いにしえの文 › 北史 四夷伝(北史に記された四方の異民族の記録) › 全一巻

高句麗高麗

北史 四夷伝(北史に記された四方の異民族の記録) 北史 四夷傳 · 李延寿 · 659年(唐・顕慶4年) · 段落 23 · 漢字 3,818字 · 朗読 15.3分

北史 四夷伝(北史に記された四方の異民族の記録) 全一巻 北朝の四王朝が見た東方。卵から生まれた朱蒙神話の完全な姿、長寿王百年の外交(婚姻の話と娘の死)、蓋鹵王の表文、そして勿吉・契丹・室韋・流求・倭まで十四の枝 — 隋の煬帝の滅亡を「徳を広げる者は栄え、土地を広げる者は滅びる」と結んでいる。

1卵から生まれた朱蒙

高句麗,其先出夫餘。王嘗得河伯女,因閉於室內,爲日所照,引身避之,日影又逐,既而有孕,生一卵,大如五升。夫餘王棄之與犬,犬不食;與豕,豕不食;棄于路,牛馬避之;棄於野,衆鳥以毛茹之。王剖之不能破,遂還其母。母以物裹置暖處,有一男破而出。及長,字之曰朱蒙。其俗言「朱蒙」者,善射也。夫餘人以朱蒙非人所生,請除之。王不聽,命之養馬。朱蒙私試,知有善惡,駿者減食令瘦,駑者善養令肥。夫餘王以肥者自乘,以瘦者給朱蒙。後狩于田,以朱蒙善射,給之一矢。朱蒙雖一矢,殪獸甚多。夫餘之臣,又謀殺之,其母以告朱蒙,朱蒙乃與焉違等二人東南走。中道遇一大水,欲濟無樑。夫餘人追之甚急,朱蒙告水曰:「我是日子,河伯外孫,今追兵垂及,如何得濟?」於是魚鱉爲之成橋,朱蒙得度。魚鱉乃解,追騎不度。朱蒙遂至普述水,遇見三人,一著麻衣,一著衲衣,一著水藻衣,與朱蒙至紇升骨城,遂居焉。號曰高句麗,因以高爲氏。其在夫餘妻懷孕,朱蒙逃後,生子始閭諧。及長,知朱蒙爲國王,即與母亡歸之。名曰閭達,委之國事。

高句麗は、その先祖は夫余から出た。夫余の王がかつて河伯の娘を得て室内に閉じこめたところ、日の光が差したので身を引いて避けたが、日の影がまた追ってきた。やがて身ごもり、卵を一つ産んだが、大きさは五升ほどであった。夫余の王はこれを犬に捨てたが犬は食わず、豚に与えたが豚も食わず、道に捨てると牛や馬が避け、野に捨てると多くの鳥が羽毛で包んだ。王は割ろうとしたが破れず、ついにその母に返した。母が物で包んで暖かい所に置くと、一人の男の子が殻を破って出てきた。成長すると字を朱蒙とつけた。その国の言葉で「朱蒙」とは、弓の上手な者という意味である。夫余の人々は、朱蒙は人の生んだ者ではないとして除くことを願ったが、王は聞かず、馬を飼わせた。朱蒙はひそかに試して馬の良し悪しを知り、駿馬は餌を減らして痩せさせ、鈍い馬はよく飼って肥らせた。夫余の王は肥えた馬に自分が乗り、痩せた馬を朱蒙に与えた。のちに野で狩りをするとき、朱蒙は弓が上手だというので矢を一本だけ与えた。朱蒙は矢一本でも、倒した獣がはなはだ多かった。夫余の臣たちがまた殺すことを謀ったので、その母が朱蒙に告げた。そこで朱蒙は焉違ら二人とともに東南へ逃げた。途中で大きな川に出会い、渡ろうとしたが橋がなく、夫余の人の追撃はひどく急であった。朱蒙は川に告げて言った。「私は日の子であり、河伯の外孫である。今、追う兵が迫っているが、どうすれば渡れようか。」すると魚と亀が橋をなし、朱蒙は渡ることができた。魚と亀はすぐに散ったので、追う騎兵は渡れなかった。朱蒙はついに普述水に至り、三人に出会った。一人は麻の衣を着、一人は綴じ合わせた衣を着、一人は水草の衣を着ていた。彼らは朱蒙とともに紇升骨城に至り、そこに住みついた。国の名を高句麗と号し、それによって高を氏とした。夫余にいた妻は身ごもっていて、朱蒙が逃げたのちに子の始閭諧を産んだ。成長して朱蒙が国王になったことを知り、すぐに母とともに逃げ帰った。名を閭達といい、国事を委ねた。

2夫余を併せる

朱蒙死,子如栗立。如栗死,子莫來立,乃併夫餘。

朱蒙が死んで子の如栗が立ち、如栗が死んで子の莫来が立ち、そこで夫余を併せた。

3高句麗県と王莽

漢武帝元封四年,滅朝鮮,置玄菟郡,以高句麗爲縣以屬之。漢時賜衣幘朝服鼓吹,常從玄菟郡受之。後稍驕,不復詣郡,但於東界築小城受之,遂名此城爲幟溝漊。「溝漊婁」者,句麗「城」名也。王莽初,發高句麗兵以伐胡,而不欲行,莽強迫遣之,皆出塞爲寇盜。州郡歸咎于句麗侯騶,嚴尤誘而斬之。莽大悅,更名高句麗,高句麗侯。光武建武八年,高句麗遣使朝貢。

漢の武帝の元封四年、朝鮮を滅ぼして玄菟郡を置き、高句麗を県として玄菟郡に属させた。漢の時代には衣服・頭巾・朝服・鼓吹を賜わり、常に玄菟郡で受け取っていた。のちに次第に驕って、もう郡には出向かず、東の境に小城を築いてそこで受け取るようになり、ついにこの城を幟溝漊と名づけた。「溝漊」とは句麗の言葉で「城」のことである。王莽の初め、高句麗の兵を出して胡を討たせようとしたが、行こうとしなかった。莽が強いて派遣したところ、みな塞の外に出て盗賊となった。州郡はその罪を句麗侯の騶に帰し、厳尤が誘い出して斬った。莽は大いに喜び、高句麗の名を下句麗と改め、下句麗侯とした。光武帝の建武八年、高句麗は使いを遣わして朝貢した。

4宮が遼東を攻める

至殤、安之間,莫來裔孫宮,建寇遼東。玄菟太守蔡風討之,不能禁。

殤帝・安帝のころ、莫来の子孫の宮が、続けて遼東を侵した。玄菟太守の蔡風が討ったが、禁じることができなかった。

5伯固

宮死,子伯固立。順、和之間,復數犯遼東,寇抄。靈帝建寧二年,玄菟太守耿臨討之,斬首虜數百級,伯固乃降,屬遼東。公孫度之雄海東也,伯固與之通好。

宮が死んで子の伯固が立った。順帝・和帝のころ、再びしばしば遼東を侵して略奪した。霊帝の建寧二年、玄菟太守の耿臨が討って数百級の首を斬り、捕虜にすると、伯固は降伏して遼東に属した。公孫度が海東に雄を張ると、伯固は彼と好を通じた。

6伊夷摸の新しい国

伯固死,子伊夷摸立。伊夷摸自伯固時,已數寇遼東,又受亡胡五百餘戶。建安中,公孫康出軍擊之,破其國,焚燒邑落,降胡亦叛。伊夷摸更作新國。其後伊夷摸復擊玄菟,玄菟與遼東合擊,大破之。

伯固が死んで子の伊夷摸が立った。伊夷摸は伯固の時代からすでにしばしば遼東を侵し、また亡命してきた胡を五百余戸受け入れていた。建安年間、公孫康が軍を出して攻め、その国を破って邑落を焼き払ったので、降っていた胡も背いた。伊夷摸は改めて新しい国を作った。その後、伊夷摸はまた玄菟を攻めたが、玄菟は遼東と力を合わせて攻め、大いにこれを破った。

7毌丘倹が丸都を屠る

伊夷摸死,子位宮立。始位宮曾祖宮,生而目開能視,國人惡之。及長凶虐,國以殘破。及位宮亦生而視人,高麗呼相似爲“位”,以爲似其曾祖宮,故名位宮。位宮亦有勇力,便鞍馬,善射獵。魏景初二年,遣太傅、司馬宣王率衆討公孫文懿,位宮遣主簿、大加將數千人助軍。正始三年,位宮寇遼西安平。五年,幽州刺史毌丘儉將萬人出玄菟,討位宮,大戰於沸流。敗走,儉追至赬峴,懸車束馬登丸都山,屠其所都。位宮單將妻息遠竄。六年,儉復討之,位宮輕將諸加奔沃沮。儉使將軍王頎追之,絕沃沮千餘里,到肅慎南,刻石紀功。又刊丸都山、銘不耐城而還。其後,復通中夏。

伊夷摸が死んで子の位宮が立った。はじめ位宮の曽祖父の宮は、生まれながら目が開いて見ることができたので、国の人々はこれを憎んだ。成長すると凶暴で、国は荒れ破れた。位宮もまた生まれながらに人を見た。高麗では似ていることを「位」と呼ぶので、その曽祖父の宮に似ているとして位宮と名づけたのである。位宮も勇力があり、鞍馬に慣れ、弓と狩りが上手であった。魏の景初二年、太傅の司馬宣王が衆を率いて公孫文懿を討つと、位宮は主簿と大加に数千人を率いさせて軍を助けた。正始三年、位宮は遼西の安平を侵した。五年、幽州刺史の毌丘倹が一万人を率いて玄菟から出て位宮を討ち、沸流で大いに戦った。位宮は敗れて逃げ、倹は赬峴まで追い、車を吊り馬を束ねて丸都山に登り、その都を屠った。位宮はひとり妻子を連れて遠くへ逃れた。六年、倹が再び討つと、位宮は身軽に諸加を率いて沃沮へ逃げた。倹は将軍の王頎に追わせ、沃沮を千余里越えて肅慎の南に至り、石に刻んで功を記した。また丸都山に刻み、不耐城に銘して帰った。その後、再び中夏と通じた。

8乙弗利の侵入

晉永嘉之亂,鮮卑慕容廆據昌黎大棘城,元帝授平州刺史。位宮玄孫乙弗利頻寇遼東,廆不能制。

晋の永嘉の乱のとき、鮮卑の慕容廆が昌黎の大棘城に拠ったので、元帝は平州刺史を授けた。位宮の玄孫の乙弗利はしきりに遼東を侵したが、廆は抑えることができなかった。

9釗の災難

弗利死,子釗代立。魏建國四年,慕容廆子晃伐之,入自南陝,戰於木底,大破釗軍。追至丸都。釗單馬奔竄,晃掘釗父墓,掠其母妻、珍寶、男女五萬餘口,焚其室,毀丸都城而還。釗後爲百濟所殺。

弗利が死んで子の釗が代わって立った。魏の建国四年、慕容廆の子の晃がこれを討ち、南陝から入って木底で戦い、釗の軍を大いに破って丸都まで追った。釗は馬一頭で逃げ隠れた。晃は釗の父の墓を掘り、その母と妻、珍宝、男女五万余口を奪い、その宮室を焼き、丸都城を壊して帰った。釗はのちに百済に殺された。

10後燕と競う

及晉孝武太元十年,句麗攻遼東、玄菟郡。後燕慕容垂遣其弟農伐句麗,復二郡。垂子寶以句麗王安爲平州牧,封遼東、帶方二國王,始置長史、司馬、參軍官。後略有遼東郡。

晋の孝武帝の太元十年に至って、句麗が遼東・玄菟の二郡を攻めた。後燕の慕容垂は弟の農を遣わして句麗を討ち、二郡を回復した。垂の子の宝は、句麗王の安を平州牧とし、遼東・帯方の二国の王に封じ、はじめて長史・司馬・参軍の官を置いた。のちに遼東郡を領有した。

11璉と北魏

太武時,釗曾孫璉始遣使者詣安東,奉表貢方物,並請國諱。太武嘉其誠款,詔下帝系名諱于其國。使員外散騎侍郎李敖拜璉爲都督遼海諸軍事、征東將軍、領東夷中郎將、遼東郡公、高句麗王。敖至其所,居平壤城,訪其方事,云:去遼東南一千餘里,東至柵城,南至小海,北至舊夫餘,人戶參倍于前魏時。後貢使相尋。歲致黃金二百斤、白銀四百斤。時馮弘率衆奔之,太武遣散騎常侍封撥詔璉,令送弘。璉上書稱當與弘俱奉王化,竟不遣。太武怒,將往討之。樂平王丕等議等後舉,太武乃止。而弘亦壽爲璉所殺。

太武帝の時、釗の曽孫の璉がはじめて使者を安東に遣わし、上表して方物を貢ぎ、あわせて国の諱を請うた。太武帝はその誠意を嘉し、詔して皇室の系譜と名諱をその国に下した。員外散騎侍郎の李敖を遣わして、璉を都督遼海諸軍事・征東将軍・領東夷中郎将・遼東郡公・高句麗王に任じた。敖がその地に至ると、王は平壌城に居り、その国の様子を尋ねたところ、こう言った。遼東から南へ一千余里、東は柵城に至り、南は小海に至り、北は旧夫余に至る。人戸は前の魏の時の三倍である。その後、貢ぎの使いが相次ぎ、毎年黄金二百斤・白銀四百斤を納めた。そのころ馮弘が衆を率いて逃げ込んだので、太武帝は散騎常侍の封撥を遣わして璉に詔し、弘を送らせようとした。璉は上書して、弘とともに王の教化を奉ずるつもりだと称し、ついに送らなかった。太武帝は怒り、討ちに行こうとしたが、楽平王丕らが後日の挙を議したので、太武帝はやめた。弘もまた、ついに璉に殺された。

12縁談と娘の死

後文明太后以獻文六宮未備,敕璉令薦其女。璉奉表云:女已出,求以弟女應旨。朝廷許焉,乃遣安樂王真、尚書李敷等至境送幣。璉惑其左右之說,云朝廷昔與馮氏婚姻,未幾而滅其國。殷鑒不遠,宜以方便辭之。璉遂上書,妄稱女死。朝廷疑其矯拒,又遣假散騎常侍程駿切責之,若女審死,聽更選宗淑。璉云:「若天子恕其前愆,謹當奉詔。」會獻文崩,乃止。至孝文時,璉貢獻倍前,其報賜亦稍加焉。時光州於海中得璉遣詣齊使餘奴等,送闕。孝文詔責曰:「道成親殺其君,竊號江左,朕方欲興滅國於舊邦,繼絕世于劉氏。而卿越境外鄉,交通篡賊,豈是籓臣守節之義?今不以一過掩舊款,即送還籓。其感恕思愆,祗承明憲,輯寧所部,動靜以聞。」

のちに文明太后は、献文帝の六宮が整っていないとして、璉に勅してその娘を薦めさせた。璉は上表して、娘はすでに嫁いだので、弟の娘をもって御意に応えたいと申した。朝廷はこれを許し、安楽王真と尚書の李敷らを境に遣わして幣を送らせた。璉は左右の者の言に惑わされた。その言うところは、朝廷は昔、馮氏と婚姻を結び、いくらもたたぬうちにその国を滅ぼした、殷の鑑は遠くない、方便をもって断るべきだ、ということであった。そこで璉は上書して、娘が死んだと偽り称した。朝廷はその偽りの拒みを疑い、さらに仮散騎常侍の程駿を遣わして厳しく責め、娘が本当に死んだのなら、宗室の他の淑女を改めて選ぶことを許した。璉は「天子が前の過ちを恕してくださるなら、謹んで詔を奉ります」と言ったが、ちょうど献文帝が崩じたので、それでやめになった。孝文帝の時になると、璉の貢献は以前の倍となり、その返礼の賜与も次第に増した。そのころ光州が、璉が斉に遣わした使いの余奴らを海上で捕らえ、都へ送った。孝文帝は詔して責めた。「蕭道成はみずからその君を殺し、江南で号を盗んだ。朕はまさに滅びた国を旧の邦に興し、劉氏の絶えた世を継がせようとしているのに、卿は境を越えて外の郷と交わり、簒奪の賊と通じている。これがどうして籓臣が節を守る義であろうか。今、一つの過ちで旧来の誠意を覆い隠すことはせず、すぐに籓国へ送り還す。恕しに感じて過ちを思い、明らかな法をつつしんで承け、治める所を安らかにし、動きも静けさも奏上せよ。」

13百歳の王が死ぬ

太和十五年,璉死,年百餘歲。孝文舉哀於東郊,遣謁者僕射李安上策贈車騎大將軍、太傅、遼東郡公、高句麗王,諡曰康。又遣大鴻臚拜璉孫雲使持節、都督遼海諸軍事、征東將軍、領護東夷中郎將、遼東郡公、高句麗王。賜衣冠服物車旗之飾。又詔雲遣世子入朝,令及郊丘之禮。雲上書辭疾,遣其從叔升于隨使詣闕嚴責之,自此,歲常貢獻。正始中,宣武於東堂引見其使芮悉弗,進曰:「高麗系誠天極,累葉純誠,地產土毛,無愆王貢。但黃金出夫餘,珂則涉羅所產。今夫餘爲勿吉所逐,涉羅爲百濟所並。國王臣雲惟繼絕之義,悉遷於境內。二品所以不登王府,實兩賊之爲。」宣武曰:「高麗世荷上將,專制海外,九夷黠虜,實得征之。昔方貢之愆,責在連率。宜宣朕旨於卿主,務盡威懷之略,使二邑還復舊墟,土毛無失常貢也。」

太和十五年、璉が死んだ。年は百余歳であった。孝文帝は東郊で哀を挙げ、謁者僕射の李安上を遣わして策書によって車騎大将軍・太傅・遼東郡公・高句麗王を贈り、諡を康とした。また大鴻臚を遣わして、璉の孫の雲を使持節・都督遼海諸軍事・征東将軍・領護東夷中郎将・遼東郡公・高句麗王に任じ、衣冠・服飾・車・旗の飾りを賜わった。さらに詔して雲に世子を入朝させ、郊丘の礼に間に合わせるよう命じた。雲は上書して病と称し、従叔の升于を使いに随わせて闕に遣わしたので、厳しく責めた。これより毎年つねに貢献した。正始年間、宣武帝は東堂でその使いの芮悉弗を引見した。悉弗は進み出て言った。「高麗は誠を天の極みに繋ぎ、代々ひたすらな誠意をもって、土地の産物によって王への貢ぎを欠かしたことがありません。ただ黄金は夫余から出、珂は涉羅の産するものです。今、夫余は勿吉に追われ、涉羅は百済に併せられました。国王である臣の雲は、絶えたものを継ぐ義を思い、ことごとく境内に移しました。この二品が王府に上らないのは、まことに二つの賊のせいです。」宣武帝は言った。「高麗は代々上将の任を負い、海外を専ら制して、九夷のさかしい虜を実際に征することができてきた。先の貢ぎの欠けについては、責めは連率にある。朕の旨を卿の主に宣べ、威と懐けの策を尽くして、二つの邑を旧の地に復させ、土地の産物が常の貢ぎを失わぬようにせよ。」

14雲の死と世子の安

神龜中,雲死,靈太后爲舉哀於東堂。遣使策贈車騎大將軍、領護東夷校尉、遼東郡公、高麗王。又拜其世子安爲鎮東將軍、領護東夷校尉、遼東郡公、高麗王。正光初,光州又於海中執得梁所授安寧東將軍衣冠劍珮,及使人江法盛等,送京師。

神亀年間、雲が死んだので、霊太后は東堂で哀を挙げた。使いを遣わして策書により車騎大将軍・領護東夷校尉・遼東郡公・高麗王を贈った。またその世子の安を鎮東将軍・領護東夷校尉・遼東郡公・高麗王に任じた。正光の初め、光州はまた海上で、梁が安に授けた寧東将軍の衣冠・剣・珮と、使いの江法盛らを捕らえ、都へ送った。

15延

安死,子延立。孝武帝初,詔加延使持節、散騎常侍、車騎大將軍、領護東夷校尉、遼東郡公、高句麗王。天平中,詔加延侍中、驃騎大將軍,余悉如故。

安が死んで子の延が立った。孝武帝の初め、詔して延に使持節・散騎常侍・車騎大将軍・領護東夷校尉・遼東郡公・高句麗王を加えた。天平年間、詔して延に侍中・驃騎大将軍を加え、他はすべて元のままとした。

16崔柳が王を打つ

延死,子成立。訖于武定已來,其貢使無歲不至。大統十二年,遣使至西魏朝貢。及齊受東魏禪之歲,遣使朝貢于齊。齊文宣加成使持節、侍中、驃騎大將軍,領東夷校尉、遼東郡公、高麗王如故。天保三年,文宣至營州,使博陵崔柳使於高麗,求魏末流人。敕柳曰:「若不從者,以便宜從事。」及至,不見許。柳張目叱之,拳擊成墜於床下,成左右雀息不敢動,乃謝服,柳以五千戶反命。

延が死んで子の成が立った。武定年間の終わりまで、その貢ぎの使いが来ない年はなかった。大統十二年には使いを西魏に遣わして朝貢した。斉が東魏の禅譲を受けた年には、使いを遣わして斉に朝貢した。斉の文宣帝は成に使持節・侍中・驃騎大将軍を加え、領東夷校尉・遼東郡公・高麗王は元のままとした。天保三年、文宣帝は営州に至り、博陵の崔柳を高麗に使いさせ、魏の末の流民を求めさせた。柳に勅して「従わなければ、便宜に従って事を処せ」と言った。至って許されなかったので、柳は目を見張って叱り、拳で成を打ち、寝台の下に落とした。成の左右は息をひそめて動こうともせず、そこで謝って服した。柳は五千戸を連れて復命した。

17湯の冊封

成死,子湯立。乾明元年,齊廢帝以湯爲使持節、領東夷校尉、遼東郡公、高麗王。周建德六年,湯遣使至周,武帝以湯爲上開府儀同大將軍、遼東郡公、遼東王。隋文帝受禪,湯遣使詣闕,進授大將軍,改封高麗王。自是,歲遣使朝貢不絕。

成が死んで子の湯が立った。乾明元年、斉の廃帝は湯を使持節・領東夷校尉・遼東郡公・高麗王とした。周の建徳六年、湯が使いを周に遣わすと、武帝は湯を上開府儀同大将軍・遼東郡公・遼東王とした。隋の文帝が禅譲を受けると、湯は使いを闕に遣わしたので、大将軍に進めて授け、改めて高麗王に封じた。これより毎年使いを遣わして朝貢が絶えなかった。

18三つの都と諸城

其國,東至新羅,西度遼,二千里;南接百濟,北鄰靺鞨,一千餘里。人皆士著,隨山谷而居,衣布帛及皮。土田薄瘠,蠶農不足以自供,故其人節飲食。其王好修宮室,都平壤城,亦曰長安城,東西六里,隨山屈曲,南臨浿水。城內唯積倉儲器備,寇賊至日,方入固守。王別爲宅於其側,不常居之。其外復有國內城及漢城,亦別都也。其國中呼爲三京。復有遼東、玄菟等數十城,皆置官司以統攝。與新羅每相侵奪,戰爭不息。

その国は、東は新羅に至り、西は遼水を渡って二千里、南は百済に接し、北は靺鞨に隣して一千余里である。人はみな土着して、山や谷に沿って住み、布や絹と皮を着る。土地は薄く痩せていて、養蚕と農耕では自ら足りないので、その人々は飲食を節する。その王は宮室を飾ることを好む。都の平壌城は長安城ともいい、東西六里、山に沿って屈曲し、南は浿水に臨む。城内にはただ倉の蓄えと器物の備えを積み、敵や賊が来る日になってはじめて入って固く守る。王はその傍らに別に邸を構えたが、常には住まない。その外にさらに国内城と漢城があり、これもまた別の都であって、国中では三京と呼ぶ。さらに遼東・玄菟など数十の城があり、みな官司を置いて統べさせている。新羅といつも互いに侵し奪い合い、戦いが絶えない。

19官と税と遊び

官有大對盧、太大兄、大兄、小兄、竟侯奢、鳥拙、太大使者、大使者、小使者、褥奢、翳屬、仙人,凡十二等,分掌內外事。其大對盧則以強弱相陵奪而自爲之,不由王署置。復有內評、五部褥薩。人皆頭著折風,形如弁,士人加插二鳥羽。貴者,其冠曰蘇骨,多用紫羅爲之,飾以金銀。服大袖衫、大口袴、素皮帶、黃革履。婦人裙襦加襈。書有《五經》、《三史》、《三國志》、《晉陽秋》。兵器與中國略同。及春秋校獵,王親臨之。稅,布五疋、谷五石;遊人則三年一稅,十人共細布一疋。租,戶一石,次七斗,下五斗。其刑法,叛及謀逆者,縛之柱,爇而斬之,籍沒其家;盜則償十倍,若貧不能償者樂及公私債負,皆聽評其子女爲奴婢以償之。用刑既峻,罕有犯者。樂有五弦、琴、箏、篳篥、橫吹、簫、鼓之屬,吹蘆以和曲。每年初,聚戲浿水上,王乘腰輦、列羽儀觀之。事畢,王以衣入水,分爲左右二部,以水石相濺擲,喧呼馳逐,再三而止。

官には大対盧・太大兄・大兄・小兄・竟侯奢・鳥拙・太大使者・大使者・小使者・褥奢・翳属・仙人があり、全部で十二等級で、内外の事を分かち掌る。大対盧は強弱で互いに圧し奪って自らこれになるもので、王が任命するのではない。さらに内評と五部の褥薩がある。人はみな頭に折風をかぶり、形は弁に似ていて、士人は鳥の羽を二本挿し加える。貴い者の冠は蘇骨といい、多くは紫の羅で作り、金銀で飾る。袖の大きな衫、裾口の広い袴、白い皮の帯、黄色の革の靴を着ける。婦人は裙と襦に縁取りを加える。書には『五経』『三史』『三国志』『晋陽秋』がある。武器は中国とほぼ同じである。春と秋の狩りの集まりには、王が親しく臨む。税は布五疋と穀五石、遊人は三年に一度納め、十人で細布一疋を共にする。租は一戸あたり一石、次は七斗、下は五斗である。その刑法は、叛いた者と逆を謀った者は柱に縛り、焼いてから斬り、その家を籍没する。盗んだ者は十倍で償わせ、貧しくて償えない者や、公私の負債を負った者は、みなその子女を奴婢として評価し、それで償うことを許す。刑の用い方が峻しいので、犯す者はまれである。楽には五弦・琴・箏・篳篥・横吹・簫・鼓の類があり、蘆を吹いて曲を合わせる。毎年の初め、浿水のほとりに集まって遊び、王は腰輦に乗り、羽の儀仗を並べてこれを見る。事が終わると、王は衣のまま水に入り、左右の二組に分かれて、水と石を互いに撒き投げ、大声で呼びながら追いかけ合うことを二、三度して終わる。

20風俗

俗潔淨自喜,尚容止,以趨走爲敬。拜則曳一腳,立多反拱,行必插手。性多詭伏,言辭鄙穢,不簡親疏。父子同川而浴,共室而寢。好歌舞,常以十月祭天,其公會衣服,皆錦繡金銀以爲飾。好蹲踞,食用俎機。出三尺馬,云本朱蒙所乘馬種,即果下也。風俗尚淫,不以爲愧,俗多遊女,夫無常人,夜則男女群聚而戲,無有貴賤之節。有婚嫁,取男女相悅即爲之。男家送豬酒而已,無財聘之禮;或有受財者,人共恥之,以爲賣婢。死者,殯在屋內,經三年,擇吉日而葬。居父母及夫喪,服皆三年,兄弟三月。初終哭泣,葬則鼓舞作樂以送之。埋訖,取死者生時服玩車馬置墓側,會葬者爭取而去。信佛法,敬鬼神,多淫祠。有神廟二所:一曰夫餘神,刻木作婦人像;一曰高登神,云是其始祖夫餘神之子。並置官司,遣人守護,蓋河伯女、朱蒙云。

風俗は清らかさを自ら喜び、立ち居ふるまいを重んじ、小走りすることを敬意とする。拝するときは片足を引き、立つときは多く手を後ろで組み、歩くときは必ず手を袖に差し入れる。性質は偽りが多く、言葉づかいは下品で、親しい者と疎い者を区別しない。父と子が同じ川で水浴し、同じ部屋で寝る。歌と舞を好み、いつも十月に天を祭る。その公の集まりの衣服は、みな錦に刺繍し、金銀で飾る。しゃがんで座ることを好み、食事には俎と机を用いる。三尺の馬を産し、もとは朱蒙が乗った馬の種だといい、すなわち果下馬である。風俗は淫らなことを尊んで恥としない。遊び女が多く、夫は定まった者がなく、夜になると男女が群れ集まって戯れ、貴賤の節がない。婚姻は、男女が互いに好み合えばそのまま成る。男の家が豚と酒を送るだけで、財貨をもって娶る礼はない。もし財貨を受け取る者があれば、人々はみな婢を売ったとして恥とする。死者は屋内に殯し、三年を経て吉日を選んで葬る。父母と夫の喪には、みな三年の服を着し、兄弟は三月である。はじめは哭して泣くが、葬るときは鼓を打ち舞い、楽を奏して送る。埋め終わると、死者が生きていたときの衣服や玩具、車や馬を墓の傍らに置き、葬儀に集まった者が争って取って行く。仏法を信じ、鬼神を敬って、淫らな祠が多い。神廟が二か所あり、一つは夫余神といい、木を刻んで婦人の像を作る。一つは高登神といい、その始祖である夫余神の子だという。どちらにも官司を置き、人を遣わして守らせる。おおかた河伯の娘と朱蒙のことだという。

21隋の文帝の璽書

及隋平陳後,湯大懼,陳兵積穀,爲守拒之策。開皇十七年,上賜璽書,責以每遣使人,歲常朝貢,雖稱籓附,誠節未盡。驅逼靺鞨,禁固契丹。昔年潛行貨利,招動群小,私將弩手,巡竄下國,豈非意欲不臧,故爲竊盜?坐使空館,嚴加防守;又數遣馬騎,殺害邊人。恆自猜疑,密覘消息,殷勤曉示,許其自新。湯得書惶恐,將表陳謝。會病卒。

隋が陳を平定したのち、湯は大いに恐れ、兵を並べ穀を蓄えて守り拒む策をとった。開皇十七年、帝は璽書を賜わって責めた。使人を遣わして毎年つねに朝貢しているとはいえ、籓として付き従うと称しながら、誠と節とを尽くしていないこと。靺鞨を駆り立てて逼り、契丹を禁じ閉ざしていること。先年、ひそかに財貨の利を行って小人どもを動かし、私かに弩の手を連れて下国に潜り込ませたのは、よからぬ意図があって盗みをしたのではないか、ということ。使いを空の館に座らせて厳しく防ぎ守らせ、またしばしば騎馬を遣わして辺境の人を殺害していること。常にみずから猜み疑い、ひそかに消息を窺っていること。これらを懇ろに諭し示して、みずから新たになることを許した。湯は書を得て惶れ恐れ、上表して陳謝しようとしたが、たまたま病で死んだ。

22遼西を攻めた元

子元嗣。文帝使拜元爲上開府儀同三司,襲爵遼東公,賜服一襲。元奉表謝恩,並賀祥瑞,因請封王。文帝優冊爲王。明年,率靺鞨萬餘騎寇遼西,營州總管韋世衝擊走之。帝大怒,命漢王諒爲元帥,總水陸討之,下詔黜其爵位。時饋運不繼,六軍乏食,師出臨渝關,復遇疾疫,王師不振。及次遼水,元亦惶懼,遣使謝罪,上表稱「遼東糞土臣元」云云。上於是罷兵,待之如初。元亦歲遣朝貢。

子の元が嗣いだ。文帝は使いに命じて元を上開府儀同三司に任じ、遼東公の爵を襲わせ、衣服一揃いを賜わった。元は上表して恩に謝し、あわせて祥瑞を賀し、ついで王に封ぜられることを請うた。文帝は厚く冊して王とした。翌年、元は靺鞨の騎兵一万余を率いて遼西を侵したが、営州総管の韋世衝が撃って走らせた。帝は大いに怒り、漢王諒を元帥に命じて水陸を総べて討たせ、詔を下してその爵位を退けた。そのとき輸送が続かず、六軍は食に乏しく、軍は臨渝関を出ると、さらに疫病に遭って、王師は振るわなかった。遼水に至ると、元もまた惶れ懼れ、使いを遣わして罪を謝し、上表して「遼東の糞土の臣、元」と称した。帝はそこで兵を収め、元を初めのように待遇した。元もまた毎年使いを遣わして朝貢した。

23煬帝の三度の親征

煬帝嗣位,天下全盛,高昌王、突厥啟人可汗並親詣闕貢獻,於是征元入朝。元懼,蕃禮頗闕。大業七年,帝將討元罪,車駕度遼水,止營於遼東地,分道出師,各頓兵於其城下。高麗出戰多不利,皆嬰城固守。帝令諸軍攻之,又敕諸將,高麗若降,即宜撫納,不得縱兵入。城將陷,賊輒言降,諸將奉旨,不敢赴機。先馳奏,比報,賊守禦亦備,復出拒戰。如此者三,帝不悟。由是食盡師老,轉輸不繼,諸軍多敗績,於是班師。是行也,唯于遼水西拔賊武厲邏,置遼東郡及通定鎮而還。九年,帝復親征,敕諸軍以便宜從事。諸將分道攻城,賊勢日蹙。會楊玄感作亂,帝大懼,即日六軍並還。兵部侍郎斛斯政亡入高麗,高麗具知事實,盡銳來追,殿軍多敗。十年,又發天下兵,會盜賊蜂起,所在阻絕,軍多失期。至遼水,高麗亦困弊,遣使乞降,因送斛斯政贖罪。帝許之,頓懷遠鎮受其降,仍以俘囚軍實歸。至京師,以高麗使親告太廟,因拘留之。仍徵元入朝,元竟不至。帝更圖後舉,會天下喪亂,遂不復行。

煬帝が位を嗣ぐと、天下はすっかり盛んで、高昌王と突厥の啓民可汗がともに親しく闕に参って貢ぎ物を献じた。そこで元を召して入朝させようとしたが、元は恐れて、籓としての礼をかなり欠いた。大業七年、帝は元の罪を討とうとして、車駕は遼水を渡り、遼東の地に営を止め、道を分けて軍を出し、それぞれその城の下に兵を駐めた。高麗は出て戦うと多くは不利で、みな城を閉じて固く守った。帝は諸軍に命じて攻めさせ、また諸将に勅して、高麗がもし降ったら、すぐに撫して受け入れ、兵を放って入ってはならないと言った。城が陥ちそうになると、賊はそのたびに降ると言う。諸将は旨を奉じて機に臨むことができず、まず馳せて奏上する。返答が来るころには、賊の守りの備えもまた整い、再び出て拒み戦う。このようなことが三度あったが、帝は悟らなかった。これによって食は尽き、軍は疲れ、輸送は続かず、諸軍は敗績が多かったので、そこで軍を還した。この行では、ただ遼水の西で賊の武厲邏を抜き、遼東郡と通定鎮を置いて帰っただけであった。九年、帝は再び親征し、諸軍に便宜に従って事を処するよう勅した。諸将は道を分けて城を攻め、賊の勢いは日に日に縮まった。たまたま楊玄感が乱を起こしたので、帝は大いに恐れ、その日のうちに六軍をすべて還した。兵部侍郎の斛斯政が高麗へ逃げ込んだので、高麗は事の実情をことごとく知り、精鋭を尽くして追ってきて、殿軍は多く敗れた。十年、また天下の兵を発したが、たまたま盗賊が蜂のように起こり、至る所が塞がって、軍は多く期日に遅れた。遼水に至ると、高麗もまた困り疲れていて、使いを遣わして降を乞い、あわせて斛斯政を送って罪を償った。帝はこれを許し、懐遠鎮に止まってその降を受け、捕虜と軍の収獲をもって帰った。都に至ると、高麗の使いに親しく太廟に告げさせ、そのまま拘留した。続いて元を召して入朝させようとしたが、元はついに来なかった。帝はさらに後の挙を図ったが、たまたま天下が喪乱したので、ついに再び行かなかった。