いにしえの文 › 菜根譚(菜の根を噛む処世の語り) › 全一巻

後集 3(91~134条)後集

菜根譚(菜の根を噛む処世の語り) 菜根譚 · 洪自誠 · 明・万暦年間(1600年頃) · 段落 44 · 漢字 1,998字 · 朗読 8.0分

菜根譚(菜の根を噛む処世の語り) 全一巻 「菜の根を噛むことができれば百のことを成し遂げられる」から名を取った処世の箴言集。前集は人の間で身を守る法を、後集は自然のなかで心を放つ法を説く。儒・仏・道の三つの流れが一つの器に収められている。

1放つと収める柄

白氏云:「不如放身心冥然任天造。」晁氏云:「不如收身心凝然歸寂定。」放者流爲猖狂,收者入於枯寂。唯善操身心的,欛柄在手,收放自如。

白楽天は「身と心を放って、はるかに天のなすがままに任せるのに及ばない」と言い、晁補之は「身と心を収めて、静かに寂定に帰るのに及ばない」と言った。放つばかりでは狂い走ることに流れ、収めるばかりでは枯れた寂しさに入る。ただ身と心をよく操る者だけが、柄を手に握って、収めるも放つも自在である。

2雪の夜と春風

當雪夜月天,心境便爾澄徹,遇春風和氣,意界亦自沖融。造化人心,混合無間。

雪の降る夜、月の明るい空に出会えば、心の境地はたちまち清く澄みわたり、春風の和やかな気に出会えば、思いの世界もおのずから和らぎとける。造化と人の心とが混じり合って隔てがない。

3拙という一字

文以拙進,道以拙成。一拙字有無限意味。如桃源犬吠,桑間雞鳴,何等淳龐氣象。至於寒潭之月,古木之鴉,工巧中便覺有衰颯氣象矣。

文章は拙さによって進み、道は拙さによって成る。拙という一字に限りない味わいがある。桃の花咲く里で犬が吠え、桑の間で鶏が鳴くのは、何という素朴で大らかな気配だろうか。冷たい淵の月や古木の烏に至ると、巧みさの中にかえって衰えた気配があるのを感じる。

4我が物を動かせば

以我轉物者,得固不喜,失亦不憂,大地盡屬逍遙之境。以物役我者,逆固生憎,順亦生愛,一毛皆便纏縛之端。

我が物を動かす者は、得ても強いて喜ばず、失っても憂えない。大地すべてが心のままに遊ぶ場となる。物が我を使う者は、逆らわれれば憎しみが生じ、順えば愛着が生じる。毛一本までがすべて縛られる糸口となる。

5理が静かであれば事も静か

理寂則事寂。遺事執理者,以去影留形。心空則境空去。境在心者,如聚羶卻蚋。

理が静かであれば事も静かである。事を捨てて理だけを握るのは、影を捨てて形だけを残そうとするようなものである。心が空であれば境も空である。境を捨てて心だけを残そうとするのは、生臭いものを集めておいて蠅を追い払おうとするようなものである。

夾注 1

底本は「心空則境空去。境在心者」だが、去を下の句に付け、在は存の誤りと見て「心空則境空。去境存心者」と読み替えた。― 訳者

6隠れ住む人の清らかな事

幽人清事總在自適其情。故酒以不勸爲歡,棋以不浄爲勝。笛以無腔爲適,琴以無絃爲高。會以不期約爲真率,客以不迎送爲坦夷。若一牽文泥迹,便落塵世苦海矣。

隠れ住む人の清らかな事は、すべて自分の心のままに楽しむことにある。だから酒は勧めないことを喜びとし、碁は争わないことを勝ちとし、笛は穴がないことをふさわしさとし、琴は弦がないことを高さとし、集まりは約束しないことを真率とし、客は迎えも送りもしないことを気安さとする。ひとたび体裁に引かれ形式にこだわれば、たちまち塵の世の苦しみの海に落ちる。

7生まれる前と死んだ後を思えば

試思未生之前有何象貌,又思既死之後作何景色,則萬念灰冷,一性寂然,自可超物外遊象先。

この身が生まれる前はどんな姿であったかを思い、また死んだ後はどんな景色になるかを思ってみよ。そうすれば万の思いは灰のように冷え、一つの性だけが静かに残り、おのずから物の外に出て、形より前の世界に遊ぶことができる。

8病んで健康を知るのでは遅い

遇病而後思強之爲寶,處亂而後思平之爲福,非蚤智也。倖福而知其爲禍之本,貪生而先知其爲死之因,其卓見乎。

病んでから健康が宝だと思い、乱に遭ってから平安が福だと思うのは、早く知る知恵ではない。福を願うことが災いの根であると前から知り、生を貪ることが死の因であると先に知るなら、それこそすぐれた見識である。

9役者が白粉を落とせば

優人傅粉調硃,效妍醜於毫端,俄而歌殘場罷,妍醜何在。弈者爭先競後,較雌雄於着子,俄而局盡子收,雌雄安在。

役者は白粉を塗り紅をさして、筆先で美しさと醜さをまねるが、やがて歌が終わり舞台が果てれば、美しさも醜さもどこにあるのか。碁を打つ者は先を争い後を競って、石を置いて勝ち負けを比べるが、やがて一局が終わり石を片づければ、勝ちも負けもどこにあるのか。

10静かな者が主である

風花之瀟洒,雪月之空清,唯靜者爲之主。水木之榮枯,竹石之消長,獨閒者操其權。

風と花のさわやかさ、雪と月の澄んだ清らかさは、ただ静かな者だけがその主となる。水と木の栄えと枯れ、竹と石の消えと伸びは、ただ閑かな者だけがその権を握る。

11野の老人の損なわれない天性

田父野叟,語以黄雞白酒,則欣然喜,問以鼎養食,則不知。語以藥袍裋褐,則油然樂,問以袞服,則不識。其天全,故其欲淡,此是人生第一個境界。

田舎の老人は、黄色い鶏の煮物と濁り酒の話をすれば喜んで楽しむが、立派な料理のことを問えば知らない。木綿の上着や粗い短衣の話をすればゆったりと楽しむが、礼服のことを問えば知らない。その天性が損なわれていないから、その欲が淡い。これが人生第一の境地である。

12心を見ようとする心

心無其心,何有於觀。釋氏曰:觀心者,重增其障。物本一物,何待於齊。荘生曰:「齊物者,自剖其同。」

心にその心がないのに、何を見ることがあろうか。釈迦の言う「心を見る」とは、その障りを重ねて増すだけである。万物はもともと一つの物なのに、何を揃えることがあろうか。荘子の言う「万物を揃える」とは、同じものを自分で分け裂くことである。

13音楽が盛りの時に衣を払って

笙歌正濃處,便自拂衣長往,羨達人撒手懸崖。更漏已殘時,猶然夜行不休,笑俗士沈身苦海。

笛と歌がまさに盛りのところで、ふと衣を払って遠く去っていく。悟った人が崖で手を放つようで羨ましい。夜がすでに更けた時に、なお夜道を歩いてやめない。俗な士が身を苦しみの海に浸すようで笑える。

14据わりが固ければ世に混じれ

把握未定者,宜絶迹塵囂。使此心不見可欲而不亂,庶以澄吾靜體。操持既堅者,又當混迹風塵。使此心見可欲而亦不亂,藉以養吾圓機。

心の据わりがまだ固まっていない者は、騒がしい塵の世から足を絶つのがよい。この心に欲しくなるものを見せず、乱れないようにして、我が静かな本体を澄ませるのである。保ち方がすでに固い者は、また風塵に身を混ぜるのがよい。この心が欲しくなるものを見ても乱れないようにして、我が円満な働きを養うのである。

15静けさだけを好めば静けさが病

喜寂厭喧者,往往避人以求靜。不知,意在無人便成我相,心着於靜便是動根。如何到得人我一視,動靜兩忘的境界。

静けさを喜び騒がしさを嫌う者は、たいてい人を避けて静けさを求める。だが、思いが人のいないところにあればそれがそのまま我相となり、心が静けさに執すればそれがそのまま動きの根になることを知らない。どうして人と我を一つに見て、動と静を共に忘れる境地に至れようか。

16山に住めば胸が清くなる

山居胸次清洒,觸物皆有佳思。見孤雲野鶴,而起超絶之想,遇石澗流泉,而動澡雪之思。撫老檜寒梅,而勁節與之挺立,侶沙鷗麋鹿,而機心與之頓忘。若一走入塵寰,無論物不相關,即此身亦屬贅瘤矣。

山に住めば胸の内が清くさわやかで、触れるものごとすべてに美しい思いが湧く。孤独な雲や野の鶴を見れば世俗を抜け出す思いが起こり、石の間を流れる泉に出会えば洗い清められたいという思いが動き、老いた檜や寒中の梅を撫でれば強い節操が共に立ち上がり、砂辺の鷗や鹿を友とすれば小細工をする心が彼らとともにふと忘れられる。だがひとたび塵の世に足を踏み入れれば、外の物と関わらなくても、この身からしてすでに余計な瘤になってしまう。

17興が湧けば素足で草むらを

興逐時來,芳草中撒履地閒行,野鳥忘機時作伴。景與心會,落花下披襟兀坐,白雲無語漫相留。

興が時に乗って来れば、香る草むらを履物も脱いで閑かに歩く。野の鳥も警戒を忘れて連れになる。景色が心に合えば、散る花の下で襟をくつろげてぽつんと座る。白い雲が何も言わずそばに来て留まる。

18禍福はみな思いが作る

人生福境禍區,皆念想造成。故釋氏云:「利欲熾然,即是火坑;貪愛沈溺,便爲苦海;一念清淨即,烈熖成池,一念警覺即 ,船登彼岸。」念頭稍異,境界頓殊。可不慎哉。

人生の福の境地も災いの場も、みな思いが作り出すものである。だから釈迦は「利欲が燃え立てば、それがそのまま火の穴であり、貪りと愛着に溺れれば、それがそのまま苦しみの海である。一つの思いが清らかになれば、激しい炎も池となり、一つの思いが目覚めれば、舟は向こう岸に着く」と言った。思いが少し違うだけで境地はたちまち変わる。慎まずにいられようか。

19縄の鋸も長く引けば木を切る

繩鋸木斷,水滴石穿。學道者須加力索。水到渠成,瓜熟蔕落。得道者一任天機。

縄の鋸も長く引けば木を切り、水の滴も長く落ちれば石を貫く。道を学ぶ者は力を尽くして求めることを加えよ。水が至れば溝ができ、瓜が熟せば蒂が落ちる。道を得ようとする者はひたすら天の働きに任せよ。

20働きが休まれば月が至る

機息時,便有月到風來,不必苦海人世。心遠處,自無車塵馬迹,何須痼疾丘山。

心の働きが休まれば、たちまち月が至り風が来る。あえて人の世を苦しみの海とすることはない。心が遠ければ、おのずから車の塵も馬の跡もない。どうして山や丘を恋しがる病が必要だろうか。

21草木は落ちればまた芽ぐむ

草木纔零落,便露萌穎於根底。時序雖凝寒,終回陽氣於飛灰。粛殺之中, 生生之意常爲之主。即是可以見天地之心。

草木はようやく枯れ落ちると、すぐ根の下に新しい芽をのぞかせる。季節は凍えるような寒さであっても、ついに飛ぶ灰に陽の気を呼び戻す。万物を殺す気配の中にも、生み育てる意が常に主となっている。ここに天地の心を見ることができる。

22雨上がりの山の色

雨餘觀山色,景象便覺新妍。夜靜聽鐘聲,音響尤爲清越。

雨が上がった後に山の色を見れば、景色がたちまち新しく美しいことに気づく。夜が静かな中で鐘の音を聞けば、響きがいっそう清らかで高い。

23高く登れば心が広がる

登高使人心曠,臨流使人意遠。讀書於雨雪之夜,使人神清,舒嘯於丘阜之嶺,使人興邁。

高い所に登れば人の心は広くなり、流れに臨めば人の思いは遠くなる。雨や雪の夜に書を読めば人の精神は清くなり、丘の頂で口笛を吹けば人の興は高くなる。

24心が広ければ万鐘も素焼きの甕

心曠則萬鐘如瓦缶,心隘則一髪似車輪。

心が広ければ万鐘の禄も素焼きの甕のようであり、心が狭ければ毛一本も車の輪のようである。

25風と月と花と柳がなければ

無風月花柳,不成造化。無情欲嗜好,不成心體。只以我轉物,不以物役我,則嗜慾莫非天機,塵情即是理境矣。

風と月と花と柳がなければ造化は成らず、情欲と好みがなければ心の本体は成らない。ただ我が物を動かし、物が我を使わないようにすれば、好みや欲も天の働きでないものはなく、塵の情もそのまま理の境地となる。

26自分の一身を悟った人こそ

就一身了一身者,方能以萬物付萬物。還天下於天下者,方能出世間於世間。

自分の一身に向かってその一身を悟りきった人こそ、はじめて万物を万物に任せることができる。天下を天下に返す人こそ、はじめて世間の中で世間を出ることができる。

27あまりに閑かなら余計な思いが湧く

人生太閒,則別念竊生,太忙,則真性不現。故士君子不可不抱身心之憂,亦不可不耽風月之趣。

人生があまりに閑かであれば余計な思いがそっと生じ、あまりに忙しければ真の本性が現れない。だから士たる者は身と心の憂いを抱かないわけにはいかず、また風月の趣を楽しまないわけにもいかない。

28静けさの中で心が澄めば

人心多從動處失真。若一念不生,澄然靜坐,雲興而悠然共逝,雨滴而冷然倶清,鳥啼而欣然有會,花落而瀟然自得。何地非真境,何物無真機。

人の心はたいてい動くところで真を失う。もし一つの思いも起こさず、澄んで静かに座れば、雲が湧けばゆったりと共に去り、雨が落ちれば涼やかに共に清まり、鳥が鳴けば喜んで感じるところがあり、花が散ればさわやかにおのずから得るところがある。どの地が真の境地でなく、どの物に真の働きがないだろうか。

29喜びの中の憂い、憂いの中の喜び

子生而母危,鏹積而盜窺,何喜非憂也。貧可以節用,病可以保身,何憂非喜也。故達人當順逆一視而欣戚兩忘。

子が生まれれば母が危うく、銭が積もれば盗人がうかがう。どの喜びが憂いでないだろうか。貧しさは入り用を節約させ、病は身を保たせる。どの憂いが喜びでないだろうか。だから悟った人は順境も逆境も一つに見て、喜びも悲しみも共に忘れる。

30耳はつむじ風の谷のように

耳根似颷谷投響,過而不留,則是非倶謝。心境如月池浸色,空而不着,則物我兩忘。

耳は、つむじ風が谷に音を投げるようにして、過ぎたものを留めなければ、是非も共に消える。心は、月の光が池に色を浸すようにして、空のまま執らなければ、物も我も共に忘れる。

31塵なのは世か、心か

世人爲榮利纏縛,動曰塵世苦海。不知雲白山青,川行石立,花迎鳥笑,谷答樵謳。世亦不塵,海亦不苦,彼自塵苦其心爾。

世の人は栄えと利に縛られて、何かあれば塵の世だ苦しみの海だと言う。だが、雲が白く山が青く、川が流れ岩が立ち、花が迎え鳥が笑い、谷が木こりの歌に答えることを知らない。世も塵ではなく、海も苦しみではない。彼らが自分で自分の心を塵にし、苦しくしているだけである。

32花は半ば開いたものを見よ

花看半開,酒飲微醉。此中大佳趣。若至爛熳骸醄,便成悪境矣。履盈滿者,宜思之。

花は半ば開いたものを見、酒はほんのり酔うほどに飲む。この中に大きな美しい趣がある。咲き乱れるまで、泥酔するまで至れば、たちまち醜い境地となる。満ち足りた立場にいる者は、よくこれを思うべきである。

33山の菜は植えずとも香る

山肴不受世間灌漑,野禽不受世間拳養,其味皆香而且冽。吾人能不爲世法所點染,其臭味不迥然別乎。

山の菜は世間の水やりも手入れも受けず、野の鳥は世間の餌付けも受けないが、その味はどれも香り高く清らかである。われわれ人も世の決まりに染められずにいられるなら、その品格はどうして際立って違わないことがあろうか。

34花を育て鶴を見ることにも

栽花種竹,玩鶴觀魚,亦要有段自得處。若徒留連光景,玩弄物華,亦吾儒之口耳,釋氏之頑空而已。有何佳趣。

花を育て竹を植え、鶴を愛で魚を眺めることにも、やはり自分で得るところがなければならない。もしただ目の前の景色にとどまり、物の華やかさをもてあそぶだけなら、それもわが儒家の口耳の学、仏家の頑空にすぎない。何の美しい趣があろうか。

35山林の士と市井

山林之士,清苦而逸趣自饒,農野之夫,鄙略而天真渾具。若一矢身市井伹儈,不若轉死溝壑,神骨猶清。

山林の士は清く貧しいが、奥深い趣はおのずから豊かである。野の農夫は粗野で素朴だが、天真をそのまま備えている。もしひとたび身を市井の仲買人に落とすなら、溝に転がって死んでも精神と骨が清らかであるほうがましである。

36分を越えた福は落とし穴

非分之福,無故之獲,非造物之釣餌,即人世之機妌。此處着眼不高,鮮不墮彼術中矣。

分を越えた福、理由のない儲けは、造物主の釣り餌でなければ、人の世の落とし穴である。こういうところで眼を高く置かなければ、その手だてに落ちない者はまれである。

夾注 1

底本は「機妌」だが、妌は阱(落とし穴)の誤りと見て「落とし穴」と読み替えた。― 訳者

37人生はもともと操り人形

人生原是一傀儡,只要根蒂在手。一線不亂,卷舒自由,行止在我。一毫不受他人提掇,便超出此場中矣。

人生はもともと一つの操り人形である。ただその根もとを手に握っていよ。一筋の糸も乱れず、巻くも伸ばすも自由であれば、行くも止まるも自分にある。毛の先ほども他人に操られなければ、それでこの舞台を抜け出したのである。

38一つ事が起これば一つ害が生じる

一事起則一害生。故天下常以無事爲福。讀前人詩云:「勸君莫話封候事,一將功成萬骨枯。」又云:「天下常令萬事平,匣中不惜千年死。」雖有雄心猛氣,不覺化爲冰霰矣。

一つの事が起これば一つの害が生じる。だから天下は常に事のないことを福とする。昔の人の詩を読むと「君に勧める、諸侯に封じられることなど口にするな。将軍一人が功を成すのに万人の骨が枯れる」とあり、また「天下が常に万事平らかであるなら、鞘の中で千年朽ちても惜しくはない」とある。雄々しい心や荒々しい気があっても、いつのまにか氷が解けるように消えてしまう。

39淫らな女も髪を落とせば

婬奔之婦,矯而爲尼,熱中之人,激而入道。清浄之門,常爲婬邪之淵藪也如此。吁,可嗤已。

淫らであった女も極まれば髪を落として尼になり、名利に浮かれた人も激すれば仏門に入る。清浄であるべき門が、常に淫邪の巣になるのはこのとおりである。ああ、嘆かわしいことである。

40波の中の舟の内と外

波浪兼天,舟中不知懼,而舟外者寒心。猖狂罵坐,席上不知警,而席外者咋舌。故君子身雖在事中,心要超事外也。

波が空に届くほどの時、舟の中にいる者は恐れを知らないが、舟の外の者が気をもむ。狂った者が座中をののしる時、その席にいる者は用心を知らないが、席の外の者が舌を鳴らす。だから君子は身が事の中にあっても、心はその事の外に抜け出していなければならない。

41一分減らせば一分抜け出す

人生減省一分,便超脫一分。如交遊減,便免紛擾,言語減便寡愆尤,思慮減,則精神不耗,聡明減則混沌可完。彼不求日減而求日增者,真桎梏此生哉。

人生は一分減らせば、そのまま一分抜け出す。交わりを減らせば騒がしさを免れ、言葉を減らせば過ちが少なくなり、思い煩いを減らせば精神が損なわれず、聡さを減らせば本来の素地を全うできる。日ごとに減らすことを求めず、日ごとに増やすことを求める者は、まことにこの生を自分で縛っているのである。

42我が心の氷と炭

天運之寒暑易避,人世之炎凉難除。人世之炎凉易除,吾心之冰炭難去。去得此中之冰炭,則滿腔皆和氣,自隨地有春風矣。

天の運びの寒さ暑さは避けやすいが、人の世の暑さ寒さは取り除きにくい。人の世の暑さ寒さは取り除きやすいが、我が心の氷と炭火は捨てにくい。この心の中の氷と炭火を捨てることができれば、胸いっぱいがみな和やかな気となり、行く先どこでもおのずから春風が吹く。

43茶は上等ばかりを求めない

茶不求精而壺亦不燥,酒不求冽而樽亦不空。素琴無絃而常調,短笛無腔而自適。縱難超越羲皇之世。,亦可匹儔荊嵆阮之倫。

茶は上等なものばかりを求めないから、茶瓶が乾く日もない。酒は強いものばかりを求めないから、樽が空く時もない。飾りのない琴は弦がなくても常に調い、短い笛は穴がなくてもおのずから楽しい。たとえ伏羲の世を超えることは難しくても、竹林の嵆康や阮籍の仲間とは肩を並べられるだろう。

44随縁と素位の四字

釋氏之隨綠,吾儒之素位,四字是渡海的浮嚢。蓋世路茫茫,一念求全,則萬緒紛起。惟隨寓而安則無入不自得矣。

仏家の「随縁」、わが儒家の「素位」。この四字こそ海を渡る浮き袋である。おおむね世の道は果てしなく、一つの思いで完全さを求めれば万の糸口が乱れ立つ。ただ置かれたところに従って安んじていれば、どこへ行っても満ち足りないことはない。