いにしえの文 › 仏国記(仏の国々をめぐる記) › 全一巻

長安を発ち沙漠を越える

仏国記(仏の国々をめぐる記) 佛國記 · 法顕 · 東晋・義熙年間(416年頃) · 段落 10 · 漢字 487字 · 朗読 1.9分

仏国記(仏の国々をめぐる記) 全一巻 六十五歳の僧・法顕が戒律を求めて長安を離れ、砂漠と葱嶺を越えて天竺まで行き、獅子国を経て海路で帰ってきた十五年の記録。訪ねた国は三十。韓国・中国・日本が互いを書き記していた時代に、東アジアの人がインドを自らの目で見て残した最も早い紀行文である。

1律蔵を求めて旅立つ

法顯昔在長安,慨律藏殘缺,於是遂以弘始二年歲在己亥,與慧景、道整、慧應、慧嵬等同契,至天竺尋求戒律。

法顕はかつて長安にいたとき、律蔵が欠け損じていることを嘆いた。そこで弘始二年、己亥の年に、慧景・道整・慧応・慧嵬らと志を同じくし、天竺に赴いて戒律を求めてくることにした。

2隴を越えて乾帰国へ

初發跡長安,度隴,至乾歸國夏坐。

はじめて長安を発ち、隴を越えて乾帰国に至り、夏の安居を過ごした。

3耨檀国

夏坐訖,前行至耨檀國。

安居を終えて先へ進み、耨檀国に至った。

4張掖で道連れに出会う

度養樓山,至張掖鎮。張掖大亂,道路不通。張掖王殷勤遂留爲作檀越。於是與智嚴、慧簡、僧紹、寶雲、僧景等相遇,欣於同志,便共夏坐。

養楼山を越えて張掖鎮に至った。張掖は大いに乱れて道が通じなかったが、張掖王が懇ろに引き止め、施主となってくれた。そこで智厳・慧簡・僧紹・宝雲・僧景らと出会い、志を同じくすることを喜んで、ともに夏の安居を過ごした。

5敦煌 — 沙河を渡る前に

夏坐訖,復進到燉煌。有塞,東西可八十里,南北四十里。共停一月餘日。法顯等五人隨使先發,復與寶雲等別。燉煌太守李暠供給度沙河。

安居を終えてさらに進み、敦煌に至った。砦があり、東西は八十里ほど、南北は四十里ほどである。ともに一月あまりとどまった。法顕ら五人は使者に従って先に出発し、宝雲らとまた別れた。敦煌の太守李暠が物資を供給して、沙河を渡らせてくれた。

6沙河 — 死人の骨が道しるべ

沙河中多有惡鬼、熱風,遇則皆死,無一全者。上無飛鳥,下無走獸。遍望極目,欲求度處,則莫知所擬,唯以死人枯骨爲標識耳。

沙河には悪鬼と熱風が多く、これに遭えば皆死んで、一人も無事な者はない。上には飛ぶ鳥がなく、下には走る獣がない。目の届くかぎり見わたしても、渡る所を求めようとすれば見当のつくところがなく、ただ死人の枯れた骨を目印とするばかりである。

7鄯鄯国

行十七日,計可千五百里,得至鄯鄯國。其地崎嶇薄瘠。俗人衣服粗與漢地同,但以氈褐爲異。其國王奉法。可有四千餘僧,悉小乘學。諸國俗人及沙門盡行天竺法,但有精麁。從此西行,所經諸國類皆如是。唯國國胡語不同,然出家人皆習天竺書、天竺語。住此一月日。

十七日歩いて、およそ千五百里の道を経て、鄯鄯国に至った。その地は険しく、やせて乏しい。俗人の衣服はおおむね漢の地と同じだが、毛織と粗布を用いるところが違う。その国王は仏法を奉じている。僧は四千人あまりおり、みな小乗を学ぶ。諸国の俗人も沙門も、ことごとく天竺の法を行っているが、精しいものと粗いものの差があるだけである。ここから西へ行くあいだに通った国々は、おおむねみなこのようであった。ただ国ごとに胡語が異なるけれども、出家した者はみな天竺の書と天竺の言葉を習っている。ここに一月とどまった。

8焉夷国

復西北行十五日,到焉夷國。焉夷國僧亦有四千餘人,皆小乘學,法則齊整。秦土沙門至彼都,不預其僧例。法顯得苻行當公孫經理,住二月餘日。於是還與寶雲等共。

さらに西北へ十五日行って、焉夷国に至った。焉夷国にも僧が四千人あまりおり、みな小乗を学んで、法度が整っている。秦の地の沙門がそこに至っても、その僧団の例には加えてもらえなかった。法顕は苻公孫の世話を得て、二月あまりとどまり、そこで宝雲らとまた合流した。

9三人が高昌へ引き返す

爲焉夷國人不修禮儀,遇客甚薄,智嚴、慧簡、慧嵬遂返向高昌,欲求行資。

焉夷国の人は礼儀を修めず、客をもてなすことが甚だ薄かったので、智厳・慧簡・慧嵬はついに高昌へ引き返し、旅の資を求めようとした。

10砂の道の苦しみ

法顯等蒙苻公孫供給,遂得直進。西南行,路中無居民,沙行艱難,所經之苦,人理莫比。

法顕らは苻公孫の供給を受けたおかげで、そのまま進むことができた。西南へ行く道には住む人がなく、砂の道は険しく難しく、経てきた苦しみは人の世の事で比べられるものがなかった。