含垢藏疾,尊賢容眾,苶然沮喪,若不勝衣也;素怯懦者,欲其觀古人之達生委命,強毅正直,立言必信,求福不回,勃然奮厲,不可恐懾也:歷茲以往,百行皆然。縱不能淳,去泰去甚。學之所知,施無不達。世人讀書者,但能言之,不能行之,忠孝無聞,仁義不足;加以斷一條訟,不必得其理;宰千戶縣,不必理其民;問其造屋,不必知楣橫而梲豎也;問其爲田,不必知稷早而黍遲也;吟嘯談謔,諷詠辭賦,事既優閒,材增迂誕,軍國經綸,略無施用:故爲武人俗吏所共嗤詆,良由是乎!
書を読み学問をするわけは、もともと心を開き目を明らかにして、行いに役立てようとするだけである。親を養うことを知らない者には、昔の人が親の心を先に察して顔色を受け、声を和らげ気を低くし、労苦をいやがらずうまい柔らかなものを差し上げたのを見せて、はっと恥じ恐れ、立ち上がって行わせようとするのである。君に仕えることを知らない者には、昔の人が職分を守って侵さず、危うきを見て命を捧げ、誠の諫めを忘れずに社稷を利したのを見せて、痛ましく自ら思い返し、倣いたいと思わせようとするのである。もともと驕り奢る者には、昔の人が恭しく倹しく節約し、低くして自らを養い、礼を教えの根本とし敬いを身の基としたのを見せて、はっと自分を失い、顔つきを引き締め志を抑えさせようとするのである。もともと吝嗇な者には、昔の人が義を貴び財を軽んじ、私を少なくし欲を寡なくし、満ち足りることを忌み、窮した者を助け乏しい者を憐れんだのを見せて、赤面して悔い恥じ、積んだものを散らせるようにさせようとするのである。もともと荒く激しい者には、昔の人が小心に自分を退け、歯は欠けても舌は残り、恥を含み病を隠し、賢い人を尊び多くの人を容れたのを見せて、気がしぼんで、衣の重さにも堪えないようにさせようとするのである。もともと臆病で弱い者には、昔の人が生に達して運命に委ね、強く毅く正直で、言を立てれば必ず守り、福を求めても曲がらなかったのを見せて、勃然と奮い立ち、脅かされないようにさせようとするのである。ここから進めて、百の行いがみなそうである。純粋になれないとしても、度を過ぎたところは取り除ける。学んで知ったことは、施せば届かないところがない。世の書を読む者は、言うことはできても行うことができず、忠も孝も聞こえず、仁も義も足りない。そのうえ訴訟一件を裁いても必ず理を得るとは限らず、千戸の県を治めても必ず民を治められるとは限らず、家の建て方を問えば、楣は横に置き梲は縦に立てることを必ず知っているわけではなく、田作りを問えば、稷は早く黍は遅いことを必ず知っているわけではない。詩を吟じ戯れ語り、辞賦を口ずさむばかりで、務めは暇で才は空疎になり、軍国の経綸にはまったく用いるところがない。だから武人や俗吏から一緒に笑われ謗られるのは、まことにこのためであろう。
7学で自分を損なう人
夫學者所以求益耳。見人讀數十卷書,便自高大,凌忽長者,輕慢同列;人疾之如讎敵,惡之如鴟梟。如此以學自損,不如無學也。
学ぶというのは、益を求めることにすぎない。ところが書を数十巻読んだだけで自ら高ぶって、年長者を侮り、同輩を軽んじる者がある。人は彼を敵のように憎み、梟のように嫌う。このように学で自分を損なうのは、学ばないほうがましである。
8春の花と秋の実
古之學者爲己,以補不足也;今之學者爲人,但能説之也。古之學者爲人,行道以利世也;今之學者爲己,修身以求進也。夫學者猶種樹也,春玩其華,秋登其實;講論文章,春華也,修身利行,秋實也。
昔の学ぶ者は自分のためにして、足りないところを補った。今の学ぶ者は人のためにして、話すことだけができる。昔の学ぶ者は人のためにして、道を行って世を利した。今の学ぶ者は自分のためにして、身を修めて出世を求める。学ぶことは木を植えるのと同じで、春にはその花を楽しみ、秋にはその実を取る。文章を講じ論ずるのは春の花であり、身を修めて行いを利するのは秋の実である。
9老いて学ぶ者は燭を手に夜道を行くようなもの
人生小幼,精神專利,長成已後,思慮散逸,固須早教,勿失機也。吾七歲時,誦靈光殿賦,至於今日,十年一理,猶不遺忘;二十之外,所誦經書,一月廢置,便至荒蕪矣。然人有坎壈,失於盛年,猶當晚學,不可自棄。孔子云:「五十以學易,可以無大過矣。」魏武、袁遺,老而彌篤,此皆少學而至老不倦也。曾子七十乃學,名聞天下;荀卿五十,始來遊學,猶爲碩儒;公孫弘四十餘,方讀春秋,以此遂登丞相;朱云亦四十,始學易、論語;皇甫謐二十,始受孝經、論語:皆終成大儒,此並早迷而晚寤也。世人婚冠未學,便稱遲暮,因循面牆,亦爲愚耳。幼而學者,如日出之光,老而學者,如秉燭夜行,猶賢乎瞑目而無見者也。
人は幼いうちは精神が一つに集まって鋭く、成長した後は思いが散るので、まことに早く教えて時を失わないようにすべきである。私は七歳のとき「霊光殿賦」を暗誦したが、今日まで十年に一度たどっても忘れていない。二十を過ぎて暗誦した経書は、一月放っておけばすぐに荒れてしまう。しかし人には躓きがあって盛りの年を失うこともあるので、それでも遅くなってから学ぶべきで、自分を見捨ててはならない。孔子は「五十で『易』を学べば大きな過ちはないだろう」と言った。魏の武帝と袁遺は年老いていよいよ篤くなった。これらはみな若くして学び、老いるまで怠らなかった人たちである。曾子は七十で学んで名が天下に聞こえ、荀卿は五十ではじめて遊学に来てそれでも大儒となり、公孫弘は四十あまりではじめて『春秋』を読み、それでついに丞相に上った。朱雲も四十ではじめて『易』と『論語』を学び、皇甫謐は二十ではじめて『孝経』と『論語』を受けたが、みなついに大儒となった。これらはみな早くに迷い、遅く目覚めた人たちである。世の人は婚礼や元服までに学んでいなければ、もう遅いと言って、そのまま壁に向かっているのだから、これもまた愚かなだけである。幼くして学ぶ者は日の出の光のようであり、老いて学ぶ者は燭を手にして夜道を行くようであるが、それでも目を閉じて何も見ない者よりは勝っている。
10「博士が驢馬を買うのに証文三枚書いて驢の字がない」
學之興廢,隨世輕重。漢時賢俊,皆以一經弘聖人之道,上明天時,下該人事,用此致卿相者多矣。末俗已來不復爾,空守章句,但誦師言,施之世務,殆無一可。故士大夫子弟,皆以博涉爲貴,不肯專儒。梁朝皇孫以下,總丱之年,必先入學,觀其志尚,出身已後,便從文史,略無卒業者。冠冕爲此者,則有何胤、劉瓛、明山賓、周舍、朱異、周弘正、賀琛、賀革、蕭子政、劉絛等,兼通文史,不徒講説也。洛陽亦聞崔浩、張偉、劉芳,鄴下又見邢子才:此四儒者,雖好經術,亦以才博擅名。如此諸賢,故爲上品,以外率多田野閒人,音辭鄙陋,風操蚩拙,相與專固,無所堪能,問一言輒酬數百,責其指歸,或無要會。鄴下諺云:「博士買驢,書券三紙,未有驢字。」使汝以此爲師,令人氣塞。孔子曰:「學也祿在其中矣。」今勤無益之事,恐非業也。夫聖人之書,所以設教,但明練經文,粗通注義,常使言行有得,亦足爲人;何必「仲尼居」即須兩紙疏義,燕寢講堂,亦復何在?以此得勝,寧有益乎?光陰可惜,譬諸逝水。當博覽機要,以濟功業;必能兼美,吾無閒焉。
学の興り廃れは、世が重んじるか軽んじるかによる。漢の時代の賢く優れた人たちは、みな経書一つで聖人の道を広め、上は天の時を明らかにし、下は人の事を備えて、それで卿相に至った者が多かった。末の世からはもうそうではなく、むなしく章句を守り、師の言葉を暗誦するばかりで、世の務めに施せば、ほとんど一つも使えるものがない。だから士大夫の子弟はみな広く渉ることを貴び、儒学一つに専らでいようとしない。梁の朝廷では皇孫から下まで、髪を結ぶ年ごろに必ずまず学に入って、その志すところを見、官に出てからはすぐ文史の方へ移って、学業を終える者はほとんどなかった。官人でこれを成した者としては、何胤・劉瓛・明山賓・周舎・朱異・周弘正・賀琛・賀革・蕭子政・劉絛らがあり、文史も兼ねて通じて、講説だけにとどまらなかった。洛陽でも崔浩・張偉・劉芳の名を聞き、鄴でも邢子才を見た。この四人の儒者は、経術を好みながらも、才と博識で名を挙げた。こうした賢人たちだからこそ上品であって、そのほかはおおむね田舎の暇な人たちで、言葉つきが卑しく、ふるまいが拙く、互いに頑なに固執するばかりで何も務まらず、一言問えば数百言を返すのに、その要点を問い詰めれば、まるで要領がないことがある。鄴のことわざに「博士が驢馬を買うのに、証文三枚書いて驢の字がない」という。お前たちにこういう人を師とさせたら、息が詰まる。孔子は「学べば禄はその中にある」と言った。今、益のないことに力を注いでいるのは、おそらく本業ではない。聖人の書は教えを立てるためのものだから、経文に明るく、注の意味にひととおり通じて、常に言葉と行いに得るところがあれば、それで人として十分である。どうして「仲尼居」の三字に二枚の疏が要るのか。燕寝だ講堂だと言うのが、いったいどこにあるのか。こんなことで勝って、何の益があろうか。時は惜しいもので、流れる水にたとえられる。要となるところを広く見て、功業を成すべきである。どちらも美しくできるというのなら、私に文句はない。
11「文集が経書を論じられるか」 — 魏収が『漢書』を投げる
俗間儒士,不涉群書,經緯之外,義疏而已。吾初入鄴,與博陵崔文彥交遊,嘗説王粲集中難鄭玄尚書事。崔轉爲諸儒道之,始將發口,懸見排蹙,云:「文集只有詩賦銘誄,豈當論經書事乎?且先儒之中,未聞有王粲也。」崔笑而退,竟不以粲集示之。魏收之在議曹,與諸博士議宗廟事,引據漢書,博士笑曰:「未聞漢書得證經術。」收便忿怒,都不復言,取韋玄成傳,擲之而起。博士一夜共披尋之,達明,乃來謝曰:「不謂玄成如此學也。」
俗間の儒士は多くの書を渉らず、経と緯のほかには義疏だけである。私がはじめて鄴に入って博陵の崔文彦と交わったとき、かつて王粲の文集の中に鄭玄の『尚書』解釈を論駁した件を話した。崔がそれを諸儒に伝えようと口を開きかけると、すぐに押しのけられ、「文集には詩・賦・銘・誄しかないのに、どうして経書のことを論じられよう。それに先儒の中に王粲がいるとは聞いたことがない」と言われた。崔は笑って退き、ついに王粲の集を見せなかった。魏収が議曹にいたとき、諸博士と宗廟の件を論じ、『漢書』を引いて根拠としたところ、博士たちは笑って「『漢書』が経術の証しになるとは聞いたことがない」と言った。魏収はすぐ怒って二度と口をきかず、韋玄成伝を取ってきて投げつけて立った。博士たちは一晩そろって探し読み、明け方になってやって来て「韋玄成にこれほどの学があるとは思わなかった」と謝った。
12老荘の書と、それを学んだ人たちの末路
夫老、莊之書,蓋全真養性,不肯以物累己也。故藏名柱史,終蹈流沙;匿迹漆園,卒辭楚相,此任縱之徒耳。何晏、王弼,祖述玄宗,遞相誇尚,景附草靡,皆以農、黃之化,在乎己身,周、孔之業,棄之度外。而平叔以黨曹爽見誅,觸死權之網也;輔嗣以多笑人被疾,陷好勝之阱也;山巨源以蓄積取譏,背多藏厚亡之文也;夏侯玄以才望被戮,無支離擁腫之鑒也;荀奉倩喪妻,神傷而卒,非鼓缶之情也;王夷甫悼子,悲不自勝,異東門之達也;嵇叔夜排俗取禍,豈和光同塵之流也;郭子玄以傾動專勢,寧後身外己之風也;阮嗣宗沈酒荒迷,乖畏途相誡之譬也;謝幼輿贓賄黜削,違棄其餘魚之旨也:彼諸人者,並其領袖,玄宗所歸。其餘桎梏塵滓之中,顛仆名利之下者,豈可備言乎!直取其清談雅論,剖玄析微,賓主往復,娛心悅耳,非濟世成俗之要也。洎於梁世,茲風復闡,莊、老、周易,總謂三玄。武皇、簡文,躬自講論。周弘正奉贊大猷,化行都邑,學徒千餘,實爲盛美。元帝在江、荊間,復所愛習,召置學生,親爲教授,廢寢忘食,以夜繼朝,至乃倦劇愁憤,輒以講自釋。吾時頗預末筵,親承音旨,性既頑魯,亦所不好云。
老子・荘子の書は、おおむね真を全うし性を養い、物で自分を縛られないようにするものである。だから柱下史に名を隠してついに流沙へ去り、漆園に跡を隠してついに楚の相を辞した。この人たちは勝手に生きる者たちにすぎない。何晏と王弼は玄妙な宗旨を祖述して互いに誇り合い、人々は影のように付き従い草のようになびいて、どれも神農・黄帝の教化は自分の身にあり、周公・孔子の業は顧みるに値しないとした。ところが何晏(平叔)は曹爽の党として誅せられたので、死を招く権勢の網にかかったのであり、王弼(輔嗣)は人を多く笑って憎まれたので、勝ちたがる落とし穴に落ちたのであり、山濤(巨源)は財を蓄えて笑われたので、「多く蔵せば厚く失う」という文に背いたのであり、夏侯玄は才と名望で殺されたので、支離や擁腫の鑑を持たなかったのであり、荀粲(奉倩)は妻を失って心が傷ついて死んだので、甕を叩いた心ではなく、王衍(夷甫)は子を悼んで悲しみに堪えなかったので、東門呉の達観とは違い、嵆康(叔夜)は俗を退けて禍を得たので、どうして光を和らげ塵と同じくする類であろうか。郭象(子玄)は権勢を揺るがして独り占めしたので、どうして身を後にし自分を外にする風であろうか。阮籍(嗣宗)は酒に溺れて迷ったので、険しい道で互いに戒めよというたとえに外れ、謝鯤(幼輿)は賄賂で職を削られたので、「余った魚を捨てよ」という趣旨に背いた。あの人たちはみなその首領であり、玄妙な宗旨が帰するところであるのに、こうである。そのほか、塵の中に縛られ、名と利の下に倒れた者を、どうして言い尽くせようか。ただその清談や高尚な論議、玄妙なものを割き微細なものを分け、客と主人がやり取りするのは、心を楽しませ耳を喜ばせるだけで、世を救い風俗を成す要ではない。梁の世になるとこの風がまた起こり、『荘子』『老子』『周易』を合わせて三玄と呼んだ。武皇と簡文帝は自ら講論し、周弘正が大いなる道を奉じて都に教えを行ったので、学ぶ者は千人あまりとなり、まことに盛んで立派であった。元帝は江州と荊州にいたころ、またこれを好んで習い、学生を召し置いて自ら教え、寝食を忘れ夜を昼に継ぎ、ひどく疲れて憂え憤るときには、そのたびに講論で自分を慰めた。私もそのころかなり末席に加わって、自ら言葉を受けたが、生まれつき鈍かったので、好むところではなかった。
13孝は至っても学がなく — 孝昭帝の遺詔
齊孝昭帝侍婁太后疾,容色憔悴,服膳減損。徐之才爲灸兩穴,帝握拳代痛,爪入掌心,血流滿手。後既痊愈,帝尋疾崩,遺詔恨不見山陵之事。其天性至孝如彼,不識忌諱如此,良由無學所爲。若見古人之譏欲母早死而悲哭之,則不發此言也。孝爲百行之首,猶須學以修飾之,況餘事乎!
斉の孝昭帝が婁太后の病を看たとき、顔色はやつれ、衣も食事も減らした。徐之才が二つの穴に灸を据えると、帝は拳を握って痛みを代わりに受け、爪が手のひらに食い込んで血が手いっぱいに流れた。のちに太后が治ると、帝はほどなく病で亡くなったが、遺詔に「山陵の事を見られないのが心残りだ」とあった。その生まれつきの至孝はそのようでありながら、忌むべき言葉を知らないことがこのようであるのは、まことに学がなかったせいである。昔の人が「母が早く死ぬのを願って悲しく泣く」とそしったのを見ていれば、この言葉は出なかったはずだ。孝は百の行いの第一であるのに、なお学んで整えなければならない。まして他のことはどうであろうか。
14疥で拳も握れぬまま一日二十巻を読んだ元帝
梁元帝嘗爲吾説:「昔在會稽,年始十二,便已好學。時又患疥,手不得拳,膝不得屈。閒齋張葛幃避蠅獨坐,銀甌貯山陰甜酒,時復進之,以自寬痛。率意自讀史書,一日二十卷,既未師受,或不識一字,或不解一語,要自重之,不知厭倦。」帝子之尊,童稚之逸,尚能如此,況其庶士,冀以自達者哉?
梁の元帝がかつて私に語った。「昔、会稽にいたとき、年はまだ十二だったが、もう学ぶのが好きだった。そのころまた疥を患って、手は拳を握れず、膝は曲げられなかった。静かな書斎に葛の帳を張って蠅を避け、独り座って、銀の鉢に山陰の甘酒を入れておいて、ときどき飲んで痛みを和らげ、心の向くままに史書を読んで、一日に二十巻だった。師に受けていなかったので、一字がわからないことも、一句が解けないこともあったが、自分でそれを大事にして、飽きることを知らなかった。」帝の子として尊く、幼子として遊んでいてよい身でありながら、なおこのようであった。まして自分の力で立とうと願う普通の士はどうであろうか。
15荻を燃やして夜に読み、紙を飲んで腹を満たし
古人勤學,有握錐投斧,照雪聚螢,鋤則帶經,牧則編簡,亦爲勤篤。梁世彭城劉綺,交州刺史勃之孫,早孤家貧,燈燭難辦,常買荻尺寸折之,然明夜讀。孝元初出會稽,精選寮寀,綺以才華,爲國常侍兼記室,殊蒙禮遇,終於金紫光祿。義陽朱詹,世居江陵,後出揚都,好學,家貧無資,累日不爨,乃時吞紙以實腹。寒無氈被,抱犬而臥。犬亦飢虛,起行盜食,呼之不至,哀聲動鄰,猶不廢業,卒成學士,官至鎮南錄事參軍,爲孝元所禮。此乃不可爲之事,亦是勤學之一人。東莞臧逢世,年二十餘,欲讀班固漢書,苦假借不久,乃就姊夫劉緩乞丐客刺書翰紙末,手寫一本,軍府服其志尚,卒以漢書聞。
昔の人の勤学には、錐を握り斧を投げ、雪の光に照らし蛍を集め、鋤を取るときも経書を帯び、牧をするときも竹簡を編んだ者がいて、これもまた勤め篤いことである。梁の彭城の劉綺は交州刺史劉勃の孫で、早く父を失い家が貧しく、灯りを用意するのが難しかったので、いつも荻を買って一寸ずつ折り、火をつけて夜に読んだ。孝元帝がはじめて会稽に出たとき属僚を精選したが、劉綺は才によって国常侍兼記室となり、とりわけ礼遇を受け、金紫光禄で生涯を終えた。義陽の朱詹は代々江陵に住み、のちに揚都に出てきた。学を好んだが家が貧しく元手がなく、何日も炊事ができないときは、ときおり紙を飲み込んで腹を満たした。寒くても毛氈も布団もないので、犬を抱いて寝た。犬も飢えて、起きて食べ物を盗みに出て、呼んでも来なかったので、その哀れな声が隣にまで届いたが、それでも学業をやめず、ついに学士となり、官は鎮南録事参軍に至って、孝元帝の礼遇を受けた。これはまねのできないことだが、やはり勤学の一人である。東莞の臧逢世は、年二十あまりで班固の『漢書』を読もうとしたが、借りたものを長く置けないのがつらく、姉婿の劉緩のもとへ行って、客の名刺や書状の紙の余った端をもらい、自分の手で一部を写した。軍府ではその志を仰ぎ、ついに『漢書』で名が知られた。
16手足を断たれても主君の行方を言わなかった宦官の田鵬鸞
齊有宦者內參田鵬鸞,本蠻人也。年十四五,初爲閽寺,便知好學,懷袖握書,曉夕諷誦。所居卑末,使彼苦辛,時伺閒隙,周章詢請。每至文林館,氣喘汗流,問書之外,不暇他語。及睹古人節義之事,未嘗不感激沈吟久之。吾甚憐愛,倍加開獎。後被賞遇,賜名敬宣,位至侍中開府。後主之奔青州,遣其西出,參伺動靜,爲周軍所獲。問齊主何在,紿云:「已去,計當出境。」疑其不信,歐捶服之,每折一支,辭色愈厲,竟斷四體而卒。蠻夷童丱,猶能以學成忠,齊之將相,比敬宣之奴不若也。
斉に宦官の内参、田鵬鸞という者がいた。もともと蠻の人であった。十四、五で初めて門番となったときから学ぶことを好み、袖に書を抱いて朝夕に暗誦した。身分が低くてひどく使われたが、ときどき隙を見ては、あちこちで尋ね回った。文林館に来るたびに、息を切らし汗を流して、書のことを尋ねるほかは、ほかの話をする暇もなかった。昔の人の節義の話を見ると、感激して長く口の中で繰り返さないことがなかった。私はひどく愛しんで、倍して開き導いた。のちに賞を受けて敬宣という名を賜り、位は侍中開府に至った。後主が青州へ逃げるとき、彼を西へ遣わして動きを探らせたが、周の軍に捕らえられた。斉の主はどこにいるかと問われると、偽って「もうお立ちになった。おそらく国境を越えておられよう」と言った。信じられないと疑って、打ち叩いて屈服させようとしたが、手足を一本折るたびに言葉も顔つきもいよいよ激しくなり、ついに四肢をすべて断たれて死んだ。蠻夷の童でも、学によって忠を成すことができたのに、斉の将や相は、敬宣の召使いにも及ばなかった。
17「子は養うことを心とし、父は学ぶことを教えとする」
鄴平之後,見徙入關。思魯嘗謂吾曰:「朝無祿位,家無積財,當肆筋力,以申供養。每被課篤,勤勞經史,未知爲子,可得安乎?」吾命之曰:「子當以養爲心,父當以學爲教。使汝棄學徇財,豐吾衣食,食之安得甘?衣之安得暖?若務先王之道,紹家世之,藜羹縕褐,我自欲之。」
鄴が平らげられた後、関中へ移された。思魯がかつて私に言った。「朝廷に禄も位もなく、家に蓄えた財もありません。当然、力を尽くして養いを果たすべきです。それなのにいつも篤く学べと急かされます。経や史に勤め励みながら、子としてどうして安らかでいられましょうか。」私は彼に言い渡した。「子は養うことを心とすべきであり、父は学ぶことを教えとすべきである。お前に学を捨てて財を追わせ、私の衣食を豊かにさせたとして、食べてどうしてうまかろう、着てどうして暖かかろう。先王の道に努めて家の業を継いでくれるなら、藜の汁と古い布子でも、私は自分から望むところだ。」
18「孟勞」を人の名と思い、「蹲鴟」を羊と思い
書曰:「好問則裕。」禮云:「獨學而無友,則孤陋而寡聞。」蓋須切磋相起明也。見有閉門讀書,師心自是,稠人廣坐,謬誤差失者多矣。穀梁傳稱公子友與莒挐相搏,左右呼曰「孟勞」。「孟勞」者,魯之寶刀名,亦見廣雅。近在齊時,有姜仲岳謂:「『孟勞』者,公子左右,姓孟名勞,多力之人,爲國所寶。」與吾苦諍。時清河郡守邢峙,當世碩儒,助吾證之,赧然而伏。又三輔決錄云:「靈帝殿柱題曰:『堂堂乎張,京兆田郎。』」蓋引論語,偶以四言,目京兆人田鳳也。有一才士,乃言:「時張京兆及田郎二人皆堂堂耳。」聞吾此説,初大驚駭,其後尋媿悔焉。江南有一權貴,讀誤本蜀都賦注,解「蹲鴟,芋也」,乃爲「羊」字;人饋羊肉,答書云:「損惠蹲鴟。」舉朝驚駭,不解事義,久後尋迹,方知如此。元氏之世,在洛京時,有一才學重臣,新得史記音,而頗紕繆,誤反「顓頊」字,頊當爲許錄反,錯作許緣反,遂謂朝士言:「從來謬音『專旭』,當音『專翾』耳。」此人先有高名,翕然信行;期年之後,更有碩儒,苦相究討,方知誤焉。漢書王莽贊云:「紫色蛙聲,餘分閏位。」謂以偽亂真耳。昔吾嘗共人談書,言及王莽形狀,有一俊士,自許史學,名價甚高,乃云:「王莽非直鴟目虎吻,亦紫色蛙聲。」又禮樂志云:「給太官挏馬酒。」李奇注:「以馬乳爲酒也,揰挏乃成。」二字並從手。揰挏,此謂撞搗挺挏之,今爲酪酒亦然。向學士又以爲種桐時,太官釀馬酒乃熟。其孤陋遂至於此。太山羊肅,亦稱學問,讀潘岳賦:「周文弱枝之棗」,爲杖策之杖;世本:「容成造歷。」以歷爲碓磨之磨。
『書経』に「問うことを好めば豊かになる」とあり、『礼記』に「独りで学んで友がなければ、固く狭く、聞くことが少ない」とある。おおむね磨き合って互いに気づかせるべきなのである。門を閉じて書を読み、自分の心を師として自分が正しいとして、多くの人の前で誤り外す者を、よく見てきた。『穀梁伝』に、公子友が莒挐と組み合ったとき、左右の者が「孟勞」と呼んだとある。孟勞とは魯の宝刀の名であり、『広雅』にも見える。近ごろ斉にいたとき、姜仲岳が「孟勞とは公子の左右の者で、姓が孟、名が勞という力の強い人で、国が宝としたのだ」と言って、私と懸命に争った。そのとき清河郡守の邢峙が当代の大儒で、私を助けて証したので、顔を赤らめて折れた。また『三輔決録』に「霊帝が殿の柱に『堂堂たり張よ、京兆の田郎よ』と書いた」とある。これは『論語』を引いて四言に合わせ、京兆の人田鳳を指したものである。ある才士が「そのとき張京兆と田郎の二人がどちらも堂堂としていたのだ」と言い、私のこの説を聞いて、はじめはひどく驚いたが、その後すぐに恥じて悔いた。江南のある権家は、誤った版本の「蜀都賦」の注を読み、「蹲鴟は芋である」を「羊」の字と解した。人が羊の肉を贈ってくると、返書に「蹲鴟を賜りありがとうございます」と書いた。朝廷中が驚いて、何の意味かわからず、ずっと後になって跡をたどって、はじめてそうだと知った。元氏の世、洛陽にいたころ、才と学のある重臣が一人、新しく『史記音』を手に入れたが、かなり誤りが多く、「顓頊」の字の反切が間違っていた。頊は許と録の反切であるべきなのに、許と縁の反切と誤っていたので、ついに朝廷の士たちに「これまで『専旭』と誤って読んでいた。『専翾』と読むべきだ」と言った。この人はもとから名が高かったので、みな信じて従ったが、一年後に別の大儒が出て懸命に調べ、はじめて誤りだとわかった。『漢書』の王莽の賛に「紫色と蛙の声、余った分の閏の位」とある。偽りで真を乱したという意味である。昔、私が人と書の話をして、王莽の姿に話が及んだとき、自ら史学を自負して名の高いある俊才が「王莽は鴟の目と虎の口であっただけでなく、紫の色に蛙の声だった」と言った。また「礼楽志」に「太官に挏馬酒を供する」とあり、李奇の注に「馬の乳で酒を作るので、揺り動かしてできる」とある。この二字はどちらも手偏である。揰挏とは、突き搗き揺り動かすことをいい、今、酪酒を作るのもそうである。先に言った学士は、また桐を植えるころになると太官の馬酒が熟すのだと思った。その固く狭いことが、ついにここに至った。太山の羊肅も学問があると言われたが、潘岳の賦の「周文の弱枝の棗」を杖策の杖と読み、『世本』の「容成が歴を造った」を碓磨の磨と読んだ。
19耳で学んだ過ち — 「呉台の鵲」と「長安の薺」
談説制文,援引古昔,必須眼學,勿信耳受。江南閭里閒,士大夫或不學問,羞爲鄙朴,道聽塗説,強事飾辭:呼征質爲周、鄭,謂霍亂爲博陸,上荊州必稱陝西,下揚都言去海郡,言食則餬口,道錢則孔方,問移則楚丘,論婚則宴爾,及王則無不仲宣,語劉則無不公幹。凡有一二百件,傳相祖述,尋問莫知原由,施安時復失所。莊生有乘時鵲起之説,故謝朓詩曰:「鵲起登吳台。」吾有一親表,作七夕詩云:「今夜吳台鵲,亦共往填河。」羅浮山記云:「望平地樹如薺。」故戴暠詩云:「長安樹如薺。」又鄴下有一人詠樹詩云:「遙望長安薺。」又嘗見謂矜誕爲誇毗,呼高年爲富有春秋,皆耳學之過也。
話をし文を作るときに昔のことを引くなら、必ず目で学んだものでなければならず、耳で受けたものを信じてはならない。江南の村里では、士大夫が学問をしないまま、野卑だと言われるのを恥じて、道で聞いたことを口にし、無理に言葉を飾る。征質を周・鄭と言い、霍乱を博陸と言い、荊州へ上れば必ず陝西と呼び、揚都へ下れば海郡へ行くと言い、食べることを言えば餬口、銭を言えば孔方、引っ越しを問えば楚丘、婚姻を論じれば宴爾、王氏といえば仲宣でない者はなく、劉氏といえば公幹でない者はない。こういうものが百、二百もあって、互いに受け継いで真似るので、わけを尋ねれば誰も知らず、使う場もときに外れる。荘子に時に乗じて鵲のように起こるという言葉があり、それで謝朓の詩に「鵲起ちて呉台に登る」とある。ところが私の親類の一人が七夕の詩を作って「今宵の呉台の鵲も、ともに行って河を埋めるだろう」と書いた。『羅浮山記』に「平地を望めば樹が薺のようだ」とあり、それで戴暠の詩に「長安の樹は薺のようだ」とある。ところが鄴のある人が樹を詠んだ詩に「遥かに長安の薺を望む」と書いた。また、驕り誇ることを誇毗と言い、年の多い人を「春秋に富む」と言うのを見たことがある。どれも耳で学んだ過ちである。
20文字は書物の根本
夫文字者,墳籍根本。世之學徒,多不曉字:讀五經者,是徐邈而非許慎;習賦誦者,信褚詮而忽呂忱;明史記者,專徐、鄒而廢篆籀;學漢書者,悅應、蘇而略蒼、雅。不知書音是其枝葉,小學乃其宗系。至見服虔、張揖音義則貴之,得通俗、廣雅而不屑。一手之中,向背如此,況異代各人乎?
文字とは古い書物の根本である。世の学ぶ者たちは、字を知らない者が多い。五経を読む者は徐邈を正しいとして許慎を誤りとし、賦や誦を習う者は褚詮を信じて呂忱をおろそかにし、『史記』に明るい者は徐広・鄒誕生ばかりを専らにして篆書・籀文を捨て、『漢書』を学ぶ者は応劭・蘇林を喜んで『蒼頡』『爾雅』を軽んじる。書の音はその枝や葉であり、小学こそその根であることを知らないのである。あげて服虔・張揖の音義は見れば貴びながら、『通俗文』『広雅』を手に入れても見向きもしない。一人の手の中でさえ背くか向くかがこうなのだから、まして時代も人も違えばどうであろうか。
21自分の名の字も知らない名高い儒者
夫學者貴能博聞也。郡國山川,官位姓族,衣服飲食,器皿制度,皆欲根尋,得其原本;至於文字,忽不經懷,己身姓名,或多乖舛,縱得不誤,亦未知所由。近世有人爲子制名:兄弟皆山傍立字,而有名峙者;兄弟皆手傍立字,而有名機者;兄弟皆水傍立字,而有名凝者。名儒碩學,此例甚多。若有知吾鍾之不調,一何可笑。
学ぶ者は広く聞くことを貴ぶ。郡国や山川、官位や姓氏、衣服や飲食、器や制度を、どれも根まで探ってその本を得ようとしながら、文字になると急に心に留めず、自分の姓名さえときに外れており、外れていなくてもその由来を知らない。近い世にある人が子の名をつけたとき、兄弟はみな山偏の字なのに峙と名づけた者があり、兄弟はみな手偏の字なのに機と名づけた者があり、兄弟はみな水偏の字なのに凝と名づけた者があった。名のある儒者や大学者にも、この類の例はとても多い。私の鐘が調っていないのを知る人がいたら、どれほど笑われることだろう。
22獵閭村と亢仇城の古い名を『字林』と『韻集』で見つける
吾嘗從齊主幸幷州,自井陘關入上艾縣,東數十里,有獵閭村。後百官受馬糧在晉陽東百餘里亢仇城側。並不識二所本是何地,博求古今,皆未能曉。及檢字林、韻集,乃知獵閭是舊躐□〔足改谷〕餘聚,亢仇舊是□〔谷曼〕□〔谷九〕亭,悉屬上艾。時太原王劭欲撰鄉邑記注,因此二名聞之,大喜。
私はかつて斉の主に従って并州に行った。井陘関から上艾県に入り、東へ数十里のところに獵閭村があった。のちに百官が馬の飼料を受け取ったのは、晋陽の東百余里の亢仇城のそばであった。その二か所がもともとどこの地なのかわからず、古今の書を広く探ったが、どれもわからなかった。『字林』と『韻集』を調べてみて、はじめて獵閭が昔の躐□〔足改谷〕餘聚であり、亢仇が昔の□〔谷曼〕□〔谷九〕亭で、どちらも上艾に属していたことがわかった。そのころ太原の王劭が郷里の記注を編もうとしていて、この二つの名を聞いて、大いに喜んだ。
23「螝」の字を何年もかけて解く
吾初讀莊子「螝二首」,韓非子曰:「蟲有螝者,一身兩口,争食相齕,遂相殺也」,茫然不識此字何音,逢人輒問,了無解者。案:爾雅諸書,蠶蛹名螝,又非二首兩口貪害之物。後見古今字詁,此亦古之虺字,積年凝滯,豁然霧解。
私がはじめて『荘子』の「螝は首が二つ」と、『韓非子』の「虫に螝というものがあり、一つの体に口が二つあって、餌を争って互いに噬み、ついに殺し合う」を読んだとき、この字の音が何かまるでわからず、人に会うたびに尋ねたが、知る者はまったくいなかった。調べてみると、『爾雅』などの諸書では蚕の蛹を螝といい、首二つ口二つの貪り害する生き物ではない。のちに『古今字詁』を見ると、これもまた古い虺の字であった。何年も詰まっていたものが、霧が晴れるように明らかになった。
24柏人城の北の名もない流れ
嘗遊趙州,見柏人城北有一小水,土人亦不知名。後讀城西門徐整碑云:「□〔水百〕流東指。」眾皆不識。吾案説文,此字古魄字也,□〔水百〕,淺水貌。此水漢來本無名矣,直以淺貌目之,或當即以□〔水百〕爲名乎?
かつて趙州に遊んだとき、柏人城の北に小さな流れがあるのを見たが、その土地の人も名を知らなかった。のちに城の西門の徐整の碑を読むと「□〔水百〕の流れが東を指す」とあり、誰もわからなかった。私が『説文』を調べると、この字は古い魄の字であり、□〔水百〕は浅い水の様子である。この流れは漢以来もとから名がなく、ただ浅い様子でそう呼んだのだから、おそらくそのまま□〔水百〕を名としたのではなかろうか。
25手紙の末の「勿勿」
世中書翰,多稱勿勿,相承如此,不知所由,或有妄言此忽忽之殘缺耳。案:説文:「勿者,州里所建之旗也,象其柄及三斿之形,所以趣民事。故忽遽者稱爲勿勿。」
世の手紙によく「勿勿」と書くが、互いに受け継いでこうしながら、その由来を知らず、中にはこれが「忽忽」の欠け落ちた形だといい加減に言う者もある。調べてみると『説文』に「勿は州里で立てる旗であり、その柄と三つの吹き流しの形をかたどったもので、民の仕事を促すためのものである。だから忙しく急ぐことを勿勿という」とある。
26「豆逼」 — 蜀の地で小豆の粒を呼ぶ言葉
吾在益州,與數人同坐,初晴日晃,見地上小光,問左右:「此是何物?」有一蜀豎就視,答云:「是豆逼耳。」相顧愕然,不知所謂。命取將來,乃小豆也。窮訪蜀士,呼粒爲逼,時莫之解。吾云:「三蒼、説文,此字白下爲匕,皆訓粒,通俗文音方力反。」眾皆歡悟。
私が益州にいたとき、数人と座っていた。晴れたばかりの日の光に、地面の上に小さな光が見えたので、左右に「これは何だ」と尋ねた。蜀の地の少年が一人、行って見て「豆逼です」と答えた。みな顔を見合わせて驚き、何のことかわからなかった。持って来させると、小豆であった。蜀の士たちに広く尋ねると、粒を逼と呼ぶのだが、当時誰もそのわけを解けなかった。私は「『三蒼』と『説文』では、この字は白の下に匕を書き、どちらも粒と訓じている。『通俗文』では方と力の反切で読む」と言うと、みな喜んで納得した。
27鶡と呼ばれていた青い鳥
愍楚友婿竇如同從河州來,得一青鳥,馴養愛翫,舉俗呼之爲鶡。吾曰:「鶡出上黨,數曾見之,色並黃黑,無駁雜也。故陳思王鶡賦云:『揚玄黃之勁羽。』」試檢説文:「□〔介鳥〕雀似鶡而青,出羌中。」韻集音介。此疑頓釋。
愍楚の妻の姉妹の夫、竇如同が河州から来るとき、青い鳥を一羽手に入れ、慣らして飼い可愛がっていた。土地の者はみなそれを鶡と呼んだ。私は言った。「鶡は上党に出るもので、何度も見たことがある。色はどれも黄と黒で、斑はない。だから陳思王の『鶡賦』に『黒と黄の強い羽を広げる』とある。」試しに『説文』を調べると「□〔介鳥〕雀は鶡に似て青く、羌の地に出る」とあり、『韻集』では音を介としていた。この疑いは一度に解けた。
28蓴を露葵と呼んだ人たち
梁世有蔡朗者諱純,既不涉學,遂呼蓴爲露葵。面牆之徒,遞相仿效。承聖中,遣一士大夫聘齊,齊主客郎李恕問梁使曰:「江南有露葵否?」答曰:「露葵是蓴,水鄉所出。卿今食者綠葵菜耳。」李亦學問,但不測彼之深淺,乍聞無以核究。
梁に蔡朗という者がいて、純を諱んでいた。学に手をつけていなかったので、ついに蓴を露葵と呼んだ。壁に向かっている連中が互いにそれを真似た。承聖のころ、ある士大夫を斉に使いとして送ったところ、斉の主客郎の李恕が梁の使いに「江南に露葵はありますか」と尋ねた。使いは「露葵は蓴で、水辺の郷に出ます。あなたが今召し上がっているのは青い葵にすぎません」と答えた。李恕も学問はしていたが、相手の深浅を測れず、不意に聞いて調べ詰めることができなかった。
29諮議の名と音が同じ字が五十あまり
思魯等姨夫彭城劉靈,嘗與吾坐,諸子侍焉。吾問儒行、敏行曰:「凡字與諮議名同音者,其數多少,能盡識乎?」答曰:「未之究也,請導示之。」吾曰:「凡如此例,不預研檢,忽見不識,誤以問人,反爲無賴所欺,不容易也。」因爲説之,得五十許字。諸劉嘆曰:「不意乃爾!」若遂不知,亦爲異事。
思魯たちの母の姉妹の夫、彭城の劉霊が、かつて私と座っていて、その子たちが傍に控えていた。私は儒行と敏行に「諮議の名と音が同じ字が、どれだけあるか、すべてわかるか」と尋ねた。「まだ調べておりません。お教えください」と答えた。私は「こういう例を前もって調べておかないと、ふと見てもわからず、人に誤って尋ねて、かえって無頼の者に欺かれる。易しいことではない」と言って、続けて話してやると、五十字あまりが出た。劉の人たちは「こんなにあるとは思いませんでした」と嘆いた。そのまま知らないままだったら、これもまた変なことであった。
30書を校定する仕事はむやみにできない
校定書籍,亦何容易,自揚雄、劉向,方稱此職耳。觀天下書未遍,不得妄下雌黃。或彼以爲非,此以爲是;或本同末異;或兩文皆欠,不可偏信一隅也。
書籍を校定するのが、どうして易しいことだろうか。揚雄や劉向になって、はじめてこの職と言えたにすぎない。天下の書をひととおり見ていないうちは、むやみに雌黄を当ててはならない。あちらが誤りとし、こちらが正しいとすることもあり、本は同じで末が違うこともあり、二つの文がどちらも欠けていることもあるから、片隅だけを偏って信じてはならない。